104.いつか結婚する未来を
この世界の風が、私たちの髪を揺らす。
「レイモンドがくれた、私のもう一つの世界。神様の愛情が目に見える優しくて穏やかなこの世界。私はここが好き」
空も飛べるこの世界には、元の世界にいるだけでは見られるはずもなかった美しい景色が溢れている。
「知り合いもたくさんできた。ねぇ、今なら私、仕事にも就けるよね。魔法も使えるようになったし……レイモンドにふられて突然放り出されても、シルビア先生なら嘱託職員とかで入れてもくれるよね」
「……ふらないけどね」
「身元は不確かかもしれないけど、レイモンドが口さえ利いてくれれば他の場所でだって働けるよね」
「そうだね……」
何が言いたいんだって顔をされる。
「だからね……もう、いいんだよ。誰も知り合いがいなくて寂しかったこの世界で、レイモンドは私を支えてくれた。守ってくれた。孤独感を忘れさせてくれた」
「な、にを……」
「もう私の親代わりになろうとしなくていい。無理しなくていい。必要以上に守ろうとしなくていい。ただの十五歳の男の子として、私を見て」
「無理なんてしていないよ」
「しているでしょ」
本当はね、ずっと包まれていたいの。ここまで尽くしてもらえるほど愛されているって実感していたい。困ったことがあった時に、あんたのせいだって責めるだけでいいなら楽に決まっている。
でも……そんなの対等じゃないよね。
この世界に来たすぐに私は思った。
――対等な関係になるために、力をつけたいって。
「していないんだよ、アリス」
「どんどんと、こぼれ落ちていくんだ……」
自分の両手を見つめる。
「あっちの世界で友達だった子の名前を忘れていく」
「――――っ」
「そんなに話さなかった友達から順番に……もう先生の名前もほとんど思い出せない」
「そ……れは……」
「覚えたはずの知識も、読んでいた本の作者の名前も消えていく」
「ごめん……俺もそこまでは……」
「それが普通なんだよ。使わなければ忘れていく。使ってすらいないレイモンドが一部でも覚えているなんておかしいんだよ」
ずっと言おうと思っていたはずの言葉なのに。心の中に用意していたのに。
――どうして、涙がこぼれるんだろう。
それは小さな出来事だったかもしれない。
例えばクラスごとの合唱コンクール。
テノールは苦手だとボヤいていた男の子。もう顔もおぼろげだ。伴奏をしてくれた女の子とは親しくはなかったけれど、下駄箱で会った時に「すごいね」と少しだけ会話をした。「小さい頃から習っているから」と教えてくれた彼女の名前はなんだっただろう。
あっちにいたのなら月日と共に忘れるのは自然なことで、確認しようとも思わなかったはず。
ここでは……忘れたと気付いても確認ができない。できないからこそ寂しくなる。覚えておくためにと書いておいたクラスメイトの名前メモ。入れてある透明ファイルの場所も覚えているのにそこには届かない。
……確認できる相手もいない。
それに――、
「砂の山が崩れるように忘れていくんだ。それでもまだ覚えていることもたくさんあって……知らない言葉が出るたびにレイモンドはごめんって言うよね」
「――――!」
知らないと謝ってしまうレイモンドには……聞きにくい。
「知らないでいいの。忘れたでもいいの。ねぇ……無理をしているよね?」
「そ……れは……」
やっぱりそうだよね。
頭がよくたって覚え続けているなんて無理に決まっている。
「覚える時に、ただ聞くだけだった? 紙に書いたりもするよね? 私に聞かれた時のために、今も振り返ったりしていない?」
「…………」
「罪悪感なんて持たなくていい。私はここに来て幸せだよ。できること全部してあげなきゃなんて考えなくていいの。まだ頼らないといけないことは出てくると思うけど……こうしてしまったなんて責任は感じなくていい。もう十分してもらった」
レイモンドまで、また涙を流す。
「できることは全部しないと……駄目なんだよ……」
「なんで?」
「だって、肝心な時に助けられていない。俺、本当は不器用なんだ……上手く言葉が出てこなくてアリスが困っていたこと、たくさんあったよね」
「えっと……」
「フランに惹かれていないかって聞かれていた時とか、帰ったあとも……保育園でだって、婚約者扱いされるのは嫌だろうなと思ったけど他に言い方も分かんなくて……」
「それこそ、私が対処すべきところなの!」
「できることは全部しないと……、好きままでいてもらえないよ……」
変わらないなぁ。
体つきも逞しくなって、大人っぽくなっているのに。
「家族の名前、漢字を簡単に教えてもらったけど知るのも大変だよね。会話だけでは漢字なんて分からない。知っておくべきだと考えて学校に提出する連絡先なんかの書類でも見た? 保険証でも見た?」
「…………」
「たくさん覚えて今も記憶し続けていること、一番私が分かっている。もういいの。必要のない努力なんていらないの。そんなのしなくたって、そのままのレイモンドが好き。私が困っている時に、レイモンドが責任を感じる必要もない」
「俺は……君から全てを奪ったんだよ……」
「放っておいても、なくなっていたんでしょ」
「それでも……」
「新しい人生をくれたんだよ」
深く考えないようにしようと思っていた……私が失ったものについて。
でも、レイモンドだって知っている。
忘れっぽい弟へ怒るお母さんの大きな声。テスト期間の夜中に水を飲む私に、早く寝ろよなんてわざわざ物音を聞いて言いに来るお父さん。当たり前の日常、当たり前の空気、当たり前にあった、たくさんの……。
レイモンドは覗き見をしながらも、その埋め合わせをどうしたらいいのか考え続けていたのかもしれない。
――ここから始める、私たちの新しい関係。
「私のことをたくさん考えてくれてありがとう。ずっと好きでいてくれてありがとう。あなたの努力があったから、守り続けてくれたから――、私はレイモンドのことが大好きになりました」
彼の左手の薬指をなでる。
「私の望みを全部叶えようなんてしないで。嫌なことは断って。怒りたい時には怒って。しなくてもいい努力なんてしないで。私以外の女の子のことも可愛いなと思ったっていいんだよ。そっちのが正常な男の子でしょ? 疲れた時は夜だって来なくてもいい。視察への同行だってあったでしょ。毎日欠かさずなんて無理しているに決まってる」
「そんなこと言わないでよ……執着されると嬉しいって言ってたじゃん……」
「うん。執着してほしくて……、同じくらいにしてほしくない。もう何もできない女の子じゃないよ。対等な立場で一緒に未来を見よう」
誓いのキスを一つ。
「いつか結婚する未来を――」
落とされて溺れる愛なんかより、一緒に同じ場所を目指して羽ばたいて、どこまでも遠くへと進んでいける愛の方がいい。
「ありがとう、アリス。そうだね……もう君の世界の言葉を振り返るのはやめようかな。一緒に前だけを見ることにするよ。……将軍の名前だけは覚えておくけどね」
泣き笑いをしながら抱き合う私たちを、どこからかお日様の匂いが包みこむ。
「……風の精霊の祝福かもね。悪戯っ子だからさ」
レイモンドも気付いたのか、笑い混じりにそう言った。
すぐ横には、フェアリーワルツの花が鉢に植えられている。そんなには匂わないその花の香りを、精霊さんが運んでくれたのかもしれない。
ここに来た翌日だったかな、風の精霊さんを見ることができたのは。あれから約一年半……。
「いいこと教えてあげる、レイモンド!」
「何?」
「私がレイモンドを好きになったのはね――、二日目! 三日目からはもう結婚したいくらいに大好き!」
「え、ええ!? そんなに早く!? 二日目……何があったっけ……ええっと……」
悩み始めたレイモンドにクスッと笑いながら、体を預ける。
「……俺をからかって遊んでいるよね、アリス」
「どうかなぁ〜」
遠くに見える海も空も、さっきと変わらず目が覚めるような鮮やかな青だ。