大切(1)
香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
グルテンが過熱されると、いわゆるパンの香りが立ちのぼるのだ。
それから、バターの深みある芳香。
焼きあげることによって表面が膨張する際に、皮が弾けるパチパチという音階が耳に心地良い。
パン屋の店内面積の半分を占める厨房。
内部では翔太がキビキビと動いている。
売り場と通じる扉を半開きにして、そこから首を突っこんで中を見ているのは星歌だ。
「いいニオイ……」
肺をパンの香りで満たそうとでもするかのようにめいっぱい空気を吸い込み……そして、しばらく止める。
「………………」
やがて、溜め息がこぼれた。
目はどんよりと濁っている。
焼きあがるパンの香りに癒されたという表情ではなかった。
行人は戻ってこなかった。
金曜の夜。星歌からそっと身体を離し、コンビニにでも行ってくるかのような素振りで出て行ったきりだ。
自分の部屋にも帰らぬまま、土曜が過ぎ、日曜も過ぎる。
もう今は月曜の夕方だ。
パン屋のバイトが休みの日曜は、家主不在のアパートで一日中待っていたし、土曜だってバイトと買い物以外はずっと家にいた。
もしも自分が出かけている間に行人が帰って来ていたら分かるようにと思って、玄関扉の蝶番にシャーペンの芯を仕込んでおいたのだ。
ドアが開かれていたら、芯は折れているはずである。
まさか昔マンガで読んだ知識を披露する局面がくるとは思っていなかったのだが、しかしそこまでしたものの行人が帰ってこないという現実を実感するだけに終わった。
拒絶──その言葉が、星歌の精神を苛む。
行人はどこにいるのだろうか。
幼かったあの日、かたくなに凍りついた星歌のこころを見事に溶かしたあの優しい手は、今、他の誰かに触れているのだろうか。
「もう食欲も失せたよ……」
パンの香気を吸い込みまくってから、おもむろにゲップをする星歌。
ジロリと厨房から放たれる視線など気にも留めない。
虚ろな視線を店内に這わせる星歌の思考は、暗いところへ潜っていった。
行人はいつも自分を助けてくれた。
上手くいかない日常の中で、異世界転生を半ば本気で願う自分の話を笑って聞いてくれたのは彼だけだった。
どんなに頼っていたことか──そう思うと、パンの焼ける香ばしい匂いがなぜか鼻にツンときて涙腺を刺激する。
窯をあけて焼きあがったパンを作業台に並べる翔太の真剣な横顔。
星歌は静かに扉を閉めた。
きっと、自分がいるかぎり行人は帰ってこないのだろうと結論づける。
今日は自分のアパートへ帰ろう。
事故物件だろうが構うものか。
もう義弟に頼っちゃいけないんだ。
嫌なことがあるたびに異世界のことを考えるのも、もう止めにしなくては。
幼かったあのとき、行人が作ってくれた星のブレスレットはバラバラになって、今は鞄の底に沈んでいる。
彼があれを作ってくれた次の日、星歌も今度は行人のために彼の亡き母の「宝石箱」を探った。
本当はジュエリーボックスじゃなくて手芸用品入れというのは分かったけれど、小さくてキラキラと輝くビーズは本物の宝石のように美しい。
そこから白く光る星型のビーズを選んで、行人がやっていたように糸に通す。
不器用な星歌のこと。少々いびつだが、おそろいの飾りを作ったのだ。
──いい? きのうのキッスのことはだれにもナイショだからね!
なぜだか脅すような発言になってしまったが星の飾りを手渡すと、はにかんだように行人は笑ってくれたっけ。
「……なんで忘れてたかな、私は」
唇によみがえる甘くてやさしい感情。
それは星歌にとって、胸にぎゅっと抱きしめたい想い出となって蘇った。
でも、今は思い出すまい。
幼い彼女があげた星飾りを、行人がキーホルダーにして持っていてくれた──今はそれだけで十分だ。
星歌はスニーカーの踵を床にしっかりとつけた。
背筋がピンと伸びる。
そろそろ向かいの高校の下校時間だ。
お腹を空かせた生徒がやって来るに違いない。
お客さまをお迎えしなくちゃ。
その建物の中には義弟もいるのだということは決して考えるまいと、星歌は商品を入れる紙袋を準備する。




