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4-4 「以心変心・前編」



This story is a thing written by RYUU


Air・Fantagista


Chapter 4

『Coming in flight warship age』


The forth story

'Understand・First part'





◆ ◆ ◆



 早朝。


 鳥よりも早く目を覚ましたベルッサスは、丘上の岸壁の湧き水で口を潤し、天空より運ばれる涼風を吸い込んだ。


 競技の最中ゆえ、五感は絶えず緊張しているものの。

 自然のあらゆるものが、それらを癒すように、一抹の清感をもたらしてくれる。



 彼がそのような心地で居ると、ふと脇の茂みから出でる、カジェットと世羅の姿。


 両者とも、ひどく薄汚れた恰好だった。



「…二代目?

 ……何をされているのですか…?」


「見てのとおりだ。」


 呆気にとられるベルッサスをよそに、砂に煤けた顔を湧き水で流しながら、歯を見せるカジェット。



「世羅!

 ちょっと休憩したら、またすぐに続きだからな!!」


 そして彼女の言葉に、世羅はただ無言で頷いて、離れていった。

 目つきはしっかりとしているが、どうやら喋る気力までは無いらしい。



「…まさか、一晩中…彼女と…?

 これは、どういうことですか。」


 ベルッサスは、いつにも増して険しい形相で、カジェットに詰め寄った。


 『どのような修行を施しているのか』などは、この際、問題ではない。

 『なぜ、世羅に対してなのか』、それが彼には理解できなかった。


 今の状況で、早急に対処せねばならないのは、パンリの方であったはずである。



「いくらあの娘が気に入ったからといって、本題を忘れていただいては困ります。

 我々は、この競技に勝利すべく…」


「悪ィけど、パンリは、お前が面倒見てやってくれ。

 今、そっちに構っている余裕が無えんだ。」


 彼の言いたいことを見透かしたように、即答する彼女。


 それは妙に悟った表情で。

 視線は、世羅が消えた方向にずっと定まっていた。



「…いつもながら……勝手な御人ですね…。」


 納得いかないながらも、承知しかけた矢先―――言葉を止めるベルッサス。


 カジェットが彼の凝視する方を追うと。

 木々の間に、フードが揺れていた。



「パンリさん!!」


 呼び止めるベルッサスの声を振り切って、その小さな影は森の奥深くへと消えていく。



「…あの様子だと、まずいところだけ聞かれちまったようだな。」


「すぐに追いかけませんと…!」


「……放っておけ。

 どうせ、遠くには行けねえさ。」


 はやるベルッサスに、カジェットは渋い表情で呻いた。



「あいつには、考える時間が必要だから、ちょうどいい。

 今のままじゃ……あたしが何を教えても吸収できねえ。」


 昨夜、自分に向けられた、不審に溢れたパンリの瞳。


 彼女の記憶には、それが焼きついて離れていなかった。





◆ ◆ ◆



エア・ファンタジスタ

Air・Fantagista




第四章

飛翔艦時代到来



第四話 『以心変心・前編』



◆ ◆ ◆



◆ ◆




 人間はいつだって、才能のある者に惹かれる。

 今までの経験で、そう割り切れていたはずだった。



 だが、身中に渦巻く、悔しさという感情。

 これは到底、慣れることが出来るものではなかった。



 痛む心を抱えて夢中で駆けるうち、丘の絶壁まで到り。

 パンリは、そこの景色で我に返る。


 すっかり我を忘れて飛び出してしまったが、ここは競技のコース範囲とはいえ、孤島とも言うべき切り立った高い丘なのだ。


 選手村は崖下。

 目に届く位置に見えるものの、今の自分にそこまで辿り着く手段は無い。



 彼は後悔しながら、その場に座り込んだ。


 初めは辺りの山肌を眺め、やがて空に流れる雲の動きを、何気なく視線でなぞっていた。



(―――弟子に『才能が無い』なんて前提で教える馬鹿が……どこにいるってんだよ!)


 頭の内で、昨夜のカジェットの叱責が聴こえ、彼は自嘲した。



(見限ったくせに…。)


 恨み言を募らせながら、膝を抱える。

 すると、全身の節々が痛んだ。


 昨夜は、岩の上で寝るのを余儀なくされたからだった。



「―――驚いたぜ。

 合図で来てみれば…本当に単独行動とってやがるとはな…。」


「!?」


 そこで頭上から掛けられる気安い声に、パンリは顔を上げる。



 高い樹木。

 枝葉の中で三白眼が座り、葉を揺らしていた。



「何を驚く?

 ベルッサスの野郎だって、手下共を使い、こちらの動きを監視していただろ。

 俺も同様のことをしていたまでよ。」


 慌てて、逃げの態勢をとる相手に差し向け、コルススは続けた。



「……!!」


 パンリは思わず、足を止めるパンリ。

 相手の余裕と口ぶりは、既に周りを包囲していることを匂わせていた。



 だとすれば、もはや逃げ切ることは不可能である。



「あ…あの……」


 そこで一転、覚悟を決めて向き直る彼。



「…私と…取り引き……していただけないでしょうか…」



 その悲壮な声調に、コルススは表情を変えた。



◆ ◆



 障害物の無い、見晴らしの良い平地で、カジェットと世羅は互いに距離をとって向き合っていた。



「《駒・ダー・リ》。」


 カジェットが摘まんで投げた小石に、青い膜がまとわり付き、銃弾のように変わって放たれる。


 一方の世羅は、光球を身の回りに展開して、それを防いでいた。



「何ですか…?

 彼女の、あれは…」


 両者の邪魔をしないよう離れて静観していたベルッサスも、訊かずにはいられなかった。



「《源・フェルー・ド》の中に、入ってるんだよ。」


 カジェットの答えは、簡潔だった。



「…それは……私の理解を遥かに超えているのですが…。」


 額を押さえ、顔をしかめる彼に。



「あたしも、同じ気分さ。」


 彼女は軽く笑い飛ばし、足元の砂利から小石を五つほど握る。



「さて、さっきよりも多いぜ。

 《駒・ダ・リス》―――」


「……!」


 そして空に振り撒かれ、今度は複数になって襲い掛かる小石のつぶてに、世羅は少し動揺した。


 一つの弾が膝のあたりをかすめ、血を滲ませる。



「集中を切らすな!!

 お前は、そこに入っている限り安全なんだ。

 きゅうで自分を余すことなく包むようなイメージ!

 《源・フェルー・ド》は放つもんだっていう固定観念を捨てろ!!」


「ん!!」


 語気を強めるカジェットに、世羅は少しもためらわず、全身を大の字にして素直に従う。


 次いで、彼女を包む光は強まっていった。



「…どうなっているんです…。

 こんな修行……あれ程の《源・フェルー・ド》が作れるという前提が無ければ、考え付くわけがない…」


 ベルッサスは更に訊ねた。



「詳しいことは…後で話すさ。

 これで最後なんだ。

 あいつ、『四極よんきょく』は、一晩で完璧に覚えたからな…」


「『四極』を教えたのですか!?」


「ああ、参るぜ。

 団内でも、あたししか上手にこなせねえ……自慢の技だったんだけどよ。」


 そう言って、彼女は溜め息をつく。

 だが不思議と、悔しそうな様子ではない。



(この短期間に……二人には、長年の師弟関係と同等の信頼がある…。)


 両者の一途で健気、そして不乱な様子に。

 ベルッサスも理解を超えて感心しようと努めていた。



 だが、いくら豪気なカジェットとはいえ、今の域に達するには、様々な苦労があったはずである。

 それを、ただ気に入ったからといって、赤の他人に、何ら惜しげもなく極意の数々を伝授できるだろうか。



 ―――世羅に対する彼女の思いは、おそらく、その才能だけに注がれているものではない。


 それだけは、うかがい知ることが出来た。



◆ ◆



「…取り引き……だと?」


 敵を前にして、正気の沙汰とは思えぬパンリの提案に、コルススは訊き返した。



「はい。」


 今度は据わった瞳に変えて、パンリは言う。



「私の持つリングを全部さし上げます。

 その代わり、選手村の付近まで連れて行っていただけませんか。」


「……たった一人で何をするつもりだ?」


「この競技を棄権します。」


 首に提げたリングホルダーを外しながら、パンリは続けた。



「一人でも脱落すれば、カジェットさんの組は失格します。

 貴方にとって、賞品の飛翔艦を狙うことが、それでかなり有利になると思いますが。」


「お前らの関係は…その程度なのか?

 こんな大会にまで一緒に参加してやがるもんだから…俺はてっきり……」


 困惑した様子で呟くコルスス。



「私は、騒動に巻き込まれただけで…何も関係無いんです。

 この競技だって…半ば強制的に参加させられて…」


「……やはりな。

 あの女、昔から強引なところがあってよ。

 そのうえ、他人の気持ちを全く考えやがらねえ。」


 静かに怒りの声を露にするパンリに、彼は納得したように肩をすくめて見せた。


 そして両者は、ゆっくりと歩み寄る。



「だから、お前さんがただの被害者だってのは…信用できる。

 こっちこそ、この間は悪かったな。

 あの女の前だと、ついつい俺も頭に血が昇っちまうんだ。」


「?」


 パンリは、少し戸惑った。

 外見に似ず、彼の柔らかい物腰は、弟のベルッサスを彷彿とさせたからである。



「俺だって、本意じゃねえ。

 同じ組織の中の『いがみ合い』なんてよ。

 こうやって、他人に……迷惑かけるだけだからな。」


 整然とした口調で、続けられる言葉。

 その最後のフレーズは、パンリの心を傾けるのには充分だった。



「うちらの『いざこざ』について、聞いているか?」


「はい、一応…。」


「俺たちの後継者問題は、まだ終わってねえのさ。

 組全体に、あの女に対しての不信感が残っている限りはな。

 ……弟の奴も、ある意味じゃあ被害者なんだよ。

 あいつは真面目で、頭領に従うことに忠実なゆえに盲目になってんだ。」


 歯噛みしながら、彼は言葉を洩らす。



「出来れば…全部……平和的に解決していただきたいですけど…」


「お前さん、いい奴だな。

 おまけに……胆も据わってやがる。

 この俺と面と向かって話せる男なんざ、今までいなかったぜ。」


 コルススは、そこで初めて笑みを見せた。

 なかなか、人当たりの良い表情だった。



「では…早速、選手村まで…お願い出来ますか?」


 リングホルダーを渡そうと、手を差し出すパンリ。



「ああ、そうだな…。

 あの村までなら、俺の源法術でひとっとびだぜ。」


 コルススも快く、それに応じた。



 確かに、彼を初めて見たあの時。

 彼は極度に興奮しているように見えた。


 だがその実は、人の上に立つ者だけあって、意外と思慮深い人間なのかもしれない。



(―――弟子に『才能が無い』なんて前提で教える馬鹿が……どこにいるってんだよ!)


 そこで再び、頭の中にカジェットの声が鳴り響く。



 彼女の方はどうだろうか。


 そもそも、出会って数日。

 仲間と呼べるのかさえ疑わしいのに、一人で勝手に師匠のつもりでいた。



 気持ちの空回りも良いところだ。



 こちらは、色々と辛い仕打ちを受け。

 体と心が傷ついただけで、何の得も無い数日間だった……



「―――でも、やっぱり面倒だなァ。」


 コルススの手は、パンリの持つリングホルダーをすり抜けて。

 強く握られた拳が、彼の腹にめり込んでいた。



「……!

 …ぇ……!!」


 すぐにその場に崩れ落ち、胃液を吐き散らしながら、のた打ち回るパンリ。



「…『取り引き』だァ?

 そんなものが成立すると本気で思ってたのか!?」


 頭の上から響くのは、野蛮な高笑いだった。



「いいか?

 そういうのはな、お互いが対等の立場で初めて成立するんだ。

 こんな風に、強者と弱者がはっきりしてる場合……」


「…ぁぐ!!」


 さらに横腹にめり込む蹴りに、少年の肋骨は悲鳴を上げる。



「弱者は搾取されるだけの運命なんだよ!!

 バァカ!!」


 地を転げるパンリの目に、自分のリングホルダーを握っているコルススの姿が映った。



「……た…たすけて…」


 反抗する気は、微塵も涌かなかった。

 ただ震えて、哀願するばかりだった。



「何だそりゃ…見下げた野郎だな…。」


 その醜態が、更に相手の機嫌を損ねたのは明らかだった。


 右手を背後に構え。

 低く態勢をとるコルスス。



 その行動に、パンリは、ただひたすらに嫌な予感がした。

 本能的に危機を脱するため、背を向ける。



「《風・ハイ・ゾン》」


 コルススが唱えた直後。


 藪の奥から、鳥のつがいが、勢い良く空へと舞い上がる。



 一瞬、それに気を取られるパンリ。



 初めは、動物の取るに足らない行動だと思った。



 次の瞬間、視界が揺れて。

 パンリは勢い良く、地面に膝をついてしまった。



 背後から足音が迫る。

 黄色く発光する手をかざし、悪どい笑みを浮かべるコルススの姿が迫っている。



「……!?」


 だがパンリは、どうしても立ち上がることができなかった。


 真っ直ぐに、立てない。

 左足に違和感がある。



「…?」


 見れば、その足首は、皮に付いているだけで、今にも取れそうになっていた。



 鋭利な刃物で切られたハムのような、真紅の肉を見せる断面。

 一瞬にして、全身の血気が引いていく。



「…う……うそだ…!

 こんなの…」


「嘘じゃないねえ。」


 狼狽しているパンリの反応を、コルススは心底面白おかしそうに眺めていた。



「あの時、言ったろ。

 てめえは『八つ裂きにして、ぶち殺してやる』ってよ。」


 さらに手の平を向ける彼。



「…うああああ!!」


 パンリは遂には、地を這っていた。



「おい、待てよ。

 ……まだ、『二つ裂き』なんだからよ。」


 コルススが追う態勢を見せた刹那、その少さな標的は目の前から忽然と消える。



 真下には。

 植物が視界を覆う、深い窪みがあった。



「…かぁ、面倒なところに落ちやがったな。」


 彼は足元を望み、群生している深緑を軽く一瞥しただけで、踵を返す。



 そこは、選手村とは真逆の位置。

 何の憂いも無い。



「……頭。

 このまま、二代目を攻めますか?」


 そこでようやく、周囲に潜んでいた手下達は姿を見せ、そのうちの一人が訊いてくる。



「待ちな。 まずは、あの女の手下からだ。

 外堀を埋めてから、ゆっくりといたぶってやろうじゃねえか……。

 この俺を小馬鹿にした後悔を、じっくりさせてやる。

 はははは!!」


 身を捩じらせて悶えるコルススに。


 手下達も怖気を感じつつ、その哄笑に順じていた。







◆ ◆



◆ ◆



 目を覚ますと。



 木々で出来た円錐えんすい

 自分は、その底で寝そべっていた。


 頂点へ向けて伸びる幹。

 先に覗く、僅かな青空。



 戒は半身を起こし。

 土に座ったまま、改めて回りの景色を眺めてみる。


 早朝の森は一種の爽やかささえ感じるほど清々しく、昨夜の陰鬱とした気配は無い。


 そして近くの木に吊るされたハンモックには、自分と同じく呆けた顔を向けている少女がいた。



「…見直したわ。

 交代せずに、ずっと見張っててくれたなんて…」


 信じたくない気持ちからか、願望を口にしつつ、そこから降りて来る彼女。


 確か、名をレンという。

 寝惚け半分の戒にしてみれば、それが精一杯の認識だった。



「まあ…こう見えても……俺様は、けっこう責任感が強い方だからな…。」


 彼女の目から、あからさまに顔を背けつつ、呟く彼。



「でも徹夜した割には、あんまり眠くなさそうね?」


「……ある程度まで達してしまえば、逆に眠気が無くなるもんだ。」


 目やにの付いた瞼を、しばしばと開閉させる。

 そんな態度に、レンは確信を抱いて詰め寄った。



「絶対、さっきまで寝てたわよね…あんた。

 ここが何処だか解ってる?

 血に飢えた凶獣や、野蛮な連中がひしめいている森なのよ!?

 それがよくもまあ…ぬけぬけと…!」


 彼女は一通り、わめき散らし。



「最低!!」


 最後に雷を落とした直後、はっと気がついて立ち止まった。



「エリスは……?」


「リスがどうしたって?」


「ちょっと……いい加減、目覚めなさいよ!

 何でいないの…?

 ……まさか…誰かに…!?」


 途端にうろたえだす彼女。

 さらに、その背後の茂みから、不意に何かの気配が伝わる。



「ひッ……!」


 レンは先程の威勢を捨てて、思わず戒の背で身を縮めた。

 昨日、この付近で大魚に襲われた恐怖感は、いまだに心を蝕んでいる。



「い、行け!

 お前が先頭に立って戦え!!

 俺様は丸腰なんだからな!」


 しかし頼みの戒も同様で、さらに彼女の背後へと回り込んで叫ぶ有様だった。



「なに言ってんの!

 あんただって、お父さんと同じ武器を持ってるくせに!!」


「あんなに器用に扱えるか!」


「だったら男らしく、せめておとりくらいになってよ!!

 その間に私が逃げるから!!」


 不毛なやりとりをしているうち。

 茂みを割って、鼻先を見せる二匹の大きな獣。



 いよいよ恐怖が極限まで達したレンが、祈りの言葉と共に両目を閉じて槍を構え、突撃の態勢になった時。



「や、待て…!!

 あれは…」


 戒は、慌てて彼女の首根を押さえつけた。

 茂みを掻き分けて現れたそれは、既に討ち果たした凶獣を肩に担いだザナナだったのである。



「…何してるの?

 二人とも。」


 しかも、その隣にはエリスまでもいる。

 途端、腰砕けになる二人。



「…お、驚かさないでよ…!

 なんで、二人が一緒に帰ってくるわけ?」


「昨日から何も飲んでないでしょ?

 だから、この辺りで果物を探してたの。

 ザナナさんとは……偶然、そこで。」


 エリスは、水分が多く含まれる果実を両手に抱えていた。



「まさか……こいつの代わりに、あなたが一晩中…見張ってたの?」


 レンは感心し、戒のブーツを踏みつけながら言う。



「ううん。

 昨日は私も疲れてたから…。

 起きたら、もう朝だったわ。

 ……私達ついてるみたいね。」


 だが、舌を出して答える彼女。



「おいおい…ヘタすりゃ、皆殺しの目に遭っていたんだぞ。」


 その様子に呆れつつ、戒は自分の首を切る素振りと共に、大きな溜め息をつく。



「たとえそうなったとしても、あんたの場合は自業自得でしょ。

 ……ところで…お父さんは…?」


 平静さを取り戻したレンが、ザナナに訊いた。



「歩くペースが、あれではな。

 おかげで、到着が遅れてしまった。」


 豹頭の呟きは、複雑な心境を内包していた。

 一斉にその視線の先へと向く、三人の目。



「ああ……あれは、お父さんの悪い癖だわ…」


 レンは、すぐに顔をしかめて返した。


 両の後足を縛った獲物を背負い。

 古びた本を片手に、草根の束をもう片方の手。


 象のように鈍い足取りで歩いて来る、そんな父―――ウベの姿。



「や…この辺りは、生態系が独特でね…。

 稀少な薬草が多いものだから……ついつい採集に熱が入ってしまって…。」


 彼は辿り着いてから、ようやく周囲からの非難の空気に気付き、すぐに弁解した。



「ふざけてんのか?」


 そこへ、苛ついた口調で詰め寄る戒。



「他の連中と競ってるんだぞ。

 チェックポイントで説明を聞いただろ?」


「選手村に先着10組までは、ボーナスが貰えるというあれか。

 たぶん、間に合わないと思うがな…」


「間に合わないかどうかは、てめえが判断することじゃねえ。」


「…ううむ。

 確かに、これは私に非があるようだな。」


「別に謝らなくてもいいのよ、お父さん。

 なにせ、こいつだって、ついさっきまで寝てたんだし。

 まったく…言われたとおりの仕事もこなせず、口ばかりは達者なんだから…」


 二人の間に割って、レンが告げ口をする。



「む…そうなのか…?」


 白い目で返すウベに。

 急遽、鼻歌混じりで視線を逸らす戒。



「ふふ……。」


 彼等のやりとりに、エリスが小さく笑った。



「では、みんな。

 少し休んでから選手村に向かうとしようか。

 戒の言うとおり、急ぐに越したことは無いが……さすがに足がパンパンだ。」


 そこでウベは、渋い表情で自身の腿を叩きながら提案する。



「あの野郎……妙な真似、しなかったか?」


 自分そっちのけで場を仕切り出す彼、それに自然と従う娘二人を苦々しい顔で見据えながら、戒はザナナに近付いて囁いた。



「腕は、なかなかいい。」


 豹頭は簡潔に述べ、傍の岩に座る。



「一匹は、あの男が自分の手で獲った。

 ザナナのやり方を見ただけで、コツを掴んだようだ。

 それに…」


「?」


「誰かみたいに、うるさく騒がないのがいい。」


「ああ、そうかよ。」


 前日の狩りで浴びせた文句を、違った形で返してきた彼の調子に、戒は苦笑した。



◆ ◆



 一方。

 世羅の修行は、途中で終わることを余儀なくさせられてしまった。


 その後、やはりパンリのことが気になったベルッサスが、周辺の哨戒を行ったところ―――



「…付近の様子が妙です。

 どうやら、我々以外の人間がいるようで……足跡が所々に…」


 それが焦りの表情で戻って来たのである。



「折れた枝も沢山落ちています。

 もしかしたら、コルスス達がこの辺りに来ている可能性も…。」


「…ここまでだな。

 世羅、お前なら後は自力で何とか出来るだろ。」


 カジェットの対応は素早かった。

 その一言により、世羅を取り巻いていた源法術の光が、一瞬で飛散する。



「悪かった。

 無理を言って、覚えてもらってよ。」


 いたわるようにして、その両肩を抱くカジェット。



「…ううん。

 ボクも……すごくためになったし。」


「そうか。

 じゃあ約束どおり、いつか機会があったら伝えてくれよな。

 …カジェット=セイルクロウの名前と共に。」


(…?)


 ベルッサスは二人の会話に違和感を覚え、動きを止めた。


 まるで、これらの修行は、カジェット自らが願い出たように聞こえる。

 逆だとばかり思い込んでいた彼は、認識を改める必要があることに気付いた。



「おい、パンリを捜しに行くんだろ?」


「…すぐに参ります……!」


 そこへ当人から呼びかけられ、我に返る彼。


 彼女が何を隠し、どんな密約らしきものを交わしたのか。

 それは、さらに見当がつかなくなってしまった。


 だが今はパンリの捜索が最優先である。



「世羅は、昨日メシ食ったところで休んでろ。

 敵と遭遇しても、絶対に一人で戦うなよ。」


「…うん。」


 その言いつけに頷いた彼女は、疲れた足取りで坂を下りて行く。


 カジェットとベルッサスは、それを見送った後、空へ向けて飛び立つのであった。





 世羅は途中、湧き水が飲める場所へ寄り道をした。


 岩壁から染み出した冷たい水で、汚れた顔と手足をすすぐ。

 だが、続けてそれを口に含んだ時、彼女は思わず吐き出してしまった。



「…?」


 少し鉄っぽい、変わった風味。

 良く見れば、水は微妙に赤く染まっている。



「………!」


 世羅は水が滴っている天然の壁を見上げ、目を凝らし、息を飲んだ。


 その頂に、群生した植物に紛れて細い手が伸びている。



 彼女はすぐさま脇道を駆け登り、それが見えた箇所の裏手へ回ると、嫌な予感は的中していた。



「……パンリ…?」


 窪みの奥で、うつ伏せに倒れているローブ姿の人物。

 一目でその服装に見覚えがあった世羅は、何も考えずに斜面を滑降する。



「パンリ!

 ねえ!!」


 再三に呼びかけても、返事は無い。


 唯一、外から見える場所まで、必死に這って進んだのだろう。

 彼のローブの腹は土で汚れており、浅い水面に頬を浸けている顔は蒼白だった。


 そして近付くにつれ、世羅はさらにその惨状を目にすることとなる。



「!!」


 まさに皮一枚で繋がっているにすぎない、彼の足首。



「…た、たいへんだ……!!」


 口走りながら、その場で右往左往する世羅。


 彼女は、カジェットらを呼ぶよりも先に、パンリを救わねばならないと感じた。



 まず自分の長い手袋を脱いで、それで患部をきつく縛る。

 出血させたままよりは、いくらかマシになるだろうと思いった。


 次に、辺りに落ちている固い枝を添えて、切れた足首を合わせて固定。

 その上からさらに、自身の上着を被せて巻いた。


 これは誰に教わったわけでもなく、彼女なりの勘での処置だった。



(あとは…ここから出なきゃ…)


 パンリの体温の低さが、彼を抱えた左腕から伝わる。

 もはや、一刻の猶予も無い。


 だが、そんなことを考えていると突然、二人分の重量に耐え切れずに崩れだす足場。



「…い…ぎ……っ…!?」


 滑り落ちないよう、咄嗟につるを握った右手が痛む。

 よく見れば、その蔓は棘の生えたいばらであった。



 半分宙に浮いた態勢のまま、真下を見れば。

 そこは自分が水を飲んでいた場所だが、相当の高さがある。


 落ちてしまえば、自分だけならともかく、重傷のパンリはただでは済まない。



(…戒だったら……!)


 世羅は身動きとれないまま、左腕で抱いた彼の足を見る。



(…戒だったら……助けられるんだ…!!)


 その一心で。

 意を決した世羅は、自らの膝を茨で巻いて、空かせた右手を空高く構えた。





 それは、何気ない会話の最中に起こった。



「…なに?

 急に恐い顔して…」


 正面、戒の引き締まった表情にレンが驚く。


 その問いに答えずに、北西の方角を凝視したまま、傍で座していたザナナの肩を突く彼。

 豹頭が厳しい目に変えて見上げると、遠くの高い木々の間に再び光が煌いた。



「………!!」


 そして次の瞬間、戒は無言で脇を駆け抜けていた。

 同時、ザナナも槍を口にくわえ、高い木々の間を飛び移って行く。



「え? えっ?」


 あまりに唐突な彼等の挙動に、レンとエリスは困惑する。



「あ、あいつら、逃げる気よ!!

 ずっとチャンスをうかがってたんだわ…」


「いや……それなら、これを置いて行くのはおかしい。」


 中でも怒り心頭のレンに、ウベが地に転がったままの獲物を示す。



「あの様子からして…彼等の仲間に、何かあったんじゃないか?」


 彼は冷静に、駆け抜けて去った二人の様子が、あまりにも無防備だったことを気にしていた。

 他の選手がどこに潜伏しているか判らないこの地では、危険極まりない行為である。



「お、追いかけてあげないと…」


 エリスは自分と同様、そのことに気付いた様子だった。

 そして残された三匹の獲物は、自分ならば運べない重量ではない。



「…わかった。

 二人とも、頑張ってついてくるんだ。」


 追跡の態勢に変わる父の姿に、二人の娘はやはり迷わずに従った。



◆ ◆



 そこは、大会前半の終着である選手村に程近い場所。


 小高い茂みから立ち上がり、大きく手を振って示す世羅の姿が、すぐに確認できた。



「世羅ッ!!」


 それを見た戒は、すぐに走りを加速させて彼女と合流する。

 一呼吸遅れて、頭上の木からザナナも着地した。



「どうしたんだ……その恰好は…。」


 下着のシャツ一枚になっている世羅に、まず驚く二人。



「…怪我……してるわけじゃ…ねえのか?」


 彼女の肌は、所々が赤く腫れているものの、かすり傷に見えた。


 戒が安堵した直後、奥で横たわっているのはパンリを目に留める。

 そこには、カジェットとベルッサスの姿もあった。



 彼女たちもまた、源法術による合図に気付き。

 窮地の二人を救出した後、世羅に言われるまま丘陵を降りてきたのである。



「…た、大変なんだ。

 こんなことになっちまって…!

 お前なら助けられるって…世羅が言うから…」


 カジェットは、ひどく取り乱した様子で戒に駆け寄った。



「それに…こいつ……何か耳まで変な形に…」


「うろたえるな、バカ!

 それは元からだ!!」


 パンリの獣のような耳を指す彼女を、戒は声を荒げて突き放す。


 そこへウベも、息を切らせる二人の娘と共に到着した。



(…彼女たちが、戒に獲物を頼んだ組か?

 見たところ…親交があるようだが……)


 カジェットらの様子を観察しながら、背負ってきた三匹の獲物を降ろす彼。



「おい…誰だ。

 この処置をした奴は。」


 一方。

 パンリの容態を確かめている戒が早口で訊いた。



「もしかして…ダメだった…?」


 両手を後ろに組んで、不安そうに肩を揺らして答える世羅。



「いや……でかした。

 これなら助かるかもしれねえ。」


 そこで戒に乱暴に頭を撫で回され、一転して彼女は嬉しそうな表情に変えた。



(……なに…?

 あの子の肌…)


 その様子を、遠巻きに見詰めるレン。

 彼女の左腕に浮かんでいる黒い紋様が、不気味に思えてならない。


 だが脇のエリスは、それよりも二人の関係が気になっているようだった。



 そんな中、戒は治療にとりかかるため、パンリの足に結ばれた服をほどき始める。



「…うわ……!」


 戒の背中越しに見える惨状に、レンは思わず顔をしかめた。



「これは…一刻も早く、選手村に連れて行った方が良いかもしれんぞ…。」


 ウベも薬草の鞄に手を半ばまで入れていたが、途中で言を呈する。


 少々医学の知識のある彼には解っていた。

 これほど重傷な者に対して出来ることは、あまり残っていない。



「静かにしてろ……気が散る。」


 戒は両袖を捲くり、瞑想するように目を閉じる。

 その張り詰めた空気に、いつしか誰もが一言も発さずになり、固唾を飲んで見守るようになっていた。



(…俺だって、こんな状態の人間を治したことなんてねえんだ…)


 可能性のことなど、考えたくもなかった。

 今はただ、自分が授かった力を信じるしかない。



(幸い…それほど時間も経ってねえし、失った部位もねえ…。

 何とか…繋がってくれ…!!)


 この能力を使う時は、いつも同じような気持ちになる。



 普段は、その『さだめ』に振り回されているかもしれない不安を、感じ。

 都合の良いときだけ、頼り。


 最終的に、特別な力を生まれ持ってきたことを、感謝する。



 この巡りは。

 自分が死ぬまで、永久に終わらないのではないかとさえ思う。



 戒はそんな恐れを抱いた細い心で、同じように彼の細い足を握りこんでいた。



 右手の中指に浮かぶ、青い光。

 それは螺旋を描き、さらに先、二の腕まで到達する。



 世羅とザナナは、戒の天命の輪の輝きが、そのようになるのを見たことがなかった。

 勿論、戒自身は目を閉じているため、その異変には気付いていない。



「……天命人エア・ファンタジスタ…!」


 無事、見事に修復されていく少年の足。

 目の前の奇跡に、ウベは驚嘆の言葉を洩らしていた。



「…どういうことだ…?

 それで…パンリは……治ったのか…?」


 一方のカジェットをはじめ、その他の既知でない者は、呆然とするばかりである。

 だが事の真偽を確かめるために、一旦は距離をとって見詰めていた彼女は、思わず駆け寄ってしまった。



「近寄るんじゃねえ!!」


 そこで待ち受けていたのは、凄まじい剣幕でそれを拒絶する戒だった。



「…百万年、遅えんだよ。

 てめえの役目は、こうなる前に助けることだろ。

 腕輪の番号が若いから、相当のキレ者かと思いきや……とんだ食わせ者だったようだな。」


「だからって、ずっと目を離さずにいろって?

 いくら師弟とはいえ…」


 カジェットは口を尖らせて、弁明しようとした。



「パンリが垂耳だってことさえ、知らなかったんだろ?

 それは、全く信頼されてねえってことじゃねえのか。」


 だが、間を空けずに捲くし立てる戒。



「その程度で何が師匠だ……笑わせるな。

 失せろ!!」


「………!」


 彼の怒号に対し、カジェットは返す手段を持たなかった。

 ベルッサスが伏せ目がちに、そんな彼女へ寄り添うようにする。



「……クソったれめ…。

 …とりあえずは、これで大丈夫だろうがよ…。」


 戒は奇妙な重さを足首に感じながら、立ち上がる。

 じわじわ痺れるような感覚は、それがこれから激痛に変わることを示唆しているかのようだった。


 それを承知している世羅が彼の腰を支え、ザナナが肩を貸す。



「…まだまだ、油断は出来ねえぞ…。

 以前も…それで痛い目を見てるからな…」


 疲弊した顔で、パンリを抱いて進む戒。



「大丈夫だ、猪族の長のようには、ならん。」


「だと…いいんだがな。」


 ザナナの慰めに、彼は軽口で答えながら足を引き摺っていった。



「…お前の怪我は平気なのか?」


 そして、前を見据えたまま世羅に訊く。



「え?」


 彼女は、そこでようやく自分の身体を見回した。

 小さな棘の欠片が、まだ手と膝に刺さっている。



「これくらい平気。

 でも……カジェットのこと…怒らないで。」


「あ?」


 だが、それを気にも留めない気丈な様子と言葉に、戒は面食らった。



「あんな奴にお前を預けた俺様を、恨んでくれたっていいんだぜ?」


「……それは…」


 世羅は精一杯、気の利いた言葉を探す。


 だが対する戒は、その考えが纏まるのを待たずに、歩調を早めて行ってしまった。





 ウベは最後尾から、懐に忍ばせた聖十字を握り締めていた。



 自分を含めた、この集団の所有する腕輪の総数は10を越える。


 全てを手にすることが出来れば、大会の上位入賞という目的も、より現実的なものとなろう。


 おそらく、二度と訪れないであろう好機である。

 これを逃すのは、あまりにも惜しいと感じていた。



「…お父さん?」


 振り向いたレンが、集団から少し遅れ始めた彼へと問いかける。



「あぁ……何でも…ない。」


 その声で正気を取り戻し、ウベは流石に分の悪い賭けだと思い直した。



「…せっかくの獲物を置いていくなんて、どうかしているぞ。」


 そこから早足で先頭まで追いつき、まずは戒に声をかける。



「仲間のことで焦る気持ちもわかるが…。

 もしも私達が追わなかったら、どうするつもりだったんだ?」


「……その時は、その時だ。」


 無言の戒に代わり、脇のザナナがきっぱりと言い放った。



「はは…。

 まあ、狩りを手伝ってくれた、せめてもの御礼だ。

 君たちの分も、村まで運ばせてくれ。」


 次に、ウベは後ろの面々を順繰りに見据えながら言った。


 すっかり消沈しているが、まだ一行の後をついてくる長身の女性と、その付き人。

 外見だけでは、彼女らの実力は量れない。



 どのような反撃が来るのか。

 それが完全に予想できない限り、奇襲で成功を収めるのは難しいだろう。


 ウベは、やはり今は静観することが正解なのだと、自分を鎮めた。



 ―――そして気になるのは、世羅と呼ばれた少女。

 娘くらいの年恰好だが、腕に浮かぶ渦巻くような黒い紋様が印象的である。



 そんな彼女がさほど気に留めていない擦り傷を、ウベは注視していた。



 もしかしたら、彼女は今後、自分にとって有益をもたらす存在になるかもしれない。



 当面、彼はこの不義の気配を抑えるのに、全力を注ぐことを決めた。







◆ ◆



◆ ◆



 選手村へと向かう途中。


 おそらく『獲物を狩る』ことよりも、『まちぶせ』を選択した組が、諸所に潜伏しているのだろう。

 道端の深い茂みの奥からは、常に鋭い視線が向けられていた。



 だが皮肉にも、ここで、事前に囁かれていた『数の有利』が顕著に表れることとなった。


 今の戒らは、三組が同行した大所帯。

 制限時間にもまだ余裕があるこの局面で、総勢9名もの人間を敵に回すような愚か者などいなかった。


 ―――ここは早まらずに、もっと好ましい標的を待てば良い。

 誰もが一様にそう考え、目の前を通り過ぎて行く集団を、ただ視線で追うばかりである。





 戒らは無益な争いに巻き込まれることもなく、やがて二対の大きな石像に出迎えられる。

 そこが選手村の入り口だった。



 村の中を少し覗けば。

 乾燥したあしで造られた原始的な家屋が建っており、南国の古い農村をモチーフにしたような印象がうかがえる。



 石像の間を抜けると、すぐに少し開けた土地があり、そこで選手達に対するチェックが行われているようだった。


 ところが、大会開始時とは違い、人の列が出来ていることもなく。

 今は閑散としている状態である。


 肩透かしを食らったように、全員は暫くそこで立ち尽くしていた。



「…お、お疲れ様です。

 どうぞ、こちらへ…」


 そこへ、設置された長机から、慣れない様子で声をかけてくる眼鏡の女性。


 中王都市側の唯一の代表として任務を遂行している―――議員秘書のウェイ=ルネントである。



 大会は当初、ギルド主導の様相を呈していたが、前半のチェックポイントの説明以来、いけ好かない魔導人形は詰め所に篭っている。

 今では現場の指揮は元より、大会の成功は自分の腕にかかっているのだと、彼女は勝手に錯覚していた。



「では、本人確認の手形を照合させていただきます…。

 その前に、課題のチェックを…」


 先頭の戒の仏頂面に恐れを抱きながら、遠慮がちに続ける彼女。


 続いて、脇に控えた物言わぬ二体のクマの着ぐるみがウベを誘導し、彼が担いでいた凶獣を確認する。

 全員はそこでようやく、晴れて、休息の空気へと身を委ねられる心地になった。



「…その方は、どこか怪我でも?

 棄権なさるのでしたら、ここで手続きできますが…」


 その合間、ウェイは彼に抱かれて眠るパンリに目をつけて訊いた。


 今後、目を覚ましたとしても、戦える心境ではないだろう。

 だが、せっかく傷が癒えたというのに、ここですぐに棄権を決めるのは惜しいと戒は思った。



「あいつらが、仲間だ。」


 彼は渋々、カジェットの方へと親指を向けて示す。

 その合図をもって、彼女らも、どこかばつが悪そうに前に出て、照合に加わった。



「…三組とも揃って、皆様ご本人で間違いないようですね。

 それでは改めて……前半戦突破おめでとうございます!

 ええっと…では……この選手村の説明を…」


 戒の顔色をいちいち伺いながら、ウェイは半笑いで切り出す。



「…してもよろしいですよね?」


「手短にな。」


 終始、苛ついた調子で戒は返した。



「…こちらは普段、中王都市の高級リゾート地として、上流階級の方々のために使われております。

 ただし、現在は当大会の貸し切りにつき、宿泊施設は勿論、飲食や雑貨の購入にも従来通り、リングのポイントをそのまま使っていただけます。

 あらかじめ申し上げている通り、完全に中立地帯となってますので、戦闘行為は一切禁止です。」


 彼女は手にした書類の文面通り、読み上げていく。



「なお、これ以上先に進む自信の無い方は、ここでの棄権も可能です。

 そばの湖畔にて停泊中の大型船でゴール地点までお送りいたしますので、お気軽に係の者にお申し付けいただければ…」


「ああ、わかった。」


「二日後の早朝より、レース後半の開始となります。

 それまで、ごゆっくりと…」


「てめえに言われるまでもねえ。」


 長い講釈に、いよいよ辛抱できなくなった戒が去ろうとする。



「あ、あの!!

 あと……すみません。」


「まだ何か用か!?」


 だが、さらに付け加えられようとする背後からの言葉に対し、声を荒げる彼。



「い、いえ…用というか。

 これ…ボーナスリングなんですけどぉ…」


「……あ?」


 小さく身を縮めた彼女から差し出されたリングに近付き、戒は茫然とそれを受け取った。


 続けて、同様の物がカジェットとウベの手にも渡る。



「やったー!

 これで入賞に近付いたわ!!」


「…はて、我々で何番目なのかな?」


 はしゃぐレンをよそに、ウベは訊ねた。



「ちょうど10番目…これで最後ですね。」


「ふむ……そうですか。」


 手元の空箱をひっくり返しながらのウェイの答えに、小首を傾げる彼。


 他の組は予想以上に、もたついている。

 これが運なのか、偶然なのか、すぐには判断できなかった。



「では…約束どおり、協力体制もここまでかな。

 そろそろ、別行動と……」


 かくて一行は先へと進み、ウベが戒に別れを告げようとした矢先だった。



「キャー!!」


 エリスの悲鳴に全員が振り返ると。

 村内の家屋の影から、腰巻一丁の怪しげな大偉丈夫がこちらの様子をうかがっている。



「やはり、おぬしらか。

 随分と遅かったのう。」


 長い顎鬚あごひげをなびかせながら、悠然と歩み寄り。



「ぐ……フンドシ野郎……やはり既に到着していたか…」


 気安く声をかけてくる彼の様子を睨みながら、呻く戒。



「…前半の課題は、やはり、てめえ一人の力でクリアしたわけだ。」


「いやいや、ここまで全力で走ってもらったアリアネとシュナにも、苦労かけたわい。

 おかげで、昨日の夜のうちにここで合流できてのう。

 わしらは一等賞じゃ、がはは。」


 二人は会話を交わしながら、皆に先んじて道を進む。



「そして、これが戦利品じゃ。」


 タンダニスが背を向けると、10を余裕で越える腕輪が、腰に巻いた布―――それも尻の部分に通されていた。



(こんな野郎に倒された連中は……何とも…哀れというか……同情するぜ…)


 それを凝視しながら、戒は顔をしかめる。



「ところで……どうして、この人は半裸なのかね。」


 一方のウベは、後ろで娘達の目を塞ぎながら、猜疑に満ちた眼差しで問い正した。



「なぁに。

 朝の運動がてら、湖を軽く泳いでおったんじゃ。

 調子こいておったら、首都までついてしもうて焦ったわい。

 魚、食うか?」


 そんな視線など全く気にしない様子で、タンダニスは笑顔で握った生魚を差し出す。


 だが当然、ウベはそれを受け取らず、その怪しげな大男を眉間にしわを寄せて警戒していた。



「ところで、わしらは既に泊まるところを決めとってのう。

 ちょっと遊びに来んか?」


「そんな余裕はねえ。」


 戒は即答した。

 だが、タンダニスは含みをもった笑みで、さらに近寄って来る。



「まあ、そう言わずにの。

 シュナに、おぬしらを見かけたら連れてくるように言われていてな。」


「…あいつに?」


「この道をまっすぐじゃ。

 ほれほれ。」


 彼の招きに、彼らは強引に従わされる形となり、綺麗な砂利の敷かれた大通りを歩いて行く。



 途中。

 大きな石像が再び、村の広場に鎮座しているのを見かけ、ウベは不意に立ち止まり、それを感慨深げに見詰めていた。



「先代の王じゃな。」


 そこへ、タンダニスが声をかける。

 彼自身も瞼を半分沈めて、遠く、像の全体を眺めているように見えた。



「ええ、リエディン…フィラサンスカ三世……いや、四世ですかね。」


「うむ。

 おぬし、何か因縁でも?」


「いえ、まさか。」


 ウベは修道着の襟を直しながら答えると、先を行く集団を追いかけて行った。





 タンダニスに言われたまま、歩くこと数分の後。



「こ、これは……!」


 案内された建物を前に、戒が腰を抜かしながら言葉を洩らす。



 見渡す限りの芝生の敷地にそびえ立つ、恐ろしく巨大な豪邸。


 その大理石の白い壁には、沢山の窓。

 部屋が何室もあるのだろう、全てにベランダも設置されている。


 さらに、明らかに無用と思われる広大な中庭は、湖畔が見渡せるほど景観が良く、噴水やプールも備えていた。



「…いくらなんでも、奮発しすぎだろ…。

 お前ら、どれだけポイントを稼いでやがるんだ。」


「約20組分じゃからのう。

 まあ、ちょこっと揉んでやった程度じゃが。」


 首と肩を鳴らしながら、にかりと笑うタンダニス。



「―――戒なの!?」


 そこで、ちょうど二階のベランダから景色を眺めていたシュナが、上から声をかけてくる。



「…ちゃんと、生きてたのね。」


「当たり前だ。」


「ちょっと待ってて、いま降りるから。」


 少し高揚した声調で彼女は告げて。

 階段を降りる大きな物音の後、両開きの玄関扉が勢いよく開かれる。



「……どうしたの!?」


 彼女は、まず全員を見回して、パンリの様子と世羅の姿を見てから驚きの声を上げた。


 さらに、カジェットらの存在は、ある程度は予想していたが、そこへ加えて見知らぬ者達もいるのである。



「話は後だ。

 とにかく、俺様たちも宿を決めてくる。」


「あんた達もここに泊まりなさいよ。

 そのために、こんな大きな宿を選んだんだから。」


「……いくら取るつもりだ?」


 彼女の軽い口調に対し、訝しげな眼差しを送る戒。



「馬鹿ね。

 そんなセコい真似しないわよ。

 ねえ、陛下?」


「うむ。

 シュナが提案してくれた通り、大人数の方が楽しくて良いと思っての。

 なかなか、粋なはからいじゃろ?」


 タンダニスは鬚を撫でながら、笑顔で返す。



「…随分と優しくなったもんだな。」


 戒は、さらに得意げな彼女の横顔を睨みつけて言った。



「失礼ね。

 私は、昔から優しいわよ。」


「…そうか?

 ……じゃあ、遠慮なく上がらせてもらうぜ。」


「?」


 その彼の言葉に、シュナは面食らった。



「あんたこそ……今日は随分と素直じゃない。」


「悪いが、意地なんざ張ってる余裕は無えんだよ。」


 戒はそこで初めて表情を苦痛に変え、低い嗚咽を洩らしながら、パンリをシュナに託す。

 彼の能力を良く知る彼女は、それだけで大方を察することが出来た。



「では…我々はそろそろ失礼するよ。

 最後は慌しかったが、力を貸してもらった御礼を、彼らによろしく伝えていただきたい。」


 戒達が早々に豪邸へ入ってしまうと、取り残されたウベはシュナへ向けて切り出す。



「いえ…こちらこそ、何だか…あいつがお世話になったみたいで……。

 もしよろしければ、あなた達も泊まっていかれます?

 部屋は沢山ありますから…」


「それは是非とも、ご厚意に預かりたい!

 我々も、リングは節約したいものでね。」


 途端、豪快な笑顔と共に頭を下げるウベ。



「うそ、こんな所に泊まれるの?

 すごいラッキー!」


 少し離れた所で、その会話に耳をそばだてていたレンが両の拳を握って叫んだ。



「レン…はしたないわよ…。」


 そうやってなだめるエリスも、瞳を輝かせている。



「それと……貴女たちも。」


 最後にシュナは、カジェットとベルッサスに声をかけた。


 沈んだ表情。

 気を失っているパンリとの関連があることは、すぐに理解できた。



「あたしは…いい。

 ベルッサスだけ頼むわ。」


「そう。

 気が向いたら、いらっしゃいな。」


 それ以上は促さずに、シュナは踵を返し、豪邸へ戻って行く。



「…あたしが真っ先に腕輪を取りに行ったのは、あのクマ達が可愛かったからだ。」


 玄関先に残ったカジェットは、憮然とした表情で、恨みがましく呟いた。



「それなのに、あの野郎が勝手に買いかぶったんじゃねえか……」


「…二代目……。」


「……いや、言い訳だな。」


 哀れみを内包して掛けられるベルッサスの声に、カジェットは思わず首を振る。



「パンリを巻き込んじまったのは事実だし。

 術を教えるからって、ちょっと強引だったよな……ただ、一人で空回りしてただけ……なわけだ。

 向こうにその気が無かったんだからよ。」


「本当のことを教えていただけませんか。

 あの世羅という娘に構っていなければ、きっとこのような事態にはならなかったはず。」


「…それは関係ねえよ。」


 彼の強い眼差しに、彼女は耐えきれずに目を逸らす。


 初代カジェット=セイルクロウは、アルドの弟子だった―――

 そのような真実を背負うのは、自分だけで充分である。



「ならば何故…あそこまでこだわったのです?」


「もうやめろ。

 全部、あたしが悪いんだよ!

 それでいいじゃねえか!!」


 彼女の自棄的な物言いに、ベルッサスは諦めて後退する。


 そして彼も結局、豪邸には入らずに、静かにその場から離れていった。



◆ ◆



「おいこら!

 寝床は、どこだ!!」


「どの部屋でも、寝れるわよ。」


 広すぎる大広間で足踏みをして、わめき散らしている戒に、シュナが答える。



「…なら、一番奥だな。」


 彼はそう呟くと、少し足を引きずりながら廊下を進む。



「―――あんたは、まずお風呂よ。

 その服も洗濯してあげるから。」


 そのまま彼についていこうとした世羅の手を引き留めて、シュナは言った。

 土や砂で汚れている姿は勿論、露出した左腕に、さらに彼女は目を留めている。



「……うん。」


 その視線に気付いた世羅は、そこを片方の手で覆いながら頷いた。



「自分も、その後に沐浴させていただきたい。

 狩場は…ひどい場所だったんでね。」


「お風呂も幾つもありますから、良かったらこちらへ、一緒についてきて下さい。」


 ウベからの申し出に、シュナは笑顔で答える。



「レンとエリスは、先に部屋で休ませてもらいなさい。」


 娘達に荷物を預け、彼は彼女の案内に従った。



「…あの女、あいつの何なのかしらね?

 色々と世話焼いているようだけど。」


 レンが、廊下を振り返りながら言う。



「ただの友達とか…じゃないみたいね。」


 不安げな表情で、エリスが呟く。



「やかましいぞ、双子ども!

 俺様はもう寝るんだ。

 絶対に起こさないよう、二階の部屋にでも行ってろ。」


 そこへ、後ろで小さく会話する二人に向けて、辛辣な言葉を吐く戒。



「あんたに言われなくたって……!

 でも、まだお昼よ?

 選手村の見物とかしないの?」


「うるせえ……寝てえんだよ。」


 戒はさらに悪態をつきながら、奥の一室の扉を開く。



「本当、ぐうたらねぇ。」


 レンは彼の荒れた様子に苦笑しながら、陰口を叩いた。



「……。」


 そこへ、無言で扉の前を塞ぐザナナ。


 扉が閉められるた直後、突然に柱を殴るような大音。

 そして、床を乱暴に叩く音が響きだす。



「がああああああああああああああ!!」


「!?」


 続けて、壁の向こうからの咆哮。

 二人の少女は驚き、同時に不審に思った。



「あ、あいつ……頭でも打ってたっけ?」


「戒は、今、痛みと戦っている。」


「痛み?」


 レンに答えるザナナに、エリスがさらに訊く。



「傷は、簡単に癒せるものではない。

 たとえ天命人であっても。」


 豹頭はそのまま扉の前で胡坐あぐらをかいて、槍を肩にかける普段の態勢をとる。



「もしかして、あの傷の痛みがそのまま…?」


「まさか。

 痛くて死んじゃうわよ。」


「全て、覚悟の上だ。」


 豹頭は短く、低い声で呻いた。

 その言葉には真実味があった。



「……!」


 二人の少女は、驚愕と感嘆を混じらせる。



「きっと、大事な人なんですね。

 あのパンリって人も、世羅って人も。」


 だが、やがて表情を微笑みに変えて、エリスは言った。



「口には、出さんがな。」


 ザナナは、その彼女の純な感情に懐かしいものを覚えながら、静かに階段を上る二人を見送った。



 やがて痛みにもがく声は小さくなり、寝息を聴く。

 しかし、それからも、豹頭がその場を離れることはなかった。



◆ ◆



「…はあぁぁぁぁ……」


 大勢の喧騒が過ぎ去った大広間。

 そこのソファに腰掛けながら、この世の終わりを迎えるかのような暗い表情で、深い溜め息をつくアリアネ。



「あ、ごめんなさい。

 アリアネさんに聞かないで、色々と勝手に決めてしまって…」


 当面の仕事を終え、大広間に戻ってきたシュナは、それを敏感に感じ取って先に謝った。



「へ……何のことです?」


 だが、考え込んだ表情から一転。

 さも意外そうに言葉を返す相手。



「いや、だから……私が勝手しているのが気に入らないわけじゃ…ないんですか。」


「ち、ちがいますよ!」


 そしてさらにアリアネは、大袈裟な素振りで否定する。



「じゃあ、何を悩んでいるんです?

 全て順調なのに。」


「そこが問題なんじゃありませんか。」


 人差し指を立て、彼女は続けた。



「前半、私達が目を離しているうちに、陛下は相当に大暴れしたようです…。

 国王という立場ゆえに抑圧されていた陛下は、ここでは、まるで野に放たれた猛獣。

 後半はもしかしたら、全ての組が餌食になってしまうかもしれません。

 このままでは、優勝して目立ってしまうのは明白……飛翔艦は得られたとしても、国際上で困ったことにならないでしょうか…。」


「なに言ってるの?

 優勝なんて初めからするつもりなんてないんだから、そんなこと心配しなくてもいいじゃない。」


「……え?」


 一瞬にして動きを止めたアリアネは、呆然と聞き返す。



「貴女も重々承知の通り、陛下は仮にも一国の主でしょ。

 それが非公式に他国に侵入した挙句、こんな大会に出場しているなんて世間に知れたら大変なことになるわよ。

 そんなこと、どんな馬鹿でも分かるわ。」


「…シュナさん。

 仰っていることが、以前と随分違いませんか。」


 全身をシュナへと向き直して、彼女は真剣な顔つきで言った。



「あのねえ。

 『建前たてまえ』って言葉、知ってる?」


「バ、バカにしないで下さい!」


「貴女みたいに善良な人に隠したままじゃ気が重いから、この際、はっきり言っておくわ。

 ……本当は私、陛下に協力するのを口実にして、仲間を援助しようとしているだけなの。」


「ええっ!?」


 シュナの突然の告白に、アリアネは仰天した。



「我々を騙していた……そういうことですか?」


 そしてその衝撃も冷めやらぬうち、自問するように言葉を洩らす。



「う〜ん…。

 たぶん、陛下は初めから、それを承知して乗ってくれているんだと思うけど。」


「そ、そうなんですか!?

 何ゆえそんな…」


「陛下もね、この国を回るための、何か口実が欲しかったんじゃないかしら。

 ま、利害の一致ということでさ。」


 シュナは一転して気安い口調になりながら、失意のアリアネの肩を軽く叩く。



「たとえば……この村の到る所にある、リエディン王の石像を眺める陛下の憂いを帯びた顔を見た?

 御二人共、何といってもアルドの叛乱の英雄でしょう?

 何か他人には入り込めないような、難しい感情があるのよ、きっと。」


「…それは……全然、気付きませんでした。」


 反省の色を滲ませながら、顔を伏せるアリアネ。



「ダメねえ、何事も深く洞察して『裏』を読まないと。

 特に、ああやって、一見おかしな行動をとっている人は、何か別の考えがあることが多いのよ。

 遠路はるばるフィンデルさんに会いに来てくれるし、タンダニア国王様の懐は深くて、素敵だわ。」


「………。」


「それに比べて、親衛隊長さんは…」


 何気なく口をつく本音。

 対するアリアネは頭を深く垂らし、わかりやすく落ち込んでいる。



「あ、ごめん。

 別に責めてるわけじゃないのよ…」


「いえ。

 私も何となく…自分は他人より、その辺りが『少し』鈍いのではないかと思っておりました。」


 真顔で、呟く彼女。



(これでも『少し』……という認識しかないところが、規格外の鈍さを形容してるわね…。)


 だが、一方のシュナは呆れて物も言えなかった。



「昔から、陛下のお気持ちが、どうしても察せないのです。

 しかし、これが私の器量不足のためだということが、シュナさんのおかげで確信できました。

 お恥ずかしい限りです。」


「いや、そんなに思い詰めなくてもいいんだけどなー……」


 沈んだアリアネの様子に若干の後悔を感じながら、シュナは目線を天井に移して口走る。



「折り入って、シュナさんにお願いが御座います。」


「な、なに?

 急に改まって……」


「もしも貴女が『本気』ならば、我が親衛隊に入隊し。

 行く行くは、陛下の妃になっていただけないでしょうか?」


 急にアリアネは、普段以上に真面目な表情で言った。



「…私が?」


 事態を飲み込めず、ただ呟き返すシュナ。



「実は、陛下にはご世継ぎがいないのです。」


「??」


「もはや、タンダニアの未来のためならば、その腹が国民でなくとも厭いません。

 どうか!

 このとおり!! 陛下の子をお産み下さい!!」


「ちょっとちょっと、早まらないで。

 それに、話が全然見えないんだけど。」


 アリアネの大声に辺りを見回し、冷や汗を拭いながら、シュナは自分の両肩を力強く握る彼女の手を振りほどく。



「…まず、なんで親衛隊に入らないといけないわけ?」


 そして彼女は、紅潮した顔を片手で扇ぎながら、苦笑と共に返した。



「『そういうこと』のために組織された部隊だからです。」


「は?」


「…お察し下さい。」


「後継者が欲しいってことは……つまり、後宮の代わりってこと?」


 やがて、シュナは悟った表情で、手を打ち鳴らした。

 アリアネも無言で、それに首肯する。



「建国後、陛下はどうしても妻を娶らなかったため、過去に私の母が後宮を作ったのですが…」


「そこでも、一切手を出さなかったのね。」


「はい。」


 そう答える彼女は、しばらく間を置いてから続けた。



「…やがて後宮は取り壊しとなり、そこを取り仕切っていた母は、別の男性と結婚いたしました。

 ……ですが、それでも母は諦めず、次に後宮の代わりとして親衛隊を組織し、悲願を娘の私に託したのです。

 建前上、王家を守るという武力機関ゆえ、陛下は文句を言われません。

 しかし、そういった理由から、我ら親衛隊は若い女性のみで構成されているのです。」


「まさに親子二代の執念ってやつね……恐れいったわ。」


 大きく開けた口を塞げないまま、シュナは感想を洩らした。



「ですから、もしもシュナさんさえ本気ならば、ぜひとも…!!


「ほ…本気じゃないですって。」


「では、遊びなのですか!?」


「あなた、本当に面倒な性格してるわ……。」


 まるでちぐはぐな会話に、頭を抱える彼女。



「とにかく…どんなに熱く語られても、急にそんな重大な話は受けられませんから。」


「非常に残念です。

 陛下には、貴女のように気くばり出来る女性がふさわしいかと思ったのに。」


「何でそう思うのよ?」


「長年お傍に仕える私よりも、陛下のことをより理解されているようですし…」


「あのねえ。

 私は単に、要領がいいだけよ。

 夫婦の相性とは別……じゃないかしら。」


 興奮しないよう相手をなだめつつ、シュナは言った。



「それに第一、アリアネさんは…それでいいの?」


「…国王陛下のご世継ぎさえ誕生し……親衛隊の本懐が遂げられるのであれば。

 母もそう望んでおりますゆえ。」


「ほんとに?

 母親の言いつけだから、従ってるだけなんだ?」


「……そういうわけではありません。

 私だって本気で陛下を……お慕いしております…。

 たとえ、ずっとお傍にいられたら…それだけで何もいりません…」


「あ、そう…」


 アリアネの想いに、気持ちがむず痒くなりながら、再び呆れ声を唇端から洩らす彼女。



「『陛下! またそんな格好で出歩いて!

 もっと威厳をお保ち下さい!!』」


 そこで、シュナは指で目を大袈裟に吊り上げて、唐突に叫んでみる。



「……誰の真似ですか?」


 薄々感づいているアリアネが訊いた。



「私から見れば、貴方たちって、もう夫婦みたいなものじゃない。

 きっと結果なんて、後からついてくるわよ。」


「!!」


 目を覚ますような一言に、立ち上がる彼女。



「ほ、本当ですか?

 本当に…そう見えますか?」


「え、ええ……まあ、結構。

 ……それなりに。」


「嬉しい…」


 いささか自信の無いシュナの返答だったが、アリアネは単純に機嫌を直していく。



「有難うございます。

 シュナさんに言われると、私も少し自信が……そうだ!

 もしも陛下の正妻の座が重いというならば、せめて乳母役などはいかがでしょうか。」


 あからさまに、シュナの胸へと視線を向けながら、真面目な顔つきで言うアリアネ。



「考えておきます…」


 その悪気の無さが、かえって痛々しく。

 彼女は苦笑で答えるのであった。



◆ ◆



「―――驚いたわよね。

 あいつが、あんな力を隠し持ってたなんて。」


 ベッドに飛び込み、柔らかな羽毛の感触を味わいながら、レンは言った。



「でも、大丈夫かな?」


 その横で枕を抱いているエリスが返す。



「平気でしょ。

 …たぶん。」


 おもむろに立ち上がり、レンは設置されたクローゼットを乱暴に開ける。



「わぁ……見てよ、この服。

 自由に着ていいみたいよ。」


 彼女は、そこに掛けられた民族衣装に、早速首を通してみる。



「今まで野暮ったい修道服しか着たことなかったものね。」


 エリスは、はしゃぐ妹の姿を見詰めながら、嬉しそうに言った。



「後でこれを着て、村を見物に行こうよ!」


「……私は…いいわ。」


「どうして?

 外界を見物する、折角の機会じゃない。」


 動きを止め、彼女を見詰めるレン。



「だって悪いもの…。

 戒さんが…あんなに苦しんでるのに…。」


「あの蛮族も言ってたでしょ。

 自分で覚悟してやってんだからさ…。」


「私ね。

 あの人達の関係、すごく羨ましいと思った。」


 エリスは開かれた窓際に移動し、風を肌に感じながら呟いた。



「何も言わなくても、お互いに助け合ったり、心も通じているんだなって。

 ああいうのが、本当の仲間ってことなのかな。」


「…感心するのもいいけどさ。

 あの連中に、ちょっと気を許しすぎじゃない?

 特に、あのインチキ修道士。」


 レンは言う。



「…そうかな。

 でも疑ったら、余計に悪いよ。

 …こんなにいい所にも泊めてもらって……。」


 言葉にならない感情の末。

 黙り込む彼女。



「エリス。

 あんな状況だったから、お父さんは何も言わないけど……本来は、男の人に近付いちゃだめなんだからね。

 私達は立派な修道女になるために生きてるのよ。」


「わかってる。」


「……それにね…そういう気持ちは、世間を知らないからだと思うの。

 もっといい男だって、沢山いるはずよ。

 あんな奴でも、それしか見てないから、気の迷いを持っちゃうのよ。」


「だから、そんなんじゃないってば。」


「どうかしらね。

 まだまだ、修行が足りないんじゃないの?」


「レンの意地悪。」


 エリスはそう笑って、柔らかい枕に顔を埋めた。



「男に興味もつことは止めないけど…どうせなら、ちゃんとした司教とか司祭と仲良くしなさいよ。

 死んだお母さんが選んだ、お父さんのように立派な…」


「そうね。」


「真面目に聞いてる?」


 邪魔くさそうに相槌を入れる彼女に、レンは怒りながら返した。



 やがて疲れが全身を支配し、二人の会話は少なくなる。



「ねえ…お母さんの顔…憶えてる?」


 そんな中、不意に訊くエリス。

 この姉妹が今まで何度となく繰り返してきた質問だった。



「…ここまで来て、その話はよしましょうよ。」


 そして大抵、レンはいつも同様に返し。



 二人は答えの無い想像を打ち消すのであった。



▼▼


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◆ ◆



◆ ◆



◆ ◆ ◆



 戒=セバンシュルドは夢を見た。



 虎の如き体躯に、狼の様な気高い顔。

 全身に青白いほむらの毛を纏う、巨大な獣。


 それが身を屈め。

 正面から自分を見詰めている、そんな夢だ。



 獣の瞳は、深い哀れみを携え。

 秘して何も語らない。


 それが果たして、何を暗示しているのか。


 返る答えを恐れて。

 戒は、問うことさえ出来なかった。



 獣と人。

 両者の間に、遮るものは何もない。


 だのに何故か。

 はっきりと判る、拒絶の壁が横たわっていた―――



◆ ◆ ◆



 世羅と行動を共にするようになってから、奇妙な夢には慣れたつもりだった。


 戒は、喉に絡んだ息を吐き出しながら、四つんばいでベッドから上体を起こし、自分の左手を見詰める。



 あの獣の『青』は、天命の輪が発する光と良く似ていた。



(……犠牲の月獣…?)


 まだおぼろな意識の中で、彼は自身に問い返してみたものの、先の印象は既に霧散してしまっていた。


 体を変え、立ち上がれば。

 不思議なことに、パンリを癒した時に移した足の痛みが、今は皆無であることに気付く。



 ゆえに、戒は経過している時が気になった。



 すぐさま部屋の扉を思い切り開く。

 と、それが廊下に座するザナナの背中にぶつかって、鈍い音をたてた。



「……!

 何やってんだ、こんな所で。」


 何の気遣いも無く、そう呟いた戒に対し。



「体は、もういいのか?」


 ザナナは胡坐あぐらをかいたまま、器用に背後へと首を曲げて、逆に怪訝そうな視線を返す。



「…ああ。

 ところで、後半戦……まだ始まってねえよな?」


「まだ、陽さえ落ちてない。」


「それしか経ってねえのか?

 その割には…何か…」


 淡々とした豹頭の言葉に、戒は釈然としないまま途中で歩を止め、そのまま床を強く踏みしめてみる。



「いや…何でもねえや。

 お前も、もっと落ち着いた所で休め。」


 そこでさらに問いかけてきそうな豹頭に、彼は誤魔化すようにねぎらい、廊下を後にした。





 大広間に入ると、長いソファで世羅が眠りについていた。


 見慣れない寝巻き姿、おろした髪から漂う石鹸の香り。

 遠くの窓から見える、洗濯された彼女の衣服。



 それらの情景に、戒は相応の時の流れを知った。



「―――なんて顔してンのよ、あんた。」


 やや正面脇。

 調理場の勝手口から、大量の野菜を抱えて現れるシュナ。



「俺様が、一体どんな顔してるって?」


 自分の両瞼を軽く押さえながら返す戒は、まともに取り合おうとしない。



「鏡で見せてやりたかったわ。」


 そう言い放つと、彼女は調理台に次々と野菜を置いていった。



「お前…こんなところまで来て、何やってんだ。

 食事なんて、適当でいいだろ。」


「そうは思ってるんだけどね……市場で食材を眺めてたら、つい。

 私って、根っからの料理人なんだわ。」


 世羅の寝る位置から、わざと遠い席につく彼を脇目に、彼女は答えた。



「…でも、ある人に言わせれば、お妃様になれる器量だそうよ。」


「何だそりゃ。

 てめえにゃ、せいぜい小さな料理店が関の山……だろ。」


 戯事ざれごとだと言わんばかりに、苦笑する戒。



「失礼ね。」


 シュナはうつむいたまま、野菜を千切っては、ボウルに入れていく作業を続けた。

 その顔には、まんざらでもないような微笑をたたえている。



「それでさ…世羅から大まかに聞いたんだけど。

 大変だったわね……パンリのこと。」


 やがて調理を終え、手にしたサラダをテーブルに放ってから、彼の横に座る彼女。



「で、平気?」


「……何がだ?」


「何がって…あんたの足よ。

 あの『力』を使って、怪我を治したんでしょう?」


「ああ…。

 何でか分からんが…もう痛みは引いてる。」


「なら良かったわ。」


「いつの間にか、さらに天命の輪を使いこなせるようになったのかもしれん。

 流石は俺様……自分で自分の才能が、時々恐ろしくなる。」


「はいはい。」


 真剣な顔つきで呟く彼に、シュナは終始、呆れ顔だった。



「…ところで、あの大女はどうした?」


「パンリを寝かした部屋の、すぐ外の庭に居座ってるわよ。

 別に、中に入って来ても構いやしないのに。」


「フン。

 もしあの女に、さらにそんな厚かましさがあったら、俺様が真っ先に追い出してるところだぜ。」


 だが、そんな戒の威勢に、シュナは決して良い顔はしなかった。



「でもそうやって…一概に怒ることは出来ないんじゃない?」


「…なに?」


「今回の件はねえ……パンリにだって責任があるのよ。

 そりゃあ、友達を傷付けられて、頭に血が昇る気持ちも解らないでもないけどさ…」


 諭すように、彼女は続けた。



「サラダを食べる時に必要なのは、やっぱりスプーンじゃなくてフォークなのよ。

 …こと戦うことに関しては、腕っぷしが強い人間がやればいいんだし。

 ああいう穏やかな気性の子が、何も背伸びすることないわ。」


「知ったふうな口、叩くんじゃねえ。」


 並べられる言葉に対し、戒は短く言い切る。



「何よ。

 じゃあ、あんたはパンリの行動に賛成なわけ?

 だったらどうして…」


「お前は、あいつのことがあんまり分かってねえよな。

 それに、人はスプーンやフォークとは違うんだよ。」


 そしてサラダの中の揚げパンを素手で摘まみ、口に放り込む彼。



「―――それって『たとえ』の話でしょ?

 やっぱりバカな奴ね。」


 そこで廊下側から聞こえる、憎らしげな声。

 顔を向けると、休む直前に別れたきりになっていた双子の姉妹が、階段を降りてくる。



「戒さん、もうお身体の具合はよろしいんですか…?」


 少し驚いた面持ちで、エリスが訊いた。



「さっきから、どいつもこいつも。

 俺様を病人扱いするんじゃねえよ。」


「だから言ったでしょ…エリス。

 こんな奴を心配したって、悪魔を応援するみたいなものだってさ。」


 彼の横柄な態度を予想していたレンは、そんな姉の肩に触れながら、慰めとも諦めともつかない言葉をかける。



「あら、二人とも。

 その服、良く似合ってるじゃない。」


 一方で、シュナが彼女らの派手な花柄のワンピースに目につけた。



「どう、女の子らしいでしょ?」


 調子に乗ったレンは両手を広げ、くるりと回ってみせる。



「…んなことより、てめえらの親父はどうした。

 疲れて寝てるのか?」


 だが、それに対して全く感想を述べず、退屈そうな眼差しで戒は訊いた。



「お父さんは、しばらく選手村の入り口に張り込むそうです。

 休む前に、勝ち残った組を調べておきたいとか…」


「それは随分と勉強熱心なこった。」


 へリスの返答を聞いた戒は背を伸ばしてから、口角を歪める。



「それでね…。

 私たちは私たちで、これから外へ見物に出ようと思ってるんだけど…」


 その直後、タイミングを計っていたかのように、レンは少し遠慮がちに切り出した。



「誰か大人の付き添いが居ないと、ダメだって言われてるの。

 たとえば…」


 続けながら、目線を戒へと泳がせる彼女。



「ちょっと待て。

 いくら海よりも寛大な心を持つ俺様とはいえ、そろそろ我慢の限界というものがあるぞ…。」


 嫌な予感を敏感に感じ取り、先手を打つ戒。

 そして続けざま、乾いた喉を潤すため、テーブルに置かれた水差しを直接口にくわえた。



「そんなこと言わずに…お願い!

 戒おにいちゃん!!」


 そこで、一転。

 甲高い声で、脇に擦り寄るレン。



「…おッ!?」


 さらに潤んだ瞳で見詰めるという、性格の変貌ぶりに、戒は含んだ水を思わず噴出した。



「レン…!

 だめよ……これ以上、迷惑かけたら…」


 そんな妹の、あまりにも現金な態度に、エリスは背後から注意を囁く。



「外の世界に触れる絶好のチャンスなのに、なりふり構ってられないわ。

 エリスも、ほら……嘘でもいいから、頼みなさいよ。

 このまま宿でじっとしてたら、もったいないって。」


「それは…そうだけど…」


 だが、さらなる小声で囁かれる反論に、彼女は顔を赤らめながら意を決した。



「じゃあ…お願いします…戒……お、おにいちゃん…」


「照れながら言うんじゃねえ、こっちの方が恥ずかしくなる!!

 それにな、俺様にも一応、都合というものが…」


「どうせ暇なんだろうし、行ってきてあげたら?

 こんな可愛い妹たちのお誘いを断るなんて…ねぇ〜。」


 首を大きく振って拒絶する戒に、シュナが相当の嫌味を込めた口を挟む。



「…仕方ねえな……わかったよ。

 だが確か、大人の付き添いが必要とか言ったよな…。」


 やがて彼は観念したように立ち上がり、レンの顔の高さまで屈み、近付いた。



「こう見えても、俺様はまだまだ子供なのだ!!

 と、いうことで、付き添いはできん!

 ざまあみろ! カカカカカ!!」


 だが、そこで急に彼女の額を軽く指で弾き、散々にこきおろした後、すぐさま椅子へと身を返す彼。



「……この…!

 …でも……まあ…大体予想してたけどね。

 エリス、もう白けちゃったわ、戻りましょ。」


 大人気ない戒の様子に、額と悔しさを必死に抑えながら、レンは震えた声で言い放つ。



「人生そんなに甘くねえんだよ、クソガキども。」


 さらに、二人の去り際にも容赦なく悪態を続ける彼。



「…変わったわね。

 あんな子供たちに、冗談でも構ってあげるなんて。」


 意気消沈する姉妹が二階へ戻るのを見届けてから、シュナは真顔になって呟いた。



「それとも、世羅が…変えたのかしらね。」


「?」


 途中から静かに変わった彼女の口調に、戒は体を硬直させる。



「何だよ、やぶからぼうに…」


「私ね、あんたがどうして世羅にこだわっているのか、わかったの。」


「…てめえ……まさか?」


「今日は手袋してなかったでしょ。

 別に、見るつもりがあったわけじゃないわ。」


 シュナは後ろ髪をかき上げながら、一分のためらいと共に唇を開いた。



「…ひとつだけ聞かせて。

 世羅には、ちゃんと『全て』を説明してるの?」


 そして喉を離れた言葉が、広間の空気を揺さぶる。



「……大まかにな。

 利害の一致を納得した上で、俺様たちは一緒にいる。

 言わば…互いに利用し合う関係ってやつだ。」


 戒は目線を逸らし、相当に低い声で言った。



「嘘ね。

 もしも、あんたが納得しているのなら、『利害の一致』だなんて言い訳がましい表現はしない。

 それは負い目がある証拠よ。」


 シュナは興奮のあまり、己の声が大きく上ずっていることに気付かなかった。



「この先、世羅と一緒にいるつもりなら、はっきりさせなさい。

 ……あんたが『あの女』をどれだけ愛しているか。

 そして、契りを交わしてる仲だってことも―――」


「おい!!」


 戒の呼びかけも虚しく。


 シュナ言葉の途中で、ソファで横になっている世羅と目を合わせていた。


 彼女の閉じていた目は、今はわずかに見開いて。

 先ほどよりも、頬をさらに紅潮させている。



「……。」


 そんな中、自身の出方を決めかねている戒は、固まったまま動けない。



「…世羅、起きてたんだ?」


 シュナもばつが悪そうに言葉をひり出すのが精一杯だった。



「うん……。

 いま起きた…」


 眠そうな目を擦りながら、座る態勢になって、両膝に小さく手を乗せる彼女。



「えっと…何か食べる?

 野菜しか無いけど…」


「ううん……いいや。」


 慌てて言い繕うシュナに、浮かない表情で答え。



「ちょっと暑いから、風に当たってくるね。」


 世羅はそう言い残すと、小走りで玄関へ向かっていった。



「…あの子……言葉の意味、わかってたと思う?

 それとも、雰囲気で気付くかしら…」


 その後、すこぶる居心地の悪そうな苦笑を浮かべつつ、シュナは呟いた。



「……!!」


 対する戒は、テーブルを強く蹴飛ばして、無言で立ち上がる。



「あのね。

 世羅が男だったら、気にしないわ。

 でも、あの子は、あんたに好意を持っているみたいだから……私…傷付けたくないの。」


「うるせえよ。」


 茫然と座ったまま呟かれるシュナの言葉に、戒は頭上から冷めた視線を浴びせた。



「誤解してたら…解いて来てあげて。

 こんな形じゃ……私だって夢見が悪いし。」


「誤解なんて、あるものか。

 それに…お前の指図なんざ、なおさら受けねえよ。」


 大股の足取りで、玄関と反対側へ進む彼。



「戒! あんたどうするつもり…」


「おいこら!!

 外へ行ってやるぞ、双子ども!!」


 そして、シュナの問いかけを無視する形で、彼は階段下から二階へ向けて大声で怒鳴りつける。



 すると。

 地響きのように、二つの足音が急いで駆け降りて来るのであった。



◆ ◆



 大会の運営本部は、選手村の中ほどに一件の小屋を借りていた。


 スタート地点の時とは違い、その中には客品も要人もおらず、閑散としている。


 やたらと暇な空間に、乾いた歯車の音が響き。

 四つの眼が輝いているのみ。



《…用意したボーナスリングも、ギルド班が回収できたのは、たったの半数とは情けない。》


《課題が、少し難しかったのでしょうか。》


 双頭の魔導人形ハーニャンは、限りなく照明を落とした室内で、密やかな言葉を交わしていた。



《いえ。

 この程度ならば、想定内のはず。

 そこを越えた要因があるとすれば……選手村に一位で到着した…》


 書類を一枚、手の甲で叩きながら、青いルージュを引いた首は続けた。



《この『ヘイカ』という者。

 能力は、こちらの予想を遥かに上回っています。

 課題の達成を急いた優秀な組ほど、彼によって、そのことごとくが殲滅させられました。

 ……一体、何者ですか。》


《よほど名のある傭兵、もしくは剣豪かと思い、様々な記録と照合してますが…どれも一致せず。

 偽名を使っている可能性も捨て切れません。》


 赤いルージュの首は、淡々と返答する。



《ただし彼の組は、この選手村において最も高額な宿泊施設を選択し、ボーナスリングは勿論、他のリングも殆ど失っております。》


《……勝つ気があるの?》


《少々、判断に苦しみます。

 念のため、ここで残ったギルド班を一同に集めて、団結させますか。

 当初の予定と違い、外部に彼らの共闘行為を漏らしてしまう危険性リスクがありますが…》


 その問いに、暫しの沈黙。



《許可します。

 ギルド本命の組が失敗し、そのうえ頭数まで減らされた今、背に腹は変えられません。

 ……まったく、七星剣を呼んだからと安心していれば…》


「背に腹?

 ―――魔導人形にも、そういう言い回しがあるんですねぇ。」


 急にかけられた声に反応し、ハーニャンが見やると、小男が入り口の扉を開いていた。



《ロメス!!》


「へえ。

 このとおり、なんとか生きておりますよ。」


 その軽々しい口調に反し、彼は壁に体をもたれ、立っているだけでも辛そうな状態である。



《…いまごろ到着して何です。

 一体、幾つの組に先を越されているのか、教えてあげましょうか?》


「ボーナスリングのことですかい。

 まあ……これで帳消しじゃないですかね…。」


 途端、彼の背から顔を出す、ドゥナガンとセアムリッヒ。

 彼等の腕には、10を越える腕輪が装着されていた。



「指示どおり、我々も優勝へ向かっている。

 文句はあるまい。」


 セアムリッヒは胸を張り、断言する。



 だが、そんな彼らの様子も、圧倒的な勝利に満ちたものではなかった。

 ドゥナガンの服とセアムリッヒの鎧に付着した土くれは、疲労の色として見てとれる。


 だが決して、参加者たちに苦戦をしたわけではない。


 おそらく原因は、課題の区画においての強行軍。

 競技序盤の出遅れを取り戻すために、相当の無茶を強いたようであった。



《『目立たたないように』、そう命じたはず。》


 立場上そう述べた魔導人形ハーニャンも、ギルドから役目を一任されるだけのことはある。


 彼等を観察していくうち。

 持ち前の高い計算力で、一つの可能性を打ち出していた。



《……本部の意向に従えないというならば、放任します。

 どのような方法でも、ギルド側に勝利さえもたらせばよろしい。》


《不確定要素の強い者がいます。

 くれぐれも、油断なきよう。》


 双頭の人形は口々に言った。



「かしこまりました。」


 対するセアムリッヒは、自身の鎧の肩口を打ち鳴らし。

 乾いた土を落としながら、小馬鹿にしたように体をすくめ、踵を返した。



◆ ◆



 まさに、この選手村は身を休めるに相応しい、穏やかな場所だった。


 湖から運ばれる風が、実に爽やかで。

 やや原始的な田舎風の景色も、心を和やかにさせる。



 その中で商店が建ち並ぶ小通りは、村の入り口の反対。

 北側に位置していた。


 ここまで辿り着いた選手達はまだ少ないが、さすが村唯一の娯楽施設である。

 外から覗く酒場では、結構な席が埋まっており、予想以上に盛り上がっていた。


 加えて。

 両脇に並んだ露店にも大会の趣旨は周知のようで、選手達のふところ目当ての声が、あちこちからかけられる有様だった。



「なに何これ、アイスっていうの!?

 冷たくって美味しい!!

 こんなお菓子って、初めて食べたわ!

 甘ぁい!!」


 視界の遠くから、カップを片手にレンが叫ぶ。

 その傍では、店員がリングを催促している仕草。



「おい……誰が食っていいって許可した!?

 一文無しのくせに……畜生め…!!」


 悲痛な叫びと共に、渋々、リングを取り出しながら近付く戒。



「だってぇ、お父さんが全部持っていっちゃったんだもん。

 仕方ないでしょ〜。」


「だから、俺様にしか付き添いを頼まなかったのか。

 どこまで汚いガキなんだ、てめえは。」


「すみません…。

 レンのわがままを聞いてもらったうえに…出費まで…。

 あとで、お父さんに説明して、お返ししますね…。」


 後ろから申し訳無さそうに戒の修道服を握り、エリスが呟いた。



「バカ。

 この程度で請求してみろ。

 逆に、この俺様が笑いものだぞ。」


「ご、ごめんなさい…!!」


 ひたすらに謝るエリスの眼前に、店員から差し出されるアイスのカップ。

 彼女はそれを反射的に受け取ってから、戒が二人分のリングを店員に渡していたことを知った。



「謝るな。

 必要経費ってことにしておいてやるよ。」


 彼は無感情のまま言った。


 その言葉に、偽りは無く。

 終始、彼は世羅の行方を追うために辺りを見回していた。


 だがそのような事情を知らない彼女は、その言葉を額面通りには受け取らなかった。



「ねえ、こっちは見たこともない魚がいるよ!!

 見て見て!!」


 今度は水槽の前で騒ぐレンに、エリスはつられて、戒の前に出る。


 そこへ、大きく開いた緩やかな襟から覗く、彼女の細い首筋。

 『うなじ』の部分に十字の紋章。



「こら、なにジロジロ見てんのよ!?」


 そんな戒の視線に、前のレンが目ざとく気付き、強い口調で言った。



「あ…これ、ですか…。」


 直後、エリスも気付いたようで、自身の首に手を当てる。



「『洗礼痕こん』が珍しいの?

 神に仕える者として、別に珍しくないでしょ。」


「ああ…まあな。」


 神学校にいた頃、そのような印を見た記憶はまるで無い。

 だが、また単に自分が無知なだけかもしれないと思い、戒は追求しなかった。



「私たちは教会で生まれたから、すぐにしてもらったらしいわ。

 もしかして、まだ洗礼受けてない?

 最低でも10歳までに受けてないと、神罰が下るのよ。」


「ンなわけねえだろ。」


 苦々しい顔で返す戒に、レンは冗談交じりに笑う。

 そして、さらに浮かれた足取りで、二人よりも小通りを先に行った。



 置いていかれたエリスは、それに追いつこうと一歩を踏み出す。

 だがすぐに、つま先を鎮めて、戒を待った。



「…私ったら、全然ダメな姉だから。

 本当は……自分が妹だったらいいなって思ってたんです。

 今日は、それが叶ったみたいで嬉しい…。」


 そして前を向いたまま、彼女は呟いた。



「気負ってんのか?

 あいつが、お前のことなんざ、姉と思わなくて当然だろ。」


 ポケットに両手を深く入れ、素っ気無く返す戒。



「そ、そうですか…?」


「生まれてきたのが数秒違うってだけで、ことあるごとに先輩ヅラしてみろ。

 俺様が妹の立場だったら、ブン殴ってるぜ。」


「あは…」


 彼の物騒な言い草に、エリスは思わず笑った。



「でも……後半戦が始まれば、もうおしまい。

 また敵同士ですね…。」


「いや、そうはいかねえよ。」


「え?」


 戒の意外な反応に、エリスは向き直る。



「こっちとしちゃあ、もう流石に正面切って、お前らと戦う気はしねえさ。」


「ほ、本当ですか!?」


「どちらにせよ、ここから先、孤立して戦うのは無謀だからな。

 お前のとこの親父は、戦力として充分だ。

 後半戦が始まる前に、停戦同盟くらいは結んでやる。」



 ウベとの一戦は、以来、あまり考えないように努めていたが、戒にとっては衝撃の体験だった。

 今だかつて、自分の聖十字イーディスが通用しなかった相手は、凶獣以外にいないのだ。


 相手が同じ聖十字の使用者であったことも大きな要因のうちだが、それ以前に技量の土台がまるで違う。



 筋力や戦闘経験において、自分を軽く凌駕していること。

 それが、得意の喧嘩戦法などで埋まる差ではないこと。


 ただの一撃が、それらを身体の芯まで知らしめたのである。



 『逆らえない』という意識のくさびを、まるで心臓に打ち込まれたように。


 しかもそれは。

 時が経つにつれ、次第に大きくなっていく思いがした。



「良かった…。

 お父さんも、きっと喜ぶと思います。」


「……なら、いいけどな。

 野郎…かなり真剣に、上位入賞を狙っているみたいだからよ。」


「やっぱり…戒さんも、そう感じますか?」


「豊かな生活が欲しいってのは、理解できるけどな。」


 戒はウベの口から聞いた話から、そう予想して言った。



「でも私……とても、それだけとは思えないんです…。」


「どういうことだ?」


「ちょっと…うまく言えません…」


 戒は、そうして伏せられるエリスの瞳の奥から、一種の怯えのような感情を見た。


 畏敬よりも、もっと根の深い―――そんな印象だった。



「まあ、誰がどんな考えだろうと、最低でも自分の身は守れ。

 この世では、自分が一番大事なんだからよ。」


「………ありがとうございます…!

 …戒さん…」


「ちょっと、エリスも早くこっちに来なさいよぉ!!」


 礼を言う途中、遠くでレンのはしゃぎ声。

 彼女はその呼びかけに応え、今度は元気良く、足早に向かって行った。



 戒はそんな二人の姿を眺めながら、過去への想いに達した。


 神学校を出てから、若干の街を旅し。

 知り合った仲間と共に、あんな風に浮かれた記憶もある。



 ある日、世羅と出逢い、求めるものへの糸口を見つけ。

 彼女も、自分と共に、突き進むことを決めた。



 だから、互いは利用しあう関係なのだと、表向きはこじつけていた。



 だがそれは、世羅の純朴さを良い事に、付け込んでいるだけかもしれない。



 それどころか。

 目的が果たせなかった時、彼女を―――彼女を、自分を慰めるための『代用』にしようとする、汚い算段が眠っているのではないか。



 心の奥底で繋がるような、圧倒的な信頼感など錯覚である。

 リジャンが生前に語った戦友論を、こんな自分が信じているわけがない。



 それらを思えば、先ほどシュナが投げかけた言葉は、もっともな意見だった。



(……昔の俺は…どんな顔をしていた…?)


 正面の店に飾られた、大きな鏡に映る、虚ろな自分の姿。

 日々、『彼女』のいない時間に、慣れていく人間の成れの果てだ。



 その彼女を救うがための旅なのに、向かう先への確証は無い。

 否、むしろ遠回りを好んで選択してはいないか。



 ―――しばらく意識していなかった頬の古傷が、先程から鈍い痛みを発していた。



◆ ◆ ◆



(もう絶対に傷つくな。)



(これから先は、いつでも身を挺して、お前を守ってやるから。)



(…私が傷ついたら、その力の出番だ。

 いつでも、必ず、癒してくれよな。)



(嫌な顔するなよ。

 …その都度、痛いのは御免だって?)



(誰にも理解されなくたって構わない。

 この世に…キミさえいれば……私は何も無い明日だって生きられるぞ。)



(……今度は寝たフリか?)



◆ ◆ ◆



「…雨……?」


 頬に触れる雫を感じ、驚きの声と共に、空を見上げるエリス。


 だが、そのすぐ頭上には。

 いつのまにか眼鏡をかけて、空を仰ぐ戒の姿しかなかった。



◆ ◆



 帰りの道中。



「―――かしこまりました。」


 脇のセアムリッヒの口を真似ながら、可笑しそうにロメスは手を叩く。



「よっぽど、あっしが健在だったのが驚きだったんでしょうねぇ。

 あのいけ好かない魔導人形。

 ハトが豆鉄砲くらったような顔してましたぜ。」


「あまり…調子に乗らないことだ。」


 二人の後ろを離れて歩くドゥナガンが、そこでいさめるように低く呟いた。



「す、すみません。

 お二人の厚意で生かされてるってのに。」


 歩を止めて、ロメスは視線を落とす。



「はは、そう卑屈になるな。

 勇士殿も、嫌味で言ったわけではなかろう。

 ……それより報告も終わったことだ。

 さっさと宿に戻って、一杯やろうじゃないか。」


 セアムリッヒは、先ほど露店で購入した酒を片手に、二人の間に入る。

 だが、その笑顔の前を素早く伸びる腕。



「―――この仕事には、家族の運命がかかっているんだろ。

 お前に余裕など無いはずだ!!」


 ロメスの襟元を逆手で掴み、殴りかからんばかりの剣幕で詰め寄るドゥナガン。



「…ふぁ……はい…」


 それにすっかり怯えてしまった彼は、か細い声を洩らすだけで精一杯だった。



「よせ!

 彼は、まだ本調子じゃないんだ。」


 流石に見かねて、両者を引き剥がすセアムリッヒ。



「いいか…。

 絶対に、それらを不幸にするなよ。」


 だがドゥナガンは悪びれた様子も無く、さらに睨みを利かせてから背を向け、脅迫にも似た言葉を繰り出した。


 そうして声を震わせる最中。

 彼はベルトに吊るしてある古い鎖を固く握っている。


 二人は、彼がこのような仕草をするのを、何度か見かけていた。



「ふむ……岩のように黙しているかと思えば、烈火の如く感情を露にする。

 ただの若者特有の癇癪かんしゃくかと思っていたが…それは『家族』という言葉にのみ敏感らしい。」


 やがて、彼の背に向けて語りだすセアムリッヒ。



「…君は戦災孤児か。

 ならば、戦地を点々と巡る理由もおのずと知れるな。」


 その一句に、ドゥナガンは怒りにやつれた横面を見せる。



「しかし、いつでも時代は変わっていく。

 その価値観を、誰彼とかまわず押し付けるのは如何かな。

 …勇士の名が泣くというものだろう。」


「命と娯楽を天秤にかける、剣闘士風情に何が解る…!」


「風情と出たか、青二才。」


 憤怒から吐き出された直情的な言葉は、温和なセアムリッヒの逆鱗にも触れたようだった。


 真正面から、刃を互いの喉元に突きつけるような、鋭い殺気を放ち始める二人。

 両者が宿に得物を置いて出てきたのは、まさに幸運としか喩えようが無い。



「ああっ!?」


 そして元を正せば、この確執の原因となったロメス本人はといえば。

 二人を仲裁するどころか、あさっての方向を指さしていた。



「お二人とも、喧嘩してる場合じゃありませんぜ!

 …ほら、あそこ!!」


 周辺では、沈みかけた夕陽が景色を赤く染め始めている。


 道に設けられた柵の向こう。

 西の湖に向けて流れる川も、その美しさの恩恵を余すことなく受けていた。



「まずいですよ、ありゃあ…!」


 負傷した体にも関わらず、柵から身を乗り出して訴えるロメスの様子に。



「…?」


 セアムリッヒは、片目だけでその視線を追う。

 するとすぐに、川の中に小さな人影を見止めることが出来た。



 ―――脱力して、流れに揉まれている。

 泳ぎに興じる様子とは、明らかに異なっていた。



「あれは……子供…」


 今度は首を向け、目を細めて確かめる彼。

 だがそれを言うが早いか、脇のドゥナガンは柵を軽やかに飛び越えていた。





「ああぁ…まいった…。

 これじゃ…サポートしてやるどころの話じゃねえ。」


 被った、大きなクマの着ぐるみの頭部を両手で抱え、バーグは嘆いていた。


 ジャグマーに扮する彼の今の居場所は、村内の端に設けられた、応急処置用のテントである。



「情けねえ……こんな珍妙なカッコまでしてやってるってのに…」


 外での救護班ならまだしも、この詰め所での勤務は最悪である。


 配属されてからは、ずっと缶詰状態な上、大会の情勢も全く伝わらず、心配している戒らの安否さえも依然として知れなかった。



 しかも、このテントの設備は実に粗末で、用意されている物といえば包帯と消毒薬などが少々。

 外科医療の道具さえ無く、これならば野戦病院の方がまだましだと、バーグは思った。



 現に、難関を突破してきた屈強な参加者たちが、この程度の施設を必要とするはずもなく、暇をもてあます状態は続いている。


 湖で停泊している大型船では、ここより遥かに良い治療を受けられると聞いている。

 そのため、負傷者が出た組は、余程のことがない限り、大事をとってリタイアしてしまうだろう。



(ちょっと外の様子でも見に行くか…。

 これなら、どうせ少しくらい離れたってな…)


 彼は居ても立ってもいられず、任された席を離れようとすると、そこでちょうど入り口の斜幕が大きく開かれる。



 複数の気配。

 バーグは咄嗟に身構えると、真っ先に、全身鎧姿の彼に呆気にとられた。



「…急患だ。」


 そう切り出したセアムリッヒが視線で示す。

 すると脇より現れる、水に全身を濡らしたドゥナガン。


 その腕に抱かれているのは、息を荒げている少女の姿―――



「世羅…!?」


 思わず、彼女に対して叫ぶバーグ。

 が、そこで慌てて口をつぐむ。



(いけねえ…。

 俺がこのカッコしてるのは、ナイショだったんだよな。)


 あたかも彼女を知っているようなクマの言葉に。

 案の定、訪れた三人は、一様にこちらを怪しそうに睨んでいた。



「ど、どうしたん…ですか?」


 そこでバーグは咳払いをした後、丁寧な口調で彼等へ向けて言い直す。



「あ…いや、何気なく目に入ったんですがねェ…。

 この子、川べりの斜面で休んでいたように見えたんです……それが、急に川に転げ落ちまして…」


「なにやら、熱があるようだ。

 早急に適切な処置を頼む。」


 ロメスの説明が終わらぬうちにテントの内部まで入ったドゥナガンは、診療台に世羅を寝かしつける。

 言うとおり、彼女は激しく胸を隆起させ、呼吸も上がっていた。



「ロメスよ、お前もここで治療でも受けていくか?」


 外で待っているセアムリッヒが、テント内の設備の有様を揶揄して笑う。



「勘弁して下さいよ旦那。

 あっしも宿に戻って、アルコールという名の魔法の水で養生させてくだせえ。」


「うむ……では行くか!」


 この一件で先の確執もうやむやになり、彼は機嫌を取り戻したようだった。


 やがて二人は、意気揚々と去り。

 最後まで残っていたドゥナガンも、長居は無用とばかりに後退する。



「感謝するぜ。」


 だが最後にかけられたバーグの小さな言葉に、彼は振り向いた。

 不思議な思いに駆られ、数秒だけ立ち止まる。



(これは…疲労……いや、病気か…?)


 そんな背後の彼には構わず、バーグは毛布を用意しながら、思いを走らせた。



(どちらにせよ…。

 この熱さ…尋常じゃねえぞ……!)


 固く目を閉じたまま、細かい呼吸を続けている世羅。

 額に手をかざすと、分厚い着ぐるみさえ通して、熱気が伝わってくるのである。



 あらゆる処置を続けるうち。

 バーグは、見慣れぬ彼女の寝巻きの袖から覗く彼女の右手が、ひどく腫れていることに気付いた。



 そこで痛々しく浮かんでいる擦り傷の跡は。


 彼女のそばに居てやれなかった自分を、酷く罵っているように思えた。



▼▼


第四章

第四話 『以心変心・前編』


▼▼


to be continued…




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