3-3 「黒色絵具」(下)
◆ ◆
3
◆ ◆
「…これ、何の騒ぎよ?」
いやに騒がしい、食堂前の廊下。
入り口に群がる彼等を見付け、ミーサが油に汚れた軍手をポケットに捻じ込みながら近寄る。
「何か、妙なことになってきやがった。」
苦笑して、そう返すのはバーグであった。
「―――これより、料理対決を始める。」
彼の目線の先には、厨房の前で片手を広げ、高らかに宣言する戒の姿。
「これは、どちらが『ルベランセの料理人』に相応しいかを決める勝負だ。
二人とも用意はいいか。」
その言葉の後、戒が背にした厨房から、余裕のある表情で出てくるシュナ。
一方、緊張した面持ちで出てくるパンリ。
二人は既に調理服に着替えていた。
そのすぐ前方に一列に並べられた席。
そこではブリッジの面々が、半ば呆れたような態度で座っていた。
「…これは……一体、何のショーっすか?
それに、何で艦を降りたはずの彼が仕切ってるっすか?」
「俺に聞くなよ。」
苦々しい口調で、タモンに答えるリード。
「さて……集まっていただいたルベランセの士官諸君には、この勝負の審査をしてもらう。」
もう片方の手を広げて、不気味な笑みを浮かべた戒が迫る。
「なんなんだ、この茶番は。
…俺達に何をさせるって?」
「公明正大なる審査と言ったろうが。
こういうのは、舌が肥えている奴の方がいいと思ってな。」
リードに答えた後。
立ち入りを禁止した世羅とバーグ、ザナナ達を一瞥する戒。
「何か企んでいないか、彼は?」
リードは警戒を解かずに、フィンデルに耳打ちする。
「まあ……美味しいものが食べられるのなら、いいんじゃないかしら。
ねえ?」
だが返されるのは脳天気な言葉。
「おいしいの、食べたいの。」
メイもその脇で終始笑顔でいた。
「…困るんだよな……。
まだ出立の準備も途中だってのに…」
そんな女性陣の呑気さに頭を抱えるリード。
「それでは、ルールを説明する。
…といっても、単純に審査員4人に、より多くの指示を得た料理人の勝利だ。
勝利した者に与えられるのは『ルベランセ専属料理人の権利』―――」
戒がフィンデルの方を向くと、彼女は反射的に頷いた。
「なお、制限時間は三時間。
調理できる場所はこの厨房のみ。
だが食材は、何を使っても良しとする。
ここにある物は無論のこと、個人的に街で仕入れても構わん。」
「えっ!?」
戒の説明を聞いていたパンリが思わず、声をあげた。
「ん〜、成る程ね。」
戒の設定したルールに、ほくそ笑むシュナ。
あらゆる食材を吟味できれば、充分な料理のレパートリーを頭に浮かべることが出来るだろう。
勿論、それが解らないパンリではなかった。
一方的に色々な事象を定めた戒へ、すぐに不安そうな視線を向ける。
「……しかしながら、本職と素人では勝負にならん。
ハンデとして、審査員の支持数が『引き分け』の場合はパンリの勝利。
さらに『俺様が協力する』ことを許可してもらおうか。」
「いいわよ。
その程度でハンデが埋まるか分からないけどね〜。」
軽く返事をして、舌を出すシュナ。
「……そ、そのとおりですよ!
戒くん……これでは…」
「なんだ、俺様では役者不足だと言いたいのか?」
「……そ、そのとおり…。
あ、いや、そういうわけでは…」
口元をもごもごさせながら、パンリはうつむき加減で言った。
「とにかく、さっさと始めて、料理が出来たら呼んでくれ。
この茶番が終わったら、ルベランセはすぐに出発するからな。」
早口でまくしたてた後、リードは席を立つ。
「じゃあ私は早速、街へ食材を探しに出るわ。
時間は有効に使わなきゃ、もったいないもの。」
早足で厨房を出ていくシュナ。
「バーグさん。
荷物持つの手伝ってもらえるかしら?」
「…俺?」
すれ違いざまに掛けられる彼女の言葉に、バーグは呆気に取られながら自分を指差す。
「物持ちくらい、誰かに手伝ってもらってもルール違反じゃないでしょ?」
「勝手にしろ。」
その要求に、戒は簡単に応えた。
かくして、バーグの腕を絡めとって強引に連れ出すシュナ。
始終、ミーサはその光景を憤怒の表情で睨みつけていた。
「で、では、私もっ…!!」
それに続き、手足を慌しくバタつかせ、外へ飛び出そうとするパンリ。
「……待ちやがれ。
お前はここの食材だけで料理を作るんだ。」
そんな彼の手を取り、小声で囁く戒。
一方の手で開かれた貯蔵庫の扉。
中には乾燥したベーコンと、わずかな野菜が入っているのみ。
「!?」
それらを見て、パンリは凍りつく。
「あ、あのぅ……つかぬことを聞きますけど…」
「何だ?」
両の拳を握り締め、彼は必死に背伸びをして戒の顔に近付いた。
「戒さんは、シュナさんに勝たせたくないんですよね?
私が勝った方が都合が良いんですよねっ!?」
「……当たり前だ。
同じ事を何度も言わせんな。」
半眼で手を伸ばし、パンリの頬をつねくる戒。
「…ひょ、ひょれでは……も、もひかひて…街に罠とか、何かの仕掛けとかを張って?」
「馬鹿め。
そんな姑息な手段で、ルベランセの連中に認めてもらえると思っているのか。
正々堂々と勝ってアピールするんだよ、お前は。」
「ええーっ!?」
叫びと共に、捻って外れる戒の手。
その衝撃と痛みにうずくまるパンリ。
「……で…でも……これだけ向こうに有利な条件ですと…」
「有利な条件?」
意地の悪そうな笑みを浮かべて、戒が顔を歪める。
「確かに。
一見、有利に見えるよなぁ?」
彼は確信を持った表情で、卓上の砂時計を逆さに向けた。
◆ ◆
「お久し振りね、ヂチャード。
貴方が直接来るなんて珍しいこともあるものだわ。」
修道着姿の初老の女性が笑う。
孤児院も兼ねている教会。
礼拝堂奥の広間で、互いに挟んだテーブルには白湯が出されている。
「…悪いな、シスター・エルジャ。
今日は連絡も無しに突然で。
あと……何年も来れなくてよ。」
ヂチャードは少し照れながら答えた。
「おにいちゃん、国の仕事してるんだって?」
「すげーよな。」
そんな彼に二人の少年が寄り、揃って言う。
「…大したこと……してねえよ。」
ヂチャードは身に纏う黒い皮鎧の襟元を開き、視線を伏せながら笑って追い返した。
自分が騎士団の諜報員であることは、このエルジャ院長以外に語っていない。
「前も話したけど…みんなで首都の方に来ればいい。
豊かな暮らしの保証は無いが、環境は少なくともここよりマシなはずだぜ。
手引きくらい、俺が何とか…」
「いいえ。
やっぱり…自分が生まれた土地ですから。
それに、この街で増え続ける孤児を放っておくことは出来ませんよ。」
彼女は言った。
「でも、ここは借地なんだろ?
こんな環境で、地主に金を払い続けるのも馬鹿馬鹿しいと思うがな…」
「しかし、それはこの世の規則です。
信仰心のみで、子供達の命は救えるとは思っておりません。」
「ああ…分かってるよ。
綺麗ごとだけじゃ生きていけないってのは。
……神様は何も救っちゃくれねえってこともな。」
薄汚れた室内、崩れかけた信仰の象徴―――『創る者』の像を眺めるヂチャード。
机や椅子にしてみても、ここにある物でまともな物は何一つ無い。
「……意見しちまって、すまねえ。
シスター、あんたは昔から色々と大変な思いしてるんだもんな。
そういや、俺ごときが口出し出来ることじゃなかったぜ。」
今でこそ大分鎮まっているようだが、ヂチャードが子供の頃は素行の悪い孤児も沢山いた。
過去にそういった者達が起こした問題で、この教会が母体であるクレイン教から見放されて久しい。
目の前の老婆は、それでも小さな命達を見放さずに笑顔を保ち続けているのだ。
「…暫く来ない間に、子供の数も増えてる。
本当、あんたには頭が上がらねえよ。」
「いいえ、ヂチャード。
私の苦労など、何ということはありません。
もっと辛い人間が、世の中に沢山いるはずなのだから…」
「謙遜はよしなよ。
あんたみたいな人間こそ、本当に天国に行けるんだろうな。」
「………。」
そこで何も言葉が返らないと、ヂチャードも思わず言葉を止めた。
彼女は、ふ、と寂しそうな瞳を見せているのだった。
「…ところで、ここへは何か用があって来たのではないのですか?」
「あ…ああ…。
ちょっと、源炉の精製所の調査でな。」
「……それでは、マーミリオン様のお屋敷へ?」
院長は少し驚いたような顔を見せ、少し声を上ずらせて訊いてくる。
「…あんな奴に、『様』なんて付けるんじゃねえよ、シスター。」
ヂチャードは。含みをもたせて言い返した。
「ここの土地がおかしくなったのは、元はといえば奴の鉱山が原因じゃねえのか。」
「……原因は定かではありません。
そうと決め付けるのは良くないですよ。」
「俺の両親は、山で採掘中に死んだ。
それで鉱物が尽きたら、次にあそこに出来たのは源炉精製所だ。」
ヂチャードは早口で言った後、目の前のテーブルに置かれたカップを指でなぞる。
用意された白湯には一度も口を付けていない。
そこから発せられる『さびた匂い』が、そうさせないのである。
彼が物心つく以前から、この故郷の水は汚れており。
そして廃鉱に源炉の精製所を建造した頃、環境は更に悪化したのだ。
「……悪い。
そろそろ向かうとするよ。」
ヂチャードは、仕事の前に教会へ立ち寄ったことを少し後悔しながら、席を立った。
「…子供達には、外で遊ぶ時は気をつけるよう言ってくれ。
その辺を、妙な連中がたむろっている。」
「この町では、誰も襲われませんよ。
襲っても、得る物がありません。」
去り際の彼の言葉に対し、院長はそう言って笑っていた。
その笑顔を眺めていると、幼い頃の記憶がかすかに頭をよぎる。
「でも、昔……人さらいが…出たことあったよな。」
「そうだったかしら、ヂチャード。」
曲がった腰を押さえ、立ち上がる彼女。
「ああ……俺がずっと子供の頃だったけどよ。
…ん……記憶違いかな。
この孤児院に居た子供達も何人か…」
「……。」
「…そんなわけねえよな。
大体、そんな昔のこと、憶えてるわけないか。
ガキの頃の記憶ほど……当てにならないものは無いってな…」
ヂチャードは肩をすくめ、わずかに歯を見せる。
目の前の院長はそんな彼を、いつもの穏やかな表情のままで眺めているばかりだった。
◆ ◆
「ただいま!
この街は食材が多くてね、たくさん目移りしちゃったわ。」
両手に食材を抱え、厨房に威勢良く帰還するシュナ。
そこに置かれた砂時計の砂が、既に半分近く落ちていることを確認。
さらに奥の火元の一つには、鍋がかけられていて、蓋がコトコト動いて鳴っているのを見る。
パンリは緊張した面持ちで、そんな自分の料理の様子を一心に見詰めていた。
(…見た感じ…大したものを作っている様子は無いけれど……。
用心して、全力を尽くすのみよね。)
シュナは調理台の端に品物を置いて、前掛けを着ける。
「…なあ、おい……これも、この辺でいいのか?」
巨大な紙包みを抱え、おぼつかない足で厨房に入るバーグ。
「はい、そこに置いておいて下さい。」
彼が言われるままにすると、調理台全体が揺れた。
中からこぼれて見えるのは、色とりどりのフルーツと野菜。
そして、さらに鮮やかな色の鱗をもつ大魚だった。
「ありがとう。
助かりました、バーグさん。」
礼儀正しく頭を下げる彼女。
「……あ、ああ。
いいってことよ…」
バーグは重くなった肩を鳴らしつつ、思わず笑顔を返した。
「用が済んだら、さっさと厨房から出て行け。
関係者以外、ここは立ち入り禁止だ。」
厨房の隅。
小さな貯蔵庫の中を漁っていた戒が急に立ち上がり、言い放つ。
「なあ……別に俺はどちらの味方ってわけじゃ…ねえんだけどよ…。
なんていうか…」
冷淡な態度の戒、そして相方のパンリに気を使いつつ。
さらに脇のシュナの顔もうかがい、どうにも頭を掻き乱しながらバーグは厨房を去る。
「フン。
裏切り者めが。」
悪態をつきながら、調理に専念しているパンリに接近する戒。
「ちょ…ちょっと!!
あんた、まさか『それ』を勝負に使うわけじゃないわよね!?」
そんな彼の様子に、いち早く目を剥いたのはシュナだった。
何しろ、戒が手にしているのは、埃まみれで薄汚れたパスタである。
「文句あるか。
ここにある食材は自由に使っていいって言っただろ。」
「そういう問題じゃないでしょ!」
平然とした戒の調子に、歩み寄るシュナ。
「品質には、問題は無い。
……まだ食えるぞ。」
パスタをかじって、わざと大袈裟に音を鳴らす戒。
「か、勝手にしなさいよ!」
シュナは怒ったまま、背を向けて自分の食材へと向かった。
(さすが戒さん……料理人のプライドを刺激させて、ミスを誘う作戦なんですね…。)
そんな二人の様子を横目で眺めつつ、パンリは鍋をかき混ぜながら人知れず笑みを浮かべる。
一方、気を取り直したシュナは、床に置いた荷物から良く磨かれた包丁を取り出す。
それを凝視しているパンリの視線に気付き、正面から目を合わせる彼女。
「…パンリ。
悪いけど私、本気で行くからね。」
「……あ、はい…。」
さらに不意に声を掛けられ、背筋を正す彼。
「この包丁を使う限り……絶対に負けられない。
送り出してくれた恩人に対して、顔向け出来ないから。」
「!!」
その決意が極まる横顔に、パンリは息を飲んだ。
彼女と比べ、自分はあまりに何も考えていない。
完全に戒の言うとおりに動いているのみである。
途端に言い知れぬ不安に包まれていく。
それを象徴するように、彼の手先は止まった。
「パンリ!!」
そこへ戒の一喝。
「は、はい!」
我に返り、虚空に対して大声を上げる彼。
その眼前に伸ばされる戒の手に掴んであるのは、先程の古いパスタだった。
「こいつの埃を丁寧に落としておけ。」
「え?」
呆気にとられたまま、パンリは聞き返す。
「…鍋の方はもういいだろ。
時間一杯まで、あとは弱火で煮ておけば…」
「いやそうじゃなくて!
ほ、本当に使うんですか、これを……!!」
一応、パスタを受け取ってから、パンリは嘆く。
「何で使わない食材を探すために、俺様が埃まみれにならなきゃいけねえんだ!!」
パンリの脇腹に膝を一撃入れた後、戒は乱暴に足元の小椅子に腰かけた。
その先に、包丁を動かしている最中のシュナを見据える。
肘を始点に動く彼女の腕。
彼女の一挙一動に、厨房の空気が引き締まる思いがした。
尾びれに左手を添え、微塵の迷いもなく大魚の腹に入れられる刃。
その腹中で彼女が拳を軽くスナップさせたと思うと、颯爽と抜いた包丁と共に、ずるり、と滑るように臓物が抜ける。
いつの間にか足元に置かれている鉄のバケツにそれらを放りこむと、その脇の新鮮な真水に握った包丁をさっと浸す。
そして水滴と共に振り上げ、そこから流れるような動きで、次々と肉をさばいていく。
その様子は、食材を『切る』というよりも『解体』に近い。
魚の仕組みを熟知している動きであった。
戒もパンリも魚の鱗を処理していないことに気付くが、その理由はすぐに判明する。
彼女は、ごくわずかな、脂ののった部分しか使用しないつもりなのだ。
そして、それらの肉切れはボウルに浸した酢に、どんどん放りこまれていく。
その作業を終えてしまうと、今度はすぐに小袋を空ける彼女。
中から出て来るのは、米。
すぐに別の容器で炊飯の準備に取り掛かる。
彼女はその途中、オーブントレイを片手に取っており、さらに次の動作にも取り掛かれるようにしていた。
順序に全く迷うことなく、狭い厨房内での緻密な動き。
脇には、それを傍観しつつも明らかに感嘆の色を帯びた戒の瞳がある。
パンリにとっては、不安で堪らない瞳であった。
◆ ◆
「!!」
感じた気配と音に、振り返るヂチャード。
再び、笛の音のような、高音を耳にしたような気がした。
言い知れぬ不安が振り向かせるのか、それらを確認するように彼は目を凝らす。
だが、小高い丘を踏み、身体を傾斜させたまま眼下に見えるのは、ゴルゴートの街並み。
過去には鉱山の御足元として栄えた4番街のみが、今は廃墟に近い。
これから訪問するマーミリオンが、その一帯の地主である。
彼は目の前の鉱山の所有者であり、その山を源炉の精製所として改修した後に、騎士団に業務を委託されていた。
険しい岩地を少し昇ると、山中を切り拓いた大口が待っていた。
その門は開け広げられており、内部は洞穴が崩れないよう太い添え木が組まれているのが見える。
彼はまず、そこに門番がいないことに不審を憶えた。
皮ズボンのポケットから小型のランタンを取り出し、火を点けて中の様子をうかがう。
人気の無さが、気温を何倍にも下げているのを感じる。
数分も歩かぬうちに、彼は進むのをやめた。
特に大きく刳り貫かれた大部屋。
壁際で土気色した施設は、既に稼動していない。
無論、人員の姿も無く、足元に張った蜘蛛の巣を確認した時点で、彼は踵を返した。
(……一体、いつ頃から動いてないんだ…?
引き払って数日とかいうレベルじゃねえぞ……)
気持ちを抑え、出口へと向かう。
(…騎士団も……随分と日和見だよな……。)
騎士団に入れば、単純に裕福になれると想像していたが、現実はどうか。
一般騎士の褒賞や賃金などは思った以上に安く、立場や身分などは、いまだに家柄が重んじられている。
さらに貴族にとって騎士業が『仕事』という認識は薄く、それは生活とはかけ離れた『責務』や『誇り』であった。
―――彼等の収入の大半は、統治する荘園や領地の税収から。
そんな安泰の生活基盤の中、騎士として誇りを守るためだけに戦う人間の蔓延。
それらが形成した集団は、志こそ高いが、その目は万民に向けられてはいない。
(……ひどい野菜だったな。
ここは土も森も…どうしようもなく腐れ果てちまってやがる。)
子供達が育てていた作物を思い出す彼。
ずっと昔に捨ててきた焦燥感が、再び甦る思いがした。
騎士団にさえ入れれば、卑しい身分の自分も、何か尊いものになれるのではないか。
何もかも上手くいく、そう思っていた。
それが勘違いだと気付いたのは、士官学校へ入ってすぐのこと。
そこで、貧しい自分と等身大に接してくれたのは唯一マクスだけだったが、彼と違い、貴族社会に頼りも
コネも無い自分には、まっとうな道など用意されていなかった。
(ここの子供達の境遇は…誰が悪いんだ?
底辺に住んでいる人間の貧しさは、どんなに頑張ろうが何年もずっと変わっちゃいねえ。)
暗闇の中、大きな砂利を踏む。
(そもそも、国を動かしている連中は、改善する気なんて無えんだ。
ならば、こだわりなんて……捨てちまった方がいい。
その方が…楽しく生きらぁな。)
そのような彼の『ぼやき』も、心の中の院長はただ笑顔で返すばかりであった。
外に出れば、既に夕刻。
落ちゆく陽を浴びながら、崖下の屋敷を見下ろす彼。
施設の主には直接、問い正さなければならない。
だが、屋敷内は明かりが点いている様子は無かった。
その代わり、今まさに巨大な馬車が、門を開けて出て行くのが見えた。
行き先は、なんと教会の方向である。
ヂチャードは息を整えずに走り出した。
◆ ◆
「いやいや、素晴らしい段取りだすな。
さすが元王宮銃士隊、『大空を駆ける天馬』ロディ殿。」
廊下を歩きながら、受け取った書類の束を一枚一枚目を通していくガッチャ。
「まあ、売ってもらった戦闘騎の型はどれも若干古い型だけど、操縦士を養成するには充分だと思う。
後は無事に運搬出来ることを祈るのみ…」
その脇で説明するロディが、ふと足を止めた。
「何かな、この騒ぎは?」
通りがかった食堂に、思わず近寄る彼。
「何だか、美味しそうな匂いだすな。」
鼻を小さく動かしながら、ガッチャも寄る。
「……ロディ?」
彼等の気配に敏感に気付き、振り向くミーサ。
「どうしたの、みんなで集まって。」
食堂内を凝視して動かないバーグ、世羅とザナナの上から覗き込む彼。
その中は現在、数名の士官が席を並べ、異様な緊張感と共にある。
「何だかね…勝負とか言ってるのよ。
えーと…パンリとシュナ……だっけか。
ルベランセの料理人の座を賭けてとか何だとか。」
「へぇ……面白そうだね。」
興味のある素振りで、前へと移動する彼。
そして、バーグに並ぶ。
「でも、そんなケチケチしないで、二人とも雇ってあげればいいんじゃないかな。」
「ところが、そうはいかねえ事情があるんだよ。」
脇の彼は答えた。
「これから先は、特殊な任務らしくてな。
信用を重ねた人員でないとダメなんだと。」
「なるほど、料理人一人ってのが最低限の譲歩ってわけだ。」
ロディは口髭を撫でながら笑う。
「…それで、戦況は?」
「シュナはプロ。
パンリの方は……一人暮らしが長いようだが…」
バーグの言葉も途中に、口笛を鳴らす彼。
「ぜひとも、勝ってもらいたいね。
シュナちゃんに。」
「……あんた正直だなぁ。」
バーグは顔をしかめながら、思わず吹き出した。
◆
「よしっ、完成!!」
シュナの高声に、パンリが振り向く。
「ねえ…まだ、制限時間の前だけど、審査員の人には出来たてを食べてもらいたいのよね。」
台の上にある砂時計を気にしながら、戒に対して言う彼女。
「先攻、私でいいでしょ?」
「…いいぜ。」
椅子に座ったままの態勢で、面倒臭そうに低い声で返す戒。
パンリは、その脇で両肩を落ち込ませた。
戒の提案で料理勝負が始まったというものの、相当に投げやりな発言が目立っている。
ここまでくると、彼が本気でシュナを潰しにかかっているのか非常に疑わしい。
そんな猜疑の目を伏せながら、パンリは辺りを何気なく見回す。
すると、シュナが捨てた野菜くずが目に付いた。
◆
「お待たせしました。
生魚と新鮮野菜の和え物。そして、ホタテの海鮮リゾット。
共に、プレオルン風味です。」
シュナの出す料理皿から湯気が立ち昇る。
途端に鼻腔をくすぐる芳香を感じ、ブリッジの面々からは、一様に感嘆と溜め息が洩れた。
「いやぁ……凄いっすね…。」
鮮やかに盛り付けられた各料理を前に喉を鳴らしつつ、タモンが言った。
「これほどまでとは……思わなかったよな。」
左右に目移りさせながら、自然とフォークを手に取るリード。
「と、とにかく、それじゃ……いただきましょうか。」
料理の醸し出す熱に圧倒され、フィンデルが促す。
(今回作ったのは、私の得意料理……。
万に一つも…負けるはずないわ。)
自信に満ち満ちたシュナの笑顔の前で、初めは乗り気でなかった面々が次々と手を動かしだしている。
「う…美味しい……。」
オリーブオイルをあしらった魚の身を口に含んだ途端、呟くフィンデル。
「昼食抜いてて、良かったっすね。」
「ああ……忙しくて良かった…。」
タモンとリードはリゾットが止まらない。
「あと、女の子にはサービスです。」
メイに対しては、隠していたプリンをそっと出すシュナ。
「わーい!
プリンなの!!」
顔を輝かせる彼女。
「…シュナさん…いつの間にデザートまで…」
そんな食堂の反応を、パンリは厨房から羨望の眼差しを送る。
目の前の砂時計の砂が完全に落ちたのは、ちょうどその頃だった。
◆
「ねえ……ボク達も食べれるよね?
後で……」
心配そうな顔で世羅が訊いた。
「おまえは、さっきからそればっかりだな。」
バーグが苦笑して答える。
「…だけどよ…決まっちまうんじゃねえのか…これ。」
「そうだよねぇ。」
そして彼の呟きを、ロディが続けた。
「ただでさえ、料理勝負は先攻が圧倒的に有利。
人は空腹に近いほど、食べ物を美味しく感じるからね。」
視線の先には後の事を考えず、目の前の料理に対して全く手を休めないブリッジの面々がいる。
「フルコースでも、出される皿は薄味から始まる。
後に出す方は相当、味を濃くしないと印象を残せない。
その点も踏まえて、この順番は決められたのかな?」
「……さあな。」
バーグは言った。
「ねえ……ボク達の分まで残してくれるかな…みんな…」
涙目で訴える世羅。
「はは……たぶん…な。」
バーグは、もう呆れ顔になって言った。
「…それにしても……。
ものすごく…気になるんだよね。」
「何が?」
呟くロディに対し、ミーサが訊く。
シュナが優勢なはずなのに、彼は終始、険しい表情をしていたのだ。
「いやなに、あまりにワンサイドゲームだからさ。
本当にこれ、ただの料理の勝負なのかな?
僕は途中から見たから、分からないんだけど…」
「その……はずだけど…」
「動きが、あるみたいだ。」
それまで、黙していたザナナが呻く。
料理を両手に携えたパンリが厨房から姿を見せたのは、まさにその時であった。
◆
「あの…皆さん……よろしいでしょうか…」
申し訳なさそうにパンリが声をひり出すと、皆の手が止まった。
「あ……ご、ごめんなさい…。」
そこで料理に夢中になっていた自分に気付き、照れ笑いを浮かべながら口をハンカチで拭うフィンデル。
「すっかり…これが料理勝負だってこと…忘れてたっす。」
「……俺もだ。」
呟き、フォークを置くタモンとリード。
メイに至っては、パンリを全く無視してプリンを食べ続けている。
「これが…私の料理です…。
良かったら…ご賞味下さい……。」
「!?」
目の前に出された皿に、全員が驚愕した。
平凡なコーンポタージュ。
そして胡椒をまぶした白く乾いたパスタ、野菜を刻んでカップに詰めたコールスロー・サラダである。
「……これ…なのか?」
思わず問いかけるリード。
「す、すみません。
これくらいしか…私には…」
「まあまあ、食べてあげたら?」
シュナは余裕の笑顔で、相手を擁護する。
「ふむ…」
若干冷めている、塩で味付けされたパスタ。
そして、その中の具は同じく塩味のベーコン。
美味たる料理の後では喉元を通る量に限界がある。
一口食べてから、皆が一斉に手を止めた。
「う〜ん…悪くないとは思うんすけど…」
タモンはパンリのパスタとシュナのリゾットを交互に食し、審査員の真似事を一応やってみる。
「…!」
だがそんな中、何気なくサラダを食べていたフィンデルが、突然何かに気付いたようにパンリの方を向いた。
そして、奥の厨房から不敵な笑みを浮かべながら出て来る戒と目を合わせる。
「それでは……審査をしてもらおうか。」
「……そ、そうね。」
フィンデルは、静かに答えた。
「では、どちらが『ルベランセの』料理人に相応しいか―――」
彼の、特別なアクセントを置いた言葉。
それまで、難しい表情をしていたタモンとリードが素早く顔を上げた。
「そろそろ示して頂こうか。
まずは…」
彼等の様子を確認してから、満足そうに続ける戒。
「先攻のシュナ。
こいつの方が相応しいと思う奴は手を上げて示せ。」
その言葉の後、勝利を確信して既に笑みがこぼれていたシュナが凍りつく。
一人。
メイのみ。
この現実と光景に驚いたのは、彼女だけではなかった。
遠くで見守っている者達も、対戦相手のパンリでさえ我が目を疑っている。
「えっと……みんな…何の冗談?」
唇に笑いを残したまま、シュナが呟く。
「『お前の負け』だってことだろ。」
「はあ?
ちょっと待ってよ…何?
これ、もしかして、出来レース…?」
戒の言葉に顔すら向けず、審査員の面々を睨む彼女。
その視線をかわすように、全員は目を背けている。
「どうなってんの?
私の方が美味しいに決まってるじゃない!
こんな料理と比べたって…」
シュナは、パンリの作った料理を乱暴に掴んで口に運んだ。
やはり、想像以上の味は無い。
「…そうだ。
君の方が味では勝っている。」
取り乱す彼女に対し、無口になっていたブリッジの面々。
責任感からか、先んじて声をかけるリード。
「じゃあ…なんで!?」
「俺様は『味で勝負』だなんて、一言も言ってなかったよな。」
その戒の言葉で、背後のパンリは理解することが出来た。
「戒さんは…『どちらがルベランセの料理人に相応しいか』と言った……そういうことですか…」
彼の呟き。
それに同調するように、タモンとフィンデルが軽く頷いた。
「何それ?
意味がわからないんだけど。
そんなの料理が上手に作れるってことと同じ意味でしょ!?」
全員に向けて、言葉を続けるシュナ。
皆、目を泳がせる中、戒が彼女の肩を強く掴んだ。
「まだ分からねえのか。」
そして彼女の腕を強く引き、厨房へと導く彼。
「何よ、そんなに強く掴まないでよ!
痛いじゃない…」
「見ろ。 これがお前の出したゴミだ。
そして、汚した箇所。
これを綺麗に後始末するのに、水をどれだけ使わなきゃいけない?」
魚の匂いに塗れた、まな板。
その臓物の入ったバケツ。
彼女はそれらを前に、まだ理解できずに黙っている。
「そして、パンリの方は……」
「!!」
戒が向けた視線の先。
そこは調理前と殆ど変わらない状態で、整頓されていた。
「ようやく気付いたようだな。」
驚きの表情を浮かべる彼女に対し。
「空で最も貴重なのは水。
使った水の量、そして後始末に使う水の量。
それらを考えると、今回のお前の調理は地上の仕事だが、パンリの方は既に空での仕事……そういうことだ。」
戒が断言する。
「水だけじゃねえ。
限られた食料の中で料理を作れるという点で、パンリはお前を大きく上回っている。
……それに、いったん空に出れば、皆が揃って食事が出来るわけじゃねえ。
冷めたリゾットを誰が食う?
痛みやすい生魚なんて、もってのほかだ。」
「だって!
そんな専門的なこと、知らなかったんだから仕方ないでしょ!!
分かっていれば、私の方が上手に作れたわ!!」
叫ぶ彼女の声が、食堂全体に響き渡った。
「確かに、あらかじめ知っていたら、お前の方がいい仕事をするに決まってる。
だがな…ちょっと考えれば、こんなことすぐに分かるはずなんだぜ。
客を一番に考えていれば、な。」
「……!」
その一言で、圧倒的な敗北感に襲われるシュナ。
そんな中、自分が食材を捨てたバケツの中の一つの異変に気付く。
「ちなみに、あの細切れにしたサラダに関しては、お前が生ゴミとして捨てた野菜の断片で作った。
これは俺様の指示じゃない。」
誉められたパンリが、食堂側で申し訳なさそうに頭を下げる。
「……決まり…ということかしら…。」
沈痛な面持ちでフィンデルが場を締めた。
空気を読んだリードが席を立ち、タモンがメイを連れて食堂を去る。
「……くっ…!」
唇を噛んで足早に去ろうとするシュナ。
「もしも、今日お前が作ったものが……あの時、学校の食堂で作ってくれたような出来合いの料理だったなら
……やばい勝負だったがな。」
横切った瞬間、戒が言った。
「……あんた…!
…そんなの憶えが無いって…」
シュナの言葉に対し、それ以上の返事は無い。
「……そっか…嘘だったのね…」
肩から力を抜き、ゆっくりと厨房を後にする彼女。
「……艦長。
他のみんなの分も余分に作ってありますから、食べてもらって下さい。」
最後にフィンデルに近付き、食堂の外で見守る者達を眺め回してから、シュナがコック帽を脱ぐ。
「勝つものだと踏んでたから、お祝いに……と思って。
ほんと馬鹿ですよね。」
目に溜めた涙が今にもこぼれそうなのを見て、フィンデルはかける言葉を見つけることが出来なかった。
「調理場は…ちゃんと綺麗にしてから帰ります。
だから…水……汲んできますね。」
言い切ってから、集まった人垣を分けて逃げるように去る彼女。
「これだけ制限時間をもうければ、あいつの性格なら、必ず全力を出してくると読んでいた。
それが敗因だな。」
「……すみません。
色々と疑ってしまって……。」
戒が疲れた様子のパンリの肩に手を掛けた。
「全ては俺様のためだ。
それよか、勝ったのに嬉しくねえのかよ、パンリ。」
「…戒さんだって……嬉しそうな顔、してないじゃないですか。」
瞳を上に向ける彼。
「……俺様は、元々こういう顔だ。」
「………!」
とぼとぼと消えていく彼女の背中を見るうち、パンリはたまらなくなって前傾する。
そこで行く手を遮る太い腕。
「勝った奴の言葉は、慰めにはならねえわな。」
食堂に入って来たバーグが、煙草を噛んだまま言った。
◆ ◆
4
◆ ◆
艦長室で小さなテーブルを囲む四名。
「…いや、もったいない。
私のために、このような部屋。」
モンスロンは、仰々しく周りを見回してから恐縮する。
「……いつまでも臨時の部屋では疲れると思いまして…。
ここは遠慮なく、自分の部屋のようにお使い下さい。
私も艦長になったものの、正直、部屋まで替えるのは面倒だと思っていましたから…」
答えるフィンデル。
駐屯地の残務も途中にルベランセへと来訪したギルチが、その脇で頷く。
「くれぐれも、モンスロン卿には、タンダニアに着くまでは不自由の無いように計らってくれ。
万一の事態には……ロディ、君も護衛に当たるように。」
「僕が?」
彼の言葉に、さも意外そうに目を丸くするロディ。
「君をルベランセに乗せているのは、密かに『その意味』でもあるんだ。
しっかりと働いてくれよ。」
「…はいはい、了解であります。
提督殿。」
「ふふ、よろしくお願いします。」
欠伸混じりに答える彼の様子に、つられて笑うモンスロン。
「ところで、これからの予定だが……知っての通り、他の艦隊を北へと向かわせた。
君達も速やかに、これを追ってもらいたい。」
ギルチは咳払いをして気を取り直した後、フィンデルに言葉をかけた。
「前回話した作戦に大きな変更点は無い。
向こうの指揮官には全てを伝えてある。
それに従っていれば、事は自然と運ぶはずだ。」
「……わかりました。」
その目を見ずに、うわの空で答える彼女。
「なお、ルベランセには特殊部隊を護衛につかせている。
少しクセのある連中だが……軍隊において唯一、実戦経験が豊富な者達を呼びつけた。」
ギルチは構わずに続けた。
「隊長は、コルツ=デスタロッサ少尉。
かなり若いが腕はある。
機会があったら、挨拶しておいてくれ。」
「……はあ。」
だが返されるのは、またも溜め息交じりの返事。
「どうした?
さっきから妙だぞ、フィンデル。」
ギルチの口調はついに、咎めるような厳しいものに変わった。
「まさか、早くも艦長が重荷になったというんじゃないだろうな?」
「…違うわよ。」
だが言葉とは裏腹に、心あらずといった彼女の様子。
ギルチは眉をひそめる。
「…ロディ…おまえ……!
あれほど注意したのに、また何か問題を起こしたな…」
「してない、してない。」
慌てて手の平を顔の前で左右に振り、否定する彼。
「理由無しに気合が入っていないのは、もっと困るぞ。
モンスロン卿を護衛する任務は軍をあげての一大…」
「いやいや、どうぞお気楽に。」
そこで、モンスロン自身が後頭部を掻きながら笑った。
「どうぞ、私の扱いなど適当でお願いします。
変に気負ってもらうと、私まで息苦しくなってしまいますゆえ。」
「…しかし、騎士団の動向を考えれば、そういうわけには…」
「人間……どんなに気を付けても、死ぬ時は死んでしまいますからねぇ。」
あっけらかんとした口調と語句だったが、彼の一言に場は静まり返る。
「…おっと失礼。
出立前に、これは縁起が悪すぎましたな。」
気付き、にこやかに笑う彼。
やはりどこか食えない初老の騎士に、ギルチは難しい表情を隠せないでいた。
「…とにかく、何か悩みがあるというのなら、旅立つ前に私が処理しよう。
遠慮なく申し出てくれ。」
「いいわ。
そういうのじゃないのよ。」
フィンデルは素っ気無く返した。
「…ただ、誰もが…幸せになる方法って無いのかしらって……」
そして呟かれる言葉に、何も知らないギルチは、ロディに意見を求める視線を投げかけた。
「まるで乙女の恋の如き、甘く苦しい幻想かな―――。」
気取ってかけられる軽口。
思わず、唇をきつく閉めるフィンデル。
「まあまあ、そんなに恐い顔しないで。
しかし、このあたり……兵法に照らし合わせるとどうですかな、軍師殿。」
ロディは続けて、試すような口ぶりでモンスロンに訊いた。
ギルチも静かに目を向ける。
「誰もが幸せに……ですか?」
困ったように瞳を閉じ、くせの強い髪の毛を掴んでこねくり回す彼。
「…随分と意地の悪い問いかけですな。
それは兵法とは最も対極ではございませぬか。」
「あはは、確かに。」
ロディは笑い、両手を叩いた。
そこでフィンデルは怒ったようにして、席を立つ。
「…私は数日後には、異動になる。
そうしたら、また暫く会えなくなってしまうだろう。」
留まるよう、すかさず声をかけるギルチ。
彼女は扉を半分開けたままの姿勢で、わずかに首だけを振り向けた。
「いよいよ中王都市の首都…中枢に乗り込めることになった。
モンスロン卿の亡命にせよ、ロディの件にせよ、これら他国への『繋がり』が効いてくる。」
真剣な眼差しのまま続ける彼。
「君にも色々と不満があるかもしれないが、逃げてばかりいても何も解決しない。
我々の世代が意識を持って軍隊を変えなくていかなければ、国の将来は危うくなってしまうばかりだ。」
静まる空気の中、響き渡る小演説。
彼は一呼吸、間を置いてから、続きを述べるための口蓋を開いた。
「もういい加減、自分の才覚を出し惜しみするのはよしてくれ。
この任務の後……君が私の良き右腕として働いてくれることを、私は切望している。」
「…お、ずるいぞギルチ。
僕をさしおいて、そんな素敵な殺し文句…」
そこでふざけながら口を挟むロディに、ギルチは睨みを効かせる。
一方、対するフィンデルは漫然とした瞳で室内全体を望んでいた。
「……それは…」
だが、何かを言いかけた時、廊下を通りかかるシュナと出くわしてしまう。
「あ…艦長……」
不意に現れた彼女は荷物をまとめており、既に帰り支度を済ませていた。
「……ごめんなさい、もう行くわ。
とにかく、この任務は全力でこなしますから。」
早口を室内へ残した後、素っ気無く扉を閉めるフィンデル。
「……見事にふられたな、ギルチ。」
ロディは歯を剥いて笑った。
「諦めないさ。
こう見えても私は、お前よりもよっぽどしつこいんだ。」
「…これはこれは……とても一流の紳士とは思えないお言葉だね。」
緩やかな時間が流れる空気の中、互いに立ち上がる二人。
それから彼等は、多くを語らずに堅い握手を交わし、軽く肩を叩いてから別れたのだった。
◆ ◆
教会へと伸びた坂の前で、馬車が止まっていた。
規模としては、中型の装甲馬車に近い。
周囲に気を払い、注意深く身を隠しながら荷台部分を覆う幕をめくると、中は檻であることが判った。
猛獣を入れるような厳つい様相。
おとなしくしている馬達の間を抜けて、空の御者の席に登る。
檻の前に設置された小部屋。
その中を覗けば、奇麗な寝台とテーブル、家具などが置いてある。
人間が簡単な生活を送れるようなスペースだった。
これだけならば、ただの小さなサーカス団とでも思いたいところだったが、中に見知った人物―――
シスター・エルジャの姿を認めたことで、彼の判断は混迷を極めた。
「…それでは、院長。
…取引はいつもどおりで…」
そんな彼女と対面している老人。
贅沢なローブ姿。
その人相を確認できた直後、ヂチャードは脇の支柱を二回叩いた。
「……む?
どなたですかな。」
勢い良く、振り向く彼。
「中王騎士団の者だが。」
「……これはこれは…。」
うやうやしく笑う。
その老人こそ、探していたマーミリオン本人であった。
「…ヂチャード……!」
一方、外から現れた彼の姿に驚きを見せるエルジャ。
「院長も人が悪い。
貴女に騎士団のお知り合いがいるなんて、初耳ですぞ。」
マーミリオンはきつめの視線を、そんな彼女に浴びせる。
「…そんなもの、お前に教えて何の得がある。」
テーブルに向けて、ナイフを放るヂチャード。
「……確かに。」
柄に三本の足の馬が刻印されている、そのナイフを手に取って確認する彼。
「俺は源炉の様子を見に行けと言われて、ここまで来た。」
「これは失礼。
行き違いになってしまいましたか。」
老人は、喉の奥で笑いを噛み殺した。
「…視察というわけですな。
今期の完全源炉がいつまで経っても出来上がらない、騎士団は疑っていらっしゃる。」
「話が早いな。」
「そして、貴方は既に実情を把握した……と。」
「…そういうわけだ。
施設がもぬけの殻になっている理由を説明してもらうぜ。」
「まあ、立ち話もなんです。
……どうぞお掛けになって下さい。」
椅子を引く老人。
ヂチャードはおとなしく、それに従った。
「紅茶なぞ、いかがです?
美味しい茶葉が手に入りましてね…」
「遠慮する。
悪いが、ここの水は他の地域と比べると、相当に不味い。」
自分が吐き出す言葉により、ヂチャードは己が激していることを知る。
「そうですか。」
一方、わずかばかりも表情を変えずに陶器を置くマーミリオン。
「……ところで、ヂチャード殿。
ご存知ですか? 完全源炉というヤツがどのように精製されるか。」
「知らねえな。
出来た物は少しだけいじったことはあるが…」
わずかに思い出す、ルベランセ潜入時の記憶。
「簡単に説明すれば、長い月日をかけて『源を生み出す』ことを『機械』へと憶えこませる行為…。
錬金術で作った、特別な金属媒体にですな…。
そう、あれは念通球の集合体。
一定の記憶を封じることが出来る、魔導人形の脳幹にも使われている技術です…。」
「成る程な。」
ヂチャードは、陶酔したように勝手に話し出す老人に対し、適当に相槌を打った。
「だが人形と明らかに違う部分は、源を抽出してエネルギーに変えるという単純な動作のみを金属に
記憶させるところ、そして永久機関となると話はもっと別です。
いわば、鋼鉄の心臓を造り上げる感覚と申しましょうか。
ああ、確か、そんな怪物の伝説が聖書の物語のどこかにありましたかね……」
指先を小刻みに動かして、病的に笑うマーミリオン。
そんな理解が及ばない様子の相手に、ヂチャードはさらに嫌悪を感じるのであった。
「御託なんて並べなくていい。
とにかく、今期の源炉が一基も上がらない理由だけを答えろ。
こっちも報告があるんでな。」
促す彼に、マーミリオンは瞳に失望を浮かべた。
「……そもそも…完全源炉とは、一基を製造するのに丸半年かかります。
技術者……いや、この場合は源法術士も兼ねているのですが。
…彼等が丁寧に、同時進行で数百基程度を製造。
そして、実務に堪えられる動きをする物がわずかに一基完成すればいい……それくらいの低い確率、
デリケートな作品なのです。」
「だが、それでは…『いつかは完成する』と聞こえるな。
ガキの使いじゃねえんだ、そんな言い訳を報告する気はねえぜ。
何度も言うが、俺は『理由』を聞いている。」
「理由……ですか。
こちらが聞きたいくらいですよ。」
「?」
その時、面前のマーミリオンの瞳から、狂信的な光が消えた。
「…全くの原因不明。
こんなことは初めてです。」
そして物事を冷静に述べる彼。
「理由も無しに……ある日突然、完全源炉が産まれなくなったのです。
我々にとっては、『1+1』が『0』になったようなものですよ。」
「事態の解明すら、全く出来ていないってことか。」
そして両手で頭を抱え、テーブルに擦り合うくらいに近づけて震える彼に、ヂチャードは声をかける。
小部屋の中に、一瞬の静寂が流れた。
「……ええ…。
ですから、私は全てを手放すことにいたしました。」
「………何?」
彼の言葉を問い返すヂチャード。
「この件で騎士団は、私に責任を追及するでしょう。
はっきり申しまして、これからも源炉完成の目途は立っておらず、罪を免れません。」
目をはっきりと開き、妙に晴れ晴れとした表情。
だがヂチャードには視線を合わせずに、その老人は虚空に向かって話している。
「各種の調査のため、私が生涯に蓄えた財産もその殆どを使い果たしております。
そして、土地も家も全て根こそぎ置いて逃げるわけですから、その前に街からは奪えるものは
全部奪っていこうと思いましてね。」
「…!?」
そこでようやく、ヂチャードは立ち上がった。
だが、背後から首元に押し付けられる冷たい刃。
生命の危機を感じた身体が、一斉に硬直する。
「……そんな中に、お前が来た。
やはり私はついている。
ぎりぎりで、私の判断が競り勝ったのだからな。」
椅子と調子を一転させて、マーミリオンは笑った。
「…道中、ボディーガード料はサービスしておくぜ。
お客人。」
背後で呟く、着物の男。
彼が抜いた小太刀から伝わる殺気に、ヂチャードは両手を挙げた。
◆ ◆
「良かったら……時間一杯まで、艦内を見ていって頂戴。」
「……いいんですか。」
脇で並んで歩くフィンデルに対し、シュナは伏せ目がちに言った。
「…ごめんなさい。
戒くんの知り合いなのに、ロクに構うことが出来なくて。
それに……」
「すみません、気を遣ってもらって頂いて…。」
彼女は、元気の無い表情で笑う。
「…大丈夫です。
戒の奴が……どうして私を突き離すのか、分かっているつもりですから。」
「……危険だから、ね。」
フィンデルの言葉に頷く彼女。
「ああ見えて、あいつも気を遣うみたいです。」
「いい友達ね。」
「…今度こそ、手伝ってやろうと思ったんですけど…また無理みたい…。」
小さく続けられる、彼女の言葉。
フィンデルは彼女の若さに気を取られ、何かしらの目的意識を持っているのを見逃していた。
戒の口車に乗り、競わせたのは早計だったと後悔する。
そんな中。
二人は、廊下の曲がり角の先に人影を見止めた。
「…君の言っていることは、無茶苦茶だな!」
そして響き渡るリードの怒号に、自然に身を隠す。
「わかってます…」
その足元。
床に両手を付けたまま答えるのはパンリ。
「…勝負で勝った君が、自分の代わりに負けたあの子を乗せてくれと言う。
全く道理が通ってないぞ。
ああそうか、君は、あの勝負を本当の茶番にするつもりか。」
リードは、更に語気を強めながら彼を責めているようだった。
「……君の申し出は却下する。
民間人とはいえ、このルベランセに乗る以上、軍人の扱いになるということを忘れるな。
今は離陸前で忙しいんだ。
これ以上邪魔をすると、軍法会議にかけるぞ。」
脅しをかけ、そして離れようとする彼の足元に、パンリはしがみついた。
「お願いします!
…気付いてしまったんです……自分は覚悟が足りないって。
本当にふさわしいのは…きっと……彼女の方で…!!」
「だぁあ!
離せと言っている!!」
パンリを片足に乗せたまま、ぶんぶんと振り回す彼。
「……あいつ…余計なことを…!
こんな…情けをかけられて、私が喜ぶとでも…!!」
目の前の思いがけない光景に、飛び出そうとするシュナ。
それをフィンデルが制した。
自分達と同様に、反対側から顔を覗かせて落ち着かないようにしているミーサの姿を見止めたのだ。
「…ちょっといいですか。」
やがて、通路から姿を現す彼女。
「……何だ!?
今、いそがし……なんだ、ミーサか…」
パンリのおかげで腰まで下がったズボンを慌てて上げつつ、振り返るリード。
「えっと…やっぱりですねぇ、人員が不足なんですよ。
私、ようやく源炉のことが少しずつ分かってきて、いじれるようにはなったんだけど……そっちに
付きっきりになると、まだ格納庫の仕事まで手を回せなくて…。
もー、猫の手も借りたいっていうか。」
「……梅さんがいるじゃないか。」
「それは、ホントの猫でしょ。」
リードの精一杯の冗談に、真面目な顔で返すミーサ。
「とにかく、どうしても雑用係が欲しいんですよ。」
「……なんで、そういうことを出発直前に言うかな!!」
苛々した様子で、手に持った書類を手の甲で叩き鳴らす彼。
「まったく…今さら人員確保なんて…」
「じゃあ、この子でいいんじゃないですか。」
パンリを見下ろして笑みを浮かべ、ミーサは言った。
「……食堂の一件は知ってるだろ?
この子はコックに選任された。」
「だから、コックは、あのシュナって人を呼び戻せばどうですか。」
「!!」
彼女の提案に、二人は同時に動きを止める。
「……さっきの話、聞いてたのか。」
「私だって、鬼じゃないんですって。
こんな風に言い争っている現場を前にして、黙って通り過ぎられないじゃないですか。」
困った表情を隠さないミーサ。
そしてパンリの表情は、みるみるうちに笑顔に変わる。
「…わかったよ……フィンデルに相談する。
とりあえず、シュナを探して来てくれ。
もしかしたら、まだ近くに…」
「私が…!
私が行ってきます!!」
リードが言うが早いか、パンリは矢のように駆けて行く。
それを目で追いながら、ミーサも穏やかに笑いを洩らした。
「……いい乗組員達でしょう?
きっと、楽しい空の旅になるわね。」
「……!!」
廊下の角で、シュナが涙をこぼす前に彼女を胸に抱き寄せるフィンデル。
そこでようやく、リードは彼女達の所在に気付いた。
「……軍隊で一連の沙汰を人情で覆すなんて…あってはならない。
でも、どうしてもそうしたいのなら…黙認する。
あの戒とかいう小僧には、君が説明するんだぞ、俺はもう知らないからな。」
彼は呟いた後、横を向いた。
「わかってるわ……。
それが艦長の務め…責任だものね。」
フィンデルは残った一番の問題を前に、力無く笑って返すのだった。
◆ ◆
「…どうする?
口封じなら殺すのが一番だ。
……女ならともかく、この歳の男なんて買い手がつかんぞ。」
テツジは抜いた小太刀を構えたまま、ヂチャードを前にして言った。
「ふ、手荒な真似はしないでおくれよ。
中王騎士団は大切なオーナー『だった』のだからな。」
下卑た笑みで、手にしたカップを向けるマーミリオン。
そこで静かに垂れ幕が上がる。
「…なら、私に頂戴な。
騎士団の奴には『借り』があるのよ。」
車内に入る、女口調の男。
露出の多い服装、だが肌には生傷が目立つ。
そしてその背には、まだ多くの屈強な男達が並んでいた。
「…マジ、ガキ共の値踏みは終えたのか?」
「そうね。
一人あたり5万から6万ってとこかしら。
ただ、器量がある娘だったら10万にはなりそう。」
彼はテツジに返しながら、手を上下に振った。
「……どういう…ことだ?」
それまで、保身のために沈黙していたヂチャードが問う。
「なんだ、こやつには教えていないのか、シスター。」
「おやめになって下さい。
マーミリオン様。」
笑うマーミリオンに、懇願する視線を向ける彼女。
「教えてやればいい。
我々は…もう長い間、定期的にこういう『取引』をしているということを。」
「………!!」
鈍重な空気が、頭からのしかかる思いがした。
「貴様、少しもおかしいとは思わんかったのか?
誰も援助しない孤児院が成り立っていたことに。」
続けられる老人の言葉に、院長の視線は下がっていく。
真実は、その反応が示していた。
「……シスター…エルジャ…。
あんたは……!」
首元に突きつけられた刃に、自ら前傾して触れる。
ヂチャードはそれくらい、噴き出す感情を抑えることが出来ずにいた。
「…人さらいが……まさか教会の中にいるなんてよ…!!」
「…ヂチャード……」
彼女は全身を震わせたまま、言い訳を語らない。
一方のマーミリオンは、そんな様子の二人をさもおかしそうに眺めた後、テツジとその仲間に顔を向ける。
「しかし…値踏みの話だが…。
それなら、全員で150万Yは下らんな。」
「……全員…!?」
エルジャが声を上ずらせた。
「そんな……約束が違います…」
「一人も二人も……この際、全員も変わらんだろう?
何を取り乱している?」
マーミリオンは返す。
「あんたも、もういい歳だ。
これで私がこの街を去る餞別として、あの教会と土地はくれてやる。
老後を達者で暮らすがいい。」
「…それでは……子供達があんまりではありませんか!!」
「あんまりだと!?
己の保身のために、その子供達を売り続けてきたこの畜生が何を言う!!」
恫喝。
そしてその言葉に対し、ヂチャードですら否定の言葉を吐きもせず、恨みの念を向けている。
彼女は力無く、その場に膝を落とした。
「…では、この教会の子供を全て積み終えたら、次は外れの屋敷だ。
あそこの貧乏家族も、子沢山でな。
あり余っているぞ。」
そんな中、マーミリオンは嬉々として言う。
「仰せのままに、いたしましょうか。」
テツジが手下に目を向けつつ、それを命令の言葉に変えながら言った。
そこで右目に包帯を巻いた小人が中に入り、彼の代わりにヂチャードを押さえつけて拘束する。
「くっく……私にはツキがある。
逃亡を決行しようとした矢先に、偶然、お前達のようにこの筋に詳しい者が協力してくれるのだからな。」
「……何を言っている。
先に使いをよこしたのは、あんたの方だろう?」
入れ替わりで部屋を出ようとする直前、テツジは笑う。
「護送列車と警官隊を襲わせてまで、俺達を…」
「言っている意味がわからんな。
だが、もしも通常では考えられん不可解なことがあったというのなら、それはきっと……神の
おぼしめしというやつよ!!」
そこで、マーミリオンはテーブルに置いてあった騎士団のナイフをヂチャードの片足へ突き刺した。
「……ぐっ…!!」
膝を折り、床に伏す彼。
その上に、さらに小人が乗りかかる。
「……ロクな死に方しないぜ、あのじじいはよ。」
その光景を尻目に、小さな声で呟くテツジ。
「お兄様、ホントに手を組むわけ?
あんな奴と…」
「まあ、各地に顔は効きそうだ。
しばらくは酒と金にありつける。」
さらなる小声で囁くマジに対し、テツジが鞘に収めた小太刀を振り上げた。
「…マー……ミリオン…!!」
離れ行く者達。
激痛で朦朧とする意識の中、それらを追いながらヂチャードは怨嗟の声を上げる。
「安心しろ。
こんな腐った土地で虚しく死んでいくよりも、私の糧になった方が子供達も幸せというものよ。」
「…ふざ…けるな……貴様…!!
土を…水を…腐らせたのは……てめえの山だ…」
「吠えるな、野良犬。」
片目だけを開き、侮蔑を込めた言葉を上から浴びせる老人。
「ここ一帯は、私の力で保ってきたようなものだ。
預けた財産を返してもらうだけのこと。
それのどこが悪い……!?」
次の瞬間、椅子を転げ、大きな音を立てる。
外へ向かおうとしたテツジ達は足を止め、車内へと向き直った。
「お………おお…お前だれだ…!?」
マーミリオンと同様にうろたえて、思わずヂチャードから手を離す小人。
彼の横顔は、目元が醜く腫れ上がり、口が恐ろしく裂けた異形の顔面である。
「う……うわ…!!」
そして、その口から唾液を噴き出して威嚇する姿に、ついに彼等は後ろへ飛び退いた。
「…おまえ…その顔は一体……!?」
形相が変わり果てたヂチャードに対し、言葉を呟くテツジに向かって、飛ぶナイフ。
彼は瞬時に仰け反り、命中する寸前で小太刀の鍔で弾く。
さらに眼前に伸ばされた腕。
手首のみで投げる一閃。
それさえもテツジは身体を反転させながらかわし、姿勢を直した直後に相手へと斜めに抜き身を切り上げる。
「―――っつおお!!」
それを気迫の声と共に取り出したナイフで受け止め、勢いを流すヂチャード。
そのナイフは衝撃に耐え切れず、柄を残して砕け散る。
だが彼は瞬時に、代わりの得物を皮鎧の胸元から抜き出して再び両手に取り、地を転がって集団を抜けた。
「逃がすかぁ!!」
背後。
両手を前に突き出して追いつく、先ほどの小人。
「……どけ。」
ヂチャードは急停止し、逆手に持ったナイフを彼の眼球に突き立てる。
「いっ……がやあああああああああああああああ!!」
小人は顔面からナイフの柄を生やしたまま叫びを上げて、部屋の中を転げ回った。
「あ……ららら…。
ゴジちゃんってば、残ったもう片方の目もやっちゃった……。
ついてないわねぇ…」
家具や小物を散らばらせ、やがてうずくまって痙攣する彼に、呆れ顔で呟くマジ。
その先では、勢い良く飛び出して脱出して行ったヂチャードが、外で待機中の手下達を斬り進んでいく。
「…ヂチャード……。」
後を追うように小部屋から飛び出すシスター・エルジャ。
だが彼は一切振り向かず、出血した足を抑えながら、ひたすら坂を駆け上がっていた。
◆
(ガキの頃に悪さした、こんな『人を驚かせる顔』が役に立つとはな……!)
駆けながら、順手に握り締めたナイフに力を込める。
そして、その右手の小指に光った輪が消えると、元へ戻りゆく彼の顔。
(……しかし、全員を連れて逃げられるか…?)
思い返すヂチャード。
現在、教会にいる孤児達は20は超えていた。
建物に辿り着いた後、窓から中の様子を用心して覗く。
(……!!)
途端、彼は愕然とした。
武器を手にした、かなりの数の男達が、まだ教会内に留まっている。
そして子供達は彼等に怯えきったまま、中央で寄り添うようにして固まっていた。
(…万事……休すか!!)
目に見える範囲だけで、相手の人数を量ったのは愚かだった。
騎士として、諜報員として、この程度の予測は出来て然るべきなのだろう。
振り返れば、坂下から追って来る男達。
事態が教会の中に知れれば、子供を盾にされて状況は更に不利となるのは明白。
ヂチャードは、まず下から押し寄せる相手に向かうため、痛めた足で地を蹴った。
「……!!」
急に戻って来る自分に気にとられた一人を蹴り飛ばし、続けざま別の男に肘鉄を食らわせる。
この程度なら、不意を突けば、素手でも充分渡り合える。
だが、リーダー格の着物の男はどうか。
「……貴様!
…死にに戻ってきたか……!!」
乱れる集団の中。
小太刀を向けて、青眼で構えるテツジ。
その凶刃を前に、足へ再び激痛が走り。
体内の歯車が狂う。
坂の傾斜も加わり、崩れる態勢。
そして、視線を戻せば。
既に自分の懐に踏み込んでいる相手の姿に、ヂチャードは死を予感する。
中天に舞う血。
斜めに斬り捨てられて、肉塊が飛んだ。
「……っ!?」
直後、自分の代わりに体を落ち込ませる修道服を、抱きとめるヂチャード。
「ち!!」
人間を斬り抜いたものの、仕損じたことを悟り、テツジは舌打ちをする。
「……なぜだ…シスター…!?」
「……ぅ…」
ヂチャードに上体を起こされて、血と泡を吹きながら口を動かす彼女。
「……ごめ……なさい…。」
「!!」
エルジャは、最期の際にまで笑顔を絶やさなかった。
そのことに、ヂチャードが目を見開く。
(私の苦労など、何ということはありません。
もっと辛い人間が、世の中に沢山いるはずなのだから…)
今日、かけられた言葉の意味を理解する。
マーミリオンが言うような、己の保身などではない。
彼女はずっと悔いていた。
それでも笑顔で隠し、誰も心配させまいと気を使っていた。
思えば自分は、貧しいのは解っていたにも関わらず、孤児院として機能していたこの教会を一度たりとも
不安に思うことは無かった。
彼女の笑顔には、それだけの力があった。
断腸の思いで、より多くの命を生かすためにとった残酷な手段。
心優しい彼女が一体どのような気持ちで、売り渡す子供を選別していたのか。
そして、どれだけ苦しみながら生きていたのか。
気付かなかった自分に、彼女を責める権利など本当に無い。
「……ぉ……あぁあぁああ…」
やがて背後から迫る男達によって、嗚咽する彼は取り押さられ。
彼女の身体から離されて地べたに押さえつけられる。
「……ふん、老いぼれが。
すでに片足を突っ込んでいた墓に、自分からもう片方を突っ込みおったわ。」
刀の血糊を払うテツジの後ろから、マーミリオンが顔を覗かせる。
「………なにこいつ、泣いてるわよ。」
ヂチャードに近付き、蔑んだ目で見下ろすマジ。
「…ぁあ……そこを…どけ…。」
血走るヂチャードの瞳が、泥の上で動かなくなった修道着に向けられている。
「…あんたねえ……自分が置かれている状況…よく考えなさいよ?」
「さて…」
テツジは刀を収め、楽しそうなマジを押しのけてから、その鞘先で地べたの彼の頬に一撃入れた。
「こいつ……どうする。」
向けられる反抗的な目を睨みつけながら、彼は続ける。
「……始末するのは、現在の騎士団の内情を吐かせてからだ。
こやつ以外に、何かしら別の手段を講じられていたら、たまらんからな。」
マーミリオンは放置された老婆の死骸を一瞥、口元を襟で押さえつつ言った。
《…殺す……》
地面の砂利を含んだまま、睨み上げて硬直するヂチャード。
その口元だけが異様な抑揚を呟いた。
《………殺してやる…ゥ……きさまら…》
顔面の形は既に元に戻っている。
ところが、その右額に不気味な小さな人面が浮かび上がった。
「ああ―――!?」
驚き、一歩退くテツジ。
そのすぐ背後のマジとマーミリオンをはじめ、周りの連中はそんな彼の様子を不思議がる。
続いて異変が起きたのは、自分の周囲だった。
焦げたようにくすんだ灰色の鳥の羽根が、舞い散り始めているのだ。
手下が抑えたヂチャードの腕は翼が重なり、彼の後頭部を半透明の大きな梟の頭が覆った。
その梟の顔は壊れた発条仕掛けの人形のように、がたがたと首を傾げるように動き。
黄色く光った丸い瞳の周囲に、数百もの人間の形相を浮かび上がらせ笑っている。
「―――っおぉ!!」
恐怖をもって再び、ヂチャードを強く殴りつけるテツジ。
そんな彼の様子に、今度は皆は顔を見合わせた。
「……どうしたのよ、兄貴?」
マジの言葉で、他の人間が周囲の異変に気付いていないことに気付く。
冷汗がテツジの頬を伝い、拳に滴った。
「……おまえ…!
いま…何をしようとした…?
妙な真似……! するんじゃねえ!!」
「……?」
強引に立たされ、さらに浴びせられる詰問に対し、ヂチャードはうなだれたまま腫れた片目をわずかに開いた。
「何をしようとしたのかって、聞いているんだ!!」
異常な激昂。
恐怖。
それが全員に連鎖し、不穏な空気に変えていく。
(…さ、錯覚だというのか……!?)
もう、ヂチャードに重なっていた異形の鳥はいない。
だがテツジの中では、本能が警鐘を鳴らし続けていた。
「やはり殺す!!」
ついに小太刀を抜き、刃を向ける彼。
「ちょっと…兄貴…?」
マジが脇で驚く。
テツジがこのように怯えた感情を剥き出すのは、非常に珍しい。
一方のヂチャードは、何度も殴られたショックで意識を朦朧とさせていた。
―――その生死の際に頭をよぎるのは。
整列した中王騎士団の団員達を背後から眺めている自分。
何度か潜入した、軍隊の飛翔艦・戦闘騎群。
そして、聖騎士の背中。
(……どうして…お前たちは…それだけの力を持ちながら、世界を変えようとしない…?)
弱った瞳で、地べたから眺める、恩師の骸。
(力を…持たない者は……どんなに頑張っても…報われないというのに……。
どう…して……)
定まらない前後の記憶から、孤児達の姿を手繰り寄せ、目を閉じる。
そこで自分の口の中に感じる血と土と金属の匂いに気付けられ、再びゆっくりと目を開けた先に見えたのは、
テツジの背後に降り立つ人影だった。
「!?」
その者は瞬時に、細い三日月の形をした刀を彼の喉笛にあてがう。
そして続けざま、続々と頭上の木々から降下する者達。
その全てが外套で深く身を包み、鼻から口元までを布で覆い、眼光のみを鋭く光らせている。
「……!?」
不意に音も無く現れた人間の群れに、あっけなく拘束される賊徒達。
たとえ気配を消していたとしても、このようなことに気付かないということがあるのだろうか。
いまだに数人の人間が、頭上の森の木々に張り付いたまま、下の様子を窺っていた。
「……お前ら…は…?」
賊徒達の命を掌握した彼等に、問うヂチャード。
集団の中の一人が近寄り、指を曲げて口にくわえ、長短の口笛を鳴らす。
それを合図に木々から顔を見せている連中は姿を消した。
その音に、ヂチャードは肩の力を抜く。
「…その口笛……。
この辺りをうろついていた連中……あれは…お前らだったのか…」
「貴方様に仕えるよう、ディボレアル様より仰せつかっております。」
その者の外套の中から聞こえるのは、低い女性の声だった。
「…あの時は、貴方が警戒されておりましたので、合流に遅れました。」
「……あ、ああ…」
揺らぐ身体。
一団を指揮している彼女は、咄嗟に彼を片手で支え、外套から半身をのぞかせた。
灰色の肌。
頭髪は半分は長く、もう半分は剃り上げている。
裸足で、足首には金属の装飾物。
服装は胸部と腰部の布巻きのみ。
そして、他の者と同様に腰にぶらさげた三日月刀が不気味に光っている。
明らかに騎士団の人間ではない。
だが、それらを束ねているという黒騎士の名。
ヂチャードは自心の奔流を、猛速度で感じた。
◆ ◆
廊下を歩く二人の足に伝わる、微量の振動音。
「…何とか、無事に飛びたてたな。」
「なに言ってやがる。
この艦は、いつも離陸だけは無事じゃねえか。
問題はこれからだ。」
安堵の声を洩らすバーグに、戒が厳しい顔つきで言った。
「まあ俺としては、せっかく操縦の何たるかを掴みはじめたからよ……体が勘を失わないうちに実戦に出たいんだが。」
「ヒゲ、おまえ……ふざけんなよ。」
低い声で、さらに睨み付ける彼。
「戦わずに済むなら、それが一番じゃねえか。
……死ぬ可能性が無い。」
「若人よ、俺より考え方が老けててどうする。」
「中年のくせに好戦的な奴よりマシだ。」
「……あのな…」
食堂を通りがかり、そこでバーグは言葉と足を止めた。
「…それにしても……本当に良かったのか?」
「あ?」
「あの料理人の娘のことだ。
お前の友達だったんだろ。」
「農民は畑を、漁師は海を離れるなってんだよ。」
戒はそのまま食堂に入り、一番隅のテーブルに席を取る。
「あいつにはもっと、相応しい場所がある。」
「わかるけどな…さっきの、あの落ち込みよう……不憫でならねえ。」
バーグも倣い、椅子を引いて腰を落ち着かせた。
「お前は赤の他人だろうが。」
「同じ年頃の娘を持ってみろ!
そんな言葉、絶対に言えねえからな!!」
むきになる彼に、戒は閉口する。
そして何気なく見回す食堂内。
床をモップがけするパンリ、ザナナと世羅が談笑する様子。
「まあ、とにかく……」
そして、厨房にて笑顔で働くシュナの姿を見留める。
「……む。
さしもの俺様も、疲れているな。
幻覚が見えるとは…」
戒は、両の目元を強く押さえ込んだ。
「…あれ……あの娘じゃねえか……?」
「やっぱりか!
やっぱりお前にも見えるのかヒゲ!
なあ、おい!!」
バーグの言葉に吹き出し、途端に頭に掴みかかる彼。
そこで待っていたかのように、廊下側からフィンデルが顔を現す。
「……フィンデル!
これはどういうことだ!?」
「あ、戒くん…さっきの催しは……まあ、なんというか…。
結果として最高のコミュニケーションになったわ。
艦内の結束もより一層固くなったというか。」
「??」
わざとらしい彼女の言葉に、戒は口を開けて呆けたまま何度も瞬きをした。
「ついさっき、更なる人手不足が発覚しちゃって。
結局、二人とも雇うことにしたの。
もちろん当人達も同意してくれたし、他のみんなも賛成だって…」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ!!
それじゃあ、あの勝負は何のためにやったんだ?」
「あら?」
詰め寄る彼に対し、フィンデルは指を自分の唇に当てて、不敵な笑みを浮かべる。
「最初は、戒くんも世羅ちゃんと大喧嘩したじゃない?」
「…………!」
「若い頃って……ぶつかりあって絆を深めるものよね。
今じゃ、二人とも仲良しだもの。」
凍りつく戒。
同席したバーグは震える頬を必死に押さえ、早々に退散した。
「…お前はずるい。
……ずるいな。」
そして一言、呟いた後。
彼も渋い表情で立ち上がり、面白くなさそうに食堂を後にする。
「……ごめんなさい。」
フィンデルは苦笑して、独りで頬を掻いた。
過去を引き合いに出したこと。
人の為とはいえ、そのやり方に関しては決して罪悪が無いわけではない。
「なかなか……大した裁きだ。
フィンデルちゃん。」
後ろから歩み寄ったロディが、軽く肩を叩く。
「それは皮肉ですか?」
「いや……素敵ってことさ。」
彼は、自分に対して警戒を解かずに離れていく彼女に対して、首を左右に軽く振った。
「ただ…指揮官としてはどうですかな。」
「おや、モンスロン殿。」
近付いた猫背に、ロディが気付く。
「じっとしているのも退屈でしてね、実は……今日は一部始終を楽しませてもらってましたよ。」
彼は目を細めながら続けた。
「今回の彼女の判断は、艦長として著しく適当でない。
何故、この艦が炎団の猛攻を幾度も退ける戦果を挙げられたのか、興味があったのですが…」
「随分とお詳しいようで。」
「ギルチ提督から……色々と伺っておりまして。
まあ…その他にも…」
「?」
ロディの興味の視線を感じたところで、モンスロンは一転して踵を返す。
「いやいや…独り言です。
さて……北は、ここより冷えますぞ。」
◆ ◆
一瞬で逆転した立場に、賊徒達は黙ったまま怯えていた。
蛮族相手に生半可な交渉が通じないことを、彼等は理解しているのだ。
「……どうなさいますか?」
そんな中、老婆の亡骸を抱え、半ば放心状態のヂチャードへ訊く女。
「……頼む…。
…こいつらを皆殺しにしてくれ…」
自分でも驚くような言葉が、口を突いて出た。
「…頼む……!!」
震える唇から血を流しながら、さらに哀願するヂチャード。
「残念ながら、それでは出来ません。」
目の前の彼女は、平坦な調子で返した。
「……やっぱり…な…。
…俺ごときに……仕えるだなんて…何かの間違いだって思った…ぜ…」
苦笑いと共に立ち上がるが、ふらつく彼。
だが、それを女性は肩を強く掴んで支える。
「いいえ。
我々は確かに、貴方に『仕える』と申しました。
故に、それなりの態度で『ご命令』をくださいませ、ヂチャード様。」
気が付けば。
外套の者達は、全員が同じ瞳で命を待っている。
(……これがチカラだ。
…圧倒的な……誰にも頼らないチカラではないが…)
何かが自分の内側に語りかけた。
先ほどまで自分を追い詰めていたテツジを見る。
その手下達。
そして、マーミリオン。
今では彼等は皆、救いを求めた顔で自分を凝視している。
ヂチャードは一旦、全ての具象から目を離し、星空の奥を見詰めた。
凍える夜気が体温を奪っていった。
「―――謀主、マーミリオンの首を刎ねろ。」
途端。
女は、自分が脱いだ外套をヂチャードの半身に被せる。
「たっ、助け…!!」
その繊維の奥で、マーミリオンの鈍い声がした。
布越しに感じる、大量の血飛沫。
「…加えて、その謀主の人身売買に加担した者、全員の息の根を止めろ。」
彼の合図で、蛮族達は泣き叫ぶ賊徒の口を塞ぎ、手にした刀を一斉に横に構える。
(………これが偶然?
神様のおぼしめし?
…ありえんな……)
テツジはその中で。
(……何者か…とんでもない奴の手の平の上で踊らされたんだぜ…俺ら…)
手下、それらを囲む蛮族、地面に転がったマーミリオンの死骸、これまで一切の接点の無かった者達を
眺めて思う。
「…刑務所の方が、マシだったか……。
てめえら、覚悟を決めな。」
最期に言うと、掴まれるその顎先。
彼等の喉の皮が突っ張り、次々と鈍い音が響いた。
「……あの教会は四方を囲んだあと、誰も逃さずに焼き払え。」
ヂチャードは傍らの女性に告げる。
そこで離れていた一人が彼女へと駆け寄り、何かを耳打ちした。
「…あの中には、賊以外の人間も多数いると申しておりますが。」
「それがどうした。」
ヂチャードの返答に、動きを止める彼女。
「今の俺には、金も地位も無い。
たとえ命が永らえても、あの子らを待つ陵辱と恥辱に塗れた未来は変わらん―――」
言葉を発し。
「ならば焼き払い、俺はその魂にかけて復讐を誓う。」
彼は目で制すると、外套の男達は直立して整列した。
「……驚いております。
…あの方が仰っていた以上に、我々と順応なさる。」
「黒騎士か。」
ヂチャードの呟きに、彼女は無言で頷いた。
「それでお前らは、俺の見張り番も兼ねるというわけだ。」
「……いいえ。
我々ロ・ネ族は、同時に一人の主にしか従いません。」
「その言葉、信じていいんだな?」
彼女の握った、血に塗れた外套を奪い取り、羽織る彼。
そして、濡れた土くれの中を進み、まだ痙攣している四肢を踏み潰して進む。
推して黙り、続く彼女。
命を含んだ口笛が、壊れた街に悲しく響き渡った。
◆
◆ ◆
◆
「―――大馬鹿者ッ!!」
爆発する怒号。
それは地下施設全体を揺るがせると錯覚するほど。
外で書類を整理している秘書達は、震える執務室の扉を注目していることだろう。
「…………ぅ。」
褐色の肌の青年は、ようやく、だらしなく斜めに首を傾げながら瞼だけを上げ始める。
「支部長……お叱りはごもっともなんですが…」
その脇で、耳栓を外しながら、小さな少女が意見した。
「一応…申し開きしても宜しいですか。」
「お前らの言いたいことは分かっている。」
一人納得したように腕を組み、男は苛ついた様子で歩み寄る。
「久遠の戦士たるもの、目の前の犯罪を見逃せないのは当たり前だ。」
そしてネクタイを直し、宣言する彼。
「だがな、我々は厳格なる組織。
上からの命令を無視することは、最も悪と知れ。」
少女を一目だけ見下ろし、そして青年の黒服のスーツの襟元を強く掴む。
「だから、帰還しろと言われたら、帰還しろ。
トイレの途中でも帰還しろ!!」
「はい、今度から気をつけます。」
少女だけが笑顔と共に返事した。
「…しかし支部長……。
このところの中王都市各地での奴隷市場の横行は、目に余るものがありますね。」
彼女は愛嬌のある円らな瞳だったが、稀に奥では鋭い光をのぞかせる。
「…有史以来、この手の犯罪が増え出すと、それは国家の衰退を意味していると言われています。」
「その通りだ。
マピット=フォルス。
それゆえに、この支部の全力をかけなければならぬ事態が訪れようとしている。」
「国家レベルの危機ですか?」
「……そうだ。
だからこそ……ユイウス、貴様の投入の他にも…」
目の前で、鼻提灯が膨らんでいた。
立ったまま器用に眠りこける青年の姿に、彼はこみ上げた怒りで右手を震わせる。
そして急いで、ポケットから取り出した沈静効果のある錠剤を口に含み、デスクに置いた水差しからコップへと水を注いだ。
「……だから…貴様のような、ウスラ馬鹿でトンチキな寝ぼすけの他にも、中王都市きっての使い手を待機させること
が決まっている。」
「音速のギュスターブ、ですか?」
彼の言葉も途中に、抑揚の無い声で少女が言った。
「そうだ。」
卓上のコップを持ち上げる彼。
だが、少女が強い力でその手を止めた。
「正気ですか?
狂人と聞いてます。
彼とユーイと組ませるなんて。」
「…噂はよく耳にしているようだな。
だが……これは審議会の判断だ。」
彼は口内で溶け始める薬の苦さに、顔を歪ませた。
「審議会……。
それだけ、この危機には信憑性があると見てよろしいんですね?」
「そ…そうだ。
……勘弁してくれ…マピット…!」
離れる手。
彼は勢い良く水をかき込んで、むせる。
「し…暫くはこの態勢で、中王都市支部は戦況を見守る。
…別命あるまで二人は待機。
以上だ。」
「了解です。」
少女が凛とした声を上げる中、脇の青年は白目を剥いている。
「……無理だ。
もう……これ以上は食えん…」
そして、その寝言を発した顔面に対し、コップの残った水が浴びせられた。
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第三章
第三話 『黒色絵具』
了
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