第一章・その5
「それにしても」
俺は言葉をつづけた。軽く口を押さえる。沙織に見えないように歯を舐めてみた。牙がない。誰かが削りやがったな。いや、これは魔術封印か。どこの誰がやりやがった? いや、思いだせない。
それにしても、まさか、人間らしく生きようと常々思っていたこの俺が、人間たちと水面下で敵対している吸血鬼軍団の側だったとは。
「どうも、すべてを思いだせたってわけじゃないみたいだな。わからないことがある。質問していいか?」
俺は沙織に訊いてみた。沙織が嬉しそうにうなずく。
「どのようなことでもお答えします」
「なんで俺は昼間も平気なんだ?」
「六大鬼族の家柄だからです。そもそも、わたくしたちが昼に弱いというのは、人間たちが映画でつくった幻想ですので」
「へえ」
「調べていただければわかりますが、日本にもルーマニアにも、吸血鬼が昼に弱いなどと言う伝承は存在しておりません。まあ、ほとんどのものは、夜に行動するのが基本ですが」
「なるほど。つまり、偏見だったわけか。わかった。それはいい。それで、なんで、俺はいままで、血を吸わないで平気だったんだ?」
「それは、おそらく、生き血を吸う代わりに、血なまぐさいものを口にしていらっしゃったのではないかと。もしくは、ただの生肉でも、完全な血抜きはできませんので、そこに残された、わずかな血を栄養分にされていたのではないかと思います。わたくしも、その気になれば、そういうことができますし」
「そうだったのか」
「もちろん、イライラして、怒りっぽくなったり、暴力的になったりはしますが」
沙織の表情は笑顔だった。口は閉じてるが。なるほどな。俺が、何かというと暴力的だったのも納得が行く、もっと言うと、俺が人間らしくあろうと行動している理由もだった。
「俺は、誰かの手で、人間として生きるように記憶を書き換えられていたわけか」
そういう教えが心の根底にあるから、本物の人間がとらない、理想的な人間としての教えに殉じてきた。なるほど、筋は通る。
ただ。
「つづいての質問だ。いいか?」
俺は大真面目な顔で沙織を見つめた。沙織が、少し顔を赤らめながらうなずく。
「恥ずかしい質問でないなら、この場でなんでも答えます。恥ずかしい質問でしたら、あの、ふたりきりのときに」
「べつに変な質問じゃない。これは、あとあと、面倒なことにならないように確認しておくことだ。――いいか、俺は、何者かに記憶を書き換えられて、人間として生活してきた。そういうことで間違いないんだな? その、何者かの手による罠と言うことはないだろうな?」
俺の確認に、沙織が拍子抜けした顔をした。
「それは絶対にありません。あのころの殿下と同じ顔のお方が、この場にいらっしゃるのです。あなた様が殿下ではないと言うのなら、一体なんだとおっしゃるのでしょうか?」
「クローン技術」
沙織の表情が変わった。
「それに、人間の側のエレメンタル持ちや、いまでも黒魔術を使役している連中はいる。大吸血鬼の息子のクローンをつくりだし、疑似記憶を植え付ければ、俺レベルの人間をつくることくらいは可能だろう。そうじゃないと言い切れるか?」
これは俺も不安だった。さんざん偉そうにして、実はオリジナルがほかにいて、俺は偽物でした。――こういう、恥をかくような展開にだけはなってほしくない。
「おそらく、それは不可能だと思います」
少し考え、沙織が返事をした。
「なんでだ?」
「過去、わたくしたち吸血鬼と、人間と、魔族が休戦協定を結んだとき、人間側の要求で、人間あがりを検体として差しだしたことがあったのです」
沙織の説明に俺は驚いた。確かに現在、表むきは休戦ってことになっているが、そんなことやっていたとは。まあ、いまも水面下でいろいろ喧嘩してるってのは、誰でも知っている話だったが。
「おそらくバイオテクノロジーで、わたくしたちと同じ力を持った、人間の兵士をつくろうとしたのでしょう。エレメンタルに目覚めた人間たちや、黒魔術を行使する魔道士だけでは数に限りもありますし」
「なるほどな。それで?」
「そんな兵士は、現在まで、ひとりも現れていません。実験は失敗したのでしょう」
「そうだったのか」
「これはわたくしの想像ですが、わたくしたちの身体に宿る呪詛の力は、遺伝子によるものではないのでしょう。だから、クローンをつくっても、同じ力を持つことはかないません。ただの人間になるはずです」
沙織の説明に俺はうなずいた。冷静に考えたら、吸血鬼の存在を遺伝子で説明できないんだから、クローンも無理だろう。というか、遺伝子の問題だったら遺伝子治療で吸血鬼を人間に戻すことも可能なはずだ。そんな話は聞いたことがない。
「これは、俺が六大鬼族の血族だってことで納得するしかないようだな」
「はい。まさにその通りでございます」
俺は腕を組んだ。どこの誰がそんなことをした? 風間家に反感を持っていた、べつの吸血鬼か? それとも人間の魔導士たち? もしくは魔族か? 俺が吸血鬼だったころ、魔界からやってきた魔族を駆逐するため、俺たちは血みどろの殺し合いを演じてきた。奴らからすれば、六大鬼族の跡継ぎを捕獲すれば、いい報復になるはずである。
「殿下、これからは、ずっと一緒なのですね」
考える俺を、沙織がうるんだ目で見つめてきた。これはこれでわかる気もするが、しかし困ったな。――俺は感覚をとがらせてみた。このファミレス内に、俺を敵視しているものはいない。俺たちの会話を盗み聞きしているものもだ。こんなこともできるとはな。さすがは吸血鬼だ。
「ちょっと宣言するが、俺は、これからも、しばらく人間として生活する」
俺は小声で沙織に宣言した。沙織が、少し驚き、つづいて悲しげな顔をする。
「なぜでしょうか?」
「俺は人間だからだ。――いや、違うな。俺は、人間だっていう暗示が、まだ解けてないみたいなんだ。だから人間として生活したい」
「そんな」
「安心しろ。いまは、少なくとも表むきは休戦協定が結んであるからな。俺が吸血鬼と敵対することはない。そのへんは大丈夫だ」
「はあ」
「それから、ちょっと質問だ。沙織は人を襲うか?」
「いえ、そのようなことは」
あわてた顔で沙織が手を左右に振った。
「かつては、そういうこともやりましたが、休戦協定以降は、人間側が赤十字から血液を配給してくれますので」
「そうか。それは安心した」
とりあえず、人間と吸血鬼の間で、面倒なことは起こらないと考えていいわけだ。