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3-6 「中王都市の飛竜」(上)



This story is a thing written by RYUU


Air・Fantagista


Chapter 3

『Wivern in central kingdom city』


The sixth story

' Wivern in central kingdom city '





◆ ◆ ◆



 空中に静止した、二枚の翼を擁する銀の塊。


 その下部から伸びる、一基の機銃。

 そして、瞬の焔花。



「―――皆、伏せなさい!!」


 モンスロンの絶叫に、全員が反射的に従う。


 先日の戦いでガラスを失っている窓を抜け、飛んでくる散弾は拳大。

 それが激しい音と共に、ブリッジ全体を貫いていく。



 そのあと訪れる数秒の沈黙を、リードは椅子の下に潜ったまま、じっと耐えていた。


 だが、長く続くと思われた攻撃は、予想に反して短い。



 それを感じた直後、彼は真っ先に立ち上がり、窓に身を乗り出して外を確認したが、周囲には既に何も無かった。

 索敵しようにも、念通板自体が粉砕されてしまっている。


 悔やみ、天を仰ぐ彼。



 ―――あの銀の戦闘騎は、たったの一撃を加えて退散した。


 友軍に知らせるためか。


 それ以前に、あれは哨戒機なのだろうか?

 いや、確か過去に似ている機体を見たはずだ―――


 混乱するリードの頭に、数々の事象が重なってくる。



「全員…無事……だよな?」


 ぼんやりとした思考の中で、一人一人を確認する彼。


 タモン、そしてメイをかばうようにして覆いかぶさったザナナも、飛び散った機器の破片によって

若干の血を流してはいるが、軽症で済んでいる。


 その途中。

 彼は、重くうごめく音を聞いた。



「……!!」


 リードは振り向き、愕然とした。


 敵機からの攻撃を限界まで見極めたため、自身は回避が遅れたのであろう。

 モンスロンは艦長席から崩れ落ち、おびただしい血溜まりの上でうずくまっている。



「……大丈夫。

 これは跳弾……直撃ではない…」


 皆の視線を遮るように呟くが、その言葉とは裏腹に、抉られた右の上腕からは血が噴いた。



「少し…痛いですが……ね…」


 蒼白の面持ちで強がりを言った直後。


 傷口を押さえながら一瞬だけ立ち上がった彼は、必死の形相のまま前のめりになった。





◆ ◆ ◆



エア・ファンタジスタ

Air・Fantagista




第三章

中王都市の飛竜



第六話 『中王都市の飛竜』



◆ ◆ ◆



◆ ◆




◆ ◆ ◆



「演習なんでしょう?

 それならば、いっそのこと、艦を指揮させてくれればいいのに。」


 飛翔艦の搭乗を前日に控え、無邪気な様子で言い放つフィンデルに、入学式で知り合ったばかりの学友二人は苦笑を返した。



「それは無理だろう。」


 校舎の庭に設けられたテーブルで、ギルチは澄ましたまま本にしおりを挟む。



「いくら士官候補生とはいえ、まだ階級も無い我々に従ってくれる兵士など、いないさ。

 それに、君はいつでも、さぞかし自分なら出来るような調子で事を論ずるけど……少し、自惚れが過ぎるんじゃないか。

 そんなことでは、意地の悪い教師達に目を付けられてしまうぞ。」


 彼は、昔から慎重派だった。



「自信はあるわ。

 私の頭は、いつでも戦局と策を動かすことが出来るの。

 実戦でもきっと、その通りになるはずよ。」


「本で知り得た知識と、実戦は違う。

 そう思うがな。」


 シザーは紅茶の入ったカップを置き、神妙な面持ちで言う。



「人間同士のやることだ。

 目に見えないものというものは多分にある。

 こと戦いというものは、単純に戦力の応酬……そういうものではない。」


 騎士の名家で育った彼女は理論派ではあったが、そこへ更に軍人の心情を解して加えていた。



「目に見えない、不確定な何かがあるというのなら、それこそ直に触れて勉強したいものだわ。」


 彼等に比べて、自分は何も分からない子供だった。

 書物から得た知識を頭で空想し、何でも出来ると思っていた。


 愚かで哀れな子供だった。



 戦いの本質とは。

 兵士の本懐とは。


 ハンデン・ハンデオルム事変は、その片鱗に触れさせて。

 死者は生者を、暗い深淵へと引きずり込んだ。



 当時、覚悟の無かった自分の心は、いまだに身体に戻って来れずにいる。



 だから、そのまま惰性で軍に籍を置くのは、ただ生活のため。

 ずっとそう思っていた。



 だが最近では、他に違う理由があるのではないかと感じている。

 いつまでも情けなく、だらしなく、戦場が手の届く所にしがみついているのは何故なのか。



 炎団の艦を堕とした時も、平静を装う外殻の中身は、確かに高揚していた。



 自分はもっと、己の知謀を使役したいのではないか。

 そしてその為の、深淵に落ちた心を引き上げてくれる救いの手を、いつも求めているのではないか。



 そんな資格など無いのに―――



◆ ◆ ◆



(……止まった…?)


 不自然な艦の停止を感じ。

 フィンデルはベッドに横たわったまま、頭を沈めている枕を直した。


 夢は、心地良い逃避では無かった。

 全身にかいた嫌な汗がそれを物語っている。


 生きるにしろ、死ぬにしろ、目が覚めたら全てが終わっていたらいいのに。

 そんな後悔を思って止まない。



「…気分はどう?

 顔色、少しは良くなったかな…」


「!!」


 そこで自分の顔を覗き込むロディに気付き、飛んで離れるフィンデル。

 彼女は慌てて、はだけていた胸元を隠した。



「なんか…ブリッジで異常があったみたいだねぇ。」


 彼は閉められた扉の方を向きながら呑気に言う。

 一方の彼女は、何もしないで反対側の壁をじっと見詰めた。



「なぜ、来たのです。

 ……貴方は、逃げてもいいと言ったじゃないですか。」


「そうだね。」


 返される言葉尻で、見なくとも彼の普段の笑顔が伝わった。



「…聞いたよ、モンスロン卿から。

 君は過去の経験から、戦う意欲を失ったって。」


「……やはり…あの人は…私のことを…。

 でも…それを知りながら、どうして…まだ私なんかに構うんですか…」


「君が素敵だからさ。」


 肩に軽く乗せられる、彼の手。

 フィンデルは、自分を覆ったシーツの中が熱くなるのを感じた。



「…好きなことに夢中になっている女性は、宝石のように、いつも輝いているんだよね。

 初めて会った夜。

 君もそうだった。」


「………。」


「相手に向かう君の瞳。

 自分が狙う目的のものを、何が何でも絡め取らんとする、その奥底にある闘争。

 …背筋が凍るような荒々しさだった。

 僕は。そういう君が好きだ。」



 フィンデルは呆れてものも言えなかった。

 彼はこのような状況で、詩吟のような口ぶりで、まだ人を口説こうというのか。


 だがその異常とも思える行動が、いま確かに、妙にいとおしく思えた。

 それは只なる錯覚ではない。


 自分は。

 彼からつづられようとしている、言葉を待っている。



「やめて……下さい。」


 本心と逆の言葉を、彼女は呟いた。



「君は争いを嫌悪などしていない。

 むしろ、欲しているはずだ。」


「やめて…!」


 堪らずに半身を起こして向き直る彼女。

 だが、待ち構えていたように、ロディは素早くその両肩を掴んだ。



「言葉として伝えなくても……ただそばにいるだけで、伝わることがあるよ。」


 彼は目線を外さずに言った。



「だから…戒も、君に賭けたんだと思う。」


「……賭けた?」


 ぼんやりと尋ねる。

 そして彼女は、はっとして、傷を負っていたはずの自分の額に触れた。



◆ ◆



 頭痛で歪む視界の中、操縦桿を握る戒の手が痺れた。


 両脇を戦闘騎に挟まれ、その摩擦で立ち消える速度。


 さらに上空。

 そして背後から迫る敵機の圧。


 自機も敵機も入り混じったまま、雲へと突入した。



 水蒸気の息苦しさに、むせる。


 脇へ目配せすれば。


 いつの間にか翼へと飛び移った、犬の頭の不笑人わらわずびと

 彼等は今にも自分達の首を刈らんと、瞳に殺気を爛々と輝かせ、口には刃物を噛ませている。


 それを目の当たりにした緊張と焦りで、指先が踊った。



(……思うようにならねえのは何故だ…!?)


 揺らぐ機体。

 戒はたまらずに、ペダルを踏み込んで加速をかける。


 鈍い音が奥歯で鳴った。


 空はとてつもなく広く、高すぎる。

 届かないところは、どう足掻こうが届かないのではないか。



 不笑人の裸足は着実に翼上を踏み進み、暴風の中をゆっくりと操縦席へと近付いて来る。

 だが、戒はこの危機を内心で『しめた』と思う。


 自慢の拳を叩きつけられる、またとない好機。


 後ろの世羅が、息を吸った。

 彼女の源法術も支援してくれるだろう。



 だが同時に、彼は自己にさいなまれた。


 なんと未練がましいことか。



 ―――自分の足は大地から、既に離れている。


 ここで生きる方法を見つけなくてはならない。



 不意に、前を往く戦闘騎の軌跡が見えた。

 昔見た、リジャンの戦闘騎だった。


 あの時、彼は自分と世羅を背負い、どのような心境でいたのだろう。



 ペダルを踏む足の甲を、もう一方の足で更に強く踏み込む。

 その更なる急加速に追いつけず、敵機が離れだす。


 翼に付いていた不笑人は体を煽られて、味方の戦闘騎へ逃げるようにして再び宙を舞った。



 全てを振り切って、白い筋を描き、戒の機体は垂直で上空へと消えていく。



 一本の軌跡の頂点。

 やがて高度は限界へと達した。



 機体前部のプロペラを天に向けて、回転する戦闘騎。

 身を包んだ青色景色が、白い千切れ雲を巻き込んで、踊った。



(……空ってのは…おかしな場所だよな…)


 戒は両手を操縦桿から離し、大きく広げて空に委ねた。

 後ろの世羅も、その動きを自然と真似る。



 風の音が耳の奥を吹き荒ぶ、鳥も飛ばない高度。

 大きく膨らませた肺に入る空気も、極めて薄い。


 身体を照らす陽は、今までの何処の陽より何倍も近かった。



(…最も大事なものから…手を離さねえと……強くなれねえ気がする……)



 斜転。

 推力を失った機体がいよいよ落下を始めると、機体の平衡機構が働き、機首は真っ直ぐに下方へと向いた。


 急激な気圧の変化に耐え切れず、戒の鼻からは血が噴き、顔から離れた汗は球となって周囲を浮く。


 内蔵が浮く感覚を、世羅も必死に堪えている。

 かける言葉は出ない。



 縮小して霞む瞳孔の中。

 先の密集した相手を、集中力が捉える。


 射ちこんだ弾丸が、中央の敵機を貫き、更にそこを突貫する戒。

 他の敵機は、更に後から到達した空気の衝撃に、煽られて散った。



 その爆音に一瞥もくれず、戒は飛行を続けた。



 世羅は自分を固定していたベルトを外して立ち上がり、後ろから戒の頬を拭う。

 彼はやはり何も答えない代わりに、その小さな手に自らの手を重ね合わせた。



 機体は雲に紛れ、静かに南東へと針路を取っていた。



◆ ◆



 ただでさえ、経験が浅い彼。

 僅かな痛みでさえ、それが操縦に及ぼす影響は想像に難くない。


 自分が至らないせいで、戒に治癒の能力を使わせてしまった。

 どこまでも不甲斐ない自分に責任を感じ、フィンデルは肩を震わせた。



「なんで…私なんかに…」


 今にも消えそうになる、衰弱が著しい声。



「お互いを知った瞬間から……始まる絆があるんだ。」


 だが目の前のロディは、肩に手を乗せたまま答えてくれた。



「戒と僕が知り合ったことも同じさ。

 たとえば、僕が志半ばで倒れたとしたら、僕と似た境遇の彼がそれを果たしてくれるかもしれない。

 いや……それが叶わなくとも、彼を通じて、それは他の人に伝わるかもしれない。」


 励ますように、続ける。



「命と意思は、繋がっている。

 この世界で影響し合わないものなどないよ。

 ―――生きている限り。」


 その言葉を聞き、フィンデルは顔を覆って首を振った。



 誰も傷つかない方法は無いのだろうか。

 いつか、自分はそう言った。


 あの時も、誰もが呆れるような戯言を、彼は一笑してくれたのを思い出す。


 それ以上何も言わずに、ロディは彼女の後ろ髪を優しく撫でた。



「…そう。

 そのとおり…かもしれない…」


 目線の先で、震える声と共に開く扉。


 そして、視界に飛び込んでくるモンスロンの姿。

 彼はリードに肩を支えられている。



「……その傷は…!」


「いやいや…少しやられちゃいまいましてね。」


 自分の容体に息を飲む二人に対して、気丈に笑いかける彼。


 扉を挟んで僅かに聴いた会話。

 そして憑き物が落ちたような彼女の表情で、彼は瞬時に読み取っていた。



「…フィンデル艦長、恐れてはいけない。

 暴君になる可能性は、指揮官の誰もが孕んでいるのです…。

 しかし……その葛藤は通過点に過ぎない。」


 モンスロンとて、独りで彼女の気持ちへと到達できたわけではない。

 諦めることなく、常に彼女の傍らにいてくれたロディがあって、初めて気付くことが出来たのだ。



「……私には命を賭してまで、戦うという気持ちが解りませんでした。

 そして、この世の争いというものが、あれほどまでに悲しいものならば、いっそのこと全てから目を背けて生きたい…。

 あの時から、ずっとそう願っていました。」


 フィンデルは、視線を僅かに下に向けて呟いた。



「……サーデュス・ルア・アフハ…」


 対して発せられる、モンスロンの言葉。

 それが、再び彼女の記憶を呼び覚ます。



「…これは…あの蛮族の言葉でね…。

 『汝に・未来を・託す』という意味…らしいですよ…」


 彼は機を逃さずに言った。

 目を見開く彼女。



「…あの時の、あの相手の自決は、一将としての責任の形でしょう。

 だが、言葉が通じないと知りながら、敵である貴女へと送った言葉は決して恨みのあるものではない。

 ……彼もまた貴女の強さに平和の夢を見た、その一人だった……そう信じて欲しい。」


 傷口を掴んだ手を引き締め、片目を苦痛に閉じながら、彼は渾身の言葉を吐き出した。



「そして、私は……ずっと伝えたかった…このことを…」


 当時、そのためにモンスロンが時間を割いて、蛮族の言葉を調べ上げたことは誰も知らない。

 だが、その場の全員がそれを察することが出来た。



「今なら……受け止められます。」


 彼女は、凛として答える。



「よろしいでしょうか…。

 これから先、私に命をお預けていただいても。」


 感を耐え切れないはずなのに、その表情に涙は無い。



「…ええ。

 ルベランセに乗ると決めてから……元より…そのつもり……」


 そんな彼女を前に、満足そうな笑みを浮かべたモンスロンの上体は沈む。

 脇のリードはさらに足を踏ん張って、彼を支えこんだ。



 あの頃に持てなかった覚悟は今、あるだろうか。

 心が、自問する。



「総員……」


 返答を用意する前に、ベッドから抜けて立ち上がり、壁にかけてあったタイを取って首元にきつく締める彼女。



「改めて戦闘の用意をさせてくれるかしら?」


 同時に、素早くリードに下す言葉。

 彼は、入れ替わりにモンスロンをベッドに横たえると、無言で敬礼をして即座に退室した。



「…おかえり、フィンデル。」


 そして、壁の向こうで呟く。



 続けざま、ザナナに手を引かれて廊下を駆けて来るのはシュナ。

 その手には、薬箱と包帯の束を抱えている。



「…誰か、大怪我をしたって…!

 あぁ!!」


 まず重傷のモンスロン、次に起き上がっているフィンデルを交互に見て、素っ頓狂な声を上げる彼女。



「彼の介抱をよろしく。

 シュナちゃん。」


 ロディは笑いかけながら、フィンデルの手を引いて共に部屋を出ようとする。



「ロディさん……もしかして!」


「ああ、出撃しよう…」


 シュナの歓喜の声に、意気揚々と手を上げた彼。



「―――だっ、だ、ダメだすよ、ロディ殿!!」


 だがそこに水を差したのは、突如として室内に乱入し、契約書を全員に突き付けるガッチャだった。

 この騒動を聞きつけて、シュナの後を追って来たのである。



「貴方は、我が国と契約してるんだす!

 いま参戦すれば、国家の大問題になるのだすよ!!」


「……ああ…しまった。

 ……勢いにまかせて…すっかり忘れていたよ…。

 ごめんね……」


 彼は一転して情けない顔に戻り、全員に対して頭を下げる。



 しかし、それと同時に、千切れた紙片が鳥の羽毛のように部屋中を舞った。

 紙を奪われた手をそのままに、放心状態のガッチャ。



「本当に、ごめんね。」


 ロディは満面な笑みのまま、立ち尽くす彼の肩を軽く叩いて横切った。


 踏み出た廊下。



「国家の雇われ兵士の前に、僕は一人の男みたいだ。」


 彼はそこで振り向き、胸に片手を当て、腰を曲げてうやうやしく一礼をする。



 それを傍観していたザナナが、その背後に立ち塞がった。


 ごりごりと指を鳴らす彼。

 だが、ガッチャのように彼の出撃をとがめるのではない。


 沸き上がり始めた戦場の匂いに、鼻息を荒くしている。



 毅然きぜんと彼等を見据えて、軍帽を被るフィンデル。


 かくて、新たな策を告げる、その唇が開かれようとしていた。



◆ ◆



 味方が全て堕とされてからというもの、神経をすり減らす操縦がずっと続いている。

 マルリッパは相手から付かず離れず、銃撃をいなすだけで精一杯だった。



 自身の駆るリッツァー・ゲルガは、長期戦には向いていない。


 火力が他より秀でる代わり、その機動性や速度は並より劣る。

 その頼みの銃器類でさえ、ルベランセで十分な補給が得られなかったために既に撃ち尽くしていた。



 だが爆薬の詰まった特殊弾を、一発だけは残している。


 マルリッパは旋回しながら、首を傾けて眼下の敵艦に狙いを定めた。

 いざとなればこの機体こそが、最後の武器となるのだ。



 よくよく自機の外表を見れば、撃たれた弾痕の跡が無数に付いている。

 自分の操縦服も所々が焦げていた。


 それでも、なまじ身体が無事なだけ、決心がつかない。



 散開した敵機達が、上空に広がった。

 影に覆われた視界。


 疲労から、マルリッパの反応が遅れる。



 穏やかな表情で目を閉じ、ペダルに足をかけた瞬間、別の機影が上を泳いだ。

 敵機達もそれに気を取られ、寸でのところでマルリッパを逃してしまう。



「…バーグさん!?」


 マルリッパはその機影に下から並び、思わず暴風ゴーグルを外して叫んだ。



「あんちゃんよ。

 今、ひょんなこと考えてたろ。」


 バーグは操縦席から、苦笑と共に言った。

 同じような苦笑を返す彼。



「…南の敵は…?」


「相手側のトラブルで、陽動するまでも無かった。

 理由は分からんぜ。」


 彼からの問いを、バーグは隠さずに答える。



「…それで、死に急ぐ若者がいるんじゃねえかってな。

 心配で戻って来たってわけよ。」


 そして冗談を交えた言葉は、マルリッパに勇気を与えてくれた。



「……デスタロッサ隊は、僕を除いて全滅です。」


「…そうか。

 だが、感傷に浸っている暇は…」


「はい。

 作戦は続行しないと……ルベランセのために。」


 マルリッパはゴーグルを再び装着し、顎を引いた。

 その様子を見て、安堵するバーグ。



 二人は機上で合図を交わし、前方より再び迫り来る戦闘騎達に向かって行った。



◆ ◆



「北の方角…。

 300マイフトから、戦闘騎、接近!!」


「―――何だと。

 どうして今まで気付かなかった!」


 旗艦進軍の矢先。

 突然に上がった報告に、ファグベールが怒りを露にした。



「こいつは速すぎます!

 距離、100…50…!!」


「く……。

 対空砲火用意……!!

 撃ち落と…」


 命令が届く前に、頭上を越えて過ぎていく銀の機影。



(…あの戦闘騎……!?)


 ファグベールは、それがゴルゴート基地にあった特別な一機ということを知っていた。



「…味方だな?」


 そして、特に誰を選ぶこともせずに訊く。



「は、交信に応えております。

 ……『北東の谷間にルベランセあり』と。」


 奥の念通士より、返される言葉。



「…北東……だと?」



 先に現れた5機の戦闘騎の位置と比べ、予想だにしない方向。

 標的は自分の予想より、遥かにタンダニアへと近付いている。


 ともすれば、戦闘騎とは初めから別行動。

 完全に出し抜かれていたのだ。



「戦闘騎、そのままタンダニア方面へ抜けます!」


「…今さら…何のためにだ!?」


 その疑問には、誰からも返事は無かった。



(…このファグベールが仕切る戦場を、遠方から動かすつもりかっ……あの黒騎士め!!)


 手柄を現地の部隊に譲ることは、戦場の作法なので、理解できる。

 だがこれ以上の勝手な作戦は、全てを任されたと思っていた自分にとって、許容出来ない屈辱であった。



「今の報告のとおり、本艦はただちに北東へ進路を取れ。

 至急、各艦にも場所を知らせ! 囲いを狭めるのだ!!」


 早口で撒くし立てる老将は、今まさにほぞを噛むような心地で、怒りの矛先をルベランセに向けようとしていた。



◆ ◆



 北の陽動を終え、帰還の途に着いていた戒と世羅。


 だが、荒地に転がっていた残骸を上空から発見し、低空で迫ってみれば。

 そこには不時着したコルツの機体があった。



「……おい…」


 傍に着陸し、駆け寄る。

 コルツはその接近にすぐに気付いたが、小破して傾いた機体の中で上空を仰いだまま虚ろだった。



「ちょっと見ねえうちに、随分しょっぱくなっちまったものだな……。」


 戒は、涙と汗で濡れた、そんな彼の襟元を捻り上げ。



「どうなってんだ…戦況は…!」


 絶望を肌を感じつつ、低い声で問い正す。



「……失敗だ。

 部隊はほぼ全滅…。

 それに、一機……西に逃した。」


 短く答えるコルツ。



「失敗だと……!

 この俺様がここまでしてやったんだぞ、てめえ!!」


「……知るかよ。

 お前がいかに張り切っていたってな…。

 どうにもならねえものは、どうにもならねえ。

 それが戦場だ。」


「どうにもならねえだと!!」


 荒野に、大声が虚しく響く。



「俺様もあいつも、絶対に飛翔艦乗りになるって腹ァ決めて、ここまでやってきたんだぞ!!

 意地でもどうにかしろっ!!」


 戒の凄まじい剣幕に、戦闘騎で待っている世羅が思わず身を乗り出した。



「無理だって、言ってるだろ!!」


 そこで隠していた片手を出すコルツ。

 その手首は深い青紫色に変わり、内出血によって二倍近くに膨れ上がっている。



「……そんなもん…かすり傷じゃねえか。」


 戒は特に表情も変えず、言い放った。



「な、なんだと!

 人の痛みも知らねえで……ぐぅっ!!」


 骨折した患部を掴まれて、悶える彼。

 だが、その激痛は一瞬であった。



「……!?」


 不思議と治っている自分の手。

 そして、戒の指に光る輪を見て、コルツは驚愕した。



「…本物の…天命人エア・ファンタジスタ……?」


 困惑した顔のまま、口をだらしなく開け広げる。



「…そうか……全部、知ってんだな。

 …それじゃあ、俺の刺青を見て、さぞかし可笑しかっただろ?

 滑稽だっただろ?

 はっ…ははは……!!」


 涙を散らしながら、コルツは慟哭した。



「…黙れ。

 てめえには、これから高い治療費を払ってもらう。」


 だが戒はそんな言葉を無視した挙句、彼を掴み上げたまま荒野を歩く。


 そして、その掴んだ身体を、停めていた機体の操縦席に捨てるように放り込むと、自分は世羅に

後部座席を詰めるように手で示した。



「な、何で…俺が、お前の戦闘騎に…!!」


 すぐに立ち上がり、降りようとするコルツ。

 だが、戒は彼を一発殴り、それを許さなかった。



「さっき、天命の輪がどうだかって言ったな。

 …それがどうした。」


 加えて、額を付き合わせて凄む。



「今必要なのは、てめえのように上手く戦闘騎を操れる技術だろうが!!」


 その一喝は、コルツの全身を硬直させた。



「これ以上、駄々こねやがると、ここでブッ殺すぞ。」


 冷淡な瞳で見下ろし、そのまま後部座席へと身を潜らせる戒。


 見れば、今度は彼が震える手を隠すようにして。

 傍らの世羅は、不安そうな顔でそれを一生懸命にさすっている。



「…おまえ……!?

 その手は…」


「いいから、前を向け。

 操縦しろ。」


「……その手は…どうしたっていうんだよォ…」


「てめえも一度は、空で生きる覚悟、決めたんだろうが!!」


「―――!!」


 粘着した感情を、吹き飛ばす気合だった。


 思えば、自分も一部を献策した作戦である。

 友のマルリッパも、それを信じたまま、この空域で戦っているのだ。



 そしてあろうことか、素人同然の人間に発破をかけられた。

 そのことが、さらに叛骨の怒りとして闘争を再び奮い起こさせた。



 操縦席のベルトを自分の身長に合わせて、慌てて締める彼。


 慣れた動作で各機器を確認し、ペダルを踏む。

 そして置き去りにする愛機に、必ず戻ると心の中で告げてから、コルツは初めて後ろに人を乗せて飛び立った。







◆ ◆



◆ ◆



「…遠路はるばる、よくぞ参られた。」


 ねぎらいの言葉と共に、大きな人影が揺らいだ。

 座の一面に掲げられた薄い紗幕を間に挟んで、あのタンダニス王がいる。



「このように礼を欠いた出迎えを許したまえ。

 ……『狩り』の汗と土を拭わなくては、落ち着かなくてな。」


 さらに奥で揺らぐ、従者の動きと水の音。



「是非もありませぬ。

 むしろ…急な訪問にも関わらず、ご拝謁の機会をお与えいただき…まことに恐悦に存じます。」


 マクスは緊張が解けるはずも無く、ただ堅い言葉を並べ連ねていた。



「聖騎士ともあろうものが、自ら使者になって来られるとは、いささか驚いておるが。」


「……父上が、戦中にお世話になったと聞き及んでおりますゆえ。」


 出立前、自分に同様のことを言ったディボレアルを思い出す。



 事実、彼にはそれ以外に自分が派遣された理由が見出せていなかった。


 他に強いて挙げるとするならば、先のルベランセに対する一手としてだが、いくらあの軍師が

先見の目に秀でているとはいえ、あそこまでの偶然は想像しえないだろう―――



「成る程。

 …して、ジェダス卿は如何しておられる?」


「近年では、病の床に伏しております。」


「……そうか。

 旧友がよろしく言っていたことを、お伝え願いたい。」


「父もきっと喜びましょう。」


 挨拶も一段落したところで、マクスの背後を通り、紗幕の内に入る者がいた。



「―――失礼いたします、陛下。」


 透き通った声を伴った、若年の美男である。



「いただいた書簡の方は、さきほど拝読……そして、早急に対処させていただいた。

 よろしかったかな?」


 その彼に耳打ちされた直後に、タンダニスは言った。



「対処…と、言われますと?」


「なに、風が運ぶ噂では、中王都市の騎士団と軍隊は仲を違えていると聞いたものでな。

 それがなかなかどうして…絆は固いではないか。」


「?」


 マクスは、己の運んできた書簡の内容を知らない。

 大団長の書と聞いていたが、中身は恐らくはディボレアルの胸下三寸であろう。


 そして今更、使者の自分が『それ』を問うのも甚だ無礼である。

 このように、もはや彼は書簡の内容を知る機会を失ってしまったが、非常に嫌な予感がした。



「それにしても、あの時の赤子が随分と大きくなったものよ。

 ジェダスは、まこと良き養父であるな。」


「いえ……いまだ未熟者にて、オルゼリア家の恥にならぬよう、日々精進あるのみです。」


「…家名だと?

 聖騎士とはそういうものではなかろう?」


 笑いを含んだ声が響いた。



(父と同じことを仰られる…。)


 義父であるジェダスが、戦下の反乱軍の陣地で自分を拾った時、若き日のタンダニス王も共にあったという。

 ともすれば、このようなある種の所縁ゆかりに、立場も忘れて甘えて見たくもなるのが人間の常であった。



「陛下は……若き日に聖騎士を辞退されたと、かねてより父から聞き及んでおります。

 それは何ゆえでしょうか。」


 マクスは、つい素朴な疑問を口にする。



「無論、重たいからよ。

 大陸の秩序、使命など…なんと面倒なことではないか。」


 だが、それを臆面も無く返す相手。



「しかし……その後、余も予期しない民を得て、それよりも遥かに重身になってしもうたがな。」


 そして続けられる愚痴に、マクスは自然と唇に微笑を携え、気色を良く変えるのであった。



◆ ◆



《 ―――絶ぇ対っ! とめなさい!! 》


 機関室からのミーサの怒号に、パンリは耳に当てていた声通管を思わず管を離す。



《 とめなさいよ!!

そんな戦闘騎なんかに乗せたら、あんたも、後でただじゃおかないからね!! 》


「で、でも……もう…ああ!!」


 思わぬ怒りの煽りを食らったパンリの脇で。

 戦闘騎の操縦桿にされている封を親指で破るロディがいる。



「平気さ、これは僕は独断の暴走なんだから。」


《 そういう問題じゃない!

そんな機体じゃ、まっとうな操縦が出来ないっての、分かってるでしょうに! 》


 そんな彼の軽口に反応して、痛そうな金属音が管を伝わって聞こえた。



《 ちょっと待ってて!

今から、そっちに行くから!! 》


「ごめん。

 もう、時間が無いんだ。」


 彼は笑って、管を置く。

 すると、格納庫は途端に寂となった。



「…生きて帰る自信……あるんですよね!?」


 不意に、パンリが作業するロディの手を止める。



「心配してくれて、ありがとう。

 大丈夫さ。

 …少なくとも僕の任務は、彼より危険じゃない。」


 そう言って、背後に立つ豹頭を見上げる彼。



「あのように頼まれたら、断れん。」


 対するザナナは、まんざらでもないような口ぶりで虚空を見詰めて返す。



「はは。

 乗り気じゃなかったら、降りてもいいんだよ。」


「……。」



 その言葉に視線を正面に向け直した彼は、何も答えずに用意された戦闘騎に登り、後部座席に陣取った。



「悪いね、パンリ。

 帰ってきたら、一緒に叱られよう。」


 ロディは終始笑顔で、外への扉を開けるように手で示す。


 二人の悲壮な決意を肌で感じているパンリは、ただ涙ながらにそれに従うのみだった。



◆ ◆



 フィンデルはブリッジの皆に一度、深く謝罪してから再び艦長席についた。


 元来、気質の穏やかなブリッジの連中は、それを責める感情などあるはずも無かったが、

その後の彼女の様子には息を飲んだ。


 弱った全身に少しでも栄養を送るために、残飯をかき込むフィンデル。

 さらに時間を惜しんで、そのまま地図を片手に考えを巡らせる様子は、鬼気迫るものがある。



「タモン!」


 突然、名を呼んで、作業を終えた地図を放り投げる彼女。



「は、はい!!」


 彼は受け取ったそれを広げ、確認する。


 現在地より、まだ北東。

 その河川一帯に、長い横線が引かれていた。



「その線上のどこでもいい。

 ルベランセが南側の崖に身を隠せる所まで行って頂戴。」


「了解…!」


 幸い、先の攻撃で艦の駆動系統はやられていない。

 タモンが舵の脇のレバーを引くと、飛翔艦はブリッジ内を軋ませながら再び動き出した。



「メイ、主砲発射用意。

 リードは彼女の代わりに、艦体制御に全力を。」


 小気味よい彼女の命令に、念通士の二人も素早く従ってくれる。



 このルベランセは被害を受けながらも、まだ生きていて。


 それも、壊滅した軍の中でただ一隻―――

 尋常でない『運』がある。



 久方ぶりに、ブリッジから迷いが消えた瞬間だった。





 遂に出撃を果たした空。

 遠ざかっていた操縦の勘が戻るまでは、もう暫くかかるだろうか。


 ロディがそのように思っていると、背後の下方から加速してくる機体があった。



「おや……」


 それを見た彼は緊張させていた表情を一転、思い切り緩める。



 飛んできた戦闘騎は、操縦席にコルツ。

 後部座席には戒と世羅の姿。


 ロディはその目に映る状況をもって、彼等も色々と苦戦したのだろうと察したが、同時に健勝だと感じた。

 それはとても喜ばしいことだった。



「ルベランセは無事なのかっ!?」


 まず訊いたのは、コルツである。

 彼は、逃した銀の戦闘騎をいまだに気にかけていた。



「ああ。 この北の谷間に潜みつつ、東へ進んでいる。

 一度、襲撃は受けたけどね、その後は何も無い。

 だから、余計に…大きな波が来るかもしれないね。」


「それって、もしかして……あれじゃねえか。」


 戒が呟きながら、指で示す。


 南の空から迫り来る、漆黒の飛翔艦。

 今まで見てきたどの戦艦よりも、禍々(まがまが)しく見えるのは、決して気のせいではないだろう。



「……陽動しきれてないってことは…!!

 やっぱり、あの戦闘機がルベランセの居場所を知らせたに違いねえ。

 くそっ!!」


 コルツが叫んだ。



「ブリッジには、フィンデルが戻ってるんだよな?」


 思ったよりも冷静に戒が訊いてきた。

 ロディは、静かに頷く。



「……じゃあ、平気だよね。」


 笑顔で呼応する世羅。



「何が平気なんだよ!

 『万事急す』とは、このことだろうが!!」


 コルツは相変わらずの調子で喚いた。

 だが後ろの二人からは、驚くくらい、何の緊張も感じない。



「…弱虫だけどな、あいつは、やる時はやるんだよ。」


「うん。」


 額の鈍痛を押さえ、口を尖らせて答える戒。

 それに彼女も頷いて、賛同する。



「………。」


 コルツは、もはや口を真一文字に結んだ。


 後ろの二人の思考は、自分の理解を超えていた。

 悪く言えば、あまりにも他人を信用しすぎている。


 常に戦場で神経を尖らせ、たとえ仲間と呼ばれるものが傍らにいようと己が道を行くのみだった彼は、

違和感を覚えずにはいられなかった。



 その時、脇を飛ぶロディの戦闘騎のエンジンが大きなすすを吹き、一瞬だけ機体が落ちこんだ。



「……大丈夫かよ!

 あんたのそれ…」


「ああ、五分もあれば慣れるさ。」


 コルツの心配に対し、ことも無さげに答えるロディ。



「…策を教えろ。

 あいつが何も考え無しに、そんなオンボロを出撃させるわけねえ。」


「………。」


 だが、戒の問い凄んだ問いに、彼は黙り込む。



「大丈夫だ。

 戒達には、関係ない。」


 その後に座ったザナナが、代わりに呟いた。



「ザナナ!!」


 そこへ大声を発したのは、世羅だった。

 彼女は同時に、機体から大きく身を乗り出したので、皆もぎょっとする。



「関係ないって……そんなことない!!」


 その気迫に圧され、瞳を逸らすザナナ。



「今まで一緒に戦ってきたのに…ひどいよ!!」


「……わかった。

 …戻れ、危ないから……」


 やがて、ぼつぼつと豹頭が声を洩らす。

 見たことも無い彼のそんな様子に、戒は思わず歯を見せる。



「まったく、敵わないね。」


 肩をすくめたロディは、互いに話しやすい距離まで、さらに機体を近付けた。


 と、数分もかけずに、小さな会議が空中でとり行われる。



「バカか…!

 死ぬ気か、おまえら!!」


 聞いた作戦の概要。

 それに加え、戒達が機上で話し合った末の結論に、コルツが口を挟んだ。


 その途端、彼の後頭部に固いブーツが命中する。



「うろたえるな。

 何も、死にに行くわけじゃねえ。

 ……俺様はな、他人のために犠牲になるなんてまっぴらなんだ。」


「?」


 背中を蹴られたままの姿勢で、呆気に取られるコルツ。

 振り返れば、戒と世羅の二人は、お互いの額を寄せ合って、狭い座席の中で何やら細かい作業をしていた。



「…いつものことだもんね……」


「ん?」


 笑いながら囁く世羅に、返す戒。



「……こういうことするの。」


「嬉しそうに言うんじゃねえ。」


 彼女の頭に握った拳を乗せる。

 そうしながら、戒はさらに自分の胸倉をまさぐった。



「……知らねえからな、俺は。

 こんな作戦、訓練も無しにうまくいくはずがねえんだ。」


 コルツが言葉を吐き捨てる。



「…いや。

 案外、行けるかもね。」


 脇を飛ぶロディが言った。



「空戦において、『死中に活』以上の処方は無い。

 なかなかどうして、二人はよく心得てるじゃないか。」


「……。」


 後ろのザナナは、彼の言葉を黙って聞いている。



「何も無い代わりに、何でも出来る可能性があるってことさ。

 ここではね。」


「わからんな。

 だが…」


 豹頭は呟き。


「全力を尽くすことは、いい。

 それだけは、わかる。」


 背にした槍を握りしめた。



 迫る飛翔艦を前に、二機は同時に旋回する。


 間合いを計るように大きく。

 そして、あるポイントに達すると、その頭頂部めがけて一気に接近した。





「前方に敵機確認。

 その数、2機。

 目視可能範囲に入ります……」


 判断を仰ぐ、念通士。

 ファグベールは直立したまま、窓外に泳ぐ戦闘騎を確認する。



「我が方の戦闘騎は?」


「…まだ戻りません。」


 現れた5機の戦闘騎に、先行して仕向けたためだった。

 すぐにあれが陽動と気付いてさえいれば、とファグベールは悔しがる。



「たかが二機。

 このセンデルホーンの対空性能と装甲ならば、さほど気にする必要は無い。

 弾幕で散らしておけ。」


 迷わずに命を下す彼。


 だが対空放射をものともせず、弾と弾の間を縫うようにして、相手の二機は艦の頂部であるブリッジまで達した。


 黒華の騎士達は、その操縦の美技に恐れおののき、窓の外を縦断する彼等をただひたすらに目で追っていた。



(なんだ……この音……?)


 ファグベールの耳が、風を裂く高音を感じ取る。


 その音が最高潮に達した時、正面から砕けた窓。



 赤い透明の膜を前面に張った青年。

 その背にかじりついた少女と共に、転がってくる。


 続けて、その横の窓から、全身を縮めて突入してくる豹頭の蛮族。

 こちらは、生身のまま。



「………!?」


 まなじりを決して驚愕する、ブリッジの面々。


 砕けたガラスの破片が、舞った着物の裾に巻き取られて吹き飛ぶ。



(犬族にできて、ザナナに出来ぬことなど―――)


 そして鋭く左右に伸びて散り踊る、ザナナの後ろ手にした白槍。

 彼はフィンデルの頼みを思い起こしながら、ブリッジの両脇に備えられた念通版を一気にほふる。


 続けて両腕を頭上に上げ、槍を大回転させて咆哮すると、念通士達は途端に縮み上がった。


 驚く彼等に畳みかけるよう、突如、黄色い粒子が空気中に発生して浮く。



「《源・フェルー・ド》!!」


 全身の毛がよだつ、あまりにも大きな圧力と光。



「―――ッ!!」


 今度は中央のファグベールも筆頭に。

 全搭乗員が大きく目を見開き、体を大きく仰け反らす。



 わずかな時を経て、天井から多くの埃が落ちた。

 背後から吹き込む風。


 振り向けば、そこには大穴と外の景色が広がっている。


 そして、目線を前に戻すと、少女は細腕を前にしたまま自分達に向けていた。

 歴戦の将もこれには、ただ唖然とするしかない。



「…どうした……?

 鳩が、豆鉄砲食らったような顔してよ…」


 それまで床に四肢を付け、衝撃の痛みに悶えていたが、髪型を両手で直しながら立ち上がる戒。

そして、手にしていた赤い十字架を胸元にしまい、全員を見回して言う。



「…元は、てめーらが先に使った作戦じゃねえか。

 あ?」


 憎々しい口調だった。



「……小僧…!!」


 憤怒の唸りを顔中の血管に踊らせて、ファグベールが一歩踏み出す。


 対する戒は、その必死な様子をあざけるように。



「慌てるな、じじい!!」


 哄笑を浮かべながら、片手を広げて前にかざした。



「…?」


 腰に下げた剣の柄に手をかけたまま、動きを止める老将。



「この俺様が、何の準備も無く、てめえらの猿真似をすると思うか?

 とくと、見ろ。」


 そう言い放った彼の全身を、ファグベールは初めてまなこを凝らして見た。


 青年の腰元に巻かれて垂れ下がっている、一本の綱。

 見れば、脇の少女も同様である。



「…いかん!! 逃すな―――」


 唾を散らして叫んだ刹那、綱に引かれて、ブリッジ内の床を擦りながら外へと引きずられる二人。

 その身体に繋がれた長い綱の先は、ずっと上空を飛ぶ戦闘騎へ伸びている。


 彼等は突入した窓からそのまま飛び出し、その後を追って豹頭も跳ぶ。



「つかんで!!」


 彼に向かって手を伸ばす世羅。

 ザナナはそれを強く握り締め、もう一方の手を蛇のようにたわめく綱へ絡ませて固定した。



 それらを上から確認したコルツは、上昇を止め、まんまと敵艦の死角へと逃れていった。


 ごくわずかな後、歓喜の雄叫びが戦場に小さく鳴り響いた。





 一方。

 黒華の者達は、空に消えた三人を見上げた姿勢で、暫し呆然としたままだった。



「……被害は…?」


 まずは怒りを頭の端に追いやり、極力冷静に努めて声を振り絞るファグベール。



「ブリッジからの砲身操作、索敵が不能!!

 加えて……!」


 そして、背後の風穴を見詰める念通士の一人。



「……おそらく、長くは飛べません!」


「まだまだだ!!」


 一喝。

 ファグベールは、さらなる指示を下す。



「いまだに姿が見えんということは、ルベランセは崖下に潜んでおる!

 ならば上昇し、こちらから発見して先手で撃つ!!

 主砲は手動で用意!!」


 逆境の鼓舞は慣れていた。

 老練な彼の言葉に、ここまで従っていた黒華の者達も良く応え、威勢を持ち直す。



「手動だ!

 手動で動かせ!!」


 声通管に向かって叫ぶ、念通士。

 その意気を見て、ファグベールは満足そうに前を向いた。



 逃がした戒達には一瞥もくれず、ただ進む飛翔艦。


 高い岩台も草木も一片も無い、平たい荒野を抜け。

 その先に大地を横に裂いた崖へと差し掛かる。



(ここだ…この崖下……!

 もはや、隠れるべき場所は、このあたりしか無い……!!)


 ファグベールがそう確信した時。


 突然、眼下の地表に穴が開き、土がはじけ飛んだ。

 斜めに射出された砲弾は、旗艦センデルホーンの下腹を直撃する。



「!?」


 弾道から見て、崖下から貫通した一撃に相違なかった。



(…な………?)


 死角である時、念通術の索敵のみを当てにした砲撃は現実的でない。


 闇雲に大砲を撃つことで、自分がいる位置を相手に知らせることは下策。

 それが、空戦の定石セオリーである。


 ゆえに飛翔艦同士の戦闘は、互いに目視してからが勝負というのが常だった。



(…なぜ……こちらの位置が……知れている?)


 茫然とした視界に、陽の光と、天空の青を反射した河川が入り込んでくる。

 その水の表面に映るのは、自艦の先端部。



(…しまった…!

 河を…鏡に…!!)


 傾く艦体。

 それを前に、ついにルベランセが崖下から姿を現す。


 ただし、それ以上の攻撃は無く、加速するのが見えた。

 出鼻を挫いたにもかかわらず、逃げの一本槍である。


 ルベランセもまた限界であり、正面切って挑むほどの余力は無い。

 老将には、大いに伝わるものがあった。



 しかし、ここで敵の眼前を突っ切ってまで逃げるのは、明らかに失策。



「…こちらの主砲どうした!

 横っ腹に当ててやれ!!」


 ファグベールは経験から、自然と右手を振りかざしていた。





 飛翔艦最下部。


 使命を帯びた砲手が、ある一画に駆け込み、傍の柱に剥き出しになった歯車にL字のクランクを入れて回す。


 彼を乗せたまま砲台が旋回し、照準と向きがルベランセに合った。


 続けて、数人がかりで、砲身に巨大な砲弾を込める兵士達。

 十分な訓練も無く、ぎこちない動きだった。



「早くどけっ!!」


 作業をようやく終えた彼等に、砲手が上から怒鳴る。

 同時に解除される安全装置。



 今まさに横腹を見せつけて東へ進行しているルベランセが、完全に射線に入る。

 躊躇は許されない。



「―――発射!!」


 合図と共に両手で、引き金となる固い装置を思い切り引く彼。

 巨大なバネと撃鉄が唸り、雷管の爆裂音を響かせて、轟弾は射出された。



 だが硝薬の匂いも嗅がないうち、砲手達は目を疑った。



 馬の曲乗りは話に聞こえど、戦闘騎の曲乗りなど、夢にも見たことがない。


 川を流れる木の葉のように、すい、と視界の脇から流れ出た男。

 彼は操縦桿に片足首をかけたまま逆向きにぶら下がり、構えた黄金の拳銃を自分へと真っ直ぐ向けている。



(…この『報復の策』の締めは、僕だ。

 プレゼントは倍返しってのが…常識でしょ―――)


 弾を放つ、ロディの微笑。


 砲身に吸い込まれる赤い一線が、まだその内部を駆けている弾頭に触れ、乾いた音を響かせた。





 二発の轟音。

 そして振動。


 初めの方は、明らかに自砲が発射された時に発生した『それ』と分かる。


 だが、それに重なるようにして続けざまに聞こえた音。

 それは初弾より遥かに大きく、衝撃も大きい。


 艦体が、今まさに真横に向かって傾いていく。



「………!?」


 目の前を行くルベランセが無傷であることを目の当たりにながら、ファグベールは思考を完全に止めていた。

 ブリッジ内の適当な突起に指をかけ、大きな巨体が転がらないよう支えるだけで精一杯である。



「総大将!

 脱出を……!!」


「……脱出…だと?」


 脇の騎士の当然の進言に、老将は繰り返して、口を歪ませた。



「追撃は、味方に任せましょう!」


 また別の者が北西の空を指差す。



「おお……」


 それを見て、歓喜の言を洩らすファグベール。



 それらは北部で陽動されていた、味方の飛翔艦。

 先の報せに応え、ルベランセを捕縛せんと、敢然たる勢いでこの空域まで戻ってきたのである。



「あ、あれを!!」


 しかし、別の誰かが声を上げた。

 東の空から迫り来る、一団。


 それは、飛翔艦とおびただしい数の戦闘騎であった。





「うぅ……伏兵か!?」


 リードが唸る。


 フィンデルも前傾して、前方の一団に臨んだ。



 脇では広がりきった花弁に成り果てている敵艦の主砲。


 今、この戦場を支配しているのは自分であり、モンスロンの前策である。

 相手に、この上を行く策は無い。


 彼女はそう信じて疑っていなかった。



 正面から悠然と押し寄せてくる一団。

 目を凝らし、やがてその先端の艦に掲げられた紅の旗を確認するフィンデル。



「……あれは…タンダニアの艦隊…。」


 そして彼女は呟き、全身の力を抜いて艦長席に沈んだ。





「…タンダニア紅甲騎士団だと…!」


 拳を床に打ち付けるファグベール。



「…もはや、これまで。

 ただちに、全軍撤退を各艦に通達せよ。」


 ここで中王騎士団の姿を晒すわけにはいかない。

 彼の命令で、念通士達が無言で作業に入る中。



「―――何をされるのです!」


 腰から抜いた剣の刃を、己の首に付きつけるファグベールに、傍にいた者達が群がる。



「離さんか! この度の失敗は我が血で拭う!!」


「只今、脱出用の戦闘騎を用意させております!」


「…生きて、これ以上の恥をさらせと言うのか!?」


「小団長の御命は、恥で捨てられるほど軽くありません。」


 ファグベールの気骨がうつったのであろうか。


 僅かな錬兵の時間だったにも関わらず、黒華の騎士達の顔は見違えていた。

 今では本来の部下である赤華のそれと、何ら遜色が無い。



「諸君等は……」


「我々は、もはや逃げられぬこの旗艦を川底に沈めるという任務が。」


 逃げようともせず、口々に言う。



「…この首が、一兵卒のものであれば!!」



 彼等の言葉を聞き容れた老将は、己の頭を血が出るまで何べんも殴りつけ。


 両脇を抱えられて脱出する最中もずっと、目の前の艦隊に埋もれていくルベランセに向かって慟哭していたという。







◆ ◆



◆ ◆



 レイザンピーク自治街。


 そこは不毛の荒野に囲まれながらも、タンダニアと西方諸国を結ぶ玄関口として、交易で栄えていた。


 だが街そのものの防衛力は皆無であり、外からの様々な脅威に対しては、国境付近に駐屯しているタンダニアの騎士団に

完全に依存している。



 そのタンダニア本土から街の中心を貫き、西へと伸びている赤黒い道は、特に『血道サ・ラーク』と呼ばれていた。

 アルドの叛乱直後、凶獣の跋扈ばっこする未開の土地を、タンダニス王らが切り拓いた道である。



 中王都市の面々は、自らの目でそれらを見留めた時、ようやく心から安堵することが出来た。



◆ ◆



 まずはじめ、ルベランセと戒達の戦闘騎が、タンダニア紅甲騎士団にそのまま保護される形となり、

この街へと強制的に駐留させられた。


 戦場に取り残されたままになっていたバーグとマルリッパは、非常な苦戦を強いられていたものの、

相手側の急な撤退により一命を取りとめ、末にルベランセとの合流を果たしたのである。



 そして疲れ果てた彼等は、喜びを分かち合う余裕も無く。

 瞬く間に夜を眠り明かしてしまった。



 だが、そんな僅かな休息にもかかわらず、次の日の早朝から出立を企てたのはコルツとマルリッパであった。


 彼等の部隊で唯一残った機体、リッツァー・ゲルガを適当に修繕した後、早速乗り込む二人。



「何も、そんなに焦らなくてもいいじゃないか。」


 操縦役のマルリッパは、出発の寸前まで愚痴をこぼしていた。



「こうしている間も、俺の機体が荒野で空っ風にさらされているんだぞ。」


 修理道具に埋もれるようにして、後部座席から顔を出すコルツ。



「…それに……仲間の墓も作ってやらねえとな…」


「え?」


 予想だにしない彼の言葉に、マルリッパは思わず聞き返した。



「いいから、早く行くぞ。」


 表情に複雑な照れを浮かべつつ、コルツはベルトを締める。



「…じゃあ……。

 そういうわけですので、僕達は機体を回収してから、そのまま中王都市に帰ります。

 簡単な報告は、こっちでやっておきますから。

 艦長さんや他の皆さんにも、よろしく伝えてください。」


「おう。

 くれぐれも気をつけてな。」


 ちょうどその傍で座り込み、朝日を浴びていたバーグが、そんな二人の見送り役となった。



「なにか…忘れ物?」


 だが離陸の間際まで、注意深く周囲を見回しているコルツに、マルリッパが訊く。

 辺りにはまだ、他の人間の姿は無い。



「いや……出してくれ。」


 気のせいではない。


 やはり彼の物腰は柔らかくなっていた。

 戦いとは別に、何かの成長を遂げたのかもしれない。


 そんなことを嬉しく思いながら、マルリッパがゴーグルを装着する。



 煙草をふかしながら、それに手を振るバーグ。

 彼は戦闘騎が消えていく空を見上げたまま寝そべり、それからずっと、何も無い遠くの地平線を眺めていた。





「まずは、陛下にお目通りを願いたい。」


「……まさか。

 ………タンダニス王に?」


 一方。

 タンダニア側の使者から掛けられた一言に、度肝を抜かれるフィンデル。



 ルベランセが駐留したすぐ脇に帷幕が設けられ、艦の代表者として彼女はそこへと招かれていた。


 薄暗い幕中で待っていた人物。

 それは国境警備の兵士かと思いきや、意外にも女性で、しかも彼女は『タンダニア親衛隊長』のアリアネと名乗った。



 だが、物々しい役職とは裏腹に彼女の外見は可憐な乙女であり。


 装飾を結んだ、亜麻色のショートヘアー。

 そして白い肌は、およそ戦場に似つかわしくない。


 上半身は重厚な真紅の鎧。

 だが、下は純白のフレアスカートという麗しさで、腿の部分からは、完全に素足をさらしている。


 そんなアンバランスな彼女のいでたちに、フィンデルは若干、気後れした。



「…なにか?」


 そんな彼女の目線に対して不思議そうに訊ねる、当のアリアネ。



「あ……いえ!

 ところで、何故、タンダニス王に直接?」


 フィンデルは慌てて返した。



「実は、要人の亡命が行われるとは聞いておりませんでした。

 それゆえ、私だけでは判断を下せないと思いまして。」


「…………。」


「無論、こちらが中王都市の軍艦であるということは疑う余地がありません。

 ただ、その件に限りましては、我が主に直接判断をいただいた方が話が早い、と。」


「しかし……直接会うとなると、あまりにも時間がかかりすぎるのでは…」


「いいえ。 陛下は現在、国境付近の宮殿におわします。

 馬車を用いて、半日もかかりません。」


「……そこまで気を遣っていただけるのなら、行かないわけには参りませんね…」


 フィンデルは恐縮して、両膝を握りながら下を向いた。

 だが、すぐにその表情を曇らせる。



「…しかし、わずかの間といえ、ここは安全でしょうか。

 今の我々では、満足な警備も用意出来ませんし…」


「貴艦の安全は、心配に及びません。」


 帷幕の入り口に立つ衛兵に合図をする彼女。

 するとすぐに、一人の青年が呼ばれて幕内に入ることとなった。



「彼はアイザックの傭兵団の者です。

 ちょうど、この地に滞在しておりましたので、彼等に貴艦の警護を依頼しようと思っております。」



 それは大陸で最も有能とされ、国家間におけるしがらみが少なく、極めて中立的な傭兵団である。

 このようなものを用意されれば、意見のしようが無かった。



「…モンスロン卿の待遇はどうなりますか?

 怪我を負っていますので、あの方だけは早急に充分な治療を受けさせたいのですが…」


「まずはこの街の郊外、陛下の親戚にあたるディオール伯のお屋敷に。

 あそこなら警備も厳重で、療養も可能です。」


 さらに続けられる、信頼できる名。

 ようやく、フィンデルは胸を撫で下ろすことが出来た。


 そこで話が一段落したのを見計らい、先程呼ばれた青年が何かを言おうと口を開きかける。



「…艦長殿の了承が得れた。

 君達と契約しよう。」


 それを察したアリアネの一言に、青年は微笑み、歩み寄った。



「よろしくお願いいたします。」


「こちらこそ。」


 軽く握手を交わす、彼とフィンデルの両者。


 そこから青年は、加えて深く礼をしてから椅子に腰かけた。

 張った背筋と真っ直ぐに向いた顔からは、清廉さと潔癖な印象を受ける。



「彼は若輩ながら一団を任されております、ミラ=ホロ殿。

 こちらはルベランセの艦長…」


「―――おい、フィンデル。」


 アリアネによる、互いの紹介の最中。

 そこで衛兵を押しのけ、幕を乱暴に上げて、ずかずかと場に乱入して来たのは戒だった。



「これから、どうすんだ。」


「ええ、今その段取りを取っていたのよ…」


「彼は?」


 すぐに、アリアネは彼に目をつけて訊いた。

 ルベランセの中で最も厄介な人物への視線に、フィンデルは返答に困り果てる。



「…彼はクレインの修道士です。

 ちょっとした事情で…この艦に…」


「それは素晴らしい。

 陛下への謁見の際は、ぜひ彼にも出席を。」


「え!?」


 フィンデルは思わず声を上げた。



「何も驚かれることは無いでしょう。

 クレインの修道士が乗っているというのなら、さらに信用が増すことと思いますが。」


「そ…それは余計に……こじれる…気が…しないでも…」


 もごもごと口の中で言葉を呟くフィンデル。

 だが、もはや『その気』になっているアリアネの圧力に勝つことは容易ではなかった。



「さっきから聞いてりゃ、何を偉そうに勝手に決めてやがる、この小娘…」


 そして予想どおり、彼女に向かって噛み付こうとする戒。



「そ、それでは、必ず二人で一緒に参りますので!!」


 フィンデルは慌てて、彼の口を押さえ込んで叫んだ。



「……では、失礼いたします。

 そちらの準備が出来次第、声をおかけ下さい。」


 アリアネは満足そうに立ち上がり、去っていく。



「……。」


 残されたフィンデルは、脇の戒からただならぬ殺気を感じていた。


 強引に話を進めすぎたかもしれない。

 だが、本国から離れた地で孤立しているルベランセの状況を思えば、個人の意思などは二の次である。



 そうしているうち、先のアリアネと入れ替わるようにして、戒の後をつけて来た世羅が帷幕を覗いた。



 その彼女の姿を一目見て。

 それまで黙って席についていたアイザックの青年が、急に椅子を飛ばして立ち上がる。



「―――君は神呪シンジュの子……!?」


「?」


 きょとんとしたまま、彼を凝視する世羅。

 戒とフィンデルもまた同様であった。



「俺だよ、憶えていないか?」


 早口で首から下げたメダルを取り出し、それを見せる青年。



「え……。

 隊長……?」


 そこでようやく、世羅も思い出したようだった。


 戒もすぐに、鮮明な記憶に思いを馳せる。



 世羅と初めて出会ったレバーナの港街。

 その周辺にある森林地帯での出来事だった。


 大雨で結界が崩れ、凶獣があふれ出た時。

 それを退治したのも彼等、アイザックの傭兵団。


 当時の世羅は、それに所属していたのである。



「この広い大陸で、何という偶然だ……!

 ああ、神様!!」


 声を高調させる青年。

 戒は彼の人相までは深く記憶していなかったが、その口ぶりから何となく二人の関係を知った。



「実は、私達は旧知の仲なのです。

 ちょっと、彼女をお借りしてもよろしいでしょうか。」


 さらに顔を上気させて、息も荒く申し出る青年。



「…彼女は軍人ではありませんので…私の了承はいらないですよ。」


 その勢いに、フィンデルが苦笑しながら答える。



「ちょっと話がしたい。

 いいかな?」


「…うん。」


 途端、世羅の手を強引に取る青年。

 彼女も深慮せずに、まるで近所の庭にでも遊びに行くように無防備に同意してしまっている。


 戒はその様子に何か引っかかっていたが、すぐに思い出したようにフィンデルに向き直った。



「ところで、おまえ。

 …あの最後の作戦だけどよ…」


 そう切り出した彼に、すぐに顔を引き締める彼女。



「ザナナの奴に……あんな危険な役目を回しやがって。」


 両のポケットに手を入れたまま、戒は睨んだ。

 対するフィンデルは、何かを言おうと口をわずかに開く。



「今回は偶然、俺様が駆けつけてやったから良かったようなものを…」


 だが彼は構わず、一人で続けた。



「とにかく、お前が初めからしっかり指揮を執れていれば、楽勝だったんだ。

 今度からは気をつけろ。 分かったな?」


 そして指を突きつけ、一通りの言葉を吐き出し終えると、すぐに踵を返して背を向ける。



「あの……それだけ?」


「もっと、文句を言って欲しいのか?」


 再び睨みつける彼に対し、彼女は大きく首を横に振った。

 きつい一撃を覚悟していたフィンデルは安心したが、そこで重要なことを思い出して立ち上がる。



「…あの、戒くん。」


 幕を出る直前にかけられた言葉に、また足を一旦止め、彼は彼女の方へゆっくりと向いた。



「ありがとう。

 私の頭の傷を治してくれたのよね。」


「なにを今さら言ってんだ…。

 お前あってのルベランセだろ。」


 彼は呆れた顔で言い残し、間もなく去っていく。



「…かなわないわね……。」


 椅子に再び座り直し、ようやく休息につくフィンデル。

 慣れない他国との交渉などは、疲労した体に堪えるものだった。



 そしてことさら、時間の感覚。

 タンダニア艦隊に保護されるまでは、その一秒一秒が恐ろしく長く感じたものだが、今では急な坂道を転げ落ちるように

間が無いものに感じる。


 フィンデルは卓に肘をついて焦燥を鎮め、その指先を額の前で交わした。



 ―――別れの時は、刻一刻と近付いている。





 到着後に多忙を極めたのは艦長だけでない。

 ブリッジ破損の処置にあたる、リードをはじめとした仕官達。


 それ以外の人員も、ただ休息を続けるわけにはいかなかった。

 ガッチャの帰還するブブト公国の一団が、このわずか北方、民間の発着場で既に待機しているという報せが届いたのである。


 彼等への協力は本来の目的の副儀的なものだが、無闇に邪険にするわけもいかず、ルベランセの格納庫は

にわかに忙しくなっていた。



「えっと、あの……確か契約の方、破棄してしまったんですよね…?」


 戦闘騎の部品を両手に抱えたまま、パンリが素朴な疑問を投げかける。



「あはは、それがねぇ…」


 笑顔で一枚の真新しい紙を取り出すロディ。



「今回の僕の働きで、より一層、雇いたくなったんだって。

 前回の三倍の値段で再契約さ。」


 そして、離れた所で輸送用の装甲馬車の手配を仕切っているガッチャを見ながら言った。

 これで当初の予定どおり、数時間後には彼も、中王都市軍から買い入れた戦闘騎と共に旅路に出ることとなるだろう。



「……最初から狙ってたんですか?」


「さぁて、どうだか……。」


 彼は含みをもたせた笑みと共に、肩をすくめて言った。



「あのガッチャって人、随分いい加減じゃない?

 あんなに契約とか規則とか、うるさかったくせに。」


 そこへ、パンリと同様に作業を手伝っていたシュナが声をかける。



「仕方ないでしょ。

 あれだけの働きを見せられちゃあ。」


 後ろから口を挟むミーサ。



「あんたは錆だらけの包丁や、穴の空いた鍋でまともな料理作れる?

 ロディがやったのは、そういうことよ。」


「ふーん……」


「この機を逃したら、あれだけの操縦士とは、二度と出会えないでしょうね。」


 彼女の言葉に、シュナは小刻みに首を頷かせながら黙った。



「お褒めいただき、恐縮です。」


 いつの間にか二人の背後に回り、歯を見せて笑いながら、双方の尻に向かって手を伸ばすロディ。

 だが、その両手はスパナと鉄拳によって阻止されることとなる。



「ただ……この性格さえ許せれば、ね…。」


 そして身を屈めて悶絶する彼を見下ろしながら、二人は同時に呟いた。





 ルベランセの停留は、商業広場の片隅を使わせてもらっていた。


 そこは主に交易の荷降ろしに使用する区画であり、そのためか、裏手には不要になった空の木箱などが

無造作に山積みになっている。


 その内の一つに世羅は腰掛けて、彼は背をもたれていた。



「えっと……隊長…」


「名前で呼んでくれよ。

 ミラでいい。」


「ミラ…。」


 世羅は言うとおりに呟く。

 照れや儀礼を抜きにして、その名前を本当に忘れていただけなのだが、青年はまるで気付いていない。



「俺があげたメダル、大事にしてくれているか?

 アイザックには、世界的な信用がある。

 あれは色々な局面で便えただろ?」


「ん……」


 頷いた世羅は、自分の全身をまさぐって探した。



「えっとね……どこ…かな…」


 だが直後、誤魔化して笑う彼女。



(……おいおい…。

 失くしたのかよ…。)


 戒が帷幕から出た後。

 二人の様子を偶然に発見した彼は、高く積まれた貨物箱の裏に身を隠し、その様子をうかがっていた。



 だが、終始とぼけた態度の世羅に、思わず顔面を片手で覆う。


 悪気は無いとはいえ、相手にしてみればショックであろう。



「実は……君に話したいことがあるんだ。」


 しかし意外にも、彼はそれを全くものともせず、明るい表情のまま世羅と向き合っていた。



「ボクに?」


 彼女は訊いた。

 一旦間を置き、喉を鳴らす彼。



「良かったら、また一緒に…旅をしないか?」


「?」


「君が飛翔艦乗りになりたいってことは、前に聞いた。

 だから、その…。

 ………俺が、飛翔艦乗りにしてやる。」


 さらに、ミラは言い切る。


 彼の急な申し出に、世羅はしばらく呆然としていた。

 勿論、それを隠れて監視していた戒も、顎が外れるくらいに大口を開けている。



「突然なことで、すまない。

 だが、どうしても伝えたくて。」


 その顔は大真面目だった。



「別れてから気付くもんだよな、こういう感情は。

 わずかな間の一緒の旅だったけど…何ていうか……忘れられなくて。

 俺は、今までアイザックで剣士として身を立ててきたけど…それを全部捨ててもいいと思っている。」


「……ボクを…飛翔艦乗りにしてくれるの?」


「ああ。

 男に二言は無い。」


「…それで……ミラはどうするの?」


「ん?」


 思いがけない質問に、彼は目を丸くした。



「そうだな……俺は、一介の剣士であれば、それでいい。」


「………。」


 世羅はふと視線を落とし、両膝を抱えた。



「あ、いや……そんなに重く考えないでくれよ。

 嫌だったら、断ってくれ。

 まだ時間もあるだろうし…ゆっくりと考えて、答えを出してくれればいいんだ―――」





「―――とんでもない所に出くわしちまったな…」


「うぉっ!?」


 急に後ろから湧いて出てきたバーグに驚き、飛び退く戒。



「なに驚いてんだ。」


 同様に身を屈めながら、バーグは近寄る。



「ヒゲ……!

 何で、お前がここにいるんだ。」


 戒は姿勢を戻して、不満そうに小声を洩らした。



「煙草を吸おうと思ってな。

 火薬のある作業場だと、色々とうるせえからよ。

 それより…」


 不意に、バーグは前に出た。



「……こいつは、けしからんよなぁ。」


 その背には、いつもの大剣が装備されている。



「…戒。

 お前がボヤボヤしているから、ああいう悪い虫が寄ってくるんだぞ。

 ……どれ…代わりに、おじさんがいっちょ『ヤキ』でも入れてやる。」


「お、おい……!」


 泡を食って、身を乗り出す戒。

 バーグは片手で背の大剣の柄を取りながら、二人に近付いていくのである。



(あのバカ…!

 何をするつもりだ……?)


 戒は仕方なく体を戻して、再び状況を見守ることにした。



「……バーグ…。」


 やがて、ゆらゆらと近付いて来る彼に気付き、呟く世羅。



「お前さん、アイザックなんだって?」


 片方の眉と口角の端を上げて、詰問する彼。


 対するミラは、その態度に何かを汲み取ったらしい。

 その穏やかな目つきを、途端に険しく変えた。



「護衛のことは、さっき艦長から話は聞いたぜ。

 だが悪いが、腕を試させてもらえないか。」


「…失礼。

 依頼主からは、もう了承は得ているので。」


「ここを任せられるほど、強いのかって聞いているんだよ。」


 バーグの強い言葉に、ミラは姿勢を正す。



「俺も元傭兵でね。

 つまり…」


「要は、強さの証明が出来れば、よろしいということでしょうか。」


「流石は、隊長さん。

 話が分かるじゃねえか。」


 互いに剣を抜く二人。



「喧嘩…するの?」


 世羅の問いに、バーグはミラを睨んだまま。



「いいや、これは剣術の稽古のようなもんだ。」


 笑って答える。


 それを聞いて、世羅も興味半分で二人の様子を見守る姿勢をとった。



「……ヒゲの野郎、単に自分が暴れたいだけじゃねえのか。」


 身を隠す箱にかじりつきながら、戒は半眼で感想を呟く。

 しかし二人とも紛れも無く真剣を抜いていて、否が応でも周辺の緊張は高まっていた。



(いっそのこと、相討ちして死ね。

 アホ共…)


 ふとした考えが過ぎると同時。


 金属をかち合わせる音が鳴り響いた。

 視線を戻すと、バーグの振り下ろした一撃は、青年が頭上に構えた剣に落ちている。



「……ヤバくなったら、寸止めしてやるよ。」


 そのままぎりぎりと、自分の得物を相手の刃に噛み合わせたまま力を込めて、肘を震わせる彼。



「なるほど。

 真剣での稽古とは……粋ですね。」


 ミラは笑い、その勢いを逸らして剣を弾き、退いて間合いをとる。

 そして、息を大きく吸った後、諸手もろてで上段に構えるのであった。



「いい型だ。

 どこで習った?」


「…中王都市、九報雷亭道場。

 ……免許皆伝。」


「いいね。

 いかにも生ぬるい、剣術ごっこの匂いがしやがる。」


 バーグが目を光らせてわらう。



「せいっ!!」


 今度は、ミラからの剣閃。

 バーグは剣を縦にしてそれを防ぐ。


 一合、そして一合。

 次々と技を繰り返す彼等。



「!!」


 やがて同等の衝撃に、二人は同時に手を痺らせる。



「昔から、アイザックの奴等は気にいらねえんだ…。

 いかにも『自分たちが正統派』ってツラして、集団で仕事をかすめていきやがる。

 その上、民衆からも慕われてな……!」


 わざと至近距離でつばを合わせ、蹴りを放つバーグ。

 だが、相手は足をしっかりと折り曲げて、膝の堅い部分でそれを防御していた。



「あなたは…元傭兵だと言いましたね……!」


「まあな!!」


 返される刃を半身でかわし、反撃に全体重を乗せるバーグ。

 それをも、ミラは受け止めた。



「そっちの、いかつい方を抜きな。

 遠慮せずに。」


 再び刃を合わせたまま、バーグはミラの腰に残された一振りに目をつけながら言った。

 幅広の鞘に包まれ、その鍔は異様に大きく、拳全体を覆えるようになっている。


 おそらく特注品であろう。



「こちらは……人間用ではないので。」


 淡々と答える彼。


 その余裕が憎らしく思え、バーグはすぐに大剣の連打を放つ。



「くっ!!」


 その粗暴な攻撃を、巧みにかわしていくミラ。



「……とどめだ!!」


 最後に剣を頭上に振り上げて、大きく溜めをつくるバーグの巨体。

 隙だらけの姿勢だが、迂闊に手を出すことは出来なかった。


 覚悟を決めたミラは、両の手で柄を握り締め、真っ向から振り下ろされる大剣に耐える。



「………!」


 傍で見ていた世羅のリボンが揺れた。


 その眼前で。

 青年は渾身の一撃を、地に膝すら付かずに受け止めている。


 噛み合わせた奥歯を解き、剣を下ろすバーグ。

 同様に、構えを解くミラ。



「いやいや!

 本当に強えじゃねえか、兄ちゃんよ!!」


 一転して、バーグは嬉しそうに相手の肩に腕を回した。



「さすがは、アイザック。

 精鋭揃いは昔から変わらねえな。

 しかも、あんたが仕切る部隊なら、ここを守らせても安心だ。

 気に入ったぜ。 いっちょ頼むわ。」


 その態度は、さっきまでとは嘘のように全くの対照的である。



(あの単細胞野郎が。

 何が、ヤキをいれてやるだ。

 ヤキが回ってんのはてめえだろ……)


 不満そうに立ち上がり、ようやく彼等の前に姿を見せる戒。



「戒?」


 世羅はそれにいち早く気付き、二人は向かい合った。



「貴方は先程の…修道士さん。」


「……チッ。」


 だが、その視界に入る爽やかなミラの雰囲気に、戒は地に唾して悪態をつく。



「なあ、戒。

 この兄ちゃん、けっこう強えぞ。

 これなら任せても大丈夫そうだな。

 ルベランセも世羅も……おぶっ!!」


 軽い口調で言うバーグの喉に、戒の手刀がめり込んだ。



「いつまでサボってんのよ、バーグ!!」


 さらにそこでタイミング良く、遠くの柵越しからミーサの声が響いた。



「お、やっべえ……そろそろ出発か。

 もう行かなきゃな……。」


「?」


 呟くバーグを、世羅が見上げる。



「これから、ロディ達と一緒に北まで行ってくるからよ。

 まあ、本気で警護の方を頼むぜ。」


 そんな彼女とミラの顔を交互に見て、彼は告げた。



「バーグも行っちゃうの!?」


「あ、いやいや!!」


 心配そうな顔を露にする世羅に、バーグは大袈裟に手を振る。



「人手が足りなくてな、ミーサが手伝いに行くんだと。

 それで、このまえ遊びに行った時、あいつだけ置いて行っちまったろ?

 その埋め合わせで、俺も一緒に手伝ってやることにしたんだ…」


 先の戦闘とは全く対照的、疲れた顔で肩を落とす彼。



「俺達は、向こうでの作業を終えればすぐ帰ってくる。

 でもまあ、ロディの奴には当分会えないだろうな。」


「…大変だ!!」


 座っていた箱から降りて、急に駆け出す世羅。

 それも、先程の帷幕へと向かって行く。



「おい、遊びで入るんじゃねえぞ!

 あいつだって疲れてるんだ、ゆっくりさせてやれ。」


 そんな戒の静止も聞かずに、彼女は幕中へ潜っていった。



「世羅とは…どういう関係なのですか。」


 傍らでミラが訊いた。



「てめえの考えているような関係じゃねえから、安心しろ。」


 口元を歪ませて、戒は答える。



「そうですか……。

 では、私も警護の用意がありますので…」


 ミラは剣を収め、会釈してその場を去った。


 腰に下げるため、二本の剣に繋がれた鉄鎖。

 それらが重なり合う音が、戒にとっては妙に耳障りだった。





「フィンデル。

 ロディが行くんだって。」


「そう……」


 わざわざ伝えてくれた世羅に対し、彼女は気の無い言葉を返した。



「いいの?」


 世羅はじっと見つめている。



「…どうして、そんなことを聞くのかしら?」


 フィンデルは椅子から離れ、彼女の目線までしゃがみこんだ。



「……『ありがとう』って、ちゃんと伝えた方がいいよ。

 ボク、戒に何も言えなかった時、ものすごく後悔したもの。」


 その言葉を聞いた時、フィンデルの右目からは予期せずに、一筋の涙が滑っていた。



「どうしたの……フィンデル!?」


「……馬鹿みたいだわ。

 何もかも、馬鹿みたい。」


 彼女は頬を拭って、また笑いかけた。



「世羅ちゃんの澄んだ瞳は鏡ね。

 見ていると、意地を張っている馬鹿な自分に気付かされるの。

 ……ありがとう。」


 彼女を軽く抱きしめ、後ろの幕を上げる。


 ちょうど真上に昇った陽の光が、燦々(さんさん)と輝いていた。



「やあ、艦長……。」


 その陽を背に、目の前の影が揺れた。



「最後に挨拶をしようと思ってね。」


 それはまさに、いま会いに行こうとしていたロディであった。

 彼は初めて出逢った時と同じように、笑顔の絶えない優男のままだった。



「今回は本当にありがとうございました。

 艦を守ってくれたのは勿論……私を過去から解き放ってくれたのは、貴方です。」


 晴れ晴れとした彼女の表情と言葉に、ロディは少し驚いた顔を見せる。



「いい顔してる。

 素敵だ。」


「……そうでしょうか。」


 フィンデルは、自然と自分の髪に指を触れた。



「どうだい?

 戦うことは、まだ恐いかい?」


「…ええ、まだ少し。」


「君がもし道を踏み外し、暴君になったとしたら―――」


 ロディがおもむろに黄金の銃を抜いて構える。



「その時は、いつでも僕がやって来て、君を殺してあげる。

 だから……これからも思い切りやってみるといい。」


「…どうして貴方は…そんな無責任なことを言うんですか。」


 彼女の叱るような言葉に、彼は憂いを帯びた表情になった。



「だって、貴方には…撃つべきものがあるのでしょう?

 しかもそれは…自分の血を分けた子供かもしれなくて…。

 さらにこの上……他人の命を背負わすことなんて…出来るわけありません。」


「僕は本気だよ。」


「……私だって…」


 フィンデルは、そこで声を詰まらせた。


 その肩を軽く抱き寄せるロディ。



「今はお別れだけど……必ずまた逢えるよ。

 次こそ、僕を雇ってくれるとありがたいな。」


「考えておきます…。」


「手厳しいね。」


 彼は両手を腰に当てて、体を反らしながら笑う。



「ロディ殿!

 そろそろ出るだすよ!!」


 脇に止まる、装甲馬車。

 その中から、ガッチャの声が聞こえた。



「…じゃあ、また。」


 ロディは顔を寄せ、フィンデルの口元に自分の唇を近付けた。


 だが硬直する彼女の様子とその瞳を見て、彼もまた止まり。

 方向を変えて、耳元に口付けをする。



 そして名残惜しむようなことはせず、彼は素早く馬車の荷台に乗り込み、最前へと進んだ。



「……これからも思い切りやればいい…か。」


 ぬくもりの残る手の平を見つめ、独りで呟く彼。



「やれやれ……さよならのキスもさせてもらえないとはね。

 相当、僕も本気だよ。」


「…私どもの軍隊を鍛えるのも、それくらい本気で取り組んでもらいたいのだすが…」


 ようやく着席したロディの横で、汗を拭きながら訴えるガッチャ。



「うんうん、ところで……ブブド公国って、美人は多いのかな?」



 彼は両手を枕にして目を薄く閉じ、冗談交じりに訊ねるのだった。





「俺様達も、そろそろ出発しないとまずいだろ。」


 装甲馬車を見送ったまま放心していたフィンデルに、戒が見かねて声をかけた。



「…そうね。

 これ以上、タンダニアの方を待たせるわけにはいかないわ。」


「まったく勝手に決めやがって…。

 これでご馳走の一つでも出さなかったら、承知しねえからな…」


「―――え、ご馳走!?」


 その呟きに、後ろの帷幕から反応する声。


 二人は同時に顔を見合わせた。



◆ ◆



「……予定では、二人のはずでは?」


「いや…なんか……すみません。」


 不可解だと言わんばかりの態度のアリアネに対し、申し訳なさそうに答えるフィンデル。

 戒と共に連れて来た笑顔の世羅は、餌を待つ子犬のように尻尾を振っているような錯覚を受ける。



「…まあ、いいでしょう。

 どうぞ、こちらへ。」


 タンダニアが用意していたのは、小型の馬車だった。

 屋根も無い、人も三人乗るのがやっとの粗末な物である。


 まずは世羅が乗り込み、戒が続く。



「気をつけて行くんだぞ、世羅。」


 ミラは丁寧にも、それを見送りに来た。

 先程の軽装と違い、警備のため左上半身と腹部に鉄甲を装着して、顔も一層に引き締めている。



「外交に関わる重大な役目だ。

 防衛はくれぐれも慎重にお願いする。」


「たとえタンダニアの親衛隊がお相手でも、三日は持ちこたえられますよ。」


 アリアネの言葉に、ミラは大真面目な表情で答えた。

 彼の部隊と思われる20名ほどの屈強な男達も、既にそれぞれの持ち場についているのが見える。



 フィンデルはその喧騒の中、モンスロンと向かい合っていた。



「この度は、色々と取り計らっていただき……。

 艦長には、感謝の言葉もありません。」


 彼は、いつものように頭を掻きながら言う。



「それでは、これから我々がまずタンダニス王に拝謁します。

 そこで今件の裏がとれ次第、亡命の準備をとっていただきますので。

 それまでは、ディオール伯のお屋敷で待機を願います。」


「…この度の軍隊の犠牲は、私の不徳です。

 代わりと言ってはなんですが、亡命後の働きは必ずや…成功させます。

 いささか、月並みな言葉で申し訳ありませんが…。」


 儀礼的な言葉を真顔で全て言い終えてから、彼は笑った。



「貴女の水鏡の陣と報復の策……本当に見事でした。

 もっと兵法や軍事について、語り合いたかったですな。

 少々、名残惜しい。」


「…きっと別の機会がすぐに訪れます。

 私も、もっとゆっくり、貴方にお礼が言いたいですから。」


 フィンデルの言葉に、彼は暫し目を伏せて黙り込んだ。



「……しかし結局、最後まで訊ねられませんでしたね。

 私が何のため亡命するのか、気になりませんでしたか?」


「情報というものは、一人が知れば十人が知るのが常です。」


「…やはり、貴女で良かった。」


 彼が呟くと、彼女は会釈して、戒と世羅が乗る馬車へと進んでいく。



 モンスロンにも、別の馬車が待ち受けていた。

 反対側の、長い道を歩く。



 先を、真っ黒な物体が横切った。

 彼は足を止め、その方向を見る。



「さようなら、梅さん。」


 軽く挨拶して去る彼の様子を、梅は背中を丸くして凝視していた。


 黄色い瞳の中の黒目が、その小柄な体を映し、細長く収縮した。



◆ ◆



「…っもう!

 いったい、どういうことなのよ!!」


 両耳から湯気を噴き出す勢いで、仕事を終えた格納庫に突進してくるシュナ。



「聞いた?

 戒のやつ私達を差し置いて、艦長と宮殿で豪勢な食事だって。」


「はあ…世羅さんも一緒みたいでしたけど…」


 すれ違ったパンリを捕まえて、不満をぶちまける彼女。



「だいいち、あいつは中王都市の国民でもないし。

 正式な仕官でも無い、中途半端なくせに。

 いったい、どういう経緯なんだか…」


「……いいじゃないですか…。

 お二人でしたら…艦長の警護にもなりますし…」


「なんで、そんなに物分りがいいのよ。」


「えっ。」


「むかつくわ。

 ちょっと、来なさい。」


「えっえっ?」


 パンリの手を強引に引いて、彼女は格納庫を飛び出す。



「私達も対抗して、これから街へと繰り出して遊び倒すわよ。」


「??」


「あんただって、どうせ暇なんでしょ?」


「ええ…まあ…。

 でも、どうせなら、本屋とか寄っていただいけると有難いんですが…」


「考えておくわ。」


 早足で、厳重な警備の中を歩いていく。

 既に、駐屯区画の出入り口では、傭兵達が代わる代わる見張り番を置いていた。


 その彼等により、外出証明の札を受け取る二人。

 だが柵を出たすぐ付近で、右往左往と、さまよっている着物姿の男を発見する。



「あれ?

 ザナナさん…何やってるんですか。」


「む……。」


 呼びかけられた声に対し、紙切れを握り締めたまま振り向く豹頭。



「…『しょーとけーき』というものが、どこで手に入るのか、教えて欲しい。」


 シュナとパンリは、その口から最も似合わない語句が飛び出したことに狼狽した。



「こんな所じゃ、どう頑張っても、手に入らないですよ。

 街に行かなきゃ。」


「むむ……。」


「ちなみに、クリーム?」


 そして、さらに声を揃えて訊いてみる。



「わからん。

 赤くて、小さい果物が、乗っているらしい。」


「イチゴだ。」


 二人は、顔を見合わせて笑った。



「じゃあ、行きましょ。

 ザナナさんも一緒に。」


 軽く手をとるシュナ。



「いいですね。

 ぜひ行きましょう。」


 少し躊躇した彼の手を、さらにパンリも取る。


 澄み切った青空を背に、いまだ感じたことの無い風を身体に受けるザナナであった。



◆ ◆



「これより、タンダニア領です。」


 白馬で馬車に並走するアリアネが言った。



 国境を兼ねた質素な関所を抜けると、途端に緑の眩しい畑に囲まれる。

 そして緩やかな坂が、行く先に延々と続いていた。



 それから暫く、馬車は田舎道の土壌を進むことになった。

 そして暖かな陽気といつまでも変わらない風景に退屈し、戒は眠りに落ちていたが、不意に止まる馬の足に目を覚ます。


 見れば、前方を羊の群れが横切っていた。

 先導の牧民は馬車に向けて頭を下げた後、のんびりと仕事を続けている。



「親衛隊の前を横切らせるのか。」


 戒が声を上げた。



「タンダニアにおいては、民と農牧は宝なのです。

 何かおかしなことでも?」


「いいや……別に。」


 馬上から平然と答えるアリアネに、彼はそれきり口答えしなかった。



 隣に座っていた世羅とフィンデルは、それからも馬車の心地よい振動で眠りに入ったままだった。

 とりわけ、フィンデルは疲れが相当に溜まっていたらしく、時折、物凄いいびきをかいている。



 やがて斜面も中腹にさしかかると、それまでの風景には無かった建築物の丸型の屋根が、前方から見えてくる。

 小宮殿と呼ぶにふさわしい、慎ましくも古い建物であった。


 速度を上げた馬車は、すぐに小ぶりの門をくぐる。

 すると、そこでは一つの軍勢が道を挟んで左右に分かれ、待機していた。



 アリアネと同じく、紅い鎧を纏う女性達。

 彼女らが手にした棒を上下に揺する。

 すると、それらは大きな音と共に、大きな騎槍へと姿を変えた。


 先程までの緑の景色とは、うって変わって、物々しい光景である。



「……ん…」


 フィンデルも、漂う異様な気配に起こされた。



「よだれを拭いてから、降りろよ。」


 馬車を降りる直前、意地悪く忠告する戒。

 彼女はすぐにハンカチで口元を覆いながら、寝ぼけ顔で後に続く。



 そして最後に半分眠ったままの世羅が戒に両手で抱えられる恰好で馬車から降ろされ、三人はアリアネに導かれた。

 木で作られた正面の扉を開けると、古めかしい空気が鼻腔に入ってくる。



「……アリアネ様!」


 そこへ早速、血相を変えて走って来る女性。



「騒々しいぞ。

 国賓の方々の面前で。」


「す、すみません。 実は…」


 そこで初めてフィンデル達の目を気にしながら、その女性はアリアネに耳打ちをした。

 すると途端に、彼女まで顔を同様の色に変える。



「失礼、ここでお待ちいただけますか。

 少し火急の事態が…!」


 説明の言葉も程々に、駆け出すアリアネ。

 先の女性も、反対側の廊下へと駆けて行く。


 三人はあっという間に、勝手の分からない場所に置いていかれてしまった。



「何なんだ……?」

「さあ…」


 戒とフィンデルはお互いの嘆息を混じらせながら呟いた。


 同時。

 廊下の角に設置された巨大な植物の影から気配を覚え、世羅が目を見張る。


 そこから現れたのは、白いふんどしを腰に巻いた以外、一切何も纏っていない男。

 突然の裸体の登場に、フィンデルは思わず顔を背けた。



 ここが小宮殿でなければ、どこかの浮浪者と見紛うところだろう。



 だが冷静に見てみれば、まるで彫刻のように無駄の無い、隆々とした筋骨。

 そして胸元まで伸びた、艶やかな漆黒の顎髭。

 露出された肌の端々からは、不思議な気品を漂わせている。


 そんな黙とした視線が集まる中、男は薄目のまま片手に持った酒瓶をくわえて飲み干した。



「……おい、そこのおやじ…」


 戒が呼びかける。

 だが―――



「何じゃ、カイ。」


 逆に自分の名前を返されてしまったため、彼は閉口してしまった。



「…なんで、俺様の名前を…」


 戒が全てを訊く前に、男はまるで目線を違えて、廊下の奥を見据えていた。


 角を曲がって来るのは、真っ黒な顔をした白い毛の小猿。

 それは二足で立ち、その両手に酒瓶を抱えている。



「おかわりとは、気が利くのう。

 ほんに、カイは偉い子じゃ。」


 男は、その猿を慈しむように頭を撫でて褒めてやった。

 そして瓶を受け取ると、代わりに自分の持っていた空き瓶を渡す。


 どうやらカイとは、その猿の名前のようである。



「おまえも…使用人だろ。

 客が来たんだ、案内しろ。」


 その事実に、戒はあからさまに不快な顔を作って訊いた。



「客?

 それが事実なら、随分と、横柄な客人よのぅ。」


 男は彼の態度を一瞥して、酒瓶の蓋を抜く。



「すみません、我々は中王都市から来た者です。

 アリアネさんにここまで案内されたのですが、急な用事があったようで…」


 そのフィンデルの言葉を聞いて、男も警戒を解いたのか、改めて全員を見回した。



 緊張した面持ちのフィンデル。

 横の戒は腕を組んだまま、そっぽを向き。

 もの珍しそうに、男を見上げている世羅。



「タンダニス王に、何か御用か?」


 男はたずね、不意に近付いた。


 青年と呼ぶにはもっと年季の入った顔だったが、生気に溢れんばかりの健康的な日焼け肌。


 さらに相当の威丈夫で、戒よりも遥かに身長がある。

 それが見下ろすように迫って来た為に、三人は思わず身構えた。



「……まあいい。

 こちらへ来るがよかろう。」


 振り返って前を行く男。

 若干の抵抗があるものの、三人はそれに追従した。


 そんな中、脇の小猿が長い手を伸ばしたので、世羅も手を伸ばす。

 意外に強い握力だったが、彼女もそれを気に入ったようで、ずっと手を繋いで廊下を歩いていた。


 その微笑ましい様子を見て、フィンデルも肩の力を抜く。



 だが、目を前に戻せば、入ってくるのは尻を向けた男。

 鍛えられ、良く引き締められた尻であったが、それは所詮は男の尻であった。


 眺めていて、気分のいいものでは決してない。


 国民性がまだ掴めないタンダニアだったが、フィンデルはこの全裸に等しい姿に、相当に気分を害していた。



 そんな奇妙な案内役に従って到着したのは、大扉の前。

 彼女は、ここが謁見の場なのだと悟った。



「か、戒くん…くれぐれも、礼儀作法には注意してね?」


《キ?》


 だが、それに答えたのは小猿。



「あ、いや……あなたじゃなくて…」


 フィンデルは思わず破顔した。



「くだらん心配するんじゃねえ。

 さあ、開けろ。」


 静かに憤慨しながら、命ずる戒。

 男は言うとおりに、重い扉をその両手で開く。



 見上げれば気が遠くなるほどの、高い天井。

 元の色すら判らない、年季の入った絨毯。


 そして奥には、座がぽつんと一つだけ置いてある。


 出発直後のアリアネの話では、タンダニアが遷都を行う以前は、この場所が首都だったという。

 これが昔の玉座であるということは、想像に難くない。



 そして、その傍らには、薄布を着こなした美青年がいた。

 彼は無表情だったが、三人の方を見た直後、少し驚いたように眉を上げる。



「あの……我々は…」


「中王都市の方ですね。」


 言いかけたフィンデルに対して彼は一礼し、小鳥のさえずりのような綺麗な声をかけた。

 加えて、あらゆる機知を内包した瞳で貫く。



「アリアネは一緒ではないのですか?

 貴女達のご案内をさせたはずですが…」


「急ぎの用で…何処かへ…」


「そうですか。

 大切な使者を置きざりにするとは、全く困ったものです。」


「いえ…」


「そして、また貴方は、そんなお戯れを……」


 言いかける青年。



「陛下ァーッ!!」


 そこで咆哮と共に、猛然と走りこんで来る者がいる。

 今、まさに噂していた、アリアネであった。


 さらにその手には何故か、大きな白い布が携えてある。



「陛下?」


 戒が呟いて、青年の方を見た。



「お召しものも纏わずに……あまりにもひどすぎます!!

 国民に対し、示しが付きませぬぞ!!」


「…湯浴みの後は、裸に限る。

 ここが暑くてたまらんでの。」


 だが、彼女に平然と答えたのは、今は後ろにいる案内人の大男。

 しかも彼は欠伸あくび混じりに、股間の布をはためかせた。



「あ?」


 振り返る戒。


 何事も無かったように、大布を片手で受け取り、前へ向かって進む男。

 そして途中、それを広げてから肩に回し、巧みな手つきで巻いて結び、薄衣トーガと呼ばれる着物にして着座する。



「さて……お初にお目にかかる。

 このタンダニスに、何の御用かな。

 お客人。」


 彼は足を大きく広げ、頬杖をつき、長い顎髯あごひげを手で伸ばしながら言った。



◆ ◆



 久方ぶりの地上。

 中王都市に勝るとも劣らない活気ある歓楽街の観光に、シュナはだいぶ機嫌を直したようだった。



「まだ……見るんですか…」


 だが、パンリはいい加減うんざりしたように呟く。


 店という店をもう何十軒と回ったが、彼女は何を買うということも無く、ただ商品を眺めているだけなのである。



「あんた、女の子の買い物を甘くみたわね。

 この程度で根を上げるなんて。」


「まともな買い物、まだ一つもしてないじゃないですか…」


 珍しく、負けじと返すパンリ。



「ただ、見るだけってのが楽しいんじゃない。

 そして、目星をつけた物を、明日買いにくるってわけよ。」


「なんか、非効率的ですね…」


 言っているそばから、さらに繰り返される寄り道。



「早く、用を済ませたいのだが…。」


 これには、ザナナまで愚痴を言う始末だった。



「あとで、よ。

 今、食べ物を買ったら途中で腐っちゃうでしょ。」


 彼女は、観光を続ける態度を崩しそうにない。


 それに引っ張られるように、男二名はついて行くのみだった。





(平和なものだな……)


 街中のベンチに腰掛け、首を青空に向けたまま。

 脇目で、若者達が楽しそうに歩いているのを見る。


 彼等だけでなく、この大通りを行き交う人々には、笑顔が絶えない。

 飛びぬけた裕福さは無いが、ここには秩序と平和がある。


 もしも自分がこの国に生まれていたら、どのような人生を送れたであろうか。

 そう思えば、嫉妬の心は隠し切れなかった。



 視界の端に、羽ばたく黒い小鳥。

 近付く外套の彼女。


 さらにその手から伸ばされる小さな紙切れに、ヂチャードは目を通した。



「……このことを、他の連中には?」


「既に申し伝え、手筈は整っております。」


「じゃあ、俺達も行くか。」


 淡々と、腰を上げる。



「…すぐに、よろしいのですか。」


「ちょうどいいのさ。」


 彼女の問いに、ヂチャードは呟いた。



 足の怪我の痛みが和らぐにつれ、何気ない日常の平和に肌が慣れるにつれ。

 身に染みたはずの屈辱や悔しさが消えようとする。


 それくらい簡単に甘蜜を求めてしまうほど、自分はどうしようもなく凡小である。


 いっそのこと、何も考えられないくらいの強い奔流に押し流してもらいたい。

 彼は今、本気でそう願っていたところだった。



「……ルラル。

 なあ、お前はこの国に生まれていたら、自分はどうなっていたと思う?」


「それは、どういうことでしょう。」


 頭から被った外套の奥から、彼女は小さな声で訊いた。



「質問を少し変えるか。

 …もしも、この国に生まれ変わることが出来るなら、お前はどんな人生を送りたいと思う?」


「やはり、貴方に仕えたいと思います。」


「それは……同情から言っているのか?」


「………。」


 黙り込む彼女の、外套に隠れた顔に近づくヂチャード。



「…すまない。

 つまらない質問だったな。」


 そして、その中身を確かめて彼は力無く笑った。



 今に血に濡れるであろう、両の手をズボンに強く打ち付けて、砂を払う。


 視線は、地平線から伸びてきた黒い雲へと注がれていた。



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