「イヤな私」(3)
まるで本心を偽るかのように異様にテンションが高い星歌にグイグイ寄られて、彼女はこころもち身を引きながらも首を横に振った。
「そこまでは……。仮にも先生ですし。それに声をかけてくれたり、教えてもないのに電話番号を知ってて夜に電話されたりするだけで、実害はなくて……」
「そ、そうなんだ……」
教えてない電話番号を知ってるなんて呉田のヤツ、立派なストーカーじゃないか。
星歌が憧れていた物静かなイケメンという薄っぺらい上辺の印象が、ガラガラと音たてて崩れていく。
それにと、石野谷ケイは続けた。
「誰にも相談できずにいたら、白川先生が気付いてくれて……。騒ぎにはならないように何とか収めてあげるって言ってくれて」
「ソウナンダ…………」
すみません、お姉さんにもご迷惑をかけて──そう言って頭を下げられると、星歌としては笑顔を返すよりほかない。
なけなしのプライドを総動員だ。
「行人ハ、昔ッカラ優シイトコロガナキニシモアラズデ……」
「えっ?」
「や、やぁ……何でも。ゴホン。寝不足でね」
──何だろ、この子にお姉さんって呼ばれるのヤだな。
行人の嫁になったケイの姿を想像し、彼女からお義姉さんと呼ばれる未来を想像してしまう。
そうなると、小姑の自分はきっとイジワルをしてしまうだろう。
「あの、大丈夫ですか。白川先生のお姉さん?」
いや、この呼び方は仕方ないよな。
学校に関わっていたとはいえ、星歌は生徒と接点のない事務員だった。
白川さんと呼ぶのも馴れ馴れしいと、石野谷なりに気を遣っているのだろう。
「コホン。私のことは星歌でいいよ。石野谷さんは……その、ケイちゃんでいいのかな」
行人とこの子の間柄なんて気にも留めていないというふりを装う星歌の前で、彼女はパッと顔を輝かせた。
「はい、ケイで。あたしも星歌さんって呼ばせてもらいます。うれしいです」
「お、おぅ……!」
美少女を守るヒーローの気持ちも分かってしまい、少々複雑な気分だ。
そんな星歌の心境など気付く由もなく、ケイは事の次第を話してくれた。
絵を描くのが好きで入学と同時に美術部に入部したこと。
顧問の呉田先生は、それは熱心に指導してくれたて充実した日々を送っていたこと。
だが夏合宿が過ぎ、二学期も半ばになると呉田先生の距離感が少しおかしいと思い始めたのだという。
やたらと見られていると思ったら、強引にスケッチブックを見せられたり。
明らかにケイ自身をモデルにしたと思しき素描をそこに見て、彼女は思い悩んだ末、美術部を辞めたのだという。
そこから、呉田先生のつきまといが始まったのだ。
執拗にスケッチブックを見せてくる。
害はないとはいえ一度違和感を抱いてしまうと、顔を見るのも苦痛になるのは致し方のないことで。
どんどん元気を失っていったケイに、行人が気付いて声をかけたのだ──そこで穏やかに緩んだケイの表情が、星歌の寝不足の目に刺さった。
「白川先生は自分が何とかするって言ってくれて。呉田先生に何か言われたり、電話がかかってきたらすぐ知らせてって、番号まで教えてくれたんです」
「……夕べも?」
頷くケイ。
昨夜、慌てた様子で自分の前から去った行人の後ろ姿を思い出す。
──生徒サンのためなら仕方ないよね、星歌は己に虚勢を張った。
だがそんな思いも刹那、紅茶に溶ける角砂糖のように崩れてしまった。
「何も心配しなくていいよって、白川先生は言ってくれたんです」
カップに唇をつけるケイの頬が僅かに赤く染まっている。
アールグレイの湯気のせい?
いや、違う。
安心したように細められた瞳の奥には、輝く星が見えるようだ。
補習があるからと席を立つケイを、機械的な動きで校門まで送っていく。
呉田が待ち構えていたらいけないと心配したのは、まぎれもない星歌の本心だ。
「……補習って、行人の世界史かな?」
「いえ? 算数です」
ケイの返事にホッとした自分が、急に嫌な女に感じられてしまう。
校門前でたまたま登校してきた友だちと合流した彼女を見送る笑顔も引き攣っているのが分かる。
トボトボという足取りで店の扉を開けると、レジの横に立った翔太が腹を抱えて笑っていた。
「あの子、算数って言ったよな。高校生にもなって算数ってどんだけ……」
「そ、そんなふうに笑うのはやめなよ! そりゃ、私もちょっと……えっ、数学じゃなくて算数なんだって思っ……プッ」
ホラ、と言わんばかりのドヤ顔で睨む翔太。
ニヤける口元を慌てて隠して、星歌はブンブンと首を横に振る。
「わ、私も人のことは言えないけど。けど、算数はナイ……さすがにナイよ」
ふたりは顔を見合わせると、声をあげて笑った。
ふと見下ろすと、翔太の笑いは優しい微笑に変わっている。
「良かった。星歌が笑ってくれて」
パンをこねる大きな手がのびて、彼女の頭をポンポンたたく。
つむじの黒と、背伸びしてプルプル震えるふくらはぎ。
「僕がいるからね。しんどくなったら頼っていいからな。これでも年上なんだし」
「こ、こんなに小っちゃいのに……年上なの?」
「小っちゃいは余計だよ!」
苦笑と微笑が混ざったような、翔太の笑顔。
心地良いリズムで髪を撫でるそのあたたかな手の平。
一生懸命に赤子をあやすような手だと、彼女には感じられた。
「……ありがと」
こらえていた感情が、一粒の涙となって宙に軌跡を描いた。




