はげしく揺れる(1)
藤翔太──一瞬、美少女に間違えてしまうこの青年が曲者であった。
「まっすぐ立てよ」
「ちゃんと並べろ」
開店したものの一向に客の来ないパン屋のレジカウンターに突っ立って、もう腰をさする星歌の背をパシッと叩く。
焼きたてクロワッサンをトレイに並べる作業を背後からじっと監視する。
都度、何か文句を言って声を荒げるのだ。
「何このスパルタ。ハイハイ、どうせ私は曲がりくねった性根の持ち主だよ。パンすらまっすぐ並べられない女だよ」
聞こえないようにブツブツ呟く。
「何か言ったか、お前」
もうお前呼ばわりである。
オーナーと紹介されたモノホン王子は奥の厨房にすっこんでパン作りに没頭しているようだし、第一、名前すら教えてもらっていない。
早くも星歌は軽はずみにバイトを承諾したことを後悔していた。
突然雇われることになったものだから、揃いのユニフォームの予備すらない。
着ていたワンピースの下にジャージ、そしてヒールという謎の出で立ちの上に、たまたまあった赤いエプロンをつけただけの姿である。
客よ、誰ひとり来ないでと祈るしかないわけだ。
しかし彼女のそんな願いは次の瞬間、無残に砕け散ることとなる。
カラン──。
扉の上部につけられた小さな鐘が音を立てたのだ。
「い、いらっしゃいま……」
入ってきたのは若い男だ。
安物のスーツを着ていてもそこだけ華やぐように目立つのは彼の整った容姿と、聡明な光をたたえる視線故か。
その目が店内を見回し、薄笑いを浮かべた新人店員のもとで止まり──驚愕に見開かれた。
「星歌、こんなところで何やってんの?」
行人である。
──ズルイ! いつも姉ちゃんって呼ぶくせに、たまに名前呼びするの。
星歌と名を呼ばれ、ドキリと高鳴る心臓を押さえて彼女は「エヘヘ」と白々しい笑い声をあげた。
「やー、その、バイトだよ」
「バイトって……。そりゃ、星歌は失業したてだけど。だからってこんな急に……」
スニーカーの踵を床に打ちつけて近付いてきて、行人はあらためてじろりと店内を見渡す。
星歌の隣りでレジ打ちを教えていた姿勢のまま止まっている翔太を見下ろすと「フッ」と鼻で笑ってみせる。
それから星歌の方に向き直った。
「学校だって本当に辞めることないだろ。そりゃ居づらいのは分かるけど、少し落ち着いてからもう一度ちゃんと考えたらいいだろ。退職取り消せるように、俺からも頼んでみるから」
「う、うむ……」
「うむって何だよ」
良かった──星歌は胸を撫で下ろしていた。
行人の顔を見て、誤作動を起こしたように心臓の鼓動が早まった。
熱が集中したかのように頬も熱い。
当然だ。
脳裏には夕べの出来事が鮮やかに蘇ったのだから。
しかし、義弟の方はそうではなかったらしい。
そう、普通。いつもといっしょ。
そのことに星歌はホッとしていた。
「まだ四時間目の授業中だけど、もうお昼? サボリかな?」
声が上ずったろうか。
行人が一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
「いや、学校のすぐ前に新しいお店ができたから空き時間に偵察。一応、教師として」
「ああ、そっかそっか。あんたは立派な先生だよ。ついでにパン買ってってよ」
「う、うん……」
眉間に寄せた皺を深くして、行人がカウンターのこちら側へ入ってくる。
隣りに棒立ちの翔太を肘でグイと押しやり、星歌の隣りに立った。
「痛っ、ちょっ……部外者は」
「まぁ、学校辞めるってんなら別にそれでもいいと思うよ。俺は」
吠える翔太の声など聞こえちゃいないという風だ。
「けど、急いで新しいバイト始めなくても。しばらくゆっくりしたら? 事故物件も引き払って実家に帰るか、それか狭いけどうちに来てもいいし。そしたら家賃の心配もしなくていいし」
行人は優しい笑顔を義姉に向けた。
「そ、それは……」
それはそうなんだけど……と、徐々に小さくなる星歌の声。
「実はそうもいかないんだよ。私には借金があるんだ……」
「借金!? ちょっ……星歌、いつの間にそんなことになってんの!」
義弟の笑顔が凍りつく。
「ち、違うって! お母さんにだよ。大学のとき乙女ゲーにハマって課金しまくったせいで……」
やりすぎた。自分でもどうかと思ってる……そう呻いて頭を抱える星歌。
行人の表情が微妙に歪んだ。
「ああ……そういやあの時期、星歌、奇妙に浮いたことばっかり言ってたよね」
──まぁ、姉ちゃんは乙女ゲーにハマってるくらいがちょうどいいんだけど、とボソッと呟く。
「えっ、何か言った?」
「いや、こっちの話」
星歌が何か言うより先に、行人の向こう側から怒りに震える声があがった。
「仕事の邪魔だろ。あっち行けよ」
翔太である。
小柄なので行人の影にすっぽり隠れてしまっていて、星歌の視界から完全に消えていたのだ。




