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4-6 「以心変心・後編」




This story is a thing written by RYUU


Air・Fantagista


Chapter 4

『Coming in flight warship age』


The sixth story

'Understand・last part'





◆ ◆ ◆



 中王都市の領土拡大期。

 その軍勢が凱旋した橋に、初代リエディン王の偉業を称える『西征門』は建造された。



 無骨で巨大な石柱は、鎮護の証。

 揺るぎない礎と共に、堅牢な国家に守られているという喜びを、万民に与えてくれる存在である。



 そして古人達は、如何に思うだろうか。

 それが今、文明の一端を体現する饗宴の終着を飾ろうしていることを―――





 西征門と南の湖に挟まれた平地に、軍の基地がある。


 駐屯する部隊の名は、中王都市軍・第8防衛部隊。

 首都方面軍の内の一つである。



 見晴らしの良い敷地を縦断し、閑散とした滑走路を行く。


 途中で格納庫を覗けば、飛翔艦は最奥で埃をかぶっており。

 整然と並べられた戦闘騎からも、煤の香りがしない。


 この国の軍隊は中枢に近付くにつれ、形骸化していくのが現状らしく、ここもその例に漏れていない様子である。



 コルツとマルリッパは、そうして興味半分で見物したのを後悔しつつ、軍務区画へと足を向けた。



「―――コルツ・デスタロッサ中尉、マルリッパ=エングス少尉。

 両名とも…只今、到着いたしました。」


 レンガ造りの小屋の二階。

 執務室の扉を開けるなり、いつものようにマルリッパが代表して挨拶をする。



「すみません!

 今は取り込み中でして……!」


 だが、その中にいた若い男の事務官は、いきなり指で口元を塞ぐ身振りを見せた。

 彼が机を挟んで相対している先客の二人組に対して、大そう緊張している面持ちでもある。



「親父じゃねえか…。

 こんな所で何してやがるんだ。」


 彼との予期しない遭遇に、コルツは開口一番、不快感を露にした。



「なんか、また忙しそうだねえ…。」


 マルリッパもまた呟く。



「例の艦が国境を越えたのか、それを知りたいだけだ。

 早急に、向こうの基地と確認を取ってくれ。」


 だが当の本人には、それらの言葉は一切耳に入らない様子だった。

 大きな執務室で、たった一人しかいない事務官に対し、ひたすら苛ついた口調で威圧を続けている。



「チバスティン男爵様、どうかされたんですか?」


 少しでも場の雰囲気を和らげようと、改めて明るい口調で声をかけるマルリッパ。



「…ああ……君か。

 賞品になっている飛翔艦の到着が遅れていてな。

 競技も終盤に近付いているというのに、間に合わないとなれば、笑い話では済まされん。」


「いやはや、面目の次第もないです。

 手筈は綿密に整えたつもりなのですが…。」


 片や男爵の傍に侍る男は、件の艦の関係者らしい。

 それなりの立場の人間のようで、終始、品の良い微笑を浮かべている。



「その程度のことで、取り乱しやがって…。

 情けねえ。」


「……だが、これが私の仕事だ。」


 呆れて思わず口走ったコルツに、男爵は目を合わせずに言った。



「補給物資が前線に届かないなんて、しょっちゅうだぜ。

 これだから、現場を知らない奴等は…」


「政治は、表面に見えることが全てではない。

 一見して矮小な事柄が積もってこそ、大局へと繋がるのだ。

 …いずれ、お前にもわかる。」


 そうして、もっともらしいことを言って話をはぐらかす父親の口を、コルツは随分と昔から眺めていた気がする。



 戦場を幾つも経てきた彼にとって、その類の言葉はもはや受け容れられるものではなかった。


 政治家が語るほど、人に余裕など無い。

 『瞬間』を健やかに生きることこそが、最大の至福なのである。


 生死のやり取りをしたことのない連中は、認識そこが根本的に間違っているのだ。



「―――では、向こうと連絡がつき次第、知らせてくれ。

 私は西征門の運営本部に居る。

 非公認の屋台まで沿道に広がっていてな、警官隊にきつく取り締まるよう発破をかけねばならん。」


 男爵は一秒すら惜しむように、後ろ歩きで指示を下し、ステッキの音を忙しく床に響かせながら部屋を後にした。



「まるで雑用係だな。」


 そんな彼を見て、コルツは吐き捨てるように言う。



「雑用係こそ、政治家のあるべき姿ですよ。」


 軽く会釈をしながら呟き、男爵の後を追う品の良い男。


 立場上、共感するものでもあるのだろうか。

 それとも、単なる世辞なのか。


 どちらにせよ、同じ穴の連中の詭弁だと、コルツは心の中で蔑んでいた。



「おい、親父の件なんざ後回しだ。

 例の物はどうなってる?」


 そして頭に昇った血も降らぬうち、平机を乱暴に叩き、声を荒げる彼。



「は。

 少々、お待ち下さい……」


 促された事務官は立ち上がり、壁際にある棚の引き出しに手を回す。


 するとそこで、奥のカーテン越しから、軍の駐屯地らしからぬ談笑が聴こえた。



 見れば、ちょうど窓の真下に設けられた小さな庭で、茶会ティータイムが行われている。

 若い兵士達が付近の町娘を連れ込んでいるようで、それらの声が響いていたのだ。



「…日和ひよりやがって。

 こういう時に敵が攻めてきたら、どうするつもりだ。」


 見下しながら、まだ慣れない様子で胸ポケットから葉巻入れを取り出すコルツ。



「中王都市の首都に侵攻する?

 そんな畏れ多いことを考える輩がいるのなら、一度拝んでみたいものですよ。」


 口元に笑みさえ浮かべて話す事務官の横顔に、マルリッパは不吉なものを感じた。



 大陸における空の軍事力の重要性が増すにつれ、それらは社交界に対しても高い地位を築くようになっていた。

 この基地では、さらに輪をかけて貴族や豪商の子息達が多く集っており、きつい教官も訓練も無いと伝え聞く。



 首都中西部の『お坊ちゃん』部隊といえば、軍内でも有名だったが、実情は噂以上かもしれない。



「貴様らはムーベルマでの軍隊のもろさを知らないから、そんなことが言えるんだ。」


「ムーベルマ?

 あれは事故でしょう?」


 軍の流した偽の風評を真に受けているためか、また冗談のように笑い、書類の束を差し出す彼。



「とりあえず、あのバカ騒ぎしている女どもを追い返すよう伝えろ。

 30分後に訓練を開始する。

 ……オレは、これまでのようにはいかねえからな。」


 コルツは目を剥きながら、ようやく取り出せた葉巻の端を強く噛んだ。





◆ ◆ ◆



エア・ファンタジスタ

Air・Fantagista




第四章

飛翔艦時代到来



第六話 『以心変心・後編』



◆ ◆ ◆



◆ ◆




 コルツ・デスタロッサ隊がこの地に来た理由は、軍総司令部からの辞令以外の何ものでもない。

 実戦経験の豊富さから、教官役を兼ねての配置である。


 万年、各地の戦場を駆け巡っている彼等としては、極めて珍しい任務だった。



 ただっ広い敷地の一角に、似つかわしくない緑の芝と、装飾の施されたテーブル。


 きっと定期的に、先程のような会合が行われているのだろう。

 そんな洒落たテーブルの席に、二人は全く似合わない無骨な様子で座り込む。


 と―――



「…本日は、ご高名なデスタロッサ隊にお目にかかれて光栄です。

 まずは何をしたら宜しいでしょうか。

 臨時教官殿。」


 前に並ばせた『もやし』達の中から、一人。

 全くといって良いほど擦れていない、玉子のような肌の少年が、愛想笑いを浮かべながら声をかけてくる。



 集団の中でリーダー格らしい彼は、軍服だけは一丁前で。

 胸元に何やら、既に光り物を付けていた。


 ―――士官学校の成績優秀者、第四級の褒章。

 コルツは、それを面白くなさそうに眺めてから、口を開く。



「普段は、どんな訓練をしている。」


「用兵学を主に学んでおります。

 戦闘騎を使用した訓練は、五日に一度ほど…」


「整備実習は?」


 続いてのマルリッパの問いに、相手は怪訝な表情を隠さなかった。



「整備は……いつも整備士が行っておりますが?」


「貴様。

 もしも戦場で整備する人間が、流れ弾にでも当たって死んだらどうするつもりだ。」


「…はあ……それは…考えたこともありませんでした。」


 コルツから突きつけられた厳しい言葉に、彼は首を傾げながら呟く。



「ただでさえ、機械ってのは気まぐれなんだ。

 自分で修理できなけりゃ、生きて帰れなくなる時だってある。」


「しかし……上級士官たる我々が、そのような前線に行く状況は…とても…」


「もういい、この敷地を10周しろ。

 体力の錬度を見てやる。」


「…10周……ですか。」


 先程までの媚びた笑みはどこへやら。

 相手は恨みがましく何かを呟きながら列に戻り、言われたままの指示を全員に告げる。



 一挙一動が鈍く、もたもたと離れて行く隊列の無様な姿に、コルツは鼻からゆっくりと煙を吐いた。



 彼等とは、階級も年齢も殆ど同じだが、思想と経験は全く違う。

 まるで、異民族と話している錯覚さえ起こしそうだった。



「……司令部も、冗談が過ぎるぜ。」


 コルツは吹かしていた葉巻を、まだ中身の残っているティーカップに入れる。

 この様子では、戦闘騎の操縦も期待できないだろう。



「それにしても…入隊希望者、集まらないと思っていたけども…まさか『0』とはねえ。

 これだけ各地に募集をかけたってのに…。」


 芳しくない結果を知らせる書類の束に目を通しながら、マルリッパも呻く。



「戦闘騎部隊の中でも、オレたちは武闘派で聞こえてるからな。

 それだけ根性のある奴が、今の中王都市にはいねえってことだ。」


 コルツは頬杖を突き、もう息が上がり始めた連中を遠景に眺めながら返した。



 自分達は、もっぱら血を求めて転戦していると揶揄され、また畏怖されていた部隊である。


 事実そうであったし、その悪評を承知の上で補充要員を募った。

 だからコルツにとって、この結果は予想と大差無い。



 むしろ予想外だったのは、司令部が、同隊の未来を憂慮してくれたことである。

 辞令の書類に『補強人材の確保・編入を許可する』という項目を見た時には、流石に驚いた。



 しかし彼等が、男爵家という自分の家柄だけで判断し、配置先を選んだのは明らかで。

 ここの連中ときたら、過酷な部隊に組み込むには力量不足は無論のこと、何よりも必要な覇気に欠けている。


 少しでも才能ある人間を見初めて一から育てていくにしても、果たしてその性根まで変えるに至るかは、

甚だ疑問が残る資質であった。



「この際、高望みは出来ないよね。

 メンバーがたったの二人じゃ、何の活動も出来やしないからさぁ。」


「マルリッパ。」


 コルツは顎を上げながら、傍の彼に呼びかける。


 暗雲が立ち込めている現在の状況とは正反対の、清々しい青空だった。



「……オレは近いうちに必ず、軍と騎士団との全面衝突があると睨んでいる。」


 背もたれに首を掛けたまま、初めての敗戦に思いを馳せる。



「その時はムーベルマで散った連中への弔いに、騎士どもの死体を倍にして送るぞ。

 一機でも多く撃ち墜とし、一人でも多く撃ち殺す。」


 激昂した様子もなく、平然と粗暴な言葉を吐き連ねる少年の姿を、他人は決して良く思わないだろう。


 こんな時、マルリッパはいつも、黙って聞き手に回る。

 幼馴染であり、昔から付き従ってきた彼だけが、その狂気を完全に解することが出来る存在だった。



「中でも特に、部下を目の前で殺して行った……銀色の戦闘騎あいつは忘れられねえ…。

 麻薬の代わりに、いまオレの脳を焼いているのは、あの時の記憶だ…。

 奴を墜とすための部隊は、やはり屈強でなくてはな…。」


 虚ろな表情で呟き続けるコルツは、あれから己の訓練にも余念が無い。

 腕がさらに磨き上がっていく自分の可能性にも改めて気付かされ、今ではその相手との邂逅を感謝している節もある。



 彼があえて補充要員を陳情せずに、募集という形をとったのも頷けた。

 この溢れる闘争心を共有できる仲間以外は、『新生コルツ・デスタロッサ隊』には無用なのである。



 実に彼らしいやり方だった。



「そして…オレが軍内で信用のおける人間は、お前だけだ。

 今まで以上に手をかせよ。」


「そ、そんなの当たり前じゃないか。」


 急に振られた言葉に、マルリッパは笑顔で即答する。



 あの会戦以来、変わったのは気概だけではない。

 友としての自分に、昔以上に信頼を寄せてくれるようになったのだ。


 マルリッパは、それを最も嬉しく感じていた。



「しかしさあ。

 この軍隊さえまともだったなら…コルツはもっと出世して、皆から尊敬される軍人になれたはずだよね。

 先の戦いを、これほど見据えている人間は他にいないもの。」


「現状をとやかく言っても始まらねえだろ。

 それに……出世なんぞより…有能な部下に巡り合うことの方が、よっぽど重要だと思うがな。」


 最後の語句を、彼は少し気恥ずかしそうに呟く。

 だがマルリッパは、もう一度言わせようと、聞こえないふりでいた。



「別に、お前のことを言ってるんじゃねえぞ。」


 それを何となく察したコルツは、彼の椅子を蹴り飛ばす。



「あ…そうだ!

 早速、有能な副隊長から隊長殿へと提案がございます。」


 その衝撃によって、何かを思いついたマルリッパが、わざとらしい口ぶりで切り出した。



「軍の内部からの召集が難しければ……外部からはいかがでしょうか。」


「何か思い当たる奴でもいるのか?」


「思い当たらないかい?

 ほら、元・ルベランセのメンバーだよ。」


「?」


「戒=セバンシュルド。

 彼、鍛えれば、かなりやれるんじゃない?」


「………。」


「あ、いや…どうかなって…思ったんだけどさ…」


 その名前を出した途端、黙り込むコルツに、マルリッパの言葉尻は弱まった。



「…確かに、あいつは、素人にしちゃあ骨のある方だったがな。

 とても誰かの命令の下で動くとは思えん。」


「でも一応、打診してみたら…」


「いいんだよ。」


 諦めた口調。

 だが、その唇は、静かに笑っていた。



「実はな、それはオレだって全く考えてなかったわけじゃない。

 あいつの治癒の能力を見たら、どんな軍人でも自分の部隊に組みこんでみたいと思うだろう。

 もしも配置するとしたら、後方部隊だな。」


「彼、けっこう器用に見えたしね。

 …それなら、コルツが先陣で切り込んで、僕が中盤をまとめるってことかぁ。

 彼が入れば、理想の部隊になるよ、きっと。」


「理想どころか、奴の加入で、おかしくなる可能性の方が大きいと思うぜ。」


「いやいや。

 日頃から、うちの部隊は守りが弱いと思ってたんだ。

 バランスを取るためにさ、今度は守備部隊を増強…」


 二人は暫し、愉しげに互いの構想を交わした。

 昔から、この種の談議に興じると、時間さえ忘れてしまう。



 そんな折、湖の船着場から、敷地内に繰り出し始める集団の列。

 二人の視界を横切り、まっすぐ街の方へと向かっていく。



「何だ、あの連中は?

 民間人のように見えるが…」


「例の飛翔艦争奪レースのリタイア組らしいよ。」


 コルツの疑問に、その話をあらかじめ聞かされていたマルリッパが答える。



「親父の手配だな。

 まったく…軍の施設を私的に使いやがって…」


「それはそうと、彼等は無事かなぁ?」


「オレが一目置いているんだぞ。

 こんなところで失格するような…やわな連中じゃ…」


 言いながら。

 早速、列の中に戒ら三人の姿を目撃する彼。



「え……?

 あれ…!?」


 マルリッパも思わず立ち上がり、テーブルに身を乗り出した。



「何で、お前らが、ここにいるんだ?」


 そんな彼の図体が目に留まり。

 戒も寄って来る。



「…ここは軍の敷地だ。

 いて当然だろ。」


 それをコルツは、憮然とした様子で迎えた。



「それはちょうど良かったぜ。

 この辺りに宿は無いか?

 なるべく安い所だぞ。」


 彼等の気も知らず、戒は物珍しそうに周囲を見回しながら、空いている椅子に平然と腰掛ける。



「ちょっと待て。」


 そこでコルツは、後方でザナナに背負われている世羅に気付いた。



「そいつ、どこか怪我してるのか?

 だったら、すぐに医務室へ…」


「風邪みてえなもんだ。

 気にするな。」


「……なら、いいけどよ。」


 戒のつれない返答に、彼は誤魔化すように葉巻を取り出して、火を点ける。



「なんだ、随分と偉そうなもの吸ってやがるな。」


「蜂蜜風味のシガレットさ。

 今、街で流行ってる、お菓子みたいなものだよ。」


 戒の疑問に、嬉しそうに答えるマルリッパ。


 薬の依存をすぐには断ち切れないと思い、彼が薦めたものだった。

 思いのほか、効果があったのが喜ばしい。



「ところで、あの船に乗ってきたってことは……大会の方はもしかして…」


 今度は逆に、マルリッパが、なるべく穏便に訊く。



「人が手ぶらで帰って来てんだから、少しは察しろよ。」


「ご…ごめん。

 過酷なレースだったんだね。

 顔中、傷だらけじゃないか。」


「いや、こっちは船の中でリンチされちまってな。」


 頬に手を触れながら、含みのある笑みを浮かべる戒。



「…何を言っとるんだ、まったく。

 人がせっかく治療した病人達に、また大怪我させといて…」


 そんな彼の背中を、ぼやき声が突く。


 振り返ると、白衣の小人がいた。

 最初に世羅の治療に連れて来られた船医である。



「お前も船を降りるのか?」


「ジャグマー君たちが船内の後始末をしている間だけな。

 ……しかし、おかげで到着も大幅に遅れるし、もう無茶苦茶だよ、あんたら。」


 そしてザナナの方にも目を配り、肩をすくめたまま、街へと足を向ける彼。



「まあ、しばしの休憩を楽しむとするよ。

 お大事に。」


「ああ。」


 微妙に感慨深いものを感じつつ、戒も別れの挨拶に応えた。



「……元気が有り余ってやがるようだな。」


 だがその余韻に水を差す、コルツの低い声。



「何か文句でもあるのか?」


 戒は睨み返す。



「その力、軍隊で使う気はないか。

 ……暴れるのが仕事みたいなものだからよ。」


 コルツは顔を背けながら、苦虫を噛み潰したような表情で、言葉をひり出した。


 おそらく彼なりの、精一杯の勧誘だろう。

 マルリッパは微笑ましい気持ちで、ただそれを見守っていた。



「軍隊だぁ?」


 一方、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で聞き返す戒。



「住む場所と金は保証してやる。

 …女一人くらい養うには充分だぞ。」


「は……冗談…だよな?」


「本気です。」


 視線を泳がせる戒に、この機を逃すまいと、マルリッパは姿勢を正して畳みかけた。



「…そうか。

 おまえら……遂に、この俺様の才能に気付いたのか。

 …いいだろう。

 この国の腰抜け軍隊にはうんざりだが、中でも少しは根性のある、お前らの部隊になら入ってやっても構わねえ。」


「……本当か?」


 彼の返答に、コルツは気色ばむ。



「その代わり。

 俺様が、隊長に就任することが条件だ。」


 だが言葉は、まだ終わっていなかった。



「いざとなった時によぉ、操縦席で半ベソかくような奴が隊長ってのは、いかがなもんですかってことですよぉ。

 なぁ、コルツちゃん。」


 テーブルの上で、顎と唇を突き出して、おどける表情。


 完璧に、人をおちょくっている。

 先の言葉も全くの冗談で、その気が無いのは明らかだった。



「……なるほど。

 お前が隊長ってのは、まるで考えてなかった。

 それも、けっこう面白いかもな。」


 だが、感心したように呟いて笑うコルツ。

 突っかかって来るものとばかり予想していたので、戒は少し戸惑った。



「じゃあ、僕は副々隊長になっちゃうねえ!」


 さらに、再びテーブルから身を乗り出してくる、はしゃいだ様子のマルリッパ。



「な、なんだこいつら……気味悪ィ…」


 戒は堪らずに席を立ち、後ずさる。

 すると不意に、傍にいたザナナの胸にぶつかった。


 そこで力無く地に落下し、乾いた音を立てる槍。



「…!

 どうした?」


 異変に気付いた戒が寄ると、つい先程まで軽々と彼女を背負っていた彼が、ひどく消耗している様子だった。


 大量の汗の雫を、首筋や裸足に浮かべているのである。



「…あつい。

 また世羅の熱が、高くなっている。」


「薬が切れたのかもしれねえな。

 早く休める所を探さねえと。」


「それなら、軍の宿舎に空いてる部屋が沢山あるよ。

 好きなだけ泊まっていっていいからさ、さっきの話、ちょっと考えてみてくれないかな。

 ……そこでゆっくりと。」


 マルリッパは話に割って入り、今度は揉み手で怪しく迫り来る。



「泊まってやってもいいが、百年考えたって、軍隊なんぞ入らねえからな。」


 戒はまた一歩離れ、早急に建物の方へ向かうよう、ザナナに目で合図をした。



「まあまあ、そんなつれないこと言わずに。

 僕たちは同じ飛翔艦でカレーを食べた仲じゃない。」


「馬鹿野郎。

 それくらいで気安いんだよ。」


「今なら三食・昼寝つき。

 大サービスで、おやつも付けるからさ!」


 ズボンのポケットから大量の棒キャンディーを出して、その執拗な勧誘は止まることを知らない。



「…わかった! わかったから!

 三秒くらい考えといてやるから、離せよ!!」


 あまりのしつこさに、戒は適当に答え。

 掴まれた袖を振り払い、逃げるようにして去っていく。



「彼が加わってくれれば……理想が現実になるよね。」


 それを見送りつつ、どこか達成感のある満足げな表情で、マルリッパは椅子に座り直した。



「だからって、あまり下手に出るな。

 みっともねえぞ。」


「さっき、自分が話したことを忘れたの?

 部隊を強くするためなら、何でも協力するさ。

 ウチの隊長に出来ないことなら、特にね。」


 もっとな反論と、決意を固めた友の笑顔の前に。


 コルツは何も言い返すことが出来なかった。



◆ ◆



 参加者達の全てが去ったのを確認してから、小一時間。

 選手村では、運営側による撤収作業が進められていた。



(ここらが潮時かもな…。)


 バーグは段々と慣れてきた着ぐるみの中で、雑多な作業をしながら思う。



 後半戦の開始直前に、戒の組が離脱したことをシュナから告げられたこと。

 結局、手助け出来たのは序盤のみで、裏方として華々しい活躍を想像していた自分にとっては、実に不本意な結末になってしまったこと。



 様々な思いの末、彼は代わりにシュナ達のサポートに回ることを提案したが、それは丁重に断られた。


 そのことで、この種の親切が、本当に正しい行為だったのか。

 今では、それさえも判らない。



《―――一体、これはどういうことですか?》


 心沈む最中。

 双頭の魔導人形の甲高い声が響く。


 何事かと思い、目を向けると、武具や雑貨を並べている区画が騒然となっていた。



《何故こんなにも、武具の行方が不明なのです?》


 人形はそこで、物品の勘定作業をしていたらしく、支払われたリングの数と品物の数が合っていないことに

疑念を持っているようだった。



《搬入と移動に関しては、全てあなた達に任せているため、他の者は一切触れていないはず。

 ……よもやのことは無いでしょうね?》


 張り詰めた空気の中。

 腕章を付けたリーダー格のジャグマーに詰め寄る魔導人形。



 確かに、用意された武具は巷に流通する正規の品ではないものの、性能は同等である。

 それらを盗もうと考えても、何ら不思議はない。


 だが、部外者のバーグから見ても、彼等は任務に忠実な者達で、文句一つこぼさずに一生懸命働いていた。

 不気味なほどに、統率もとれている。


 果たして、こそ泥のような、そんなせこい真似をするだろうか。



「あの…」


 それまで場を静観していた女性が、眼鏡を片手で上げながら自信なさそうに切り出す。


 自分が『秘書官の立場』であることを、ことあるごとに持ち出し、愚痴っていた女だ。



「後半のコースの交換所へ、多目に流れてしまったのでは?

 何かの手違いで…。」


《手違い?》


 人形は再び周囲を見回しながら、全員に問いかける。

 だが、やはり何の返答ももたらされなかった。



《…わかりました。

 首都に帰還する前に、私自らそこへ寄って確認しましょう。

 たった一振りの剣でさえ、不明な物は許しません。

 全ては、ギルドの所有物なのですから。》


 魔導人形の認識に刻まれているのは、恐ろしいまでのギルドへの忠誠と執着である。


 それに対し、延々と気の無い言葉を返していた女性秘書だったが、仕方なく同行しようとする様子が見てとれた。



 バーグは、一時的とはいえ、彼等の疑いが晴れたことに安堵している自分に気付く。


 同じ恰好で共に作業していたから、一体感を持ったわけでない。

 元々、彼等とは形は違えど、アルドの叛乱を共に生きたという感覚が、まだ心の奥底にはあるらしいのだ。



《…今の話を聞いていたでしょう?

 何を怠けているのです、早く準備なさい。》


 そこで、呆と様子を眺めていたバーグに目を付け、顎で示す人形。



 彼からしてみれば。

 抜け出す機会を完全に失ってしまったようである。



◆ ◆



「……あの話、受けるのか?」


 ザナナが訊いてきたのは、世羅をベッドに寝かせ、薬を飲ませてからすぐだった。



「受けるわけねえだろ。

 まあ、ギャグとしては受けたけどな。」


 引きつった笑顔で切り返す戒。



 軍の宿舎は、飾りっ気こそ皆無だが、清潔感のある悪くない環境だった。

 それでも彼は、長居する気は毛頭ないつもりである。



「俺様の目的は、あくまでも飛翔艦だ。

 時間はたっぷりあるしな、別の方法くらい簡単に見付けてやるぜ。」


 戒の陽気な言葉を聞いて、ザナナは胸を撫で下ろした。

 コルツらと会話を交わしている彼からは、まんざらでもなさそうな、そんな気配を感じたからだった。



 戦う方法は熟知しているが、飛翔艦を手に入れる方法など、皆目見当もつかない。

 世羅の夢を叶えるには、戒だけが頼りなのである。



「そんなことより、荷物を回収しに行くぞ。

 金から、何もかも預けたままじゃ身動きがとれねえ。

 確かフンドシ野郎の馬車は、ゴール付近で待機しているはずだ。」


「…うむ。

 やはり、いつもの槍が無いと、落ち着かん。」


 細身の槍を肩に乗せながら頷き、同意する豹頭。



「というわけだ。

 お前はおとなしく…」


 二人が世羅の方に向き直した、その時だった。



 寝かせたはずの彼女が、そのベッドの向こうで大きく開け広げられた、窓の下枠に腰掛けている。



「…なにしてんだ…?

 危ねえぞ。」


 最初、それが熱にうなされたせいだと思い、和やかに促す戒。



《無力なくせに、その余裕ぶりは、流石に目に余る。》


 だが返る彼女の声は、普段と似つかない異質なものであった。



「……お前…誰だ…?」


 鼓膜を刺すような音に対し、戒は思わず、そう口走っていた。



《なかなか冴えた、良い質問だ。

 戒=セバンシュルド…だったかな?

 そう、キミたちのことは……虚ろだが憶えている。

 この肉体が経験したことは、お前達で言うところの『夢』のように、ワタシに伝わっていたからな。》


 指先を額に付けて、一つ一つを確かめながら呟く彼女。



《…同時に、8年の歳月の中で、これ程までに負荷がかかったことは無かった。

 そのおかげで意識を一時的に解放することが出来たとはいえ、手放しでは喜べん。》


 さらに己の胸に両手を当てて言う。

 直後、そこから伝わる感触に落胆し、彼女は自分の身を何べんもまさぐった。



《…やはり……この身体は、育ちが鈍い。

 所詮、急ごしらえの器か。》


 上着の脇の隙間から手を入れて、小ぶりな乳房を確認し、さらに嘆く。


 戒とザナナは、その奇妙な彼女の行為を、ただ目を見張って眺めていることしか出来なかった。



《―――確信した。

 …急がねば。

 中途半端な力の者の傍では、この大切な器が傷付くばかりだ。

 ……ワタシは、『他の連中』ほど、気が長くない。》


「!!」


 ザナナは彼女に対し、始めて身構えた。


 あの愛らしいエメラルドグリーンの瞳は、今ではどういうわけか。

 暴虐を示すかのような、ルビーレッドへと変貌している。



《この国まで連れてきてくれただけでも、キミらには感謝してやろう。

 もっとも、先を望むため、さらに力のある者の所へ向かわねばならないが…。》


 素早く、長い手袋を外す彼女。


 その細い左腕に、普段は浮かんでいるだけの黒い紋様が、地を這う蛾のように不気味に蠢いていた。



《…お別れの前に。

 見下ろされているのは好かんのでな。》


 奇術を見ているかのようだった。


 彼女がその左手を横に凪いだ瞬間。

 周辺の空気が赤く染まり、二対の巨人の姿が浮かびあがる。


 それらが手にし、振り下ろしてきた棍棒は灼熱。

 戒とザナナは、それぞれ上から圧されたことで、四肢を強制的に屈ませられた。



《これで見栄えが良くなった。

 畜生は、畜生らしく、だぞ。》


「…てめえ…どこでこんな術を…おぼえて…!

 寝惚けるのも…いい加減にしねえと、怒るぞ……!!」


 彼女の恍惚の表情を前に、背中を焼かれながら必死に叫ぶ戒。



《感謝しろ。

 そんな無礼な言葉を許すのも、『世羅=ディーベンゼルク』に尽くしてくれた故の、特別だ。》

 本来なら、今の一言で灰塵に変えている。》


「尽くしただと…? 勝手なことを抜かすな…!

 お互いの目的のため…協力するっての……忘れたのか!?」


 戒は僅かな望みをもって、仲間としての世羅に語りかけた。



《キミ達が勝手に決めたことなど、知らんな。

 それよりも…》


 だが対する彼女は即座に否定すると瞳を閉じ、彼等とは対照的に涼しげな面持ちで、両手を耳の裏に当てた。



《聴こえないか?

 この大陸の中心に、多くの神の息吹が集まりだす音を。

 乱世が近い。

 これより強き者は、星の数ほど現れる。》


 続く言葉の後、黒炎に包まれる彼女の全身。

 衣類はその悉くを焼かれ、白い肌が露になった。



 半身を侵されている、他の黒い紋様は一切がそのままである。

 異常はやはり、左腕のみにあった。



《積年の恨みを晴らし、暴虐の限りを尽くせる日が近い。

 そう思うと……全身が喜びで打ち震えるよ。》


 自身の細い指を、彼女は己の唇に触れてから、甘く噛んだ。

 今まで見たことの無い彼女の扇情的な仕草に、戒は、思わず自分の顔が火照るのを感じた。



「やめろ…!!」


 それらを拒絶するように叫ぶ彼を前に、彼女は嗜虐の気配を湛えた表情を反らし。

 窓に座ったまま妖しく足を組む。



《その、禁断の果実を見詰めるかのような、無垢な目は何だ?》


 世羅の意思が既にそこに無いことを確信させる、邪な笑みだった。



《やはり、天に矛を向けるに相応しいのは……天に限りなく近い存在のみ。

 キミは先程…協力がどうだとか抜かしたが…》


 そしてベッドに敷かれていたシーツを、無造作に掴み、その身に羽織る。



《あきらめろ。

 所詮、鎖に繋がれた獣ごときでは、天を仰ぐことすらままならん。》


 片足が窓にかかり、さらに外へと踊り出た。



「ま……待ちやがれ…!」


《何故、『逃れえぬもの』が、どうしてキミごとき痴れ犬に期待したのか、今となっては理解し難いな。》


 無理な体勢で追いかけようと、勢い余って床に伏す彼を一瞥し、悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女。



 その言葉で、戒は鮮烈な記憶を呼び覚まされる。



 夢のような空間で語られた真実。


 その『逃れえぬもの』と呼ばれる何かは、確かに自分に世羅を託した。



 同時に、彼女の中には複数の神呪が眠っていることも教えたのだ―――



「……て…てめえは…」


《天命第一位『忘却の炎』。》


 黒炎に包まれた手を二人に向けてかざし、呟く。


 室内で増した熱波が、巨人をも巻き込み、高まっていった。



《キミのさだめが、ワタシと再び交わるのなら、また逢えるかもな。》



 ―――それが最後の言葉だった。





 扉を強く閉めた音で、二人は我に返る。



「……?」


 自分が後ろ手に握っているドアノブを、不思議そうな顔で眺める戒。



「…何で、こんな所にいるんだっけか?」


 訊くが、同様の心地で廊下を見回しているザナナからは、返答は無い。



「荷物……取りに行くんだろ。

 なら、こんな所に用はねえよな。」


 他人事のように呟いてから、戒は笑う。

 それすら、ザナナが携えた槍を見て気付く始末だった。



 まるで寝起きのように、浮付いた足取りで進む。



 廊下の窓の向こう。



 軍施設内に在る教会の鐘台に、少女は座り。

 その様子を最後まで眺めていた。





◆ ◆



◆ ◆



「異常無し。

 不気味なほど、静かだ。」


 斥候から帰還したウベが、修道着の袖に付いた砂を払いながら、皆に報告した。



 選手村を出てから、二時間弱。

 周辺の森を抜け、山岳地を目前に控えると、いよいよ周りの景色は寂れてくる。


 前半戦のように、ぬかるんだ足場にも困らされたが、この慢性的な登り斜面もまたきつい。



 そんな折、途中で泉を発見できたことは僥倖であった。



 幼い娘達のため。

 ウベは本格的な山道に入る前に、ここで休息を持ちかけた。



 意外なことに、誰からも反対の声は出なかった。


 どうやら各組とも、それぞれの思惑があるようなのである。





 その話が決まった途端。

 カジェットという大柄な女は、そそくさと仲間の二人を連れて泉の対岸へ移動した。


 彼女らの会話に耳を傾ければ、ここで仲間の少年を鍛えるつもりらしい。


 何も競技中に……と、内心で感じたものの、他人には他人の事情がある。

 ウベも、それ以上は立ち入ろうとはしなかった。



 対する一方、シュナは『ちょうど、おやつの時間帯ね』などと呑気に笑い、火を焚く準備にとりかかる。


 そして彼女が元から共に行動している、ヘイカという男。

 疲労とは無縁に見える偉丈夫だが、嫌な顔一つせずに休憩を快諾してくれた。


 ウベはその心遣いに感謝しつつ、彼の太腕に装着されている膨大な数のリーダー・ブレスレッドを気にかけていた。


 穏やかそうな人間が、いざ戦闘となると、一転して凶暴な人間へと豹変することは珍しくない。

 普段ならば、絶対に気を抜けない人物だろう。



 …にもかかわらず。

 先程、自ら斥候に出た時、娘達を無造作に置いてきてしまったことにウベが気付いたのは、それからずっと後だった。


 どこか安心してしまう。

 ここは、人間味のある、温かさを感じる集団だった。





 戦況は依然として、『多数』に有利な展開である。


 大方の予想通り、どこの組も後半戦が始まった直後に、複数の組から成る一時的な同盟集団を作った。

 故に、互いに探り合いとなり、早くも膠着の様相を呈している。



 リーダー・ブレスレッドのみに高いポイントが設定されたため、上位を狙うには、どうしても他組を潰さねばならない。

 だが、見知らぬ土地での集団戦闘は、相応の危険を伴う。


 今のところ、この矛盾を看破できた組は皆無だった。



 参加者の粗暴さが目立ち、無秩序だった前半戦とは違う。

 それらが排除され、質が向上した現在では、各組の慎重さは顕著である。



「この流れが始めから計算のうちならば……主催側の善意と作為を、半々に感じるのう。」


「…ええ、まったく。

 ルール無用のはずなのに、これでは流血が起こりようもありません。」


 タンダニスの皮肉った呟きに、ウベも肩をすくめて応えた。


 命こそ保証される展開だが、逆転の機会も無いに等しい。

 この先、何かしら波乱でも起こってくれなければ、順位はこのままだろう。



「しかし、用心を怠ることは出来まいて。

 どれ……次はわしが行こう。

 自ら斥候に出るなぞ、60年ぶりかの。」


 多数の腕輪を所持している余裕からか、嬉々としながら、左腕を大きく回しながら立ち上がるタンダニス。



「はは。

 アルドの叛乱の、それも初期ですか?

 それにしては、お若く見える。」


 その言葉をウベは冗談と捉えて笑い、彼の代わりに傍の切り株に座り込んだ。



「陛下…!!

 そのような任務は、私めにお命じ下さいませ。

 もしものことがあればいけません。

 その御体は…貴方一人のものではないのですから。」


「野暮じゃな。

 こういう時くらい、楽しませい。」


 彼は、駆け寄ったアリアネの過ぎる心配に辟易した様子で、ふらりと消えていく。



「……ふぅ…。」


 そんなつれない主の反応に、彼女は視線を落とす。

 ことあるごと、つい小言を出してしまう自分に嫌気がさしてしまう一瞬である。


 自分にとっては、彼への慕情から来る反射行動なのだが、それを煙たがられる構図は、随分と昔から変わっていない。


 いつも微妙にすれ違っている。

 二人の仲が進展することなど、ありえるのだろうか―――



「…旦那さんのことが、本当に大切なんですよね。」


「え!?」


 そこへ突然、微笑を湛えたエリスが声をかけてくる。

 不安と本心を見透かされたようで、アリアネは驚きのあまり硬直した。



 建前上、二人はタンダニアからの参加者として、さらに夫婦ということで皆に紹介されている。

 知らぬ間に、シュナがそのように取り計らっていたのだ。


『嘘をつくという感覚よりも、その役を演じるように、遊戯のつもりで楽しめばいい。

 その方が、かえって怪しまれないで済む。』


 ―――シュナは、そのように説明した。



 事実。

 策は功を奏していて、他の者達は、タンダニスの素性や偽名に一切の疑問を抱いていない。


 そんな中、やはり自分だけである。

 どこか要領が悪く、またもや浮いてしまったのは―――



「ほんと。

 二人の様子を見ていると……まるで、主従関係よね。」


 続けて、レンまでもが呟いた。



「それにあの立派な髭……」


 さらにウベが、自分の顎先に触れながら、険しい表情で畳み掛ける。



「あのっ…!

 ひ、髭がどうかしましたか?」


「…いや、手入れが大変そうだと思いまして。」


 慌てて詰め寄るアリアネに、面食らいながら呟く彼。



「…手入れ……そ、そうですよね…。

 でも…ああいうの、今タンダニアで流行ってるんですョ、けっこう…」


 特徴的な彼の長い髭は他国でも有名で、タンダニス王の印象と直結するものである。


 自分の早とちりに、アリアネは及び腰になりながら、自分の襟を正した。



 妻を演じる役。

 いつも彼の傍に侍る親衛隊長として、決して難しい任務ではないはずだ。



「しかし、こんなに若くて可愛らしい、献身的な奥さんがいるなんて。

 まったく、ヘイカさんが羨ましいものです。」


 だが固い決意も、そのウベの何気ない一言で吹っ飛んでしまう。



「いや、いやいやいや!!

 私なんて、そんなそんな!!

 あの方と釣り合いが取れようもなく…」


 まるで茹でダコのように顔中を真っ赤に染めて立ち上がり、大袈裟に否定する彼女。

 それと対照的に、頭の中身が真っ白になっていくのが、自分でも良く判った。



「あ〜あ。

 お父さんも、再婚すればいいのにな…。」


 だが、その反応には気を留めず、レンは顔を背けて、わざと聞こえるように大きく呟く。


 普段はそのように淋しさを見せないが、物心ついた時より、母のぬくもりを知らぬ娘なのだ。

 今は戦場の緊張感から解放されて、程良く地が出てしまっている。



「いつも苦労かけてすまないな。

 私にもっと、甲斐性があれば…」


 ウベは完全に困り顔で、苦しげな言葉で応えることしか出来なかった。



「……でもさ、そうなると、あのシュナって人との関係は?

 彼女も何だか、色々とお世話してるみたいだし。

 自分の旦那さんが、あんな風に若い女に慕われてるの……普通許せるかしら?」


「う…。」


 レンの勘の良い指摘に、またもやアリアネは固まる。

 シュナ自身のことまでは、口裏を合わせていないのだ。



「ねえ、そこのところ、どうなの?」


「…ええと…。

 ですから、彼女は……陛下の…」


 いたずらに突っ込んでくる質問に、言葉は詰まるばかりだった。



(…彼女は、ただの協力者と答えた方が良いのか…。

 いや、そのように具体性の無い返答では、逆に怪しまれる……!

 ここは貞淑な妻らしく……ウィットに富んだ、小粋な返答をせねば…!!)


 今までに経験の無い、新たな難題である。

 現在の状況に合うような適切な語句を、今まで目にしてきた書物や会話の記憶から必死に模索した。



「……そう。

 …シュナさんは『愛人』ですから、私は何とも思っておりませんの。」


 そして、彼女の真っ白な頭の中で描いた結論が、涼しげな表情で伝えられる。



「…………!」


 それに対し、絶句して後ずさる一家。

 一瞬にして凍りついた空気によって、アリアネも自身の過ちに気付き、顔面蒼白となった。



「き…聞かなかったことにしましょう。」


 静止した時の中。

 虚ろな目のままで、ウベはようやく言葉をひり出す。



「凄いわよね。

 奥さん公認で不倫だって。」


 レンが半笑いのまま、エリスに囁く。

 対する彼女も、訳もわからずに首を大きく縦に振って頷いていた。


 そこへ丁度、人数分の包みを抱えたシュナ当人がやって来る。



「皆さん、食事できました……よ…?」


 だが周囲の奇妙な視線を感じとり、途中で声を上ずらせる彼女。



「何か……私の顔に、ついてます?」


「つっ! ついてませんよぉ!!

 で、では、私は、陛下の分を差し入れに行きますね…!!」


 急に眼前に飛び出してきたアリアネが、二人分を乱暴にかっさらう。


 そして、一刻も早く離脱。

 猛然と森の中を疾走していった。



「…?」


 それを呆然と眺めつつ、皆に料理を配るシュナ。



 渡された包み紙を開くと、ホットサンドが中から顔を出す。


 主材料は、リングと引き換えに購入した、乾いたパン。


 火で炙り、適度な焦げ目のついたパンの中は、干し肉と薄い緑菜が彩りとして添えられて。

 その上に今にもこぼれ落ちそうな、溶けたチーズが乗っている。



「ウベ神父からいただいた野草、さっそく使ってみたんですが、とても良く合うんですよ。

 野菜の代用品に使える植物って、意外に多いんですね。

 すごく勉強になりました。」


「あ、いえ…こちらこそ…。」


 ウベは照れながらパンを手で千切り、口に運ぶ。

 素朴な味で、とても美味い。



「この後半戦はずっと…殺伐とした空気で過ごすことを覚悟しておりました。

 それが、皆さんと共に行動させてもらえるばかりか、こんなにもまともな食事にありつけるなんて、感無量です。

 食事が安心と英気を与えることは、当然といえば当然ですが……容易そうで難しい。

 料理を熟知しているんですね、とても。」


「お上手ですねぇ。」


 横に腰掛けたシュナは、笑みと共に両腿を締めて、聖弓隊特有の短いスカートを直す。


 豊満な胸も無論のこと。

 彼女の全身には若さが弾けていて、やもめ暮らしの長い彼には、少し目の毒であるように思えた。



「おとうさん……若い女の人が相手だと、そういう台詞が出るのね。」


 そうして故意に視線を伏せた直後、レンが半眼になりながら言う。



「な、何を言ってるんだ。

 私はただ、正直に感想を述べただけで…」


「ですよね。

 こんな所で、口説く人なんて…」


 慌てて、二人が顔を向け合う。

 彼が焦っているその様子が、互いに気恥ずかしく、思わず同時に下を向いた。



「…コホン。

 それに…人様の女性に手を付けるほど、お父さんは人でなしじゃないぞ。」


「はい?」


 弁解を続けるウベの言葉尻に引っかかるものを感じ、シュナは表情を怪訝に変えて、顔を素早く上げる。



「あ、いえ……お気になさらず。

 国や土地柄によって文化の違いもありますし、愛の形もそれぞれでしょう。

 少しくらい教義に外れたからといって、背徳と決め付けるのは、クレインの古い考えです。

 神がおいそれと罰を与えるとは、私も思いません。

 ご安心なさい。」


「……はあ。」


 シュナは、どうして自分が急に説教をくらっているのか、全く思い当たらなかった。

 それも、とってつけたような詭弁交じりである。



「…愛人サンじゃなければ、お父さんの再婚相手に良いかもしれないのにね。

 惜しいわ。」


 レンは両手でパンを握ってかじりつつ、また囁いて言った。

 その輝く瞳に、女の憧憬の感情が、少し見てとれる。



「…う〜ん……」


 対するエリスは、あまり視界に入れたくない話題のようなので。

 良く解らない、といった素振りを返しただけだった。





「まるで…ピクニック気分だな、あいつら。」


 対岸の様子を眺めながら、カジェットが呆れた声を洩らす。



 だが彼らのおかげで、今という時を、ずっとパンリを鍛えることに費すことが出来る。

 それには、深く感謝していた。



 しかし、敵対するコルスス一党との抗争を考えれば、この有意義な時間も、あとわずかだろう。

 無関係の人間を、これ以上、巻き込むわけにはいかなかった。



「……よし、そこまで。

 『四極』終了。」


 頃合いを見計らったカジェットの合図と共に、パンリの手足の先から光が消える。

 その途端、一気に消耗した様子で、彼はその場にへたりこんだ。



「…ここまで上達するとは……」


 ベルッサスは息を飲み、それを複雑な表情で凝視していた。



「あいつにも嫉妬してるのか?」


「…いえ。

 別にそういうわけでは…」


 脇のカジェットの声で我に返り、口ごもりながら答える彼。



「まだまだ、実戦なら、お前の足元にも及ばねえさ。

 …経験の差は、如何ともしがてえよ。」


「あと三年も学べば、どうなることでしょうかね。」


 対抗心が無い、というわけでもなさそうな彼の返答。

 フォローのつもりで言った彼女は、苦笑を隠さずに、そのままパンリへと歩み寄る。



「ヘタな先入観が無い分、吸収が早いな。

 なかなかセンスがあるぜ。

 『四極』は、源法術の難度でいったら、かなり高い。

 ウチの空挺団でも、あたししか使えないんだからさ。」


「……そう…なんですか…?」


 地に半身を伏せたまま、パンリは答える。


 疲労のためか、それとも比べる相手がいないためか。

 褒められても実感が涌かなかった。



「それに術の種類も、この短期間でよく憶えた。

 勉強家で器用……ただ一点を除けば、言うこと無しだ。」


「二代目!」


「何だよ。 どうせ、いつかは解ることだろ。

 自分の限界は、初めに知っておいた方がいい。」


 話の途中で咎めるベルッサスを追い払いながら、カジェットはさらに歩み寄る。



「…どういうことでしょうか?」


 彼女の足先が見えたところで、パンリは膝を立て、正座の態勢をとってから訊いた。



「教わった術を忠実に出せるってのは、洞察力と想像力に長け、感受性が豊かな証拠。

 全て、源法術士には重大な要素だ。

 それが、お前にはある……」


 今日のカジェットは、異様なほど褒めちぎってくれる。


 本来ならば喜んで良いのだろう。

 だがその伏線であろう、先に続く語句を、パンリは嫌な予感と共に、固唾を飲んで見守っていた。



「…しかしな、それじゃあ『頭でっかち』なのさ。

 お前は、源法術に体力なんて必要無い、と考えているかもしれない。

 だが、一概にそうとも言えねえんだよ、これが。」


 カジェットは彼の脇を通り過ぎ、枯木に拳を力任せに叩きつける。

 幹が揺れ、砕けた木の皮が舞い落ちていった。



「例えば源法術を、体術や剣術と組み合わせれば、俄然として有利なのは分かるだろ?

 実戦で『術だけ一辺倒』ってのは、あまり好ましくねえ。

 …その点を、お前は恵まれていないってこと……分かるよな?」


 彼女は自分で言いながら、酷な言葉だと思った。

 パンリの生まれ持った体躯では、たとえ一生かけて鍛えたとしても、たかが知れている。



「でも、それでいいんだ。

 まずは、自分の欠点を知ることが大切だからさ。」


「…はい!」


 元気良く返された言葉に、カジェットは目を丸くする。


 慰めをかけるまでもなく、パンリはそれほど気落ちしてなどいなかった。

 こんな風に、明確に自分の強さを評価されたのは、彼にとっては初めてのことだったのだ。



「……よし。

 そんじゃ休憩がてら、これから基礎を教えてやる。

 これは、楽にして聴いてていいぜ。」


「基礎…ですか?」


「論理的に、源法術の仕組みを講釈してやるってんだ。

 好きだろ? こういうの。」


「…でも何だか、順序が逆さまのような気もしますね……。」


 パンリは帽子を脱いで、長い耳を掻きながら言った。



「最初に知識を詰め込むより、先に体で慣れた方が、おぼえが早いんだよ。

 あくまでも、あたしの勘だけど。」


「な、なるほど。」


 妙に説得力のある言葉に、素直に頷く彼。



 そんな風に、カジェットが他人に教えている姿を初めて目にして。

 手下のベルッサスは、改めて感じることがあった。


 彼女は自分では意識していないが、合理主義者である。

 そして恐ろしいまで質実剛健で、簡素だ。


 自分の思った感情を包み隠さず、単純シンプルな教えを、ただひたすらに押し付けていく。



 なるほど、彼女と師弟の仲になるには、まず心が通じ合わなければ、反発を招きかねない。

 機械の歯車が噛み合わないみたいなものだろう―――。



「まず源法術の大原則のひとつ、『束縛量』。

 これは一言でいえば、体内にフェルーを溜められる容量のことだ。」


 カジェットはその場に胡坐をかき、人差し指を立てる。



「源法術を使えない人は…その『束縛量』が極端に少ないか、無いということですか?」


 パンリは相槌の代わりに、質問を投げかけた。



「そう。

 そして、この容量には個人差があり、さらに言えば…大きければ大きいほど、有利だ。

 空気と肺活量の関係みたいなもんさ。」


「『源』が『空気』…。

 『束縛量』が『肺活量』……ですか。」


 源法術を扱える人間とそうでない人間の分かれ道が、ここにある。

 自分も一歩間違えば、後者だったかもしれない。


 背筋が凍る思いがした。



「よく憶えておけよ。

 自分の限界を超えて源法術を使おうとすると、酸欠に似た症状になる。

 その場合、術は出ないし、全身の神経が激しく痛み、苦しむだけだ。」


 彼女は自分の脇腹を叩きながら、話を続けた。



「…質問をよろしいでしょうか。

 いったん体の中で束縛された源は、いつまでも放出されずに、そのままなんですか?」


「そうだ。

 …特に意識はしていないだろうが、人体に束縛された源は、その容量に対して『常に100%』の状態を保っている。」


「私は、源の無い土地では、源法術は使えないと聞いたことがあります。

 でもそれなら…体内に残った源が許す限りは、たとえそのような土地でも使うことが出来るのでは?」


「いいところに目をつけたな。」


 カジェットは、満面の笑みで先を続けた。



「お前の考えている源法術の法則は、実際とはかなり異なる。

 使った分だけが目減りして、80%や30%に減少するわけじゃない。

 人体に束縛された源は『常に100%』でないと、いけない理由があるんだ。

 どういう事かというと…」


 そして、自然と目線が上向きになる彼女。



「自分で放つ術が、どうして術者自身に影響を及ぼさないか、不思議だろ?」


「はい……そう言われてみれば…。」


「源は別名、万能物質とも言われている。

 炎や氷など……この世界にある自然を模した、様々な性質や形態になるからだ。

 しかしそうなると、術者自身が、その効果に巻き込まれる危険が一番高いわけだな。」


 両手を広げ、身振りで示す。



「そこで、術者に束縛された源は、内側から放出された術に対してのみ、防壁バリアーの役目を果たしているんだ。

 そしてこの効果は、体内に『常に100%』の状態であることで、初めて発揮される。

 人体の自己防衛本能みたいなもんだ。」


 パンリは感嘆しながら、聞き入っていた。

 まるで、生物や物理学の授業のようだ。



「だから源法術を使う瞬間、消費する分を即座に補充する作用が、術者本人の中で起きる。

 これが、代替の源が無い場所では、どう足掻いても術を使うことが出来ない理由さ。

 無理に使おうとすれば、やはり酸欠状態に…」


 カジェットはそこで、ベルッサスの方をちらりと見て笑った。


 見れば、彼も口元に薄っすらと笑い浮かべている。



「……とまあ、偉そうに高説しちまったが、全部、師匠からの受け売りだ。

 これらは一つの学説らしい。

 あたしは学者じゃねえから、『こういうもんなんだ』って、単純に納得している。

 興味があるなら、この先、自分で勉強してみればいい。」


 そして最後は、やや投げやりに言い放つ彼女。


 パンリは大いに興味をそそられていたが、この先があればの話だ、と思い直した。



「さて、次の話に移るか。

 今度は『詠唱』だ。」


「……詠唱…。」


 パンリが反復して呟いたところで、対岸に動きがあった。



「高難度の術を使うためには、術者の集中を促す『詠唱』を行わなければならない。

 それらは大抵、効果が高く、威力もでかい術になる。

 言わば、源法術戦の花形だ。」


 言いながら、腰を上げるカジェット。



「…詳しくは、歩きながらでも話せる。

 これを幾つか覚えりゃ、お前も初心者卒業さ。」



◆ ◆



 軍の敷地を出て、馬車が6台は横一列に並んで走れるくらいの大通りを歩いていくと、すぐに巨大な西征門が見えてきた。


 西方諸国から首都への玄関口である。

 そこでは、商人や馬が、ひっきりなしに往来していた。



 門の口は思った以上に狭く、守衛による検問が行われており、行列を作っている。


 その検問の順番を待つ中王都市側の広場こそが、ゴール地点の会場らしい。


 まだ時期が早いのか。

 人の数もまばらだったため、タンダニアの馬車は、難なく見つけることが出来た。



 御者は無愛想で、仕える主が傍にいないにも関わらず、用便と食事以外は一切席を離れない。

 そんな無骨者だった。


 戒が彼に自分の名を告げると、黙って車内にある荷物置き場を開放してくれた。



 そこへ回り込んだ途端。

 キイキイと小さく鳴きながら、馬車の天辺にいた小猿が顔を出す。


 奇しくも自分と同じ名をもつ『それ』の登場に顔をしかめつつ。

 戒は、各人の荷物が無造作に投げ込まれている箇所に、手を突っ込んで入れた。


 だがその中でも、どこからか入り込んだ梅が、丸くなって眠っていた。

 自分の荷物は、すっかり抜け毛混じりである。



「…飼い主のしつけがなってねえよな。

 まったく。」


 舌打ちと共に、ザナナに声をかける戒。

 言葉には出さないが、久方ぶりに自分の槍と対面し、彼も満足している様子だった。



「……何だ?

 この荷物。」


 そこでふと、自分の荷の傍に置いてあった、小さな背負い鞄に目をつける。

 中を覗いてみると、小さな衣類が無造作に詰め込まれていた。



「こんな小さなサイズ、誰か持ってたか?」


 呟きながら、濃い紫色の薄い上着を手に取る。


 鞄のさらに奥には、大事そうに仕舞われている封筒。

 中身は、決して低額でない紙幣が何枚か入っていた。



「ま、いいか。

 しかし……バーグの野郎の荷物も、まだここにあるじゃねえか。

 あいつ、船を降りた後から、どこへ行ってるんだ。」


「バーグ?」


 ザナナが不思議そうに訊き返す。



「だってそうだろ?

 三人いなくちゃ、大会には参加できなかったんだから。」


「……。」


「…あいつ……だよな?

 俺様たちが一緒に組んでたのは。」


「……。」


 自信なさげに、首肯する豹頭。



「で……どこへ行った?」


「随分と前から、一緒でない気がする…」


「そんなわけねえだろ。

 チッ……船で暴れるもんじゃねえな、酔ったに違いねえ。」


 頭全体に『もや』がかかったように、どこか釈然としないながら。

 二人は馬車を後にして、ゆっくり歩き出した。



 だが、背中に感じた気配に振り返ると、ついてくる梅の姿。

 さらに、その背には小猿までもが乗っていた。





 結局。

 二匹の動物を引き連れたまま、大通りを戻る。



「選手村の時といい、最近の俺様は疫病神に縁があるな。」


 邪険にするわけにもいかず、戒は、途中で見かけた屋台で適当なクッキーを買い、仕方なく二匹に施してやる。

 猫もそうだが、小猿も雑食性のようで、何でも良く食べた。



 やがて、来た時には気が付かなかった大きな駅を、彼らは脇道から目にした。

 廃墟のように人気が無く、戒が知っているそれとは、根本的に違うようである。



 興味のまま覗き込むと、複数の衛兵が緊張した面持ちで詰めており。

 線路の終点には、頑丈そうな鉄の箱が山積みされていた。



「見ろよ。

 ここの兵隊は、真面目に働いてるぜ。」


 からかうように、戒は衛兵達に向けて言う。



「おい、そこの。

 部外者は、ここから早急に立ち去るんだ。」


「あ?」


 そして自分を目ざとく発見した衛兵からの、お決まりの文句に突っかかる彼。



「やい、貴様。

 俺様は中王都市なんたら方面軍、コルツ=デスタロッサ様の部隊直属だぞ。

 ……今日は休暇だがな。」


 からかい半分で、戒はでまかせを言った。

 それを聴き、血相を変えた衛兵の一人が駆け寄って、注意を促した衛兵に耳打ちをする。



「こ、これは失礼を……!」


 そして態度を一変、苦々しそうに退散していく相手。



「せいぜい、励みたまえ。」


 対する戒は、ご満悦。

 彼の背に向けて労いの言葉を放った後、胸を張りながら、大通りへと歩を戻していく。



「…いつ、軍隊に入った?」


 直後、脇から真面目に問うザナナに、彼は思わず吹き出した。



「ジョークだよ、馬鹿。」


 そして腹を抱え、唾を飛ばしつつ否定する。



「…あまり、おどかすな。」


「何だよ。

 俺様が軍隊に入ったら、不都合でもあるのか?」


「……いや、無いな。」


 ザナナは少し考えた後、平然と返した。



 どこか、間の抜けた会話だと思った。


 二人とも、心ここに在らず。

 そんな違和感が、ずっと漂っている。



 先程の衛兵に対する悪戯も、どこかむしゃくしゃした気分のせいだと思った。


 空腹のためなのか。

 わからない。


 ただ、ゆっくりと、時が過ぎていく。


 当面、大会が終わるまで、何もすることは無い。

 初めて訪れるかのような安らぎだった。



「そろそろ、宿舎に戻るか。」


 戒は、ザナナに示す。


 この大通りには、酒場や盛り場が多い。

 だが、シュナに酒でこっぴどい目に合わされたのを思い出し、空腹は気にならなかった。



 ふと、振った手が腰の辺りで、虚空を掴んだ。


 もの寂しい。

 大切な何かを、どこかに置いてきてしまったような感覚だった。



◆ ◆



 双頭の魔導人形ハーニャンと、議員秘書のウェイ=ルネント。

 彼女らと大勢のジャグマー達が目的地に着いたのは、陽が傾いた時分だった。



 輸送騎で着陸した、すぐ付近。

 簡易な柵に囲まれた、交換所である。


 小屋があり、その前方に広げられた平机に、武具と食料の類が並べられている。

 遠くから目視する限りでは、必要以上の品が運び込まれている様子は無い。


 そして、未だ参加者が訪れた形跡も無く、辺りは静かだった。



 人形はドレスの裾を両手で摘み、早足で先頭を行く。


 小細工する間を与えずに、抜き打ちで小屋へ突入するつもりだ。

 そんな様子が、誰の目にも明らかだった。



 速度が増していく中、ジャグマー達のかかとが、地を蹴って鳴る。


 刻む、一定のリズム。



 最後尾にいたバーグは何故か、一瞬、古い戦場の光景が脳裏に浮かんだ。


 何故だろう、と疑問を抱く前に、突如として全隊が右回りに動く。

 彼も慌てて、それに倣った。



 しかし、慣れてない着ぐるみの装備のためか、足がもつれて転んでしまい、頭から突っ伏してしまう。


 最後尾なので、幸い誰にも気取られずに済んだ。

 彼は地に転がったクマの頭部を反射的に拾い、頭に戻しつつ、中腰の姿勢で藪の中へと身を隠す。



 ―――もうここから、歩いてでも首都に帰ろう。

 雑用の仕事は、もう沢山だった。



 だが、事の顛末に、少し興味があるのも事実である。

 それだけでも見納めようと、彼は気配を悟られないように、静かに小屋の裏へと近付いた。



 丁度、顔の高さに小窓があった。

 ここから顔を覗かせれば、すぐに中の様子を伺うことが出来るのだ―――





 魔導人形が小屋に踏み込むと、その内部も至って平常だった。

 数名のジャグマーが、木の椅子で休憩中で、自分の方を何事かと見詰めている。



 双頭が回転し、小屋内をくまなく見回す。

 何ら、変哲が無い。


 ―――自分の背面に触れた、金属の突起以外。



《……何のマネです?》


 態勢もそのままにして、魔導人形は抑揚の無い言葉を発していた。



「判っていて、訊くものではないだろう。」


 ぴたりと背中に張り付き、囁くのは。

 顔面傷だらけの彼。


 戦いの年季を感じる男であった。


 二つの頭部を軋ませながら、人形ならではの角度で背後を確認すれば、長剣の刃を見事に突きつけられている。

 そして、腕章が付いたクマの着ぐるみが、男の足元で、抜け殻のように脱ぎ捨てられていた。



《おやめなさい。

 我々の場合、人間と同じ部分が急所であるとは限りません。

 それに、戦闘用ではないとはいえ、普通の人間よりは強いつもりですよ。》


「その程度の脅し文句は、相手が素人の場合にしていただきたい。

 あいにく……この下らん大会に参加している連中と同じように、私も腕に自信がある方でね。

 下手な真似をすれば、一刀の下に伏してお目にかけよう。」


 やや捻くれ気味な言葉を交え、凶刃を付けたまま、間合いを詰める彼。

 空いた片手が、さらに懐に忍ばせた短剣の柄に触れていた。



《あなた……どこの傭兵です…!?》


「…俺の体運びで、もう実力の差を察したか。

 流石はギルド製、見事だ。」


 即時、動きを完全に静止する人形の態度に、笑みをこぼしたのも束の間。



「だが訂正してもらおう。

 我々は、傭兵などとは違う。

 あのように無節操な連中ではない。」


 一転、神経質そうに促す男。

 少し苛ついた語感の端は、危険な薫りを孕んでいる。



《…何が望みです。

 今のうちなら、少しくらいの条件なら飲みましょう。

 ギルド全体を相手にすることになれば、あなた方に勝ち目はありませんよ。》


「それは、『何をもって勝ちとするか』によるだろう?」


 男の静かな目配せ。

 それを合図に、席にいたジャグマー達が荒縄を携えて近寄り、手際よく、人形の体を小屋で最も太い柱に縛りつけた。


 両足を伸ばして座らせ、首・胴・腰をくくる。

 いくら人間と体の仕組みが違うとはいえ、ここまで厳重に縛られては、一切を動かせない。



「それに、大方…こちらが金銭や品物目当ての強盗程度だと見て、譲歩の交渉を持ちかけたのだろうが…。

 まったく反吐が出る。」


 傷の男は、それを見下ろしながら言い放つ。



「いいか。

 我々の目的は、もっと崇高なものだ。

 貴様のように下らん人形風情には、考えつくはずのない、な。」


 そこで、顔を近づけた魔導人形のガラスの瞳に、眼鏡姿の女性が映る。


 彼女―――ウェイも何も知らずに、小屋に入って来たのだ。



《…女!!

 早急に脱出し、本部に知らせなさい!!》


 この状況を彼女が理解する前に、双頭は同時に叫んでいた。



 言葉通り、自然と足が動く。

 一目散に逃げ出そうと、上半身が振り返る。


 だが眼前には既に、武装した着ぐるみ達が、整列して待ち構えていた。

 もはや逃走が叶わないことを悟り、一気に脱力して腰を地に落とす彼女。



「良し。

 これでもう、この場に部外者は無いな。

 しかし…選手村を撤収する時点で感づかれるとは……ギルドの武具を失敬したのは、少し軽率だったか。」


 男は自分自身を律するように、反省の弁を述べる。



「予定を修正し、この小屋を我々の本陣とする。

 念通士。

 速やかに、通信の用意をせよ。」


 命令通りに、彼等は良く動いた。

 迅速、そして的確に、機材が小屋へと運び込まれていく。



「ご婦人にも、粗相の無いようにな。」


 彼の目が、柱に縛りつけた人形へと向く。

 その言葉の意味を解した部下達が、気絶したウェイの彼女を押さえつけ、それと同様の姿へと変えていった。



「今頃、同胞達も快適な『空の旅』を続けていることだろう。

 彼らの犠牲を無駄にせぬよう、我々も任務を必ず成功させねば…。」


 男は外に出て、待機していた者達にも告げる。



「これ以上、世界を誤った未来に歩ませてはならん。

 大陸の輝かしい前途も、諸君の働き次第だ。」


 無言で敬礼。

 それに倣う男達。


 静かだが、根底で渦巻く、怨念のようなものを感じる。



 仲間達から放たれる意気が心地よいのか。

 リーダー格の男は無表情のまま。


 傷だらけの顔を若干、上に傾けて、吹き荒ぶ風を感じていた。





 全てを見納めてから。

 よろけるように、バーグは利き足を退いた。



 しばらく、まばたきすらせず。

 大口を開けたまま、その場で立ち尽くしていた。



 今は、脳が働かない。


 両手で掴んだクマの頭部を、意味も無く、被ったり脱いだりを繰り返す。

 自分でも意味不明の行動だ。


 それくらい、動揺と混乱を抑えることが出来なかった。



 首都まで戻り、然るべき所へ知らせるべきか。

 付近の誰かに救援を求めるべきか。



 どちらにせよ。

 この事実を抱いて、すぐにでも走り出さねばならなかった。




◆ ◆



◆ ◆



(フィンデルさんさえ良ければ、応援に来て下さい。)


 別れ際、シュナは確かにそう言った。


 奇しくも、オーロンから取材の同行を申し込まれた、飛翔艦が賞品になっているという『大仰な催事』のことだ。



 だが、記者の仲間内では、以下のような評判らしい。


 運営が思い通りにいかず、開催の直前になって、慌てて高額賞品を掲載した広告ビラをばら撒き。

 海千山千の人間を釣りあげ、何とか体面を繕った、完成度の極めて低い、馬鹿げた大会―――と。



 故に、各新聞社ともこの件は見送る方針だったが、『ゴシップから政治まで、全てまとめてブッた斬る』がモットーの

アイアン・ウォー紙のみは、所属記者であるオーロンに仕事を命じたのである。



「…ここらで降ろしてくんな。」


 そんな彼が不意に御者にかけた声で、フィンデルは思考を一旦止め、馬車の窓から周囲の街並みを覗いた。



「目的の場所まで、随分とあるようですが…」


 そして、直ちに問いただす彼女。


 西征門は、かなり遠くからでも視認できる巨大な建造物である。

 それが米粒ほども見えないということは、まだ相応の場所なのだろう。



「少し寄り道をしたいのですが、よろしいですかね?」


「……ええ、構いません。」


 この同行はもとより、フィンデルは当面、オーロンの申し出を断るわけにはいかなかった。


 目下のところ、彼が、ルベランセを襲撃した者達についての情報を握っている、唯一の人物であるのは無論のこと。

 貴重な取材の時間を費やしてまで、自分の捜索に手を尽くしてくれたという負い目がある。


 実際その時は、事件に巻き込まれたわけではなく、この国を非公式に訪れたタンダニスと会っていただけなのだが、

それを正直に告白しようものならば、必要以上に大事件として扱われそうな予感がした。



「では、しっかりとついてきてくださいや。」


 停車した馬車から下り、複雑に絡み合った細い脇道を、オーロンは早足で先導する。


 自称・三流新聞紙の記者。

 ある時は、情報屋と名乗り方を変える彼。


 この男が口から先に生まれてきたであろうことは、もはや疑いようが無い。

 決して理知的な言葉遣いではないが、勢いに乗った時、機関銃のように繰り出す押しの強さだけは、一流だと思う。



 だが、どこにだって、面倒や厄介ごとに首を突っ込みたがる人間はいるもので。

 彼もおそらく、その類に漏れない人種である。


 初めはムーベルマの戦いに興味を示していたかと思えば、次に一転して、自分のことを客として扱い。

 終いには、諸手を挙げて協力してくれるなどと言う。



 フィンデルは自らが歩み寄った事とはいえ、彼の急な心変わりを警戒した。


 古来より、舌先ばかりの人物は災いをもたらすのが通説である。

 彼の動向は、今後も注意深く気にしておかねばならないだろう…。





 本音を明かすなら、今、かつての仲間達に再会するのにも、抵抗があった。


 内容をロクに調べもせず、大会への参加を決めたという彼等は非常に浅はかだし、気の毒にさえ思う。


 だが、ひたすら己の力を信じて突き進むその『ひたむきさ』は、常に憧れの対象であり。

 勇気を与えてくれた存在だった。


 変わらずに、いつまでもそうであって欲しいと、心から願っている。



 自分の行く末には、もはやそのような清々しい色が入り込む余地は無い。


 今にして思うのは。

 この気分を顕著に表していたのは、同様に仲間を殺され、自身も重傷を負ったアイザックの傭兵―――ミラ=ホロであった。



 タンダニアの面々と共に入国した後、首都の闇に消えて行った彼。


 その仇討ちにのみ妄執する異貌に、嫌悪と拒絶感を抱く一方。

 彼が至って正常であることも、同時に理解できた。



 もしも自分に、有益な部位が脳漿以外にあったならば、単にルベランセ襲撃の真相を明かしたいとは願わない。

 ―――自分も彼と似たような行為をとっただろう。



 その考えに辿り着いた時。


 かつての仲間達とは、もはや相容れないという証明が成されたような気がした。





 細い道を抜け、開けた場所に出てから、フィンデルは改めて周囲を見回す。


 第一印象として。

 洗練された首都という地に、よくもこのような下品な繁楽街が在ったものだと呆れた。



 道端で堂々と、禁制の品をさばく密売人。

 露出の多い服を着て、往来の男共に声をかける娼婦。


 それらを仕切る、ごろつきや、はぐれ者たち。

 危険を承知で店を構える、屋台の連なり。


 潔癖な者ならば、その際どい状景を直視することは出来ないだろう。



「フィンデル大尉。

 初対面の時……貴女は確か、こう仰いましたよね。


 『その件について嗅ぎ回るのは、おやめなさい。命が惜しいでしょう。』って。」


 オーロンは先導したまま、そこで唐突に切り出した。


 生来の皮肉屋なのだろう。

 少し声真似をしているし、軍階級で呼ぶことも一向に止めてくれる気配が無い。



「…あれは、私が騎士団に狙われることを危惧しての言葉と受け取りましたが、そっちの方が数段マシだと思うんですがねェ。」


 さらに彼は、やけにもったいつけた言い方をした。


 いつの間にか、一段と細い裏道に入っており、足場は危ういほど闇に包まれている。

 フィンデルは話を耳に挟みながら、とにかく彼の背から離れないよう努めた。



「たとえば、今すぐ言われても信じられますかい?

 この国の地中深くに、蟻の巣のように張り巡らされた地下施設があることなんて。」


「それはちょっと…想像がつきませんが…」


「そうでしょうねえ。

 しかし、貴女が探ろうとしている連中は、そんな規模の秘密結社―――それも、太古から暗殺を旨としてきた組織なんですぜ。」


 彼が唐突に持ち掛けてきた物騒な文句に、彼女は無言で自分の意を示した。



「私の知り合いにもね、その組織に手を出して、痛い目にあった奴がいるんですよ。

 しかも相手は……驚くことに、こんなにも小さなお嬢ちゃんだった。

 暗殺者といっても、見た目からは予想できない連中もいるんです。

 いや、本当に油断ならない。」


 腰のあたりに手を踊らせながら、少し興奮気味に話す彼。

 丁度、世羅ほどの身長だろうか、フィンデルは不意にそう思った。



「その方は…今もご健在なのですか?」


「生死の境を100日ほど、さまよいましたがね。」


「私も…二の舞でしょうか。」


 フィンデルは唇端を引きつらせながら、さらに突っ込んで訊いていた。



「やり方にもよりますわな。

 まだ他の情報屋には、喋っていないのでしょう?」


「ええ。

 表立って相談したのは、オーロンさんが初めてですから…」


「それは、本当に幸運ですぜ。

 自分たちの秘密を暴こうとする者に……連中は容赦しませんからねェ。」


 彼は溜め息を交え、語尾を小さくして呟く。

 何か、吐き出したい語句を飲み込んだ様にも見えたのは、気のせいであろうか。



「今向かっている先は、その被害者の方の所へ?」


「……いえ、それとは別の。

 気難しいですが…中王都市で屈指の情報網を持っている人物が、この辺りに居ましてね。

 あれならば、きっと貴女の助けになるでしょう。」


 追う影の歩調が、早まっていった。



「それに…少しくらい痛めつけられたからといって、被害者と決め付けるのも、ちょっと語弊がありますな。

 この世が上手く回るには、『触れるべきじゃない禁忌』というものもあるでしょう?

 街の悪い部分を集めてくれている、この裏通りのように。」


 彼の言うことには、確かに一理ある。


 だが必要悪があるとして、それが暗殺でさえも許容しなければならないのだろうか。

 フィンデルは吐き気がする思いだった。



「……おっと、ここですぜ。」


 肝心の場所を三歩ほど通り過ぎてから、立ち止まるオーロン。


 道端の排水溝にある、小さな石蓋。

 彼は屈み、そこを三度ノックする。


 ―――すると、地面の奥深くから、すぐに合図が返された。



「不摂生しておりませんか、大尉殿?

 かなり狭いんでね。」


 いやらしい笑みと共にその蓋をずらし、地下水路へ続く縦穴を示す。


 さらに全く躊躇無く、設置されている縄梯子に足を掛けて、慣れた調子で降りていく彼。

 フィンデルはおぼつかない手つきながらも、その後を必死に食らいついた。


 どうやら、出立前に自宅へ戻り、動きやすいシャツとロングパンツに着替えきたのは正解のようである。



 考えてもみれば。


 少し前まで一隻の軍艦を預かっていた自分が、知り合って間もない男に連れられて、このような場所。

 なんと現実感に乏しい状況だろうか。



 ―――自分も、相当な物好きなのかもしれない。

 彼女は、心もとなく揺れる荒縄を握り締め、暗い深遠を見下ろしながら、ふと感じていた。



◆ ◆



 土砂の隙間を縫うように生えた背丈の低い無葉の樹木は、山岳地に多く見られる象徴で。

 何物の行く手を阻むこともなく、ただ鹿の角のように枝を広げ、天の恵みが降るその日を待ち侘びている。



 大会後半の主戦場、アルチーユ洞窟。


 昔は鉱山として栄えていたという話だったが、現在では見る影も無い。

 かつてここが人の文明の域にあったことを、物悲しく横たわるトロッコ線路が、示唆しているのみである。



 さらに今までのチェックポイントと異なり、交換所が設置されていないことに、そろそろ補給を考えていた組は

心を打ちひしがれることとなった。


 前半戦において、相当数が配備されていたクマの着ぐるみ達も、今では全く姿を潜めている。


 だが、そのことは、参加者たち個人の認識として、辺りの閑散とした印象に輪をかけた程度に過ぎなかった。





 各組は、ゴールするために必要な『通行証』の探索で手一杯のため、いずれも進んで争う気配は無い。


 そこへ到着したばかりのタンダニス達も、細かい策などは弄さなかった。

 周囲と同様、幾つかの穴に狙いを定め、アタックを試みるまでである。



 だが、洞窟内には凶獣まではいかずとも、蛇や蝙蝠コウモリなどに代表される有害な生物は多い。

 用心のため、ウベは家族一組。


 タンダニス、アリアネ、シュナは、それぞれ単独で探索を行うことにする。


 そしてカジェットの組は、彼等の入った穴が見える位置に陣取り、見張る態勢をとった。

 他の参加者達に、背後を突かれるのを防止するためである。



「―――あ、あの!!」


 各々が松明たいまつを片手に、洞窟に入る直前。

 大声を張り上げたのは、アリアネだった。



「私に割り当てられた洞窟……何か妙なのですが…。

 ほら…水が、あんなに…」


 彼女が示す指先を追えば、その岩穴は地盤が緩んでいるのか、壁や天井から相当な量の雫が染み出ており。

 さらに、濡れた苔で一杯の足場が、行く手を阻んでいる。



「誰か…傘持ってませんかね?

 もしくは、場所を交換していただけると、非常に有難いのですが…」


 半笑いのまま、提案をする彼女。


 だが各自が捜索する穴の選別は、誰が指示したというわけでもなく、自然と決まっていたので、そこに故意はない。

 なので、誰もが我関せずと目を逸らし、黙々と各々の穴へ踏み込んで行く。



「ちょ、ちょっと…皆さん…!?」


 アリアネの嘆願むなしく、視界から消える全員。

 やがて彼女も諦めて、渋々と岩穴に入っていった。



「…本当によろしいのでしょうか、我々も手伝わなくて。」


 それらの様子を脇目に、火を点けたばかりの小さな焚き火に木をくべながら、ベルッサスは切り出す。



「見張りだって、立派な仕事じゃねえか。

 ちょっぴり楽チンだがよ。」


 カジェットは岩場で横になったまま、悪びれもせずに答えた。



「なあ…尻馬に付く時は、とことん行こうぜ。

 無駄に体力を浪費して、いざという時に術が使えねえんじゃ……目も当てられねえしな。」


 そして、自分の胸を枕代わりに熟睡している、パンリの横顔に触れる彼女。



 詠唱を必要とする源法術を二つほど学んだ後。

 頭に詰め込めるだけ詰め込んだ彼に、限界が訪れた。


 それもそのはず、通常の修行に比べ、何十倍もの駆け足で教えている。

 本来、基礎ほどゆっくり教えるべきなのだ。



「…で、コルスス達の様子はどうなってる?」


「選手村を出てからは、今のところ目立った動きはありません。」


「……そっか。」


 肩の力を抜きながら、カジェットは深い息をつく。


 結局、自分の手下達で前半戦を突破できたのは、一組しかいなかった。

 今ではそれを、ただの諜報役として使っている状況である。



「これから先は、報告を入れる間隔を短くしろ。

 向こうが少しでも隙を見せたら、先手をとって奇襲をかけたい。

 総力戦になれば、こっちの分が悪いからな。」


 対し、コルスス一党は、現時点で半数を残していた。


 ここまで戦力差があると、もはや大会自体にも入賞にも、それほど執着は無い。

 逆に余計なことを考えないで済む分、やり易くさえ思えた。



「…では早速、そのように伝えて参ります。」


「お前も気をつけろよ。」


 彼女の軽い気遣いに、ベルッサスは少し頭を下げて、風来棒を片手に丘を下っていく。



 そんな彼と入れ替わるようにして、洞窟側にも動きがあった。


 一人、また一人。

 カジェットが前景にした穴から、続々と抜け出てくる彼等。


 各自が掲げた松明の炎が一斉に集まりだす様子を眺めながら、彼女は、想像よりもずっと早い帰還だと思った。



「…そうそう、うまくはいかぬものじゃな。」


 タンダニスの言葉を皮切りにして、他の者達も同様、『はずれ』の報告に終始する。

 どこも浅い洞窟で、収穫といえば、ポイント加算となるリングが僅かに発見できた程度だった。



「なんという…無駄骨でしょうか…」


 そこへ身を縮ませながら戻ってくる、最後の帰還者のアリアネ。

 皆の予想通り、髪の毛から靴の先まで、ずぶ濡れの恰好である。



「さ……どうぞ、焚き火の方へ。」


「…う……。」


 苦笑混じりのウベに連れられて、血色の悪い唇を震わせながら火の傍に座り込む彼女。

 近くに男性陣さえいなければ、服も脱いで、全身を乾かしたい気分だった。



「そちらの穴は、どうでした?」


「どうしたもこうしたも…。

 途中から道が完全に水没してたものですから…」


「わざわざ、潜って調べてくれたのですか。

 何もそこまでしなくとも。」


「してないです!

 これは、雫で濡れたんです!!

 おまけに苔で何度も滑るわ、それはもう、ぐっしょりです!!」


 悪気の無いウベの言葉に対し、やけくそ気味に叫び続ける彼女。



「じゃあ、奥がどうなっているのかは、確認してないわけね?

 もしかしたら…」


 その背後で話を聞いていたシュナが両手を叩く。



「その水溜りの先は、抜けられるかも。」


「でも、かなり泳いだ末に行き止まりだったりしたら…」

「溺れて死んじゃうわよ!?」


 エリスとレンは声を揃えて、否定的に言った。



「いや、確かに危険だが……調べてみる価値はありそうだ。」


 そんな二人の肩に手を添えながら呟くウベ。



「『通行証』は、この大会で最も重要なもの。

 簡単に見付かる場所に置くわけがない。

 アリアネさんが入った洞窟は、それを隠すには、まさにうってつけの難所じゃないか。」


「ならば、わしが調べてみようかの。

 潜水は得意中の得意じゃ。」


 最後に、満を持して、タンダニスが上着を脱ぎながら言う。



「陛下!

 またそのように、はしたない!!」


 子供を叱りつける母親よろしく、焚き火から声を荒げるアリアネだったが、時すでに遅く、彼は既にズボンまで降ろしていた。



(これだから、この人が王様ってこと、絶対に誰も思わないのよね……。)


 その周りでは、全員が気恥ずかしそうに目を逸らしており。

 一人内心で微笑んでいたのは、シュナのみであった。



◆ ◆



 首都の地下水路は、完全な闇ではなく。

 わずかに生活の息吹を感じられた。



 水路の番人であろう、汚い外套を頭から被った蛮族の小人が複数。


 彼等は隅で固まって、じっと黙ってパイプを吹かし。

 オーロンとフィンデルが頭上から降りて脇を通るまで、その一連の行動を佇んで見守っていた。



「このような場所に、本当に住んでいるのですか…?

 目的の人物は…」


 特に自分に向けられる好奇の視線を感じながら、訊ねる彼女。



「意外と、『住めば都』なんじゃないですかねぇ。」


 軽口で質問をかわす彼の横顔は、妙な熱がこもっている。


 その満ち足りた表情を、フィンデルは頭の端に留め置いた。


 同行の建前は大会の取材だったはずだが。

 どうも、これから向かう先にこそ、彼の真の目的があるように思わせるのだ。



「まあ、あと少しですから、慌てないで下さいって…。」


 やがて紆余うよの最奥、通路の行き止まりに達すると、ひどく錆びた鉄板が姿を見せる。

 濃いペンキで二重の丸が描かれている、奇妙な扉であった。



「よっ…っと。

 あ、そちらを頼みます。」


「…こうですか?」


 フィンデルも促されるがまま手を貸し、二人がかりで、立て付けの悪いそれをこじ開ける。



 すると、その先は小さな個室。


 扉が開いた時の風圧により、床に積もった埃が舞い踊り。

 低い天井に吊るされたランタンの光が、それらを乱反射させながら、内部の様子を照らしだす。



 足元に無造作に転がっているのは、ワインの空瓶やパンくず。

 チーズの欠片に到っては、鼠がかじっている真っ最中である。



 先刻、どこかの組織が『蟻の巣のように張り巡らされた地下施設に住みついている』などとオーロンが言っていたが、

きっとここよりはマシな所に違いない。


 フィンデルは、その場のむせかえるような空気に、思わず眉を曇らせていた。



「……ここは一体…?」


 思わず壁に右手を伸ばすと、何か柔らかい物体に触れた。


 息を飲み、顔を近付ける。

 掛けられているのは、この場所とは全く似つかわしくない、中王都市軍の士官服だった。



 豪華な刺繍と、丁寧に縫製された、男女兼用の小さな服。

 確か、貴族や豪族の軍人が、少年兵の時期にのみ着用する特別なもので、彼女自身も数度しか見たことが無い。


 希少な印象が強かったため、強く記憶に残っていたのだ。


 さらに彼女は、その襟章を確認してから目を疑った。

 階級は『大佐』である。



 汚らわしい室内で、これだけが綺麗に保たれて、異彩を放つ。

 何故このような辺鄙な所にあるのか不思議でたまらないが、彼女は深く考えないように努め、目線を元に戻した。



「…モグラの親分。

 元気かい?」


 ゴミの山に下半身を埋没させたまま眠っている、醜く肥えた男の頭を、靴の先で叩いて起こすオーロン。



「…ん〜?」


 袖のないシャツ一枚で、赤茶けた肌を晒している彼は、完全に寝惚けた表情でオーロンを見詰め返してくる。



「お、お、おぽっ……おんな…!?」


 だが、その背後のフィンデルの姿を認めた途端、色めきだす。

 同時に彼のボサボサ頭から、大量のフケが飛散したので、彼女は思わず数歩退かざるをえなかった。



「紹介するよ。

 こちら、フィンデル大尉だ。」


 自慢げに、オーロンは余計な紹介を付け加える。



「た、大尉…って……あ、あの?

 ふぃ、ふぃ、フィンデル大尉…!?

 あぎゃっ。

 ぜ、ぜひとも、あ…握手を…ししし…して…しててて…くださ…」


 興奮のあまり、無様に転倒しながら、勢いよく伸ばされる男の両手。


 それを前に。

 フィンデルは作り笑いを、より大きく引きつらせながら硬直する。



「彼は、熱狂的な軍事マニアなんで。

 …ちなみに機嫌は損ねない方が、後々よろしいことかと。」


 そこでオーロンが、耳打ちをした。


 再び彼女は、壁に掛けられた小さな軍服に目を移し、若干の理解の気持ちをもって手を伸ばす。



「あぎゃぎゃ……もう、この手は当分洗わないぞ…」


「おいおい、お前さんが手を洗ったことなんて今まであったか?」


 だが直後、そんな二人のやりとり。

 今まさに握られている自分の手を見詰めながら、フィンデルは相当に複雑な心境に陥った。



「気が済んだら、そろそろ『先生』に会いたいんだがね。

 …中に、いるんだろ?」


「も、もぢろん…。

 お……おでより、ここが好きだし…。」


 オーロンの催促により、名残惜しむようにして彼女から離れ、部屋の奥へと這って進む彼。


 否。

 ゴミの海を泳いで行く、に近いであろうか―――



「目的の人物は、彼ではない…?」


 それを眺めつつ、フィンデルは半眼で呟いた。



「もしかして、早合点しちまいましたか?」


 からかいながら返すオーロン。

 まったく人が悪い、と彼女はむくれ、両腕を固く組む。



「だから、慌てないでくれって、さっきから何度も言ってるじゃありませんか。

 ちょっとの辛抱で、国立図書館の資料室よりも役に立つ情報が、得られるのですから。」


 彼は冗談で場を濁しつつ、天井で揺れるランタンを見上げた。


 ここは、まさに秘密の地下室と呼ぶのに、ぴたりと来る。

 だが不思議と、外のように反社会的な雰囲気は無い。



 室内の隅には、船室に付いているような巨大なバルブが付いている小さな扉があった。

 それを先程の男が、力を込めてそれを捩ると、やがて隙間から若干の明かりが漏れ始める。



「ど、どぞ……お、お入りください…」


 男が招き、応じるオーロン。

 フィンデルも続く。


 いやに厳重だった扉を抜けると、そこはまるで巨大な円柱の中に居るようだった。



 壁が全て、機械とパイプで囲まれている、奇怪な空間であり。

 床は見渡す限り、大量の紙が塔のように積まれている。


 薄闇の中、他に目につくものと言えば。

 作業用の木製の机と、巨大な脚立であった。



「起きてましたか、先生。」


 オーロンは、媚びる様に声をかけた。


 フィンデルがその視線に倣うと、脚立の上で、何者かが作業をしている気配が伝わってきた。



◆ ◆



 パンリが目を覚ましたのは、夕闇に月が姿を現した頃だった。


 自分の冷えた背。

 それと対照的な、焚き火の炎。



「す、すみません…!」


 そうした漠然とした感覚の中、やがて思考が追いつくと。

 パンリはカジェットを寝床代わりにしていたことに気付き、すぐさま離れて謝った。



「…気にするなよ。」


 回復した弟子の様子に、安心して笑う彼女。



 焚き火を中心として、ほぼ全員が集まっていた。


 炎が心地よいのか。

 自分と同様に、双子の少女らも二人で抱き合って、父親のウベの元で熟睡していた。



「今は、あのヘイカって野郎が頼みでよ。

 …あそこに潜って、もう一時間くらいかな。」


 カジェットが洞窟に視線を向けると、その付近で、アリアネが心配そうな面持ちで歩き回っているのが見える。



「ところでさ、中王都市の『通行証』って、どんな物か知ってるか?」


「いえ…実は、私も初耳で…。」


 彼女からの質問に、パンリは首を左右に振った。



「…そもそも、この国は自由貿易だし。

 所々に検問所はあるけど、通行証なんて聞いたこと無いわ。

 そりゃあ、昔は必要だったのかもしれないけど…。」


 傍らで座っていたシュナが虚空を眺め、肩にかけた大弓の弦を指で遊ばせながら呟く。



「しかし、洞窟に入ったあいつ……ちょっと遅すぎないか。

 あの中で、何かとんでもない化け物とかに襲われているんじゃねえの?」


「…まず、平気でしょう。

 ここが大会のコースである以上は。」


 それまで娘達に付き添っていたウベが、歩み寄って来る。



「前半戦のチェックポイントでも、わざわざ結界で隔離区画を作り、そこに凶獣を放していた…。

 普段は行楽で使われている選手村の様子からも、周辺の殆どが安全であることが判る。

 つまり、この大会においては……外的要因による不確定要素が、完全に排除されているといっても過言ではない。」


 さらに彼は、一つずつ状況を確かめるように、自分の考えを呟いて言った。



「さぁて。

 そこまでして、大会の賞品が欲しい人達って……どこのどいつかしらね…」


 どうやら同意見らしいシュナが口を開いた矢先、闇に流れる一筋の光。


 大きな人影が、やや短くなった松明を高々と掲げ。

 飄然と己の生還を示した瞬間だった。



 しかも、その片手にはしっかりと、金属製の筒が握られているのが見える。



「ご無事でなによりです、陛下!

 それは…?」


 歓喜をもって駆け寄るアリアネに、彼は強張った表情で返した。



「おそらく、わしらの求めておる物で間違いなかろう…。

 奥を隅々まで探してきたのじゃが、一組分だけ足らんでの。」


「そうだったのですか…。

 一応、中身を確認いたします。」


 その手に握られた二本の筒を、彼女は丁重に受け取り、蓋を開ける。

 すると、それぞれの中には、通行証と思しき古い羊皮紙が詰められていた。



(……なんてことだ。)


 だが一方のウベは、喜ぶどころか、自分が思い浮かべていた最悪の事態が的中したことに顔をしかめた。



 この洞窟の奥に許可証があったとしても、親切に全組分があるとは限らない。


 最も話が早いケースは、見付かった通行証が一つだけの場合。


 功労者本人の組がそれを得るのは当然。

 その後、目的を果たした彼等がこの同盟を抜けたとしても、自分にはまだカジェットの組と協力する余地が残されている。



 しかし、二つの場合は、甚だ面倒なことになる。

 この三組の中で最弱の立場なのが、幼い娘を擁する自分の組なのだ。


 さらに両組の関係と比べて親交の度合いも薄く、通行証を得る権利から除外されるのは、目に見えている。



 当面の障害さえクリアしてしまえば、一刻も早くゴールを目指したくなるのが、全参加者達の共通の心理だろう。


 同盟といっても、あくまで口約束。

 必要以上の馴れ合いを望む理由は、どこにも無い。



「…どうかしたか?

 おぬし、顔色が悪いぞ。」


 だが、そんな心配を露とも知らず、タンダニスは濡れた肌を晒したままで声をかけてくる。



「いえ…平気です。

 それよりも、どうぞ焚き火の方へ…。

 充分に暖をとった方がよろしいでしょう…。」


 ここが正念場である。

 ウベも平静を装い、彼を誘導した。



「うむ……?」


 濡れた両の手を、燃え盛る炎にかざした瞬間。

 タンダニスは異変に気が付いた。


 自身の手首に着けていた複数の腕輪が、乾いた音を立てる。

 金属の表面コーティングが剥がれ落ち、ぱらぱらと足元に注いだのだ。



「あっ……!」


 それから、まるで咲き終えた花の様に、次々と崩壊する腕輪。

 アリアネは口を目一杯に開け広げ、その様子に絶句した。



「…どうして急に……?」


 シュナも慌てて駆け寄り、その残骸を拾い上げる。

 それには、自分達の組番号が刻印された部分も含まれていた。



「……しもうた。

 泳いでいる時に、岩場にぶつけてしまったかの?」


 かろうじて手首に残っている腕輪を、何気なく外すタンダニス。



「失礼。

 無事な方を見せていただけますか?」


 その言葉にウベは疑問を抱き、彼が差し出した腕輪をよく観察する。



「これは…番号が若い腕輪だけが残っているようですが……」


「…番号が若い?」


 それを脇で聞きながら、シュナは視線を泳がして、何気なく傍のアリアネに目を留める。


 彼女が持つ筒の、先端に付いた装飾の宝石が、微妙に振動していた。


 次に地面に目を向けると。

 砕け散った腕輪の破片も、それと同様、小刻みに震えている。



「―――腕輪をしている人は、アリアネさんに近寄らないで!!」


「……残念ながら……もう遅いようですね。」


 シュナが叫んだ瞬間、咄嗟に一歩退いたウベだったが。

 不意に軽くなった手首の感触に、その行為が無駄だと知る。



「…そのようだな。」


 カジェットもまた、座った態勢のまま、亀裂が走り始めた腕輪を見ながら呟いていた。



◆ ◆



「…何やら隣が騒がしいと思っていたら、やっぱり準会員のオーロンさんね。」


 高い脚立の上からかけられる、女性のか細い声。

 機械とパイプの壁に向けて、何かの作業をしているようだが、その表情は伺い知れなかった。



「準会員?

 私がですかい?」


 首を大きく反らしながら、間抜けな声を返すオーロン。



「たった今、罰則で降格させてもらったのよ。

 『会員規約 第5条:会員以外の者を、この場に連れてくる場合、会員2名以上の承認を必要とする』…だから。」


「たちの悪い冗談は、勘弁してくださいや。

 私は、決して酔狂で彼女をここに連れてきたわけじゃ…」


「ふふ、信じるわ。」


 必死に取り繕う相手の姿がよほど滑稽だったのか、脚立の足が大きく揺れた。



「…会員とは……何のことです?」


「あ、そうそう。

 紳士淑女の情報交流所、『大鷲おおわしの瞳』にようこそ。」


 フィンデルの小声での問いかけに、オーロンは、またしても後付けで説明する素振りである。



「人に慌てるなと言う割には、せっかちな人よね。

 ここがどのような場所かも教えずに、連れて来るなんて。」


 下にいる二人の会話を聞き、呆れ声を出して興味を示すものの、脚立を降りて来る気配は無い。

 フィンデルは、彼女に警戒されていることを察した。



「オーロンさん、頼まれていた事件は調査ずみよ。

 43の3番、勝手に持って行って頂戴。

 『機械』が壊れちゃってね、いま手が離せないの。」


「43……どこですかね?」


 オーロンが、足元に積まれた紙の束を見回しながら訊く。



「いま踏んでいるのが、そう。」


「おっと、失礼。」


 彼女の指摘に、片足を上げ、おどけながら叫ぶ彼。



「まァ…これはこれで有難いんですがねぇ。

 さし当たっては、ゴシップを書いている暇が無いんですよ。」


「残念ね、大変おもしろい情報なのに。」


(……おもしろい情報…?)


 彼が手にした紙片を、フィンデルは背中越しに覗いてみた。


 だがそれは、

・大地主のレッチャー家の主人が、また自分の屋敷の若い女中に手を出したらしいこと。

・あの嫉妬深い正妻にバレるのも、時間の問題とのこと。

・一連の事件が明るみになれば、レッチャー家と懇意の仲である、由緒正しきサレオ家は、今後の取り引きを中止する恐れのあること。


 ―――など。

 女の言葉とは裏腹に、記されていたのは非常にくだらない箇条書きである。


 『ゴシップ』という語句が初めに交わされていなければ、これらは何の暗号なのだろうか、と深読みしてしまったことだろう。



「私は、フィンデル=バーディと申します。

 ここがどういう場所か、ぜひとも教えていただけないでしょうか。」


 どこかやりきれない感情を抑えつつ、彼女は慇懃に挨拶をした。

 偏屈が相手であれば、とっかかりが肝心であることは、長い経験で知っている。



「フィンデル…?」


 対し、女は頭上で声を潜め。

 確認するように一度だけ返した。


 直後に、落下物。

 ごとりと重たい音を響かせて、床に散乱している紙の上を転がるのは、念通球である。



 彼女は念通士なのだろうか。



「!」


 フィンデルが訊ねる前に、急に視界に現れるブーツの先端。

 さらに続けざま、黒いストッキングに包まれた細い脚線が降りてきて、同じく黒いガーターを見せる。



「御免なさい。

 大尉さんとは知らず、とんだ粗相を。」


 フィンデルは、そうやって脚立の途中から挨拶する女の容姿に圧倒された。



 後ろで束ねて丸めた髪、瞳と唇は薄桃色。


 丈の短いワンピースから覗く肌は、蝋のように白く輝き。

 表情の乏しい面皮も加わって、まるで石膏の彫刻。


 いや―――それよりも、花の精霊か。



 その印象を強めたのは、彼女の身体から漂う香りのせいであった。

 おそらく植物から採取された、香水かオイルの類だろう。



 奇妙な雰囲気を全身に纏いながら、床につま先を降ろす彼女。

 それはまるで、扉一枚を隔てて、俗世とは別世界にいる者の様であった。



「会えて光栄だわ。

 貴女が…本当にあの、フィンデル…えっと、バーディ……ハーディ?」


「発音は、どちらでも結構です。」


「じゃあ、好きなように呼ぶわ。」


 両足を床に降ろしてから向き直り、その女は手を伸ばしかけた。


 が、そこで大きく態勢を崩し―――傍のフィンデルに支えられる。



「ありがとう。

 想像していたよりも…軍人っぽく無いのね。」


 絡んだ細い腕を慎重に抜きながら、彼女は言う。



「私が恐くない?」


「ええ、割と。」


 そして、まるで唇を重ねるか、舐めるかように差し迫る白い顔に向けて、フィンデルは漠然と答えた。



「嬉しいわ。

 オーロンさんなんて、けっこう長い付き合いだけど、いまだに手の届く距離にさえ、近付いてくれないのだもの。」


「単に苦手なだけですぜ。」


 すかさず、後方で小さくぼやく彼。



「……以前…どこかで、お会いしたことがありましたか?」


 一方のフィンデルは、何かの思いに駆られ、無意識に訊いていた。



「なぜ、そう思うのかしら。

 …初対面なのよ、確実にね。」


 襟元を直し、長い睫毛まつげを伏せて呟く相手。



「いいかげん失礼じゃありませんかい、先生?

 私の客人にだけ名乗らせて。」


「…まいっちゃうわ。

 この生活が長いと、一般的な『たしなみ』も忘れるの。」



 今にも消え去りそうな薄笑いと共に。



「私の名は、イメルゲ。

 イメルゲ=モンスロン。

 東方で儚く散った、卿の養女です。」



 永遠に消えそうにない言葉が、差し向けられた。





◆ ◆



◆ ◆



 夕闇の向こう、帝政ヴァルクハルト方面に浮かぶ小さな黒点。



「…あの飛翔艦を停めずに、国境を越えたいって?」


 それを双眼鏡で視認しながら、中王都市軍・国境警備隊の壮年係官は呻く。



「何とかなりませんか。

 一旦エンジンを冷ますと、再点火が厄介な代物ですから…」


 彼の傍で説明するのは、ツナギ姿の男。

 作業帽を目深に被っており、表情はうかがえない。



「気持ちは解るがな。」


 係官は双眼鏡を構えたまま、彼の人相よりも、その胸にあるバッジに目を留めて呟いた。


 イマツェグ社。

 空の仕事に携わっていれば、誰でも一度は聞いたことのある、名の知れた企業だ。



「飛翔艦だろうが馬車だろうが、入国前の検査は、規則で決められている。

 下っ端の俺達がどうこう出来る問題じゃ…」


「しかし今回は、チバスティン=デスタロッサ男爵の火急の御用なんですよ。

 『あれ』自体が大会の賞品という話、聞いていませんか?」


「……賞品?

 おい、そんな話、あったか?」


 係官は半身を反らして、背後の詰所に居る念通士に訊く。



「…ン、そういやさっき……連絡があったな。

 ……何だか、えらく催促してた。」


 機器の置かれた机に両足を放りながら、新聞と軽食を片手に、平然と返す相手。



「馬鹿野郎!

 なんで、そんな重要な報告をしねえんだ!!

 …本当に、男爵の用事だってか?」


「ああ、言ってた、言ってた。」


「畜生、上に知られる前で良かったぞ、まったく…」


「へっ。

 男爵に尽くせば、明日の馬競走レースに勝てるって?」


「もう、てめえは喋るな!!」


 おどける同僚を一喝した後、ぐっと歩み寄る係官。



「…当該飛翔艦の、航行継続を許可する。

 絶対に間に合わせろよ。」


「勿論です。」


 そして小声で囁き、一転して急かすような態度に。

 ツナギの男は思わず、表情を緩ませた。



「あ……ちょっと待った。」


 だが、踵を返した途端。

 呼び止めてくる係官の声に、再び緊張で唇を結ぶ彼。



「…何か、他に手続きでも?」


「いやいや…それ。

 それだよ。」


 静かに振り向けば。

 係官は、手にした羽ペンを、やや下方に向けて示していた。



「そんな手で、よくも操縦できる。」


 自分の右手の薬指と人差し指が無いことが、手袋の上からでも判断できたらしい。


 おそらく、他意は無いだろう。

 単に好奇心から出た言葉ということが、その惚けた表情が物語っている。



「…子供ガキの頃、弾薬の点検中に『やって』しまって。

 でも、もう慣れてますから、問題ありませんよ。」


 男はやや気恥ずかしそうに帽子に触れながら、軽く笑った。



「働き者の少年だったんだな。

 まったく、どこぞの馬鹿にも、爪の垢を煎じて飲ませてやりてえ話だ。」


「はは。

 では、失礼。」


 丁寧な見送りに会釈を返しつつ、彼は改めて、首に下げた防風ゴーグルを装着する。


 そして、先導を担う小型の戦闘騎に素早く搭乗。

 呼吸を整えてから、速やかに発進をした。



 ―――それから数分後。


 イマツェグの新造飛翔艦は、対空砲塔が連なる軍施設を目下に。

 国境を難なく通過したのである。



◆ ◆



 それはまさに、洞窟から帰還した直後のタンダニスと全く同様であった。


 シュナの警告も甲斐無く。

 軋み、ひび割れて、崩壊する全員の腕輪。



「…まさか…これは……私のせいですか…?

 だとすれば、なんと取り返しのつかないことを……!!」


 その無惨な光景を前に、通行証の入った筒を握ったまま立ちすくむアリアネ。



「落ち着いて下さい。

 我々はまだ、失格したわけではありませんので…」


「ああ、その通りだ。」


 続けて彼女に声をかけたのは、ウベとカジェット。


 二人は所持している腕輪の殆どを失ったものの。

 自身が元から持つリーダー・ブレスレッドは無事である。



「勘違いさせちゃって悪かったわ、アリアネさん。

 あなたじゃなくって、通行証の容れ物……その『筒』が危険だって言いたかったの。」


 慰めるように寄り添い、それを代わりに手に取るシュナ。



「おそらく大半の参加者が持つ三桁の番号の腕輪は、錬金術で作られた特別製。

 それらは、これを開けた時に作動する罠に反応して、壊れる仕組みになっていたのよ。」


 彼女は説明しながら、筒の先端に装飾された宝石のような物体を、地面に落ちている破片に近付ける。

 するとそれらは、大きく振動し、さらに砂のように細かく分解されていった。



「そういえば、重さをあまり感じないこのリングも、錬金術で作られているとの説明がありました。

 我々は、もう少し警戒をするべきでしたね……。」


 腰に下げたリングホルダーを片手に答えるウベ。

 先ほどのシュナの実践も相成って、それに反論する者は誰もいなかった。



「ああ…私さえ迂闊な行動をとらなければ……!!

 …どうして私はいつも、こう…」


「おぬしも悪気があったわけではなかろう。

 ……皆も、どうか許してもらえぬかのう。」


 未だに頭を抱えて悔やむアリアネを見かね、タンダニスが苦笑混じりに呼び掛ける。



「あの場合、誰だって中身を調べるだろ。

 ましてや今は、同盟中なんだ。

 あんた一人が責任を感じることはねえって。」


 陰気を吹き飛ばすようなカジェットの力強い言葉に、ウベも首肯した。



「皆さん…。」


 段々と明るさを取り戻していく、アリアネの表情。

 傍らのシュナも、ほっと胸を撫で下ろす。



「…そうか……この罠がほぼ不可避なものだとしたら……」


 だが、一連の騒動を黙して聞いていたパンリが、そこで口を開いた。



「これは、単なる意地の悪い罠じゃないですよ。

 憶えてますか?

 あの大会の進行役を努める魔導人形が、述べた前置きを。」


「前置き?」


 急に気色ばんだ彼の様子に、思わず顔を向けるカジェット。



「たしか…こう言っていたはずです。

 飛翔艦乗りにおいて特に大事とされる三つの要素、勇気・知恵・体力を競っていただく、と。」


 パンリは咳払いをして、一歩前に出る。



「ただ漠然と、勇気や知恵や体力などという言葉を聞いた時。

 人はどうしても、こういった競技に対する常套文句として受け取ってしまう。

 でも、よく考えてみて下さい。

 『勇気』に関してのみ、今までの中で、別の解釈が出来るところは無かったでしょうか?」


「…おいおい、今度は謎かけかぁ?

 勘弁してくれよ。」


 いまいち反応の薄い全員の気持ちを代弁するかのように、カジェットが声を洩らした。

 そんな、軽い沈黙の最中。



「……広場に集まった私達に向けて、参加表明を求めた、一番最初の時だわ。」


 シュナのみが視線を固めたまま、自分に言い聞かせるように呟く。



「はい。」


 それに対し、大きく頷くパンリ。



「そ、そうか。

 …なるほどねえ。

 ……それで、つまり…どういうことなんだ?」


 思いが合致した様子の二人に合わせ、表情を粛としたものに変えつつも、カジェットは再び訊いた。



「後半戦をクリアできる組は、とっくの昔に限定されていたのよ。

 『命の保障が一切無い』という脅し文句にも負けず、すぐに参加を決めた『勇気』ある組に。」


 口に出すのも悔しいが、シュナは断腸の思いで説明をする。



「戒の奴も『質問が競技に関するから、拒否をする』っていう魔導人形の言葉が引っかかってたみたい。

 今思えばあれは、既に競技が始まっていたことを示唆してたわけね…。」


「でも一応、ヒントを言葉として出しているのですから、公平な仕掛けとも言えます。

 たとえそれに気付けなくとも、カジェットさんのように何も考えずに袋を手にした方もいますし…」


「何も考えてねえってのは、余計だ!」


 不意に図星を突かれた彼女は、パンリの頭を叩く。



「あの時は、急に魔導人形が狂った口調で注意を逸らしてきたから、そこまで考えが回らなかったわ。

 でも、選手村では態度が普通だったところを見ると、あれも演技だったわけよね…。」


 シュナは歯噛みしながらも、諦めのついた様子で、肩から弓を降ろしていた。

 仕掛けが明らかになったことで、少しは溜飲が下がった気分である。



(確かに、あの思考力を削がれた状況で、私やカジェットさんのように迷い無く行動できた組は、偶然に過ぎない…。

 だがそれにしては、すぐに袋は無くなってしまった。

 おそらく、この大会の仕様を知っていた者が多かったのだ。

 つまり、運営側の息のかかった人間が……!)


 一方のウベは、自身の推測をパンリの意見に重ね、息を飲む。



 幾分、斜に考え過ぎているかもしれない。


 だが、女性がいる組には攻略が困難な、前半戦のチェックポイント然り。

 組によっては一瞬で失格してしまう、この後半戦のやり方も、ただの罠にしては悪辣すぎる。


 真に公平であるならば、初めに腕輪を得られなかった者達に対して、何かしらの救済策が取られていて当然であろう。



(運営側が仕組んだ連中は、壊れない二桁番号の腕輪を8割は手に入れているはず。

 そこから脱落した者を差し引いても、現段階で6割以上は独占していると見て間違いない。

 大きな不確定要素さえ無ければ、間違いなく上位を独占できる数だろう…。)


 競技に選ばれたコースが安全な理由。

 そしてゴール到着時にポイント換算される、腕輪の法外な価値。


 ようやく、全ての事柄が一つの答えに繋がったような気がした。



(全ては…飛翔艦を取らせないためか…。

 回りくどい、小賢しいことを考えるものだな…。)


 だが、そのように利益を得る側を仮想できれば、生き残る方法も見えてくる。

 ウベは新たな気持ちで、かつて戒が持っていた腕輪を握り締めた。



「ひどい話ですよ!

 その時、我々はまだ、現地にすら着いていなかったのですから…。」


「まあ、済んでしまったものは、仕方あるまい。

 踊らされるのも、また一興じゃろう。」


 タンダニスは、憤るアリアネを笑いながら、腕輪の欠片をつまみ、吹いて飛ばす。

 さほど落胆しておらず、恨み言の一つも無い様子は何とも潔かった。



「…短い間じゃったが、楽しかったな。

 礼を言わせてくれ。」


 そして、周囲に向けて述べられる言葉は、不思議と品格に満ちており。

 全員は思わず目を見張っていた。



「リングの方は、ほとんど使ってしもうたが、壊れていない腕輪は四つある。

 半分ずつ取らそう。」


 まずウベに向け、筒と二つの腕輪を差し出すタンダニス。

 彼は同時に、残りをカジェットに渡すよう、シュナに促した。



「…何故、我々にまで腕輪を?

 縁のある向こうの組にならともかく…」


「まあ、堅いことを言うでない。」


 戸惑うウベに対し、タンダニスは破顔して、手にした品々を強引に握らせる。



「それより、この先の道中は気をつけよ。

 …あまり上を望まぬ方が良い。

 娘達の無事を考えるのならば、の。」


 そして、焚き火の傍で熟睡している双子の姉妹に、穏やかな目を向ける彼。



「……ご慧眼、恐れ入ります。

 しかし、何の見返りも無しに易々と……貴方は未練が無さ過ぎる。

 一体何のために、この大会に参加を…?」


「語る程もない、些細なことよ。」


 ウベの問いかけに、タンダニスは長い顎鬚を得意そうに撫でながら背を向けて、悠然と仁王立ちになった。



「ただ……国を知るためには、そこに生きる民との触れ合いが一番と思っての…」


「―――どうでもいいですから、そろそろズボンだけでもお穿きくださいませ!」


 荘厳な台詞の途中だが、堪らずに叫ぶアリアネ。



「…まったく、最後なのに締まらないこと。」


 シュナは一転して和やかな雰囲気に変わる彼等を眺めながら、パンリに歩み寄り、通行証の入った筒を差し出す。



「あ…あの…何ていうか…」


 なすがまま、それを受け取り、少し身を引いて口ごもる彼。



「もう、そんなに身構えることないでしょ。

 この期に及んで『一緒に帰るわよ』なんて、言わないから。」


 意外にも、シュナは素っ気無く笑う。



「昨晩のうちに、非常食としてクッキーを作っておいたの。

 頭を使うと、甘いものが欲しくなるじゃない?

 だから…」


 そして、それをポケットから小さな袋を取り出して添える彼女。



「…有難うございます。

 自分達が万全の態勢で臨めるのも……シュナさんのおかげです。」


「…まるで、戦場にでも行くみたいな言い方をするようになったんだ。

 あの弱虫がね。」


「……すみません。」


 厳しい口調に、彼は愚直に返すばかりだった。



「あんまり苛めるなって。

 小言なんて、帰ってからでもいいだろ?」


 そこへカジェットが近付いて、助け舟を出してやる。



「言葉だけじゃ、全然足りないわよ。

 代わりに、思いっきりぶん殴ってあげるから……絶対、無事に帰って来なさいよね。」


 シュナは言い放つと、表情をそれまでとは全く別の不敵なものに変え、二つの腕輪を放り投げた。

 それを片手で受け取り、カジェットもまた歯を見せる。



「良かったな、パンリ。

 お優しい友達は、帰る理由まで作ってくれたぜ。」


「馬鹿ね。

 あんたも含まれてるのよ。」


 くだけた表情は、わだかまりが微塵も無い。

 二人とも、初めて出逢った時のままだと、パンリは気付いた。


 そして。

 それらを眺めていると、自分を変えたいと願う思いが、ひどく陳腐なものにさえ思えた。



「…ちょうどいい機会だ、神父さんよ。

 あんたの娘が目を覚ますまで待ってやる……そこから先は、うちらも別行動だ。

 悪く思わないでくれ。」


 カジェットは岩場に腰を降ろし、特に感情を交えずに淡々と告げる。

 有無を言わさないつもりであることが、そのきつい横顔から見てとれた。



 ウベは深く頷いて、シュナに向け一礼。

 それを受けた彼女も、勢いよく振り返る。



 緩い時の流れが、唐突に流れ始めたようだった。

 待ちかねていたタンダニスとアリアネと合流し、シュナは視界から徐々に消えていく。



(自分を変えることって…一体どういうことなんだろう―――)


 周囲は音を失い、自分の心の声が響いた。



 迷いではない。

 今までとは別の感覚を煩いながら、パンリは暫く、その方角を見詰めていた。



◆ ◆



「―――貴女が、モンスロン卿の?」


 フィンデルには、その後に続く言葉が無かった。


 静止した思考の中で、彼から家族は居ないと聞いていた記憶だけが反芻している。



「義父というのは…額面通りの意味よ。」


 相手の疑問を察したのか。

 イメルゲ=モンスロンは、静かに呟いた。



「彼は、ある施設から自分を養子に迎えてくれた人なの。

 その後、私はこうやって、すぐに隠遁して。

 彼と生活を共にしたことは無かったけれども……様々な情報を横流ししてあげていたわ。」


 細い指が、机をなぞり。



「それは結果的に、彼の寿命を早めただけだったけども。」


 そう言葉を結ぶと、彼女は目を細める。



「…何故、笑うのですか?」


「だって、皮肉を口にする時…人は苦笑を浮かべるものでしょう?」


 フィンデルの問いに、イメルゲは自身の唇に触れながら、無機質に答えた。



「彼が亡くなったことについて、どのように知り得たのですか。

 その事実を知る人間は、あまりにも限られている…。

 いくら貴女が、情報を得ることに秀でているとしても……」


 血の通わない問答に顔をしかめながら、フィンデルはさらに訊く。 



「当然の疑問ね。

 でも貴女が退役したと聞いて、予感し。

 ここを訪れたことで、それが確信に変わった。

 ……こんな説明じゃ、不服?」


 イメルゲの言葉に、一応は首を横に振る彼女。


 相手が嘘を言っていないと仮定すれば、今の会話だけで推測できることが幾つかある。


 軍内の末端に過ぎない自分の状況を把握していることから、その情報網は決して侮れないこと。

 だが、それはあくまで国内限定であり、他国までは及んでいないこと。


 ―――どのように情報を収集しているのかは見当もつかないが、その方法にも限界があるということだろう。



「ちなみに、彼との最後の会話は出国直前。

 『名将の乗る飛翔艦だから、タンダニアまでは必ず辿り着けるだろう。』って…あの人にしては珍しく、自慢のように話していたわ。」


「…!

 ……申し訳ありませんでした…。」


 その言葉は、フィンデルの心を抉るようだった。



「どうして謝るのかしら?」


「期待に添えなかったことに…」


 無為な問いだが、彼女は目を伏せて返す。



「案外、義父のことを分かっていないのね。

 騎士団の秘密を握って亡命することのリスクなんて、承知の上。

 常に最悪の状況を想定して、覚悟も決めている人間よ。」


「かといって…命が救われるに越したことは、無いと思います。」


「気を楽にして頂戴。

 大尉さん。」


 フィンデルは彼女に促され、初めて全身に力が入っていることに気が付いた。



「命の使い方など、人それぞれじゃないかしら。」


「しかし――― 」


「人の周囲は、常に死で溢れているわ。

 そして、死者達が、生者の足をひきずることなんて、無いと思うの。」


 何かを答えようとしたフィンデルを制して、イメルゲは続けた。



「全ては、生きている者の気持ち次第よ。

 レイキ=モンスロンの死に関する感傷も、私に対しての懺悔の気持ちでさえ、貴女の中における『決め付け』に過ぎない。」


「…あの方が生きていたら、貴女と同じように慰めてくれたかもしれません。」


「そう、可笑しいわね。

 血の繋がりだって無いのに。」


 相変わらず、イメルゲの笑みは一方通行だった。



「あの……話の腰を折っちゃあ悪いと思うんですが、先ほどからの話…。

 それは事実ですかい?」


 そこへ、力のこもった目つきで、会話に割り込んで来るオーロン。



「騎士団所属のモンスロン卿が亡命して…それを何者かが妨害、および粛清した?

 目ん玉がブッ飛び出るほどの、特ダネじゃありませんか。

 先生も人が悪いや。

 ルベランセのことは教えてくれたのに、そこに卿が乗っているなんて話は初耳…」



 事件の詳細を知らない彼は、興奮を抑えるのがやっとの様子だった。



「順番が逆になっているのではなくって?

 私は、先にそちらの用件を伺うつもりなのよ。」


「あ、ああ……そうでした。

 でも約束ですぜ、後で今のこと、必ず取材させて下さいや。」


 興奮に喉を鳴らしてから、彼は一息ついて、姿勢を正す。



「…で、その、卿に手をかけた者と、同一かどうかは不明なんですがね…。

 こちらの大尉の仲間が……どうやら『久遠』と接触したようで。」


「―――ねえ、モグラ君。」


 イメルゲは首を傾け、壁のパイプを叩いて合図をしながら、声の調子を上げて言う。



「扉を閉めて頂戴。

 …それと、外を見張っていて。

 私がいいって言うまでね。」


「あ、あい!」


 外からすぐに快活な返事が聞こえ、室内の圧が高まる。


 そして、バルブを回す音。

 あの重い扉が、ふたたび閉められたのだ。



「流石は先生。

 随分な念の入れようで。」


 だがオーロンといえば、それらを眺めながら、のんびりと感嘆の声などを洩らしていた。



「私は、命が惜しいわ。

 向こう見ずな…貴方と違って。」


「かいかぶらないで下さいや。

 私だって、そんなタマじゃありませんぜ。」


 そこでフィンデルは、イメルゲの変化に気付く。

 久遠という言葉の響きがあってから、それまで飄々とした雰囲気だった彼女は、緊張を身に纏っている。



「先に一点だけ、お聞きするわ。

 口にすることさえ憚られる忌まわしい組織が関わっていると、なぜ断言できるの?」


「あの『音速のギュスターヴ』の装飾品が、現場に残っておりまして。」


「…紛うことなき証拠が出たものね。

 これで中王都市の国政争いは、騎士団側に軍配が上がったと見て、いいのかしら。」


 彼女の指が、机の上で忙しなく踊る。



「さぁて…どうでしょう。

 少なくとも、両者が繋がった明確な証拠は無い。

 先生が知らないということ自体、あちらさんの内部でも、まだ極秘事項として扱われているという証明だと思いますがね。」


 オーロンはそこで初めて彼女に近付き、肩をすくませて言う。



「よって、現時点で事の大小は判断できる段階じゃありませんが…。

 最近の『久遠』の動きについては、把握しておきたいと思っております。

 ぜひとも、お力を拝借…」


「私自身も興味があるし、快くお受けしたいと思うわ。

 でも彼女はご存知なのかしら、久遠を探るという意味を。

 ……それこそ、義父と同等の危険に、立ち向かう覚悟が。」


 座ったまま、身を捻るようにして、イメルゲは言った。



「……?」


 急に話を振られたフィンデルは、説明を求めるようにオーロンの背中に食い入る。



「…オーロンさん。

 どうやら大きな失敗を犯したようね。

 貴方、一番重要な説明を怠っているじゃない。」


「はて……どういうことですかい?」


「とぼけずに、見せてあげなさい。」


「……今、ここで、ですかい?」


「そうよ。」


 短くも、強い口調で促されたオーロンは、少しためらいながら、背広をシャツごと捲り上げる。

 そうして露になった脇腹には、痛々しい拳大の傷跡があった。



「……貴方という人は…そこまで物好きな方でしたか…。」


 フィンデルは声を震わせ、ようやく言葉をひり出す。


 ここに来る途中、彼が語った犠牲者とは、彼自身である。

 一見、物見遊山を絵に描いたような男だが、この件に相応の覚悟で望んでくれているのだ。


 それまで彼女が抱いていた警戒心は、氷が解けて無くなるようであった。



「物好き……褒め言葉として、受け取らせていただきましょう。」


 気取りながら、フィンデルの横につくオーロン。



「いや…照れますぜ。

 そんなに感動なされなくとも…」


 だが、いつまでも顔を下に向けたままの彼女に不審に思い、さらに顔を近付ける。



「感動ですって?

 私は、非常に不愉快です。」


「へ?」


 返された冷たい言葉に、今度はがらりと変わって、オーロンは困惑した。


 自分が言ったとおり、感謝されたとしても、その逆はありえないと踏んでいた。


 何が不愉快なのか、理解し難い。

 当代きっての情報通を紹介してやったつもりなのだ。



「…イメルゲさん。

 非常に残念ですが、私は帰らせていただきます。

 ここの事は一切を忘れますので、ご安心下さい。」


「な……ここまで来て、ビビったんですかい?」


 挙句の果てに、勝手なことを言い出して扉に向かう彼女に、オーロンは慌てて立ち塞がる。



「貴方に危害が加わるという可能性を、あらかじめ知っていれば、私はノコノコとついてきませんでした。」


「な、なあに。

 裏の仕事には、危険はつきものというやつで…」


 しかし、まさに屹然としたフィンデルの表情に、すっかり気圧される彼。



「…危険にも、度が過ぎています。」


「だってぇ、もったいないでしょう?

 ここまできて。

 知りたくは…ないんですか…?」


「それ以上は見苦しいわ。

 大尉の性格を見抜けなかった貴方の負けよ。」


 声の調子が下がる一方の彼に向けて、イメルゲは席についたまま言い放った。



「彼女はきっと、他人が傷付くのが一番イヤなタイプ。

 軍人という職業からは、程遠い人種ね。

 人が傷付くのを見たくない……だけかもしれないけど。」


「否定はしません。」


 思いがけぬ人物評に対し、鋭い眼光が返される。



「ちゃんと、彼女をお送りしてあげてね。

 ご婦人が一人で歩くには、あの通りは危険すぎるわ。」


 それを受け流すように、イメルゲは視線を逸らし、軽く笑った。



「あの…。

 なんというか…お二人に対して、申し訳ない気持ちで一杯ですぜ…」


「別に、気にしてません。」

「私もよ。」


 二人からの強烈な視線を向けられながら、オーロンは額の汗を拭いた。



「う……じゃあ、ぼちぼち帰りましょうかねえ…。

 おっと…!」


 だが、気の重さが足に移ったのか。

 勢い余って、床の機材に蹴つまずく彼。



《 ―――我々は…。

…救国…。 》


 その拍子に何かのスイッチが入ったらしい。

 途端に、脇の壁に設置された声通管から、音が漏れる。



「あら、直ったわ。

 オーロンさんでも、たまには役に立つことがあるのね。」


 イメルゲは歓喜の声と共に、手元の念通球を握った。



「ちえっ…」


 皮肉に舌打ちしながらも、彼は耳を澄ますことは怠らなかった。



「周辺の軍施設に向けた通信みたいだわ。

 さて、何か面白いことでもあったのかしら…」


 易々と『軍施設』などと口にすることから、盗聴の類なのだろう。



 今までの経緯からして、フィンデルは同時に、彼女とオーロンの関係も完全に理解する。

 裏の情報屋と新聞記者との相性は、水と魚よりも優れたものに違いない。


 だが、この女の嬉々とした様子はどうだろうか。

 少々ふてぶてしくもある。


 フィンデルは、憮然として再び踵を返した。



《 ―――周辺の駐屯軍、諸君らに告ぐ。

これから数時間の後―――首都リエディンは、地獄の業火に焼かれるであろう。 》


 だが、ノイズは消えて。

 声が澄んだ音として、はっきりと聞こえると。


 それは、決して看過できるものではなかった。



《 くだらん大会の賞品である―――飛翔艦の一隻は、我々の同志によって完全に奪取された。

―――それを列強七国の盟主たる、中王都市の王宮に向けて墜とさせてもらう。

この蛮行が、過剰な文明を生み出した、人間の傲慢さを認識してもらう良き教材となりえるならば―――

実に光栄であるが、如何であろうか?――― 》


 少し気取った、演説のような語句。



「大会…?

 それに…奪取?……王宮って…?」


 フィンデルは呆然としながらも、矢継ぎ早に訊いた。


 今この首都圏で行われている催しは、一つしか心当たりが無い。

 これから現地に向かおうとしていた、オーロンも同様である。



「…今の……。

 先生、感度を上げていただけませんか!」


「騒がないで。

 もうやってるわ。」


 彼女は念通球を握り締めたまま、空いた手で制する。


 真剣な口元と横顔。

 声通器から出力される声は、段々と音量が増していく。



《 ―――空からの理不尽な暴力を止めることが、非常に困難であることは―――過去の歴史により、既知であろう。

それでもあえて、本艦に対し何らかの攻撃姿勢を示した場合、相応の報復をさせていただく。

―――我々には、その充分な戦力と準備があることを、まず念頭に置いてもらいたい。 》


 機械の向こうで。

 男の声は、静かに、そして確かな脅迫をしていた。



《 ―――中王都市の軍人……並びに、官僚・貴族どもよ。

私は、諸君らの迅速なる逃亡を期待してやまない。 》


 諭すようだが、文言は明らかに挑発的で居丈高である。

 三人は反射的に、騎士団の姿を思い浮かべていた。



《 ―――繰り返す。

民草らに、己の無能さと醜態を存分に示されることを―――

我々は『コーラル救国軍』。

この世界の悪しき流れに対し、破壊を以って、異を唱える者である――― 》



 だが、知らない組織の名。



 小さな密室で。

 六つの瞳が、無尽に交錯した。



▼▼


第四章

第六話 『以心変心・後編』


▼▼


to be continued…







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