第一章・その3
「一難去ってまた一難か」
俺たちは、魔族と吸血鬼が殺し合っている忘却の時刻に、うっかり侵入してしまったらしい。常識で考えて、俺は口封じでアウトだな。女のくせにタキシードを着た美少女吸血鬼が立ちあがる。
「お願いがある。こっちの――冴子って言うんだけど、この娘は気絶してる。おまえのことは知らない。見逃してやってくれ。というか、催眠術か何かで、俺の記憶も封印して、そのまま帰ってくれないか?」
牙を剥いて俺を凝視する吸血鬼にむかって、よくここまで言えたものだ。さ、これで俺は死ぬだけだな。いや、やはり最後まで抵抗するべきか。
「それでも俺を口封じに殺すって言うなら、俺もできる限りの抵抗はするつもりだから、そのつもりで」
「殿下?」
俺の言葉を遮り、吸血鬼美少女がつぶやいた。何か変なものを見たような表情をしている。呆然とする、という形容が近いだろうか。紅蓮に輝く瞳で俺を見つめ、そのまますたすたと歩いてきた。
「まさか、こんなところで。滅ぼされてはいなかったのですか?」
意味不明なことを言いながら近づいてくる。さて、俺はどうするか。――吸血鬼と言えど、相手は女だ。相手が敵意を示さない以上、こっちから殴りかかるのは人間のやることじゃない。持っているボールペンで心臓を突きさすのもなしだ。
「とまれ。俺に話があるのか?」
いざとなったら、左手のカバンを顔面に叩きつけて逃げるって作戦か。ま、そんなことしても追いつかれて殺られるのはわかりきってるんだが。それでも無抵抗で殺されるのは俺のプライドが許さなかった。
俺の考えに反し、吸血鬼美少女はぴたりと足をとめた。意外な展開だった。
「お話は、あります。もちろんでございます」
吸血鬼美少女の言葉は、相変わらずの敬語だった。なんで俺みたいな人間に? 話がまるで読めない。
「話があるのはわかった。ただ、その前に、少し自己紹介をしておこうか。俺は光沢鉄郎ってもんだ」
もう仕方がないから自分の名前を言ったら、吸血鬼美少女が悲しげな顔をした。
「そのような、誰かもわからぬ人間の名を口にするなどと。あのとき、何があったのです?」
「そんな質問されても、何がなんだからわからないからこたえられねえ。おまえ、何者だ? どこの吸血鬼だ?」
俺が訊いたら、吸血鬼美少女が悲しげな顔のまま、俺を少し見つめた。
「わたくしは桜塚のものです」
日本に存在する吸血鬼一族で、六大鬼族のひとつの名だったはずだ。
「そんで、その桜塚の女戦士が」
「わたくしは戦士などではありません」
吸血鬼美少女が困ったように返事をした。尖りすぎる犬歯は相変わらずである。
「戦士じゃないなら、人間上がりの召使か?」
「――まさか、殿下が、そのような暴言を、このわたくしに」
俺の言葉に、吸血鬼美少女が、またもや悲しそうな顔をした。どういうことなのか、さっぱりわからない。
「ま、いいや。自己紹介を頼む」
「わたくしは、桜塚沙織と言います。桜塚家当主の娘です」
平然と名乗る。――ということは、六大鬼族の姫様ということになるはずだ。人間で言うなら王族とか皇族である。
「嘘つけ。そんなてっぺんの吸血鬼が、こんなところを歩いてるもんか」
反発しながら、これはどういう状況なんだろうと俺は頭の片隅で思った。ここは日本の東京で、夕焼けの過ぎた夜の公園だ。そして、忘却の時刻の霧のなか、俺は吸血鬼と話している。隣には気絶した冴子。さっきまでは魔族もいた。それで、のんびりと自己紹介。神様もおもしろいいたずらをなさるものである。
吸血鬼美少女が柳眉をひそめた。
「わたくしは、魔族討伐を、自ら願いでたのです」
「は? お姫様が、なんでだ?」
「殿下を滅ぼされたと思ったからです。まさか、生きていらっしゃったとは」
また、わからない言葉がでた。
「さっきから言ってる、殿下ってなんのことだ?」
「あなた様のことでございます。殿下」
吸血鬼美少女――桜塚沙織と言ったっけか――が、うやうやしくお辞儀をした。つづいて見せた顔は満面の笑みだった。
「お久しぶりでございます。あなたは、我ら六大鬼族のひとつである、風間家の跡継ぎで、風間家当主のお力をも超えたと言われた、偉大な――いえ、このような言葉など、どれだけ重ねてもあなた様のお力を語るには足らないことでしょう」
沙織が歌うように賛美の言葉を並べた。なんか、イヤーな予感がする。
「殿下のことですから、たとえ滅ぼされても、いずれは復活するものと待っておりましたが、まさか、こんなに早くとは」
「ストップ」
想像以上にイヤーな展開だった。どうしたらいいのか見当がつかない。
「あのな。人違いなんじゃないか? さっきも言っただろう。俺の名前は光沢鉄郎だ」
「そんなはずはありません。殿下の、本当のお名前は」
「言わなくていい。聞きたくない」
「わかりました。では、殿下と言うことで。――ですが、殿下は殿下でございます。かつて、わたくしに笑みをむけてくださった、あのお顔と寸分たがわぬ――表情こそ違いますが」
沙織が、少し悲しげに声を落とした。そういえば、俺は眉をひそめて、沙織をにらみつけっぱなしだったな。――少し考え、俺は沙織の言葉が嘘ではないと判断した。こんな嘘で俺を騙して背後から襲いかかる、なんてやらなくても、殺そうと思えば、こいつは簡単に俺を殺せるはずだ。
「とりあえず、殺し合いをする気はないと思っていいんだな?」
「もちろんでございます」
沙織の返事を聞き、俺は構えていたボールペンを降ろした。さっきから、ずっと構えっぱなしだったのだ。それでも沙織は俺に近づいてきた。心臓を刺されたら、吸血鬼でもアウトだと言うのに。これは真実だと考えて問題なさそうだった。
「えーとだな。誤解を解いたらいいのか悪いのか、さっぱりわからないけど、とりあえず、本格的に、平和的に話し合おうか」
ボールペンを胸ポケットにしまう俺を見て、沙織が嬉しそうにした。
「もちろんでございます」
「じゃ、あの、とりあえずのお願いなんだけど、俺たちを忘却の時刻からだしてくれないか? 俺たち、脱出する方法を知らないんだ。あと、こっちで気絶してる冴子を家まで送る。難しい話はそれからだ」