0,交渉
「もしかして僕みたいな人、以前にも来ました?」
「来てないわ。想定していただけよ。全く知らない人が来るとは思わなかったけど」
なるほど。まぁそれはそうか。
彼女は国からの援助を受けた大事な研究をほっぽり出して、ここに居座り続けているのだ。彼女がいなければ研究は進まない。誰かが連れ戻しに来るのは当然想定できる。
「こちらの目的が分かっているのなら話は早い。サクッと戻りませんか?そうすれば僕は早く仕事が終わってハッピー。お国も研究が再会できてハッピー。あなたも、いつまでもこのままでいられるとは思っていないでしょう?」
そうなのだ。いつまでもこのままではいられない。今はまだ強硬手段を取られていないだけで、そう遠くない未来に誘拐まがいなことをされるかもしれない。いかつい黒服たちが彼女を簀巻にして担ぐ姿が想像できる。
「私の事情はお構いなしなのね。そういうのモテないわよ。答えは当然NO。戻る気はないわ。あんな研究クソ食らえよ」
反吐が出るわ、と彼女はそっぽを向いた。ここが建物の中でなければ唾をはいていたに違いない。よっぽど嫌なようだ。とはいえ。
「正直、僕はあなたに興味がありません。早く仕事を終わらせたいだけです。どんな研究をしているのかも知りませんし、興味もない。ただ、その研究内容があなたをこうさせてしまったのだけは分かりました」
「理解していただけたなら重畳。もう用はないわね」
まだだ。こんな大きな仕事そう簡単に諦めるものか。成功すれば、一介の大学生にしては大きい金が手に入る。
「いえまだです。僕の契約期間は1か月。それまでにあなたを研究に復帰させれば僕の勝ち。毎日来ますからね。覚悟しておいてください。僕はしつこいですよ」
「”僕の勝ち”って勝負事かなにかと勘違いしているんじゃない?」
「いえ、これは僕とあなたの勝負です。いくらあなたが強くても、1カ月毎日勝負していたら、1回ぐらい勝てそうじゃないですか。1回でも勝てたら僕の勝ち、すべて乗り切ったらあなたの勝ち。そういう勝負です。」
「そんなものに付き合う義理がどこにあるというの?私には何のメリットもないわ」
「それは用意しましょう。それも特別いい奴を。1カ月乗り切ったら、もう金輪際干渉しないというのはどうです?」
「そんなもの、あなたの契約期間が終了しただけじゃない。あなたがダメでもまた別な人が来るだけよ」
「それもない。上と約束を取り付けましょう。僕との勝負に勝てば、あなたはもう研究に参加しなくていい」
当然嘘だ。そんなことできるわけない。なんとか主導権を握るんだ。突破口を探せ。
「そんなこと、あなたなんかができるわけないじゃない。あなた何者よ……」
彼女のとげとげしい雰囲気が少しだけ和らいだ、気がする。この方向性はありだ。
「まかせてください。もしうまく話が進まなくても、誰にも知られず身を隠せるもっといい場所を確保します。もう僕みたいな人が来ないように」
「本当にそんなことできるの……?」
彼女の声はどんどん弱々しくなっていく。単に疑っているだけでなく、そうであったらどれだけ良いかと願う切実な印象を受ける。こんな言葉で揺らいでしまうほど、追い詰められているのだ。僕にではなく、彼女を取り巻く環境に。今なら振り込め詐欺にでも引っかかるんじゃないだろうか。お金払ったら高跳びさせてあげますよーみたいな。なんかそう考えるとすごく悪いことをしている気分になってきた。それでもやめない。金のために!
「1カ月です。1カ月乗り切れば、あなたは自由の身になれる」
「…………分かったわ。受けて立ちましょう。私が負けるとは思えないわ。ただNOと言い続けるだけで勝てるのだし」
よし、第一関門突破かな。
「きっとYESと言わせてみせますよ」
了解は取り付けた。少しだけ前進。後はどうやってYESと言わせるか、だな。
「あなた、ここまでするのは何のため?仕事って言ってたけど、いくらもらえるの?」
僕は迷うことなく右手の人差し指を出した。No.1ポーズだ。
「1万円?1カ月の仕事にしては少ないわね」
「成功報酬でその1000倍」
彼女は大げさに目を見開いた。と同時に張りつめていた雰囲気が緩んだ。ため息をはぁとついて
「誰もかれもバカばっかりよ」
そう小さな声でつぶやいた。
僕は、小さくそうだねと返しておいた。