鎌首(2)
優秀な兄弟の影に追いやられる気持ちは、星歌にもよく分かるというもの。
ウンウンと頷きながら聞いていると、すぐに雇用主は元気を取り戻した。
「藤が二人いたらややこしいだろ。僕のことは翔太……いや、翔太さんって呼んでくれたらいいから。敬語は苦手だし気楽にしてくれたらいいよ」
「翔太……さんだね。分かったよ」
彼の容姿から、ついつい「君」付けで呼びそうになるが、仮にも雇い主だ。
そうもいくまい。
神妙に頷いたところで、扉が開くベルの音。
「いらっしゃいませ!」
星歌と翔太、ふたりの声が跳ねるように店内に響いた。
「声ガラガラだね、星歌」
そこにいたのは彼女の義弟、行人である。
扉を入ったところで腕組みをした体勢。
星歌が見たことないほど目を細めてふたりに視線を投げる。
冷たい一瞥。義弟がいつになく機嫌が悪いのは明らかで、星歌は焦った。
「い、いゃあ、運動会のあとみたいだね」
「は?」
ふたりの男がポカンと口を開ける。
「応援とか頑張ったら、ノド痛くなったりしたなぁ、と……」
困ったように眉をひそめ、それから行人が静かに肩を揺らす。
どうやら笑っているらしい。
「……いや、星歌がアホなの忘れてた。あっ、アホじゃなくて天然」
「それ、言い直す意味ある? どっちにしろ私のこと小馬鹿にしてるよね!」
「してない、してない。事実だけを言ってる」
「そこだよ! あんたのそういうとこだよ!」
声を荒げながらも、どこかホッとしているのは確かだ。
行人の目がいつもの穏やかなものに戻っていたから。
蛇を連想させるさっきの目つきからは、冷たい息吹に心臓が凍る予感を覚えたから。
おつかれさまの声に送られるように、夕暮れの朱色の世界へと星歌と翔太は吐き出された。
黙ったまま並んで歩を進めるものの、星歌の足取りは幾分重い。
行人が自分のアパートに向かっているのは明白だ。
自分は事故物件の自宅に戻るか、それとも昨夜のように義弟の家に行くか決めなくてはならない。
ふたつの家へ向かう道はこの先の十字路で分かれるからだ。
夕べは何の躊躇いもなく義弟の家へ乗り込んだ。
なのに、今は──。
夕暮れ空の雲の向こう。ぼんやりと白い光を放つ月が、彼女のブレスレットの星の形を地面に浮かび上がらせていた。
大切なものなのに、今は腕がズシリと重い。
踵を引きずっているのは、一日中立ち仕事をして疲れたからという理由ではなかった。
そんな星歌の様子を気に留めるでもなく、行人は前方を向いたままボソッと呟く。
「……本当にあの店でバイトする気? パン屋は朝が早いし、姉ちゃんには無理だろ」
「ム、ムリじゃないよ……」
声を詰まらせたのは、自分がだらしないと分かっているから。
昨日までだって、実家の母親からモーニングコールをしてもらって何とか起きていたくらいだ。
「姉ちゃんには向いてないと思うよ? 母さんへの借金のことなら俺も手伝ってあげるし。とりあえず、今はゆっくりしたら?」
星歌、その場に立ち止まる。
ブルリ。
指先が震えていた。
「向いてなくないよ! バイトするって決めたんだから。それに、お母さんへの借金をなんで行人に払ってもらわなきゃなんないの。そんなの自分でするよっ!」
腹の奥が熱を帯びたよう。
自分でも驚くくらい、それは切羽詰まった声だった。
安定した職に就いて周囲から認められて、将来にだって何の不安もないであろう義弟から憐みの目で見下されている──そう感じたのだ。
「ご、ごめん、姉ちゃん。そんなつもりじゃなくて……」
行人が足を止める。
星歌のなけなしのプライドを知らず知らずのうちに抉ってしまったと、聡明な男は悟ったのだろう。
心底、焦ったように表情を歪める。
「や、違くて。あの、その……」
言い訳めいた調子で意味のない単語を呟く星歌の唇は激しく震えていた。
義弟を意味なく傷つけてしまったこと。
同時に自分も傷を負っていることに気付いたこと。
どうしてあんなに腹を立てて怒鳴ってしまったんだろう。
私の方が悪かったよ、ごめんね──そう言えば行人はいつものように悪戯を見つかった子供のように、唇の端を歪めて笑ってくれるに違いない。
ふたりでファミレスで食事をしてから行人の家に帰ろう。
バカな話をして笑って、それから眠りにつけば、いつもと同じ明日が迎えられる筈だ。
──だが、そうはならなかった。
「行人、私がわる……」
星歌が口を開きかけたときのことだ。
無機質なバイブ音が響いたのである。
「あっ」と呟いて、行人が自身のカバンに手を突っこんでスマートフォンを取り出した。
どうやら電話のようだ。
チラリと星歌に視線を送ったのは、通話するけどごめんねという目配せであろうか。
勢いを削がれたかたちになった星歌。
顎を引くようにして頷いてみせて、一歩後ろに下がる。
その瞬間、見てしまった。
愛想のない液晶画面に「石野谷」の文字を。




