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犯人は貴方だ

作者: 初心者

頭にふと思い浮かんだネタを、まったく吟味することなく、数時間でメモ代わりに書いたような作品です。ミステリーと思って読むと絶対に後悔しますので、バカミス(それにすらなっていないじゃないか)というのでも大丈夫な方で良ければどうぞ。

 電話の呼び出し音と忙しなく動き回っている足音、そして社員の話し声が絶えず聞こえている、とある七階建てのビルの一室。その部屋の中の、片仮名の『コ』のような形に乳白色の壁で簡単に囲まれた一角で、(さくら)(づか)君は黙って原稿を読み進めていた。空調は十分に利いているのだが、どうやら彼にとってはまだ少し熱いようで、時折ハンカチで額に浮かんだ汗を拭きとっていた。そうして三分の一ほど目を通してから、彼がやっと口を開いた。

「要先生、これはダメですね」

 大陸社の編集者である桜塚君は、苦笑いを浮かべながら、手に持っていた原稿用紙を僕へと返却した。どうやら僕が書いてきた内容がお気に召さないらしい。

「どうしてダメなんだい? 僕は素晴らしい作品が書けたと自負しているのだけれどね」

「いや、これは要先生の作風とは違うと思うんです」

 銀縁眼鏡の位置を人差し指で直しながら、桜塚君が言った。

 僕――伊吹(いぶき)(かなめ)は、僭越ながら作家業というもので生計を立てている。所謂小説家というやつだ。これまでに長編では拙著を二十遍ほど書かせてもらったが、そのどれもが似たり寄ったりな作品ばかりであった。少し新たな試みをしたくなった僕は、その長編作品の半分以上を出版させてもらっているこの大陸社の社員であり、且つ僕の担当をしていてこちらの性格を熟知している桜塚君ならば、その心意気を理解してくれると思い、この度直々に持ち込みをしてみたというわけだ。だが、桜塚君は僕の思惑には乗ってくれないようだ。

 渋い顔をして、桜塚君は溜め息を吐いている。だが僕は、ここでおいそれと引き下がる様なやわな男ではない。

「なるほど。確かに桜塚君の言う通り、今までの僕の作風とはかなり異なる。しかし、しかしだね桜塚くん。ずっと同じような作風ばかりでは、読者や、僕自身の愛好者にもいずれは飽きられてしまうと僕は思う。故に、故にだ。作家十二年目というこの節目に、自らに新たな挑戦を課したのだよ。それにだね、桜塚君。もしこの挑戦が成功をすれば、作家としての僕自身の成長にも繋がり、新たな道が開けるとは思わないかい?」

 手振りまで加えて熱心に桜塚君を説得してみたが、残念ながら、僕の熱意が彼に伝わる事は無かった。

 困ったように、人刺し指で右の頬を掻きながら、桜塚君が反論をした。

「先生、十二年目はまったく節目では無いと思います。それに、せっかくの新作を僕の所に持ってきてくれたのは大変にありがたいんですけど、先生は以前の作風でまだ十二分にやっていけます。前作だって実写化の話が出るくらいとても評判が良くて、実際にかなりの重版がかかっているんですから、無理な方向転換はしなくていいと思いますよ。だから安心して、以前の作風を貫いて下さい。そして、それが完成した暁には、ぜひともわが大陸社からの出版をお願い致します。それでは、僕は資料室に用事があるので、この辺りで失礼します」

 そう告げてこの場から立ち去ろうとした桜塚君を引き止める。

「ちょっと待ちたまえ桜塚君。僕と大陸社。いや、僕の桜塚君の仲じゃないか。もう少し検討してみても罰は当たらないと思うがね。それに、自分で言うのもなんだが、今や『伊吹要』という僕のネームバリューは、そこそこのものだ。どのような内容であれ、伊吹要の新作という触れ込みをすれば、一定数の売上は見込めるはずだろう。君は今、その利益の機会を、自分の独断で逃そうとしているのだよ。もしこの作品を発行して、読者からの駄目出しが多ければ、その時は僕だって素直に作風を戻そう。僕はただ、とりあえず一度だけでもいいから、この作品の是非を世間に問うてみたいだけなんだ」

「わかりました。それでは一度社内で情報を共有して、出版するかどうか検討してみます。結果は後日、先生の携帯に連絡しますので、今日はどうぞお帰りください。わざわざご足労頂きまして、ありがとうございました」

 僕の心を込めた説得とは反対に、桜塚君はまるで棒読みのようにそう言って立ち去っていった。僕の原稿も、まだこの手に残ったままだ。口では検討するなんて発していたが、きっと実際には、そういう体だけを作り、出版を拒否するつもりなのだろう。今回の僕の作品は、相当に気に入られてないらしい。一体何がいけないというのか。作風を少し変えただけで門前払いとは、これいかに。

 とはいえ、そのような文句をこの場で声を大にして叫んでみても、それは詮無い事だ。僕は一つ溜め息を吐いて立ち上がった。すると、囲みの向こうの通路に、若い女性の社員を見付けた。僕はここには何度も出入りしているが、彼女は初めて見る横顔だ。

「君は初めて見る顔だね。新人かい?」

 囲いを挟んで僕が声を掛けると、その女性は驚いたようにこちらに顔を向けた。色白でほっそりとした、可愛らしい女性だった。

「は、はい。入社四ヶ月目の遠野(とおの)七海(ななみ)です。大変失礼なのですが一体どちら様でしょうか?」

「ああ、人に名前を尋ねる時には、まずは自分から名乗るべきだったね。気が聞かなくて申し訳ない。僕は伊吹要。しがない作家だよ」

 名乗ると、彼女――遠野君は、再び驚いた様子で目を丸くしていた。

「伊吹って、もしかしてあの伊吹要先生ですが? お会いできて光栄です。私、伊吹先生のファンです。前作の『たった一つの冴えないやり方』も、とても楽しく読ませていただきました」

 彼女はその白い頬をほんのりと紅潮させている。声もワントーン高くなっているし、どうやら僕の作品の愛好者というのは本当のようだ。僕は、ふと良い事を思いついた。

「これは僕の新作なのだが、良かったら読んでみて遠野君の感想を聞かせてくれないかい? 桜塚君にはどうやらお気に召さなかったみたいだが、他の人の意見も知りたくてね」

 その提案に遠野君は一瞬喜びながらも、すぐに困惑した表情をした。

「あの、新作を読ませて頂けるのは大変嬉しいのですけど、まだ桜塚先輩から頼まれた仕事が残っておりまして……」

「それなら心配ない。もし桜塚君に何かを言われたのなら、『伊吹要に用事を押し付けられて仕方なかった』とでも言えばいい。何、僕の事は気にしないでくれ。僕もまったく気にしないさ。それに、作家の作品を読み、自分の意見を伝えて、作品をより昇華していくというのも、編集の大切な仕事の一つではないだろうか?」

「えっと、でも……じゃあ、とりあえず桜塚先輩に確認をとってから……」

「それも必要ない。桜塚君の初担当作品はこの僕の作品で、それ以来とても仲良くしているんだ。帰る際に、遠野君を無理に引きとめてしまったことは、僕から彼に良く言って聞かせておくよ」

「そう……ですか。わかりました。それでは、未熟ながらも拝読させて頂きます」

 遠野君はやはり困ったような顔をしながらも、僕の提案を受け入れ、ぐるりと回ってこの囲いへとやって来てくれた。桜塚君とは違い、押しに弱いタイプのようだ。

 僕は上げた腰を降ろし、目の前に居る遠野君に原稿を手渡した。

「それでは、失礼します」

 僕の前に座った彼女は、黙って原稿を読み進めていた。桜塚君よりも少ない四分の一程を読み終えた所で、遠野君がゆっくりと口に開いた。

「その……何と言えば良いでしょうか。そう。伊吹先生にしては、随分と冒険された作品ですね」

「その通りだ。遠野君は見どころがある。これは僕の過去のイメージを覆す冒険作なのだ。勿論、僕の作品に好意的だった読者の意に沿わないかもしれないというのは自覚している。しかしだね、遠野君。いつの世も、作家というのは進化していかなければならないと僕は思うのだよ。そして、1つの作風にばかりに囚われてしまえば、それは望めない。これは、僕の挑戦なのだよ」

 僕の熱弁に、遠野君は返答にあぐねているようだった。本命を攻め落とすには、まず外堀から埋める。その法則に則り、このままの勢いで目の前の新人女性編集者を陥落させようとした僕の計画は、けれど思わぬ横やりによって打ち崩された。

「そこまでにしてあげたらどうですか、要さん。可哀想に、彼女とても困っているじゃないですか。意地悪も、度が過ぎればただのイジメですよ」

 一つ隣の囲いから、ショットカットの黒髪をした女性が顔を覗かせてそう言った。彼女は、僕より一回り年下の同業者だ。ペンネームを速水(はやみ)(なぎさ)といい、大学を卒業後にデビューし、今日までの僅か三年で瞬く間にベストセラー作家になった、今をときめく新進気鋭の推理小説家様だ。ちなみに『速水渚』というのは彼女の婚前の本名であり、現在は結婚をして名字が変わっているのだが、作家業は以前の名前のままで活動しているのである。

 黒縁眼鏡の向こうに携えている切れ長な目を細め、渚は僕を非難するような目付きをした。

「渚。悪いけど、君には関係の無いことだ。彼女には僕の作品を評価してもらっている最中なんだがら、下がっていてくれないか?」

「そうはいかないですよ。前途有望な新人さんが、偏屈な作家にイジメられているのを見過ごすなんてできません。それに、小説家のイメージとして要さんみたいな人を持たれたら困りますから」

 渚は笑みを浮かべ、「ねぇ」と言いながら遠野君を見遣った。遠野君は渚という助け舟に、安堵の表情を浮かべていた。

「まったく、君の所為で僕の作戦が台無しだ」

「作戦って、一体彼女に何をさせる気だったんですか?」

「それは機密事項だ」

 仕方が無い。今回は潔く諦めて、また別の作品で勝負してみることにしよう。

「あら、要さん。もう帰られるんですか?」

「ああ、そうだ。このままここに居ても、どうせ君に邪魔されるからな。一時撤退だ」

「邪魔だなんて人聞きが悪いですね。私は同じ女性として、親切心から彼女を助けただけですよ」

 渚は意地悪な笑みを浮かべていた。

 僕は溜め息を吐いて立ち上がった。渚の方を見ると、そちら側の囲いに、彼女と同い年くらいの若い男性編集者が居た。整った顔立ちをしている彼は、渚の担当編集者の岩永君だ。

「お久しぶりです、要先生」

 渚の原稿を手に、椅子に座ったままの状態で岩永君が言った。人当たりの良い笑顔をしている。

「久しぶりだね、岩永君」

「要先生の方が年上なのに、これじゃあ形無しですね」

「それは嫌味かい、岩永君」

「まさか。ただの客観的な感想ですよ」

「僕はこう見えてもフェミニストでね。女性には無暗矢鱈に反論したりしないのだよ。それを形無しだと思われるのは心外だな」

「なるほど。じゃあ、そういう事にしときます」

 その言い方に引っ掛かりを感じたものの、会話を続ければ続けるほど自分の立場が危なくなりそうだったので、僕もそれ以上は何も言わなかった。そんな僕に、今度は遠野君が声を掛けた。

「伊吹先生、この原稿はどうされますか?」

「そうだな。人の意見も知りたいと言ったのは本音だ。だから遠野君さえ良ければ、全て読んでもらって、どこが悪いかを指摘してくれれば個人的には嬉しいのだが」

「はい、わかりました。それでは、最後までしっかりと読ませて頂いて、また後日、感想を先生に伝えさせていただきます」

 遠野君は机の上に置いていた、僕が原稿を入れてきた茶封筒の中にそれを仕舞った。それからおもむろに立ち上がると、「失礼します」と僕に頭を下げてから、出入口の近くにあるデスクに向かった。どうやら出入り口に最も近い席が、遠野君のデスクであるらしい。

 彼女はそのデスクの横の辺りから、黒色のビジネスバッグを取り出し、その中に原稿の入った茶封筒を仕舞った。こういった場合、桜塚君はいつも邪見にするのだが、どうやら遠野君は律儀に全てに目を通してくれるようだ。先ほどの無理強いと言葉による圧力を掛けたことに、不意に罪悪感が芽生えた。

 それから、遠野君はこちらに顔を向け、再び頭を下げてから、デスクに置いてあるパソコンを起動させていた。桜塚君に言い付けられていたという仕事を済ませようとしているのだろう。

「あんなの読まなくても大丈夫なのに」

 モニターに目を向け、ブラインドタッチでキーボードを叩く遠野君を眺めながら渚が、おそらくはわざと僕に聞こえるように呟いた。

 先ほど「女性には無暗矢鱈に反論しない」と豪語した手前、僕は渚に文句を言う事が出来なかった。勿論、彼女はそれが分かって、揶揄うためにそんなことを言ったのだろう。渚の向かいで、岩永君が白い歯を覗かせて笑っていた。

 どこか敗北感を持ちながら、僕も大陸社編集部を後にした。退室をする際、遠野君には挨拶をするついでに、一言謝罪もしておいた。僕の謝罪を聞いた遠野君は、反対に申し訳なさそうな表情をしていた。そんな僕たちの様子を、何を思ったのか後ろに付いてきていた渚と岩永君が、可笑しそうに観察していた。

「どうして付いてくるんだ。まだ打ち合わせが残っているのだろう?」

「私はお手洗いに行きたいんです。で、偶々そのタイミングが、要さんが編集部を出るタイミングと重なっただけです」

「僕は喫煙室に。定期的にニコチンを摂取しないとストレスが溜まるんです」

 それが嘘なのはすぐにわかった。きっと二人は、僕の負け犬めいた様子を眺めたいだけに違いない。もう手遅れであるという思いが否めないが、そうはさせまいと僕は小さなプライドを総動員させて、背筋をピンと張り、不遜な表情を浮かべた。二人はそんなことはお見通しであると言わんばかりに、さらに笑みを深めている。

 喫煙室は編集部の左隣の部屋で、お手洗いは右側に進み、資料室を越えた先に設けられている。

「それでは、要先生。僕はここで失礼します」

 岩永君は火の点けていない煙草を咥えながら、オフィスの前で僕たちと別れて喫煙室に向かった。

 出入口から向かって右手側に進み、資料室を越えてお手洗いの前まで来たところで、渚も素直に女性用のお手洗いの中へと消えていった。

 一人になった僕は張っていた背筋を緩め、少し猫背になりながら歩を進めた。L字型になっている廊下の突当りを左に曲がり、それを少し進んだ所にエレベーターがある。二つあるエレベーターは、今はどちらも一階で止まっていた。下向きの矢印が表示されているボタンを押す。すると右側のエレベーターが反応し、この六階へと上がってきた。

 三十秒程でエレベーターが到着し、自動ドアが開いた。それに乗り込もうとした瞬間、不意に耳を裂くような男の叫び声が聞こえた。それは僕の聞き馴染みのある、桜塚君の声だった。

 桜塚君は確か、資料室に用事があると言っていた。僕はエレベーターには乗り込まず、駆け足で資料室に向かった。

 資料室の前まで来るのと同時に、同じように叫び声を聞いたであろう遠野君が編集部のオフィスから出てくるのが見えた。

「あ、伊吹先生。今のって、桜塚先輩の声でしたよね?」

 遠野君は不安げな表情を浮かべ、すぐに僕の側に来た。

 本来なら一度ノックをしてから入るべきなのだろうが、あの叫び声を聞いた後では、そんな悠長な事はしていられない。僕は把手を掴み、勢いよくドアを押し開けた。

 そこには、頭から大量の血を流し、地面に横たわっている桜塚君の姿があった。まったく動く気配がなく、頭部からの出血がなければ眠っているかのようにさえ見える。周囲には棚から落ちたであろうパイプ式ファイルが、まるで誰かと争った後のように散乱している。脚立や彼の銀縁眼鏡が、そのファイルに埋もれるように転がっていた。銀縁眼鏡はレンズが割れ、フレームもすっかりと曲がってしまっている。

「桜塚さん!」

 そんな渚の声が聞こえた。気が付けば、僕の横に彼女が立っていた。目の前の桜塚君にばかり注意が向いていたので、いつの間に渚がお手洗いから出てきたのは分からなかった。 

 それとほぼ同時に「どうしたんですか?」なんていう、呑気な声をあげた岩永君の姿も確認できた。彼も、知らぬ間に僕たちのすぐ側までやって来ていた。岩永君の様子から、喫煙室にまでは叫び声が聞こえたとは思えないので、おそらくこの部屋の前に集まっている僕たちに不審を持って近づいてきたのだろう。覗き込むように資料室の中を見遣った岩永君が、驚いたように目を見開いていた。

 桜塚君の名前を呼びながら資料室に入ろうとした遠野君を、渚が肩を掴んで制した。

「私たち素人が無暗に行動するべきじゃないわ。余計な行動を取ったら、事態が悪化するかもしれない。ここはすぐに通報をして、専門家の指示を仰ぐべきよ」

 女性は強いということか。それとも、いつも殺人事件の起こる推理小説ばかり執筆しているからだろうか。こんな状況でも極めて冷静な声で、渚が言った。


                   ◇


 遠野君を除いた僕たち三人は一旦、編集部のオフィスへと戻った。そうして、先ほどまで渚たちが打ち合わせに使っていた囲いの一角に、三人で座って待機していた。オフィスではまるで何事も無かったかのように、皆が仕事に勤しんでいる。どうやら、この程度の事ではまだ仕事を休むことは許されないようだ。

「まったく、何があったんですかね?」

 向かいに座っていた岩永君が、唇を尖らせながら言った。

「さあね。だが、きっとすぐに判明するだろうさ。ところで、僕はエレベーターに乗ろうとしていた所に桜塚君の叫び声が聞こえたんだが、それは喫煙室でも聞こえたのかい?」

「いえ、喫煙室では、桜塚さんの叫び声なんてまったく聞こえてきませんでしたよ。僕は煙草を一本吸い終えて廊下に出たら、資料室の前に三人が集まっていたので、それが気になって近寄っただけです。というか多分、このオフィスの中も色々と煩いから、聞こえたのなんて出入り口に近かった遠野くらいなんじゃないですか。実際、皆まるで無関心みたいに仕事をしていますしね」

 なるほど。彼らが何事も無く仕事をしているのは、そもそもまだ桜塚君の事に気が付いていないだけらしい。岩永君の言う通り、この部屋の中は電話の呼び出し音や足音や社員の声など、ちょっとした騒音が常に響いているような環境だ。壁やドアに遮られ、小さくなった叫び声が聞こえるとは思えない。それにそういえば、僕たち四人の誰も、桜塚君のことをこの編集部内の人間には話していない。

 もしここで、僕が大声で桜塚君の事を叫べば、皆が仕事の手を休めるだろうか。それとも、他人に対して割と無関心な現代では、やはりこのまま変わらずに、仕事に没頭したままだろうか。

 そんな下らない事を考えていると、僕の横に座っていた渚が文句を言ってきた。

「こんな時に探偵の真似事なんて、不謹慎ですよ、要さん」

 その渚の言葉に、岩永君が軽く笑った。

「ああ、確かに。要さん、何だか探偵みたいですね」

「そうかな。まあ、僕なりの気分転換方法というやつかな。黙っていても空気が重くなるだけだし、適当な雑談をしたところで、罰は当たらないだろう。で、渚はお手洗いにいたようだけど、桜塚君の声は聞こえたか?」

 渚は「もう」と不満を表しながらも、僕の質問にはしっかりと答えてくれた。

「お手洗いの中では、小さかったですけど、桜塚さんの声は聞こえました。でも、下着を下ろしたままでは外に出る事は出来ないですから、私だって焦ったんですよ」

 渚は恥ずかしそうに頬を膨らました。これはデリカシーの無い質問だったなと、僕は少しばかり後悔をした。

 それから手持無沙汰になった僕は、特に意味も無くもう一度、桜塚君の倒れていた資料室と、これまでの流れを思い返していた。そうしていたらふと、ある妙案が僕の頭の中に浮かんだ。

――ああ、そういう手もアリかもしれないな。

 そう思った所でタイムリーにも、遠野君と、そして頭に包帯を巻いた桜塚君が、編集部のオフィスに戻ってきた。


                   ◇


「まったく。不注意が過ぎるぞ、桜塚君。大事に至らなくて良かったものの、打ち所が悪ければ一大事だ」

「伊吹先生の言う通りですよ、桜塚先輩。119番に通報して、電話の指示に従って処置をしている最中で目が覚めたから良かったですけど、下手したら目覚めない可能性だってあったんですからね。まあ後少しで救急車が到着すると思いますから、それまではここに座って安静にしていてください」

 遠野君の肩を借りて、岩永君の横に座らされた桜塚君は、バツの悪い表情を浮かべていた。棚の上にあるファイルを取ろうと乗った脚立から落下して、頭を強打して意識を失っていたという己の失態を恥じているのだろう。オフィスで仕事していた社員も最初は心配をしていたが、そんな事の顛末を聞いて、すぐに自分の仕事へと戻って行った。

「まあまあ、無事だったんだから、もういいじゃない」

 渚が言って、岩永君が「うんうん」と首を縦に振っていた。

「ところで、桜塚君。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだが、救急車が到着する前に意見を聞かせて欲しいんだ」

「何ですか? もしかして、また新作に向けての、変なアイディアじゃないでしょうね?」

「いやいや、今回は違う。確かに今日持ってきたのは少し斜め上を意識し過ぎた、突拍子もないトリックだったが、これはそんな事はない。まあ聞いてみてくれ」

 遠野君を除く三名がとても冷ややか目をしていたが、それに構う事無く僕は続けた。

「このトリックは、事故の様子を誇大表現するんだ。そうだな、さっきの桜塚君を例にしよう。例えば、頭から血を流して気絶しているだけなのを、『頭から大量の血を流し』とか『まったく動く気配がなく』のような感じだな。加えて、その舞台も同じようにする。ただ資料が落ちて散らかっているだけなのを『まるで誰かと争った後のように散乱している』といったようにだ。ここで重要なのは、決して『死体』や『殺されている』などの直接的な表現を使わないこと。さらに、119番に連絡するのも、救急車という直接的な単語を避け、無駄に意味深に『通報』とか『専門家』みたいな表現を使用する。ミステリーの読者というのは、その作中の登場人物が死ぬというような、何らかの事件が発生してから探偵がそれを解決するという、ある種の王道的内容が頭に染みついているはずだ。これはそういった読者の心理を利用したトリックで、終盤、まるで死んだように描写していた人物が、何事も無かったかのように登場してくる。つまり、登場人物は死んでなどいなかったけれど、読者の想像の中では死んでいた。そして、最後に探偵役はこう言うんだよ。『彼を殺したのは、読者である貴方。そう、犯人は貴方だ』とね」

 一通り語り終えた僕を、今度は遠野君までもが冷ややかな目で見ていた。そして、まるで四人の総意を代表するかのように、桜塚君が口を開いた。

「要先生。そんなものは推理小説とは言いません。読者を馬鹿にし過ぎです。そんなものを出版したら、これまでのキャリアが全部無駄になりますよ。なので、この際はっきりと言わせて頂きます。要先生は、渚先生と違ってミステリーの才能は欠片もありません。素直に、今までと同じように恋愛コメディ物を書いてください」

 呆れ果てたように言った桜塚君に続いて、遠野君も僕に意見をした。

「そうですよ、伊吹先生。先生は恋愛コメディの申し子です。前作の「たった一つの冴えないやり方」だって、とても面白かったですよ。IQ200を超えた天才高校生が、好きになった女の子を口説くために心理学や統計学、果ては行動分析学まで徹底的に学び、それを駆使してその子を落とそうとする。でもどうやってもそれが実を結ばなくて、、最後には全てを捨てて体一つでぶつかって告白をする。良いじゃないですか。私、笑いながら読み進めましたよ」

 何だろう。上手く言えないが、馬鹿にされている気がするのは、果たして僕の気のせいだろうか。

 次いで、岩永君が僕に言った。

「大体、奥さんである渚先生に対抗意識を燃やしてどうするんですか? 人には得意不得意があります。要先生の作品は、渚先生には決して創れません。それぞれ、自分の得意分野で頑張りましょうよ」

 それを聞いて、遠野君が驚いた顔をしていた。

「伊吹先生と速水先生って、ご結婚されていたんですか?」

 遠野君は、開いた口が塞がらないといった様子だった。無理もない。僕と渚が結婚しているというのは、世間には非公表にしてある。一回りも年下で、しかも絶賛売り出し中の作家に手を出したとなれば、どんな悪評が流れるか分からないからだ。勿論、いずれは発表するつもりだが、少なくとも今ではないというのが僕と渚の判断だ。

「そうよ。ちなみに、私の方からずっと要さんにアプローチしていて、大学に入学してからやっと付き合ってもらえたの。要さん、こう見えても結構真面目なのよ」

 にやにやと笑いながら、渚が言った。僕は、少しこそばゆい感じを覚えた。

「そういうことだ、遠野。で、この伊吹要大先生は、年に数回、何故か奥さんに対抗して推理小説を持ってくるけど、その時はまったく相手にしなくて大丈夫だから、覚えておくように」

「わかりました、先輩。肝に銘じておきます」

 踏ん反り返って腕組みをしている桜塚君に向かって、遠野君は力強く頷いていた。

このような作品を最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

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