3-6 「中王都市の飛竜」(下)
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「御覧なさいませ、陛下。
貴方のお戯れのせいで、使者の方が肝をつぶしているではありませんか。」
怒りに震える自分のこめかみを指先で押さえながら、アリアネが苦い表情で言った。
「あ……貴方が…?」
その脇でひどく動揺しながら呟くフィンデル。
大陸十字軍 最強の将にして。
騎槍ひとたび持てば、貫けぬもの無し。
『至高の槍』と敵味方に言わしめ、それを慕う流民によって、不毛であったこの地に国家を一代で築き上げた勇。
レザント=フォンドール=タンダニス。
宮殿内を案内させた無礼をなじることもなく、ただの空気のように。
彼は穏やかな表情をたたえたまま、目の前で静かに座についていた。
並外れた緊張感に呑まれ、フィンデルは思わず内股になる。
「……おい、こんな所で漏らすなよ。」
そんな彼女の後頭部を、軽口と共に平手で叩く戒。
「こっちだって、ガキの使いで来たわけじゃねえ。
毅然としてりゃあいい。」
そしてとる、挑戦的な姿勢。
こちらは全く、いつもの調子である。
「その若者の言うとおりじゃ。
楽にせよ。
して、もっと近こう寄っとくれい。」
タンダニスも歯を見せて笑い、長い顎髯を指先で巻きながら招く。
「……!」
従って、ゆっくりと近付けば、フィンデルは彼の若々しさに改めて驚いた。
士官学校で学んだ近代史を思い辿れば、彼の年齢は80をゆうに超えているはずである。
だが、どう見ても、その姿は30代前後にしか見えず。
肌には僅かな皺も無く、ほのかな日焼けまでしていた。
「失礼ですが……タンダニス様のご子息では…?」
「正真正銘、本人じゃが?」
首を傾げ、即答する彼。
「大抵の方は驚かれます。」
無表情で、その傍らの美青年は言った。
「この若さに秘訣があるとすれば……狩りと『これ』よ。」
冗談交じりに、手に持ったままだった酒瓶を見せるタンダニス。
先程の小猿がそれに合わせて、その肩に駆け登った。
「陛下。
先程も申し上げましたとおり、彼女らは中王都市の正式な使者。
どうか早急に、お言葉使いを改め下さいますよう。
それでは示しがつきません。」
「もう無理じゃ。
わしは堅苦しい言葉を使うのは、三日に一度が限度じゃもん。」
ゆったりとした袖で、自らの顔を扇ぎながらアリアネに答える彼。
「陛下!!」
そうなると彼女は、愛らしい顔を鬼のような形相に変えて喰らいついた。
「おまえの小言は、ほんに母親にそっくりよのう…。
生来『がさつ』なわしが、どれだけ『礼よ、格式よ』と矯正されたか…。」
半眼になりながら、対する彼は呟く。
「あれには、さっさと引退してもらって良かったわい。
母娘揃って小言を言われ続けたら、流石のわしも、いつか耳が腐る。」
「…その言葉、一字一句違えず、しかと母上に伝えておきます。」
「じょ、冗談じゃ。
冗談じゃて。」
タンダニスは青くなって言った。
先程までの壮厳さは皆無である。
「まったく、融通が効かんのう……」
やがて彼は、そのやりとりを眉間にしわを寄せて聞いている戒の視線に気付いた。
「―――おお、すまんすまん。
まさしく、これこそが『みっともない姿』というものじゃな、はっは。
まずは、客人の用件を聞かねば…」
「早速ですみません。
モンスロン卿とのつながりのある人物と会わせていただきたいのですが…」
アリアネへと再び顔を向けたタンダニスに、フィンデルはすぐさま言った。
すると、にわかにその彼の動きが止まる。
「…そのような用意はしとらんぞ?
なにせ、わし等がここにおるのは、偶然なんじゃからな。」
「え?」
「のう、オーンヒルデ。」
「は。
陛下の気まぐれにて御座います。」
短く切って言う美顔。
「どういうことでしょうか?
貴国の一連の働きは、卿と交流のある方の手引きでは…」
フィンデルの強い言葉に、正面の二人は顔を見合わせる。
「いや……わしらは本当に、ただ狩りを楽しむためだけに、ここに来ておるのじゃ。
そもそも、そのような公務を忘れるためにのう。」
自慢の脾肉を掴み、タンダニスが笑った。
「まあ、あのように救援を求められたら……わし自身が下知するまでもなく、誰かしらが対応したじゃろうて。
余の家臣は、まこと優秀じゃからな。」
「求め?」
フィンデルは表情を曇らせる。
「うむ。
他国からの使者が領空付近で空賊に襲われたと聞いて、それを助けぬ薄情者など、我が国にはおらぬ。」
「…失礼ですが……陛下は本当に、卿の亡命のことを御存知ありますか?」
収まりの悪い反応を見せた彼女の様子に、タンダニスは半口を開けたまま、暫く固まっていた。
そこへ、オーンヒルデが耳打ちする。
「…先刻訪れた、聖騎士殿のことは伏せておかれますよう。
何か……妙です。」
「…む。
確かに、どこか話が食い違っておるな。」
タンダニスは髯を伸ばし、上体を反らして呻いた。
「実は……我が国の宰相筋から、亡命のことは軽く聞いておった。
じゃが、それが今日とは急な話よ…。
とりあえず、立ち話もなんじゃ。
腹に何か入れながら詳しく聞こうではないか。
さて、料理をここに。」
タンダニスは、ぶ厚い両掌を叩いて轟かせた。
遠くで待機していた給仕が深く礼をして、小走りで退室する。
(……どういうこと…?
亡命の受け容れ準備は……充分に整っていなかった?)
一方のフィンデルは、不安に駆られていた。
これまで水面下で慎重に進んでいたとばかり思っていた亡命の話を、まさに寝耳に水といった様子で
聞いている彼等。
モンスロン自身が入国に至らず、仮初の地に待機となったこと。
さらに、ムーベルマにおける救援のタイミングも、何か得体の知れない力が働いたように感じられる。
それらを統合して鑑みれば、不安な要素は多い。
だが、国首を前に、事を無闇に荒立てるわけにはいかなかった。
現在の彼女の立場は、一介の軍人ではない。
中王都市軍がこうむった被害も、騎士団との軋轢さえも、隠さねばならない義務がある。
「―――ご馳走かな!?」
思案の没頭から醒めるような大声が背後で響いた。
声の主は、当然ながら世羅である。
「せ、世羅ちゃん…!!」
大声で過剰に反応した彼女を、フィンデルが顔を真っ赤にして必死に抑えこむ。
「ははは。
ご馳走とまでは、いかんかもしれんな。
我が国の料理は質素で通っておるからの。」
タンダニスは彼女達の様子を見て愉快そうに笑い、両膝を叩いて席から離れた。
◆
「今頃……もてなしが始まっている頃っすかねえ…」
ブリッジ正面の窓から夕暮れを覗きながら、虚ろな顔でタモンが呟いた。
「…ああ。」
腰掛けた椅子を鳴らしながら、小さく答えるリード。
「何で、残ったんすか?
一緒に行けば良かったのに。」
「…艦長が不在だからこそ、ブリッジを守る人間が必要だろ?」
タモンの何気ない一言に、彼は目を剥いた。
「守りなら、今は充分じゃないっすか。」
開かれた扉へ、顔を向けるタモン。
そこでは屈強な男達が、油断無い目つきでブリッジに続く廊下を往来していた。
「そういう意味の『守る』じゃない。
ルベランセの搭乗員としてだな…面子を…」
つまらない言葉を吐きそうになるのを、必死に抑え。
「お前、何とも思わないのか?
今のルベランセは攻守共に、外部の人間に頼りきりなんだぞ。」
そして言い直す彼。
だが、対するタモンの白けた目は―――いつもの愚痴が始まった、その程度にしか受け止めていない。
「それに俺はな……自分の弱さが、ほとほと嫌になったんだよ。」
リードは構わず、腰に提げていた拳銃を抜いて示す。
それは、ロディに対する明確な対抗意識だった。
短期間でフィンデルを理解し、さらにルベランセの窮地を救う活躍を見せた彼。
それに比べ、戦闘技術で及ばないことは勿論だとしても、彼女の心の支えにすらなれなかったという自分の不甲斐なさ。
その悔しさと懊悩は、時間が経過してから強く襲ってくるものだった。
「もっと楽に考えられないっすかねえ…。
外部外部って邪険にしないで、みんな仲間と思えば…そんなこと気兼ねする必要も…」
「そういう考えに、甘えたくないんだ。」
これ以上は無駄とばかりに、台を軽く叩くリード。
「……どこかで、本格的に訓練しなきゃな…」
そして拳銃を両手で構え、照準を合わせて見せる。
モンスロンが怪我を負った責任の一端も、自分の心の弱さにあった。
何かしらを鍛え、自分に自信をつけなければ、また同じことの繰り返しだろう。
彼はそう反省していた。
「別にそんなに無理しなくても…。
そういうことは専門家に任せて…」
「現実的かどうかは、この際は置いておいてくれ。
気持ちの問題なんだからな!」
ぴしゃり、とタモンを黙らせる一声を放ち、腰を上げる。
「ん?」
リードはそこで、視界の端の床を注視した。
小さな球体が、無造作に転がっている。
「……メイ。
自分の念通球くらい、ちゃんと管理しておけよ。」
「?」
念通板で艦内検査に当たっていた彼女は、板にはめてあった念通球を手に取ってみせる。
「…ん?
お前のじゃないのか。」
リードも、自身の球をまじまじと見ながら、再び視線を背後へと戻した。
そこにあったはずの球体は、既に無くなっている。
「…難しいこと考えているから、疲れちゃうんすよ。」
強くまばたきを繰り返す彼の肩を、わざと力いっぱい揉みながら、タモンが笑った。
「あとでザナナさんが、ケーキを買ってきてくれるらしいっす。
それで休憩するっすよ。」
「そうか……じゃあ、あとで紅茶でも淹れないといけないな…」
つられて思わず口から出た能天気な言葉に、リードは赤面して自分の唇を押さえた。
◆
◆ ◆
◆
クレイン教が今日まで崇める『創る者』の理念は、大陸における永遠の平和であった。
今から約1200年前。
その創る者の傍で、血肉を浴び続けた武人がいた。
『永遠』と同意義の言葉。
『久遠』の名を享け賜った男である。
彼は卓越した戦闘術で凶獣の殲滅・反抗者の暗殺など、血生臭い仕事を一手に引き受けていた。
まさに久遠は、現在の大陸における偉大な功績者の一人であった。
だが、創る者亡き後、教団は彼を冷遇した。
指導者を失った直後の教団は、安定した地盤を固める必要に迫られており、さらなる厳格な規律と崇高な思想を早急に
世に示さねばならなかった。
それらを前にして、久遠が行ってきた残忍な所業の数々は、まさに覇道を塞ぐ大岩である。
やがて自身の命運を悟った彼は、教団側からの処刑を待たずして、出奔した。
何も知らぬ後世の神学者は、口を揃えて、彼のことを『比類なき背信者』と呼ぶ。
◆
『永遠』と同意義の言葉。
『久遠』の名を享け賜った男である。
何も知らぬ後世の神学者は、口を揃えて、彼のことを『比類なき背信者』と呼ぶ。
◆
―――狩る側から狩られる立場になったその男は、いずこへ消えたのであろうか。
初代の聖騎士達による粛清。
自殺。
当時は、さまざまな憶測が飛び交った。
だが真実。
かろうじて生き延びた彼は地下に潜み、わずかな一族のみに自分の得た戦闘術の全てを教えこんでいた。
誕生した組織は、彼と同じ名を付けられた。
そうして『久遠』は、今日まで思想を生き永らせることに成功したのである。
◆ ◆
「―――おい、何の肉だ?」
出された料理を前に。
両手にフォークとナイフを握ったまま、戒が警戒する。
目の前の大皿には、表面を程良く焼かれたブロック状の肉塊が乗せられており、それをアリアネが
手際良く何枚にも下ろして小皿に分けていた。
「鹿じゃ。
ここへは毎年、鹿狩りに来るのが慣わしでの。」
「鹿……か。
ならばよし。」
タンダニスの言葉に安心した戒が、一切れを口に含む。
甘めのソースが絡み、中まで火が通っている。
脂身も生臭さは全く無く、まるで口の中で蕩けるようであった。
「……どうじゃ?
取りたての肉は美味かろう?」
王は自慢するように笑い、自身は生肉を大量につまんで喰らっていた。
「…ぅぐぅぐ。」
世羅もそれに負けじと、何枚も頬張る。
その旺盛な食欲に、アリアネは目を剥きながら凝視していた。
肉を小皿に取り分けるそばから、飲み込んでいく。
いや、吸い込んでいくかのように彼女は錯覚した。
「……中王都市の民は、その殆どが裕福だと聞いておりましたが…」
「こ、この子は、特別なんです…」
そんな視線を気にしつつ、ソースが付いた世羅の口を拭ってやるフィンデル。
「それにしても……この近辺の田畑の不作ぶりはひどかったのう。
残りの肉は、民に施しを。
年貢も例年の半分で良い、そんな触れを出しておいてくれぬか。」
「御意に。」
オーンヒルデは待ち構えていたかのように、静かに返事をした。
「……ところで、もっと最近の中王都市について聞かせておくれ。
かの国には、とんとご無沙汰でのう。」
その後すぐ、好奇に表情を変えてタンダニスが訊く。
フィンデルは言葉を選んだので、すぐには答えられなかった。
「軍隊は…うすのろばっかりで、頼りねえ連中ばかりだ。」
それを見かね、代わりに返す戒。
「ちなみに、ルベランセで一番まともなのが俺様になる。」
自信満々に続ける彼に、絶句するタンダニアの面々。
「…中王都市ジョークです……皆さん…」
フィンデルが泣き顔で否定するも、それは返って信憑性を高めてしまうようだった。
「列強七国の筆頭にあり続けた中王都市のイメージと現状は、かけ離れているようですね…。
相当な人手不足、経済薄弱のように思えます。」
歯に衣着せない言い方で、アリアネは呟く。
「オーンヒルデよ。
……今、中王都市を攻めれば獲れるか?」
タンダニスの戯れの言葉に、フィンデルは食事の手を止めた。
問われた青年も、その返答には難色を示した様だった。
「酒の席じゃ。
中王都市の士官を前に、お前の軍計を示すのも一興じゃろうて。」
「……軍計というほどのものなど持ち合わせておりませぬが…。
では…」
オーンヒルデは水を含み、口を湿らせて前を向きなおす。
「タンダニアの精鋭ならば。
全軍にて奇襲の後、中王都市の領土の三分の一を10日にて。」
「策は?」
「必要ありませぬ。
正攻法のみで充分かと。」
王からの問いに、美顔は平然と続ける。
戒もフィンデルも、そのやりとりに呆気にとられていた。
国賓として扱われてはいるが、何の憚りも無く目の前で、その国を獲る談議が行われているのだ。
「ただし、『そこまで』でしょう。」
「それは、何故か。」
「…中王都市の軍隊と騎士団は一枚岩でないものの、その強大な兵力は決して侮りがたく。
10日も過ぎれば、この事態に一致団結することでしょう。
ゆえに、その後の戦線は膠着。
地の利無きタンダニアの軍勢は、じきに不利になるかと存じます。」
簡潔な予測。
だが、実に的を射ている部分に、フィンデルはある種の戦慄を覚えた。
裏を返せば、軍隊と騎士団が本格的に不仲に陥った時、それは中王都市の傾国を意味する。
周囲の国々が、そんな情勢を虎視眈々とうかがっていても、何ら不思議は無い。
「―――む、どうしたのじゃ?
この土地の料理は、口に合わぬか。」
タンダニスの屈託無い笑みも、今では不敵な笑みに変わって見えてしまう。
フィンデルは思わず、視線を落とした。
「てめえらが、あまりにも無礼だからだろ。
バカにするのも大概にしやがれ。」
喧嘩腰で凄む戒。
国王とその重鎮達を目の前にして、彼の態度はまさしく強胆の一言であった。
だが意外にも、その途端に、対する彼等の様子は晴れたものへと変わる。
「おお、いい反応じゃな。
この挑発にこうまでも言い返すのなら、れっきとした中王都市の者で間違いあるまい。
彼等は信用できるのではないか?」
「そのように思われます。」
涼やかに言い、給仕に出された茶をすするオーンヒルデ。
そこで試されていたのだと気付いた戒は、いかにも面白くなさそうに椅子に深く腰かける。
フィンデルにとっては、単なる鎌かけにも思えない問答だったが、この時ばかりは彼の気性が幸いしたようであった。
「…しかしながら、この若輩の頭脳は優秀であろう?
この調子で、わが国も乗っ取ってくれれば、わしも肩から荷が降りるのじゃが…」
「陛下!」
脇で目を吊り上げるアリアネ。
「ヴァルクハルトの交換人質が、革命など扇動出来るはずが無いではありませんか。
そして、陛下なくしてタンダニアはありませぬ。」
彼女が言うまでもなく、オーンヒルデ自身が答えた。
(人質を喉元に据えて執政させるなんて……。)
フィンデルは思った。
隣接した大国同士が親族を人質として交換するというのは、よくある話である。
大概は教会や学校などに入れて監視するものだが、それを国の中枢で執政させているというのは聞いた事も無い。
それも、若い。
彼にしろ親衛隊長を任されているアリアネにしろ、その若さが意味していることは、国の機関が上手く新陳代謝を
している証拠であった。
それをまとめる、底の知れない王。
彼女には、ここまで他人の心が全く読めないのも珍しい経験だった。
「…申し訳ありません。
本来の目的は、我々の身の証明にあったはず。
それが成された今、よろしければ、そろそろ戻らせていただきたいのですが…」
「ふむ……機嫌は損なったままか。
少し、悪戯がすぎたかのう…」
「いえ!
決してそうではなく…少し気になる用事を残しておりまして……」
フィンデルは眉を広げて、必死に否定した。
「私達が運んできた例の物は……中王都市軍からのお近付きの印としてお納め下さい。」
「中身は、貴重品でした。」
アリアネが付け加える。
「……有難く頂戴しよう。」
平坦な表情のまま、タンダニスは儀礼的な調子で言った。
「ありがとうございます……では…」
だが、フィンデルが席を立った途端。
窓の外が光り、地響きが起こる。
身を僅かにすくめながら外を見ると、高い木々が左右に大きく揺れ動いていた。
「…雲行きが怪しいとは思っておりましたが、どうやら雷雨のようですね。
これでは馬車は出せません。」
「?」
オーンヒルデの言葉に、驚いたように顔を向けるフィンデル。
「レイザンピーク方面の土は粘着質なので、雨の日は馬が嫌がるのです。
馬車の車輪も、たちまち泥濘に捉われましょう。」
アリアネは誤解を解くように付け加えた。
「…今夜は泊まっていかれるが良かろう。」
最後に、タンダニスが静かに笑って言った。
フィンデルは暫く泡を食ったように立ち尽くしていたが、やがて観念するように再び客宴の座についた。
◆ ◆
クレイン教は正義の名の下に、国家の騒乱や戦争の間に入り、いさめることがある。
稀にその交渉が決裂に及んだ場合に、聖騎士部隊が介入することを除けば、大方がそれで解決する。
平和を盾にした権力は、何よりも勝るのである。
だが、久遠の存在は、それとは全く対称的であった。
大陸の平和を保つには、実力行使―――諸悪の粛清のみでしか成し得ないものと考えている集団である。
独自の機関のみで調査した情報を、独自の機関のみで裁判し。
一方的に死という名の制裁を与える。
彼等の短絡思想は大変に危険ではあったが、それに救われたことにより一生の支援を誓う者は後を絶たなかった。
結果、大陸上で最も高い技術力と戦闘能力を持つ組織となり。
1200年あまりの歳月を彼等もまた、教団と同様に大陸を見守ってきたのである。
そして、その尖兵達は大陸中の地下に散らばっていた。
―――たとえば、数刻前にルベランセと同じ地に降り立った五名。
彼等の担当は中王都市周域であるが、標的の動向を追ううちに、このように長い道のりを辿ることは
決して珍しい話ではない。
今回の異国での任務も、普段と変わらぬ日常にすぎず、彼等はそう信じて疑わなかった。
一人目。
ババルザンの今日の得物は一風変わった手斧。
それに鎖を介して反対側の先につながれているのは、分銅であった。
さらに彼は、後ろ背には平刀を巻いて備えている。
武器を選ばない、万能の執行人である。
二人目。
その後ろで背を曲げて進むのは、ギュスターヴ。
彼の容貌を隠すのに、この突然の豪雨はまさに絶好であった。
極度の長身痩躯に加え。
顔面の鼻から上を異形の仮面で覆い、その頂部に鮮やかな孔雀の羽根飾りを差して揺らしている奇人。
普段の並外れた狂暴な振る舞いは無論のこと。
右手の肘から伸ばした巨大な腕刀を、平時でも外さないため、味方からもすこぶる評判の悪い男である。
三人目。
マピット=フォルスの外見は年端もいかない少女。
フリルの多いゴシックロリータのドレスを身に纏い。
同色の可愛らしいパラソルを手に携え、彼女はその雨を避けていた。
四人目。
ユイウス=ノーツ。
金髪碧眼、褐色の肌の青年は、その丈夫そうな身体を黒のスーツと白いワイシャツで固めている。
彼は刀を一本だけ腰に差して、雨の只中の雲を見上げていた。
「―――ピットちゃ〜ん。
そろそろ中の様子わかった〜?
このままじゃ、オレっち達、みんな風邪引いちゃうよぉ。」
五人目。
まるで雀蜂のような黄色と黒の縞模様の派手なバンダナを頭に締める彼。
ハ・ラシンは寒さに震えながら、猫撫で声で問う。
目元に装着した赤いサングラスもさながら、他の面々とはあまりに対照的な、原色の多い奇抜ないでたち。
そして軽々しい口は威厳を損ねているが、彼こそが他の四名を収集した張本人でもあり、またその権限を有する立場の者であった。
「…警備の傭兵は、約20名。
ブリッジまでの道のりは、この子が記憶したわ。」
答えるマピットの周りを、艦内から戻ってきた小さな球体が飛び回る。
「へえ。
これが言霊ってヤツか。」
ババルザンは胸元を掻きながら、がに股で近付き、さも興味のある素振りで言った。
中年に差し掛かった彼の容姿は、すでに繕う姿勢が見られない。
頭髪もろくに手入れせず、歯は黄ばんだまま。
服も何日着替えたか分からないようなものを纏い、およそ防御の面からも程遠かった。
「『言霊使い』ってのはそれだけで、高い『格級』につけていいよなぁ。」
ババルザンは、さらに妬むような目で続ける。
「だが、その端末を埋め込むには、かなりの大手術だって聞くぜ?
なあ、痛かったか?
その小さな身体に無理矢理ねじこまれてよぉ?」
いやらしい顔で寄る彼。
マピットは無表情のまま、面と向かって対応はしない。
「言霊ユニットの人体への適合確率は10万分の一よ。
それを思えば、この待遇は妥当じゃなくって?」
自分の細い片手を伸ばし、それをなぞりながら続ける彼女。
対するババルザンは、難しい顔に変わる。
「御免なさい。
あんまり数字のこと言っても、あんたのマヌケな頭じゃ理解出来そうにないわね。」
「ま、まぬけだとっ!」
ユイウスとマピットを除いては、普段からお互いに組むことなく、急場に混成された部隊。
いわば雑軍にも等しい彼等の間には、早くも不穏な空気が流れていた。
「あのねえ…言い争いしてる場合じゃ…ないっしょ。」
手にした大鎌を二人の間に降ろし、ハ・ラシンが仲裁に入る。
「…ところで、あんたも来るのか?
監査官が任務に参加するなんて、聞いたことがねえぞ。」
「別のデリケートな任務があるもんでね。
そういうの、あんたらには向いてないだろ?」
「……ああ、違いねえ。
戦う以外に、面倒なことは御免だ。」
肩をすくめて、そそくさと離れるババルザン。
「ところでみんな。
一応さ、途中まではオレっちが先導するけど、この隊のリーダーはユイウスだからね。
彼の言うことには、ちゃんと従うんだぞ。」
「それは納得いかねえ!
部隊を率いるとなれば、話は別だ。
ベテランの俺が、こんなガキに従う道理が……!…大体、こいつは、本当に強えのか?」
揶揄しながら、ババルザンは青年を指差しで睨み付ける。
「まだ一緒に行動して日は浅いが、性根ってのは分かるもんだ。
こいつはずっと、食っちゃ寝、食っちゃ寝と……どうしようもなく、だらけていやがった。
これが噂の『特級』様の姿とは、俺には信じられねぇな。」
「はいはい…」
だが、ハ・ラシンはそれを無視して、マピットと詳細な打ち合わせを始める。
「…ふん。
参謀役まで、ガキかよ。
久遠ってのは、ほんと変な組織だぜ…。」
ババルザンは面白くなさそうに地に痰を吐きかけ、そっぽを向いた。
執行兵。
執行員。
執行官。
執行長。
特級執行長。
この久遠の格級は、順を追うごとにその数は減り、身分も高くなる。
ババルザンは物心つく前に久遠に拾われ、訓練して戦ってきたが、執行員以上の身分になったことが無かった。
中でも執行長以上は、黒と白を基調とした葬送服を支給されるエリート。
報酬や日々の待遇も、下の身分とは雲泥の差があった。
自分も若い日に任命されれば、こうまでも擦れた性格にはなってなかったはずだ、彼は日々そう妬んでやまなかった。
「情報によれば…今回の標的、ルベランセは1隻で、その何倍もの戦力を相手にしてきた実績がある。
……けっこう油断ならない相手らしい。」
「それって、空の話でしょ?
あの飛翔艦っていう…」
ハ・ラシンとマピットの打ち合わせも、最後の詰めに入ったようだった。
「いやぁ、白兵戦闘でも…相当な手練がいるらしいよ。」
それまで我関せずと、付近をぶらついていたユイウスとギュスターヴの二人は、その言葉に反応して耳を傾けた。
マピットは焦る。
「さっきから『らしい、らしい』って……一体どこの情報なのよ。
まさかこの作戦自体、その情報元だけを完全に信頼しているってことじゃないわよね?」
「まあ、それはいいでしょ。」
「誤魔化さないでよ…」
「絶対審判が下ったんだ。
オレっち達には、もう選択肢は無いよ。」
「………。」
それきり、マピットは頬を膨らませて口をつぐんでしまった。
国の命運を左右するような大きな任務には、10名から構成される、久遠の最高審議会の決定が組織全体の
総意となる慣わしであった。
文字通り、その決定には絶対の権限がある。
「ううむ、わかったよ…。
納得できる理由を話すから、ちゃんとヘソを曲げずに戦ってくれないかな〜。」
だが、言霊の扱いは精神状態に左右されるのを、ハ・ラシンは知っている。
彼女の頭のツーテールを両手で軽く引っ張りながら、彼は御機嫌をとるように笑って言った。
「……実は、中王騎士団のガイメイヤは、近いうち反旗を掲げる予定なんだ。
しかも、既に、両者はムーベルマで激突した。
表沙汰にはならない方法で。」
「…!!」
彼女は思わず、その手を払った。
「すなわち、この仕事の依頼主と情報源は、中王騎士団。
ピットちゃんが薄々気付いている通り、オレっち達は既に共同戦線を張っているのさ。
そして今回は、彼らが獲物を逃した場合の『保険役』を頼まれている。」
その払われた手でバンダナを直し、笑っていた唇を結ぶ彼。
「今の王室政府と軍隊が統治する中王都市、それに対して、騎士団のみが統治する中王都市。
二つの未来を比べた時……久遠は、後者を選んだ。
理解してくれよ。」
「…これから、たった一隻を葬るくらいで、何かが変わると本気で思ってるの?」
「大きな変わりは無いだろうさ。
ただ、『久遠が全力を尽くして、味方につく』……これを騎士団側に示さねばならない。
そういう意味で、大事な初戦と言える。」
ハ・ラシンが爪先で泥を飛ばし、前を歩き出す。
それに続く、男三人。
暫くして、黙ったまま下を向いていたマピットも続いた。
「標的はルベランセの全搭乗員、およびその護衛すべて。
今回、君らは久遠の目や口になる必要は無い。
手足となれば、それでいいんだ。」
冷淡な言葉の先に、柵を挟んで大きな飛翔艦が見えた。
「さすればいずれ―――大陸に永遠の平和が訪れるだろう。」
◆ ◆
食後、戒と世羅は早々に宴の場から離れていた。
廊下の奥にあるベランダ。
そこから覗く外は、まるで水を一杯に溜めたバケツをひっくり返したような雨模様であった。
「…ちょっと、こっちに来い。
話がある。」
ベランダの屋根は大きく張っており、雨を避けるには充分である。
そしてあらかじめ置いてあった椅子に腰掛けて、珍しく戒から声を掛けた。
すると、食べ疲れた様子で、ゆっくりと歩み寄って来る世羅。
それを確認してから、戒は何気なく外の庭を見下ろした。
「何だ、ありゃあ……?」
思わず、感想を洩らす。
宮殿の門前では、この天気にも関わらず、一本の大木を何十名もの農民達が必死に運んでいる光景だった。
よく目を凝らせば、それは木ではなかった。
枝分かれしているという点のみが酷似した、人の何倍もの大きさの角である。
そして次に運ばれていくのは、同じく巨大な首の無い獣だった。
わずかに切り取られた腿と胸肉の痕跡を見るに、先程の晩餐時に出たものに違いない。
「……あのフンドシ野郎…。
ただの鹿肉だって言ってたのに…」
既に手遅れだが、戒は心なしか重くなってきた胃のあたりをさすった。
不意に、その肉塊は世羅と初めて出会った時に見た、凶獣に重なって見える。
特に抉れた腹部。
銃創でも斬傷でもない。
そこには大穴が開いていた。
「…フィンデルは早く帰りたいみたいだね。」
「…ああ。
だが、まあ……焦ってもしょうがねえだろ。」
戒は、うわの空で返した。
その頭には、世羅と出逢った時もこのような強い雨だった、そんなことばかり思い浮かべていた。
「…それより、話って?」
世羅が訊く。
彼はそこで、自分から誘ったことを思い出した。
「お前、これからどうしたいんだ?
……ルベランセを降りるのか?」
「えっ?
どうして!?」
「…………。」
握った両手を自分の胸に当てて驚き、膝に迫る世羅に、戒は黙り込んだ。
「聞いたんだよ。
あのミラって奴との話をだな…。
ひょっとしてお前、あいつの言うとおりにした方がいいんじゃねえのかって…」
「……?」
「だって、楽じゃねえかよ。
それなら、黙ってても飛翔艦乗りにしてもらえるだろ?」
目を逸らして苦笑しながら、肘掛けに片腕を乗せる。
「ヒゲの野郎だって、フィンデルだって、あそこまでお前のことを真剣に考えてねえぞ。
誰だって、自分のことで精一杯なんだからな。
それなら、いっそのこと…」
「一緒がいいな。」
世羅のぽつりと呟いた一言に、戒の言葉が止められた。
「してもらうより……一緒になる方がいいよ。」
「…なに?」
続けて、間抜けな声を出す戒に、世羅が真正面から向き直る。
「ボクは、戒と一緒に飛翔艦乗りになりたい。」
「…何でだよ。
俺様は、お前の力を利用するためだけに、一緒にいるかもしれないんだぞ。」
そんな世羅の告白に対し、戒はむきになって言っていた。
特に言わなくてもいいことまでが、口から飛び出すような恰好だった。
「………!」
だがやはり、戒はすぐに口を止めてしまった。
世羅は迷いの無い顔で、ただ微笑んでいたのだ。
彼女の危うさは思わず庇護したくなるが、到底、籠の中で飼えるものではない。
戒は理解し、そして自分と同じ匂いを、彼女の中に認めていた。
―――心を、精神を支配する。
そして何故か、占い師・ウェンウェンの言葉の断片を思い出していた。
すると、傍にある無垢な笑顔が、少しだけ空恐ろしく見えたような気がした。
戒は、それを錯覚だと願った。
◆ ◆
「おい見ろよ。
気持ち良さそうに寝てるぜ。」
格納庫入り口付近の木箱の上で寝そべる梅の姿を見ながら、見回り中の傭兵の一人が言った。
「幸せだな、猫ってのはよ。
一日中、寝て暮らせてさ。」
苦笑しながら返す相手。
だが、その言葉に気を悪くしたのか、そうでないのか。
突如として梅は起き上がり、耳をぴくぴくと動かした。
そして尻尾を丸め、毛色は白から茶に変えて飛び跳ね、その場を去っていく。
そんなあまりに急で不思議な光景を、傭兵の二人は呆然として眺めていた。
「なんか…珍しい猫だな…」
「ああ……」
答えた途端、左の男は後ろから鎖に首を絞められ、右の男は飛んできた斧に脳天をかち割られる。
苦悶する猶予すら与えない。
ババルザンは死体の背後から身を縮めるようにして、先頭を切って格納庫に侵入した。
駐屯場の柵の警戒を突破し、続けて傭兵達の詰所となっていた帷幕を殲滅。
後方の憂いを絶った後に、五名はルベランセへと至ったのである。
「ゆくぞ……!!」
ハ・ラシンの号令。
地獄の道をそぞろ行く悪鬼の如く、彼等は連なって進入を開始する。
「油断は絶対にしないように。
彼等が雇った、この傭兵部隊……なかなか配置がいい。」
そして、中央に二機の戦闘騎が見える所まで進むと、そこで見回りについている敵の気配に身を隠す。
「…だがこちらとしては、ここの守りがタンダニアの軍隊でなくて、かえって都合が良かった。
これは、あくまでも中王都市だけの問題だからね…」
彼は呟きながら、それらの排除を仲間に対して手で示した。
◆
「―――何だ?」
ミラが上階から疑問の声を投げかける。
眼下の格納庫では、今まさに同胞が斬り伏されている瞬間であった。
「……賊か…!」
状況の判断も程々に、気を上げてくる彼。
それに気付いた五人は、動じずにそれを受け流していた。
「そこを動くな。
すぐに始末してくれる!!」
「…いい気迫だ。」
張り上げた声で自分達を威嚇する彼を、ハ・ラシンは見上げたままサングラスを直して呟いた。
「言うほどでは、なかろうて。」
血油で切れ味の鈍った手斧を捨て、背の平刀を抜くババルザン。
それを見計らって、ミラは足元の仕掛け綱を一気に引いた。
同時に、壁に立てかけてあった沢山の矛が、階下へと降り注ぐ。
だが、不意を衝かれたものの、五人はさほど驚くことなく各々で避ける。
「小細工を……」
態勢を立て直したババルザンの言葉が止まる。
一本の剣が、その彼のうなじから喉を破り、胸心まで貫いていた。
ミラは矛の後に、自らも落下していたのである。
目先の危険のみに注意を逸らしたのは、ババルザンの重大な過ちであった。
「悪いな。
五対一では俺もきつい。
汚い手だって、少しは使わせてもらう。」
剣を引き抜いて、その死体を彼等へと突き返し、ミラは言った。
その口が語る間も、床に散乱した矛を両手で投げつけるのを忘れない。
瞬間。
空気が弾けるようであった。
その投げられた矛を握り止めた右手を、興奮に震わせているユイウス。
一方、哂うギュスターブも、それを腕刀で後ろへと弾いている。
二人はまるで、積年の恋人に期せずして再会したような興奮を外に放出していた。
その四つの瞳は一心にミラの体を見据え、爛々(らんらん)と輝いている。
「…へぇ、用意周到。
この部隊を仕切っているのは、ひょっとして彼かな。」
ハ・ラシンは口笛を吹いてから、足元に転がったババルザンの死体を端へと蹴り飛ばす。
その様子に、眉をひそめるミラ。
(……おかしな連中だ…。
…ただの賊ではないな……)
奇襲に対する備えを見せつけ、動揺を誘う算段であったが、相手は落ち着き以上のものを見せている。
「しかし、幸先良くないぞ。
本格的な突入前に、早くも一人失ってしまうなんて…」
「ならば、先に行け。」
ハ・ラシンの言葉を遮り、前に出るユイウス。
「…何言ってんの、ユーイ!
あなた、リーダーでしょ!!」
それを咎める、相棒役のマピット。
さらに、意外な方向から咎める者もいた。
ユイウスの横っ面に深くめり込んでいる、それは仲間のはずのギュスターヴの拳。
ミラは、言うまでも無い。
マピットとハ・ラシンでさえ、その奇行に愕然とする。
「お、おれの……敵…だ……!
殺すぞ……おまえ…!!」
ギュスターブが乱暴にこねる駄々に、ユイウスは横目で睨み付けたまま何も返さなかった。
「おいおい…勘弁してよ。
さらに、仲間割れなんて。」
うんざりして、彼等を引き離すハ・ラシン。
「ギュスターヴ、ここはユイウスに任せよう。
この先には、もっと強い奴がいるかもしれない。
そいつは、お前にあげるからさ。」
そして、なだめるように言い、再びサングラスを指先で直す。
「ユーイが残るなら、私も残る!!」
「それは、ダメでしょ。
案内役さん。」
「…ちょ!
離しなさいよ、赤メガネ!!」
暴れるマピットを強引に抱えて、ハ・ラシンは上階へ一気に跳躍する。
先の言葉で少し落ち着いたギュスターヴも、それに続いた。
「………。」
対するミラは立場上、それを指をくわえて見ていることなど出来ないはずだった。
だが彼は、今の二人の身のこなしを見て、彼等を同時に相手しなくて良くなったことを逆に幸いと判断した。
この幸運を生かし、まずは目前の敵を早期に決着させ、彼等の背後を突くことが上策。
そう腹を決めて、居残った敵へと対峙する。
アイロンが良くかけられた、スーツをわずかに捻り、斜に構える相手。
黒塗りの鞘。
そこから引き抜かれた刃には錵も無く、ただぼんやりとした光を携えている。
そして恐ろしく薄い刀身は、業物を感じさせた。
「……!?」
ミラは驚愕する。
それに対して自分が咄嗟に腰から抜いていたのは、凶獣用の剣であった。
完全に無意識の行動である。
「…俺は、ミラ=ホロ。
お前は?」
呑まれ始めた気を紛らわすため、彼は名乗った。
「ユイウス=ノーツ。」
無表情のまま答える相手。
粗野な名乗り合いであったが、それだけで二人は互いに武人であることを深く認識する。
さらなる挨拶代わりの初撃は同時だった。
踏み込んで放つ太刀筋も、ほぼ同じ。
加わった力も同等にて、二人は床を踏みしめて一歩退く。
「……!!」
相手の存外の膂力に、喜悦の顔を増すユイウス。
だが、ミラの方は、たったの一合で大きな不安を積もらせていた。
相手の力は、決して圧倒的ではない。
昼間に剣を合わせた、バーグの方がまだ豪気さがある。
「……貴様!」
―――だが、この男とは一秒たりとも、同じ空気を吸ってはいけない。
ミラはそんな奥底に湧いた感情を握力に変え、詰め寄って相手の刃を思い切り弾く。
その気迫の凄まじさに酔いしれ、ユイウスはさらに口角を歪めた。
(何故……笑う!?
そんな余裕は…無いはずだ!!)
相手の表情に躍起となり、さらに仕掛けるミラ。
正確には、不安に背中を押されて飛び出した形でもあった。
意識した、接近戦。
鍔を競り合わせ、柄を相手の胸部へめがけて押し込む。
さらにミラはそこに顔を近付け、自分の剣の柄から飛び出ている小さなピンを噛んで引き抜いた。
「―――!?」
ユイウスは、その見慣れない仕草に全く反応できなかった。
熱い空気が、下腹からせり上がる。
瞬間。
ミラの剣の大鍔に仕込まれた爆薬が、炎を噴いて胸部付近で爆裂した。
この対凶獣用爆符。
石造りの壁とて、たちまち塵に変える代物である。
その反動にミラ自身も飛ばされ、床を転げ回った。
一方、固定されていた戦闘騎の右翼を巻き込み、吹き飛ぶ相手。
そのまま受身も取れずに固い鉄壁へと突っ込み、その上半身は炎上したまま周囲を焦げ付かせていた。
ミラは最後まで見届けず、階段へと走る。
今、先の三人を追えば、予定通り後方から突けるだろう。
「……!」
だがちょうど一歩、階段に足をかけたところであった。
迫り来る圧力に背筋を襲われ、視線を戻すミラ。
硝煙の中、むくり、と体を起こし。
上半身で唯一、首元に残っていた黒いネクタイを破り捨てて振り向いた相手は、まだ笑いを浮かべていた。
◆
丸みを帯びた、曲線の麗しさが女の肢体というならば。
厚みのある、筋の輝く逞しさが男の剛毅とするならば。
その両方を兼ね備えた、人として完璧な肉体がそこにあった。
しなやかで柔らかく、それでいて力強い。
つやのある褐色の肌。
そして、その胸部から背までを巻いたように浮かぶ、爬虫類の鱗のような紋様。
ほのかな緑光を帯びている。
醒めるような彼の蒼瞳は次の瞬間にも、髪と同じ金色へと変わっていた。
生けるもの全てを飲み込もうと、その細長い瞳孔が収縮する。
その時のミラは、まだ知らない。
―――それこそが『中王都市の飛竜』と呼ばれている男の、本性だということを。
◆
(目ェ…さめたかい…?
…ねぼすけェ……)
しわがれた哄笑が響く。
ユイウス=ノーツは、不思議な声を聞くことがあった。
己の頭中のみに響く、誰にも聞こえない声だ。
その一番初めは、幼少時に剣奴船で見世物になっていた頃。
声は、自らを『眠れる竜』と称し。
彼の体内から比類無き力を湧き起こして、そこから自由の身にしてくれた。
以来、久遠に拾われてからもずっと、守ってくれている。
(……おまえには…今までの主よりも…遥かに才能がある…。
大陸…最強になるまで……このような場所で…死ぬことなど許さん…。
このわし…と共に……なるのだ……)
決まって同じ文句が繰り返された。
最強という言葉は実感が涌かず、よく分からない。
だが、それが持つ闘争心だけは共感できた。
自分は強靭な肉体を持て余し、いつでも全力で闘える相手を探している―――
不意に、刀を鞘に収めるユイウス。
「?」
それを訝しむミラ。
相手は柄と鞘の間を軽く握ったまま、構えている。
俗に言う居合いの構えとは違う、無防備に力を抜いた構え。
踏み込みは、格納庫に一陣の神風を吹かすようだった。
彼を中心にして消し飛ぶ、くすぶっていた焦煙。
「…久遠流剣闘術・『紫電』」
瞬時に眼前に迫っている相手が、胸の奥底から吐き出した重い言葉。
その握った柄は、一直線にミラの顔面へ向かう。
鉄槌を横から振り切られるような圧。
―――とてもかわせる速度ではない。
瞼の中で、霹靂が散った。
◆ ◆ ◆
久遠は、その長い歴史の中であらゆる殺人術を考案していた。
その中でも様々な武器に対応する、汎用的な技の一つ。
紫電。
初撃を眉間へと叩き込み、怯ませ、続けて人体の三十六箇所へ瞬時に『突き』を打ち込む秘技。
くらう者はその激痛の中に紫光を垣間見、また、その攻撃を打ち込んだ者も、同じ光を見るとされる。
衝撃による一種の快楽。
それを覚えた久遠の戦士には、紫色を盲愛する者が絶えないという。
◆ ◆ ◆
ミラには、分からなかった。
どうして自分が空に浮いているのか。
全身の傷から吹き出た血が舞い。
体は天井に付くくらいの高さで、何度も回転している。
そこへ、さらに脅威が迫っていた。
至上の悦びを表情を浮かべたユイウスは、浮いた自分に狙いを合わせ、さらに宙を踏んでいる。
中空にもかかわらず、一切の姿勢が乱れることのない美しい型。
今度こそ正真正銘、居合いの構えであった。
ミラは僅かに腕を動かせたが、既に方向感覚を失っている。
その中で触覚のみが、相手に向かって巻き込まれていく空気の流れを感じていた。
この男と闘っていたことを強烈に思い出す瞬間。
ミラは腹部から右肩までの悉くを、逆袈裟に斬り抜かれた。
その一刀は、さらに戦闘騎や格納庫の壁をも貫通し、大地を凪いだ。
飛竜の翼が羽ばたけば、全てを吹き荒らす。
己以外の存在を、決して同じ空には認めない。
それは孤高の怪物の業だった。
◆
ブリッジで最初に異変に気付いたのは、リードだった。
わずかな振動を足に感じたことで、念のために艦内を検査すると、格納庫のイメージがひどく脳内で崩れる。
「どうかしたっすか?」
「いや、故障かな…。
格納庫の反応が……無いんだが…」
リードは不思議そうにタモンに答えながら、メイと目を合わせる。
彼女も同じような顔で見返していた。
ブリッジの扉付近に張り付いていた傭兵達も、何かを示し合わせた後に、慌しく奥の廊下へと駆けて行く。
胸の鼓動が、一気に高鳴った。
◆
艦内廊下を駆けるマピットとハ・ラシンも、その振動に足を止め、わずかに間を計った。
しかし、元より二人はユイウスの勝利を信じて疑っていなかったので、これまでの道はマーキングしている。
この分ならば、彼はすぐに追いついてくるに違いない。
むしろ、予想外の問題はギュスターヴ、この野獣の扱いであった。
彼には話が全く通じず、わずかな時間を待たせることも叶わない。
さらに、強烈な突破力を備えている。
各所廊下は瞬く間に、一方的な殺戮の世界と化した。
今も廊下の曲がり角で、鈍い連発が聞こえている。
覗き込めば、既に物言わぬ死体の顔を何べんも殴りつけ、眼底を砕いている彼の姿があった。
「お、おれのォ……獲物……なのにぃ…!!」
既に何かを覚っているのか、泣き声にも似た声で喚く彼。
艦内の傭兵達の配置、備えは充分だった。
しかし、圧倒的な『速さ』の前では何の役にも立たない。
剣すら抜けず、一発の銃弾さえ放っていない死体の群。
奇しくも、この惨状がそれを証明しているかのようだった。
しばらくしてギュスターヴは黙り込むと、零れ落ちた眼球をその手の平から口にすすり、浮いて進む言霊を追うようにして
再び進みだした。
「こいつはひどいな…」
数歩離れて、苦笑するハ・ラシン。
「いかれてるってば…」
どうすることも出来ず、マピットも他人事のように呟く。
ここに来る途中。
ムーベルマにおける中王騎士団の南軍を、戯れに壊滅させてしまったのは彼、ギュスターヴであった。
それが今度は、ルベランセで人を屠っている。
これには皮肉な運命を感じた。
(…この圧倒的な身体能力は、興味深いけどねぇ……)
ハ・ラシンは思った。
久遠の倫理観は、世間から見れば、相当に外れている。
その歴史から言っても、久遠がまず滅ぼすべき仇敵はクレイン教になりそうなものだが、その存在の大陸における抑止力を認め、
正面から衝突することは無い。
要は、大陸の永遠の平和にさえ辿り着ければ良いのである。
その線上には、手段も人格も何も無い。
だが、任務に支障をきたすくらい狂ってしまっているのでは、少し認識を改めなくてはならない。
それが執行人達を監査する者としての、務めであった。
「―――おっとっと。 ここだ。」
思惑の中、危うく通り過ぎそうになるところを、発見して立ち止まる彼。
そこは機関室だった。
「そんじゃオレっち、ここに用があるから、ここでお別れだ。
あの男とブリッジの方はよろしく。」
「はぁ?」
おどけた仕草と共に出た、ハ・ラシンの急な一言に、立ち尽くすマピット。
「そこに、何があるっていうの?」
「まあまあ。
さっき、デリケートな任務…って言ったでしょ。」
彼が言葉を濁している間も、ギュスターヴはさらに前へと進んでいく。
マピットも、それ以上は食らいつかず、その後を走って追った。
二人の気配を見送った後、ハ・ラシンは唇を締め、手にした大鎌の先で脇の壁を何度か軽く突く。
すると、すぐに天井の一部が外れて落ち、その奥の闇から外套の者達が這い出して降りた。
「作業の用意は?」
ハ・ラシンの問いに、無言で三日月刀を裾から見せる彼等。
「……結構。」
扉を開く彼。
中には、大きな装置があった。
そして完全に静止した室内は、不気味な寂に満ちている。
そして、そこへ次々と流れ込んだ外套の者達は、手にした刀で繋がれたパイプや管を派手に断っていった。
闇の中を、血飛沫のように散る油。
心臓を抉り、切り刻むような光景に、ハ・ラシンはさらに目元をひそめた。
(こういうのは、あんまり好きなやり方じゃないんだがねぇ。
…お前は少し強引すぎるぞ……ディボレアル。
オレ達は『尊い命を約束された者』なんだから…焦ることは無い。
なに一つ……な。)
◆ ◆
不安がブリッジを包み込んでいた。
メイは推し黙り、タモンは居ても立ってもいられないようだった。
様子を見に行った傭兵は、誰一人として戻って来ない。
リードはたまらず銃を抜き、突然、窓に向かって撃ち込んだ。
「な……!
修理したばかりなのに…何やってるっすか!?」
タモンが叫ぶ。
風に強い、強化ガラスである。
着弾した部分は僅かにひび割れただけで、ほとんど砕けていない。
リードはさらに、力の限り、そこを拳銃の握りで叩きつけた。
「お前も手伝え。
いざとなったら……ここから逃げる。」
「!?」
彼の必死な表情は、タモンに伝えるものがあった。
すぐに適当な整備道具を片手に、彼も窓に一撃を加える。
「でも……ここから地上まで…結構、高さがあるっすよ…」
「運が悪くても、骨折くらいで済むだろ。
その時は、メイも一緒に……!!」
リードはそこで作業を中断し、振り向いた。
状況が良く見えるよう、開け放った扉。
その奥の廊下に、一人の影が見えた。
「……!」
だが、それはいつの間にか視界から消えている。
リードは、すぐ傍から漂ってきた血の匂いに、ぎょっとして顔を横に向けた。
口に千切れた腕の切れ端をくわえ、見下ろしているのは、狂人の目。
朱に塗れた鬼の形相は、血に慣れていない三人を怯えさせるには充分だったといえる。
「…な…何すか……え…!?」
狼狽して手を止めるタモン。
窓は、人が出られる程にはまだ充分に壊せていない。
「待ちなさい、ギュスターヴ。
様子がおかしいわ。」
彼等が退路の確保に気を取られているうち、続けてブリッジに到達するマピット。
彼女はまず、冷静にブリッジを見回した。
「ど、どれ……だ?
強いヤツ……どれ…だ?」
一方、マピットに止められたため、ギュスターヴは四つんばいになって床を這い回り始める。
「……騎士団の者か…?」
その隙に、リードは少女に向かって恐る恐る訊いた。
「………。」
無言で、彼等を観察する彼女。
一人が銃を携帯している以外、他の二人は完全に丸腰であった。
それも、柔軟に交渉に応じようとしている。
「…赤メガネかユーイが来るまで、様子を見ましょう。
この任務、ちょっと疑問があるわ。
直感だけど……この人達は…」
彼女が言い終わらぬうちに、頭の孔雀の羽を一本抜くギュスターヴ。
「―――もう無理にでも飛び降りろ!
タモン!!」
何かを予感したリードが叫ぶが早いか、その羽は指から離れた。
音も無く。
周囲の床と壁、天井に浮かぶ、無数の赤い足跡。
深く、巨大な腕刀がタモンの身体を貫いていた。
背後で一本足立ちしたギュスターヴの足首には、細い光の輪が浮かんでいる。
そこで先の羽が、ひら、と床に落ちた。
「!!」
リードは慄然とした。
「ギュスターヴ!!」
そしてそれは、同胞であるところのマピットでさえも同じだった。
「よ、よわい……。
ちがうな…こ、こいつら…ちがう……ひ…」
唾液を垂らしながら、瞳の焦点が合っていない眼球を回す彼。
「…メイ!!」
リードは、タモンを諦め、咄嗟に叫ぶ。
だが、向いた先は空席であった。
「……メイ…?」
呟きながら、ゆっくりとギュスターヴに向き直る彼。
貫かれたタモンの大きな身体の後ろから、彼女の小さな手が見えた。
絶望する。
先の一撃は、尋常な速さではない。
否、一撃ですらなかったのだ。
タモンとメイとの間の距離は、自分を挟んで、かなりある。
信じ難い速度。
そして、リードのみを生かした理由は、もっと醜悪だった。
「クククッ……」
タモンと一緒に貫いているメイの髪を掴み、その死顔を彼に見せ付けるギュスターヴ。
彼は舌と歯を出して笑みを浮かべていた。
―――優越感を満たすため。
「ッ!」
リードはそれを理解した瞬間、銃を抜いて構えていた。
だが、その銃口さえも、相手は嬉々として見詰めている。
引き金を引いた瞬間、掴まれる顔面。
放たれた弾丸は、すぐに下から腕刀に弾かれていた。
そこでわずかに遅れた銃声が、ようやく耳元で鳴り響いた。
◆ ◆
雨はやがて小降りになり。
戒と世羅は寄り添いながら、その間もずっと、今までの冒険について語り合っていた。
互いの過去などではなく、出逢ってからの苦楽だった。
それは尽きないように思えた。
そこで、宴の席を終えて廊下に姿を現すフィンデル。
彼女は雨の上がった空を見上げ、軍服の襟元を正している。
どうやら、この宮殿で夜を明かす様子ではない。
戒は苦笑を浮かべ、世羅の頭を叩きながら立ち上がった。
◆ ◆
全身を覆う痺れの中。
真っ暗な帳に閉じ込められたような、心細さだった。
(…ああ……どこまでも…保安の責任者として…失格だな。
……俺は。)
伏したまま、薄目で、住み慣れた空間を眺める彼。
(…こんなにも……ブリッジは目茶苦茶じゃないか。
…同僚もロクに守れていない…)
瞼は落ちる寸前であった。
(…何もかも…遅すぎたのかもな…。
…もっと……強くなっていれば……なんて…今更だよ…)
遠くでは、ブリッジを蹂躙した者達が何かを言い争っていた。
今やその声のみが、リードの絶ちかけた意識を繋いでいる。
やがて、彼を置いて視界から離れていく彼等。
足音からして、先程よりも増えている。
そこでリードが最後に危惧したのは、彼等が今後、フィンデルと接触する可能性だった。
彼女だけでない。
彼女が認めた者達。
士官ではない、バーグとミーサ。
戒をはじめ、世羅やザナナ。
―――今思えば、羨ましかったのかもしれない。
きっと自分も、彼等と同じように、彼女に『仲間として』認められたかったのだ。
(…こんな…俺が……。
…虫の…いい話だけど…どうか………彼女を…)
リードの手は、床に落ちた羽根を自然と握り締めていた。
音も無く、梅が近付いて来る気配。
寄り添うぬくもりは、死の恐怖を和らげて。
彼は抜けていく力に、穏やかに身を任せていた。
▼▼
▼
第三章
第六話 『中王都市の飛竜』
了
▼▼
▼
It progresses to epilogue…
▼
▼
◆
第三章
エピローグ
◆
同刻。
「ルベランセの時もそうでしたが…もったいないことです。」
通された豪奢な部屋に、モンスロンは腰を低くして畏まる。
「警備の者が、絶えず見張っております。
何かありましたら…このように合図下さい。」
彼の担当を任された警備兵長が、卓上の遊戯版から王駒を取り、軽く持ち上げて示した。
窓の外では、それを見た武装の男が敬礼を返している。
常時、私兵を多く抱えているディオール伯の邸宅。
ここは異国の地なれど、その警備の厳重さによる安心感は何処とも比べようが無い。
「ありがとう。
この度は、ゆっくりとさせていただきます…」
退室する兵長を見送るモンスロン。
彼は一息ついて、ベルトの金具の中から一つの小さな書簡を取り出した。
ここに、中王騎士団の私物化を謀る、大団長ガイメイヤの罪の証拠が記されている。
各小団の帳簿を緻密に偽装して、自分の領地へ流していた兵器と金の量を一字一句違わず。
さらに彼に与していると思われる、主な団員の類。
ガイメイヤのような年配の士がこのように腹を肥やす目的は、歴然である。
私的な兵器を大規模に運用し、それを国家に隠しているのは、由々しき事を企んでいるに他ならない。
だが、それだけならば、政府への密告で済む話であった。
ちょうど、近年では王室政府直轄の『軍警察』なるものが設立され、その選択肢もあったはずだった。
(…急がなければ……。)
モンスロンは暫しの思考の後。
窒息しそうな己の息づかいに、思わず襟を緩めた。
彼を押し留めたのは、その政府自身の反意の噂だった。
今の政府と軍隊は強く繋がっており、騎士団と王族を除いて新政府を立ち上げようとする動きが見え隠れしている。
この情報を洩らしたところで、専横のネタに利用される恐れがあった。
今の中王都市のどこへ行っても、おそらく解決の糸口は無い。
それがモンスロンが最終的に下した結論だった。
目前に控えたタンダニア。
この国を通じてクレイン教に介入してもらえれば、最善の結果となる。
そのために軍隊を利用する形になったが、中王都市を戦火から守るにはやむを得ない行動だった。
元々、財産も家族も少ない身である。
今後、いかなる誹謗を受けようが、彼は微塵とて後悔しないと誓っていた。
「―――モンスロン様。」
ノックの音。
呼ばれた彼は、ベッドから身体を引き起こし、無言で扉に近付いた。
「少し…よろしいでしょうか。」
声の主は、先程の兵長である。
「どうかされましたか?」
妙な感じを受けつつも、扉を開くモンスロン。
「…貴方に面会を求めている方がいらしているのですが…」
「面会?
おかしいね。
今、私がこの場所に居ることを知る者などいないはずでしょう?」
続ける彼の言葉に、兵長が無言で頷いた。
「私も同じ意見です。
ですが念のため、確認していただけますか。」
窓を目線で示す彼に従い、モンスロンは用心深くカーテンで身を隠しながら外を覗き込む。
植物が几帳面に整備された庭。
その緑の細い回廊を、一人の中年の男が二人の衛兵に挟まれて尋問を受けていた。
モンスロンは、さらに目を凝らした。
「……おお…」
そして歓喜の声を洩らす。
「御存知の方で?」
兵長は訊いた。
「いわば、この亡命の手引きをしてくれた人物です。
私の恩人だ…」
「それでも、妙ですな。
この屋敷の手配は、急遽決定したものと聞き及んでおります。
あのような方の話は聞いておりません。」
「しかし、彼にお礼を言わないわけにはいかない。
何とか通してもらいたいのだが…」
「一切、誰も通すなと言われておりますが…仕方ありません。
くれぐれも油断なきよう。」
兵長の働きで、その男はすぐに部屋へと通された。
「…ニジャク殿。」
モンスロンは駆け寄り、感極まって、涙すら浮かべて再会を喜んだ。
その様子を見て、邪魔してはいけないと、再び退室する兵長。
「ご無事で何よりです。」
一方の相手も喜声を返すが、それほど感情は表には出ていないように見えた。
「君のおかげで、この通り亡命を成功出来た。
感謝の言葉も無い。」
「なに、我々の仲ではありませんか。」
「……ところで、何故ここにいると分かったのです?
この場所は、誰にも秘密だと聞いておりましたが…。」
「タンダニアも、初めから要人を通すことなど、容易くなさいますまい。」
彼は微笑を浮かべる。
「卿とは中王都市で最後に別れてから、なかなか出国できず…タイミングが乱れまして。
おかげでこのとおり、段取りが少し悪くなってしまったというわけです。
ただ、このあたりで貴方をかくまえる場所は、ここしか無いと思いましてね。」
「相変わらずのご慧眼です。
恐れ入りました。」
モンスロンは頭を掻いた。
「それより…そのお声。
調子を崩されましたか?」
「……ええ。
少し、寒さに喉をやられまして。」
彼の返事に、わずかに動きを止めるモンスロン。
だがそれを悟られないよう、すぐに室内を歩き出して距離を置いた。
「風邪ですか、それは珍しい。
貴方の故郷は、ここよりもっと寒いでしょうに。」
「はは、違いない。」
迷うことなく答える相手。
モンスロンは、南国出身のはずの彼にはありえない返事だと思った。
確かに知った顔ではある。
理由は分からない。
だが彼が、自分の知っている男とは、全くの別人ということは明白だった。
「どれ、久しぶりに一局、どうですかな?」
モンスロンはさりげなく盤上に近付き、先の兵長の説明のとおりに駒を上げて示す。
「いいですな。」
相手は、微笑を浮かべたまま、歩み寄った。
―――モンスロンの目が泳ぐ。
自身の合図に気付いた兵士達が声を上げるかと思いきや、その耳は何も捉えない。
自然なふりをして窓に顔を向ける彼。
だが、その目と鼻の先には、外套を広げた人間がいた。
薄暗いフードの中に見えるのは、おそらく女性。
灰色の肌と裸足も、その最下部から見える。
そして、その背では、血溜まりの中に沈んでいる警備兵達。
既に、モンスロン自身も両腕を極められている。
そこへ抱きつくように、前から覆いかぶさるニジャク。
否、その顔をした、別の男。
「……惜しかったな。
うちの軍師の一手が…上をいってたってことだ。」
彼は横目で遊戯板を眺め、耳元で呟いた後。
モンスロンの腹部に深く差し込んだナイフに、大きな捻りを加える。
そして、彼の喀血を避けるようにして、軽やかに離れた。
その皮手袋は、真っ赤な血に塗れていた。
周囲から真っ白に染まっていく視界、そして全身の筋肉が緩むのを感じるモンスロン。
ナイフが突き刺さっていた腹を、押さえ込む。
「……何ということを…。
本物の…ニジャク殿は……ご無事…で……」
そこで、大きく背中を跳ねらせた直後、モンスロンは動かなくなった。
「最期に他人の心配とは、おめでたい奴だな。」
顔を『自分のもの』へ戻しながら、はっきりと言うヂチャード。
そしてすぐに屈み、彼の服をまさぐり、書簡を取り上げる。
一瞬、その蓋を開けかけたが、彼は止めた。
「この中に、俺の成果が入っている……ってことか。
それだけで充分だ。
俺が価値を知る必要は無い…その価値を決めるのは、大団長様なんだからな。」
「では、すぐに脱出を。
ヂチャード様。」
「ああ……長居は無用だ。」
漏れが無いよう、モンスロンの死体を素早く調べ尽くした後、ヂチャードも踵を返す。
だが、急に何かを思い出したように足を止める彼。
「ヂチャード様?」
問いかけるルナルにも応えず、彼は血に塗れた己の右手を見詰めたままであった。
「…大丈夫だ。
俺はきっと正しい。
なあ、おまえら?」
瞼の裏に焼きつけた孤児院の色も、鮮血に赤く染まっていた。
そんな風景に、彼はずっと自嘲を浮かべていたのである。
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第三章
了
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Thank you for having you read.
to be continued…