夜空に降る涙(2)
「何用? あ、ああ……白川さん、店にスマホ忘れたでしょ。きっと困ってるって思って。今日書いてもらった住所見て届けに来たんだよ」
「えっ、あっ……」
反射的にカバンを探って、それが定位置にないことを確認する。
「た、助かったよ。寝る前にラノベ……いや、ニュースのチェックするのが日課だから」
わざわざごめんね、こんな所まで来てもらって──そう言いながら、既に電源の落ちたスマートフォンに引き寄せられるように翔太の元へ近付いた。
刹那、空の低い位置で雲に隠れていた月が煌々と姿を現す。
白い光に照らされて、ふたりは数秒視線を交わした。
そっと……翔太の手がのびた。
小指の先が、星歌の頬に優しく触れる。
びくりと身を震わせた星歌だが、切なく細められた翔太の目に映る己の姿を見据えると全身から力が抜けていくのを感じた。
その目は星歌を捉えてはいない。
彼女の背後にいる行人と、まるでにらみ合うかのように視線を絡ませているではないか。
僅か数秒のこの時間を、星歌はふたりの思いを読み取ることなく無為に過ごした。
やがて翔太の顔がこちらに向けられる。
大きな瞳は柔らかく細められ、微笑を湛えた優し気な表情。
「僕は帰るね。明日もよろしく、星歌。一緒に働けるの、楽しみにしてるよ」
軽やかな調子でそう告げると、バイバイと手を振って駆けていく。
とっさに手を振り返し、星歌は何故だか背が冷たく凍るのを自覚した。
「アイツ、うちの姉ちゃんを呼び捨てに……!」
肩がプルプルと震える。行人の手が震源地となっているのだ。
いつも冷静で星歌のツッコミ役となっている義弟が、珍しく感情を高ぶらせている?
どう声をかけたものか分からず、星歌はひとまず静観の構えをとることに決めた。
静かな夜が過ぎて、また太陽が昇れば、気まずかった今の思いも吹き飛ぶに違いないと信じて。
だが、事態はそうはならなかった。
「泣いてたのか? 涙の痕にみえる……」
触れるか触れないかの優しさで、小指が頬から目元をなぞった。
「な、泣いてないよ……」
左手に握りしめたままのブレスレットの残骸。その星が手の平に刺さって、痛い。
「一緒に帰った弟……さんは?」
「あ、あいつは……」
不思議だ。
さして親しくもない、今日会ったばかりの人物とこんなに近い距離で、遠慮がちとはいえ顔にまで触れられているのに、なのに不快だと感じない。
「さっきまでここにいたんだけど。義弟は用事で……」
「こんな暗い道に白川さんひとり置いて?」
「いやぁ……私は大丈夫だよ。い、いざとなったら不思議な力に目覚めて……ははっ」
まっすぐ見つめられて、星歌の笑い声は途切れた。
「しょ、翔太さん、手はなして……」
あっと小さく呟いて、翔太がまるで火傷でもしたかのように腕ごとのけぞらせる。
「ご、ごめん……」
うつむく翔太。
数秒、気まずい空気が場を支配する。
そんな中、彼はパクパクと口を動かした。
「サンはいらないよ……」
「えっ?」
「ぼ、僕のことは、翔太って呼んでくれたら、いい……から」
掠れた声、しかも早口なので星歌は「えっ?」ともう一度問い返す。
月明りの下、細い路地で彼はまっすぐに星歌を見上げた。
「僕ね、こう思ってるんだ。僕が作ったパンを食べた人には、みんな幸せになってもらいたいって。みんな楽しく笑っていてほしい。そんなパン職人になりたいなって」
「そ、そっか……」
素敵な夢だね、と無難な感想を述べようとした星歌だが、彼の邪気のない眼差しに薄っぺらい言葉は消え去った。
「落として踏まれてグチャってなったパンを、白川さんが食べてくれたとき思ったんだ。この人にはいつも笑っていてほしいって」
「………………」
青白い月の光。冷たいはずなのに、まるで太陽を浴びたように星歌の全身がやわらかく解けた。
「しょ、翔太……さ……」
呑まれたように「さん」という音は消えてしまっていた。
翔太が微笑する。
「翔太でいいよ。僕も星歌って呼んでいい?」
笑顔につられるようにコクリと頷きかけたその時だ。
肩に、圧力を感じた。
続いて強い力で後方へと引っ張られる。
前方にいる翔太が唖然と口を開ける様を視界に捉えつつ、とっさに両足を踏みしめてバランスをとった。
振り返りかけた星歌の髪に、低い声が降り注ぐ。
「探したよ、星歌」
声は硬く、僅かに怒りを含んでいるのが伺えた。
行人である。
義弟の登場にホッとしたのは確かだ。
だが、彼の身体がいつになく強張っていることに、星歌は怯えた。
「よ、用は終わったの?」
問うと、行人は小さなため息。
フウッと吐き出す中に苛立ちの感情を込めて、それは体内から負の感情を追い出す儀式にも見受けられた。
「心配したよ。星歌の家に行ったらまだ暗いし、俺ん家にもいないし。何回も電話したけど繋がらないし。まさかと思って戻ってきたら、まだこんな所にいたなんて」
一息に喋るも、少し呼吸が乱れているのが分かった。
自分を探して走ってくれたのか、そう思うと不思議なことに指先が震える。
「それで?」
肩に置かれた手の力が強くなる。
力を抜けば行人の胸にもたれかかってしまいそうで、星歌は地面に足を踏ん張った。
「こんな時間に、こんな人通りのない所で、うちの義姉に何か用ですか」
冷たい声。
敵意は翔太に向けられたものだ。
「ち、違うよ?」
言い訳するように呟いてから、星歌は一体何が違うのか自問する。
翔太は忘れていたスマートフォンを届けてくれただけだ。
なのに何故、行人に対してこうも後ろめたい気持ちになるのか。
それに、翔太にだって悪いではないか。
彼は純粋に、ただの親切心で動いてくれた。今だって、こんな邪気のない笑顔で──。
「しょ、翔太?」
少年のようにも見える目の前の男。そのキラキラ輝く瞳は幾分細められ、真っすぐな笑顔を作っていた唇は歪められている。




