18 疑心
ようやく気分が落ち着き、べたりと服にまで染みた汗を流そうと礼一は浴室へと向かう。
実のところ、この船の中はトイレも浴室もあることにはあり、汗と糞尿垂れ流しの世紀末な光景はまず拝まなくとも良いようになっている。
パントレ達が毎日甲板で水浴びをし、海に向かって豪快に立ち小便をするせいで、一見、原始的な生活が繰り広げられているかのように感じられるが、決してそんなことはない。同じ船の中に住んではいても、片や類人猿、片や近代人とそれぞれに流れている時代が異なっているのである。
ただいかんせんどうやっても近代人止まりで現代人とまではいかず、浴室の設備等々も元の世界と比べると雲泥の差がある。したがって浴室で水浴びをすると言っても文字通りの水浴びで、普段ぬくぬくとシャワーの温水を浴びてきた礼一からすると最初に触れる水の冷たさというものには何回浴びても慣れない。
それでも何とか汗を流し終わり、船長から支給してもらっていた服に着替える。服といっても作りは非常に簡素なもので、何の染色もされていない粗い生地を申し訳程度に服の形に仕立てただけのものである。礼一の身体のサイズに合わせて作られたものでもないのでブッカブカで、ズボンの裾に至っては常時引き摺るに任せている。そこに式服のちゃんとしたベルトと革靴を着用するのだから何ともちぐはぐな見た目である。
兎にも角にも服を身に着け、身体を洗う際に一緒に洗ったシャツやズボンを持って浴室を出る。そうしてそのまま自分の部屋へと向かい、しっかりと水気を絞ったそれらの服を扉の上に掛けてしまう。こうしておけば大体半日もすれば服は乾く。
一連の作業を済ませた後ふとお腹が空いていることに気付く。人間というのはつくづく業の深い生き物である。足るを知るなんてことを考える間もなく、次々に現状に対する不満が湧いて出てくる。
何はともあれ礼一は腹が減ったので食堂へと向かったのだが、扉を開けてもがらんとしていて誰もいない。どうやら今はまだ朝で皆起きて来ていないようである。
「あ、礼一、おはよー」
ピオだけは早起きしていたようで厨房で何やら作業をしている。
「おはよう。まだみんな起きてないんだね。ちょっとお腹空いちゃって来ちゃったや」
「これー、あげるー」
ピオに厨房の中で蒸かした芋のようなものを皿に盛って渡してくれる。礼一はピオに礼を言って食卓に着き食事に取り掛かる。
芋を割ると断面から湯気が立ち上る。旨そうだ。ただ一点割ってから気付いたのだがこの芋の身は真っ赤だ。真っ赤と聞くと凡そ紫芋の色が少し赤側に傾いた程度に思われるかもしれないが、そんなもんじゃなく完熟トマトの如き赤色をしている。身体に悪そうな色という訳ではないので無問題であろうが、何と言うか芋というと薩摩芋のあの見るからに甘そうな黄色い断面図を期待していたばかりに、水を差された気分である。
ただ味に関する心配は、恐る恐る口にした一口目で杞憂であることが証明される。中はほくほくで、皮の近くは程よくネトッとしていて甘い。
口中の芋を咀嚼しながら、そう言えば薩摩芋なんて秋に一、二度食べるっきりで、滅多に食べていなかったな、等とぼけーと考えていると、不意に横から芋をかっさらわれる。
こんなことをする犯人は大体わかると見当を付けながらそちらを向くと、件の先輩が何も悪いことはしてないかのように、他人様の手から奪った芋にかぶりついている。
「うめぇうめぇ」
一体全体どういう神経をしているのだろうか。
「あーおはようございます」
渦巻く不平不満を抑え込んで、表面上は良き後輩を演じようと礼一は挨拶をする。
「おう、昨日は大変だったみてぇだな。まぁ顔を見る限り大丈夫そうだが」
パントレは気遣わし気にこちらをチラと見てからそう言う。
「ホアン船長のあのやり方は知られてない訳じゃあないんだが、あんまりお勧めされる方法でもねぇ。ごくたまに身体強化ができねぇ子供ってのがいてな。そういった奴にはああいうことをするってのは聞いたことがあらぁ。ただ下手にああいうことをすると、最悪の場合廃人になっちまうことがあってな。フダの国では禁止されるとまではいかないが、敬遠される行いではあるな」
パントレの話を聞いて、礼一の顔は強張り、同時に心の中で芽生えていたホアン船長に対する不信感が大きくなる。
「おい、誤解しちゃあいけねぇぞ。船長はあくまでお前達の為にやったんだからな。周りが全員身体強化を使える中で、一人だけ使えない状態でほっつき回るなんて、殺してくださいって言ってるようなもんだぜ。特にこれから向かう教国じゃ、おいら達は人間扱いされないんだぞ。いつ殺害されそうになっても文句は言えねぇ。殺し合いを推奨する訳じゃねぇが、身を守る術は何が何でも身につけなきゃいけねぇんだよ」
確かにそうなのかもしれない。しかしだからといって身を守ろうとして廃人なってしまえば元も子もない。果たしてそんな危険を犯す必要があったのだろうか。
「ま、船長にも何か考えがあったんだろ。手前ぇで勝手に考えても仕方ねぇ。モヤモヤするなら直接聞きゃあ良いじゃねぇか」
簡単に言ってくれるな。そう簡単に聞ければ苦労しないと礼一は溜息をつく。
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