4-7 「三つの嵐」
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This story is a thing written by RYUU
Air・Fantagista
Chapter 4
『Coming in flight warship age』
The seventh story
' Storm People '
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当初は知名の低かった催しも、予行の花火が打ち上げられ、豪華なアーチが建造されると、噂が噂を呼び。
実態は見えずとも、それにあやかろうとする者達が集まりだす。
この大会を開くため、ギルドをはじめとした諸所への様々な便宜を計らってきたチバスティン=デスタロッサ男爵にとって、
それは至福の景色であった。
やがては世界が追随するに違いない、中王都市の新たなる一歩。
それを思うと、心が躍らずにはいられなかった。
「一時はどうなるかと思いましたよ…」
一方。
広場に鎮座させた、自分の姓が側面に記されている真新しい飛翔艦を前に。
ブロード=イマツェグが安堵の溜め息をつく。
「どうなるか、ではない。
責任者ならば、もう少し余裕をもった航行予定にして然るべきだ。」
「作品を仕上げる時は、どうしても、いただいた工期ぎりぎりになってしまう。
良い技師ってのは…そういうものなんですよ。」
社長には見えないほど、屈託なく照れながら笑う彼に、デスタロッサはそれ以上何も返さなかった。
一介の技術者に過ぎなかった彼が、飛翔艦の兵器商の長になりえたのは、自分の尽力によるところが大きい。
故に、彼の飛翔艦を大会賞品として用いたのも、その成果を確認するという側面もあった。
だがどうだろう。
目の前に現れたそれは、確認などと考えた自分を恥じるほど、想像を遥かに凌駕していた。
装飾を極力廃し、洗練された物理学に基づく、紡錘形状の胴体。
唯一の兵装となる、両翼の下部に格納された、出入自在の二門の主砲。
軍属ではない新しい飛翔艦乗り達のため、機動性を重視した無駄のない造形は、見事の一言に尽きる。
「正直…社長という立場が無ければ、自分が直接、携わりたかったですよ。」
「言うに事欠いて、私の前でそれを言うかね。」
才気に溢れた彼だからこそ許される冗談に、デスタロッサは笑う。
偶然、辺境の町工場で見かけた若者の熱心な仕事ぶりを買って、社長職に就かせたものの。
それは、初めの一歩だけだ。
後日になって、出資に加わる者が後を絶たず、いつの間にか会社が大きくなっていたことには、驚かされた。
飛翔艦技術に寄せる、大陸各所の期待と打算。
その両方を、充分に感じさせるものだった。
(…熱心なのは結構だが、有能ぶりは極力秘するべきだな。
出る杭は、必ず打たれるものだ。)
驚きの嘆息が止まない観衆。
その中で唯一、血色を失っているムーゼンクレタ社の関係者を見かけ、苦笑するデスタロッサ。
一位に進呈される予定の飛翔艦こそ、老舗兵器商である彼等の面子を立てたものの、この艦の出来を目の当たりにすれば、
襟を正さざるを得ないのだろう。
「残る一隻ですが、こいつが到着したのならば時間の問題です。
夜半には、もっと壮観な絵をお見せできますよ。」
「…そうであることを祈るがな。」
今回、イマツェグに頼んだ艦は二隻。
残る片方も、工房は違えど、ほぼ同距離に位置するヴァルクハルトで建造させていた。
―――ようやく、肩の荷が降りる。
そう一息つこうとした矢先。
「あれは何だ?」
広場から大通りを挟んで見える西征門の様子に、デスタロッサは思わず言葉を漏らしていた。
疾走する馬車が、次々と繰り出しているのである。
「…何でしょう?
作業に気をとられて気が付きませんでしたが…」
土地勘が乏しいイマツェグには、ぼんやりと返す以外に無い。
「おい、君。
いつからだ?」
考える時間も惜しいと。
人混みを抜け出して、道端で座っている物乞いに訊ねるデスタロッサ。
「…なんだい、あんた。
やぶからぼうに…。」
「征西門を抜ける馬車が、不自然に多いではないか。
いつ頃から、あの調子なのかと訊いているのだ。」
憮然と返す相手に、彼は懐から小銭を出しながら、改めて問う。
「ついさっきからだよ。
この時間、こんなじゃねえんだけど。
普段は交易の馬車の出入りも終わり、静かなものさ。」
その好意を受け取りつつ、物乞いは素直に答えた。
「…そう言われてみれば、妙ですね。
先程から、衛兵が検問をしている様子がありません。」
「あれらは全て、高家の馬車ということだ。」
背後からのイマツェグの言葉に頷き、デスタロッサは真剣な眼差しで洞察する。
嫌な予感の中。
帽子を手で押さえ、ステッキで地を鳴らしながら、足が自然と動いた。
「―――待たれよ!!
失礼ながら、伺いたき儀が御座います。」
そして、手前から迫る馬車の紋章旗に目を留め。
両腕を大きく広げて示し、道に飛び出す彼。
「おい!!
なにしてンだ、あんた!!」
突然の妨害に仰天した御者が、手綱をきつく引きながら、身を前傾して怒鳴る。
「デスタロッサ男爵…?」
やがて、車の窓から顔を出す初老の男。
この場に彼が居る事が、さも意外そうな口調であった。
「ご無沙汰です、子爵どの。
何やら、先ほどから只ならぬ御様子。
変わったことでもありましたか?」
「そうですか。
たしか、この大会の発案者は……」
傍に駆け寄って来たデスタロッサの顔と、周辺の様子を交互に眺め。
納得したように、独り言を呟く彼。
「その貴殿が此度のことを知らぬとは、軍部の混乱が知れますな。
私に声を掛けられたことは、実に僥倖です。
…どうぞ、お入り下さい。
共に避難いたしましょうぞ。」
そして脇に座る貴婦人の膝に優しく手を置きながら、扉を開ける。
「避難?
何故、そのような必要が……」
そこでデスタロッサは言葉を止めた。
子爵の下知により、御者が鞭を振りかざしながら、自分の動きを待っている。
その青褪めた表情には、生気が感じられない。
すぐ脇で往来する民の姿とは、あまりにも対照的だった―――
◆
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エア・ファンタジスタ
Air・Fantagista
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第四章
飛翔艦時代到来
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第七話 『三つの嵐』
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1
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叛乱軍は、巷で言われているほど野蛮ではなかった。
そのころ畜産が盛んだった自分の村に、食料調達のため出入りをしていた彼等は非常に友好的で、紳士に見えた。
忘れもしない。
とある傭兵団が、村を訪れた日。
それは運悪く、彼等との取り引きが行われる日だった。
双方の接触直後。
村が戦場になることを懸念した叛乱軍側は停戦を求めたが、傭兵側がこれを認めず。
交渉は決裂。
即時、戦闘へと発展。
補給部隊であった叛乱軍側は、初めから数の面で不利だったこともあり、ものの二時間ほどで殲滅された。
焦土と化した村を眺めながら。
少年は、膝を山なりに折って座り。
腕を交差し、首に巻きつけるようにして、漠然と時を過ごす。
見ようによっては、塞いでいるように見えるかもしれない―――彼の癖だった。
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「―――ドゥナガンさん。
ええと…聞いてますか?」
耳に届く、ロメスの遠慮がちな声。
「どうした、寒いのか?」
気温とは無縁そうな全身の甲冑を揺らしながら、言葉を掛けるのは、重闘士セアムリッヒ。
「…聞いている。
気にせずに続けてくれ。」
首に絡んだ両手を解き放ち、ドゥナガンは膝を崩した。
現在地は、ゴールの西征門まで約3時間ほどの森林にある、崖下。
ロメスの指示により、大半の参加者が向かった採掘場跡を完全に無視して、ここまで辿り着いたのだ。
そして同様の行動をとった者達が、彼等以外にも、その地点に徐々に集まり。
今では5組にまで膨れ上がっている。
言わずもがな、全員、ギルドの息がかかった組であった。
お互いの面識は無いが、記憶能力に長けたロメスが、それぞれの身元を確認できている。
この崖下の隠れ場は、あらかじめ用意されていたらしく。
大きくせり出した岸壁が天然の屋根となり、敷き詰められた柔らかい草むらのおかげで睡眠もとれる。
宿とまではいかないが、今が競技中であることを考えれば、破格のもてなしである。
―――後は『通行証』を回収した組が、合流するのを待つばかりだった。
◆
ロメスがそこで皆に、初めて明らかにしたギルドの最後の台本。
この後半戦には、他の参加者達に対しての最大の罠が用意されている。
通行証を入れた筒である。
錬金術を用いたそれを開けると、三桁の番号のリーダー・ブレスレッドだけが破壊される仕組みになっており。
自分達が大会の説明時に渡された、二桁の番号以下の物には反応しない。
尚、筒の中身にスカは無い。
ゆえに、この事実を知る者だけは、通行証の有無を確かめずにゴールへ筒を持ち込み、さらなるポイントの獲得が可能なのである。
・リーダー・ブレスレッドの損失が失格の対象になること。
・大会の勝敗はゴールに到着した順位ではなく、ポイント制であること。
ギルドは初めから、自らの上位独占を目的として、これらの規則を作ったのだ。
そんなロメスの種明かしに。
総勢14名の傭兵達は、皆一様に複雑な表情で押し黙っていた。
ここから先、膠着は続かない。
罠にかかった組から失格し、次々と数を減らしていくのみ。
時間が経てば経つほどに、自分達が有利だが―――時は経ち過ぎてもいけない。
異変に気付いた参加者達が、団結する恐れもある。
この隠れ場で待機するのは、上位を独占できるポイント数が判断できるまで。
最終日の昼を目途に、速やかに出立するのが望ましい。
「ギルドの予定は完全であり、完璧です。
通行証を持った組が合流したら、ゴール権を持つ組を選抜し、ポイントを調節します。
非常に、簡単なことです。」
崖下の窪みに沿った半月の陣形を前に、ロメスは言葉を締めくくる。
「―――ギルドのやり方を、軽蔑しますかい?」
その代理人とも言うべき彼が、さらに低い姿勢のまま質問を投げかける。
面々は、まだ無言だった。
「依頼人が不在なところで、その質問は無意味だ。
…今はただ、仕事を終わらせることだけを考えた方がいい。」
口火を切ったのは、ドゥナガンである。
「一番、反発しそうな人間がそう答えてくれると、ロメスも有難かろう。」
続けて、セアムリッヒが呟いた。
「そうじゃない。
仕事を受ける前に聞かされたのならば、いざしらず。
もはや、この段階で善悪を議論しても、仕方のないことだと言っているんですよ。」
角は立っているが、ドゥナガンは冷静な口調だった。
この大会が本当にルール無用の殺し合いだったならば、任務の放棄も辞さなかったろう。
だが、彼の心をかろうじて引き止めたのは、運営側の『民間人に対する配慮』という点に尽きる。
前半戦のチェックポイントでは、凶獣の習性を利用し、女性を含む組を大いに脱落させた。
後半戦も、無益な争いが起こり難いようになっている。
主催側は単に、大勢の者が過酷な競技をした末に、選ばれた者が価値ある飛翔艦を得るという、涙ぐましい演目がご所望らしい。
ただ、その演者に選ばれてしまったのは、非常に不運なことだったが―――
「実際、前もって詳細を知らされていれば、私は受けなかったかもな。
ギルドから呼ばれる前に予定していた、南国の島でゆっくりと余暇を過ごしていたはずだ。」
皮肉たっぷりに、セアムリッヒは笑う。
「あ、あっしは、お二人と組めて、本当に良かったと思ってますよ。
本来ならば、スタート時に失格して、ギルドには多大な損失を与えていたに違いありません。
家族も路頭に迷ったことでしょう。
お二人の好意で、こうして生かされているに等しいんですから…」
「よしてくれ。
私達は、もう杯を交わした仲じゃないか。」
取り繕うように言うロメスの背を、セアムリッヒは叩く。
その様子に、回りの傭兵達も表情を緩めた。
「もう少し、気を引き締めた方がいい。
安心しきっている時に限って、何か予想外のことが起きる。」
だが、ドゥナガンの忠告に、場は再び水を打ったように静まり返る。
彼は、遥か年下。
普段ならば、反発を招く状況だが、今回ばかりは誰も異論は無い。
むしろ畏敬の眼差しに溢れていた。
ギルドの特設部隊、七星剣。
そして立派な勇士として、各地で名を馳せた強者。
共に仕事が出来ることに、喜びを覚える傭兵さえもいるようだった。
「……誰か、適当に話でもしてくれないか。
明日までただ待つのも、退屈でたまらん。」
自然に生まれた沈黙の中。
草の上でだらしなく寝転がったまま、セアムリッヒが唐突に提案する。
「ガトランザの剣闘士として活躍していた貴方ほど、面白そうな話し手はいないでしょう?」
「他人の自慢話など、誰も聞きたくはあるまい?」
その切り返しに、数人は思わず吹き出した。
鎧で固めた外見とは裏腹に、彼は人を和ませることに長けている。
「…では、こういうのはどうだ。
誰かに対し、知りたいことを質問をして、それを断ってはいけないという『ゲーム』は。
ひとつ、気になっていることがあるんだ。」
「え……?」
ロメスは戸惑った。
それまで横になっていたセアムリッヒは胡坐をかき直し、よりにもよって鉄面皮のドゥナガンの方を向いたのである。
「ぶしつけな質問だが、しても良いかね。」
念を押すような、再度の申し出。
相手は無言のまま、腰に下げた鎖を指に絡めていた。
「君は、徹底した現実主義者のように見える。
だからこそ、不可解なんだ。
そんな役に立たない鎖を、どうしていつもブラ下げている?
とても装飾を好む人間とも思えない。」
「いけませんか。」
平淡な口調で返す彼。
場は、固唾を飲むような戦慄に包まれた。
「セアムリッヒさん…。
人には、色々な事情があるんですから…」
ロメスは媚びるように、柔らかく咎めた。
傭兵達の引率を任されている手前、ゴール目前にして厄介ごとは避けたいところである。
「どうしても話したくないならば、諦めるさ。
ただ単に、個人に対しての興味だ。
仲間のことを知りたいと思うのは、当然だろう?」
「仲間…ですかね。」
ドゥナガンは、どこか引っかかりのある言葉で濁した。
どこか、人との交わりを避ける冷たさ。
普段から単独任務が多いという、彼の経歴を知っているロメスは、それも無理からぬことと感じていた。
「……自分が傭兵になった、きっかけです。
もう原型も留めてませんがね、これをくれた人に再会したいと思っている。」
「恩人か?」
「ええ。
我々と同じ傭兵―――戦地を点々としているであろう…。
生きているか死んでいるかも、全く知れない人です。」
「……。」
質問者であるセアムリッヒ以外は、それを漠然としたまま聞いていた。
ドゥナガンが下らない遊びに応じたことが、それくらい意外に思えた。
「よ、良かったら、詳しいことを教えて下さいや!
力になれっかもしれない!!」
我に返るなり、やたらと力の入った言葉をかけるロメス。
ドゥナガンは思わず苦笑し、背後の岩壁に体を寄せた。
「…無理だ。
名前すら知らないからな。」
「え?」
「子供の頃の記憶など、誰もが曖昧だろう?
かろうじて憶えているのは……その男の雰囲気だけ…ということだ。」
「…それじゃあ、いくら記憶力に自信のあるあっしでも難しいですねえ。
申し訳ねえです。」
「なぜ謝る?
あんたには関係ないというのに。」
ドゥナガンは、心底から不思議そうに言った。
「ですよねぇ……うちらは…別に…」
ロメスは苦渋の面持ちで、言葉を飲み込む。
それを声に出すには、あまりにも身分がかけ離れていると思った。
「なるほど。
君が戦地を巡る理由は、そういうことだったのか。」
セアムリッヒが、膝の装甲を打ち鳴らす。
「それが、全てではありませんよ。
いつか会えれば、儲けものだという程度でね。」
ドゥナガンは続けた。
「だが、この小さな鎖に触れるだけで、不思議と迷いが消える。
いくら研鑽を積もうと、消えることが無かった……恐怖を和らげてくれる。」
剣を手に取り、感慨に耽るように呟く。
「これで分かったでしょう。
俺がとても勇士などと呼ばれるような人間じゃないことが。
全ては、成り行き……噂が一人歩きしたに過ぎないってことですよ。」
「人の噂とは、残酷なものだな。
本人の意思とは、無関係に広まっていく。
だが戦地においては、その勇名に希望を見出し、救われる者がいたのも事実じゃないか?」
「…どうでしょうね。」
そうやって、肩をすくめる彼を、卑下する者はいなかった。
むしろ、それを潔しとして正直に話す、ドゥナガンの姿に胸を打たれていた。
彼もまた、自分達と同じ人間なのだ。
そんな共感は、目に見えて、結束をもたらす。
ロメスも胸を撫で降ろす心地だった。
それから先。
セアムリッヒが発案したルールの下、各々の身の上話が延々と続いていった。
取るに足らない話で、暇を費やす時間が流れていく。
いつしか、ドゥナガンはその場から少し距離を置いて、外の様子を眺めており。
その背後にロメスが近付いた。
「幼い頃の記憶を追うのは……まるで、夢を追うような話ですねえ。」
「ああ。」
口が軽くなったのは、ゴールを目前に控えた、幾ばくかの感傷のせいだろうか。
ドゥナガンも、先ほどの自分の行動が解せないところがある。
「だが、各地で転戦を繰り返すうち…。
今となっては、その人に会って何を言いたかったのかさえ、忘れてしまった。」
彼は自分を御するように、薄く笑った。
「結構じゃないか。
『健忘無くして、人の成長はありえず』、だ。」
いつの間にか、セアムリッヒも背後で口笛を鳴らす。
「…何の引用です?」
「忘れてしまったよ。」
ロメスの問いかけに、彼は眉を上げて言った。
ドゥナガンのぼやけた笑みが、わずかだが大きくなる。
「……!」
だが、会話の途中、頭上で物音。
三人の反応を皮切りに、全員が視線を重ね。
無言で各自の得物を手に取り、身構える。
通行証を回収した組が、合流地点を探しているのであろうか。
しかし、それにしては早過ぎるし、伝わる気配も明らかに単独。
森の中を激しく徘徊する様子は、獣のようにも思える。
長弓を構えた一人が立ち上がると、全員は頷いて促した。
「ふっ!!」
息勢と共に、けしかけられる威嚇の一矢。
「…うぉっ…!?
…うああぁあああああ!!」
途端に、人間のけたたましい声と共に、斜面を転がり落ちてくる物体。
それは皆が見憶えのある、クマの着ぐるみである。
「い…だ…だだ……!」
しかも、そこで被っていた頭部が傾き、無精髭を生やした冴えない男の登場に。
皆は、すっかり気を削がれてしまった。
◆
「…何するんだ、この野郎!
急に矢なんて…撃ちやがって…!!」
弓を背負った男から、申し訳なさそうに差し伸べられた手を払い、バーグは地に尻を付けたまま喚く。
だが、予期しない多数からの視線に、たちまち怒りは消え失せた。
「数が多いな!
しかも、お前ら強そうじゃねえか!!」
「…?」
一転した褒め言葉に、顔を見合わせる傭兵達。
「おっと、俺は断じて、怪しい人間じゃねえ。
ひとつ重大な話があるんだ、聞いてくれ!!」
転がったクマの頭部を拾い、小脇に抱えてから、バーグは呼びかけた。
無論、気だけが急いており、その白けた空気までは察せていない。
「…知っている顔か?」
「ジャグマー達は、あっしの管轄じゃないんですよ。
個々の素顔さえ、判らないので…」
セアムリッヒの質問に、ロメスが即答する。
「そうだ!
そのジャグマー君が裏切ったんだよ!!
お前ら、ちょっと手を貸してくれないか?」
「………。」
勢いだけのバーグの言動は、さらに場を凍りつかせた。
「おい…なんなんだよ?
さっきからノリが悪いぞ、お前ら。」
「裏切ったってな…今の自分の姿を鏡で見せてやろうか?
……ジャグマー君は、お前だろうが。」
やがて、傭兵の中の一人が鎮痛な面持ちで言葉を洩らす。
「あ……ああ。
違う、違う。
今はこんな成りをしているが、俺はジャグマー君じゃねえんだよ。」
白けた空気の正体に、ようやく気付いたバーグは、慌てて手を左右に振って否定した。
「じゃあ、何者だ?」
背後の一人の詰問。
「何者かって?
ええっとだな…」
思わず自分の姿を眺め回しながら、声をつまらせる彼。
正直に話そうものなら、不正をしていたことは明白。
ややこしい話になるのは、目に見えている。
「い、今はやむを得ず、この恰好をしているが……違うんだ。
とにかく一刻を争うから、そんな細かいことは省略だ!!」
「話の筋が全く通っていないぞ。
このおっさん……頭でも打ったんじゃないか?」
「だぁああああ!!
ちっくしょう!!
いいから、俺の言うことを聞きやがれ!!」
ぼやく一人に向けて掴みかかるバーグに、今度は複数の刃が向いた。
「ちょっと、待て…。
彼の声は聞き覚えがある。
確か、選手村の施設にいたジャグマーの声だ。」
そこで、それまで我関せずと、黙していたドゥナガンが呟く。
「ああ、あんたか!!」
これ幸いと、その言葉に乗っかり、バーグは彼へにじり寄った。
「やっぱり、ジャグマー君なんじゃねえか!!」
「なんか怪しすぎるぞ、こいつ!!」
だがその行為で、周囲からは、次々と不満の声が上がる。
「うるせっ!!
なら、もういいよ、ジャグマー君でよ!!」
それらのブーイングに対し、逆上して言い放つ彼。
「つまり、君以外のジャグマー君が裏切ったと言いたいのか?」
「ちょっと違うが……まあ、そういうことにしてくれや。」
セアムリッヒの好意的な解釈にも、口角を歪ませながら返す始末だった。
「とにかく、つべこべ言わず一緒に来て欲しい。
連中もかなりの手勢だ。
だが、これだけの人数がいれば何とか…。」
「何を言っている……?
そんな話に乗るわけがないだろう。」
気の逸る彼の言葉尻を捕まえて、心底呆れたような声が、どこからか漏れる。
バーグが全員を見回せば、どの視線も猜疑心で満ち溢れていた。
「お前の話が、罠じゃないって保証がどこにある。」
「…大体、ジャグマー達が裏切ったって何なんだ。
そんなことをして、連中に得るものがあるのか?」
方々、疑問も宙に浮いたままだった。
「そ、それが、よく解らないんだが…。
急にジャグマー君達が、あの魔導人形を縛り上げてだな…」
「あいつの態度が鼻持ちならなかったからか?」
「そうかもしれない……。
いや…そこまでの事情には見えなかったが…」
バーグは思い返しながら、自信なさげに呟いた。
「では、肝心なことだけを聞かせてくれ。
奴等の目的は何だ?」
「……目的…?
わかるかよ、そんなもの。
とにかく、誰かに知らせるために急いで来たんだ…!」
中立の立場を取っていたセアムリッヒも、これには、たちまち肩を落とした。
「そんな不確かな情報で、動くわけにはいかん。
部外者の君に詳しくは言えないが、我々は、ある重要な任務をこなしている最中だ。
…ギルドの用件と言えば、後は解るだろう?」
「そのギルドが一大事なんだぞ!!」
「残念だが、他を当たってくれ。」
凄みながら詰め寄るバーグに、セアムリッヒはつれなく返す。
誰の耳にも、当然の言葉に聞こえた。
「…ロメス。」
唯一、深刻な面持ちで、ドゥナガンが呼んだ。
「あの男の言い分が真実だと仮定し、ジャグマー全員が裏切ったとなると、どうなる?」
「確かに事件には違いないでしょうが、あの魔導人形を捕らえたところで、さほど意味はありませんよ。
一度始まった大会が、その程度で中止になるなんてことは…」
「だろうな。
彼等が何のために裏切ったのか…その辻褄が合わなければ、どうにも…。」
「まさか、あの男の言っていることが気になるんですか?」
流石に慎重になりすぎだろう、と笑う。
頭から怪しいと決め付けているロメスには、ドゥナガンの嗅覚が理解できなかった。
(…こいつらじゃ、だめだ……。
せめて顔見知りの…シュナかパンリを探さねえと……。)
一方のバーグには。
頭から自分を疑ってかかっている彼等を、説得する話術は無い。
(だけど、見付かるのか……!?
こんな広大な森の中で……!!)
さらに、ここまで木々に目印の傷をつけて来たとはいえ。
ジャグマー達が陣取っている小屋まで確実に戻るには、もう限界の距離である。
「お前らが忙しいっていうなら、もういい。
暫くは、この辺りで別の人間を探してみる。
……もしも気が変わったら、声をかけてくれ。」
やがて、離れながら言い残す彼。
「待て待て。
念のため聞くが、あんたはギルドに所属している傭兵か?」
「昔はな!!
ギルドを出入り禁止になったバーグ=ハウドっていやあ、このあたりじゃ有名だぜ!!」
投げかけられた質問に、彼はぶっきらぼうに答えた。
振り返らず。
背を向けたまま。
片手だけを、ふらり、と挙げていた。
◆ ◆ ◆
村内で唯一残った小屋の前で、残党狩りの成功を祝し、宴会が行われていた。
奇しくも、あの時もジャグマーたち―――コーラル・サーカスが慰問に訪れていた日だ。
だけれども。
その大道芸を、心底楽しんでいる地元の子供なんて、いなかった。
あれから治安維持のためと称し、何日も村に居座り。
略奪の如く、村の食・財の備蓄を巻き上げていく奴等。
老人たちから聞かされる度、胸を熱くたぎらせた、英雄譚に出てくる『勇士』とは、天と地ほども違う。
彼らは、まるで悪漢……いや、その発想の幼稚さときたら悪童だ。
そんな、ひどく無粋な彼等の様子を見ていたから。
ドゥナガンもまた、傭兵という種族を、心底から嫌悪していた。
視界に入れたら、やり場の無い恨みが噴き上がる心地だ。
真逆の方向を向き、小高い丘から、村の景色を遠くに見据えていた。
やがて、二つの影が自分の背に迫ったのに気付き、振り向いた。
体格の良い男と、少女だった。
「…ボウズ、一人か?
これ、やるよ。」
男はジャグマーの姿をかたどった、粗末な木彫りのキーホルダーを出して言った。
情けをかけられるくらい、自分は貧相な姿をしていたのだろうか。
その言葉を聞いた瞬間。
ドゥナガンの自尊心が、膨れ上がり、心胆から屈辱感を押し上げた。
「なんだかよ…。
せっかく買ってやったのに、気に入らないようでな。」
だが、人の気も知らず、能天気に言葉を続ける男。
少女の方はずっと、彼が背にした剣に抱きつくようにしている。
「…いらねえよ。」
子供ながら、殺気を帯びた低い声に、男の瞳孔は鋭い反応を見せた。
「鍵かけるくらい大事なものなんて、なに一つ無い。
ぜんぶ失っちまった。
……あんたらのおかげで。」
今まで誰にも言えなかった、鬱憤を吐いていた。
村の大人達が、遠ざかる。
傭兵をぞんざいに扱って、ひどい目をみた村民は少なくない。
「…あ?」
剣を担いだまま、さらに迫る男の姿。
ドゥナガンは真っ直ぐに向き、恐怖に対して必死に抗っていた。
「…いらないって、言ったんだよ。」
キーホルダーを突き返す。
たとえここで殺されても、後悔は無い。
少年が彼等に浴びせられるのは、そんなちっぽけな意地くらいなものだった。
「そうか。
それは悪かったな。
俺はよく無頓着な男って言われるんでよ、全く気付かなかったぜ。」
だが男は意外にも、頭をかいて苦笑する。
「でもそれなら、なおさら持っておけ。
お前にもいつか、鍵をかけるくらい大事なものが出来るはずだ。」
「いつって…いつだよ!」
肩透かしを食らったためか、強気になって叫んでいた。
「…そうだなァ。
……俺は傭兵になったおかげで、それが分かるようになった。
大きくなったら、お前もやってみればいい。」
傍の少女の肩を抱き、踵を返す彼。
「―――おい!
あっちで、記念碑を造るってよ!!」
そこで丘の上から、へべれけに酔った傭兵が、男に声をかけた。
「名を刻んでいこうぜぇ。
俺ら、英雄様のよぉ!!」
「悪ィ。
そんな気分じゃねえんだ。」
男は、娘を連れたまま遠ざかっていく。
「お前らみたいな…傭兵になるだと…」
自分は、草と小石を握りしめて、侮蔑を込めた言葉を吐いていた。
睨んだ先の男は、去り際。
自分への別れの挨拶か。
背を向けたまま、だらしない手を上げていた。
◆ ◆ ◆
やるだけやってみて、納得がいかなかったら、傭兵を否定しようと思った。
初めて人を斬ったのは、剣の修行を始めて、わずか一年後である。
戦場では、いつでもぎりぎりで、余裕が無かった。
皆、くだらないことをして、精神の平衡を保っているのが分かった。
任務中であっても、どこか享楽的なのは、そのためだろう。
この隠れ場で、談笑する彼等もそうだ。
誰もが、恐怖に抗っている。
名声欲や金銭欲に走るのも、そのためだ。
今では、理解できる。
詰まるところ。
傭兵ほど、一日を懸命に生きている人間はいない。
誰よりも明日をも知れぬ身だから、誰よりも愉しみたい。
誰よりも死に塗れてきたから、誰よりも生きたいと願う。
その存在自体が、人生の縮図とも言えるかもしれない。
最も、人間の根本の部分を、具現化している存在と言ってもいい。
軍人や騎士と違って、彼等を縛るものは無い。
戦うも逃げるも、個々の自由。
雇われの身なれど、命まで賭ける必要は無い。
分が悪ければ退くし、優勢ならば追い込みをかけるだろう。
名誉も自尊心も無く、ただ彼等の中心に据え置かれているものは、それぞれの信じる自我。
善悪なく研磨され、最後に残った、純粋な魂だ。
自然と、飾らない人間が出来上がり。
その融通が利くという存在が、世界によっては歓迎され。
または、罵られている。
色々な光を放ち、それらは点在する。
そして時に、一瞬の華を咲かせ、散っていく。
人生とは、あるがままだ。
傭兵ドゥナガンが、いつしか認めた結論だった。
いつしか、自分の村で起こった惨事も、受け容れることが出来るようになっていた。
それからは、世の子供たちに自分のような目に遭わせたくない一心で、特に危険な戦区を駆け巡った。
各地における紛争も、自分の努力次第で、軽減できるかもしれない。
恐怖は消えなかったが、自我の赴くまま戦った。
その姿が、他人の目には献身的に映ったのだろう。
いつしか戦場に、勇士と呼ぶ声が響いた。
誰かの、安心したいという気持ちが産んだ虚構。
ドゥナガンはそれを、自分を自惚れさせるための、悪魔の囁きだとも思っている。
だがそんな自分でも、一つだけ、死ぬ前に望むことがある。
道しるべをくれた、あの名も知らない傭兵に―――
ただ、歩んできた証を見て欲しかった。
◆ ◆ ◆
呼ばれた本人は背を向けて。
無造作に挙げた手をそのまま、首だけを振り向かせた。
「…まったく……変わってない。」
もう一度。
重い口調で、ドゥナガンが言った。
去り際の男に対し、真っ直ぐに鎖を差し出す彼の横顔を見て、ロメスは仰天する。
人の親だからこそ、そう思ったのだ。
目の前の勇士と呼ばれる存在は。
我が子らと何ら変わらない、無垢な表情をしているではないか。
◆ ◆
2
◆ ◆
ベルッサスの帰還と、ウベ神父の娘達が眠りから覚めたのは、ほぼ同時刻。
かねてからの取り決めに従い、その時点で同盟は解散となったが、奇妙な縁で繋がった双方は、互いの無事を祈りながら別れた。
何か、強い奔流に飲み込まれている心地なのだろう。
最後まで戸惑いを隠せない、幼い双子の顔が、パンリには印象に残った。
あの家族はこれから、他組との争いを避けるため、ただゴールのみを目指すという。
自分達は―――それとは真逆。
コルススらとの決戦に備えるため、山岳のさらなる上方へと足を伸ばしている。
「この殺風景な所、中々いいな。」
無数の口を開ける、相変わらずの洞穴群。
加えて、人の気配は皆無という期待通りの景色に、カジェットは満足そうに歯を見せた。
「何か遮蔽物が無ければ、人数の差を埋められません。
まだ時間はあります。
戦場を選ぶならば、もう少し慎重になられては…」
だが早速、背後からベルッサスが苦言を呈する。
その声には、否定の色が濃い。
「大博打ってのはな、まだ余裕がある時に打つもんだ。
後が無くなってからじゃ、遅すぎる。
それが失敗した時に、ドン詰まりに陥っちまうからな。」
対する彼女は、もっともらしいことを言いながら、気炎を吐いた。
「先手を取った上、この場所に相手を誘い込めれば、勝ち目は十二分だぜ。」
「……そこまでの確信がおありだと言うのなら、異論はありません。
ですが、私は…」
若干の躊躇を振り払い、切り出す彼。
「その時は、パンリさんにも戦陣に加わっていただきたいと思っております。」
当のパンリは、一瞬、彼が何を言っているか解らなかった。
言われるまでもなく、自分も戦闘に参加するつもりでいたのだ。
―――そもそも、そのための修行ではなかったのか。
「戦闘にかけちゃ、こいつは素人だぞ。」
彼の疑問の目を避けるように、ベルッサスに詰め寄るカジェット。
「相手側もそう思うからこそ、戦力になります。
使わない手はありません。」
「これは初めから、内輪の問題だろ。
部外者のパンリが、ここまで付き合ってくれただけでも、あたしは感謝してんだ。
これ以上なにを…」
「甘すぎます。
今からの戦いが、我々にとって運命の分かれ道になるということを、本当にご承知なのですか。」
「おい。
今日は随分と反抗的じゃねえか。」
「…二代目には、死んで欲しくないのです。」
あの従順なベルッサスが、珍しく食い下がっていた。
それは、彼と付き合いの浅いパンリにも、良く判った。
「今さら青臭いこと言うな。
これが、あたしの生き方なんだ。
好きにやらせてもらうぜ。」
「先代がそんなことのために、立場を譲ったとお思いなのですか?
貴女は全く解っていない。
我々の源法術は、どのように使うべきか…。
本当は、このような抗争さえ恥ずべきこと…」
「お前の方こそ、先代のことを全然わかってねえよ。」
互いに感情的になる中、すれ違いざまに、彼女は低い声で唸った。
「…そうだ、そうだ。
あたしに万が一があった時のために、本当のことを教えてやらなきゃな。」
そしてわざとらしい笑顔と共に、傍の岩に座り込む。
二人を晴眼で眺め。
一旦、間を空けてから、カジェットは口を開いた。
「前半で一緒に居た、世羅のことを思い出してくれ。」
「何故、今そのようなことを…」
話を途中ではぐらかされた恰好になったベルッサスは、呆然と返す。
だが、それには答えずに、パンリの方へと視線を向ける彼女。
「あいつは……アルドの直弟子だ。」
「アルド…?」
パンリは歩み寄って、さらに訊く。
低い姿勢になった彼女とは、ちょうど目線が合う高さだった。
「急に何を言い出すかと思えば……。
彼女が…あのアルド=セイングウェイの、ですか?」
真顔で問い質すベルッサス。
大陸史上、最も大きな動乱と呼ばれている50年に及ぶ戦争。
その『アルドの叛乱』により知れ渡った悪名は、世界中の人間の脳裏に刻み込まれている。
「あのバカでかい《源・衝》。
お前にとっては、かなり驚いたことだろうが、あたしにはそうでもなかった。
あらかじめ、先代に聞いていたからな。」
「…先代から?」
「さぞかし不愉快だったろ。
見ず知らずの人間に、あたしが色々と技術を教えちまったこと。」
「ええ…まあ…」
彼女からの図星に、ベルッサスは言葉を濁す。
「だけど、おかしいことなんて何も無いんだ。
世羅と先代は、同門なんだからよ。」
「お待ちください……と、いうことは……」
「先代の師匠も、アルドだ。」
カジェットの断言に、全身を強張らせる彼。
中空を彷徨う視線は、彼方に吹き飛んだ自分の思考を、必死に手繰るようであった。
「…冗談だと……。
…言っていただけませんか。」
やがて、自失の形相で彼女に迫る姿に、脇のパンリも戦慄を禁じえない。
「お前が動揺するのも、無理はねえ。
確かに『アルドの弟子』って聞いて、良い印象を持つ奴はいねえだろうしよ。」
だがカジェットは、意外なほど呑気に構えている。
その態度に。
彼の両足が、ぐらりと揺れた。
「つ、つまり…形式上、お二人はアルドの孫弟子になってしまうわけですよね……?」
パンリも、己が口にした言葉で、心の中を整理する。
大悪名のことは、自分とて無関係ではない。
「先ほど二代目は、私が先代のことを何も理解していないと仰いました。
…そういう意味ですか。」
「それだけじゃねえ。
お前が『先代の教え』がどうだとか、あの人を必要以上に敬っていることもさ。」
強い口調で改めて問う彼に、カジェットは答えた。
「いいか…よく聞け。
あの人は、病気で死んだんじゃねえ。
毒を盛られたんだよ。
微量な量を、少しずつかけてな。」
「……!
まさか…コルススが……」
可能性を考えなかったわけではなかった。
だが実兄の凶行を、心のどこかで否定していた彼に、カジェットは非情にも首肯する。
「勿論、あの人は全て気付いてたさ。
知った上で、弟子のしたことを……自分の過ごしてきた人生の結果を、受け容れた。」
彼女の声が響く。
その直後、辺りの静寂が深まるようであった。
「……お前が思っているほど、綺麗じゃねえだろ。」
再び、カジェットが口を開いた時。
目の前には、血色を失った背丈の高い物体がそびえていた。
「事実を知らずに…これまで時を過ごし…。
二代目だけに真実を背負わせて……私は……。」
それは、笑みさえ浮かべ、ただ独り言を呟いている。
「…何が…正しい源法術だ…。
…人のため…だ……。
…全て……私の幻想……。」
思わず駆け寄ったパンリに目もくれず。
それどころか、彼を振り払うようにして遠ざかる。
「先代に後悔は無かった。
…あの人の弟子ならば、それを汲んでやれ。」
彼女の声に。
彼は一度、立ち止まり。
そして、二度と振り返ることは無かった。
◆ ◆
「―――動くな。」
背に銃を突きつけられた感覚。
素直に、事務官はその言葉に従った。
「ウチの軍人にしては、随分と働き者じゃねえか。
…こんな遅くまで残業だなんて。」
詰め寄る声は若い。
日中に赴任してきた、青年士官のコルツの声だ。
「だが部屋が真っ暗なままじゃ、作業もはかどらないだろう。
何なら、明かりを点けてやろうか?」
撃鉄を起こす音が、延髄の中まで鳴り響く。
「ま、待って下さい!
ちゃんとご報告、しようとしたんですよぉ…!!」
途端、事務官は書棚から両手を離し、情けない声を上げた。
「夜盗の真似事の挙句、ご報告だと?」
「…そうです、重要な書類を確保してからと思いまして…」
「いいだろう。
営倉にブチ込む前に、言い訳くらいは聞いてやる。」
彼に銃を向けたまま、コルツは背後に合図を送る。
すると、ランタンを掲げたマルリッパが現れ、室内はにわかに照らされた。
「言い訳だなんて、とんでもない!
…実は現在、首都周辺では、避難勧告が出されているのです。」
二人が揃ったところで、事務官は姿勢を正しながら言う。
「避難?
何をバカなことを…。」
コルツは窓から外を覗き、街の様子を伺った。
別段、変わった点は見られない。
「ですから…密かに。
まずは貴族や役人が避難を…。
次に、軍隊が撤収するという段取りで…」
徐々に張りを失っていく彼の言葉に、二人は息を潜める。
「先ほど、謎の組織から通告があったのです…。
奪取した飛翔艦を、首都王宮に墜落させる、と。」
瞬間、全身が泡立つようであった。
「そんな脅しを鵜呑みにして、おめおめと逃げようってのか!
民間人への連絡はどうした!?」
コルツの激昂。
「それが…。
上層部の判断で…」
「し、知らせて…いないの?」
次に、マルリッパが落胆を顔に表した。
「逃げまどう住民が街に溢れれば、要人の避難に支障をきたす恐れがあります…。
国家において、常に優先されるべきは…」
「だから、見殺しか!?
汚ねえ!!
汚すぎるぞ、てめえら…!!」
杓子定規な言葉を遮り、コルツは彼の首を掴み上げる。
「オレだって、褒められた人間じゃねえ。
だが、そこまでは腐ってねえつもりだ!!」
自分への乱暴な問いかけに、マルリッパも押し黙った。
その沈黙が、頭を冷やしたのか。
やがてコルツは事務官の体を離し、その浮いたままの手で胸元のタイを締め直す。
「現在の詳しい状況を教えろ。
その飛翔艦、なんとしても阻止してやる。」
「…ほ、他の基地も似たような状況です。
ここが単独で機能したところで…どうにも…」
床で咳き込みながら、返す相手。
「貴様には、最後まで付き合ってもらうぞ。
今まで安くない給金を、国民の皆様からフンだくってきたんだ。
死ぬ前くらい、一度は何かの役に立ってみろ。」
「…そ、そんな…」
「そうでなくとも、念通士はこの種の作戦の要だ。
了解しろ。
でなければ…いま殺す。」
上方から銃口と共に向けられたのは、噂に違わぬ、死を招く声である。
事務官は無言で頭を垂らし、それを返答とした。
「まずは作戦を立てるぞ。
マルリッパ、総員すぐに集合させろ。」
「か…彼等を使うわけ?」
脳裏に、昼間の訓練の惨状がよみがえる。
だが迷ってなどいられない。
「こんな絶望的な状況こそ、オレたちの新しい門出に相応しいじゃねえか。」
隊長の瞳は、既に狂気の色を帯び始めていたのだ。
◆ ◆
声通機から、各基地の騒乱が聴こえてくる。
非難や憎悪。
伝播する混沌に、耳を塞ぎたい心地だった。
これが周辺住民にまで飛び火した場合、数十万人の規模でパニックに陥るのは明白。
その点においてのみ、利己的な軍の判断が正しいと思えた。
コーラル救国軍という、謎の組織からの通告を皮切りに。
どのくらい漠然としていたのだろうか。
眦を決すれば、再び視界に飛び込む、鉄パイプと機械に囲まれた地下室の異形。
それが気付けとなり、フィンデルは我に返ることが出来た。
「お二人とも、久遠どころの騒ぎじゃなくなってしまったわね。」
念通球の操作で、備え付けられた声通機の音量を落としながら、イメルゲは足を組んで言った。
同時に、彼女自身は小型の機器を片耳に被せている。
どのような原理を用いているのかは、依然として不明。
だが厳然たる事実として―――この地下室で、各地の通信が傍受できることは間違いない。
設置されている機材、彼女の念通士としての腕。
共に、高いレベルであることを伺わせた。
「…しかし、妙ですねぇ。
皆、最初の通信に踊らされているようですが、あれには決定的なものが欠けている。」
「同感ね。
相手を脅迫する場合、その行為を止める代償として、何かを要求するのが自然だもの。」
オーロンの意見に、イメルゲは少しはだけた白衣を直しながら答えた。
「大尉。
彼等のやり口からして、騎士団との関連性は薄いと思いますかい?」
「現時点では、何とも言い切れませんが…」
オーロンの不意な質問に、フィンデルは口ごもる。
このような状況にも関わらず、嫌に冷静な彼等の様子には面食らうものがあるが、反面、少し心強かった。
「本当に中王都市にダメージを与えるつもりがあるのなら、わざわざ通告などせずに、奪った飛翔艦とやらを、
そのまま王宮に墜としてしまえば良い。
よって、こいつは……根性の悪い悪戯か、流言ですな。」
「初めは、幕僚の会議室でも、そういう意見が多数だったみたいよ。」
斜に構えながら、そう結論づけたオーロンに、含み笑いを浮かべるイメルゲ。
「だけど、試しに各基地に確認を求めたところ……ヴァルクハルト方面の国境警備隊から報告があったわ。
少し前にイマツェグ社の艦が通過したことを、ね。」
「…裏づけが取れちまったわけですかい。」
彼は無念の声と共に、自分の髪をむしる。
「しかしながら、目立っておかしな様子は無かったようね。
よって、『艦を乗っ取ったように見せかけている』という線も捨てきれない。」
耳につけた端末から聴こえる情報に、凄まじい勢いでメモを取りながら、彼女は続けた。
「ならば、その艦の進行上に近い部隊が確認を…。
どちらにせよ、首都圏に入る前に迎撃の準備を整えないと…。」
フィンデルの口からは自然と、指揮の言が漏れていた。
「残念ながら、それを担うべき人間が次々と退避してるのよ。」
「正体不明の物体が、首都に切っ先を向けて、猛然と突き進んでいる。
さぞかし、想像をかき立てられるんでしょうねェ。」
イメルゲの皮肉に続き、オーロンが苦笑する。
「こんな有事は今まで無かったし、想定もしていないから、軍本部が統率しきれていない。
指揮系統の弱さと、愛国心の薄さが露呈されたわけね。
…どちらにせよ、私たちがやれることなんて無いわ。」
遂には念通球を机に置き、両手を放り出して言う彼女。
周囲の音は消え失せて。
完全に、現実の世界へ舞い戻った気分だった。
(…やれることが…無い?)
フィンデルは自問し、天井を見上げる。
そこには、まるで井戸の底に落ち込んだような闇が見えた。
暗い深遠。
自分にとっては、ここが全ての始まりなのだと思った。
かつて覚悟が持てなかった頃、心が沈んだ場所だ。
今の自分は、どうだろう―――
後に仲間の手によって引き揚げられたそれは、何かを成すため、身体に戻っている。
沸々とした脳漿の動きが、その証拠だった。
「…逆は出来るのかしら?
通信の傍受ではなく、ここから軍施設に連絡をつける……なんてことは。」
フィンデルの、少し自尊心をくすぐる言い方に、イメルゲは耳を傾ける。
「可能よ。
距離に限界はあるけれど。」
「まさか、ここから助言でもしてやるってんですかい?」
その会話の流れに、オーロンは口から飛沫を出すほど興奮して訊いた。
「素晴らしい機材があって、優秀な念通士もいる。
……やれるわ。」
フィンデルは誰に同意を得ようとするわけでもなく、ただ独り呟いているように見えた。
「軍も退役し、それほど身分があるわけでもない。
そんな人間の言うことを、彼等がおとなしく聞くと思って?」
そんな彼女の変化に、長い前髪を弄りながら訊ねるイメルゲ。
「確かに、徒労に終わる可能性は高い。
だけど試す価値は、あると思うわ。」
「…それは、私に協力を求めることの意味を理解しての発言?」
無表情のまま、問う。
(…ああ、そうだ。
無茶な相談なんですぜ。
自分の存在を公にすることは、裏道で生きる情報屋にとっては致命傷になる。
手段が手段である彼女には、なおさら、ありえない話じゃねえですか。)
オーロンは、面白い余興を観てみたいという自分の欲求を抑え、彼女の心境を察していた。
(もっとも……あの救国軍とかいう連中の凶行が成っちまえば、そんなことも杞憂でしょうがね。)
この地下室も、完全に首都圏である。
そう思うと、余計に背筋が冷えた。
「事の次第では…こちらの一生を、全て面倒見てくれる、そのくらいの覚悟があるのかしら?」
「ええ。」
「…即答とは恐れ入るわ。
私の身体に、たとえ、どのような障害があろうとも?」
「待った。
その質問には、答える必要はありませんぜ。」
続く二人の問答に、オーロンが急に割って入る。
「先生、その質問は公平じゃない。
人が悪いにも程が…」
「何であろうと、私の答えは変わりません。」
だが、たしなめる彼が全く眼中に居ないように、その横で平然と返される言葉。
(…出る幕なしときてる。)
オーロンは取り付く島を失ったが如く、重い鼻息を吐きながら、部屋の隅の影へと身を隠す。
「傲慢だわ。
いざとなれば、何でも自分の頭と口先で解決できる。
そう思っていなければ、到底吐けない言葉。」
イメルゲは頭を振りながら、席を立ち。
挟んだ机を大きく迂回して、フィンデルの脇へと張り付く。
わずかに紅潮させた唇が、平静を装う彼女の動揺を表していた。
「何故…そこまでするの。
もう軍属ではない貴女が。」
「理由を問われれば、返答に困るわ。
私自身、とても曖昧な感情なんだもの。」
一瞬、恥じらいと憂いの混じる、その横顔。
オーロンは部屋の片隅で、彼女と酒場で交わした会話を思い返す。
確か、あの時も似たような答えを聞いた。
その凡庸過ぎる言葉には、色々と感じるし、何故か惹かれるものがある。
だから、彼女への興味は尽きないのだ。
「一生を面倒見れる?―――そう問われた時、それも悪くないと思ったのは本心よ。
…理とはかけ離れたことばかりする、変わった友人を思い出したの。」
傍で微動だにしなくなったイメルゲに対し、フィンデルは笑って言った。
「ほんの小さな偶然の出会いからも、時に、生まれる絆があるわ。」
気がつけば、自分の細い二の腕を奪われていた。
◆ ◆
3
◆ ◆
ベルッサスが放心した様子でこの場を去ってからというもの、時の流れが嫌に鈍く感じた。
行き先さえ告げず、何処へ向かったのであろうか。
自身の敬愛する師がアルドの弟子だったという真実。
潔癖な気質の彼にとって、それが許容し難いものだったことは、想像に難くない。
「……先代はさ、ずっと昔に破門されてるんだよ。」
長い沈黙を先に破ったのは、カジェットの方だった。
「もしかして、アルドの叛乱が起こる以前に…ですか?」
すぐに返されるパンリの問いに、彼女は首肯した。
「アルドって奴は、世間では『大悪名』にさせられちまってるけど……本当はきっと、想いやりのある人
だったんじゃねえのかな。
自分の弟子達の叛乱を予測して、あえて先代を突き放してくれたんじゃねえかって…。」
我ながら都合の良い解釈だと思ったのか、そこで薄笑いを浮かべる。
「私も同感です。
世羅さんを見れば、その師である方が悪い人とは、とても思えません。
でも、どうして破門の件を、ベルッサスさんに伝えなかったのですか?
そうすれば、余計な誤解を招くことも無かったのでは……」
彼の正論に、カジェットの自嘲は深みを増した。
「誤解されて終わる関係なら、それまでさ。
コルスス達と同じように、いずれは袂を分かつだろうな。」
あまりに極論。
デリカシーの欠片も無い。
以前のパンリなら、その言葉を理解する前に、ただ閉口したことだろう。
「…信頼されているんですね。」
「考えるのが面倒なだけだ。
仲間とはいえ、結局は他人同士だしよ。
こっちも、いちいち気を遣っていられるほど、退屈じゃねえのさ。」
当然かもしれないが、自分の出会う人は皆、違う仲間観を持っている。
彼女もまた、その例に漏れなかった。
そして、一様に聞こえるのは―――
不確かで、曖昧で。
線引きが確かでない言葉。
だからこそ、パンリは、そこに興味を惹かれていた。
「…仲間の定義とは一体、何なのでしょうか。」
不意に口を突く疑問。
「自分が優しくされる理由を、言葉として聞かないと納得できないのか?」
それに対し、カジェットは厳しい表情で返してきた。
「……!」
その指摘に、唖然となるパンリ。
心臓を抉るように突いてきた言葉は、的確だった。
「お前って、ホントにおかしい奴だよなぁ。
他人が当たり前に感じていることを、そうやって難しく考えてる。」
絵に描いたような彼の反応が見れて愉快だったのか。
彼女からは自嘲は消えて、本物の笑みが戻っていた。
「ま、出会った当初は、誰にだって打算があるわな。
こいつに従っていれば、手を組めば―――得をする、強くなれる…とか。」
そしてカジェットは、遠くを見詰めながら言葉を紡ぐ。
「でもよ、苦楽を共にしていると…不意に、それが変化する一瞬があるんだよ。
それから先は、手に取るように相手の気持ちが解るんだ。
そうなると、色々な感情が入り混じって……もうワケが分からなくなって。
考えなんてそっちのけでさ……体が理屈抜きで、その人のために動いちまう―――」
まるで、パンリ以外の誰かに向けて、語るような仕草だった。
◆ ◆
ベルッサスは空を駆ける。
風来棒に乗って、山岳地帯を一気に降り。
辺りは、再び森林。
他の選手達と比べ、やや進行が遅れ気味の集団は、すぐに見付けることが出来た。
そしてそれは、『彼等』にとって予期せぬ来訪だった。
「……大した度胸だな。」
気配を断つこともせず、正面から飛来して、完全に姿を晒したベルッサスに対し、憮然たる面持ちで呟くコルスス。
周囲の木々の上には、おびただしい数の自分の手下達が佇んでいる。
それを分かっていてなお、相手の歩みには迷いが見られなかった。
「何か、重大な話でもあるってのか?」
だがその奇妙さに、あえて好転を予感したコルススは、周囲を御して自ら歩み寄る。
「おっと、全て言う必要はねえぜ。
頭の良いお前のことだ、大方の察しはつく。」
勝ち誇った彼の表情には、もはや疲労は無かった。
「争いを終わらせたいんだな?」
言葉と共に、一羽の夜鳥が森の奥から飛び立つ。
それを皮切りにして、無防備に歩を寄せ合う両者。
「同じ団員同士が、これ以上お互いに血を流すのは無益。
お前なら、その結論に必ず行き着いてくれると信じていた!」
周囲の手下達に聴こえるよう、大声が続く。
「そうさ、あんなバカな女に付き従う道理はねえんだ。
いくら尊敬する師匠の遺言だってなァ、認められねえものだってある!」
さらに大袈裟に手を広げ、全体に呼びかけるコルスス。
「オレならば、お前を立派に使いこなしてみせる自信がある。
今までのことは全て水に流し、共にカジェット空挺団を大きくしていこうじゃねえか。」
遂にはベルッサスの手を正面から力強く取り、歯牙を見せて笑った。
もはや、相手に争いの意思が無いことを確信しての行動である。
長い抗争。
その苦悩を、ずっと煩っていた周囲の面々は、不意に迎えた終焉に思わず緊張の糸を解いた。
安堵の混じる溜め息と共に、各々が居る枝が揺らぎ。
葉が乱れ落ちる中―――
「…兄よ。
我々ほど滑稽なものはないぞ。」
ベルッサスは生気の無い目で訴えた。
◆ ◆
苦楽を共にしていると、相互の理解が深まる一瞬がある―――
カジェットの論理を、彼女自身に照らし合わせてみれば。
そのぶっきらぼうな言葉の端々に、己だけで何もかも背負おうとする不器用さが表れている。
また、自己の信念のために、命をも簡単に捨て去る覚悟があり。
逆に奪うことも厭わない。
その屈強な人間性には、ただ圧倒されるばかりだ。
大らかで頼りがいのある、心身。
それでいて、彼女がその逆を求めることは無い逞しさ。
だが、パンリが瞳を閉じると。
その強者ゆえの暗部が、障壁となってそびえていた。
彼女を真に理解できるのは、おそらく同じ目線に立てる者しかいない。
「貴女は、あたかも私の中に既に結論が出ているように言われますが、やはり、分からないことで一杯です。
たとえば、強さとは…何なのでしょう?
自分は、強くなりたい理由が…それほど明確ではないんです。」
そんな儚い考えと共に、パンリは自然と言葉を続けていた。
問答をしている状況でないことは承知している。
それでも、自分の中で堰き止めていた感情が、溢れ出して止まらなかった。
「結構なことじゃねえか。
羨ましいぜ。」
意外な返答に、パンリは彼女の横顔を凝視した。
「お前もいつか、今の『まっさらな自分』が貴重に思える時が来る。
…人間、ある程度の性根が定まっちまうと、それくらい後戻りは難しいのさ。」
カジェットは、足元の岩の隙間から生えた植物を眺める。
数本の茎が互いを絡ませて、いびつに身を捩じらせていた。
「あたしがいい加減なのも、ベルッサスが堅物なのも……コルススが乱暴者なのも、もう変えられはしねえ。
だけど、お前は違う。
出たばかりの芽は、これからどう伸びるのか自由に決められる。
できることなら、あたしらみたいに曲がらずに、真っ直ぐ伸びて欲しいもんだ。」
そう涼しげに言って、彼女は笑う。
「昔に…戻りたいですか?
まっさらな時に…」
その問いの答えは、結局、返らなかった。
「……でも、今の混乱の原因は、あたしなんだろうな。
やっぱ。」
だが、わずかな照れを口元に浮かべながら、彼女は頭を掻く。
「団員の大半がコルススに従ったのも……まんざら力の支配ってだけじゃねえ。
男ってのは、どうしても女の下につきたがらねえ生き物だからよ。」
その口ぶりから、彼女には予ねてから、そういう考えがあるようだった。
他の団員との間に距離が見えたのも、このためかもしれないとパンリは思った。
「…貴女は、素晴らしい人です。
ただ、ちょっと誤解されやすいために、皆さんがその魅力に、気付けないだけなのだと思います。」
「よく、そんな恥ずかしい言葉を吐けるもんだ。
これだから、学のある奴は参るよ。」
慣れない慰めに対し、カジェットは彼の頭を軽く小突くことで返す。
「…あたしの空挺団のこと、まだ何も教えてなかったよな。」
そして、寂寞の地に再び沈黙が訪れる前に、彼女は告げた。
「中王都市より北、ずっと向こうに隠れ家があるんだ。
断崖絶壁をくりぬいて造った、小さな集落さ。」
まるで直面している危機から、故意に関心を逸らすような話題だった。
「普段はそこで修行して、仕事が入ると、そっちに精を出す。
凶獣退治や、規模の小さな戦争の加勢……色々なことをやったっけ。」
だが、パンリはすぐに、さらなる違和感を覚えた。
「でも……あたしの代になってからは、まだ何も出来てねえ。
ずっと、内部の抗争の始末に追われてる。」
彼女の話は、独り言に近い。
「あの人は…どう思ってるんだろうな。」
否。
生者に向けられていない。
虚空のみを映す瞳を眺めながら、パンリはそう悟った。
◆ ◆
「…滑稽とは、何のことだ?」
意表を突かれた言葉に対し、コルススが問う。
「今の二代目に資質を問う心。
そして、その行為全てが滑稽ということだ。」
「…抜かせ。
あんな女に、技量で負ける気はしねえ。」
「技量などを問題にしている時点で、お前に跡を継ぐ資格は無い。」
さらなる断言に、余裕を漂わせていた微笑を止めるコルスス。
「皆も、彼女こそが、先代の想いを最も体現した存在と知るがいい。」
さらに全く憚らずに、驚くほど通る声で言い放つベルッサスに、周囲の面々は互いに顔を見合わせた。
「傑作だな!
身内が身内を褒めるほど、見苦しいものはねえ!!」
すぐさま、その空気を変えるべく、コルススも声を張り上げる。
「お前や俺がいかに努力しようとも、到達できない境地がある。
それこそが今の…」
「やめだ、やめ!
結局お前は、代が違えども、あくまで『カジェット=セイルクロウ』の『信者』ってことだろう!!」
弟の不遜な態度に、今度は諦めたように一笑に付す兄。
「あの女の居場所に案内しろ。
サシで戦って、実力でその名を奪ってやる。
それならば、お前も納得してオレの手下になれるだろう?」
「案内する最中に、背中から襲われなければの話だ。」
「おいおい、心外だな。
オレが実の弟を騙し討ちをするような…」
「師匠に毒を盛った、欺瞞の塊が何を言うか。」
急に顔を寄せたベルッサスが、呟く。
それは、周囲の部下に聞こえないほどの小声であった。
「……あの女から、そう吹き込まれたのか?
ならば、逆に聞きてえな。
証拠はあるのかって。」
顔色一つ変えずに、呟き返すコルスス。
だがその詭弁は、ベルッサスの動揺を誘うには到らなかった。
眼前に据えられているのは、それほど強い意志と確信を持つ瞳である。
「ハッ! 真偽も量らずに、仇を討つ気マンマンか。
お前らしいが……やめておけ。
この数を相手に、たった一人で何が出来る。」
「心配は無用。
全員を相手にするつもりなど、こちらにも毛頭無い。」
改めて吐く気声は。
大きく、森に波及する。
「俺には、先代が遺された空挺団の『これから』を、あの人と作る務めがある。
そのために必要な団員達を、返してもらいに来ただけだ。」
身を転じて構え、手にした風来棒の切っ先をコルススの首元に向けるベルッサス。
辺りに潜んでいた夜鳥の全て―――その群れが一斉に飛び立った。
「…この決闘に手出しは無用。」
百雷の羽ばたきの中、周囲を嘗め回して言い放つ彼。
空を漂っていた温い空気は逆巻き。
誂えたように、肌を刺す寒風へと変わっていた。
「決闘だ……?
お前ごときが、勝手に決めるんじゃねえ!!」
コルススは、甲高い声と共に回し蹴りを先制する。
踏みこんで散らせた土砂が、辺りを包み。
ぶつかり合う肩と肩。
瞬間。
すぐさま半身をかわし、相手の背に自身の背を付けるベルッサス。
「もうこれ以上、カジェット空挺団に犠牲は必要ない。
……ここで終わらせる。」
その低い声が耳に届くのと同時。
弧を描いて放たれた肘が、コルススの側頭部をかすめた。
僅かな衝撃が脳を揺らし、夜景を一瞬にして歪める。
聴覚が刈り取られ、色を失った空間で、周囲の様子が嫌にはっきりとしていた。
誰も手を出す気配が無い。
弟の宣言どおりに事が運んでいたのが、不思議だった。
◆
頬骨にまで響く鈍痛。
そして軽い脳震盪に酔いながら、コルススは目を見開く。
今の攻撃自体に、驚いているわけではない。
弟のベルッサスが、こうも敵意を剥き出しにして向かって来たことは、今まで一度たりとて無かったからだ。
口元に垂れる鮮血を拭い、周囲を顧みれば。
全ての手下の視線が、この戦いに向けられている。
予期せずに、決闘の舞台が整えられてしまったことに、コルススは眉をひそめた。
(…オレとしたことが…。
まんまと、あいつの口車に乗せられちまったわけか…。)
懐柔などせずに、直ちに総攻撃の号令をかけるべきだった。
だが、後悔しても始まらない。
思考は、早目に切り替えるのが肝要である。
(これで五分と五分になったと思ったら…大きな間違いだぜ…。
…あの女とやる前に、軽く準備運動といくか。)
あの初撃は、むしろ自分にとって良い沈静剤になったと、彼は幸運で頬を緩めた。
団内においては、自分こそが誰よりも暴の技術を磨いてきた。
根底にある実力は、どうあっても揺るぎはしない。
コルススは、ゆっくりと風来棒を利き手に戻した。
◆ ◆ ◆
大陸全土からすれば、初代カジェット=セイルクロウは、それほど名の通った源法術士ではない。
だが、風来棒と名づけた櫂のような特殊な器具を発明し。
簡易ながら、有人飛行を成功させたことを鑑みれば、密かな傑物である。
彼が、飛翔艦や戦闘騎のように大陸を席巻する機を逃したのは、欲が乏しく、隠者のような生活を好む気質からだった。
半ば享楽的に始めた空挺団において、彼が主眼を置いたのは、やはり得意分野たる源法術。
さらに、それを補う戦力として、武器の携帯も認めており、特に厳しい制約は無い。
風来棒自体も、実戦に耐えうる堅い木材で出来ており。
平たい部分には、風を掴むための布が巻きつけられてはいるものの、急所に命中すれば、充分に致命傷となりえた。
彼の弟子達が自ずから、それを使用した格闘術に行き着いたのは、まさに自然の流れであった。
◆ ◆ ◆
コルススの棒術は弟子の中でも群を抜いており、団内一である。
今でも、数十合の打ち合いの後。
繰り出す連撃が、徐々にベルッサスの身を捉え始めていた。
「……何故、先代を殺めた。
その方法しか、考えられなかったのか。」
だが、怯むことなく間合いを詰めてくる彼は、再び小声で質してくる。
その顔や腕。
肌の所々は内出血によって、どす黒く染まっていた。
「野心が無かったからだ!!
オレならば……もっと、この空挺団を大きく出来る!!
世の中を、上手に立ち回ってみせる!!」
「…組織における重要な点だな。
その部分だけは、先代もお前を買っていたのかもしれない。」
「……!!」
そこで思いがけずに交差し、絡まる両者の風来棒。
コルススは、その静止した得物の間隙から重い蹴撃を胸に食らい、背後の朽木まで一直線に吹き飛ばされる。
「ぜひとも、二代目にも備わって欲しいところだ。」
「あの女に集団を運営することは、初めから無理だ!
だからこそ、オレが相応しいんだよ!!」
割れた幹に半身をめり込ませたまま、猛禽のような唸り声を上げるコルスス。
「……だが、兄よ。」
その目前の枝に、ベルッサスが降り立つ。
穏やかな表情であった。
「一時でも誰かの下についたのならば、忠実であるべきだ。
『俺は』そう思う。」
「お前の意見ン!?
ハッ!
それがどうした!! オレが聞く耳を持つと思ったか!?」
「押し付けなどはしない。
偉大なる師は、死してなお、全ての弟子に選択する自由を与えている。」
ベルッサスは、感情の悉くを受け流す。
コルススが砕けた幹の間から抜け出すのを待ちながら、まるで柳のような気配を保ち続けていた。
「だから…お前もまた、正しいのだ。
そして正しい者同士は、戦うことで勝負をつけるしかあるまい。」
「どんな綺麗ごとを語るかと思いきや……ただ、兄であるオレを殺したいだけか!
見下げた野郎に成り果てたな、ベルッサス!!」
「肉親の情など、上辺だけの小さな問題だ。
…もっと早く気付き、お前を止めるべきだった。
自分の至らなさが、腹立たしく思う。」
「まるで、今までオレに遠慮していたような言い草だな!
おい!!」
コルススは、やや遠い間合いから風来棒を突き上げた。
だが精彩を欠いたそれは。
威嚇の言葉と同様に、ただ虚しく空気のみを切り裂いていく。
先代が存命の時。
模擬戦では、程良いところでベルッサスは降参していた。
弟は、少し体格に優れている点を除き、全て自分に劣っている。
常に見下す対象だった。
負ける要素など皆無ではないか。
「オレに一度でも勝てたこと……ねえだろうが!」
可能性を否定するように、風来棒から手を離し、背に仕舞うコルスス。
「くたばれッ!
《針・雨》!!」
そして身を縮ませ、絶叫と共に唱える。
ハリネズミのように尖った、細い無数の衝撃が全身を包み、放たれた。
ベルッサスは咄嗟に身をかわしたものの、足場にしていた木の枝を崩される。
だが落下しながら、冷静に風を拾う彼。
コルススも棒を取り直し、それを追った。
脚が天を突き、頭は地をなぞる。
そこからは、カジェット空挺団の真骨頂である。
中空で繰り出される四肢の連打。
離れる折、別の風を纏い、再度ぶつかり合う両者。
木々の上で見守るコルススの手下達は、もはや跡目争いなどを抜きにして見惚れ、それぞれが同様の感傷を抱いていた。
何故、この二人が争うのか。
これだけの技術を持った二人が相反することこそ、自分達にとって、本当の意味での損失ではないのか。
押し上げる熱い感情は、さらに周りの風を押し上げていくかのようだった。
◆
ベルッサスのみならず、コルススも周囲の変化を感じ取っていた。
この戦いが注目を集めているのは当然としても、それだけでは説明のつかないものが空気に入り混じっている。
だが、それよりも、今のコルススを主に支配しているのは羞恥心だった。
格下と考えていた相手に対し、いまだ有効打を与えられていない現実。
屈辱と焦りが、さらに視界を濁らせていた。
「…お前は内外を問わず、暴力によって他を従わせてきた。
だが、そのようなやり方が通用するのは、自分よりも弱い者が相手の時だけだ。」
暴風のような攻めの中で、ベルッサスが低い声で迫る。
「お前のような人間は、恐れずに攻めてくる相手に対し……極端に脆い。」
論破する声だ。
「だからこそ、あの二代目を恐れているのだろう?
暴力で抑え込むことが、決して絶対的で無いことを気付かされてしまう存在であるからだ。
お前は、そんな彼女を平伏させることによって、自分の心に安寧をもたらせようとし。
団内における威光を、ただ知らしめたいだけに過ぎない。」
続く彼の苛烈な言葉に、コルススは顔面を真紅に染める。
額の血管ははちきれんばかりに怒張し、その心を映していた。
「誰に向かって説教してるんだ…。
てめえ……!!」
遂に、コルススは肉食獣の如く爪を立て、右手を構えた。
「《風・走》!!」
黄色い閃光に包まれたその手が、細い樹木を輪切りにしながら迫り来る。
かつてパンリの足を切断した、必殺の源法術であった。
「…その術で評価できるのは、威力のみだ。
軌道が単純すぎる。」
だがベルッサスは、その一撃にあえて接近。
相手の上腕に狙いを定め、軽く蹴りを当てるだけで、その稼動を止める。
「!!」
驚いたコルススは瞬時に離れ、態勢を戻した。
だが、右手の術は解けている。
隠しようの無い動揺の証だった。
「《土・葬》!」
相対するベルッサスは、その機を逃さない。
足元に生じた地滑りから逃れるため、真上に跳躍するコルスス。
だが、その動きを読み切って、回り込む俊敏な影。
「く、くそっ!」
コルススは枝を両手で掴み、その反動でさらに退く。
彼から離れないよう、ベルッサスも食らいつく。
互いに身動きがとれない距離で、形勢が動いた。
「《石・甲》。」
ベルッサスは握った砂利を、手にした風来棒に振り付ける。
―――物質の表面を媒体によって硬質化させるこの術は、本来は防御用。
だがこの時ばかりは、彼の得物をより強力な武器へと変貌させるのに一役買うことになった。
「ぐ…くそぉ!」
自分に向けて振り下ろされる凶器に、コルススが合わせた風来棒は、無惨に砕け散る。
鼻先を擦った、焦げ付いた匂い。
体が崩れる。
眼下のベルッサスは、脇の樹木を蹴り、その反動で落下地点に先回りしている。
そして、手前の地面に風来棒を突き刺し。
祈るような姿勢で、大きく息を吸い込み、肺を膨らませるのが見えた。
「初めに、火のゆりかご。
次に、風の子守唄あり。
そして大地の乳飲み子よ。
天空の牧者カジェット=セイルクロウの名をもって、その豊穣を分け与えたまえ。」
続けられる詠唱に、コルススは中空で手を泳がせた。
自分でも驚くほど、全く意味を持たない行動だった。
なまじ術の威力を予想できるため、事前に大きな焦りを生んだのだ。
「…《土・龍》!」
土が隆起し、三又に分かれる。
それぞれの先端は、無数の牙を持つ大蛇の姿をとっていた。
凄まじい速度と、唸り。
弟の徹底した心に。
全身が泡立った。
「く……《風・爆》!!」
唱えたコルススの周囲で、空気が爆ぜる。
迫る大蛇を相殺し、さらに反動を生かして傍の木まで避難する目論見だった。
だが、後ろから回り込んでいた大蛇の一匹が、煙幕を突き抜けて、彼の首元へと喰らいつく。
猛烈な勢いで、コルススを地面へと引き摺り込んでいく。
―――その凄惨な光景に、周囲の者達は息を飲んで前傾した。
「皆の者、聞け!」
ベルッサスは身の構えを解かないまま、大声でそれを制する。
「師や頭領に…全てを求めるな。
完璧な者など…何処にもいない。
だからこそ、互いを補って生きるよう出来ている…。」
大蛇に咬まれたまま地面に打ちつけられたコルススは、虚ろな意識の中で、不可解な語感を聴いた。
「かつて、アルドの弟子がそうであったように……弟子の数だけ、主義・主張があって良いはずだ…。
…ただ、従うだけでなく、自分の頭で深く考えろ。
…何が最善か。
そうして、納得した上で…二代目カジェット=セイルクロウに従ってくれれば…嬉しく思う……」
掻き消えるように、萎む声。
首元に食い込んでいた、牙が緩んだ。
「…!?」
そればかりか、大蛇の体を構成していた全ての土が溶けて、地面へと還っていく。
正面を向けば。
風来棒を両手で握り締め、膝を地に付けたまま、微動だにしないベルッサスの姿。
「…気を…失っています……。」
傍に寄って、彼の様子を確認した手下の一人が、驚いたように報告した。
「は……はは……!」
一瞬、腰砕けになってから、その場に駆け込んでくるコルスス。
「自滅しやがった!!
このバカが!
難度の高い術の最中に、偉そうに講釈なんぞ垂れるからだ!!」
そして、無防備なベルッサスの脇腹を、思い切り蹴り込む。
骨の砕ける音が響くが、彼が目を覚ますことは無かった。
「こっちは、あの女と戦うために、力を温存しておかなきゃならねえんだ。
てめえなんざ、まともに相手などしてられるか!
弟だと思って…少しばかり、手を抜いてやりゃあ図に乗りやがってよォ…!!」
常軌を逸した言い訳に、手下達は言い知れぬ恐怖を覚え。
遂に、弟を嬲り続けるコルススを、堪らずに背後から止める者が現れる。
「お頭…。
この人が、本当にあんたを殺すつもりだったと…思っているんですか…!?」
「うるせえ!!」
だが、返されたのは、振り向きざまの拳。
「寝惚たこと言ってんじゃねえぞ…!!
加勢も出来ねえ臆病者が!!」
鼻を折られ、悶絶する手下を見下ろしながら、コルススが叫ぶ。
「…てめえらも同罪だ!!
オレが、こんな勝負に本気で付き合うとでも思ったのか!?
敵の言うことを真に受けやがって、この愚図ども!!」
猜疑を剥き出しにした彼に、もはや誰も近寄ることは敵わない。
距離を置き、遠巻きにするばかりだった。
「そうか…お前ら…隙あらば、オレの地位を狙っているんだろう!?
そうなんだろ、おい!!」
向けられる害意の視線に、慌てて首を振る面々。
コルススは、そんな彼等の怯えた瞳を眺め、満足そうに笑う。
あまりに癲狂じみている横顔が、全員の心にさらなる強烈な畏怖を刻んでいった。
◆ ◆
4
◆ ◆
「―――なあ。
お前は、十年前のことを憶えているか?」
照明の無い廊下を歩きながら、戒は出し抜けに訊いた。
「……。」
どういう意味か。
そう問いたげに、豹頭が振り返る。
「俺様が自分の特別な力に気付いたのが、たしかその頃だ。
だが、当時を鮮明に憶えているかっていうと、そうでもねえ。」
「…何が言いたい?」
もっともらしい表情で呟くばかりの彼に、先を促すザナナ。
「いや、な。
最初は疲れのせいかと思っていたんだが…。
ここ数日の記憶が、まるで昔のことのように、ぼんやりとしててよ。」
シュナ達と組を違えて、別々に大会に参加した経緯。
自分と同じ聖十字を持つ神父、ウベらとの出会い。
パンリの負った重傷を治したことなど―――そこまでの流れは、大体把握できている。
だが、どうして自分が競技を途中で棄権することになったのか。
肝心の部分を考えると、霧がかかったように認識がぼやけてしまうのだ。
「…ザナナも同じだ。」
豹頭から漏らされた一言に、戒は合点して頷いた。
街を散策している最中。
彼も自分と同様に、どこか、うわの空だったのだ。
「こうなると、競技の最中か直後に何かがあったに違いねえ。
問題を解決するには、知っている顔と早く合流することだな。
勿論……そこは、まともな人間限定でよ。」
足元に視線を下ろせば、梅とその丸い背中にしがみついた小猿。
こちらの心配をよそに、二匹はあれからずっと、傍に飄々と居続けている。
「明日になれば、無事に大会も終わるだろうしな…」
戒は逸る気持ちのまま、視線を前に廊下を進んだ。
「畜生。」
だが直後。
壁に一撃いれて、舌打ちする彼。
「薄々おかしいとは思ってたが……ここは宿舎じゃねえ。」
呆れた。
ここまでくると、自分の頭蓋を割って、脳味噌を直に殴ってやりたい気分だった。
「つい最近のことだってのに…。
まったく…。」
誰に向けて言うわけでもなく、ぶちぶちと独りで文句を垂れながら、踵を返す直前。
戒は廊下の奥に注目した。
ドアの無い部屋からこぼれる照明が、多くの人影を作っている。
吸い寄せられるように、体が自然と動いていた。
◆ ◆
「以上、状況の説明を終わります。
…はっきり言って、ここから先は命の危険がある作戦になると思う。
戦場とは、得てしてそういうものだけど。」
背筋を緊張させて並ぶ士官達の前で、壇上のマルリッパは言葉を締めた。
少し離れた卓では、傍らでコルツがその場を見守り、事務官が声通機の調整を行っている。
結局、謎の組織からの通告は一度きり。
一方的な宣言のみだった。
首都を脅威にさらすと前置きしながら、それに対して何の代価も要求しない相手方の行動には、妙な違和感が残る。
だが、大国の威光を笠に着ることに慣れた者達は、自身に弓を引かれることに慣れておらず。
王宮に飛翔艦を墜とすなどという蛮行を、何者かが考えつき、はたして成し得るものなのか。
彼等にまず逃亡の一手という愚挙を犯させたのは、信じ難いという気持ちが半分。
もう半分は、元来弱腰の性根である。
「じゃあ、何か質問はあるかな…」
その末端の、恐怖に引きつった面々に、マルリッパは問う。
状況を包み隠さずに説明したのは、隊長であるコルツの意向でもあったが、どうやら功を奏しているとは言い難い。
「あの…出撃するのは、何も我々でなくとも…。
首都の周りには…基地が他にもありましたよね…?」
各々が遠慮がちに目を伏せる中、特に顔色のすぐれない一人が意を決し、弱々しく発言した。
「こういうときのために、国の税金が使われているんだから、戦うのは義務だよ。
他の基地は、他の基地……僕らは、僕らさ。」
「でも、先ほど実家の方から連絡がありまして…早く避難するように言われたのですが……どうすればいいのでしょう?」
「それは……」
別の隊員から出た質問に、マルリッパは言葉を失った。
しかし、自分で判断できずに、ここで訊ねてきた隊員などは、まだましな方である。
目の前に並ぶ彼等は、昼間と比べ、明らかに数が減っていた。
この駐屯地には、裕福な出の者が多い。
特に高家の連中などは、すでに役人の馬車に乗じて、首都を脱したことだろう。
「…確かに、ここも無事では済まないかもしれない。
でも大きな混乱を避けるという名目で、街に避難勧告は出されていないんだ。
軍人が民を見捨てて敵に後ろを見せるのは、とても恥ずかしいことだとは思わないかい?」
マルリッパも、相手が響かない鐘だということを承知しながら、あくまでも真摯に語りかけた。
「回りくどい話は、もうやめろ。」
だが、いっこうに上向かない場の空気を見かね、遂にコルツが言い放つ。
「貴様等がどんな甘い幻想を抱いて入隊したのかは知らんが…軍人は死ぬことが仕事だ。
それに納得できない奴は、ここを去れ。」
冷えきった室内に、さらに氷塊を投げ入れるかのような文句だった。
「従来なら敵前逃亡は重罪だが、裁く人間が真っ先に逃げだした今、何も遠慮することはない。」
保証を求めるような視線に対し、続けて放たれるコルツの一言。
そこから、士官達の行動は素早かった。
マルリッパが制止を呼びかける前に、争うようにして、狭い出入口を飛び出していく。
人によっては、二足で歩くことすらままならない。
軍の威厳が塵ほども無い醜態だった。
完全に予想通りの展開に、事務官は卓上に両手を付いて、頭を垂らし。
マルリッパは、彼らが胸から落としていった勲章を拾い上げ、絶望に打ちひしがれた。
◆
(…飛翔艦を墜とす…。
…王宮に……?)
冗談のような内容。
壁越しに聞こえてきた会話は、戒にとっても衝撃的であった。
先ほど脇をすれ違って逃げて行った、軍人達。
部外者であるはずの自分の姿に目もくれず、廊下の闇に消えていく。
自分は、王宮の正確な場所など知らない。
だが、その言葉の持つ意味くらいは解るつもりだ。
―――確か、大会の上位入賞者を招いて行われる晩餐会が、宮殿で行われると聞いた。
あの魔導人形が言った『宮殿』とは、王宮の意味か?
だとすれば、ここから近い位置にあるのは想像に難くない。
まだ競技中の人間も、この凶事に巻き込まれる可能性が充分にあるということだろう。
特に深刻な問題は、タンダニス王の存在である。
極秘で中王都市を訪れている最中、その身に何かあれば、世界にどのような影響を与えるのか。
そればかりは、全く想像出来ないだけに不安になる―――
「大変なことか。」
判り切った言葉を呟きながら、背後のザナナが静かに動く。
「ああ、悪いことは重なるな。
地震と津波と、火山の噴火が同時に襲ってきたようなもんだ。」
こんな状況で、軽口を叩く自分が信じられなかった。
覗きこんできた豹頭の瞳に映りこむ、己の顔は爛々と輝いている。
自分も、闘争に毒されてしまったのだろうか。
虚になった心を埋めるべく、振って涌いたような危機に胸が躍るなど、少し前には考えられなかったことだ。
「あいつらが下手を打てば、きっと大惨事だぜ。」
戒はそんな高揚感を紛らわせるように、室内に佇むコルツとマルリッパの姿を眺めながら、改めて小さく唸った。
「…ならば、助けてやればいい。」
「まあ、そう焦るな。」
そこで白槍を担いで前傾するザナナの袖を取り、しかめ面のまま囁く彼。
「こんな状況だからこそ、ギリギリまで粘って、こっちの腕を高く売りつけてやろうじゃねえか。」
「………。」
その言葉に豹頭は閉口して、二の腕を自慢げに叩いている戒の脇に座り、壁にもたれかかった。
「…フ族のすることは、いつも面倒だ。」
「ちょっとくらい、辛抱しろ。
首尾よく事が済んだら、美味いメシでも奢ってやるからよ。」
そして苦笑しながら、ザナナと同じ態勢をとる戒。
《 応答を願います。 》
その耳に飛び込んできたのは、女性の声だった。
丁度よからぬ企みを考えていた戒は、慌てて辺りを見回して探す。
足元にいる梅が、耳を立てて部屋の方を凝視していた。
それに倣い、室内を再度うかがえば、向こうの景色は慌しく動いている。
急に現れた声に肝を潰したのは、コルツとマルリッパも同様。
だが、それ以上に駭目を晒していたのは、卓上で声通機を調整していた事務官である。
機能している基地など何処にも無いと、たかをくくっていた。
《 現在、首都周辺の各隊に向けて、お尋ねしております。
誰か応答できる方はいませんか? 》
しかし、混じりっ気の無い声が、現に声通機から届いている。
まるで室内にもう一人居るかの如く、清らかで滑らかな声質だ。
「―――フィンデル大尉!!」
それを奏でる声通機を両手で掴み、叫んで応えたのは、マルリッパだった。
《 もう、大尉ではありませんが…。
その声は…マルリッパ少尉…ですか? 》
若干驚きながら、彼女の声も少し上ずる。
「あんたはもう退役したはずだ。
それが今、どこの基地にいる?」
喜びを露にしているマルリッパと対照的に、コルツは淡々と訊いた。
《 詳しいことは明かせませんが、こちらは軍事施設ではありません。
もはや関係できない身分であることも、承知しています。
でも今の状況に、じっとしていられなくて… 》
「と、とんでもない!
渡りに船ですよ!!」
コルツの詮索によって、急に色を失った彼女の声を、マルリッパは必死に手繰り寄せる。
《 そちらには、軍本部からの指示はありましたか?
ギルチ准将は何と… 》
「残念だが上の連中は、いち早く撤退を決定している。
おそらく、役人主導で決めたことだ。
准将の判断もそこには無いだろう。」
苦虫を噛み潰したように、言葉を返すコルツ。
声通機の向こうで、フィンデルも納得した。
他の基地とのコンタクトが一切とれないのも、それで道理が繋がる。
そして、その流れに逆らっているこの部隊だけが、最後の望みの綱だということも確信できた瞬間だった。
「こんな有様ですけど、大尉が手助けをしてくれるなら、きっと何とかなります!
どうか…どうか知恵を貸していただけないでしょうか!!」
「マルリッパ!!」
だが、既に退役した彼女にすがろうとする友の姿に、コルツは若干の抵抗を覚えた。
「みっともない真似はするな。」
「全力を尽くさずに後悔するくらいなら、みっともなくても結構さ!」
声通機の前で、頑として動かない両者。
だが睨み合いは、僅かも続かなかった。
「……確かにこの期に及んで、つまらん意地を張ってる場合じゃねえな。
それにたとえ『元』であれ、オレが大尉に従うことは、階級的に問題は無い。
…だな?」
深い溜め息と共に、コルツが呟く。
急に振られた言葉に、事務官は目を丸くしたまま絶句していた。
そして間もなく。
「これより、この基地はあんたに全指揮を委ねる。
以降の指示を頼む。」
卓上の小さな声通機に向けて、この夜、最大の決断が下されたのであった。
◆
「あのバカ…。
せっかく、争いとは無縁のところに行ったのかと思いきや…何やってやがる…。」
戒は、壁に背をつけたまま、思わず微笑んでいた。
「また巻き込まれて、流されて……つくづく、救えねえ女だ。」
そして、ずっと彼女の声に耳をそばだてている梅の頭を、掴むようにして乱暴に撫でる。
「ま、思ったより…元気そうだがな。」
大会の始まる直前、シュナが語っていたことは、間違いではなかった。
感情の赴くまま中王都市を訪れたタンダニスを自分は責めたが、彼は、ルベランセにいた誰もが出来なかったことをやったらしい。
ますますもって、彼の身に何かがあってはならない。
そう戒が決意を固めると同時に、廊下の奥から、やけに急ぐ足音が響いてくる。
一人の士官が引き返して来たのかと思いきや、それは別の人間のようだった。
暗がりのため姿は見えないが、漂わせている機械油の匂いは、整備場を彷彿とさせる。
「…緊急の要件です。
入っても…よろしいですか?」
息を切らせた様子の男は、その場に不釣合いな修道着と豹頭を交互に眺めた後、部屋を指して訊ねてきた。
◆
《 コルツ中尉。
それで、現状の戦力は…? 》
各々が囲む声通機から、凛として、整然なフィンデルの声が響く。
「戦闘騎の操縦士が二名。
声通機を管理している事務官が一名。
これで全部だ。」
《 ……少数精鋭というわけね。 》
沈黙と冗談を交えた彼女の言葉が、全てを形容していた。
迫り来る脅威に対する防衛力として、明らかに逸脱している。
「大尉、オレからの問いにも正直に頼む。
こんな戦力で、まともに作戦が立てられるのか?」
《 厳しいと言わざるをえないわ。
せめて、相手の詳しい戦力を把握したいところだけれども… 》
「それならば、私から説明いたします。」
大声を発して応えたのは、上着の袖を腕から抜きながら入室する男。
日中―――コルツの父親と一緒に行動していた者である。
「男爵様からの言いつけで参りました。
こちらの基地の指揮官どのは…どちらで?」
その問いに、三人は無言で卓上の声通機に目をやる。
真剣な彼等の眼差しに、冗談ではないことを察し、彼は頬を掻きつつ口を寄せた。
「よろしいでしょうか。
私はブロード=イマツェグと申します。」
《 フィンデル=バーディです。 》
「…おや?
随分と感度がいいな…ここの設備は。」
早速、話題が逸れたことに気付き、彼はネクタイを緩めながら真顔に戻る。
「失礼。
自分は、『強奪されたと思しき飛翔艦』を建造した会社の責任者です。」
《 ……! 》
向こうのフィンデルと同様、室内のコルツ達も、その彼の一言に驚愕した。
《 …手を貸していただけるのですね? 》
「はい。
そのために来ました。」
彼はそう答えてすぐに、悔恨の念を顔に浮かばせる。
「あれに乗っている者達は、その殆どが非戦闘員です。
命に大事が無ければ良いのですが…。」
《 彼等の安否は、今は祈るしかありません。 》
「そう…ですね。
今は、私どもに出来ることをやらなくては…」
少し冷淡ともとれるフィンデルの言葉だったが、イマツェグも、持ち前の柔軟さでそれに応えた。
「向こうの艦の戦力を、具体的に教えろ。」
機を見計らって、コルツが肝心な部分を問う。
「当該艦は、初めから賞品を目的とした運用が想定されていたため、弾薬の類は一切積んでおりません。
無論……強奪した連中が手を加えていなければ、の話ですが。」
依然として楽観視できない状況は変わらないものの、わずかに光明が射した心地だった。
「加えて、我が社の建造したもう一隻の飛翔艦は、無事に到着しております。
至急、それの艤装を済ませ、王宮を防衛できるよう手配を整えて参りました。」
さらに、朗報は続く。
「おかげで10万Yもした背広が台無しですよ。
もっとも……似合ってるつもりはありませんでしたがね。」
そして油に汚れた上着を、椅子に目がけて放り投げる彼。
「万が一の備えはいたしましたが、そこまでに至らないよう止めていただきたいのが本音です。
飛翔艦に飛翔艦で対抗するのは、本当に最後の手段として…」
《 解っております。
しかし戦略上、最後の砦が出来たのは、本当に心強い。 》
フィンデルの言葉に、彼等は勇気づけられる思いがした。
「しかし…あれを、なるべく無傷で奪還することは出来ないでしょうか?」
《 無傷? 》
「自分は設計に携わっているので、攻めるべき急所を知っております。
たとえば、技師用の小さな搬入口から、格納庫に乗り込めるルート。
簡単に内部の見取り図も描くことも出来ますし…」
「無用だ。」
考える間もなく、コルツは言い放った。
「強奪されていることが判明次第、目標は即時に破壊する。
加減する余裕など、こっちには無い。」
強く断言する彼の調子に、それ以上の反論は無かった。
現在が切羽詰まっている状況なのは、誰もが知るところである。
《 …イマツェグさん。
貴方ならば、飛翔艦が首都に達するまでの時間が予測できるはず。
やっていただけますか? 》
暫く押し黙っていたフィンデルが、やがて質問を変える。
「了解です。
地図はありますか?」
イマツェグは、彼女と室内、双方に対して呼びかける。
「あれはエレクカル・パレス社の最新の火力反応炉を積んでおります。
艦の最大速は、毎時14万M。
王宮まで、およそ三〜四時間で到達できます。
ヴァルクハルト方面の国境で連絡があったという話ですので…現在の空域は……」
早速、地図を羽根ペンでなぞり、彼は動きを止めた。
「件の通信は、どのくらい経ってますか?」
「およそ一時間は…。」
「となると…王宮の方角に向けて直進していると仮定して…」
予想されるコースを、細長い楕円で描く彼。
「ラスラン運河を渡ったあたりか。」
それを肩越しに覗きながら、コルツは言った。
地図上の、長い水色の線。
北東から南へ、かの地方を縦断している大河である。
「行くぞ。
今すぐ出撃すれば、首都圏に入る前に止められる。」
「待った…勘だけを頼りに出撃するのは危険だと思う。」
既に靴のつま先を外に向けている彼を止めたのは、マルリッパだった。
「こちらの網は、ただでさえ狭いんだ。
おそらくチャンスは一度……目標と大きくすれ違えば、そのまま逃がしてしまう可能性が大きい。
相手の正確な動きを、索敵しないと。」
「そんな!
ここから50万Mも離れているんですよ!?」
視線を向けられた事務官は、髪を振り乱しながら、素っ頓狂な声を上げた。
「常駐の方面軍ならともかく、ここからでは不可能です!!」
《 その問題ならば、こちらでなんとかします。 》
割り込んできたフィンデルの声に、一同は関心を寄せる。
遠隔地との会話が行えている以上、向こうにも念通士がいることは、想像できていた。
「まさか都合よく、その周辺にいるわけでもあるまい?」
コルツが問う。
《 どちらかと言えば、貴方たちの基地に近いところにいます。
しかし、可能な距離です。 》
「ありえない!
騙されてはいけません、コルツ中尉!!」
事務官は、逆上したように吠え立てた。
「中王都市の国土の横幅をご存知ないのですか!?
…約160万Mですよ!!」
そして卓上に広げた地図に、指で乱暴に大円を描いて示す。
「我が軍の念通士の一般的な索敵可能範囲が、せいぜい半径10万M。
これだけで『50万M』という数字が、どのくらい無茶なものか解るでしょう!?」
《 …疑うのも解ります。
しかし、こちらに任せていただけませんか。 》
「どうしても事実だと言い張るなら、一度そちらの念通士と話をさせて下さい!」
《 第三者に詳しい素性を明かさないことを条件に協力してもらっているゆえ、それは出来ません。 》
フィンデルの無味簡潔な声。
「では、どうやって信用すれば良いのですか!
お話になりませんよ!!」
《 ならば、この話は無かったことに。
失礼します。 》
「……え?
…あの…もしもし!?」
事務官が間抜けな声を洩らした頃には、既に彼女の声は途絶えている。
色々と端末を操作するが、応答は無い。
その縮こまった背に、全員の冷ややかな視線が突き刺さっていた。
◆ ◆
「…良かったの?
この国を救うことが、貴女の望みではなかったのかしら?」
急に自分の手から念通球を取り上げたフィンデルに、イメルゲが訊いた。
「頭を下げるだけが交渉じゃないわ。
全指揮を委ねられた私に対し、誰かが一人でも疑念を見せているうちは、まだ戦えない。」
彼女は真面目な顔つきで返す。
「それに、泳げない人が、いきなり船から海に突き落とされたら恐いでしょう?
数分もすれば、藁をも掴みたくなる。
互いに選択の余地は無いのだから、個人の感情など二の次よ。」
「…恐いのは、貴女の方かもね。」
イメルゲは肩を震わせて笑った。
「でも、この距離を索敵するだなんて、見得を切って大丈夫?
私、そんなこと出来るなんて言ったかしら。」
「この程度なら、余裕でしょう?」
先ほど壁から引き剥がしてきた小さな地図を、フィンデルは机上で叩きながら返した。
そんな彼女らの様子を、オーロンは部屋の片隅で見守っていた。
イメルゲは今のところ、なし崩し的にフィンデルに協力しているものの、それは気持ち半分である。
その証拠に、基地の声通機に介入するほかは何もせず、何も語らずにいた。
自分に関する情報を出し惜しみしているのだ。
―――無理もない。
いくら仲介人を交えたとはいえ、会って数刻も立たずに、相手に自分の全てをさらけ出す馬鹿が、どこにいるというのだ。
そう。
この裏社会は、信頼で成り立っている。
情報とは時として最大の武器であり。
それを取り扱う人間は、掴んだネタによっては、自分の首が容易に刎ねられることを知っている。
一見、相手がウマの合いそうな人間だとしても、そこまでの信頼が短期間で築けようはずもない。
…しかし、どうだ。
イメルゲは平静を装っているが。
自身の能力、またその限界にさえ、目途をつけている口ぶりをフィンデルにされて、内心は穏やかではないだろう。
「簡単な推測よ。
オーロンさんと初めて会った時、彼はゴーベ山脈における、ルベランセと炎団との交戦を知っていた。」
不意にフィンデルは、脇の彼に目を向けながら、実に堂々とした様子で述べた。
「民間人ならば絶対に知り得ないことだから、ずっと不審に思っていたのだけれど…その疑問はここで解決したわ。
全て貴女からの情報に他ならない、ということとして。」
「…情報屋の風上にも置けないわ。」
「面目ありやせん。」
半眼で呟くイメルゲに、こめかみを揉みながら小さくなるオーロン。
侮れないものだ。
彼女は、どんな小さな事柄でも冷静に分析し、真実を見抜く力に長けている。
「つまり最低でも、ここからゴーベまでの距離が、貴女の索敵が届く範囲であるということ。
ここからラスラン運河なんて、楽に越える距離よ。
…確かに、私の知っている念通士の範疇に収まらない能力だけれども。」
「私がずっと『ここ』にいるとは限らないでしょう?
その時、偶然にゴーベ近郊に滞在していたのかもしれない。」
質問を逆に切り返してくるイメルゲに、フィンデルは不意に視線を外し。
彼女のワンピースの、開いた胸元を見詰めた。
「貴女が女であることを差し引いても、その肌は白過ぎるわ。
もう長い間、この地下室を出ていない……もしくは、動けない理由があるのではないかしら。」
だが、既に事態を看破している当人にとっては、もはや蛇足のようであった。
「…恐れ入ったわ。」
イメルゲも観念したように呟き、椅子に深く背をもたれる。
「…でも、私には『協力しない』という選択肢があることに変わりは無いのよ。
今だって、気まぐれで手を貸しているだけなんだから。」
「気まぐれ?
それは違うわ。」
意地のように聞こえた言葉に、首を振るフィンデル。
「貴女は初め、モンスロン卿の姓を名乗った。
たとえ実の娘でないにせよ、彼に対して好意的な感情を持っていなければ、そのようなことはしない。
今まで勝手な憶測を色々と語ったけれど……あの時点で、私を助けてくれることを確信できる。」
彼女の実直な言葉に。
イメルゲの白顔は一層に色を失い、不意に動かなくなった。
「…オーロンさん。
大尉は、想像以上に面白い人ね。」
やがて呆れたように、うつろな笑みを浮かべる彼女。
「理知的な行動をしているかと思えば、変に感情論が混じってる。
そこがなかなか、魅力的でしょう?」
手にかいた冷や汗を握りながら、彼も答えた。
「大尉のことを、もっと良く知りたくなったわ。
この国や軍隊に肩入れする気は無いけれど、きっと、この事の顛末は見なくちゃ損ね。」
そう言って、イメルゲが意気揚々と机の下部から取り出したのは、奇妙な物体だった。
太めの小刀。
だがその刃には、念通球と思しき物体が三つ埋め込まれている。
「あれを使うんですかい…」
早くも瞼を閉じて集中する彼女の様子に、オーロンはうんざりした様子で帽子を目深に被った。
次の瞬間。
フィンデルは、たじろぐ。
幻想のように、イメルゲの身体から強烈な光を放つ人像が、魂が抜けるように出てきたからだ。
女性的な形状だが、身長はその倍。
そして、巨大な瞳が一つ、人間でいうところの頭部に付いている。
「興味本位で、『あれ』には触れないでくださいや。
三日は寝込んじまいやすぜ。」
オーロンが自信をもって説明するのは、既に経験済みであるからだろう。
「精神の集合体だか何だとか……まあ、原理はわかりませんがね…。」
これがイメルゲの諜報力の正体なのか。
その驚くべき光の人像は、床に居るうちは鈍い動きを見せていたが。
やがて宙に浮くと、細かい光の筋となって、凄まじい速度で天井に吸い込まれていった。
「一次メルファ・アルケ状態安定。
東の方角へ向けて、遠隔視開始。」
体温の低い無機質な言葉が、彼女の口から続き。
「現状維持のまま、第四速度で直進。
…ルグラン地方……ジトン地方通過。」
そして瞬く間に、中王都市の各地を横断していく。
「…ラスラン運河の上空に到達。
付近の空域には、見受けられないわ。」
向こうの念通士は、こちらが提示した事に、あからさまに難色を示していた。
無理もない。
これは、まさしく人外の能力だ。
「索敵範囲拡大。
さらに遠方の空域…に中速で接近する物体……。
おそらく…これね。」
そこで彼女の眉が小さく反応すると、薄く開けた瞳の視線が、地図上に落ちた。
「首都王宮より、東東南の方角。
付近にバスクレイ大聖堂、確認。
首都より、距離……およそ70万M。
高度…およそ5千M…」
「ありがとう。
もう充分だわ。」
素早くメモを走り書く彼女に、フィンデルは堪らずに声をかけていた。
この遠隔視は、想像していたよりも楽な作業ではない。
身体に相当な負担を強いていることが、差し出された紙の震えから伝わってくる。
「…どう?
これで…私がもう、大尉を疑っていない証明……出来たかしら?」
イメルゲは深い疲労を表情に湛えたまま、呟いた。
オーロンはそこで初めて、通信を断った時のフィンデルの言葉が、基地側ではなく、正確には彼女に向けられていたものであったことに気付く。
フィンデルは類い稀なるその智謀で、イメルゲからの信頼を勝ち取り。
イメルゲもまた、フィンデルの言葉の裏に隠された真意を理解し、応えて見せたのだ。
何という慧眼の応酬だろう。
興奮に背筋が踊る。
まったく、緊張感あふれる音楽劇を、特等席で観ているようだった。
《 ……おい!
応答してくれ!! 》
イメルゲがナイフを置き、念通球を握り直すと、コルツの現実を帯びた声が途端に響いてくる。
《 …先ほどの件だが、こちらの人間にはきつく言っておいた。
あんたの協力者がどこの誰だろうと、余計な詮索はしないことを約束する。
今後も含めてだ。 》
「ご理解に感謝します、中尉。」
フィンデルは慇懃に礼を述べながら、自身の手をイメルゲの指に重ねることを忘れなかった。
◆ ◆
「―――バスクレイ大聖堂?
本当に、まだその辺りにいるのですか?」
向こうからの報告を地図で参照しながら、真っ先に疑問の声を上げたのはイマツェグであった。
「想定の半分程度しか速度が出ていない…。
どういうことだ…。」
「エンジンまわりのトラブルでは?」
「ええ…。
工房で完成したばかりの機体には、ありがちなことですが…。」
マルリッパの呟きに、彼は頭の働きを止めずに答えた。
「何にしても、ついている。
首都から遠くなればなるほど、撃墜がしやすいからな。」
《 中尉。 》
コルツが洩らした一言に、呼びかけるフィンデル。
《 本当に、撃墜しか方法が無いのかしら…。
それでは、地方に住む多くの人間を危険にさらす恐れがあるわ。 》
「…なら、どうしろと。」
《 先のイマツェグ氏の作戦…。
せめて白兵戦が行える人員が少しでもいれば、考えようがあるのだけれど…。 》
「冗談はよせ。
強奪された飛翔艦を、また奪い返せって言うのか?
しかも空中で?」
コルツは、声通機を睨みつけて言った。
「そうですよ!
下手に敢行して失敗し、首都圏に侵入される方が問題です!!」
先ほどの件に懲り、口を閉ざしていた事務官も思わず声を荒げる。
この時ばかりは、彼もコルツと同意見のようであった。
《 人が住んでいるのは、何も首都だけではありません。
被害を最小に抑えられるよう、最大の努力をするべきです。 》
「優先度の問題ですよ!
王宮と比べれば、他の地域の損害はやむをえないと、言いたいのです!」
事務官の言葉は、自分の保身の気持ちも含んでいる。
だが、その言葉は正論であり、咎められる者はいなかった。
◆
壁を隔てた廊下で、戒もやりきれない思いで聴いていた。
「…マルリッパ。
どうした?」
響くコルツの声。
再び身を乗り出して室内の様子を覗くと、マルリッパが大口を開けて、呆けたように動きを止めていた。
実に容易に、彼の思考が想像できる姿だった。
ちょうど駐屯地を訪れている、自分らの姿が浮かんでいるのだろう。
「…少し席を外す。
大尉の言うことを、よく聞いておけ。」
そこでコルツは、有無を言わさぬ口調で事務官に告げると、強引にマルリッパの腕を取って廊下側に寄った。
思わず、身を隠し直す戒。
「お前。
今、何を考えていた!」
マルリッパに対する厳しい叱責が、頭のすぐ後ろで響く。
「…彼等ならきっと、頼めば手を貸してくれる。」
返される低い声。
壁に張り付きながら、戒は苦笑した。
いよいよ、連中が泣きを入れてくる。
ここで自分が何食わぬ顔をして颯爽と登場すれば、後は算段通りに事が運ぶはずだ。
彼は修道着の皺を直し、中腰になった。
「―――奴等には、適当な理由をつけて、ここを脱出するよう伝えておけ。」
だがその動きを途中で止めたのは、コルツの一言だった。
「言っておくが…これは意地を張ってるわけじゃないぞ。
やれることは全てやらなければ後悔する……お前の言葉に、オレは大賛成だからな。」
「なら、どうして…」
「だからこそ、あいつらを逃がしたい。
軍隊は相手の命を奪い、自分の夢を捨て、希望を諦める……生臭いところだ。
もう関わって欲しくねえ。」
それを聞いたマルリッパは、力のこもった肩を下げて、穏やかな表情に戻る。
「すまん。
結局、コルツ=デスタロッサ隊は、始まりも終わりも二人きりだ。」
そして腕を目一杯に伸ばし、手袋に包まれた拳を突き出す相手。
「謝ることないさ。
君に振り回されるのは、いつものことだもの。」
マルリッパは、もはや何も考えず、それに手を打ち合わせていた。
恐怖は無い。
それに代わるような友の決心と成長ぶりに、ただただ感じ入っていた。
―――だがそこで、不意にコルツの姿が消えた。
廊下から何者かの手が伸びて、その後ろ襟を掴み、引きずり込んだのである。
マルリッパが慌てて追いかけると、そこは修羅場だった。
「ふざけんなよ…勝手に決めやがって…!!
出て行くのも残るのも、俺様の自由だ…!!」
怒り心頭の様子で、コルツに詰め寄っている戒。
闇の中の低い位置にザナナも居るが、そちらは微動だにせずに胡坐をかいているままだった。
「何もかも背負いこんで、自分らだけが犠牲になってよ。
それで、悲劇の英雄気取るつもりか?
そんなこっちゃ、失敗するのがオチだな。
無駄死にするに決まってる。」
意気を挫くような手厳しい言葉の連続。
コルツは持ち上げられた態勢のまま、それを黙って凝視している。
「おいブタ!
てめえも、人をおちょくってんのか。
あれだけ勧誘しておいて、いざとなったら『はい、消えろ』ってか!?」
「え、違うよ!
ただ……きみらのことを思って…」
急に矛先が自分に向けられて、弁解しながら後ずさるマルリッパ。
「この俺様が、逃げ出した奴等と同等の扱いってのが気にいらねえ!
そんな程度の評価しか、してねえってことがな!!」
だが聞く耳持たず、大きな軌道を描く戒の張り手が直撃し。
口の中を走る痛みに、彼はうずくまった。
「おいおい、お坊ちゃんよぉ〜。
前回の戦いの経験で、急に大人になったとでも言うのかぁ?」
そして悪びれもせず、今度はコルツの頭を、手の甲で軽く叩き始める戒。
「他人を思いやる心なんざなぁ〜、らしくねえんだよぉ〜。
俺様の言ってること、解りまちゅかねぇ、このクソガキが〜?」
「……。」
挑発には乗らないとばかりに、コルツは首元の拘束を強引に振りほどき、無言のまま背を向けた。
しかし、その隙を狙って、戒はその尻を蹴り飛ばす。
「な……!?」
肩から床に転げてくるコルツに、片足を上げて仰天するマルリッパ。
「盤上の駒が、あれこれ気を回すんじゃねえ!
てめえらの勝手な行動が、どれだけフィンデルから勝利を遠ざけているのか、わからねえのか!!」
戒は額に血管を浮かばせながら、怒りを撒き散らす。
雷鳴が轟くような騒音に耐えかねて、梅と小猿は、そそくさと離れた位置へと退避する。
「まったく…イカれてるところだけが長所だった野郎が、丸くなっちまうとロクなことが無えな。
戦闘騎をよこせ。
俺様が代わりに出撃する。」
「……!」
「てめえらはそうだなぁ…。
丸々してるのは、ブタだ。
二人揃って丸くなったところで、『ブタちゃんズ』にでも改名して、ブーブー踊ってろ。」
その暴言を聞きながら、片膝を立てるコルツの目は据わっていた。
「せっかく、人が気を利かせてやりゃあ……好き放題言いやがって!!
このド素人が!!」
そして腰に提げた拳銃を抜き。
振り向きざま、その柄で殴りつける彼。
「…らしくなってきたじゃねえか…。」
切れた唇から垂れた血を、指で拭う戒。
「ま、まるで子供の喧嘩だ……!
ザナナさん、止めてください!!」
そこから始まった取っ組み合いに、マルリッパの絶叫にも似た声が、廊下にこだました。
床に座したまま傍観していた豹頭は、肩の槍に手を伸ばして立ち上がる。
次の瞬間。
加減を知らない一振りが、戒とコルツの身体を凪ぎ。
両者を壁に打ち付けた衝撃は、建物全体を震わせ、マルリッパだけでなく、室内の事務官とイマツェグをも驚かせた。
「やはり、フ族は面倒だ。
たまには理屈をこねずに、素直になれ。」
床に重なって伸びる二人に、ザナナは気付けの言葉をかける。
「外で待っている。」
そして下から突き上げる彼等の怨嗟の眼差しを、鼻息で一蹴し。
槍を担ぎ直して、踵を返す豹頭。
全てを達観したような彼の背を目の当たりに、二人は同時に立ち上がった。
「野郎……!
仕切ってんじゃねえぞ……!!」
そして、乱れた髪を両手で掻き上げながら、大股で続く戒。
「てめえら…少しでも足を引っ張りやがったら、腹に鉛弾をブチ込んでやるからな!!」
そんな調子で、コルツも後を追う。
「コルツ!!」
「お前は大尉の作戦を、最後まで聞いて来い。
…オレは戦闘騎を暖気してくる。」
マルリッパの不安そうな呼びかけに、彼は振り返らずに答えた。
わずかに見えた口元が、吹っ切れたように不敵な笑みを浮かべている。
隊長たる者が、作戦の場を中座する。
その勝手な振る舞いは、また昔に戻ったようだ。
ただ、あの頃とは違う。
並ぶ三人の姿を眺めているうち、マルリッパは理解した。
―――もし自分が、戒の立場にされたなら、同じように激昂するに違いない。
「二人とも!
何をやってるんですか!!」
室内で、事務官の助けを求める声。
場を繋ぐので精一杯だったのだろう。
マルリッパは大急ぎで部屋に戻ると、卓に向かい、声通機に口を寄せた。
「…すみません、戻りました。」
《 マルリッパ少尉、どこからか増援を求めることは出来ないかしら…。
やはり現状の戦力では… 》
フィンデルの声に頷き。
「そのことですが、急遽…二名参加に。
白兵戦向きの人間です。」
マルリッパは、窓ガラス越しの宵闇を眺めながら答えた。
「どんな策でも命じて下さい。
…全員、貴女を信じていますから。」
言葉と共に、自然と涙が浮かんできたのは、殴られた頬の痛みだけではなかった。
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第四章
第七話 『三つの嵐』
了
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to be continued…