163.ソフィの出産
四月半ばの土曜日の夜、あとは寝るばかりとなったその時間に魔女さんが部屋をノックした。
「アリスちゃん、今いいかしらぁ?」
急いで扉を開ける。
「エリリン、どうしたの?」
赤髪の魔女さんが、いつもより笑みを深くする。
「ソフィちゃんが産気づいているわぁ。立ち会ってもいいとハンスちゃんが伝えに来たのよぉ。レイモンドちゃんはすぐに彼を帰宅させて今着替えているけれど、アリスちゃんはどうするぅ?」
「行く! 私も着替える!」
「分かったわぁ〜」
赤ちゃんがとうとう産まれるの……!
急いでネグリジェから普段着に着替えて扉を開けるとレイモンドが立っていた。
「行こう」
「うん!」
返事をするなり抱きかかえられた。杖にスケボー乗りをすると、階段の上を浮いて降りる。
久しぶりだ……この乗り方……。
「じゃ、行くから! 番人さん!」
「行ってらっしゃ〜い」
さすがにこの距離はワープじゃないか……。魔女さんの乱用はよくないよね。もうしている気もするけど。
地面スレスレをスケボー乗りでびゅんびゅん進む。たぶん、走りながら私が転ばないかとか気を配るのが面倒なんだろう。
満月が王都の街を照らしている。吸い込まれそうに白い。降り注ぐその光の下で、風をきって静かに進む。交わす言葉もなぜか思い浮かばない。
隠れ家につくと、中からかすかに叫び声が聞こえる。心臓をバクバクさせながら地面へと降ろされ、レイモンドが鍵を開けてから呼び鈴を鳴らした。来たよというただの合図だ。
扉を開けた瞬間から、凄まじい叫び声が聞こえてきた。プツッと途絶えて……ソフィのお母さんがパタパタと来てくれた。
「クラーラ、ソフィは……!」
「大丈夫です。順調です。陣痛間隔も短くなってきました。ヘレンは優秀な助産師でもあるのでご安心ください。メイドの出産の際も多く立ち会っています。どうぞこちらへ」
本当に私たちが入ってもいいのかな……。
怖い。手が震える。
お母さんの出産には立ち会わなかった。夜中に産気づいて、寝ている大輝が起きた時のために私は家にいた。三人目だから早く産まれたらしく朝にお父さんは家に戻っていて私たちの朝食を準備してくれたし、学校から帰ったらおばあちゃんも来てくれていた。
痛みについては軽く教えてもらった。鼻からスイカどころじゃないって。局所的な痛みではなく、全身が激痛に支配されるって……。
レイモンドが手を繋いでくれるけど、震えは止まらない。
部屋に入った瞬間、ソフィが「来てくださってありがとうございます……すみません、また痛みがっ……」と言ったあとに――、耳をつんざくような叫び声をあげる。
「ソフィ……」
その姿を見るだけで涙がこぼれる。
「レイモンド様、アリス様、こちらへ……」
ハンスに促されて、ベッドの頭側へ進む。
ソフィの下半身にはシーツが被せられていて、ヘレンが下腹部を確認しながら「大丈夫、もうすぐですよ。まだ力まないでね。痛みをのがしてー」と落ち着かせているようだ。たくさんのタオルやシーツ、お湯が入っていそうなタライなどが置いてある。
ソフィ、ソフィ、ソフィ――っ。
絶え間なく続く叫び声。
間隔はほとんどなくなって――。
この世界にどれだけの人がいるんだろう。元の世界には、どれだけいたんだろう。皆、こんな痛い思いをして産んでもらった人たちなんだ――。
どれほどの時間が経ち、どれほどの叫び声を聞いただろう。
「もういいですよー、いきんでー!」
ヘレンの声に、陣痛の波に合わせて叫び声をあげながらも数回いきみ……「もういきまないでいいですよ」の声のあとにズルリと赤ちゃんが生まれ落ちた。すぐにヘレンが背中や足を刺激して、赤ちゃんが「ほわぁぁぁぁ!」と泣いた。
――産まれたんだ。
「元気な赤ちゃんですよ。女の子です」
ヘレンが赤ちゃんの体についた羊水を急いでタオルで拭いていく。へその緒も切られるとタオルに包まれた赤ちゃんがソフィのお腹の上に置かれた。白いクリームのようなものが赤ちゃんにこびりついている。髪も額に張り付いて……赤ちゃんは最初からふわふわしているわけじゃない、胎内に……お腹にいたんだとその姿からも強く心に刻まれる。
「赤ちゃん……よかった……」
ソフィも涙が止まらない。汗もだらだらで、ハンスがタオルで何度も拭いている。
「うん、可愛いね。ソフィ……頑張ったね……っ、私……っ」
「私の我儘で立ち会っていただき、ありがとうございました……」
「ありがとう、ソフィ……命の重みを少しは分かったと思う……」
ヘレンが「赤ちゃんを綺麗にしていきますね」ともう一度受け取り、ソフィのお母さんが手伝う。「胎盤も全て出しきりましょう」と強くソフィのお腹も押し始めた。
あー……これも痛そう……あ、出てきた胎盤を少し見てしまった。グロい……レバーの固まりのようだった……私もいつか出産するんだよね……怖い……。
「ハンス、俺たちはもう行くよ」
「来てくださり、ありがとうございました。最後に赤ちゃんを抱いていってください」
「いいのか」
「アリス様も、どうぞお抱きください」
ハンスの言葉を受けてソフィも頷いてそう言うと、私に微笑んでくれた。力が抜けて安らぎに満ちたその顔はまるで聖母だ。
まだクリームのようなものはついているけれど、綺麗にされてタオルにくるまれた赤ちゃんを「どうぞお抱きください」とそうっと手渡された。
どこを見ているのかも分からない目でゆったりと手足をもぞもぞ動かしている。小さいのに……それなのに思った以上の重みを感じた。
――どうかこの子に幸せな未来を。
祈りを捧げてレイモンドにそっと受け渡す。小さいのに大きくて、軽いけど……重かった。
「体についているものは、なんなのでしょう」
心配になって聞いてみる。
「胎脂ですよ。子によって量は違いますが、天然の保湿クリームのようなものです」
そんなものがっ!
人体の不思議だ……。
「ハンス、先に抱いてしまってすまない。俺たちはもう行く。ソフィ、ありがとう。感謝している」
「いえ、来てくださってありがとうございました。ハンス、二人を送って……」
「いいよ、二人で夜道を歩きたい。大丈夫だ、心配はいらない」
「ありがとうございます……」
ソフィのお母さんとヘレンにも手短に挨拶をして、二人で外に出た。
まだ外は暗い。
それなのに朝の匂いをやや感じる。もうすぐ夜が明けるんだろう。
全く寝ていない。
体は重く感じるのに眠気はない。
尊い奇跡を見た気分で、帰り道へと足を踏み出した。