55 没頭
「ん、そんな具合だと余計に長い付き合いになってしまう。もう少し急いでくれ」
頭上から嫌味が降ってくるが、礼一はそれに答える余裕がない。何だってこんな道を通るんだと頭の中でおっさんをシバき倒す。
「二人ともしっかりしてくれ。先は長いし、まだ半分も進んでいない。ん、想定外に長い旅になりそうな予感が・・・」
まだ煽ってきやがる。つくづく性格の悪いおっさんである。
現在、礼一達一行は天まで届くかと思える絶壁に張り付いている。何故こうなったのかと言われてもわからない。何せ道を決めたのは、今二人の頭上でケラケラ笑っているおっさんなのだから。これなら行きに通ってきた洞窟の方がまだマシである。
「ん、一雨来そうだな。二人とも気を付けてくれ」
このルートの嫌なところはこれである。ただでさえ、僅かな取っ掛かりを頼りにえっちらおっちらやっているところに、時折滝のような雨が降る。魔力で握力を強化することはできても、摩擦まで思いのままにはならない。少しでもツルっと行けば、真っ逆さま。こういう時は、物言わぬ彫像のようにじっと動かずに堪えるしかない。苦痛オブ苦痛である。
そして、少し時間が経てば雨は止み、無限にも感じるクライミングが再開される。もう幾日もこの状態でろくに寝れてもいない。段々とその日一日が色褪せて、最近じゃ毎日がセピア色である。
ただ、駅には終点があり、太陽もいつかは沈む。こんな回想をした幾日か後に、3人は遂に崖を足の下に踏みしめるに至った。
「ざまあみろ、こん畜生」
誰に対してざまあみろなのかはわからないが、礼一はそう吐き出すとビタンッと地面にしがみ付いた。ただもう平らな地面が愛おしくて仕方がなかったのだ。
「それで、ここからどうする、んですか?」
これまたヒキガエルみたく地面にへばりついた洋がシロッコに問う。これ以上キツイのはご容赦願いたいという思いの現われか、語尾が若干丁寧である。
「こちら側ではない。あちら側だ。ん、見てくるといい」
おっさんに指示され、礼一と洋の二人は登ってきた方向の反対側に向かって四つ足でにじり寄る。
「おー、これは、」
崖の向こうには更に大小の崖が隆起し、峡谷に溢れんばかりに湛えられた水は河となって彼方へと続く。眼下の景色の前では雄大だとか壮大だとかいう言葉が陳腐に感じられ、まとまりを失った声と思考が中空へと消えた。
「声が出ないだろう。この絶景を前にすれば誰しもそうなる。ん、だが今は大声を上げなくてくれ。なるべく遠くまで、崖の下にまで届くように」
「いや、何でですか?そんなことしたってこんなところに住んでいる人なんている訳はないんですから、仕様がないじゃないですか。もうしっかり疲れてしまったのでこれ以上体力を使うようなことをしたくないんですよ」
容赦なくムードをぶち壊してくれたおっさに礼一は機嫌の悪さを隠すことなく反駁する。束の間の感動を吹き飛ばれて感じるのは眠気と疲労感だけだった。
「ここからまたぞろ自力で下へ降りるのは嫌だろう。ん、だったら叫んでくれ」
そういうとおっさんは率先して奇声を上げ始めた。前々から素質はあると思っていたが遂に立派な変質者になりやがった。礼一は干上がって涙もでない目を閉じ、そっとおっさんに背を向けた。
肝心のおっさんはと言えば、しぶとく叫んでいたものの、段々に疲れが押し寄せたらしくゼーゼーと肩を波立たせながら地面にへたり込んだ。
「まったく最近の若者は根性がない。ん、これだけ叫んだのなら大丈夫だろう。後は待つだけだ」
そう言うと、やっぱり彼も疲れていたようでガーガーとみっともなく鼾を立てて眠ってしまった。礼一と洋も、あのシロッコが無防備に寝るぐらいであれば当分何もないだろうと安心し、どっぷりと眠ってしまった。これまでの色々を考えあわせれば何もない訳がないことぐらいわかりそうなものであるが、彼らの辞書に反省の二文字はなかった。




