表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/109

壁を隔てて

 アルカディア歴1824年4月21日

 ルゼス王国ヴァミリアン伯爵領



 幸いすぐ近くに村があったため、そこで近くに街がないか聞いた。

 徒歩で2時間ほどのところにアノーという街があり、そこに冒険者ギルドがあるという。『ファイア』の亡骸はそこに預けることにした。


 執事長ベンジャミンと侍女長アンジェリカの死体もその街で埋葬してもらうことになるだろう。


 エレノアは馬車に揺られながらも感傷に浸った。

 ベンジャミンとアンジェリカ。ふたりとの想い出が次から次へと思い出されていく。

 なにしろ、生まれてから毎日の付き合いだ。どちらにも良く説教をされたし、大嫌いだと思ったこともある。

 それでもふたりが自分にどれだけ多くのものを与えてくれたか、失った今よく分かる。


 悲しみと喪失感。体も心も重かった。


 やがて、アノーについた。

 まず冒険者ギルドを訪ね、そこで『ファイア』の亡骸を渡した。それぞれの埋葬料と慰問金を大めに渡す。そういった義務はないらしいが、エレノアは彼らの命によって生き残れたのだ。

 

 次に埋葬屋へと向かった。

 本来ならふたりの故国であるエフィレイアに埋葬してやりたいが、追放された身である。せめてもとふたりの遺髪を少し切り取った。いつかエフィレイアに帰ることができたら、その時にあらためて墓を作ろう。


 ちょうどフレア神殿から司祭が来ているというので、埋葬は夕方に行うことになった。今夜はそのまま、この街で泊まることになる。エレノアは宿を早々に決めた。

 なにしろ選択の余地がなかった。

 宿は2軒しかなく、そのうちの1軒はすでに塞がっていた。


 もう1軒の中の下といった様子の宿にチェックイン。馬車は宿の者が預かってくれた。

 

 結局、ギルドに預けた『ファイア』の者たちもベンジャミンとアンジェリカと一緒に埋葬された。参列者はエレノアとホーク、それに冒険者ギルドの長だけだった。


「ちゃんと埋葬してもらえるんだ。冒険者の死にざまとしちゃあ、上出来ですよ」

 ギルド長はそんなことを言っていた。


 冒険者は死ぬと、魔物に食べられり、そのまま打ち捨てられることが多いという。


 埋葬を終え、宿に戻る。すでに日は暮れていた。

 ベッドと椅子があるだけの狭い部屋。

 窓際の椅子にかけて、ひと息ついているとドアが叩かれた。

 開けるとホークが立っていた。

 ボサボサだった髪が整えられている。

 

「エレノア様、夕食をとりましょう。1階の酒場で、いろいろと食べられそうですよ」

 

「わたくしは食欲がありませんわ。おひとりで済ませてくださいな」


「ちゃんと食べなくてはいけません。旅が続けられませんよ」

 ホークの目がギラギラとしている。


 エレノアはホークに対して不快感を抱きかけた。すぐに、そんな自分を嫌悪する。

 今やただひとりの味方である。もう少し感謝といたわりの気持ちを抱かなくてはならないのではないか、と思った。

 

「分かりました。確かに少しでも食べた方が良いかもしれませんわね」


 先に降りていてほしいと言い、エレノアは部屋に戻った。

 右手の人差し指にはまっている黄金の指輪に触れながら鍵言葉を唱える。

 手の前に藍色の光の円が現れる。その光の円に右手を突っ込む。手の先が消えた。

『収納魔法』がかけられた魔法道具である。


 エレノアはくしと手鏡を取り出した。前髪を分けている銀の髪留めを外す。

 見事な黄金の縦ロールが、さらりと崩れた。これも魔法道具。『髪型固定』の魔法がかけられている。エレノア本来の髪は癖のないストレートヘアなのである。

 くしで髪をとかし、埃を払う。

   

 服にはすべて『状態保存』の魔法(魔術式を使ったものが魔術。それ以外を魔法と呼ぶ)がかけられているし、体は常に『清潔身体』という上流階級の人間が最初に身につけさせられる魔法を使っている。

 常時魔力を皮膚に貼り付けるようにしているだけだが、魔術の鍛錬にもなる。

『肉体強化』の魔法はその応用である。


 ただ、この『清潔身体』と『髪型固定』の魔法は併用できない。そのため髪の毛には『清潔身体』を使っていないのだ。


 髪をとかしたあと、再び髪留めで前髪を分ける。すると髪の毛が豪華な縦ロールに変わった。


 手鏡をのぞいて顔を確認。

 昔からのコンプレックスである目つきの鋭さが、いっそう増しているように思えた。



 階段を降りていくと賑やかな声が聞こえてきた。ホールにはいくつものテーブルセットが並んでいて、旅姿の者や仕事終わりの労働者などが酒盛りをしたり、食事をとったりしている。

 見るからに上流階級という様子のエレノアは場にそぐわなかった。

 無遠慮な視線がいくつも向けられる。


 エレノアはそれらを歯牙にもかけず堂々と歩いてホークのテーブルに行った。


「綺麗です。エレノア様。本当に」

 ホークが見惚れて言った。


「ありがとう存じます。こうしてあなたと向かい合って座ることなど、ございませんでしたわね」


 家臣とはいえ平民とこのように同じテーブルにつくなど公爵家の令嬢としては許されざることであった。


 出された料理は、あまり上品ではないが味付けは良く、エレノアは思っていた以上に食が進んだ。


 むしろホークの食べ方が汚く、それでもって食欲が減じた。特に食べながら話すのがひどく下品でエレノアは早く退席したかった。


「酒を飲んでも構いませんか?」


「ええ、よろしくてよ」


 エレノアとしては、ゆっくりと酒を飲んで英気を養ってもらいたかった。ついでに、自分が席を立つきっかけにもなる。


「わたくしは先に部屋へ戻ります。少しばかり疲れました」


「そんな、もう少しゆっくりしていってくださいよ。エレノア様も一杯やってください」


「ホーク」

 エレノアの両目が、すっと細くなり、鋭さをました。

「あなたが礼節を守るのであれば、わたくしもあなたに対し、礼を尽くそうと考えていました。あなたの父を御者として召し抱えたのはお爺様です。わたくしは、それを継いだあなたに対して、敬意を払っています。それに、あなたはわたくしに残された最後のひとりでもありますから。ですが、これ以上は許しません」


 言うとエレノアは席を立った。


 後に残されたホークが怒りと屈辱で震えているのを背中に感じながら、ホールを後にする。


 自室に戻ったエレノアは寝間着に着替えて早々にベッドに入った。

 体も心もひどく疲れていたが、中々、眠りにつくことができない。何度も寝返りを打つ。


 何時間かしたところで激しくドアが叩かれた。


 何事か、と慌ててベッドから出る。


「何用です?」

 ドアの前で言った。


「俺です。エレノア様。その、さっきのことを謝ろうと思って」


 謝る、というところで、彼の声とともに笛の音のようなものが聞こえた。エレノアの加護技スキル『虚言看破』である。


「ホーク。わたくしに嘘が通じるとでもお思いですの?」


 しばらくの沈黙。

 ドア越しにホークの気配だけは感じた。


「エレノア様。俺は、あなたのことを愛しています。俺と一緒になってください。俺は、あなたを必ず守るし、幸せにするって約束する」


 その言葉に嘘はなかった。

 それにエレノアは愛の告白など初めてだった。なにしろ王子と婚約関係にあったし、その王子は決して愛の言葉などささやきはしなかった。


 ホークは不器用で洗練とは程遠い人間だが素朴で善人だ。

 エレノアがうなずけば、きっと人生をかけて彼女に尽くしてくれるだろう。


 エレノアはドアを開けた。

 不安そうだったホークの顔に笑顔が広がる。顔が赤いのは、ずいぶんと酒を飲んだせいだろう。


「エレノア様、俺は……」


「あなたとわたくしは違い過ぎます。あなたが与えてくれようとしている幸せでは、わたくしは満たされないでしょう。わたくしは、いまわの際まで、エレノア・ウィンデアであり続けます。きっとそれは、妥協のできない生き方になるでしょう。あなたは、あなたに合った人を幸せにしてあげてください」


 平民だから、貴族だから、というわけではない。

 エレノアは、ただただエレノア・ウィンデアとしての矜持のために生き続ける。きっとそれは家庭とは相いれないものだ。


 エレノアがドアを開けた瞬間から自分の気持ちが受け入れられたと勘違いしたホークは、彼女の言葉がうまく頭に入ってこなかった。

 だが、はっきりと拒絶されたのは理解した。顔が怒りで真っ赤に染まる。


「いつまでお高くとまってんだ。もうあんたは追放されて、公爵令嬢ですらないんだぞ」


「そうではありませんわ。ホーク。わたくしは、死ぬまでエレノア・ウィンデアであり続けます。わたしはほかの者になることはできませんの。公爵家を継げずとも、ウィンデア家の血はわたくしの体の中にあります」


「結局、俺が平民だからそんなことを言うんだろ」


「もう、よしましょう。ホーク。ここまでです。わたくしがあなたに抱いている敬意が。親愛の情が。軽蔑に変わる前に、ここで終わりにしましょう。あなたの雇いを解きます。どこへなりと、お行きなさい」

 エレノアの声はどこまでも冷たかった。


 だが、その瞳には確かに同情と優しさがあった。


 ホークはエレノアの目を見ていなかった。

 怒りが頭と体を支配し、その激情にまかせてエレノアにつかみかかった。

 細く小柄な体をそのまま部屋の中へ押し込む。

 そのまま押し倒そうという力があったが、エレノアは倒れなかった。


「ホーク。あなたが、わたくしに好意を抱いてくれたことを誇りに思います。誰かに愛してもらえるのは、とても嬉しいことですわね。ですから、ホーク。わたくしに乱暴をさせないでください」


 ホークが離れた。そのまま勢いよく部屋を飛び出していった。


 エレノアは、ほっ、と息を吐いた。

 男性にあんなにふうに抱き着かれるなど、初めてのことで、態度ほど、その心は落ち着いていなかった。


 ホークの匂いと熱は、しばらくエレノアの体にまとわりつき、彼女を落ち着かない気分にさせた。


 隣のホークの部屋でバタバタと音がする。ほどなくしてドアが再び叩かれた。


「エレノア様。俺は、もうあんたの世話はごめんだ。あんたみたいな高慢ちき、こっちから願い下げだよ。あばよ」

 最後はドアを蹴ったらしく、足元で大きな音がした。


 エレノアは暗闇の中、クスリと笑った。


 まったく。去り際くらいスマートにやれば良いでしょうに。


 子供の頃に一緒に御者台に座って、様々な話をしたことが思い出された。

 馬を操るホークの父が、何度も、彼に口調をあらためるように注意した。

 その度にエレノアは言ったものだ。


「あら、ホークはホークですわ。かしこまったホークなんて、ホークらしくないですわ」


 ポタリと雫が落ちた。

 一滴ひとしずくの涙は、こらえてきた様々な感情の呼び水となる。

 ベンジャミンの死。アンジェリカの裏切り、そして死。受け入れることができなかったホークの想い。

 始めて人間を手にかけてしまった悲しみ。

 自分ひとりを守るために死んだ冒険者たち。

 

 さらには言われもない罪によっておとしめらえた屈辱。

 将来結ばれる相手だからと婚約者ジークフリートの良いところを必死に見つけ、つむいできた淡い想い。それを踏みにじられた痛み。


 そしてウィンデア家の名誉を地に堕としてしまった絶望的な苦しみ。


 エレノアはベッドにうつぶせに倒れると、そのまま声をあげて泣いた。

 家臣たちがいる間は虚勢を張り続けなくてはならなかった。

 苦しみを心の底に押し込めて、顔を上げて、堂々と。エレノア・ウィンデアとしてあり続けなくてはならなかった。


 だが、ついにひとりになった。

 今夜くらいは大泣きしても良いのではないか。そんな気持ちから涙が流れ続けた。


 ふいに、トントンと壁を優しく叩く音が聞こえた。


 エレノアは息を潜めた。

 ホークの部屋は反対隣である。こちらの隣の人間には他人が泊っているはず。


 またトントンと優しい音。


「大丈夫か。ずいぶん、辛そうだが」


 壁越しのその声は、なにか心にそっと染みわたるような心地よさがあった。

 それに釣られ、エレノアは返事を返した。


「ええ、問題ありませんわ。お騒がせして申しわけありません」

 嗚咽おえつを聞かれたことを思い、顔が赤らむ。


「辛そうだな。良かったら、話を聞くぐらいするよ。顔も素性も知らない相手になら、愚痴も言いやすいんじゃないか?」


 エレノアは体を起こした。

 壁に背をつけて片膝をたてる。行儀が悪いが、今、この時なら構わないだろう。


「俺も色々あってね。お互い辛いことを語り合えば、少し心が軽くなるかと思うんだが」


 もし良かったらだが、とその声。

 エレノアは彼に胸のうちを聞いてもらうことに魅力を感じた。確かにそうだ。顔も素性も知らない相手になら、旧知の中よりもずっと話しやすい。

 

「……そうですわね。思えば、わたくしは、誰かに打ち明け話をすることも、誰かの打ち明け話を聞くこともありませんでした。あなたの話をうかがいますわ。そして、わたくしの話を聞いてくださいな」


「それなら、俺の話からしようか。実は冒険者をやっててね。つい、このあいだ、パーティから追い出されたんだ。自分では、ずいぶん、貢献していたつもりだったんだが」


「それは、また難儀なことですわね」

 言いながらもエレノアは隣人に対してシンパシーを覚えた。居場所を追い出された自分と重なるところがある。


「パーティの中には俺の妹もいてね。どうやら兄貴はもう用済みらしい。それはそれでいいんだが、やっぱり寂しいもんだな」


「あなたの妹君は、黙っていらしたの? つまり、あなたがパーティを追放されようとしたときに」


「ああ、あいつは、パーティの別の奴に夢中でね。兄より男をとったわけだ」


 妹からの裏切り。それは辛い、とエレノアは同情した。


「それで、冒険者から足を洗って世話になった孤児院に戻ったんだ。今度は世話をしてやる方になれたらなって。恩も感じてたしな」


「孤児院ですか。では、ご家族は妹君だけでいらしたの?」


「ガキの頃に村がドラゴンに焼かれたんだ。ひどいもんだったよ。いきなり村中が炎に包まれて。それ以来、妹とふたり、孤児院の世話になってた」


 そのたったひとりの家族である妹にも捨てられた。それはあまりにも孤独だ。


「孤児院に行ってみたはいいが、世話になった院長は亡くなっててね。新しい院長は、どうも俺のことが気に入らなかったらしい。だから、こうして、あてもなくフラフラとしているってわけさ」


「あてもなくですか? 冒険者はお続けになりませんの?」


 居場所を失った者には目的が必要なのだと思う。自分がクレイモス王国を目指しているように。


「一応、エフィレイアに行こうと思っていたんだ。別に理由はない。ただの気まぐれ。だけどやめたよ。少し気になる相手ができてね。やっぱり気まぐれなんだが」


 恋をなさったのですわね。

 それは良かった、とエレノアは思った。孤独な彼に希望が現れた。今までの人生を忘れて新たに生きていって欲しい。


「それはとても素晴らしいことですわね。ぜひとも、そのお相手と良い仲になられますよう」


「いや、そんな色気のある話じゃないんだが」

 壁の向こうの声が少し戸惑っていた。


「なぜですの? 気になるお相手は、異性で、好意を抱いているのでしょう。少なからず」


「好意……まあ、それに近いものはあるのかな。ただ、見守ってやりたい気がするんだ。妹の代わりにしようとしてるのかもな」


「そのように、穿うがってお考えになる必要はありませんわ。ただ心惹かれる、それで良いのではありませんか」


「……ああ、そうだな。その通りだ」


「少しあなたに羨望の思いを感じますわ」


 過去を忘れ、新しい相手を見つけられた。

 それはとても素敵なことだ。


「難しい言い方をするね」


「あら、そうでしょうか。けれど、通じるのですから、不適切ではありませんわね」


「あんたは、いいとこのお嬢様なのかい?」


「おわかりになりまして?」


「まあ、そんなしゃべり方をしてたらね。だが、そんな人が、こんな宿に泊るなんてね」


「そう悪い宿ではないかと思いますわ。平民からしてみたら、まあまあ、といったところなのでしょう?」


「そうだな。だけど貴族様にとっては、ひどい宿なんじゃないのか?」


「あら、どうして、わたくしを貴族だとお考えですの?」


「そりゃあ、平民はこんな場面で、平民からしてみたら、なんて言わないだろ。それに今、貴族に敬称も省いた。あんたが平民で、例えば商家のお嬢様とかなら、お貴族様とか、貴族様とか言いそうなもんだし」


「ご明察恐れりいりますわ。おっしゃる通り、わたくしは隣国の貴族です。だった、と申しあげた方が良いのかしら。なにしろ、国外追放をされた身ですもの」


 殺人未遂ではウィンデア家そのものを取り潰すほどの罪ではない。ウィンデアの性を剥奪されたわけでもない。エレノアが今現在も貴族であることは確かなのだ。

 ただ、それはエフィレイア王国での話で、他国になると、自分の身分を保証するものがない。


「ずいぶん、あけすけに話すけど。いいのか? 素性が割れるぜ」


「あら、これはご親切に。けれど、構いませんわ。わたくしの噂はきっとこの国にも広まっておりますもの。有名なんですのよ、自慢ではありませんけれど。あなたも、お心当たりがありますでしょう?」


「ああ、あるよ。というか、最初に話しかけた時から知ってたよ。騙したみたいで、すまない」


 エレノアは小さく笑った。

 正直な男だ。好感が持てる。


 エレノアにしてみれば、今更、素性が割れたところで、どうということもない。

 なにしろこれ見よがしに大型馬車。これ見よがしにご令嬢という様子。追放された公爵令嬢の話は、ある程度広まっているだろうし、それと関連付けられるのは当然だ。


 敵はさらなる暗殺者を送ってくるかもしれないが、そういった者たちの目を逃れられるほど、世長よたけてはいない。どちらにしろ、はっきりと、どうぞ追ってらっしゃい、と言わんばかりに痕跡が残すことになるのだ。

 それならエレノア・ウィンデアらしく堂々としていた方が気分が良い。


「構いませんわ。さあ、今度は、あなたが、わたくしの話をお聞きになる番。どうぞ、お聞きくださいな」



 暗い隣室。

 クロウは背に体を預けてエレノアの話を聞いていた。

『正義の天秤』『王国法の番人』そんな誉れあるウィンデア家の娘として生を受けた。


 だが彼女が5歳の時に父が魔物に襲われ死亡。もともと体の弱かった母も父のあとを追うように亡くなった。

 以後、祖父に育てられた。


 祖父バイゼル・ウィンデアは、前述の二つの誉れを受けるに相応しい人物だった。公正で正義感があり、忠義にも厚かった。

 祖父は厳しかったが、それ以上に優しかった。エレノアは祖父のことが大好きだった。


 その祖父バイゼルも4年前に死去。

 自分が長くないことを知っていたのだろう。彼は早々とエレノアと第1王子ジークフリートの婚約をまとめた。

 自分亡き後のウィンデア家については、一度、エレノアが継ぎ、王妃と兼任し、ジークフリートとの子の誰かに継がせるようにと言っていた。エレノアはもとより、王や宰相にまでもである。


 もし自分がエレノアの成人である18歳になる前に死んだときは、宰相にエレノアの後見人も任せるようにしておいた。まさに盤石の手を打っておいたのだ。


「ですが、お爺様も宰相ハリス・ローゼンの腹の内までは、お読みになれなかったようですわ。今となっては、ハリス・ローゼンが、お爺様に対して、真に友情を抱いていたかも、疑わしいですわね」


「まあ、人間、簡単じゃないからな。年を取れば取るほどややこしくなるんだろ」

 年老いることがかなわないクロウにしてみれば、達観してそんな風に思えてしまう。


 婚約が正式に承認されたのはエレノアが12歳の時。祖父バイゼルが亡くなる1年前だった。

 それまでにもパーティでジークフリートとは何度も会っていたが、特別な目で見ることはなかった。

 エレノアの理想は、祖父であり、建国王レオポルド・レイアーである。

 軽薄そうな雰囲気の派手好きな少年は、まったく好みではなかった。


 だが、祖父が自分のために骨を折って、王位継承権第1位のジークフリートとの縁談をまとめたのである。文句を言えようはずもない。


 エレノアはジークフリートを好きになるよう努力をした。妻となる以上は、愛情を持つのが義務だと思ったのだ。

 ジークフリートは優しく礼儀正しかった。少し軽薄な言動が多いが、持ち前の明るさなのだととらえた。


 王宮外で会うことがなかったので、エレノアの加護技スキル『虚言看破』は、発動することがなく、結局、彼の本音を聞けたのは最後の一度だけとなってしまった。


「難儀な加護技スキルだな。生きづらいだけじゃないか」

 クロウは言った。


 想像するだけで背筋が寒くなるようなつらい加護技スキルだ。


「ええ、本当に。おかげ様で世の中は本音と建前で成り立っていると早々に知ることができましたわ」


「そういえば俺の言葉に嘘はなかったか? あんたがそんな加護技スキルを持っているなんて知らなかったからなあ」


「今のところはございませんわね。嘘をついているという自覚がなければ反応いたしませんの。あなたは正直な方ですわ」


 クロウは苦笑いした。

 たぶん、それは嘘をついてまで守るものを持たないからだろう。生きる目的を果たし終えた彼は、余った1年間を気ままに生きるだけである。


 エレノアの話は続いた。

 祖父が亡くなり、目に見えて国が乱れてきたこと。貴族たちの横暴。それをどうにもできない自身の非力さへの怒り。

 ジークフリートが公然と女遊びを始めたこと。


「愛妾を持つことが悪いとは申しません。ただ、せめて、わたくしの耳に届かぬようなご配慮はしていただきたかった」

 エレノアの声は苦々しい。

「ですが、まさか、婚約破棄をするほどに、お入れ込みなさるなんて。当事者でなければ、ロマンスを感じたのかもしれませんけれど」


「宰相の陰謀だったんだろう?」


「ええ、恐らくは。ジークフリート様は篭絡ろうらくされたということでしょう。あのお顔を引っ叩いてやれば良かったと、後悔しておりますわ。ああ、腹が立つ」

 

 クロウは笑った。

 始めてエレノアの少女らしさを感じた。


「お笑いになりましたわね。けれど、そうです。わたくしは腹を立てたかったのです。それを自覚する余裕もなかった。自尊心を守ることが精一杯で、怒ることすらできなかったのです」


「そりゃあそうだよ。怒るってのは元気な証拠だからな。本当に打ちのめされた時は怒ることもできない」


 エレノアの話は佳境に入った。大貴族で腐敗の目立つ侯爵とその一派。それを粛清することで王国の風紀を正す必要がある。そう考えたエレノアは、宰相ハリス・ローゼンに侯爵を訴える訴状を上げた。


「正義感に突き動かされていたということかしら。わたくしは正しいことが好きです。公正なことが好きです。誠実な人が好きです。ですから、敬愛し、頼りにしているハリス・ローゼン閣下も、そうであると信じていたのですわ」


 結果はくだんの断罪劇である。

 エレノアの声はつらそうだった。


「正義というものはなんなのでしょうか? ハリス・ローゼン様も国のことを考えて、わたくしを切り捨てたのだと思います。腐敗貴族を粛清することで国のバランスを崩すよりも、わたくしひとりを処分する方が良いとお考えになられたのでしょう。わたくしは正しさにこだわり過ぎていたのでしょうか? 誰もが自分自身が正しいと思っているもので、わたくしが信じていた正しさは絶対ではないと、そういうことなのでしょうか?」


「あんたは、ずいぶん綺麗なところで生きてきたんだね。だから、本当の悪に触れる機会がなかったんじゃないかな。いるんだよ。世の中には、絶対の悪人ってものが。人を食い物にして丸々と太っていくような奴がさ。フレア様の教え通り、人の命が平等であるなら。欲望のために人を喰らい、ただ太り続けるために、犠牲を強いる奴には、悪、意外のなんて言葉が当てはまるんだ? 絶対的な悪があるなら、それを正すことが正義なんじゃないのか? あんたは何も間違っていない。あんたは自分自身に誠実に行動したんだ。それが、たまたま悪い目を引いちまったのは、残念だけど。だからって、間違ってたわけじゃない。こんなところで、ひとりで泣いて、それでも、正しいものが好きだと言えるあんたは、とても綺麗だよ」


 沈黙が訪れた。

 クロウは珍しく自分が熱くなってしまったことを自覚し、闇の中、顔を赤らめていた。

 相手の顔が見えないからか、どうも話しすぎてしまう。


 しばらくして壁の向こうから声がした。


「なんだ? 聞こえなかった。もう一度言ってくれ」


「あなたのお名前をうかがったのですわ」

 少し尖った声が返ってきた。


「クロウ」


「……珍しいお名前ですのね」


「エレノア・ウィンデアほど優美な名前じゃないな」


 壁の向こうで、ウフフフっ、と笑い声がした。


「やっと笑った。さて、夜も遅い。そろそろ寝よう。縁があったら、またどこかで」


「……ええ、またどこかで」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ