みっちゃん
「いつもありがとうね、みっちゃん」
そう言って、私はぺこりと頭を下げました。
世界は真っ暗になってしまったけれど、背中にみっちゃんの温かさを感じながら。
「いいんですよ、金浦さん」
彼の優しい声が、爽やかな春風のように心地よく聞こえました。
「これが僕の仕事なんですからね。なんでもわがまま言ってください」
街に散歩に出掛けたいと言ったのはその通り、私のわがままでした。
夏も終わり、涼しい風の吹きはじめた街を、彼と一緒に感じたかった。正直、デートをしている気分でした。彼は31歳、私は67歳。私が夫とは死別しているとはいえ、ロマンティックな関係にはなれるはずもありませんでした。
それでもたまにはいいだろう。たまには若い気持ちに戻って、恋をするような気持ちになっても、たまになら、罰も当たらないだろう。
彼はただのホームヘルパーで、お仕事で私の世話をしてくれているだけだとわかっています。でも私はお金を払って介護してもらっている以上の関係を望んでしまっていました。
彼のフルネームは石川充彦。しかし私は『石川さん』ではなく親しみを込めて『みっちゃん』と呼んでいました。
「目の具合はどうですか?」
爽やかな風の中を、私の車椅子を押してくれながら、みっちゃんが気遣うように聞いてくれました。
「少し視力が戻ったりはしませんか?」
「なんかね。先生が言うには、急に視力が戻ってくる可能性もあるんだそうですよ。でも……だめね。今のところ一度もそういったことはないわ」
「まったく? ぼんやりとも見えませんか?」
「ええ。まったくの真っ暗闇よ」
視力なんて戻らなくてもいいと思いはじめていました。
見えるようになったら彼は私が一人住む家に来てくれなくなるだろう。そんなのは嫌。
そう思いながらも、視力を取り戻したいという気持ちのほうも、じつは強くありました。みっちゃんの顔を見たいという思いは、彼を知れば知るほどに強くなっていました。
「あなたはどんな顔をしているのかしら」
私は冗談っぽい口調でそれを言いました。
「残念だわ。もう一ヶ月も出会いが早ければ、あなたの顔を知ることが出来てたのに」
「ふつうの顔ですよ」
みっちゃんはクスッと笑いながら、教えてくれました。
「期待されてるようなイケメンじゃありません。どこにでもある顔だ」
彼が連れ出してくれたのは、どうやら街の中心部ではなく、大きな公園の外周のようでした。サルビアだろうか、甘い幻覚を誘うような花の香りが心地よく、少し狂わされたのか、私はこんな気持ちのいいお散歩には相応しくない話をはじめてしまいました。
「私、視力を失う直前、人殺しを目撃しちゃったのよ」
「人殺し?」
みっちゃんの声が少しうろたえたようでした。
空気も読まずに私は続けました。
「ええ。お友達の家に強盗が入ったの。その時、私、ちょうどおトイレに入っていて助かったんだけど……」
「ああ……。トイレにいたんですね? それで……」
「ドアを少しだけ開けてね、犯人の顔を見ちゃったのよ。とても恐ろしい、特徴のある顔だったから、よく覚えてるわ」
「どんな特徴?」
「それをうまく言えないのよ」
自分の表現力のなさに、笑ってしまいました。
「でも見ればすぐにわかるわ。……あ?」
サルビアの赤が、ぼうっと視界に浮かび上がってきました。医師が言っていた通りでした。ぼんやりだけれど、急に視力が戻ってきたのです。
「みっちゃん!」
「どうしました?」
私は笑顔をみっちゃんの顔に向けました。『視力が戻ってきたみたい』と告げようとして、口をつぐみました。そこに、あの日に見た、あの強盗の凶悪な顔があったから。
「もしかして……視力が戻ってきたんじゃないですか?」
ギラリと私を睨むような目をしながら優しい声を出す彼に、笑顔を消さないよう気をつけながら、私は告げました。
「大丈夫よ。なんとなく、サルビアの赤い花が見えたような気がしただけ。幻覚だったわ」
長くて急な下り坂の手前でした。
彼がそこで立ち止まりました。私の乗る車椅子をゆっくりと推し進めると、手を離しました。
車椅子がゆっくりと、急な下り坂に向かって行く。私を試しているのがわかりました。
車椅子のブレーキのレバーを握りそうになる手を、必死で止めました。ここでブレーキに手をかけただけでも私の目が見えているのがバレてしまう。
目を閉じて、何も見ないようにしました。
全身の力を抜き、緊張していることを悟られないようにしました。それは簡単ではありませんでしたが、するしかありませんでした。車椅子が急坂を転がり落ちるほうが、みっちゃんに視力が戻ったことを知られるよりは怖くなかったので。
車椅子が坂を下りはじめ、スピードが乗る直前に、みっちゃんがハンドルを再び掴み、補助ブレーキをかけました。
「危ない。ここから下り坂だ」
優しい声で、言いました。
「そろそろ家へ戻りましょう」
夫と40年暮らした家は、私が一人で住むには広すぎました。
最近はその寂しさをみっちゃんが埋めてくれていました。いつも一緒にいてほしかった。今日は一刻も早く帰ってほしかった。
足が悪いわけではありません。みっちゃんに支えてもらえれば歩くことは出来ます。いつも彼は優しく私の目になってくれました。
今日は明らかに試しています。わざと壁にぶつかるように歩き、私の怯えを筋肉の動きで確認していました。私は微笑みを浮かべた表情を必死で作り、何が何でも気取られないように、うまくそれを切り抜けました。
私の目は見えてない、彼の顔も認識してない──死ぬ気でそれを演じ続けました。
「ちょっとこっちへ」
そう言って私を物置の中へ案内する。物置の中には見知らぬ若い男性の死体がありました。喉にナイフが突き立っています。胸にはホームヘルパー施設の名札があり、『石川充彦』と書いてありました。
「どうしたの?」
のんびりした声で、私はみっちゃんに聞きました。
「自分の家だからわかるわ。ここは物置よね? ここに何があるの? ……なんか、へんな匂いがするわ」
「……何でもないです」
そう言って、彼が開き戸を閉めました。
食事を用意すると、みっちゃんがテーブルに着かせてくれました。
メニューはふつうに焼き鮭に漬物に味噌汁といったものだったけれど、そのすべてに青い着色料がふりかけられていました。
「美味しいわ」
私は食欲など起こりようもない青いインクで色づけられたようなそれらを、なるべく美味しそうに食べてみせました。
「みっちゃんは食べないの?」
「僕は今日は帰って食べます」
安心したような顔をして、みっちゃんは言いました。
「洗い物を済ませたら帰ります」
その言葉通り、20時になると彼はリビングの戸口に立ちました。
「それではまた明日、来ます」
声はあかるく笑っているのに、目は怯えた肉食獣のように挙動不審でした。
「お願いね。またあなたに会えるのを楽しみにしているわ。みっちゃん」
そう言って、目の見えない人の手の振り方をしました。
みっちゃんが玄関を出て行く音がすると、すぐに私は立ち上がり、電話機のほうへ走りました。
視力は一度、ほぼ完全に回復していたけれど、また視界に靄がかかりはじめていました。早く、目が見えているうちに、正確に110番しないと──
電話機は玄関のほうにある。廊下を走ってそこへ行くと、怖い顔をしてみっちゃんが立っていました。
玄関の扉を開けて、閉めた音がしたはずなのに。鍵もかけた音がしたのに。
「やっぱり……見えてるんだな?」
みっちゃんの手には大きなナイフが握られていました。
私は落ち着いて、現役の刑事だった頃の動きを思い出し、彼の胸めがけて掌底を打ち込みました。