187.命の幕引きは彼と
「アリス……? あ、水を飲む?」
側に置いてある水差しで、いつもレイモンドが私に冷たすぎない水を飲ませてくれる。彼の生み出す水はとても美味しくて、それしか飲もうと思わない。あんなに好きだったチェリチェリベリージュースも、もう飲む気はしない。
不思議……レイモンドが光の中にいる。私にだけ、そう見えるのかな。
「光が……見えるの……」
「え……?」
深くはできなくなっていた呼吸が、今まで以上に浅く……。
何かを感じとったのか、彼の顔が歪む。
「嫌だ……いかないよね、アリス……」
「どうかな……」
「まだ……だよね?」
まだじゃないかもしれない。
微笑んで、わずかに首を振る。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ、アリス。置いていかないで……っ」
置いていくのなんて、決まっていたのに。覚悟はできていたでしょう?
「大往生……でしょ……」
「嫌だ……」
震える手で私の手を握りしめる。
――ああ、温かい……。
「アリスが俺の声を聞きながらがいいって言っていたから、ずっと考えていたんだ」
最後まで、レイモンドらしいね。私の前ではずっとそんな男の子で、そのまま歳をとっていったね。
「なんて声をかけたらいいのかなって。ずっと愛しているって。幸せだったって。側にいてくれてありがとうって……っ。たくさん、考えたんだ……」
ああ――、反対側の手で彼の涙をぬぐいたいのに、腕が重い。
細かいことをごちゃごちゃ考えちゃって、すぐに泣いちゃって、それなのに頼りたくなる可愛い男の子。すぐに好きになったのに素直にはなかなかなれず……でも伝わっていた。婚約をして恋人になって……愛し愛される夫婦になった。最後の瞬間まで寄り添い合う夫婦になれたんだね。
あなたでよかった。
私を好きになってくれた人が、あなたで。
「それなのに、俺を置いていかないで……って、それしか……思い浮かばない……っ」
そんなに泣いて……体の水分、なくなっちゃうよ?
これで、まだ寿命は一年後でしたとかだったら格好悪いよね、なんて軽口を叩きたくなるな。そうしたら、嬉しいだけだよって言ってくれるよね。
たくさん話したいことがあるのに、もうこの体は終わりを迎えようとしている。
「もっと、もっと、もっとアリスと――」
どうしてだろう。
もう満ち足りたと思った。これで終わりでいいと思った。それなのに……。
愛を語れる丈夫な体がほしい。彼をなでる、そのわずかな力がほしい。もう一度……抱き合いたい。あの頃に戻って激しく求め合ってみたい。
老いとは、なんて残酷なのだろう。
できることが一つずつ失われていく。かつての輝きを知りながら、二度と届かないことを突きつけられる。失って初めて、その幸せを思い知らされる。
一人では何もできない状態で産まれて、たくさんの愛情を注がれて多くのことができるようになって、大事な人ができて、思い出を積み上げて――。
いつしか走ることができなくなり、歩くこともままならなくなり、大切な人の名前すら忘れて、大事な思い出も消えていって……最後はまた、一人では何もできなくなる。生きているだけで、誰かに迷惑をかけ続ける。
それなのに。
生きたい、まだ生きたい。
生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい――!
彼と共にありたい。
こんな直前になってようやく生の有り難さを知る。無理だと分かっていてもあがきたくなるほどに、彼の側にいたい。
「私も……もっと……」
格好悪いね。
私たちの恋は、ずっとそうだった。終わりなんて綺麗じゃなくたっていいよね。
二人でもっと一緒にいたいと願いながらでいい。
「最後は笑顔でって……思ってたんだ……っ」
「……無理……しないで」
最初からレイモンドは嘘をついていたんだっけ。あっちの言葉を言ってからキスをして、定期的にしないと……なんて。
この世界の終わりは、彼のそのままの言葉がいい。
でも、一番最初の言葉は嘘ではないか。言ってたよね。懐かしいあの世界の、愛の言葉だって。
小さくその音を口から発すると、彼も返してくれる。
――好きだよ。愛している――
あの時とは全く違う声だ。
どうして歳をとると、声までこうなってしまうのかな。息をするのもやっとだ。どこもかしこも……。
若い時は、お婆さんという存在は最初からお婆さんのように思っていた。年輪を刻んで経験を積んで、その領域に達した別種の存在のように。
全然違っていた。
私は私のままだ。
あの頃のまま、駆け足でここまで辿り着いた。気付いていたら老いていただけだ。
振り返ってみれば、なんて人生とは短いものなんだろう。
眩い光が見える。
体が引っ張られて持ち上がりそうだ。
――最後に祈ろう、世界中へと。
「あなたのくれた……この世界の全てを……、愛している」
私から溢れ出す光につられたのか、ひらりふわりと光の精霊が姿を現した。
連れていってくれるの?
「すぐに俺もいく……っ。アリスに出会えて幸せだった。これからもずっと――」
私の魂はどこへ行くのかな。
彼を待っていよう。
これからがあるのか分からないけれど。
「待ってる」
最後の力を振り絞ってそう呟いた。
光の精霊さん。彼らの姿だけは今まで一度も見られなかった。最初で最後だ。
レイモンドには見えているのかな。
それとも、終わった人にだけ見えるのかな。
泣き崩れる彼は、もう遠い世界の人のようだ。上へ、上へ――光の中に吸い込まれていく。
幸福感が私を満たす。
満ち足りていく。
さぁ、彼を待とう。
ここではない、どこかで。
次のスタートは、同じ場所がいい。
――――――――
その日、彼女の放った光は世界中を覆った。
聖夜ではないのに届く光……人々はその光に胸騒ぎを覚えた。
異世界からの迷い子。
故ダニエル・ロマニカ国王陛下の遺言により彼女の死後に出版された絵本にはそう記載されている。
アリス・オルザベル。
享年九十二歳。
私たちはクリスマスの夜に彼女の光を見ることはなくなった。
それでも光はあり続ける。クリスマスの夜は毎年繰り返される。大切な人へ、隣人へ、そこに住まう人々へ、この世界の民は与えられる力の限り祈りを捧げる。
子供たちは翌日の朝、その枕元にプレゼントを見るだろう。赤い服を着た少年と少女が、眠っている間に世界中を駆け巡り、子供たちだけに光の祝福と共にプレゼントを配ってくれるからだ。
生前に出版された『聖アリスちゃんの奇跡』からそれは始まり、今では世界中で行われている。親から子への内緒の贈り物。大きな存在に守られている愛を、成長するまで感じとれるように。
この話は世界が終わるまで、永遠に語り継がれるだろう。
作中で、少年の名前は明らかになっていない。トナカイの角を生やした元気な男の子の絵が描かれているだけだ。
今を生きる私たちは、知っている。
彼が、長年連れ添った彼女の夫であるということを。
レイモンド・オルザベル。
享年九十二歳。
彼女の亡くなった同日夜、彼女の横たわる部屋で家族に見守られながら息を引き取った。突然心臓を押さえて倒れ込み、そのまま彼女の元へと追うように旅立ったという。
近年稀にみる長寿であったのは、世界中の人々の幸せを祈る彼らへの、神の加護によるものなのかもしれない。
クリスマスの夜。
毎年きっと、これからも永遠に彼らはソリに乗って空を飛び回り続けるのだろう。
――世界中の子供たちの心の中で。