186.前兆
どこからか声が……?
目覚めると、暖かな陽射しが窓から差し込んでいる。部屋には誰もいない。裏庭から子供の声が聞こえる。使用人の子供だろう。彼らが遊ぶ時に、その声が聞こえる部屋に移ったからだ。
私たちは高齢になりすぎて、長男夫婦も引退してこちらに移ってきた。たまに視察も行っているらしい。辺境伯を継いだ孫や、曾孫が来ることもある。
今は、いつなのだろう。
夜ではないことしか分からない。
朝なのか昼なのか……朝食や昼食を食べたのかどうかも朧げだ。食欲もなく、わずかな量しか食べられない。お腹が空いているかどうかで判断もできない。
震える手で、傍らに置いてある笛に手を伸ばす。持った瞬間に落としてしまった。もう握力も弱くなっている。スプーンを持つのすら、ままならない。
レイモンドには、目覚めたらすぐに呼んでとしつこく言われている。最近は起きている時間も短くなっているからだ。
そのまま目覚めないことを恐れて寝ている間も側に張り付いているような雰囲気だったので、健康に悪いし罪悪感を持ってしまうからやめるようにと何度もお願いした。
――すぐにあっちで会えるんだから、と。
指輪の光で呼ぼうかなと思いながらも、不思議に思う。こんなにいつも思考がクリアだったかなと。食事をとったかどうかは分からないのに、今なら普段よりも昔のことを思い出せる気がした。
ここに来る前のことも……。弟たちの名前も思い出せる。なんだっけとレイモンドに聞くこともよくあった。孫の名前もだ。聞いても、またすぐに忘れていた。
最近はもう、何もかもずっと朧げだった。
レイモンドのことが大好きなことは分かるのに……。
最初に連れて行ってもらった保育園の名前はなんだった? そこにいた先生や園児の名前は?
初めて外で一緒に食べた料理は何?
雨の中のデートで何を買ってもらった?
どんな会話をした?
クリスマスはどう過ごした?
学園で出会ったたくさんの友人たち……名前はなんだった?
思い出せないことにすら気付けない。それは幸せなことだったのかもしれない。
乾いた皮膚へとわずかな涙がこぼれる。
――ああ、私は忘れていたんだ。
全部全部、消えてしまう。
何もかも消えてしまう。
私はレイモンドに何をもらったの?
婚約の時……どんな会話をしたの?
寮では何があった?
どんな遊びを皆として、どんなふうに私たちは愛を深めたの?
結婚式は誰を呼んだ?
彼とどんな話をした?
園ではどう過ごした?
どんな子育てをして、どんな仕事を一緒にした?
私の可愛い子供たち、何人だった?
名前は……なんだった?
分からない分からない分からない。
誰か助けて――――。
思考がクリアになったと思ったのに、またすぐに消えていく。また霞がかかっていく。私が死んでレイモンドも死んでしまったら、私たちの思い出はもうどこにも……。
――あ、違う……。
魔女さんが知っている。全部知っている。聖歌……聖歌の名前もなぜか今、思い出せる。彼女には何通も手紙を書いた。
いつか、私を知る彼女が現れる。
そうか。
やっと分かった。
彼女が私たちのことを、よく知っていた理由が。
「ま……じょ……さん」
勢いのなくなってしまった声で彼女を呼ぶ。
「どうしたの? アリスちゃん」
ああ、なんて今まで通りなんだろう。
黒くて長い髪。
露出度の高い服。
豊満な胸。
何も変わらない。
笑顔すら変わらない。
気が遠くなるほどの人間の死を当たり前として受け入れている魔女さんの笑みは救いだ。同情も憐れみも何もない。ただ、当たり前の事象として私を見てくれる。
「私の日記……セイカに……」
「セイカちゃんに渡していいの?」
「うん……」
「分かったわ」
「……あ……待って……」
「やめるの?」
「第二……王子に先に……」
「第二王子ちゃんに先に渡すの?」
「ん……時期を……任せたい。手紙も……」
単語を発するだけで疲れて息が荒くなる。
私はレイモンドにたくさんのことを教えてもらって仲よくなれた。この世界について私の手紙や日記から学んでしまったら、第二王子と仲を深めにくいかもしれない。
それに、異世界から来た私がどんな悩みを持ってどう生きたか知ることは、聖歌を支えることにきっと役に立つ。
私の今までの全ては無駄にならない。
「分かったわ。第二王子ちゃんに渡して、時期を見て彼女に渡してもらうようにするわね。セイカちゃんに必要なくなったら、また私の部屋に戻しておくわ。部屋にある間は劣化しないから安心してちょうだい」
……まともな話し方だ。
もうきっと、あの話し方の魔女さんと会話はできない。
うん、と頷くと変わらない微笑みをくれる。
安心した。思い出せないことは多いけど、やっぱり思考はクリアになっている。これで、心残りはないかな……。
あれ?
どこか、視界が狭くなっていくような……。
「レイモンドちゃんを呼びましょうか?」
それは……どういう意味?
起きたからということ?
それとも――。
「指輪で……」
自分で呼びたい。
間に合うのかな。
それとも私の気のせい?
魔女さんが、私のお化けのように細くなってしまった手を握りしめて口元へと近づけてくれる。私の意図に気付いてくれたらしい。
指輪が発光する。
私は何もする必要ない。
だって、魔女さんがいてくれる。
――来て。
そう言おうと思ったけど、やめた。
間に合わないかもしれないから。
「愛している」
震える声でそう呟く。
どこで聞いているのかな。
足の筋肉が衰えないように、使用人さんに見守ってもらいながらよく散歩をしているからお庭かな。転倒しやすくなって、建物から外へは車椅子を使っている。
魔女さんが窓を大きく開けてくれた。
――ビュウゥン!
すごい勢いで車椅子ごと大好きな彼が入ってくる。浮かせてくれたのは使用人のようだ。
「魔女さん、いるならワープさせてよ」
ややしわがれてしまった声でレイモンドが文句を言う。本当に私のすぐあとに寿命が来るのかな……私よりはるかに元気だ。
立ち上がってゆっくりとベッドのすぐ隣の椅子に座るのを見届け、使用人が「セドリック様たちに念のため使いを出します」と言ってそのまま立ち去る。どこかに出かけているのかもしれない。
「起きたんだね。俺も愛しているよ」
皺だらけの目元にもっと皺を走らせながら、心配そうな目で見つめられる。
それはそうだ。
指輪での声の召喚……実はこれが初めてだ。覚えていないだけの可能性もあるけど。
「私はもう行くわね」
「魔女さん……なんで……」
私の命が消えるからだろうか。
そう思っている顔だ。
言ってもいいよと魔女さんに頷く。
「セイカちゃんに、日記も渡してと頼まれたのよ。第二王子ちゃんを介してだけれど」
「ああ……彼女が望んだら俺のもいいよって伝えておいて」
「分かったわ」
後世に何かを残したくなったのかな、レイモンドも。
私とレイモンドの日記。
要所要所、見せてもいいかと思う部分だけ照らし合わせたことがある。この時に何を書いたのって。聖歌だけが完全照合できるのか……私、何を書いたんだっけ。あんまり思い出せないな。もう文字も書けないし、頭に入ってこないので見直してもいない。
「それではね。私も楽しい時間を過ごせたわ、ありがとう」
魔女さんが消えた。
レイモンドが私を見つめる。
「今のは……どういう……」
ああ――、視界が狭い。
飾り棚に飾られた、寮の皆で色を付けた焼き物の人形も目に入らない。
レイモンドしか――見えなくなっていく。