旅の宿
アルカディア歴1824年6月2日
ルゼス王国二クス子爵領
曇り空。今にも雨が降り出しそうな空である。
2頭仕立ての大型馬車を操る黒髪の御者は、もうそろそろ雨宿りする場所が必要かもしれない、とそんなことを思った。
あいにく周囲は開けている。丈の長い草が茂った平野だ。森のひとつも見当たらない。
黒髪の御者は、ルゼス北部の地図を頭の中に思い描いた。
アロアー街から南下を続け、1週間が経っている。ただ、そのうち5日は大雨に見舞われて山間の村で足止めをくっていたので、実質は2日間というところ。
次の大都市はヴィオレット侯爵領マシマリー。アロアーからだいたい4日の距離である。
当然、その間に、街や村はある。ロディの記憶では、この平野を進んだ先には、リージェンという街があったはずだ。
日が暮れる前にはつくだろうと考えているのだが問題は空の方。
また大雨が降られては困る。
御者台にはホロが張ってあり、後ろの乗車部分は防水加工がほどこされている。ただ、あまりの大雨だと馬によくない。旅はまだまだ続くのだから、馬の健康にも配慮は必要だ。
俺も御者らしくなってきたのかな。
そんなことを思いながらも、後ろを振り返る。
エレノアは本を読んでいた。長椅子に背筋を伸ばして座り、両手で本を持って開いている。30分ほど前に見た時も同じ姿勢だった。
幼少時によほど厳しくしつけられたのか、エレノアはいつでも姿勢が良い。それが彼女の立ち振る舞いの美しさの元になっている。
ロディは背中の小窓を振り返る頻度が増していることを自覚していた。本来、周辺感知の加護技を持つには不要な行動である。だが、つい、つい彼女の姿を視界に入れたくなる。
エレノアへの抱き始めた想いは心の底に押し込めてある。解き放つつもりはない。それでも、端々に執着心のようなものがでてしまうようで、彼はその度に、そんな自分を笑った。
俺も人間らしいところがあるんだな。
ポトリとホロが音をたてた。ポトンポトンと続く。雨が降り出したようだ。
ロディは今日中にリージェンに行くのは諦めた。
途中の村で雨をやり過ごそう。
雨足は強くはならなかったが、完全に上がりもしなかった。時々思い出したようにホロを鳴らす。
そうこうするうちに遠くに脇道が見えてきた。
脇道を進んだ先には村が見える。一方、このまままっすぐ道を進んだ先には、まだ何も見えない。
村に向かうことを決めたロディだったが、すぐに考えをあらためた。本道をまっすぐ進んだ先に人が倒れているのが見えたからだ。
「お嬢。人が倒れています。ちょっと失礼」
言って馬車を止めると、御者台からひらりと降りて走った。
ロディの足は速い。すぐにうつぶせに倒れている人のそばにたどり着いた。
女性だった。旅用のフード付きのマント。傍らには荷袋が放り出されている。
大丈夫かと、呼びかけるとわずかに頭を動かした。意識はあるようだ。
優しく体を反転させて、上体を持ち上げてやる。30前後の美人。苦しそうな顔でロディを見上げている。
水石を口元にあてがい、わずかに水を出して飲ませてやる。女性の顔が和らいだ。
「どこが苦しい?」
「急に、む、胸が痛くなって。息ができなくて」
言いながら、女性が襟元のボタンを外そうとする。服を緩めたいらしい。
ロディはそれを手助けして、女性を楽な状態にしてやった。
治癒を施そうかと思ったが、すぐにエレノアが来るだろうと、待つことにした。エレノアの『中級治癒』の方が助けになるだろう。
女性が悲鳴をあげた。再び苦しみだす。
女性に注意を向けていたロディは、彼女の左胸になにかが取りついていることに気づいた。
「痛い、胸が……」
ロディは躊躇せずに女性の襟元から手を入れて、彼女の左の乳房の下にもぐりこんだものをつかんだ。それを慎重に引きはがす。
「ロディさん、一体なにをなさっているのです」
エレノアの怒声。
エレノアが黒雲を背後に背負い、憤怒の表情で立っている。
「毒虫の類に噛まれたらしいんです。今、引き剥がしているところでね」
ロディの感知したところでは、『毒ハサミ』という毒虫だ。ハサミで噛みつき、神経毒の毒液を注入し、動物を倒す。倒した動物の死骸に卵を産みつけるためだ。
「毒虫? そういうことでしたの? わたくしはてっきり、女性に不埒な真似をなさっていたのかと……」
「それはまた酷い誤解をしてくれましたね。ほら、こいつですよ」
女性の襟元から入れた手を出す。
ロディの指は5センチほどの黒い虫をつかんでいた。
「なりは小さいが強い毒を出す。まあ、刺された場所が悪かったんでしょう。腕や足なら、倒れるまではいかなかったでしょうが」
「それで、その方は大丈夫ですの? 治癒魔術をかけた方が良いのかしら」
「万一のこともあるし、その方がいいでしょうね」
ロディと入れ替わり、今度はエレノアが女性の上体を抱える。
エレノアが治癒魔術で女性を治すあいだに、ロディは指につかんだ毒虫を見ていた。
なんとはなしに違和感がある。だが、その違和感の正体がわからない。
ロディの指に黒い球体が生まれる。すぐにそれは消えた。毒虫とともに。
『影倉庫』の加護技である。
エレノアの治癒魔術のおかげで女性の顔色は見る見るよくなった。治療が終わった頃には、なんとか体を起こすことはできるようになった。
「ありがとうございました。お二人が通りかからなければ、どうなっていたことか」
女性は脇道を進んだ先にある村に戻る途中だったという。途中までリージェン街に向かう馬車に乗せてもらい、下ろしてもらったところで毒虫の被害にあったらしい。
「送りますわよ。どうせ、雨宿りもしなくてはならないことですし。ねえ、ロディさん」
エレノアは女性を気づかって言った。
「……そうですね」
ロディは、まだ弱っている女性を見ながらも、うなずいた。
◇
女性はミリアと名乗った。この先にあるホム村の手前で宿屋を営んでいるという。
エレノアはミリアと同乗しながらも、彼女の話しに嘘がないことをはっきりと確認した。今のところ『虚言看破』に反応がない。
出発前、ロディに耳打ちされたのだ。怪しい者かもしれないので、できるだけ細かく素性を聞いて欲しい、と。
「もともとはリージェンの街に夫婦で住んでたんです。けれど、2年前に夫が事故で亡くなってしまって。ちょうど、知り合いが宿を畳もうとしていたので、そちらを借りることにしたんです。宿の方は、あまり繫盛はしませんけど、村の方たちも良くしてくれるもので、なんとか暮らしていけてます」
エレノアの治療が良かったのだろう、ミリアの顔色はすっかり戻り、健康そうだ。
それにしても色っぽい女性である。同性のエレノアですら、ミリアの色香になにか落ち着かない。
特にしっとりと汗ばんだ肌は怪しい魅力がある。
ロディが彼女の襟元に手を入れている様が思い浮かんだ。
エレノアの目にはロディが女性の体をまさぐっているように見えた。
あの光景を目にした時、頭がカッと熱くなった。そして、理由を聞いたあとも、不快感だけは残り続けている。
それは、理不尽にもロディに対する怒りに変わり、時々、頭の中で彼を罵った。
ミリアの住む宿は森の前に建っていた。彼女の話しだと、このまま道を進み森を抜けるとホム村があるという。
「昼間は大丈夫ですが、夜は危険です。毒を持つ虫がたくさんでるんですよ」
自分のように慣れたものでなければ、夜の森には入らない方が良いと言っていた。
雨足は強くなってきていて白塗りの2階建ての建物の後ろの森を、いっそう鬱蒼と見せている。
ミリアに導かれ、エレノアは宿に入った。
その間にロディが宿の裏にある厩に馬車を入れる。
ロディも御者台でエレノアとミリアの話を聞いていた。馬をつなぎ直し、水と餌をやり、ブラシを当てて労をねぎらいながらも、できるだけ詳細に厩の様子を見る。
古びた馬車が1台と馬が1頭。ミリアの話しでは、ちょうど昨日泊まった旅の商人に乗せてもらい、リージェンまで行ったという。
確かに、旅商人の馬車のものらしき新しい轍がある。すでにつながれていた馬も、きちんと世話されている。
ミリアがこの宿の住人であることは間違いなさそうだ。
ロディは『影倉庫』から先ほどの毒虫『毒ハサミ』を出した。頭に引っかかっていたことが分かった。
『毒ハサミ』は温かい場所を好む。ルゼスでは南方に生息する虫だ。
それが北方にいたことに違和感があった。
ただ、例えば旅商人の馬車に潜んでいたという可能性はある。それがミリアの服に忍び込み、温まったところで活動を開始したと考えれば納得もいく。
ロディは、もう一度馬たちを労うと厩から出た。雨はさらに激しくなっている。足元はぬかるんでおり、ともすれば足をとられそうになる。
加護技を使えば、濡れることもなく宿に入ることができるが、そうもいかない。
エレノアとの旅の間、むやみやたらと加護技は使わないように気を付けている。
彼女に不信感を抱かせたくはなかった。
玄関扉を開けると、すぐにカウンターがあった。もちろん無人である。泥を落とし、マントを脱いで、話し声のする方へ。廊下の奥に談話室のようなものがあり、そこでエレノアとミリアが話していた。
ソファに座り、茶を飲んでいる。
ふたりの他にもうひとりいる。
椅子の上に立って、はめ殺しのガラス窓をのぞく小さな女の子。ミリアの娘だろう。
ミリアがロディにあらためて礼を言う。
「いえ、当然のことをしたまでです。偶然通りかかって、本当に良かった」と軽く流した。
「ずいぶんと早業でしたわね。わたくしが駆けつけた時には、すでにミリアさんのお胸をまさぐっていましたもの」
エレノアが言った。口調に棘が含まれている。
「それについてはきちんと説明したはずですよ」
「あら、役得は役得でしょう」
「人助けをして責められるとは思いませんでしたよ」
「別に責めてはおりませんわよ。ただ、ロディさんも男でしたのね、としみじみ思ったくらいですわ」
「二つの意味で失礼な話しですよ」
どうもいつもの軽口の応酬と違って、互いに小さな傷を付け合っている。
ロディはエレノアに痴漢と一緒にされたことに腹立たしいものを感じたし、エレノアは怒りの内圧が高まっていたので攻撃的な気分になっていた。
ミリアが困ったようにとりなす。
ロディも話題を変えようと、それに乗り、先ほどから背中を向けて窓の外を見ている彼女の娘について質問をした。
名前はアンリ。今年で10歳。非常に無口な上に人見知りとのこと。ただ宿の手伝いはしっかりしてくれ、ひとりで留守番もしてくれる。
その後、アンリはミリアとともに夕食の支度に行った。
談話室でふたりきりになるロディとエレノア。先ほどやりあったこともあり、妙に気まずかった。
「ミリアさんの話しに嘘はありませんでしたか?」
「ええ、問題ありませんわ。ロディさんのお気の回し過ぎではなくて?」
「そうですね。でも、まあ、用心にこしたことはないですからね。セクプトとアロアー。お嬢が派手に武功をたてるものだから、エフィレイアの方々も心中穏やかならざる、なんて思いましてね」
ロディに指摘され、エレノアは初めて故国のことを考えた。確かにその通りだ。エレノアの武功を宰相や元婚約者のジークフリートが喜ぶはずがない。
宰相はなんとしても早くエレノアを殺そうと、手を打ってきても不思議ではない。
「わたくしのことを色々とお考えてくださったのですのね。ありがとう存じます、ロディさん」
心配してくれたロディの気遣いがうれしくて、怒りがふっと消えた。代わりに温かい気持ちで言った。
「いや、暇だったから、つらつらと考え事をしてしまうだけですよ。それに、お嬢を無事にクレイモスにまで届けるのが俺の仕事ですからね」
クスっとエレノアが笑った。
「頼りにしておりますわ」
「ええ、そうしてください。間違っても女性に痴漢行為をして、お嬢の名誉を汚すような真似はしませんよ。こう見えてもね、身持ちは固いんですから」
「それは単にご婦人が寄ってこられないだけではございませんの?」
「まあ、そうかもしれませんけどね」
「ロディさんも外見は良いのですし、きちんとすればご婦人の目にもおとまりになると思いますわよ」
「きちんとは、具体的に、どうすりゃあいいんです?」
それにエレノアが顎に手を当てて、ふむ、と考え込む。
「やはり男性は重厚感のようなものが重要ですわ。重々しさ……。余裕。落ち着きですわね。そう何事にも動じず。軽口は叩かず。堂々としていて。けれど優しく」
「なるほどね。胸にとどめておきますよ」
ロディが苦笑いして言ったので、エレノアはなにかフォローが必要だと感じた。彼を否定するつもりはまったくないのだ。
「もちろん、ロディさんにはロディさんの良いところがございますわよ。よく気が付くし、一緒にいて気が楽ですもの」
「そう言っていただければ、御者冥利につきますね」
ロディにしてみれば、もともとの性格が暗すぎ、口数が少ないという認識であった。ロディの軽薄な人格は半ば意識的にやっていることでもある。
だが、最近ではそれも板についてきて、自分の本来の性格のような気もしている。
夕食はシチューだった。大きなテーブルのある食堂で食べた。エレノアは何度かミリアの娘アンリに話しかけたが、彼女はうつむいて終始無言だった。
夕食後、談話室でしばらくミリアを交えて雑談し、やがて夜は更けていった。まずミリアが娘を寝かしつけに行き、それを機にふたりも用意してもらった部屋へと入った。
さすがに宿屋。部屋は十分ある。エレノアとは、それぞれ隣り合った部屋を用意してもらい眠りについた。
ベッドで横になる時にはクロウの疑念もすっかり晴れていた。




