【第一章 運命のキスは星のみちびき?】もはや異世界しかない!(1)
糸のような月が夜空に頼りなく揺れている。
マンションの非常灯や街灯が煌々と光を主張するなか、この空に星は見えやしない。
いや、ふと視線を転じれば小さな小さな輝きが五つ、地上に落ちていた。
それはフラフラと激しく揺れながら住宅街を動いている。小さな公園を抜け、細い道を横切り、一歩立ち止まって呻き声をあげると、またぞろユラリと動き出す。
煌めきの正体──それは直径一センチに満たない小さな「星」であった。
正確に表現すれば、五芒星の形にみえる硝子粒。
街灯かりを受けてきらきらと光を放つ歪なかたちのそれら。
五つ連なって揺れているのは、女の手首であった。
頼りなく、細い腕。
だが、その指先は勇ましく拳をつくり、その足はアスファルトをしっかと踏みしめている。
肩までの黒髪を風に遊ばせた小柄な女性だ。レースをあしらった水色のワンピースは、着慣れていないのか何となく違和感を覚える。
大人の社会では「女の子」と呼ばれるような年代であると分かった。
「丸」をイメージさせるのは、輪郭だけでなく、クルクルと忙しなく動く瞳から受ける印象だろうか。
感情が迸るようにツンと尖らせた唇。
ぷくーっと膨らませた頬は速足の影響か、上気していた。
複雑な街路を迷うそぶりもなく通りすぎると、彼女は大きな通りから離れたところで足を止めた。
車の騒音や人の声も、ここまでは届かない。
三階建ての、こじんまりしたアパート。見上げた窓に、いつものように明かりが灯っているのを認めて、彼女は踵で地面を蹴った。
階段を一気に駆け上がり、目指す玄関のチャイムを連打。
「開けろ、義弟よ。私はおまえのお姉さまだぞ」
薄い扉の向こうで、低い声が何事かぼやきながら近付いてくるのが察せられた。
「オイ、義弟よ。いいかげん開け……あうっ!」
「あっ、ごめん……」
勢いよく開いた扉が顔面を打ち、女はその場によろよろとうずくまった。両手で自らの鼻を押さえている。
「痛い。もうイヤだ。もう死ぬしかない……」
「やめなよ、星歌。こんな夜中に、人ん家の前で死なないでよ」
「そんな言い方はヒドイ……」
じっとり……。
恨みがましい視線が扉から出てきた男を見上げた。
部屋着にしたって地味なスウェットの上下。
しかしそれは彼の醸し出す華やかさを、むしろ引き立てる衣装となっていた。
細身の身体にまとった薄い筋肉は布越しにも分かる。
襟足の整えられた柔らかな髪。澄んだ双眸は、今は僅かに細められてこちらを見下ろしている。
飲み物を口にしていたのだろうか。男にしては厚い唇は艶やかに濡れていた。
整った容姿に一瞬、見とれる女の前で、その唇がゆっくりと開かれる。
「姉ちゃん、今日はかなりやらかし……ハッスルしたって聞いたけど?」
「……ハッスルとか言うな」
この男はいつも意地悪だ。
いや、彼なりに言葉を選んでくれたことは分かるが、それが余計に傷を抉る。
座り込んだまま、彼女は両腕を宙に差し出す。
しょうがないといった風にその脇を支えて、軽々と身体を起こされた。
ムッと唇を尖らせたのは「姉」としてのなけなしのプライド故か。
彼女──白川星歌は、目の前の男の頬をむんずとつかんだ。
「えぇい! モテてモテてしょうがないって顔をしおって。何だこの顔面は。こんなモノ、剥いでしまえ!」
このホッペめと叫びながら、上下にグイグイ引っ張る。
「痛て、やめてよ。そんなしょうもない理由で顔を剥がれちゃたまんないよ」
ひとしきり頬を自由にさせてから、男は室内に彼女を招き入れた。
今は夜の十時前。
単身向け1DKのアパートとはいえ帰宅している住人も多く、玄関先で騒いで良い時間帯ではない。
「くそぅ、私はお前の顔面を剥いでやりたいんだ!」
「ちょっ、まだ言う? 怖いんだけど。姉ちゃん?」
呑んでもないのに完全に酔っ払いのノリで押しかけた星歌は、室内に入らず玄関でしゃがみこんだ。
ココア入れたげるから、と部屋に招き入れようとする義弟に対して首を横に振ってみせる。
「もはや、靴を脱ぐのも面倒くさいんだ」
「姉ちゃん……」
「我が義弟、行人に命ずる。我の靴を脱がせよ」
「ねえちゃ…………」
一瞬の沈黙の後、行人と呼ばれた男は玄関先で跪いた。
「はいはい。じっとしててください、星歌さま」
「お、おう……」
うつむいた行人のつむじを見下ろす格好になり、星歌は我知らず声を上ずらせる。
彼女の視線になど気付く由もない。彼は星歌の右足にそっと手を触れた。
無理して履いている幅の細い五センチのヒールに触れると、踵からそっとすべらせる。
力が入るたびに筋が浮き出る手の甲を見下ろしながら、星歌はゆっくりと息を吐いた。
「姉ちゃん、どした? ほっぺが赤いよ」
急に顔を上げるものだから、星歌は驚いたように声をあげる。
意外なほど近くに迫る行人の目、その大きな黒目に一瞬見とれたのだ。
そこには、ぼんやりと口を開けた自分の姿が映っている。
「ち、ちがう! ちがうよ?」
ブンブン首を振る彼女に苦笑を投げて、行人はその場に立ち上がった。
「あのさ、姉ちゃん……」
低い声が降ってくる。