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そしてふたりは……

 自身の娘の亡骸に憑依したグリンニル公爵レオニスにより、闇に包まれたエレノアは、当初、恐怖に怯えていた。

 薄れた意識の中、ただただ、不安と恐怖が彼女を包んでいた。


 そんな彼女に不意に何者かが語りかけてきた。なんと言っていたのかわからない。

ただ、それまであった不安と恐怖が、ふいに消え、安らぎに包まれた。


「彼のことが知りたいか」

 何者かの言葉がようやく理解できた。


「ええ、知りたいですわ」

 エレノアはそう答えていた。


 何者かの言う『彼』のことがクロウのことだと寸分も疑わなかった。


 そこからエレノアは夢を見た。クロウの夢。彼女はクロウとなって彼の人生を追体験していた。

 貧しいが平和で穏やかな幼少時代。

 突如、ドラゴンによって村が焼かれた。


 恐怖と絶望の中、クロウは闇の神シャドーと契約をする。その時に見せられた自分の80年後のいまわのきわ。

 クロウは死にかけたニーアを救うために自分の人生を捧げた。


 そう、あなたは、そんな風にして、力を得たのですのね。

 クロウの中にあって、その瞬間を眺めていたエレノアには、彼が下さなくてはならなかった決断に怒りと悲しみを覚えた。


 孤児院で過ごした少年時代。クロウは年老いた院長の教えを誰よりも真摯しんしに学んだ。

 自身はフレア神の礼拝堂に入ることも、祈ることもできないというのに。

 人はなぜ生きているのか。死んでどこに行くのか。

 それはクロウにとって、とても重要な課題だった。


 ある日、そんな彼を邪教徒だと非難する者があった。新しく孤児院に入ってきた年長の少年だった。


「こいつは、邪教徒だ。邪神をあがめてるんだ」


 そういうことを言われたのは初めてではなかった。孤児院に入った当初も、よくそんなことを言われた。

 それでも、クロウがほかの者に対して優しく手助けをしているうちに、誰も彼を非難しなくなっていた。


 だが、この時は少し事情が違った。その少年は自分が新しく暮らす環境を快適にするために権力を得ようと考えていた。強いリーダーシップを発揮し、大人の見ていないところで他の孤児たちを支配下におこうとしていた。

 そんな彼にとって慕われ人望があるクロウは目障りだったのだ。


 クロウは少年を相手にしなかった。

 なにしろ本当のことなのである。否定はできない。無視するほかない。

 少年が嫌がらせをしてきてもクロウは相手にしなかった。


 だが、その少年はクロウのもっとも大切なものを傷つけた。ニーアにまで嫌がらせを始めたのだ。

 少年の取り巻きに呼ばれ、クロウが礼拝堂の裏に行くと、泥だらけのニーアが地面にしゃがみこんでうめいていた。

 地面には吐瀉物があり、その中に虫が蠢いていた。


「よう、お前の妹にご馳走してやったところだぜ。邪教徒なら虫も食べるだろう?」

 少年は十三歳。体は大きく、大人なのようだった。

 その少年のそばに彼と同世代の2人。少年がくるまでは、少し気性が荒い年長者というところだったが、すっかり感化されて、取り巻きになってしまった。

 そこにクロウを連れてきた取り巻きも加わる。


 クロウは11歳。少年とは対照的に体も小柄で細い。長い黒髪は、彼にとって象徴のようなものだった。自分が闇の神と取り引きした者だと言うことはできない代償行為。


 孤児院に来てからもクロウは闇の神の加護技スキルを研究していた。いつ危機が訪れるかもしれない。せっかく助かったニーアの命だ。どんなことがあっても守りとおしたかった。手札は多いに越したことはないのだ。


 幼い頃に死地を体験したクロウにとって、体の大きさと腕っぷしにしか自信のない少年など、まるで怖くなかった。その余裕が少年には気に入らなかったのだろう。彼はついに一線を越えてしまったのだ。


 加護技スキルなど必要はなかった。

 クロウは小さな拳と蹴りだけで瞬く間に自分よりも年長の少年たちを制圧した。

 新入りで、ボス格の少年が泣きながらうめくのを、冷たい目で見下ろしていた。

 こいつは改心しない。

 それが分かった。


 クロウの前では大人しくなるかもしれない。だが必ず他の者に危害を加えるだろう。それが彼の保身術なのだ。

 膝をついて顔を押さえる少年の首に、そっと手を当てた。

 少年が指の間からクロウを見る。心底怯えている。


「た、助けて……やめ、て」

 少年の命乞い。


 それにほかの声がかぶさる。

「殺しちゃえ、そんな奴」

 ニーアだ。

「兄さん、殺しちゃって」


 クロウなら彼の死体を消すことは簡単だ。乱暴者の少年が出ていった。それで片が付くだろう。

 一瞬の逡巡のあと、クロウは少年の首から手を手を放した。


「俺たちに関わるな。次は殺してしまうかもしれない」

 クロウは言った。


 その後、ニーアにはさんざん文句を言われた。いかに無残な方法で少年を殺すべきかを楽し気に語り続けた。

 ニーアの異常性を意識しだしたのは、このことがきっかけだった。


 その一件のおかげで、少年は大人しくなった。だが、やはり、といおうか、少年の本質は変わらず、やがて事件を起こした。

 同じく孤児院の少女を強姦したのだ。

 それが発覚し、少年は追い出された。


 クロウは自分の決断が間違っていたのではないか、と思った。あの少年はこれからも他者を害して生きていくだろう。あの時、自分が殺していれば、強姦された少女も、これから少年が傷つけていく人々も、無事に済んだことだろう。


 その考えは孤児院を出てからも密かにクロウの中に渦巻き続けていた。この世界には息をするように他者を害していく存在がいる。弱肉強食というのが彼らの言い分だ。それならば、より強い存在に消されることも受け入れなくてはならないだろう。


 強い者が弱い者を食い物にする。それでは人がつながりあう意味がない。群れを作る意味がない。助け合うために、互いを尊重するために、人はつながりを作るのではないのか。分け合うために、ともに生きていくのではないのか。


 冒険者となってからも多くの悪人を見てきた。盗み、殺人、脅迫。だが、クロウはそれを見過ごしてきた。自分の周囲、目の届く範囲に入ってきた悪は、罰してきたが、それ以外は放置してきた。

 自分の命は短く、できることには限りがある。自分亡きあと、ニーアが幸福に暮らせるようにその道筋をたてることだけで精一杯だった。切りのない悪を討ち続けている暇はなかった。


 やがて冒険者パーティ『ホライズン』を追い出される。ニーアのために作ったパーティなので、それはそれで構わない。

 ただ、残りの命は1年ばかり。できれば、『ホライズン』に、もう少し決定的な功績をたてておきたかった。誰もが無視できない功績を。

 もともとは、その大仕事の際に自身の死を装うつもりだったのだ。


 予定は狂ったが、アルベルトがいればニーアも悪いことにはならないだろう。どこかで愛想をつかされるかもしれないが、『聖女』の肩書があれば、そう無碍むげに扱われるということはない。王宮で飼い殺しにされるといったところか。


 自分のやるべきことが終わったと気が軽くなると同時に、途方にも暮れた。残りの1年間、どうすればいいのか。

 孤児院に戻ってみたが院長は亡くなっていた。新しい院長はどうもクロウを受け入れることはなさそうだった。


 本当に行くあてがなくなってしまった。

 

 まあ、いいさ。

 せっかくだから旅でもしてこの世界を見ていこう。


 そう思い、ルゼス王国を縦断。南から北へと向かった。あえて道なき道を歩いた。

 人の踏み入らない場所を進み、美しい景色を見ていった。


 改めて見ると世界は本当に美しかった。

 そして、人の住む地域のなんと狭いことか。

 樹木の茂る深い森。急峻な山々。暗い谷底。不気味な湿地帯。

 そこに住む野生の動物や魔物たち。


 人の中で生きていれば気づかないことばかりだった。

 動物や魔物の激しい縄張り争いを見たこともあるし、出産の場面に立ち会ったこともあった。死に際に寄り添うこともあった。

 クロウの加護技スキルは、動物にも魔物にも気取られずに彼らを観察することができた。


 魔物とはなんだろうか。

 そんな疑問が浮かんだこともある。一般的には、魔物は邪神、あるいは魔王シャドーの眷属で、人を害する邪悪な存在とされている。


 だが、フレア神の教えには、魔物を魔物として定義するような文言はなかった。

 野生動物の中には人間を襲うものもいるし、魔物の中には穏やかで人を襲わない種もいる。


 時にはゴブリンの群れの中に溶け込み、暮らすこともあったが、彼らは原始的ではあるが、人間とそれほど違いがあるようには見えなかった。


 人を喰らうというオーガーも、人ばかり食べているわけではないし、常に暴れ回っているわけではなかった。


 クロウにとっては邪悪の象徴ともいうべき、ドラゴンに会いにいったこともある。

 その長老種エルダーのそのドラゴンは理知的で、穏やかだった。


「人間が勝手に呼んでいるだけだねえ」

 ドラゴンは、魔物とはなんぞやというクロウの問いにそう答えた。

「人間は区分をつけるのが好きだから。安心するんだろうね」


 ドラゴンの元に2週間ほど滞在した。ドラゴンは、実に多くのことを知っていたし、思慮深かった。

 このまま、このドラゴンのそばにいてもいいのではないか、そんな風にも思った。

 自分という人間が生きていたことを、これから先、何百年も生きていくドラゴンが知ってくれることは心強かった。


 それでもドラゴンに別れを告げて、その住処たる山を降りたのは、最後に人を見たかったからだ。


 人間から離れ、様々なことを見て、知って、あらためて人を見たかった。

 人間の心の光と闇に触れたかった。

 そうすれば死の先にあるものが見えるような気がした。


 ルゼス王国北部。ちょうど国境付近の道に出た。久しぶりに見る人間たちは、ひどくせわしなく見えた。


 せっかくだし、エフィレイアにでも行くか。

 そう決めて国境へ向かった。


 そこでエレノアに出会った。

 婚約破棄の上に追放された公爵令嬢。

 パーティを追い出されたクロウは、そんな彼女の境遇に同情した。


 馬車とすれ違った際、エレノアを見た。

 彼女は凛としていて同情など無用だと言っているように見えた。

 

 護衛に裏切られ、家臣たちを殺され、それでも最後まで気高くあり続けたエレノアにクロウは痺れた。


 宿で、ひとり泣くエレノアを助けてやりたいと思った。

 

 自分の残りの命を、この人のために使ってもいいじゃないか、そう思った。


 ロディとしてのふたり旅。

 楽しかった。最初は演じるように軽薄な人間として振る舞ったが、段々と、それが自分の本性のようにも思えてきた。

 エレノアとの他愛のない軽口。

 ずっと、こんな風に旅を続けられたらと思った。


 時にはクロウとしてエレノアに助力した。

 エレノアは、どこまでもまっすぐに王道を突き進む。彼女の求める正しさ。生き方は、あまりにもまぶしすぎた。

 エレノアとともにあれる自分に誇りが持てた。


 いつしか敬愛の念は恋へと代わっていた。クロウは自分の気持ちを務めて無視した。なにしろ、自分はあと7ヵ月で死ぬ身なのである。

 エレノアにこの気持ちが感づかれたら、彼女に余計な痛みを与えることになる。

 クレイモスに行って綺麗に別れよう。そう決めていた。


 やがて、王都でニーアと再会した。

 自分に手を貸して欲しいと妹は言った。


 クロウの気持ちは揺れた。

 ニーアか、エレノアか。

 だが、結局、ニーアのために時間を使うことにした。それがクロウの生き方だったから。


 宿でエレノアが姿を消したことを知り、彼女の髪留めを見て、クロウはグリンニル公爵邸へと来た。

 そこでファルクに取り引きを持ちかけられる。


 エレノアにアルベルトとの婚姻を結ばせる。そうすれば、クロウの妹たるニーアをエレノアは保護するだろうこと。エレノアにとっても、ルゼスの王家にウィンデアの血を残せる。


 クロウにとっては魅力的な提案。

 彼がなにかをするという必要はなく、ただ、グリンニル公爵を倒し、そのまま姿をくらませばよい。

 あとはファルクやルゼス王がうまくお膳立てするだろう。


 彼の記憶を追体験しているエレノアには、当然、クロウはその提案に乗るかと思われた。


 だが。

 クロウはその提案を蹴った。

 エレノアが決めることだと。

 この時、はっきりと彼は、ニーアではなくエレノアを選んだ。


 彼が文字通り命と引き換えに守ってきた妹よりも、エレノアを選んだのだ。


 クロウの記憶は終わった。


 闇の中でエレノアは歓喜に震えていた。気が付くと涙が出ていて、笑っていた。


 なんで、こんなにも嬉しいのかしら。

 エレノアは自分でもわからない。ただ、クロウの好意を勝ち得たという事実は、なによりも誇らしく、喜ばしかった。闇に包まれているというのに幸せでたまらなかった。


「けれど、彼はあと7ヵ月しか生きられませんわよ」

 いきなりそんな声がした。


 闇の中。すぐ目の前に少女が立っていた。ツンと顎を上げて、両腕を組んだエレノアと同じ髪型の13、4の少女。それは数年前のエレノア自身だ。

 祖父を亡くし、ウィンデア公爵家を守っていくために、強くなくてはと決意した頃のエレノアだ。


「7ヵ月でいなくなる者と恋仲になったところで、それが何になりましょう」


 そう、ロディは、クロウは、あと7ヵ月しか生きられない。死ぬのだ、彼は。

 それでも、エレノアの幸福感にはいささかの陰りもなかった。


「それならば、その7ヵ月を存分に生きるまでですわ。わたくしの一生分の気持ちを彼に捧げれば良いことです」

 エレノアは笑顔で目の前の年少の自分自身に言った。


「あなたはエレノア・ウィンデアですのよ。追放されたとはいえ、公爵令嬢。平民の男と情愛を交わすなど卑しいことですわ」

 年少のエレノアが怒り顔で言う。


「嘘ですわね。あなたは貴族だから平民だからと人を区別できる人間ではありませんわ。だからこそ、わたくしはホークを失った時、とても苦しかった。公爵令嬢として相応しくないのでしたら、元公爵令嬢でも構いませんわよ。わたくしがエレノア・ウィンデアであることは変わりませんもの。ウィンデア家の誇りと正義をわたくしの中から消すことはできませんわよ」


「詭弁ですわね」


「詭弁ですわよ。それでもわたくしは、彼の好意を勝ち得たことが誇らしいのです。彼ほどの方がわたくしを想ってくださる。残りの命をわたくしの元で使ってくださる。それは公爵となるよりもわたくしにとってほまれに思えますわ」


「浮かれていますわね。彼を失った時が心配ですわね」


 ふっと年少のエレノアが消えた。


 だが、エレノアはなにかの気配を感じた。いや、闇そのもののが気配を発している。

 気配はどんどんと濃くなり、それはエレノアの存在を押しつぶさんばかりの圧力を加えてきた。


「道はある」


 そのひと言。それは最初に闇の中でエレノアに語りかけてきた声と同じものだった。

 圧力は消え、同時に闇も消えた。


 視界に光が広がり、色づく。

 気を失う前と同様の地下ホール。エレノアは半透明の黒いガラス箱のようなものに閉じ込められていた。


 いえ、守らているのですわね。


 ホールの入り口付近には、白い氷の欠片が雪のように広がっている。その中央辺りだけ、黒い水たまりのようなものがあり、そこに四肢をつく見覚えのない男女。

 

 クロウは、と見回すと、壁に上体を預け、両足を投げ出していた。ちょうど、クロウが立ち上がる。

 エレノアの心臓が激しく動く。

 

 クロウが目を向ける。目が合った。

 ふたりの間に、なにか見えない線のようなものがつながったようだった。エレノアは体の内側が燃えるように熱くなり、ほうっ、と息を吐いていた。


 困ったようなクロウの顔。

 今、エレノアは、愛しい、という気持ちがはっきりと分かった。


 一方、クロウはエレノアほど単純な状況ではなかった。この場にロディがいることをどう説明するべきか、筋を考える必要がある。それも早急にだ。


 ふたりきりならまだいい。『巨人殺し』と『氷結魔女』がいる。クロウ……ロディが取り繕っても、彼らの態度で事情がバレる。


 もう、なるようになれだな。


 クロウだとバレたら、もうそれは仕方がない。エレノアに邪神の手先だと嫌われないことを祈ろう。


「お嬢……。今、助けますから」

 ロディは言うとエレノアの元へと向かった。

 その足がふらつく。『巨人殺し』の一撃は、思った以上に効いているようだ。


 途中でエレノアを囲っている結界を解除する。エレノアが駆け寄ってきた。


 ロディは一瞬、状況を忘れた。ただただ、無事で、潤んだ目で走ってくるエレノアが美しくて、見惚れた。

 そのちょっとした自失。次の瞬間、エレノアはロディにぶつかってきた。


 なんだ、とロディは訳が分からない。なぜエレノアが体当たりしてきたのか、本当に意味が分からなかった。


「ロディさん、いえ、クロウさん、いえ、やっぱりロディさんかしら……」

 エレノアがロディの胸のあたりで言った。

 

 ますますロディは訳が分からずに混乱した。ただ、どうも、エレノアが自分の正体に気が付いているらしいことはわかる。

 アルベルトか? いや、アルベルトがエレノアとロディのことを知っているとは思えない。


「お、お嬢、ともかく、離れてください。これじゃあ、抱擁しているみたいで、どうもよくありませんよ」

 ロディは言った。声が上ずったのは仕方がない。頭は依然混乱しているし、心臓は動悸が激しい。妙な汗が出てくる。


「ほ、抱擁しているみたいではなく、ほ、抱擁しているのですわ」

 エレノアも声が上ずっている。

「ロディでもクロウでもどちらでもかまいませんけれど、とにかく、わたくしはあなたを抱きしめているのです」


「いや、あの、どうして?」


 エレノアが顔を上げて、キッと下から睨みつける。赤い顔で睨みつける。

「わたくしからそんなことを言わせるつもりですの? 察するのがスマートな殿方というものですのよ」


「は、はあ、その……」

 さすがにロディ……クロウもここまでくれば分かった。

 混乱はまだ続いている。疑問は盛りだくさんだ。だが、胸の奥底から温かいもの湧き出して、クロウの隅々まで満たしていく。


 躊躇いながら、エレノアの背に手を回し、彼女を抱く。すると、なにか、難問の正解を探し当てたかのような気分になった。


 しばらく無言でふたりは互いを抱きしめていた。言葉を発すれば、この至福の時間が壊れてしまうだろうことが分かっている。

 もう少しだけこのままでいたい。

 そう願った。


 小さく、うめくような声がした。

 ホールの中央で倒れているうちのひとりが発したものだ。

 ふたりには時間切れを告げる鐘の音のようにも聞こえた。


 クロウがエレノアの背に回していた手を、肩に持っていき、押すように彼女を放す。

 クロウを閉じ込める輪を作っていたエレノアの手もほどけて、ふたりの体は離れた。


「俺がクロウだと知ってしまったんですね」


「ええ、クローディアスさん。わたくし、とっくに存じていましたのよ」


 クロウ……クローディアスは体を引きちぎるような気分で言葉を吐き出した。

「俺は闇の神と契約した者です。その、お嬢の気持ちは、本当に、その、嬉しいんですが……」


 エレノアが幸せそうに笑う。

「嬉しいんですのね。本当に」


「いや、そんな顔をされると、決意が鈍るじゃないですか。ええと、そもそも、俺は、平民ですよ」


「あなたは平民ではなく、クローディアスですわ。そして、わたくしは公爵令嬢ではなく、エレノア・ウィンデアです。それがすべてではなくて?」


「ウィンデア家の再興はどうするんです?」


「それはまた考えてみますわ」


 クローディアスの心は溶けかけた。もう一度、エレノアを抱き寄せたくて仕方なかった。

 だが、最後に残った冷静な自分自身が、エレノアの気持ちに応えられない理由を告げる。


 そうだ。俺には時間がない。彼女の気持ちに答える命がない。

 クローディアスは幼かったあの日に闇の神と契約して以来、初めて、自分の払った代償を後悔した。


 クローディアスは意志の力を振り絞り、エレノアの肩にかけている手を、まっすぐに伸ばして、彼女を一気に放した。


「お嬢、ありがとうございます。あなたのような人が、俺なんかを……。その、光栄ですよ。たぶん、Sランク冒険者になったって、英雄になったって、こんなに誇らしい気持ちにはなれないと思う。だけど、俺は、俺にはあなたに応えられる命がない。ないんですよ」


「存じていますわよ。あなたがなにを闇の神シャドーにお支払いになったか。わたくしはすべて知っておりますわ。あなたが、どんな気持ちで歩んできたのかも。知る前でしたら、わたくしにも躊躇いがあったかもしれませんわね。けれど、知ってしまったからには、躊躇っている暇などありませんわ」


 エレノアがクローディアスの手を払った。すっと踏み込み、小さく跳んで、クロウの顔に顔をぶつける。


 クローディアスが目を見開いて鼻を押さえる。

 エレノアは額を押さえた。恨みがましそうな目でクローディアスを見上げる。


「クローディアス。お受け止めなさるべきですわ。殿方ならば」


「いや、お嬢がなにをしたかったのか、さっぱりだったものでね」


「……キッスですわ。華麗にキッスをいたしたかったのですわ」


「……えらく躍動的な接吻ですね」


「初めてですもの」

 額を押さえながらも、顔がさらに赤らむ。

「わたくしとキッスをするのは、嫌ですの?」


「とにかく、落ち着きましょうか、お嬢。俺は、平民で、闇の神と契約していて、ついでにあと7ヵ月しか生きられません。あなたが初めての口づけをかわす相手としては不適切過ぎますよ」

 そういうクローディアス自身も口調ほどに落ち着いてはいない。内心は焦燥感と高揚感と危機感と、そしてそれらをすべて凌駕する幸福感で、大変なことになっていた。


「わたくしの質問に答えなさい。わたくしとキッスをするのは、嫌ですの?」

 エレノアの泣きそうな顔。


 クローディアスは、もはや抗うことなどできなかった。エレノアの赤い唇に吸い寄せられるように唇を付ける。

 柔らかい唇の感触に眩暈がした。


 そっと唇が離れ、吐息がかかる。

 まるで魂をそっと撫でるように。


「もう、後戻りはできませんわよ。クローディアス。あなたは、わたくしの唇をお奪いになったのですものね。つまらない理屈で、わたくしを遠ざけようとしても、無駄ですわよ」

 勝ち誇ったように、だが、ほんの少しでもつついたら、崩れてくしゃくしゃの笑みに変わりそうな顔で言った。


「つまらない理屈……」

 クローディアスは泣きたいのか、笑いたいのか分からず、とにかく、エレノアを抱きしめた。

「つまらない理屈か」


 こんなにも細くて、小さいのに、エレノアは本当に強い。奇跡のように強い。

 結局、クローディアスは笑っていた。


「わたくしはエレノア・ウィンデアですわよ。ウィンデア家は公正と正義の守護者。あなたは、わたくしとともに歩むべきですわ。ええ、放しませんわよ、わたくしは」

 言いながらも、エレノアは目を閉じた。


 目を閉じると闇が広がる。ただ、体にはロディのぬくもりが感じられて、闇はクロウそのものだった。

 それはとても愛おしく、心地よかった。


 道はある。そうですわよね、シャドー。

 わたくしは、必ずクローディアスの命を取り戻してみせますわ。



 グリンニル公爵が邪神の崇拝者で、その力を借りてルゼス王国第1王子アルベルト・アルクおよび、エレノア・ウィンデアを拉致した。

 だが、エレノアとアルベルトの返り討ちに合い、グリンニル公爵レオニスは命を落とした。ルゼス王はグリンニル公爵家の取り潰しを決定。グリンニル公爵領は一時的に、王家直轄地となることになった。

 新たな王家直轄地の代官として、第1王子アルベルトが任官することになった。10年ほど政務の経験を積ませ、王位につかせるということだろう。


 これらの噂は、グリンニル公爵邸での事件の1週間後には、王都ルーベリア中に広がっていた。


 一部では、エレノアと王子アルベルトの婚約の噂もあったが、その噂はすぐに消えた。当のアルベルトが公の場で、完全否定してのけたためだ。

 やはり『勇者』は『聖女』のことを愛しているのだろう、と民衆は美談に仕上げた。

『聖女』は王宮で過ごすことになり、遠方の旧グリンニル公爵領に赴く、王子のことを祈り続けるのであろう。


 実際のところ、アルベルトの心境はそれほど単純明快なものではなかった。

 王宮で、代官として赴任する準備を進めていたアルベルトは、側近のロベルトから民衆のそんな噂話を聞いて、苦笑い。


「『勇者』はもう卒業だ。嫌々、『聖女』の相手をする必要はないのさ」

 執務机で書類に向かいながら言う。

 だが、実際、『聖女』ニーアに対してアルベルトは、いくつもの手を打ち、王宮に彼女の居場所を造り出した。


 それがクロウとの約束だからだ。


「そろそろ、出発する頃合いではありませんか? 見送りに行かなくても?」

 机の脇に控えるロベルトが言った。


「そんな間柄じゃない」

 言った後にアルベルトは首を軽く振った。

「少し妬けるしな」


 ロベルトはそんな主人に微笑みを向ける。

 複雑な表情を浮かべながらも、どこか晴れ晴れした様子のアルベルトに、成長を感じたからだ。


「クレイモスに着いた後はどうされるのでしょうか?」


「さあな。だが、まるで、一対のようなふたりだったよ。ふたりでいるのが、なんというか、とても自然で、これまで別々の道を歩いてきたようには見えなかった。憧れるな、ああいう関係というのは」 

 アルベルトの脳裏に、先日の事件で昏倒から目を覚ました際に見た、ふたりの様子が思い浮かんだ。


 ふたりは抱き合って、そのまま言い合いをしていた。言葉だけ聞けば喧嘩しているようで、だが、どちらも背中に回した手をほどくつもりはないようだった。


 あのふたりに残された時間は、あと7ヵ月。

 別離の時はすぐに来る。それでも、アルベルトは願わずにはいられない。

 クロウとエレノアが長く添い遂げられることを。



 アルカディア歴1824年7月1日

 ルゼス王国王都ルーベリア


 空はよく晴れている。

 門での手続きを終えたクローディアスは、2頭仕立ての大型馬車の御者台に戻ろうとして、ギクリとした。日差しを遮るホロの下。長椅子にはエレノアが座っていた。

 黄金の巻き毛が、ホロをはためかせる風に揺れている。


「お嬢、そこは俺の席ですよ」


「大丈夫ですわ。わたくしの隣が空いておりますわよ」


「後ろの方が乗り心地がいいですよ。そこに座ってたら、すぐに尻が痛くなりますからね」


 エレノアがクスっと笑った。

「早くお乗りなさいな。クローディアスさん」


 クローディアスは頭をかくとエレノアの隣に乗り込んだ。2人座るには少し手狭だ。体が触れ合う。

 風がエレノアの匂いを運ぶ。


「なんだか居心地が悪いですよ」


「嘘ですわね。心地よくて、もうたまらないのでしょう。なにしろ、わたくしの隣なのですもの」


「……照れ隠しくらいさせて欲しいな」


「わたくしに嘘は通じませんわ」

 言ってエレノアはクローディアスに向ける。少し心配そうな顔。

「嘘を見破る女は嫌いですの?」


 その唇をクローディアスは奪った。子供のように莞爾かんじと笑う。


「嘘をつく必要が無くて結構じゃないですか」


 エレノアは、ぼうっとクローディアスに見惚れていた。

 強気に、強引にやっているが、実際にそれほど自信があるわけではない。

 むしろ、こと男女間のことに関しては、エレノアはどこまでも臆病で自信がなかった。

 それでもエレノアは突き進む。今までそうしてきたように胸を張って堂々と。


「むしろ、7ヵ月の命しかない男ですみませんとしか、ね」


「あら、わたくしの言葉を信じておりませんの? シャドーは確かにわたくしにおっしゃいましたわ。道はある、と。わたくしは必ず見つけてみせます。あなたの命を取り戻す方法を」


「雲をつかむような話しですよ」


「まず手を伸ばさなくては、いつまでたっても雲はつかめませんわよ。この手をね」

 言ってエレノアはクローディアスの手を握った。

 ふふっ、と笑いがこぼれる。


 この大きくて、硬くて、たくましい手が、自分のものであることが誇らしかったのだ。


 馬たちがいなないた。まるで早く出発しろと言っているかのようだった。

 実際、それに近いことを訴えていることがクロウには分かった。


「お嬢、馬たちが出発させろって急かしてますよ」


「それですわ」

 エレノアが大きな声を出して、クローディアスの顔に顔を寄せる。

「わたくしたちの関係は、もう雇用関係ではなく、恋人関係のはず。キッスをいたしましたし、こうして手も繋いでおりますもの。そんな風にかしこまった話し方は相応しくありませんわ」


「そうですかね。大した問題じゃないと思うんですが」


「大した問題ですわ。まるでわたくしが、あなたよりも上位にあるようですもの。気に入りませんわ。いつまでもロディでいてもらっては困りますわよ」


「ええと、そうですね、まあ、うん、そういうのなら……出発しようか、エレノア」

 つい照れて顔が赤くなるクローディアスであった。


 それはエレノアも同様で、顔を赤めて下を向く。


 馬たちがいい加減にしろ、というように、もう一度いなないて、勝手に走り出した。


 クローディアスはエレノアの体を抱くように手綱を取った。エレノアがそそそっと、さらに体をくっつけてきて、クローディアスの胸に頭を預けた。


 ふたりが進む東の空は少し雲行きが怪しかったが、馬車はそんなことを一切気に留めないように力強く、一本道を進んでいく。


 世界の命運を握るふたりを乗せて、まっすぐに、どこまでも。

これにて前半終了です。一日、休みを置いて、2月12日から後半を始めたいと思います。一度、幕を閉じる、みたいなやつです。実は前半を書き終えて後半に着手するのに半年以上の間が開きまして。だから、どうということはないんですが、幕間があった方がいいかなあと。

ということで、いったん閉幕ということで。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

引き続き、後半を楽しんでいただければ幸いです。

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