3-2 「大悪名に触れる」
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This story is a thing written by RYUU
Air・Fantagista
Chapter 3
『Wivern in central kingdom city』
The second story
' It touches in Big notoriety '
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揺れる湖面の小船の上で。
「…へえ…飛翔艦が、大火事で沈没だってよ…。
物騒だなァ。」
先ほど、新聞売りの小僧から買った新聞を開きながら、バーグがのんびりと声を洩らす。
「しかも……隣町だぜ。」
空いた片方の手には、釣り竿。
しかし、水面に垂らしたその糸が引かれる様子は、全く無い。
「……バーグ…。」
背中越しに、慣れない手つきで竿を握り締めているザナナが呻いた。
「いいんだよ、釣れなくても。
この、のんびりした雰囲気を楽しめりゃあな。」
だが、何か言いたげな彼を先回りして、緩みきった表情で答えるバーグ。
「魚が…釣れなくてもいい?
わからん。
では、この行為に何の意味があるのだ?」
「全てのことに、意味を持とうとするな。
肩がこってしょうがねえ。」
そして、頭を左右に大きく振って首を鳴らす。
「……フ……フゥウ……ウウウウウウゥ……」
「…おい、どうした!?」
突然の唸り声。
バーグがそんな背後の異変に振り向くと、既に大きな影が頭上を飛んでいた。
「…あ〜あ……」
そして湖面に広がる高波と泡を見詰めながら、呆然と呟く彼。
「バカ野郎。
せっかくの、まったりとした雰囲気が台無しだ…」
「………。」
当のザナナは、極めて平静な様子で水面から顔を出す。
その横から突き出した槍の先端には、大魚が貫かれていた。
「見てみろ。
こっちの方が早い。」
「…そういうことじゃねえんだよ…まったく……」
バーグは苦笑して頭を掻き、湖のほとりに作った焚き火で獲物を待つ世羅の方を眺めた。
そっと青空を仰げば、雲はゆっくりと流れている。
長閑な昼下がりは、まだ始まったばかりだった。
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エア・ファンタジスタ
Air・Fantagista
・
第三章
中王都市の飛竜
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第二話 『大悪名に触れる』
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初陣で緊張する新米騎士に、先輩が一番最初に語ってくれる話があった。
「―――その昔、我が騎士団には疾風よりも速き名馬があった。」
「その馬は戦場で傷付き、前足を一本失ったにも関わらず、伝令を背に乗せて遥か遠方に援軍を求めたという。」
「結果、我が騎士団は勝利を納め、長きに渡る国の礎を築くこととなり。」
「己が命と引き換えに勝利をもたらした馬はその後、騎士団の御旗にその魂を注ぎ込まれ、何代も続く
我々の誇りとなった。」
戦場の中空には、細長い黒煙が幾つも立ち昇り。
大地には敵味方の残骸。
それらを高い馬上から見据えて、彼は言った。
「このアルドの叛乱より、ずっと昔の話だがね―――」
◆ ◆ ◆
「―――殿。
…ファグベール殿。」
脇から、黒騎士の低い声が聞こえる。
「……すまぬ。
呆けていたか?」
ファグベールは巨体を揺らしながら答えた。
そして心中を隠すように、恰幅の良い身体を、鎧ごと手の平で叩く仕草。
昼夜を通して、中王都市の最南端から戦闘騎での強行縦断。
現在地は国領最北端の街ゴルゴート市であった。
つい夢想してしまったのは、そんな旅の疲れからもあったが、久方ぶりに大団長の厳しい気配に
直面したからに違いない。
老将は、そう感じ入っていた。
大陸全体から見れば、北国と呼べるほど気候は荒くない中王都市北部だが、その山間部となれば話は別である。
吐く息も即座に白く変わり、熱く鼻先をかすめていく。
山岳の洞窟内部を大きく刳り貫いたその地は、さしずめ要塞。
それも、赤華の長たる自分ですら知らない騎士団の施設が、辺境に建造されていたのである。
そしてそこには、運びこまれた大量の飛翔艦と戦闘騎を整備するにはぎりぎりの人数であったが―――
完全なる秘密部隊とされる黒華が、かなりの規模で動いていた。
「アルドの叛乱の勝利に多大な貢献をもたらした列強七国は、今に至るまで絶大な権力を大陸に
誇ることとなったが…」
この秘密裡の建造物が前線基地として充分に通用することを認めた上で、ファグベールは言葉を発した。
「…こと中王都市に関しては特に、その傲慢と平穏さが内部に腐敗をもたらしたのは間違いない。」
弾薬の詰まった木箱を運ぶ男達を、視界の遠くに据える。
「しかし今、我が目に映るのは、それらを一切廃した、乱世の景色ではないか。
平穏とは……つくづく遠いものだ。」
そして最後に全景を見回しつつ、締めくくった。
「この慌しさは、しばらく辛抱していただきたい。
小団長殿ともあろう御方を、充分にもてなすことも出来ず非常に心苦しいが…」
「なに。
自らが望んだこと。 選べる立場に無いわ。」
ディボレアルの慇懃な言葉に、軽く答える老将。
「しかし……我が赤華の騎士達がこれを見たとしたら、何と思うか。」
彼は苦笑した。
改めて下から見上げる、見慣れている飛翔艦たち。
そして、床岩に敷き詰められた戦闘騎群。
今ではロール型の形状をした機械が、その表面に『黒』の塗装をかけている最中である。
「…ご注文どおりでしょう、僕が作った魔導人形は。
塗装機能のみに秀でた特別製です。」
背後から、疲労困憊の面持ちで現れる少年。
洞穴内の露出した岩肌に擦れ、純白だった白衣はところどころ茶色く薄汚れている。
「年端もいかぬのに、ミシュレイ殿は実に大した技術者よ。
……赤華自慢の飛翔艦全隻と戦闘騎を、こうもあっさりと黒塗りに変えてくれるとは。
ただでさえ団員達は、作戦途中の理不尽な退却と休暇命令に目を丸くしておったのに、さらに
これを見たら、腰を抜かすであろうな。」
「何を仰っているんです。
ファグベールさんも、僕くらいの年齢には既に大陸十字軍に参加していたと聞きましたよ。」
「……む。
それは四度目の遠征よの……もう五十年前の話だが―――」
顎の下から見上げる少年に対し、微妙に得意げな表情を浮かべる老将。
「その頃、大団長殿は既に一軍を率いておった。
拙者はその時に旗持ちを任され、それ以来の腐れ縁よ。」
「ものの数日で全軍を撤収できるのは、規律が行き届いている証拠。
ファグベールさんの統率力には、感服いたしますよ。」
今度は飛翔艦を見上げて、ミシュレイが笑う。
「……あまり誉めんでくれ。
それに…子供がお世辞を使うのは、聞いていて心地良いものではないぞ。」
それを眉間にしわを寄せて返す老将。
剛直な彼にとっては、妙に行き届いた少年の言葉は少し鼻につくようであった。
「…これは失礼。」
肩をすくめて会釈するミシュレイ。
「ところで、ディボレアルさん。
僕はもう紅茶も飲まずに一眠りしますよ。
もう5日も徹夜なんですから、そろそろ解放して下さい。」
「例の機体の改装は、済んでいるのか。」
相変わらずな、黒騎士の言い様。
一旦は彼を横切って過ぎた少年は、ぴた、と足を止める。
「この前はいくら調整段階だったとはいえ、マクスはずいぶん苦戦したそうじゃないですか。
でも僕が造った機体に乗る限り、もう二度と『そんなこと』を理由にさせませんよ。
……いずれ彼は相手を選ばなくなる。」
「仕上がったというわけか。」
「…まだまだ、改良の余地はありますけどね。」
眼鏡の奥の瞳を光らせ、不敵に笑みを浮かべる少年。
「了解した。
聖騎士は、三日以内に合流させる手配をとっている。
それまでは、ゆっくりと休むがいい。」
「………やれやれ。」
終始、上から物を言う彼の調子に辟易しながらも、ようやくの解放にミシュレイは心底安堵した。
◆
「…ところで、軍師殿。」
ミシュレイの小さな姿が洞穴の一つへと完全に消えてから、ファグベールは言葉を発した。
「黒華とは、これが全てか?」
黙々と作業を行っている、黒い皮鎧を着込んだ者達。
それらの人数は多いとは決して言えない、自分の指揮下である赤華人員の十分の一にも足りていないだろう。
「優先すべき任務の無い者は、全て集合させているが。」
「…拙者には解せぬ。
整備ならともかく、本格的に我が赤華の軍備を使うには、あまりに人手が少ない。」
「その点は既に対策済みだ。
貴殿が懸念する必要は無い。」
話をかわして、前を歩くディボレアル。
ファグベールは、その黒い甲冑の鈍い光を一瞥し、目線を横へと流した。
(…臭うな……。
…大団長は…このような用兵を好む御人ではない…)
そして、目元を険しく細める。
そんな老将の気配を感じ取ったのか、黒騎士は立ち止まり、彼に向き直った。
「言わんとしていることは解る。
不服ならば、遠慮なく意見を頂こう。
それだけの権利と地位が、貴殿にはあるのだ。」
「意見だと?」
あの時、死を覚悟して望んだ大団長の御前。
「今の我が首は、身体から離れていると同じ。
ガイメイヤ殿の慈悲で生き延ばされたこの身命、既に考える頭など持ち合わせておらぬわ。」
ファグベールは、腹の底から笑い声を飛ばした。
「しかしながら……我が赤華を脱走したレイキ=モンスロン…。
実は黒華が既に奴の足取りを掴んでおり、それを承知で泳がせていたこと。
さらに、その報告を少しばかりもして貰えんとは……本当は地位なんぞ、何とも思っておらんのだろう?」
皮肉めいた調子で、黒騎士を睨みつける彼。
「最近は、我々も非常に立て込んでいた。
その点は容赦してもらいたいものだな。」
「……なに、元はといえばこちらの失態。
文句の言える立場ではないのは、そのこともある。」
ファグベールは言いたいことを言い終えた後、改めて顔を引き締めて思考を正す。
「この度の戦は……拙者をただの一兵卒としてお考えいただきたい。」
「それは無理な話だ。
軍師というものが一たび戦場へ出れば、目の前の猛将と己の知謀とを天秤にかけて量らずにはいられない。」
そして頭を下げる老将に返すディボレアル。
「……世辞はいらんと言ったはずだ。
それよりも、今作戦……指揮は全てそなたが執られると申されるのか。」
「いささか、僭越であるが。」
彼の淡白な一言に、ファグベールは息を飲んだ。
「拙者はそなたを知らぬ。 実力も素性すらも。
だが……大団長が真に国家と国民を愛していることは知っておる。
あの方が決めた者に間違いはあるまい。 そなたの命は、大団長の命と心得よう。」
ここへ来る直前、教会で別れたガイメイヤの姿を思い浮かべる。
お互いに歳をとったと笑い、首都での公務に戻ると言って去った彼の背中。
「…だが、それもあくまで、『中王都市国家のため』であるならばの話だ。
この先、それをしっかりと見極めさせてもらうぞ。」
それはいまだに剛毅な背であった。
「ますます、望むところ。」
黒騎士は低い声で笑い、マントを翻す。
(同国の軍隊と剣を交える……この背徳。
だが日頃の遠征以上の、この心の奮えは何だ?
……所詮、私も只の戦人で御座りますか、大団長殿。)
ふと脳裏に浮かんだのは、互いの若き姿。
凱旋時の母国情景。
あの頃の旗印は、今でも老将の心にたなびいていた。
◆ ◆
視線の向こうの野原の斜面に並ぶ、山羊の大群。
そして段々畑の一面の緑が、綺麗に青空と地面との境を分けている。
この町は今まで訪れたどこの町よりも、何とも牧歌的であった。
そんな小道を歩いていく一行。
早朝からの歩き通しにも関わらず、馬を連れて軽快に前を往くのは鎧姿のクゥ。
彼女は自分の家まではそう遠くないと話していたが、それはあくまでも個人的な思い込みであり、
運動に慣れていないパンリは息を切らせて、足は既に棒になっていた。
そして意外なことに、戒は自分よりもさらに重い足取りで最後尾をふらついている。
だがさして気にも留めず、パンリは汗を拭って顔を前に向け直した。
―――けたたましい音が聞こえたのは、その直後だった。
「…か、戒くんっ!?」
振り返れば。
野道から足を踏み外して、用水路ともいうべき道脇の小川に片足を突っ込んでいる戒の姿。
「…くそ……!
…い…て…ぇな…!」
そして彼は真っ赤な顔で瞼をきつく閉じ、その場から全く動けないでいる。
「どうしたんですか、急に!!」
クゥの馬から一旦離れ、戒の腕を取って道に戻すパンリ。
同時にバランスを崩した彼を咄嗟に支える。
感じる吐息と重量。
「…こ…これは…すごい熱ですよ…!!」
その叫びに、クゥが馬を止めた。
「……具合が悪いのですか?」
「…………あ?」
近付いた彼女の問いに、息を荒げながら答える戒。
耳の聞こえも悪いようで、返答に要領を得ていない。
「昨晩の無茶で、きっと体調を崩されたのではないでしょうか…!」
「……素人が下手に戦うからです。」
パンリと対照的に冷淡な態度で、クゥは馬上のウェンウェンに近付いた。
「よろしいでしょうか。
彼を先に連れて、私の家で寝かせて来ようと思います。
その後、改めて迎えに来ますので、どこか……」
周囲の縦横に走っている小道を見回す彼女。
そこで農家が共同で使っている小屋を確認する。
「あそこで休んで待っていて下さい。
必ずお迎えに参ります。」
「…ああ、彼をよろしく頼むよ。」
ウェンウェンが馬を降りた後、代わりに乗せられる戒。
彼はぐったりと前のめりに馬の鬣に寄り掛かり、その後ろにクゥが飛び乗った。
そしてそのまま手綱を握り、馬を一気に走らせる彼女。
二人はすぐに、駆け上がった斜面の頂上から見えなくなった。
「……大事に至らなければ良いのですが…」
パンリの呟きの後、すぐ後ろから迫ってくる牛車。
頭毛が多く、頭からうねりのある角を生やした大きくて黒い牛を先頭に。
後ろには十数匹の乳牛を引き連れている。
彼はその様子を見とれるように注視した。
牛達が引いている荷台車には、大きな鉄瓶が大量に載っている。
狭い道ではそれらが通るのがやっとで、やがてパンリは道外に押し出されるような形になった。
「やっぱり、外界は刺激的ですよね…。
ディバイディオンは自然が殆どありませんでしたから……。」
驚きと共に、最後尾の黒牛に近付くパンリ。
そのもじゃもじゃとした堅めの頭毛を撫でながら笑う。
しかし同時に、誰からも返事が無いことに気付く彼。
「……ウェンウェンさま?」
誰もいない道端。
目の前では牛の尻だけが列を連ねていた。
◆ ◆
「おや、バーグさんでねえか。」
小屋を通りがかった彼に、その中から声をかけてくる農夫。
「おう。
じいさん、元気か。」
バーグは片眉を上げ、歯の隙間に詰まった魚の骨を抜きながら近寄った。
「今から、家に帰るのかい?
どれ……ちょうど採れたてがある、持っていっておくれよ。」
農夫は足元の籠から適当に野菜を見繕って、ずた袋に入れて手渡す。
「いつも悪いなあ。」
「なあに、いいってことよ。」
礼を言うバーグに笑いを返し、農夫は景色を眺めながら、再び酒瓶を手に取った。
「……これで俺の娘に何か作らせよう。
結構、料理が上手なんだぞ。」
「うん!」
後ろで、頷くザナナと世羅の笑顔。
バーグは、それを見る自分の表情も自然と綻ぶのを感じた。
「…ああ、そうだ。
一足先に行って準備をするから……二人は、しばらくこの小屋で時間を潰しててくれよ。」
「ザナナには、理解が出来んぞ。」
再び、豹頭が低い声で不満を洩らした。
「後でどうせ一緒に行くのなら、今、一緒に行けばいい。」
「色々とあるんだよ。
まだ何も説明してないのに、客をいきなり連れて行ったら娘が驚くじゃねえか。」
ザナナと世羅を、交互に見ながら答えるバーグ。
「フ族とは、面倒なものだな。」
「ああ、そうだよ!
血を分けた親子だってのに……えらい面倒くせえんだ、これが!!」
そして、自嘲気味に笑う。
「じゃあ、ちょっくら行ってくるから。
二人とも、おとなしくここに居てくれよな。」
先の袋を抱え、小走りで彼は行った。
それを見届けた後、同時に顔を見合わせる、残された二人。
世羅が何かを含んだ笑みをこぼすと、ザナナは無言のまま頷いて返した。
◆ ◆
「あの、こう……目元を布で覆って、杖をついた人……見ませんでしたか?」
道端で農夫や行商を捕まえては、必死な表情で訊ねるパンリ。
そもそも往来の数も少なく、見知らぬ土地ということもあり、いっこうに大した情報も集まらない状況に、
彼は打ちひしがれた。
「…ねえ、それってもしかして…。
戒と一緒にいた人のこと?」
そんな絶望感に、いよいよ足が震えだしてきたその時、後ろから若い女性の声が掛けられた。
「え!
何故、そのことを…」
期待の笑顔で振り返ったパンリの表情が固まる。
目の前にいるのは、大きな荷物を抱えたシュナだったのだ。
「シュナさん、何故ここに!?
お店は……どうしたんですか?」
「辞めちゃった。
…ん、やっぱりド田舎は空気が美味しいわね〜。」
辺りの景色を見回して、涼しい顔で答える彼女。
「それに、やっぱり幸運ってのは、おのずと自らやってくるものだわ。
……戒達はどこ?」
「あ。」
彼女の言葉で、彼等ともはぐれてしまう可能性に気付くパンリ。
だが、先程の場所へ戻って待つよりも、今はウェンウェンを探すことの方が優先である。
彼は盲目ということもあり、見知らぬ土地で一度離れてしまえば、捜索が困難に陥るのは明白。
そして何よりも、付き添い役の自分が目を離してしまったこと。
その後ろめたさが、一番強かった。
「……ウェンウェンさまを……どこかで見ませんでしたか!?」
「へぇ、迷子なの?
どっちが?」
シュナはとりあえず荷物を地面に置いて、小馬鹿にした様子で近付いて来る。
途端に目の前に迫る、彼女の大きな胸。
「……うっ…」
それを見て、一転、涙を瞳一杯に溜めるパンリ。
「……うっ……うし……」
「はぁ?
な、なによ、急に。
失礼ね……!!」
咄嗟に胸元を隠して身を退くシュナ。
「わわ…私が……私が悪いんですぅ……ふと目を離した隙に…。
あまりにも…牛さんの行列が珍しかったから…」
「……もーわけわかんない!!
とにかく、泣かないでよ!!」
急に感極まった様子の彼を前に、困り果てて叫ぶ彼女。
何処からか家畜達も寄り集まって、そんな二人の様子を不思議そうな瞳で見上げていた。
◆ ◆
薪割り道具の一式が置かれた庭を経て、森の中に建つ一軒屋に到る。
重めの樫で作られた玄関扉を開けて大広間を通り、廊下を越えた先の自室。
「あの飛翔艦の中で、高い場所から落下した?」
彼の肩を支えながら、クゥが言った。
「なるほど、その時の全身打撲と疲れですね……。
こんな状態で黙ってるなんて、無茶も甚だしい……」
彼女の言葉も途中に、膝を大きく落とす戒。
二人は諸共、ベッドに倒れこんだ。
「あの…大丈夫………ですか?」
「…ああ…ぁ……」
なんとか言葉を返す戒だったが、後背筋と腕に全く力が入らない。
彼女に覆い被さったままの姿勢で、情けなく腰を動かす彼。
ベッドが大きく軋んだ。
「落ち着いて……ゆっくり……」
「ああ……わかってるって…」
お互い耳元で囁き合いながら離れようとする。
「…え………?」
そこで、彼の身体ごしにクゥが呟いた。
いつの間にか、部屋の扉に人影。
―――それは、あろうことか、大剣を引き抜く父の姿だった。
陽の光を背に、彼の顔が作る陰影は恐ろしく無表情である。
「……そいつ………誰だ?」
「お…お父……帰っ……?」
口を半開きにしたまま呆然と呟く彼の様子に、心なしか僅かな殺気を感じるクゥ。
「これは違うの……ッ!」
だが、言葉が間に合わないと踏んだ彼女は、咄嗟に戒を突き飛ばす。
彼のいた空間をすぐに、光る刃が斜めに薙いだ。
「…ああ…わかってる……。
俺は冷静だ…。
クゥが俺の留守中に男を連れ込むような娘じゃないってこと、よくわかってるぜ…」
剣を振り降ろした姿勢で、据わった目のまま独り言のように呟くバーグ。
無論、今の彼には相手の姿などは見えていない。
「……ぅぐ……暴漢か……?」
すぐ傍にあった収納箱を手探りで触れ、それを支えにして立ち上がる戒。
頬を伝う脂汗を拭いながら、必死に薄目を開けて相手を確認しようとする。
「―――暴漢はてめえだろ!!
親父の居ぬ間に、娘に手ェ出そうなんてな……!」
バーグは迫り、戒の胸倉を掴んで引き寄せ、そのまま壁に叩きつける。
そこで、二人は肩口を衝突させてお互いの顔を確認した。
「……じゅうねん……はや………いあ…?」
一旦は彼の喉元に突きつけられた剣は床に落ち、乾いた音が響き渡った。
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「いやあ、逆上して、ついうっかり。」
今度は目の前にはっきりと。
照れ笑いと共に、頭を掻くバーグがいた。
「ふざけんなよ…。
うっかり殺されてたまるか……」
厚くシーツを重ねてもらい、ベッドに沈んだまま呻く、一方の戒。
「大学に進むのを急に止めたって?
それで、プレオルンで別れたはずのお前が俺の自宅に居る。
……そんなこと、夢にも思わねえだろうが。」
「だからって、いくらなんでも限度ってもんがあるだろ。
…問答無用で剣を抜く癖、いい加減直せよ、てめえ。」
同時に、初めて会った時のことを思い出して苦笑する彼等。
「…二人が知り合いだなんて……ものすごい偶然もあったものね…」
ざっくばらんな口調で話す二人の様子に、クゥは相当に複雑な表情を浮かべて言った。
「まあ……こいつとは色々あってな。」
だが、不意に娘が彼と知り合いになっている事実に、自然と煙たい顔を作るバーグ。
「しかし…あれがまさか、てめえの娘とはな。
そう言われてみれば、無茶なところがそっくりだぜ…」
水差しを片手に薬湯の準備をするクゥに視線を移しながら、戒が呟いた。
その一言に血相を変え、バーグは彼女に一気に詰め寄って肩を掴む。
「……クゥ!
お前まさか、危険なことをさせられてるのか!?」
「!?」
急な肩口の痛みに顔を歪ませ。
「…何も危険なことなんて……私はただ…」
ほどほどに、父親の手を振りほどく彼女。
「もう…騎士団に関わるのはよせ。
奴等……裏で何をやっているのか…」
そこで、バーグが言いかけていることを察する戒。
何度もルベランセが窮地に立たされたのも、中王騎士団が絡んでいる確率が高い。
「彼の言っている事と騎士団は関係ありません。
それに…たとえ関係があったとしても……」
そんな事情を知る由も無いクゥは言葉を濁し、水差しを持って戒に寄る。
頭の中に銀髪がちらついた。
「…どうぞ。 解熱と沈静効果のある薬です。
これを飲んで暫くおとなしくしていれば、いずれ回復すると思います。」
彼女は床に膝を付いて、戒の首の後ろに手を回し、少し浮かせて口に薬を差込んで傾けてあげる。
「お、おい…何もそこまでしてやる必要は無いだろ。
重症じゃねえんだ、そこらへんに置いとけば勝手に飲むって!!」
そんな娘の丁寧な介抱の様子に、バーグが喚いた。
「彼は一応、客人の一人ですから。」
淡々と一連の作業を終えた彼女は立ち上がり、抵抗するような眼差しを返した後、すぐに扉へと向かった。
「おい、まだ話は終わってないぞ!!」
「私、まだ用事があるの。
あと…騎士団のこともそうだけど……何でもお父さんの物差しで測らないで。」
つれない素振りで、クゥは部屋を去っていく。
「……冷めてるな。
お前があれだけ心配してた娘の割には。」
「う、うるせい。
それより…」
痛いところを突かれ、バーグは思わず唾を飛ばした。
「仕方ないから少し休ませてやるが、絶対にこの部屋を出るなよ。」
そして、戒の鼻先に人差し指を伸ばす彼。
「……?」
ベッドに身を沈めたまま、彼は疑問の視線を投げかけた。
「世羅とザナナが近くにいるんだ。」
「……なんだと?」
思わぬ一言に、重い半身を一気に起こす戒。
そこでバーグはその頭を片手で掴み、強引に枕へと押し戻した。
「実はな、いま俺達は休暇でこっちに来てるんだよ。
会うのが俺やザナナならともかく、世羅は…」
「べ……別に、何でもないだろうが。」
腑に落ちない表情で、戒が返す。
「馬鹿野郎。」
バーグは拳で、そんな彼の額を軽くこづいた。
「あいつは、お前との別れ方をずっと後悔してるんだよ。
それでも……ようやく最近、落ち着いてきたんだ。
せっかく吹っ切れてきた矢先に、お前と会ったら…」
その言葉に、戒は意識して顔を背けた。
普段は元気一杯で沈んだ様子など他人に見せない世羅だが、繊細な部分も知っている。
戒が無言になると、自然と室内に静寂が流れた。
薬が効いてきたのか。
一気に睡魔に襲われた彼は、ベッドの中で体勢を更に深くする。
「…お前、どうせルベランセには戻らないつもりなんだろ。」
「………ルベ…ランセ?」
そして、上からかけられた不意な一言に、戒は聞き返した。
「だから…どうせまた別れるんなら、中途半端に会わねえ方がいいと思ってな。」
一人で話し続けるバーグの言葉を、うわの空で聞く。
(…ルベランセ……。
そうか………その手があった……な…)
そして目を閉じ、寝息を立て始める戒。
バーグは苦笑を浮かべながら、扉へ向かった。
一度振り向き、娘の部屋を一望する。
戒がいること以外は何も変わらない。
そこは自分が出立前に記憶した、殺風景な部屋のままだった。
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家族が増えると思って購入した、広間の大きなテーブルは、結局、三人で使うことしか出来なかった。
今では一人減り、さらに大きく感じている。
既に窓際のカーテンは開け放たれ、そこは温かな陽の光で一杯になっていた。
我ながらよく気が利く娘だと思う。
戦争が終結した直後に建てた、南向きの家。
自然を近くに望める立地は、心からの休息を求めて。
バーグがそのような思いに耽ていると、窓の端から、ひょっこりとはみ出る物体が目に付いた。
黒くて丸っこい、もさもさとした物体は小刻みに怪しく動いている。
「―――!?」
バーグは嫌な予感に仰天し、廊下を駆けた。
急いで玄関を出で、庭を見やると、着物姿の長身が腰を屈めて屋内をうかがっている。
さきほど見えたのは、やはり、そのザナナの豹頭だった。
「……お。
やはり、ここが、バーグの家か…」
「―――何で、おまえがここにいるんだよっ!!」
平然とした調子の彼に、地を踏みつけて怒鳴りつけるバーグ。
「おとなしくしてろって言っただろ!!」
「……待つのは、もう御免だ。」
釣りすらおとなしく出来ない者に動くなと言う方が、どだい無理な話だったのだろうか。
バーグは絶望と共に、深い溜め息をつく。
「世羅が考えた、バーグの家探し競争。
どうやら、ザナナの勝ちのようだな。」
一方、少し満足そうに頬を擦る彼。
「…おまえ……ちょっと、こっち来い!!」
そんな豹頭の耳を強く片手で鷲掴みにし、連れて行く。
目の前の窓越しには、ベッドで寝ている戒の姿。
「……何故、ここに……戒が寝ている?」
「…俺だって驚いてるんだよ。」
両手をガラスに付けて驚くザナナに、答える彼。
「…と、いうことは……。
バーグの家が、戒の言っていた『大学』と呼ばれるところなのか。」
「ちげーよ!!」
容赦なく放たれる馬鹿馬鹿しい勘違いに、バーグは声を荒げた。
「詳しい理由は知らんが、あいつは大学へ行くのをやめたそうだ。
そして偶然、ここに流れ着いちまったらしい。
……いいか、世羅には絶対にこのことを言うなよ。」
「……どうし…」
言いかけた豹頭の口を押さえ、人差し指を立てて自分の唇につけるバーグ。
「つべこべ抜かすな。
世羅には内緒だ。
『ぬか喜び』させちゃあ、ならねえ。
『戒はここには居ない』、いいな?」
「……む、わかった。」
ザナナが両腕を堅く組み、唸る。
「―――あー、ボクの負けだぁ!」
「ヒィッ!?」
だがその瞬間。
タイミング悪く、後ろの藪から現れた世羅に、バーグが飛び上がって腰を抜かす。
「……バーグ?
どうしたの?」
不自然な様子の彼に、彼女は声をかけた。
「よ、よぉ……世羅…。
ダメだろ? おとなしくしてろって…言ったじゃねえか……」
続いて彼は、震える指先で胸ポケットから煙草を取り出し、半笑いで世羅の前に立ちふさがる。
同時に目で合図されたザナナが蟹歩きで、窓を隠す位置へと移動した。
「……世羅、ここに戒はいないぞ。」
「―――バカ野郎!!」
あさっての方向に顔を背けて言うザナナの後頭部に、すかさず肘鉄を打ち込むバーグ。
「…いくら隠せって言っても…それは露骨すぎるだろ……!!」
「……?」
詰め寄って小声で叱る彼に、首を不自然な方向に曲げたままの豹頭。
「…二人とも変だよ、どうしたの?」
やはり、世羅は不思議そうな顔で迫る。
そんな場面に、クゥは疲れきった馬に角砂糖を与えながら、その手綱を引いて来た。
「…お父さん……その方達は?」
予想した通り。
彼女は訝しげな視線を、異形のザナナと幼ない世羅へと向けている。
「……あ…いたいた!!」
さらに、そこで北側の丘から響く声。
「ほら、言ったとおりでしょ?
騎士団の人が住んでるのに、それを知らない地元の人はいないって。」
誇らしげに胸を張りながら、草原で出来た坂を下りてくる若い娘。
フードを目深にした少年―――パンリも小走りにして駆けて来る。
「……この子、ウェンウェンって人とはぐれちゃったらしいのよ。
だから闇雲に探すよりも、まずは土地勘のある貴女の住んでいる所を聞いて回ったわけ。」
「……はぐれた?
あの状態で、ですか?」
まず彼女の言葉を聞き、次に疲労しきった様子のパンリを見詰めるクゥ。
「す……すみません!
私としたことが……!!」
何度も頭を下げる彼。
だが彼女は特に気にする様子もなく、涼しい顔を斜め上方の空へと向ける。
「大丈夫。
あの方のことです……また、ふらりと現れますよ。」
彼女は両手で、パンリの片手を優しく包んだ。
「……クゥ。
誰だ、そいつらは…」
そんな、急に現れた子供と若い娘に、睨みを利かせて近付くバーグ。
「お父さん、失礼の無いようにして。
この方も私の客人なのだから。」
クゥは毅然として答えた。
「こ、こいつらだって、俺の客人だぞ!」
片手を勢いよく水平に振り、改めて世羅とザナナに目を向けさせるバーグ。
「そんなこと一言も…」
「聞いてねえぞ!!」
だが、お互いの客を完全に無視して、親子は睨み合った。
「……何で、急に喧嘩なわけ?」
呆れ顔でシュナが言葉を洩らす。
「そういえば、貴女は……確か…」
そこで改めて、彼女に気付いたクゥが声をかける。
「昨日のお店の従業員の方ではないですか。
どうしてここに?」
「ちょっと……ね。
戒に……その…用があって、わざわざ追ってきて………あげたのよ。」
「……あが…!!」
その一言に、バーグが口を大きく開けたまま凍りついた。
「……かい?」
その傍で、状況を飲み込めない世羅が小さく呟く。
「あ!
か、貝はやっぱり新鮮なうち、生で食うのがいいよなあ?」
そして、咄嗟に脇のザナナに話を振るバーグ。
勿論、気の利いた返事は返ってこない。
「プッ!!」
その代わりに、シュナが唇を突いて吹き出した。
「おじさん、何言ってんの?
…ひょっとして今の…駄洒落のつもり? おっかしー!」
笑い涙を浮かべて、パンリの背中を強く叩く彼女。
「私が言ってんのは、戒=セバンシュルド。
人の名前よ。
今、ここに居るんでしょ、あいつ。」
既に事情はパンリから聞いている。
何の疑いも無く、シュナは続けた。
「あは……。
だ、誰のことかなぁ…?」
「…お父さん。
そこの部屋で介抱している……頬に傷の、あの男の人のことじゃないの……?」
無謀にも、そのまま誤魔化そうとしたバーグが、大口を開けたまま動きを完全に停止する。
この時ほど、おせっかいな自分の娘の口が恨めしいと思えたことは無かった。
◆ ◆
2
◆ ◆
世羅と戒は共に落ち着かない様子で、虚空に目を泳がせていた。
お互い隣の席に座らされても、120度くらいの微妙な角度で顔を合わせようとしない。
(何なの? このムードは…)
そんな二人の様子に何かを感じとりながら、パンリの隣に席をとるシュナ。
「いやぁ、このテーブル、初めは大きすぎると思っていたが…。
このサイズを買って正解だったな。」
場を取り繕うように、両手を広げてバーグが笑う。
(自分で部屋から出るなとか言ってたくせによ……。
あっさりバレてるじゃねえか…)
無言のまま、彼を睨みつける戒。
彼が下手に誤魔化そうとしたおかげで、余計な空々しさが生まれているのだ。
「……おい、ところで、ウェンウェンの奴はどうした。」
戒は向きを変えて、だるそうに頬杖を突きながらパンリに訊いた。
「……あの…どこかに行ってしまって……。
見つからないんです。」
「別れの挨拶も無しかよ。
勝手な野郎だな。」
「別れだなんて……まだ、そうと決まったわけでは…」
「さて、どうだか。
放浪している奴ってのは、人間が出来てねえ奴が多いからな。」
戒は口元を歪めて言う。
直後、目を伏せる世羅を見て、自分の発言のまずさに気付いた。
「……戒こそ、学校はどうしたというのだ?」
そこで対面のザナナが訊く。
「…そうだそうだ。
自分の考えをコロコロと変えるような奴が、人間の質を語って良いものかどうかだよな。」
その脇に座ったバーグも、苦笑しながら続いた。
出されたミルクのカップを両手で持って、上目づかいに変わる世羅。
「…そ、それはですね……」
誤解の説明しようと、パンリが立ち上がる。
やはり戒は特に弁明しようともせず、そっぽを向いているままなのだ。
「はいはい!!
面倒だから、私が簡単に説明しちゃうわよ!!」
パンリを押しのけ、強引に話に割って入ってくるシュナ。
「こいつってば、ご破算にしちゃったのよ。
私とパンリを犠牲にしてまで立てた、大学入学作戦の全てを。」
「黙ってろ、てめえ。」
自分を指差すシュナに牙を立てる戒。
だが彼女の方はまるで構わずに、胸の谷間から赤い十字架を取り出して、全員に見せびらかすようにして
更に笑みを増す。
「おい……!!
それって……!」
それを見て、最も目を剥いたのはバーグだった。
「聖十字、神学校の首席の証です。
これって、本来は私の物なんですよ…」
「―――馬鹿野郎ッ!!!」
シュナが得意になって語る途中、かつて聞いたことのないような怒号が響き渡った。
それは、にわかに家屋を震わせる。
あまりの剣幕に椅子ごと気圧される彼女。
その脇のパンリも、思わず耳元をフードごと押さえて縮こまっている。
だが、彼の怒りの矛先が自分ではないことに、シュナはすぐに気が付いた。
「あ…あれほど大事にしろと言っただろうがっ!
そんな簡単に手放して……どういうことなんだ!!」
バーグがテーブル越しに掴み上げるのは戒の胸倉。
「…あぁ!?」
戒は理由もわからずに、彼の怒りに身を任せていた。
「お父さん! 彼は病人!!」
騒動に気付き、台所から顔を出した娘の言葉により、バーグは腕の力をようやく緩めてシュナに向き直る。
「……事情は全く分からん。
だが、そいつを戒に返してやってくれねえかな。
……頼む。」
「えっ?」
そしてテーブルに両手を付いて深く頭を下げる彼に、彼女は逆に尻込みした。
「よ、よして下さいよ…私、別に…」
「聖十字はな……!」
シュナの言葉を遮り、バーグは続けた。
「使える人間が持たなけりゃ意味がねえし、自分はもちろん、他人の命を守ることの出来る素晴らしいものだ。
かけがえの無い…ものだ。
だから……」
下げられた頭が上がることは無い。
「…えっと……。
…戒からも何か言ってよ!」
どうにもいたたまれない気分となり、弱声を上げるシュナ。
「……ヒゲ…前から思っていたんだが……どうして、お前がそんなに詳しいんだよ。」
だが戒は、少し別の視点から疑問を投げかける。
その言葉に応じ、バーグは自分の首元をまさぐり、掛けている細い鎖を見せた。
世羅と戒は、今まで度々目にしていた彼の装飾だった。
鎖の隙間に作られた、細くて小さなロケット状の部分。
バーグはその蓋を開けて、彼は赤い欠片をテーブルに落とす。
「……それは…」
「……嘘でしょ?」
戒とシュナは立ち上がり、同時に呟いた。
「まさか…聖十字……?」
「―――母は修道士でした。」
湯気の立つ大皿を持って、台所から広間に入るクゥ。
彼女は虚ろな目をしていた。
「……そう。
昔、あいつが戦場で幾多もの仲間の命を救ってくれた聖十字。
その成れの果てだ。」
「待って、待って!!
教団によれば、聖十字は絶対の物なのよ。
そんなに簡単に壊れるなんて聞いてないわよ…」
言葉を続けるバーグに対し、シュナが口を出す。
「それほどの激戦だったんだよ。
アルドの叛乱って戦争はな。」
テーブルを軽く叩いて、遠い目で返すバーグ。
「特に……最後の掃討戦は熾烈を極めた。
初めて飛翔艦が投入されて爆撃を行った時なんざ、敵も味方も無かったんだぜ。」
回想するバーグの瞳に、その光景を想像し、広間は静まりかえった。
「あいつは、俺を…仲間を必死に守った。
それがこの代償だ。
思えば……その時、あいつは寿命も縮めたのかもしれねえな…」
さらに動いた目線の先。
その暖炉の脇には、女性物の修道着が丁寧に掛けられている。
「あの時以来……身体が病弱になってな…まあ、あれだ。
一年前、死んじまったよ。」
バーグが言い切った所で、大皿をテーブルに置くクゥ。
彼女は再び台所へと戻る。
「…わかったわ。
それじゃ、返す。」
「……なんだと?」
さらに重苦しさを増す空気の中、戒の前に放られる十字架。
やけにあっさりとしたシュナの態度に、彼は顔をしかめた。
「…何よ、受け取らないの?」
「……いや…」
彼女の笑顔の裏を探るように、おそるおそる手を伸ばす彼。
「んもう、じれったいわね!!」
そんな戒の手を取り、シュナはその上に勢い良く十字架を押し付ける。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、彼は再び自分の手に戻ってきた『それ』を無言で眺めていた。
「…それなら、これでお前の役目は終わったな。
もう帰っていいぞ。」
そして、台無しの言葉をかける。
「何ですって!?
まだ終わってないわよ!!」
掴みかかるシュナ。
「……他にもねぇ、あんたの眼鏡…弁償してやろうと思ってここまで来てあげたんだから。」
「そういえば、今日はかけてねえようだな。
どうした?」
「私が誤って壊しちゃったんですよヨ。」
訊いたバーグに対し、舌を出してシュナが笑う。
(…あれが……誤ってですか?)
店裏で戒をボコボコにしていた彼女の姿を思い出しながら、その横でパンリは苦笑した。
「…いらねえよ。
あんなもん無くたって、別に支障はねえ。
何を企んでる? さっきから、妙に…」
「あら? 遠慮は一切無用よ。
だって私達、学友じゃない?」
「……う!
……てめえ……!?」
テーブル下。
自分の腹に押し付けられたフォークの感触と共に、戒が彼女を睨みながら呻く。
「持つべきものは友達だな。
いい子じゃないか。」
すっかりと騙され、コップを片手に取るバーグ。
そこで、ビール瓶に手を伸ばすが、先にシュナに取られてしまう。
「おじさん、私がお酌してあげますよ。」
「お、おお……すまねえな。」
少し照れながら、彼女からの酌を受け取る彼。
シュナはその後も一切手を休めずに、大皿から塩茹でされた空豆とトウモロコシをそれぞれの小皿に分ける。
「塩茹での野菜だなんて、シンプルだけど美味しいのよね。
つまみに最高かも。」
「…こんな粗末なものですみません。
とても、本職の方に出せるものでは無いのですけど。」
クゥが酒の追加を両手にしながら再び返って来る。
「いやいや。
本職ゆえに、他人に作ってもらうのが嬉しいものなのよねー。」
首を傾げて力無く笑う彼女に対し、シュナは本心で答えた。
一方、その脇のザナナは、アルコールの薄い果実酒の入った杯を片手に無言でいた。
その半眼で、そわそわと手で自分の腿を擦っている世羅の様子を見た後、その口に付けられた杯が
一気に傾けられる。
「……戒は、これから、どうするつもりだ。」
そして、両腕を組んだまま低い声で呟く。
世羅はそう言ったザナナを一瞬見上げた後、戒に視線を移した。
パンリはそれを注意深く観察しながら、戒と彼等との間に、またシュナのような因縁があるのではないかと恐々とする。
「…これからどうするなんて、俺様の勝手だろうが。」
「そうはいくか。
送り出してやった俺達が納得できるような目標をここで示してもらうぜ。」
戒の返答に、赤ら顔になったバーグが突っ込む。
「色々な事情があって、気が変わったんだよ。」
二人が醸した、逃れようのない空気。
面倒臭そうにしながら、戒は口を開く。
「…俺様は飛翔艦乗りになる。」
そして、その唐突な言葉に、一同が唖然とした。
「…ほんと?」
ぼんやりと世羅が訊く。
「……ああ。」
襟を引き、胸元を緩めて答える彼。
「コツコツと勉強する時代じゃねえんだ。
これからは、欲しい物は全て空から手に入れる。」
一瞬、パンリとシュナの方を向いて彼は笑う。
「正面から喧嘩を売って奪ってやるのもいい。
それとも大金を稼いで、学校や図書館を丸ごと学者付きで買ってやるか。」
「…ちょっとちょっと。
寝言は寝てから言いなさいよ…。」
驚きのあまり、シュナが無表情のまま返した。
「なるほど……。
お前らしい、馬鹿げた考えだな。」
バーグがテーブルに置いていた煙草の箱底をつまんで叩く。
「だからそのためにも、俺様がルベランセに戻ってやるから有難く思え。」
手にしたナイフで彼を指す戒。
途端に、世羅が笑顔に変わった。
「……おいおい。
そりゃあ、ダメだぜ。」
だが先程より少し醒めた様子で煙草をくわえ、その口から大きく煙を吐くバーグ。
「…戒、そんなに甘くねえぞ。」
そして彼を凝視しながら続けた。
「男が一旦、啖呵切ってるんだからよ。
それを覆してまで『戻らせて欲しい』っていうんなら、艦の責任者にはそれなりに詫びを入れろよな。」
「侘びだと?」
「そうだ。 面倒かけてすみませんってな。
それがスジってもんだ。」
「……馬鹿言え。
即戦力になる俺様が戻ってやると言ってるんだ。 断る理由などあるはずがない。」
「甘えっつってんだろ。
それこそ、『下働きから空の勉強をさせて下さい』っていう気概が伝わらねえとな。
案外、あの副長さん、そこらへんしっかりしてると思うぞ。」
彼の言葉に、顔を歪める戒。
そこで、シュナが思わず立ち上がる。
「おほほほほっ!
あなたも出戻りの屈辱を味わうがいいわ!!」
そして口元に手の甲をつけて、急にけたたましく、高い声をあげる彼女。
「くくく…いい気味!!」
「ほんと性格悪いな、おまえ。」
それを歯軋りしながら下から睨みつける戒。
「まあ、まずは副長さんには俺から伝えてやるよ。
それから謝った方が、都合がいいだろ?」
そこで、バーグが穏やかな瞳で言った。
「ボ、ボクも一緒に謝るからっ!!」
さらに横からは、熱心に寄ってくる世羅。
「だから……きっと大丈夫だよ…。」
大きな瞳で、彼女は一心に訴える。
その勢いに流されて、思わず無言で頷く戒。
「…だったら、私も行かせてもらおうかな〜。」
シュナが、そんな二人の様子を面白くなさそうに眺めてから言った。
「はぁ?」
戒が世羅から目を離し、すぐさま彼女に言葉を向ける。
「お前は『本当に』何も関係が無いだろうが。
それに、ルベランセは軍艦なんだぞ。」
「私、当面やること無いし。
高慢なあんたがヘコまされるところを見物するのも悪くないわ。」
広間の片隅に置いた、自分の大荷物を横目で見るシュナ。
「まあまあ、そうと決まったら……食え、飲め。
まずはめでたい。」
「バカ、何も決まってねえだろ、ヒゲ。」
バーグは戒に対する笑いを押し殺しながら、手を小刻みに震わせてビールのグラスを取った。
「ルベランセの連中はどう反応するかはともかく、俺は歓迎してるんだぞ。」
「フン…。
どうだかな。」
鼻で一笑する戒。
「ささ、おじさん、おかわりは?」
「お、気が効くねえ。」
再びビール瓶を構えるシュナに、もう慣れた感じでコップを突き出すバーグ。
「ほら、世羅も借りてきた猫みたいにしてるのはもう止めて、沢山食えよ。」
「うん!!」
右肩上がりの彼の調子に、世羅も元気良く笑って食器を取った。
「はは……こうしていると、何か家族が…急に増えたみたいでいいな…」
「お酒の追加、取ってきます。」
バーグが視線を向けると、クゥは急に立ち上がって席を外す。
「ふざけんな!
誰がヒゲの家族だ! バカ、死ね!!」
「いいじゃねえかよ!
なあ、みんな!!!」
ドアを閉めて、背にした扉越しに聞こえる、大きな笑い声。
家では見たこともない父の笑顔がそこにあった。
◆ ◆ ◆
「―――なめやがって、畜生が!!」
バーグが握り拳を振ると、先ほど指に食い込んだギルドの親方の前歯が飛んだ。
「容態が悪化したら、すぐに知らせるって約束だろ……!
…このクソ野郎!! だましやがって!!」
「…じ…仕方無がったんだ……。
……今あんたに抜げられると、前線が崩壊ずるって聞いていたがら……」
口と鼻から血を噴き、半壊した机に全身を沈ませながら答える親方。
「話が違う……契約が違うじゃねえか!!」
収まらない怒りを、手当たり次第にギルド内の備品に向けるバーグ。
彼を取り押さえるべきギルドの護衛の面々は、既に床でのびている。
「バーグさん!
馬車の用意が出来たぞ!!」
入り口の扉を勢い良く開けて、声を張り上げる友人。
「ああ……!!」
バーグは最後に、振り向きざま、うずくまる親方の顎を殴り飛ばした。
◆ ◆
「もう……ママ、いなくなっちゃったよ。」
病で死んだ者はその日のうちに火葬される。
それがこの町の風習であった。
空のベッドの上には、温もりも何も無い。
「……ママが最後に口にしたの……お父さんの名前だった。」
「……!!」
薄暗い部屋。
そのベッドの傍らで呟き続けるクゥの様子と言葉に、バーグは唖然とする。
「ママが最後の熱にうなされ始めてから……私の名前なんて一度も呼んでくれなかったのに…」
娘は力無く、だが何故か笑みをこぼしていた。
「本当にそばに居て欲しかったのは、お父さんだったんだよ?」
そして、胸に深く突き刺さる言葉。
「どうして…帰ってきてくれなかったの!?」
「…あの時、俺が戦いを止めていたら……多くの人が苦しんだんだ……。
だから…」
その時の自分の声は、ひどく、言い訳のように響いて聞こえた。
「……嘘だよ。
お父さんは……単に戦うことが好きなんでしょ…」
「……!」
言葉を奪う娘の言葉。
確かに、幾度と無く、強引に戻ろうとすれば戻れる機会はあったろう。
妻への思いを強引に封じ込め、戦いに興じていた自分を完全に否定するなど出来ない。
いつのまにか成長していた娘は賢く育ち、自分の弱さを見透かしたような、きつい視線を浴びせている。
「どうして、ママと一緒になったの?
…あんな気持ちで死なせるのなら…どうして、一緒になったのよ……」
視界から消える彼女。
やがて間もなくして、彼女は騎士団に入団した。
父である自分に相談の一つも無かった。
また止める理由も資格も、自分には無いように思えた。
親方への暴力と施設の破壊により、ギルドには出入り禁止となり。
いつしか、自分は酒に溺れるようになっていた。
そんな廃人寸前の人間に声をかけてくれたのが、旧友のリジャンだったのだ。
◆ ◆ ◆
「―――俺様はもう休むぞ…。」
時間も周りの様子さえも分からない宴の最中。
アルコールでぼやけた視界の中で、戒が立ち上がるのが見えた。
さらに世羅がその背中を目で追うのが見える。
「…世羅。」
バーグは深く椅子にもたれて笑いながら、彼を顎で指した。
「……うん…」
頷いて立ち上がる彼女。
それに合わせて、何かに気付いたシュナもテーブルに手をついて腰を浮かせる。
「……っと、お姉ちゃん、待った。
もう一杯……くれよ…」
だが咄嗟に、その彼女の手を取ってコップを差し出すバーグ。
「……え?
あ………、でも………はあ……わかりました…」
先ほどから、赤ら顔でだらしない様子の彼だったが。
その手の力は、酔い潰れた人間のものではない。
それが解ると、シュナは諦めるしかなかった。
◆
(…変わってねえな……まったく…どいつもこいつも…)
手で壁を押さえながら、ふらつく足取りで廊下を歩く戒。
飲んだ薬の効果も切れ始め、再び熱を持ち始めた頭が一刻も早く休息を必要としているのが分かる。
日中に運び込まれた寝室に入る戒。
深く溜め息をつき、後ろ手でドアを閉める。
そこで、背中に軽い衝撃。
「うぉ……!?」
感じる人肌の温もりと石鹸の匂い。
「何だ、世羅か。
驚かせやがって!!」
そして自分の腰に回される細腕を確認し、慌てて叫ぶ彼。
「このままで聞いてよ。」
「……ん?」
さらに腰を締め付ける細い両腕。
戒は思わず踵を上げた。
「この前は…逃げちゃって、ごめん。」
「………。」
背骨に、彼女の額を感じる。
「…気にしてねえよ。」
腰に回された手を解き、振り向く戒。
「ほんと?」
少しうつむいたまま答える世羅。
そのポニーテールを結んだ赤い帯に、戒は自然と触れる。
「…それより、俺様も…偶然だが、お前と同じ目的になっちまった。」
「……うん。」
「だから言いてえことは、はっきり言え。
これからも遠慮は無用だ。 面倒くせえからな。」
「…うん。」
世羅の笑顔を置いて、戒はぶっきらぼうにベッドに入る。
「ボクね……。
まだ使ってないんだよ。」
「?」
そんな彼の枕元に近付いて来て、ズボンのポケットをまさぐる世羅。
「これ……」
それは封に入った報酬だった。
「だって……二人でやった仕事なんだもん。」
そのままの姿勢で、彼女は呟いた。
「余計な気遣いしやがって……。
また会えると思ってたのか…?」
「ううん。」
彼女は腕を背中で組んで、身体を左右に揺らした。
「会いたいと思ってたんだ……」
心地よい彼女の言葉に自嘲気味に笑い、彼は目を閉じて睡魔に身を任せた。
◆ ◆
目元がうずく。
自然の岩場の高台に胡坐をかいて、ウェンウェンは息をつく。
両手で錫杖を真上の月に向け、一回り。
深い夜。
草木さえ眠る暗黒では、浮かぶ星光が良く見える。
その中の恐ろしくまばゆい一点に顔を向けて、彼は錫杖を真っ直ぐに岩に突いた。
◆ ◆
3
◆ ◆
当時の彼は、大陸における真理・歴史への探究心を、一切の人間の中で最も多く有していた。
それが『それら』を招いたのである。
「ぐゥ…………!!!」
鼻から額にかけて激痛。
走る、異物感。
寸前まで記憶しているのは、自分の顔面に漆黒の楔を打ち付けた黒き手。
「…だ…誰か……っ!」
知識のみを追い続けてきた瞳は何も見えず。
「…誰か……助けてくれ……!!」
ずっと飽くなき探訪を行ってきた手足は、岩と同化したまま動かない。
砂中に沈んだ遺跡の中で迎える、悠久の静寂。
彼にとって、その未来永劫とも思える静止した時間は、地獄に等しかった。
いずれ虚しくなり、彼は痛みを訴えることをやめた。
◆ ◆
チクタクと、金属の衝突音。
そんな整然としたリズムが、耳の奥に響く。
戒は目を開くと、自分が夜空を仰向けに浮かんでいることを知った。
《 ―――何が見える? 》
頭の中を響く声。
「星が……見える……。」
《 いくつあると思うね? 》
答えた自分に、再び返される質問。
「…わからない……」
浮いたまま、思い通りにならない身体。
ましてや、中天の全てを見渡すことなど叶わなかった。
「でも少ねえな……。
これは…本当に星なのか……。」
《 ふふ……星に見えるのは、私の『感覚』を通して見ているからだ。 》
「おまえ……誰だ……?
いや……それより……」
言葉を止める戒。
(これらが星でないとするならば……一体…何なんだ……?)
《 太古の人間が『神』と呼んだ摂理。
そして今は、とある人間により、その『仕組み』のみを抽出された存在――― 》
「!!」
熱くなった自分の左手の中指。
青く光り輝く、その付け根。
それが一気に膨脹し、飲み込まれる。
《 そう。 天命の輪だ。 》
◆
戒は、言葉の伝えた衝撃に跳ね起きる。
蒸し暑い空気。
手を付いた床から伝わる、機械の重低音。
それらが飛翔艦の機関部の音であることを、今の自分なら確信できた。
すぐ傍にも、立ち尽くす長身がいる。
それはクゥの姿だった。
「…ここは……!?」
呆然として訊く彼女。
「……俺は以前、見たことが…ある…」
一方、独り言のように呟きながら答える戒。
「私は…部屋で寝ていたのですが。」
「…俺だってそうだ!」
呆けたまま言葉を続けるクゥに対し、裏返る大声。
途端に頭まで鳴り響く、心臓の鼓動。
忘れかけていた謎の呪縛に、再び捕らわれたことを身体が悟っていた。
突如、破られる左舷の窓。
その外には、二人が見慣れた空は無く。
灰色の景色の中、巨大な円形盤がそびえていた。
―――盤は金属で出来たような三枚が上から小さい順に重なって、ゆっくりと回転しており、
それぞれに宝石の如く光る粒がちりばめられている。
そして、それを地で支えているのは、盤から真下へと突き出た手足の束。
各盤の隙間の軋轢から、絶えず新しい四肢が生み出されている。
あらゆる生命の縮図のような、神々しさだった。
「―――見えるかね?
あれが、私の天命の輪。
先程、君が星と思いこんでいたものだ。」
「!?」
突如、背後から現れたウェンウェンの姿に、驚愕の表情を浮かべる二人。
「…今まで、どちらにいらしたのですか。
おもてなしを受けていただけると仰っていたのに…」
「すまない。
だが、人の成長を見届けることこそが、私の好物だ。
……君からのお礼は、それで充分だよ。」
交わされる、現実からかけ離れた場所での、日常的な会話。
「…待て。 さっき…自分の天命の輪とか……言ったな。
おまえが天命人……?
いや、それよりも……あれが天命の輪だというのか!?」
そんな多くのギャップに戸惑いながらも、戒は訊かずにはいられない。
「驚くのも無理はないな。
天命の輪の真の姿を、現実の世界で目にすることは、滅多に無いだろうから。」
「……!!」
知った風な口ぶりのウェンウェンに、掴みかかる戒。
「ワケわかんねえこと言ってんじゃねえよ…。
さっきの変な夢も……全部てめえの仕業か!?」
彼が続けた言葉で、脇のクゥは現在の景色を改めて見回した。
今いるこの場所こそが、まさに夢の世界ではないのだろうか。
そんな疑問が、ふと浮かぶ。
「今、我々は『感覚』を共有させられているのだ。
私は先程、それを少し利用させてもらったにすぎない。」
ウェンウェンは掴まれた戒の手を解こうともせずに、伸ばした長身の上から言葉を投げかけた。
「ここは感覚の他にも、心・精神などと呼ばれる世界。
それを完全に支配できる存在は、ただ一つ。」
艦内の空間が捻じ曲がり、速度を増す。
自分達は全く動かぬままに、周りの景色が平行に移動していった。
視界の奥から忍び寄る物体。
「来たぞ……。」
やや緊張した面持ちで、ウェンウェンが呟いた。
「…まさか……!」
その禍々しい気配に感付いた戒は、抑揚の無い叫び声を上げる。
「…思い……だした……!
おまえは……!!」
身体に染み付いた悪寒。
彼には子供のように喚くことしか出来なかった。
《 少しは強くなった……か?
『犠牲の月獣』。 》
迫り来る大きな流動体から声が発せられ、それはやがて七色の光を持つ鎧に変化する。
(…何故、俺を……天命の輪の名前で呼ぶ!?)
その様子を、目線を逸らさずに睨みつける戒。
(俺は……俺だ!!)
そんな彼の気迫にも無機質な様子で、鎧は悠然と両腕を組み、三人の前に立ち塞がった。
《 この世の全ては、生まれながらにして、既に腐敗している。
その中で唯一無二なる永久不変、それが我――― 》
「天命第一位『逃れえぬもの』。」
鎧の言葉の続きを連ねるのは、ウェンウェン。
《 天命第一位『星詠』……貴様か。 》
彼に反応し、表面の光を流動させる鎧は、懐かしそうに呻いた。
その声色に触れて、戒は途端に頭痛に襲われて片膝を床に落とす。
《 ―――汝の名は? 》
次にクゥの方を向き、訪ねる鎧。
「……わ、私は……ク…」
そこで声を震わせて言葉を止める彼女。
「……!!」
そして、戒と同様にうずくまる。
「……天命第三位……『二匹目のシャーリー』……。」
「おい……!
なに……言ってんだ……おまえ?」
無表情で答えた彼女に、思わず駆け寄る戒。
頭を押さえる彼女の全身から、黒い靄が剥離して重なった。
「ケケ……」
そして戒の手を振りほどいてから、犬のように両手足で立ち、不気味に笑うクゥ。
「ソージャ…ネエノサァ……!」
端整な少女の顔を異形に歪ませ、眼球を回転させながら笑う。
その視線は戒で止まり、不気味な光を放った。
「アンタ……ハ……!?
ハハッ……眠ッテイヤガルノカ!?
……『犠牲ノ月獣』、眠ッテイヤガル、ザマーナイネェ!!
全然ッ!! 認メラレテ無ェーイワケダ!!」
《 『二匹目のシャーリー』、わきまえよ。 》
目の前の鎧から、淡々とした声が洩れた。
「……ケケッ…」
その言端に怯えたように跳び退いて、ウェンウェンの背に隠れる彼女。
身体に重なる黒い靄は、特に背中から長く伸び、羽根のように広がっている。
そして先程の彼女からは想像できない程の下卑た哂いに、戒は言い知れぬ恐怖を感じた。
《 ―――『星詠』。
汝に伝えることがある。 》
言葉と共に、鎧の右の手甲が落ち、そこから、どろりとした大きな雫がこぼれた。
その中で蠢くのは、小さな人影。
「『逃れえぬもの』は、様々な精神を支配する。
この記憶もその一つだ。」
「…記憶……だと?」
ウェンウェンの説明に興味を持ち、その雫に近寄る戒。
(…もしかして…この場所も……誰かの記憶なのか?)
色褪せた飛翔艦内。
ブリッジの景観は、ルベランセのものとは違う。
そんな考えに耽るうち、雫の中では揺らめく人影が鮮明に映り出した。
それはパンリと同じく、垂耳と呼ばれる種族。
だが、彼の場合はその身を隠そうともせず、恐ろしく長く発達した耳を己の首に巻きつけている。
纏っている服装も、着物ともドレスとも似つかない、特別に稀な恰好であった。
《 ―――世羅の師として幾つばかりか申しつける。
しかと記憶するがいい。 》
その者は正面に堂々と向かって、まず、尊大な言葉を発した。
(……世羅の…師匠!?)
雑音混じりの声と映像に、戒は釘付けになった。
同時に。
放たれた世羅という言葉に、何かが頭の中で繋がる思いがした。
◆
《 ウェンウェンよ……お前がこれを見ているということは、……既に世羅に出逢うているというわけだが…。
あれの様子は……どうだ。 元気にしておるか。 》
そこまで言うと、彼は何かに気付いたように言葉を不意に止めた。
《 ……まあ、元気だろうがどうだろうが、わしには関係ないことじゃがの。 》
そして、大きくて派手な扇子を袖から出して開き、口元にあてがって笑う。
「…はい。」
直立したまま、相槌を打つウェンウェン。
《 確率的には……『星詠』を持つ貴様が、天命人で一番最初に世羅と出遭う確率が大きいと踏んでおる。
だからこそ、この記憶を残した。 》
「ふふ……」
ウェンウェンは微笑を唇に帯びて、戒に顔を向けた。
《 命令じゃ。
もしも世羅が迷うておるならば、導け。 》
「……あいかわらず、自分勝手ですね。
大悪名殿は。」
《 同じ神呪の者同士、理由は言わずとも分かるじゃろ。 》
そんな言葉にも、ただの記憶の存在のみである眼前の垂耳は続けていく。
(同じ…神呪……?)
一方の戒は、二人が交わす言葉に目の色を変える。
「残念ですが……お断りいたします。
私よりも先に出会い、私よりも強くそのさだめの輪に、己を絡めた者がいるのです。」
垂耳の映像に歩み寄るウェンウェン。
それは、映像の側に立つ鎧にも同時に語りかけている様でもあった。
「彼等の行く末の過酷さ、そのさだめを『星詠』は承知しております。
ですが、それでも私は委ねようと思うのです。」
ウェンウェンの返答を知ってか知らずか、雫の中の垂耳は再び笑った。
《 ことづけはこれだけじゃ。
……必要とあらば、各地のわしの弟子を訪ねても構わん。
では、さらばじゃ…… 》
消えゆく声。
役目を終えた雫が、その光を失って床に溶け込んだ。
◆
「…今のは何だ……?
世羅の師匠とお前が……どうしたって…!?」
動揺と怒りに身を震わせ、戒がウェンウェンに問う。
「…てめえらは……一体、世羅の何なんだよ!!」
次に、鎧へ向けて慟哭する。
「俺は…世羅のやつに会ってから、何度もこういう夢を見せられてきた。
中王都市に来る寸前に……飛翔艦の中で、てめえに似たような奴に襲われたことがある。
…悪の根源は…てめえじゃねえのか!?」
《 我に善悪を問うか。 》
七色の光沢が鎧の曲面を流れた。
《 汝はその身を保つため、大陸でどれだけの命を奪い、食してきたというのだ。
人間の判断で悪を決めると云うのなら、それこそが… 》
「うるせえ! それは生きる物のさだめだ!!
どんなに変えたいと思っても、決して変えられない……」
自らの言葉に違和を感じ、戒は動きを止める。
《 気付いた……ようだな…… 》
鎧の小さく唸る声と共に、足場は消え去り。
途端に何も無い空間へと放り出される戒。
水の中のような奇妙極まる重力の中、思わず泳ぐような態勢になる。
「―――かつて…君と同じことをふと思った……そのような人間がいた。
彼は生きる物が常に縛られている、そのさだめを憂い。
神と称されるこの世の摂理法則を紐解き、天命の輪なる『さだめの大元』を抽出することに成功したのだ。」
彼の上方から言葉を発するウェンウェン。
その背には、いまだに不気味に哂い続けるクゥの姿も掴まっている。
「だが、悲しいかな……天命の輪は人外の力を帯びていた。
彼はその力をもって生きる物のさだめを変えるよりも、目先の覇権を選択してしまった。
そして凶獣を追い払うという功績で、大陸中の人々に己を信仰させたのだ。」
彼は昔話を語る老人のように。
「天命の輪は、『さだめ』の他に『意志』を持っていた。
彼の野心が膨れ上がるにつれて、それらは摂理の中に『還りたい』と願うようになった。」
楽しげな口調で続けた。
「彼に使役され、抑圧され続けた天命の輪。
ある時、その中でも天命第一位と呼ばれる最も強力な20の存在が彼の中で抵抗した。
己の力を封じるばかりでなく、逆転をさせ、恐ろしい呪いと化すことで彼を止めたのだ。」
周囲を軽やかに浮遊して、述べていく一言一句に、戒は黙って聞き入る。
「……だがそれによって、他の天命の輪が元の摂理に還る術は永遠に失われた。
そこで、それらは代わりとして人間に絶えず宿ることで、新たに摂理を保つことにしたのだ。」
言葉が途切れ、訪れる静寂。
「……呪いとなった…天命の輪は…その後…どうなったんだ?」
一抹の不安と共に疑問を投げかける戒。
「すぐ後に、その者の狡猾さを知ることとなった。」
ウェンウェンは、彼の鼻筋近くまで寄り、再び言葉を紡ぎ出す。
「彼は全てを想定しており、あらかじめ、弟子達に天命の輪を切り離す術と与える術を教えていた。
それらを他者に移し、再び人間というものを認めさせることで天命第一位の本来の力を復活させ、
再び手中におさめることまで企んでいたのだ。」
「……その結末は…」
「まだ着いていないさ。」
不意に笑い、目元に巻いた布を解き始める彼。
「見よ。
いまだに渦巻く、この怒りの形を。
果たしてこれが人を許す日が訪れるのであろうか―――」
そこに露になった、彼の肉に食い込み蠢く黒き紋様。
戒は絶望を覚えた。
「これらは人間を器とし、長い年月をかけて中身を量り続けている。
そう……私ですら、まだ『奴等』が収穫するべき実ではないのだ。」
眼前のウェンウェン、その後ろのクゥ、そして自分。
ここに集められた者は全てが天命人。
それらの事実を知らせようという作為の元、選ばれた者達がここにいる。
空間を垂直にして、下降する身体。
現れた地に足をつけると、目の前に物言わぬ鎧が再び現れた。
―――戒は、その鎧の主を理解した。
それは世羅しかいない。
そして、彼女の身体にある紋様は一つではない。
《 そう。
『星詠』は気づいているだろうが……私の他にも六体が入っている。 》
鎧は先んじて言葉を発する。
「……あんまりだ……どうして…世羅なんだ…」
虚無の中、戒は言った。
《 …生まれ出でた時から特別な器だからだ。 》
「……なら…どうして……この場に世羅がいない?」
《 ………。 》
「神呪だろうが何だろうが、ウェンウェンの野郎は存在してやがる。
だが、どうして世羅がいないんだ。」
押し黙る相手。
「教えろ…!
……もしかしたら、あいつを助ける鍵になるかも……しれないんだ!!」
「……戒。
どうか『逃れえぬもの』を信じてやってくれないか。」
懇願するように叫ぶ彼に、上空に浮いたままのウェンウェンが言った。
傍らのクゥの手を優しくとり、彼は上へと昇り始めている。
「…そして気をつけろ。
一度、この世の摂理を手中にした者は、自分を自然そのものだと思っている。
自然に反する理然…。
そのようなものが全盛するこの時代を、たまらなく敵視しているのだ。」
見上げる戒に、早口で語りかける彼。
「自然に抗うものは全て破壊し、摂理に近付く者を決して許さない。
さらに力に対する執着と貪欲さは類を見ず、あらゆるものを目的のための手段とするだろう…
それは…国家であっても……例外でなく…」
やがて、聞き取れなくなる言葉。
風船が高い空に消え往くように、二人がぼんやりと視界から消える。
とり残された戒は、独りで鎧と対峙することとなった。
(天命の輪を自由にする……そんなことが出来る奴がいる…?
皆……そいつが元凶だというのか……あいつも……その犠牲になったというのか…?)
流れる色の光沢を眺めながら、彼は思う。
(輪の怒りの姿だと言ったが……この鎧は正常に見える……。
いや…むしろ……手を貸しているように……だが、信じろというのか?)
鎧は、目の前で無言のまま微動だにしないでいた。
そんな中、不意に浮き始める戒の足。
「……おい!!
目が覚めても…もう記憶を消すんじゃねえぞ…!!
クゥの奴はともかく……俺の記憶だけは、絶対に残せ…」
別れの予感に、慌てて叫ぶ彼。
《 ……良いのか?
このような事実を明確に憶えてしまえば、苦しむだけだぞ。 》
相手は、少し驚いたような口調を初めて聞かせる。
「ごちゃごちゃ言うな!」
《 ……知るからには、それなりの覚悟の上であろうな。 》
「…ああ!!」
《 ならば、ここで誓え。
必ず『世羅を護り続ける』と。 》
「…………。」
無言のまま、目で応える戒。
下に向けた視線から遠ざかる鎧。
《 よかろう。
『誓約』は、『成立』した。
破らぬ限り、我も貴様を護ろう。 》
辺りは次第に白みがかり、段々と上へと引っ張られる間隔が加速する。
《 宿主でない者と結ぶのは、極めて異端の行為であるが……。
否、世羅の存在…また、我自身の異端さを思えば……それもまた… 》
目に映る全てが消えていく中、言葉もまた消える。
「…いいか! 俺がてめえらの『さだめ』とやらに従ったわけじゃねえ!!
てめえらが俺の後をついてくるんだ!!」
対象の無い、戒の叫び。
《 ―――ありがとう。 》
それに応じて、鎧の胸部が左右に開き、中からただ一言を放つのが一瞬だけ見えた。
それは幼い声だった。
◆ ◆
4
◆ ◆
教会の庭園の朝露さえ乾かぬうちの出立だった。
「……似合わんだろう?」
両手一杯の花を軽く持ち上げて、自嘲するシザー。
「いえ……。
貴女がいかに部下に愛されていたのか…先程、再認識させていただきました。」
傍らのマクスは目を閉じて、数刻前に急遽執り行われた緑華の送別式に思いを馳せる。
「以前約束した、稽古もロクにつけられず……すまないな。」
「それは、またいずれ……別の機会に。」
マクスは気を遣わせないよう、平静を装って彼女の言葉を流した。
「しかし、せめてクゥが戻るまで……待てないのですか。」
「今は会わせる顔が無い。
なにせ彼女を騎士団に誘ったのは、私なのだからな。」
彼女は力無く笑うと、いよいよ振り返り、正門へと近付く。
「あの夜宴の最中、一体何があったのですか。」
マクスは思わず訊ねた。
今日の彼女の退団は、あまりに急な決断であった。
ここ数日で彼女が心変わりした時があるとすれば、中王都市軍が主催した宴の間しか思い当たらない。
「鋭いな……。」
シザーは向き直り、穏やかな笑みを初めて見せる。
その右手は慈しむように、己の鎧に包まれた下腹部に当てられていた。
「………!」
眉をわずかに上げ、察する彼。
「所詮は……私も人の子だったというわけだな。
いや、この場合は人の親というべきか。」
そして、シザーの発する言葉の端々から理解した。
あの夜以来、彼女から伝わる違和感。
―――既に、彼女は心の剣を置いている。
「勝手な物言いだが、クゥのことを頼む。
騎士団で未練があるとすれば、あれのことだけだ。」
「お任せ下さい。」
マクスはその場で足を止め、再び頭を下げた。
去り行く彼女は馬にすら乗らず、ゆっくりと徒歩で視界から消えていった。
◆
「教官…もう行ったか?」
教会二階のテラス。
ヂチャードは庭の全貌を見渡せる場所に立ち、両腕を柵に掛けながら上から訊く。
「心配ならば、送別式に出席すれば良かっただろう。
……一体、どうしたというのだ。」
マクスは彼を見上げ、珍しく不満を表情に露にした。
「今、面と向かったら……何だか、言葉を選べそうになくってな。」
「どういうことだ?」
彼の問いに、ヂチャードが複雑な苦笑を浮かべて目線を逸らす。
「あの人、俺らには散々きついことを教えてきたのに……自分の事となると簡単に一線を退いたじゃないか。
随分、虫がいい話だって思ってさ。」
「………自分の事だと?」
「大方…血生臭い戦場よりも、急に旦那の所が恋しくなったんだろうな。」
「…ヂチャード。
あの方を貶めるような言葉は、私が許さん。」
「…!?」
憮然としたマクスの言葉に、彼は一切の動きを止めた。
「…おい、何だっていうんだよ?」
足早に離れようとする銀の鎧を見据えたまま、ヂチャードが問う。
だが一方のマクスは、そのことに対して答えようとする様子は全く無い。
「……ところで、お前。
本気でクゥの奴が戻って来ると思っているのか?」
これ以上の詰問は無駄とばかりに、諦めて話題を変える彼。
「過酷な任務と知ってて来るはずないだろうぜ。
女ってのはよ……やっぱり、そういうもんじゃないのかね。」
先のマクスの態度もあり、ヂチャードは慎重に言葉を選びながら本音を洩らす。
「…彼女が戻ったら、私の屋敷に来るように伝えてくれ。」
「……なんだと?」
「ここでの任務も一段落した。
次の任務へ移る前に、私も生家に顔を出してくる。
せっかく近くまで来ているのに、父上に会って行かねばどやされてしまう。
誕生祝いもロクにしてもらえないのか、とな。」
「……そうか。
もうそんな時期か。」
即座に理解するヂチャード。
この季節に、学生時代に一度、マクスに連れられて行った経験を思い出す。
名門のオルゼリア家の広大な敷地と邸宅の全景は忘れようもない。
記憶の片隅にあった、今まですっかり忘れていたあの景色は、確かに今いる教会からそう遠くない。
(どんな時でも、生家、家族ってね……。
まったく、人間が出来ているこった。)
公私混同を侵しても、それこそが貴族的な感覚なのだろうとヂチャードは思い、こういった部分に
大いに価値観の相違を感じるのであった。
「……って…!
もしかしてあの子を連れて行くつもりか?
それって、親に会わせるってことだよな!?」
「何を言っている?
当たり前のことだろう。」
本気の表情で答えるマクス。
その言葉には、呑気なほどに裏が無い。
「お前は簡単に同僚を紹介するような感覚だろうがな…。
それに付き合わされる女は、気が気でないと思うぞ……。」
もしもそうなった場合のクゥの心持ちを想定して、彼女に気の毒さを感じながら、ヂチャードは
身を乗り出して呟いた。
「…とにかく、そう彼女に伝えておいてくれ。
私は先に行って、色々と準備をしなければならん。」
馬が繋がれている小屋へと向かうマクス。
「それとも、お前も来るか?」
その際も彼は真顔で言うので、ヂチャードは素早く首を左右に振った。
「いいや。
俺はすぐにでも『北』へ向かうように、あの黒いヤツから言われているんだ。
だが、彼女の事はちゃんと誰かに伝えておくから、安心してくれ。」
「……ディボレアルから、私への指示は?」
「お前は三日以内に駆けつけろとだけ、伝えるように言われている。」
「……そうか。」
釈然としないながらもヂチャードの言葉に頷き、マクスは銀の鎧を揺らして離れていく。
下の階から聞こえる礼拝の歌が、妙に悲しげに響き渡っていた。
◆ ◆
「………。」
戒は目を覚ましてから、上半身のみを起き上がらせた。
頭痛は無い。
冷えた自分の左手をシーツから出して握ると、力も戻っている。
虚空に世羅の姿を思い起こし、さらに彼女の長い左手袋を想像して触れた。
(ずっと……語りかけていたのか…。)
初めて逢った時。
炎団と戦っていた時。
失っていた記憶を掻き集め、それを心の中で繰り返す戒。
「……どうして……お前は普通でいられるんだ?」
目を瞑り、世羅の笑顔と彼女の身体を蝕んでいる黒き紋様を交互に思い浮かべる。
(…知るべき秘密が……沢山だな……)
窓の外へと視線を流す。
庭先から聞こえるのは、風を切る素振りの音。
薄着から覗く、しなやかで美しい上腕。
振り切った大剣と共に散る汗の雫。
クゥは部屋の窓から投げかけられている戒の視線に、やがて気が付いた。
「……お加減はいかがですか。」
息も整えず、剣を上下に振りながら問う彼女。
「悪くねえな。
それより……憶えているか? 昨日のこと。」
窓を開けて身を乗り出し、そのまま外へ出る戒。
「……私は、それほど記憶力が悪い方ではないつもりですが。」
それを無表情で返すクゥ。
「お前の力……使い過ぎると…何かヤバいことになるんじゃねえかって。
……思ったんだがな。」
「力?」
「天命の輪のことだ。」
その言葉に、長い髪から汗を散らせ、素早く向き直る彼女。
「何故、私が天命人だと知っているのですか!?」
「…いや、俺様だって驚いている。
それより、やっぱ憶えてねえじゃねえか。」
「え?」
試問の結果に満足げな顔をする戒に、クゥが言葉を返す。
「まあいい。
気にするな。」
「?」
益々、怪訝な表情を強める彼女。
「ともかく…使い過ぎるのは良くねえ…。
理由はわからねえが……そんな気がするんだよ。」
戒は昨日の不思議な空間内での、彼女の変貌を思い出しながら言った。
一方のクゥは、そのことは彼がウェンウェンからでも聞き出したのだろうと納得する。
「まさか…貴方も……天命…」
「そのことをヒゲは知っているのか。」
説明を求める素振りを見せた彼女に対し、即座に新たな問いを叩きつける戒。
「…あ……いえ。」
それには、すぐに視線を地面に落とす彼女。
「私が天命人だということは…最近まで、私自身も知らなかったのです。
母が亡くなった後の、遅い覚醒でしたから…」
言いながら、自然と自分の肩口を撫でる。
「さだめは……『肉親との別離』。
そうウェンウェンさんに教わりました。」
「!!」
戒は目を見開いた。
「……そうとは知らず…母が死んだ時、私は父に酷い言葉を浴びせてしまったのです。
きっと、この私のさだめが原因だというのに。」
「待て、言い切るんじゃねえよ。
天命人が一生そんなもんに振り回されなきゃならねえ道理なんて…」
「ならば貴方は、抵抗できると思いますか?」
急に寄るクゥ。
視界に現れた抜き身の大剣に、戒が一歩後退した。
「す、すみません。」
汗を拭いながら、クゥは剣を背にしまう。
「訓練をしていたもの……で。」
「―――朝っぱらから、殊勝な心がけよねー。」
背後から急に声をかけて出てくるのは、シュナだった。
「……何の用だ。」
それを、あからさまな嫌悪の表情で迎える戒。
「別に?
朝の散歩がてら騎士様の訓練ってやつを見物しようと思って。」
「見ても、別に楽しくないと思いますが。」
「いいのいいの。」
素っ気無く返し、次は森の方へと歩を進める彼女に続いて、戒の手を強引に引くシュナ。
「お前のせいで大事な話の腰が折れたじゃねえか。
……昨日から周りをまとわりつきやがって、何を企んでやがるんだ。」
「大事な話だなんて何事なの?
…あの騎士さんと何かあったわけ?」
「……何もねえよ。」
戒は渋い顔つきで答えた。
「女の子を手当たり次第……良くないと思うな。」
「歪曲するな。」
シュナの襟元を捻って掴む戒。
迫真の形相で凄む彼に、彼女は安堵と疑問を抱く。
彼は迷いの全く無い、やたらと晴れた表情をしていたのだ。
「…素振りの後は、この裏手にある大岩に向かって大剣を振るうのが日課なんです。」
そんな中、前から二人に声をかけるクゥ。
「大岩?」
「いつか、両断できる日が来るだろうと思いまして。」
「刃物で……そんなの無理でしょ?」
彼女の冗談に、笑って付き合うシュナ。
「斬れたその時こそ一人前だと、子供の頃に勝手に決めたんです。
思い出というか…そんなところです……。」
バーグに剣技を教わろうとして、叱られた幼い自分を思い出す。
以来、全てを我流で学んできた。
だが、嬉々とした表情から一点、目の先の光景に足を止めるクゥ。
その長身の背から覗き込む、戒とシュナ。
静止した彼女の目線の先に、見慣れた三人の姿を確認することが出来た。
◆
「世羅さん……これは…いくらなんでも無理なのでは…」
「大丈夫だよ。」
世羅が余裕の表情を見せる。
その前には、自分の身長を遥かに上回ったサイズの大岩。
「あれ?
……これは…?」
パンリはその岩の表面に、何か人為的に作られたような直線を見つける。
傷のような薄い線が幾つも入っているのだ。
「危ないから、離れてた方がいいよ。」
「え……あ、はい……」
世羅に言われるまま、その場を引くパンリ。
すう、と息を吸う彼女。
パンリ、そして後ろで見物しているザナナを含め、途端に緊張する空間に彼等は鳥肌を立てた。
周囲に浮かび上がる、光の粒子。
「《源・衝》―――」
言葉と共に発せられた光弾が、伸びた小さな手の平から飛び出し、衝突する。
一瞬、中心をへこませて、すぐに粉々に砕け散る大岩。
「う、うわーっ!!」
顔に飛んでくる石粒をローブで防ぎながら、声を上げるパンリ。
「………い、一番……弱い源法術で…この破壊力……ですか?」
そして腰を抜かして、その場でへたりこむ。
息もつかせぬ間。
ザナナが彼の前に立ち、わずかな山として残った岩の残骸に対してゆっくりと白槍を構える。
「!!」
槍の中心を握りこむんだ両手の指が細かな動きを見せると、先端が一気にはじけ、唸りを上げて
無数の鞭のように、飛び散った岩の残骸に襲い掛かる。
回転を基礎とした槍の猛攻に、大岩の残骸は更に砂塵と化す。
「……お…お見事です……」
力の抜けた両手の平で、気の抜けた拍手を送るパンリ。
「…あなたたち…何を…やってるんですか……いったい…?」
そんな中、三人がいる坂の上へ駆け上がるクゥ。
その背後では、神妙な顔つきで頭を押さえている戒とシュナがいる。
「世羅さんとザナナさんが訓練をなさるというので、ちょっと拝見を。
ところで……どうかされたんですか、皆さん。
顔が真っ青ですが…?」
何も知らぬパンリが、間の抜けた表情で彼等に訊いた。
「……お前ら。
とんでもないこと…しでかしてくれたな。」
言葉通り、顔面蒼白の戒が何とか言葉をひり出す。
「…いや、何というか、これは……」
そして踵を返し、無言でその場を去ろうとするクゥに声を掛けるのはシュナ。
「いいんです。」
必死に取り繕うとする彼等に、彼女は振り向きもせずに淡々と返した。
「やはり、岩は単なる岩にすぎなかったということでしょう。
逆に……くだらない迷いを断てました。
感謝しております。」
さらにクゥは半身で答えると、全員に会釈する。
「おい、シュナ…」
戒の言葉にシュナは頷き、彼女は斜面を下りていくクゥを追った。
「あの……本当に、どうされたんです?」
呟くパンリ。
当の世羅とザナナの二人も同様、その後ろから呆然と眺めている。
「やっちまったもんはしょうがねえな。
このことは、もう忘れちまえ。」
吐き捨てるように、戒は言った。
「ところでザナナ…お前、もう体はいいのか。」
「……そうだな。」
腹部をさする彼。
空いた方の手で、槍の握りを確かめる。
「いいようだ。」
吸い込む空気。
懐かしい新鮮な緑の香りがする。
使い慣れた得物を、いつものように扱えるほど回復していた。
「しかし、お二人とも……凄いんですね…。
驚いてしまいましたよ……。」
着崩れたローブを直しながら、パンリが言った。
「ここに来る前も、大きな亀とかと戦ったんだよ。」
「大きな亀……ですか?」
無邪気な世羅の言葉に、口を大きく開けて聞き返す彼。
「他にも、飛翔艦が不時着したり、堕とされたりな。
よくよく考えてみれば、まだ命があるのが不思議だぜ。」
しんみりと付け加える戒。
「でも、楽しかったよね。」
手をとって、戒とザナナを笑顔で交互に見上げる世羅。
「生きてるから言えるセリフだろ。」
そんな彼女に、苦々しく答える彼。
だが、その表情は普段より緩めている。
「………んっ…!」
急にそよいだ風に、パンリが思わず目を閉じて自分の両腕を抱えた。
叩かれたような衝撃と共に頭に浮かぶ、冒険の景色。
それと共に、目の前の彼等の横顔がとても輝いて見える。
「……そ、そうなんですか…。
私には…縁遠いというか…何というか…」
パンリは愛想笑いを浮かべて姿勢を正し、ローブを直した。
(どうして…だろう…。
…恐いけれど……今、確かに……私は…そんな冒険をしたいと思った…)
三人は仲むつまじく歩き、遠く離れていく。
高鳴る鼓動を抑え、それを見ていることしか出来ない自分。
背後で、草木を掻き分ける音がした。
そして、踏み出す足がそれらから覗く。
驚きに全身を硬直させるパンリ。
不意に森の中から姿を現した者は、ウェンウェンだった。
◆ ◆
「昨日は言いそびれちまったんだが……」
広間で二日酔いの頭を押さえ、バーグがテーブル上で手を組みながら切り出した。
「実は…リジャンが戦死したんだ。」
「……リジャン…おじさんが…?」
広間で出立の準備をしていた最中のクゥが、その手を止める。
「俺の力が及ばなかったせいだ。」
続けるバーグ。
それまで二人のすぐ傍に居たシュナは、思わず一旦席を外した。
「……それで何故か成り行きで……あいつの遺産を受け取ることになっちまって…」
クゥはゆっくりと振り向き、彼の手に一つの小さな鍵を見た。
「中王銀行の個人金庫を借りた。
これを預かってくれないか。」
「……ダメよ。
私…次の任務で…また家を離れるから…」
「クゥ。」
バーグは真剣な表情で言う。
昨晩、皆の前で見せた表情とは変わって、それこそが彼女にとっての普段の彼のイメージそのものだった。
自分に対する時は、いつもそうだ。
男の美学なのかどうなのか知らないが、母と接していた時も、およそ愛情の欠片も見せようとしない。
本当は夫である父の仕事を手伝いたかったろうに、彼は『心配』という理由だけで母を家事に縛りつけたのだ。
どうせ長く生きられなかったのなら、もっと二人の時間を大切にして欲しかった。
一年近く経った今でも、そう思えてならない。
「騎士団は……辞められないのか?」
そして語り続ける彼は、今度は自分をも縛りつけようとしている。
「…どうして、お父さんがそんなことを気にするの?」
放った声は、自然と震えていた。
「うまく言えないが…あそこは……どうもおかしい。
俺も奴等と対抗している軍隊に所属しちまったし、出来ることなら今のうちに…」
「関係……ないでしょ…。」
またも不意に思い出されるのは、聖騎士の姿。
(進んでしまえば……もはや戻れない。)
さらに、彼の言葉。
「…心配……なんだよ。
親として当然じゃねえか…」
それに覆い被さるように、父の声が続いた。
「……いつも…ずるいよ。
…都合が悪くなると、そういうこと言って…」
とても他人が聞き取れないような小さな声で呟いた後、彼女は完全に背を向ける。
「……クゥ…」
そして通り過ぎていく騎士団の鎧を脇目に、バーグは頭を垂らした。
◆
「―――すみません、痴話喧嘩をお見せしてしまって…」
クゥは廊下の壁に背をもたれていたシュナに、すれ違いざまに声をかけた。
「ううん。
羨ましいわ。」
「?」
そのまま後をついて来る、そして返されるシュナの言葉に、彼女は目を丸くした。
「昨日だって、バーグさんが話すのは貴女のことばかり。
たった一晩で、もう耳にタコが出来るくらい。」
シュナは笑ったまま腕を背中で組んだ。
「おせっかい焼く気は無いけれど、世の中の親連中と比べたら、かなりマシな親父さんだと思うよ。
私なんて、子供の頃に捨てられちゃってるから余計にそう思う。」
前髪を上げながら、軽口で言う。
「分かっています。
……ありがとう。」
そして、素直に礼を述べて玄関を出るクゥの態度に、今度は逆に彼女の方が固まった。
「もう少し大人になってから、父には謝ろうと思います。」
クゥは早足で庭先へ赴き、大木に繋いでいた馬を離して飛び乗る。
大剣を背に締めた凛々しい姿。
轡に乗せた足をぴんと張り、伸ばす長身。
(父の優しさは……貴方の仰る通りでした…。
故に、私は再び貴方と言葉を交わしたい………それが、二度と戻れない道だとしても。)
彼女は急いた気持ちを手綱に乗せて、馬に一歩を踏み出させた。
◆
戒達が戻って来たのは、彼女が出立した丁度その直後だった。
「なんだ。
あいつ、もう出掛けたのか。」
「うん。
……あの人、カッコイイわよね。
同じ女だけど憧れちゃう。」
彼女の影を目で追う戒に、シュナが返す。
「だったら、向こうについていけよ。
こっちは迷惑してるんだ。」
「まだ言うの、あんたは。」
「当たり前だろ、この………ん……?」
再び罵詈雑言の応酬になる寸前。
クゥが出た小道の奥に現れる影。
遠目では、彼女の馬が引き返して近付いてくる来るようにも見えた。
「……あいつ、忘れ物か?」
呟く戒の言葉をよそに、近付いてくる物体は予想よりも大きい。
それは馬車。
道が無くなる寸前で、馬上の御者は慌てた素振りで車輪を止め、鞭を片手に降りて駆けて来る。
「……失礼、中王都市軍の者ですが。
バーグ様の御宅はこちらでしょうか。」
「…あ、ああ。」
呆気に取られながらも、戒は呟いた。
「お迎えに上がりました。
準備さえ宜しければ、すぐに御帰還願いたく存じます。」
「おじさん……見かけによらず、偉い人なんだ。」
粛々とした御者の様子に、シュナも唖然とする。
「何かの間違いじゃねえのか?」
真顔で返す戒。
「フィンデル少佐の手配です。
休暇中、申し訳ありませんが、至急に駐屯地へお戻りいただきたいとのこと―――」
◆ ◆ ◆
寝たままの姿勢で目を見開き、顔を上げれば。
そこには背の低い垂耳が一人。
幾何学模様の特徴的な柄の服。
その肩口と背からは、細い金属の装飾が伸びている。
瞬間。
再び色を失い、消える視界。
「……ああ…ぁ…!!」
途端に黒い紋様に締め付けられる、己の目元とこめかみ。
岩盤ごと己の顔面に打ち込まれた黒き楔を思い出し、全身を恐怖で震わせる。
そして視界は再び、漆黒の闇が支配していた。
「何百年…おったんじゃ、おぬし。」
その垂耳は、それまでウェンウェンの頭部を覆っていた―――今は既に風化している石の粒を
指でこねながら言った。
「何…百年……?」
地に両手両足を付きながら呻く彼。
その目元を覆って蠢く、黒い輪。
「神呪が、ようやく定着したようじゃの。」
垂耳は腰帯に差していた扇子を引き抜き、手元で一閃して開く。
そして、笑みを浮かべた口元をそれで隠した。
「……神呪?」
聴覚だけを頼りに聞き返すウェンウェン。
「なに、わしが作った定義じゃ。
だが岩と同化させられていた事例は初めて見たわ。
難儀じゃの。」
返す垂耳は、横の岩に思い切り自分の拳を叩き付ける。
「ッ!?」
砕ける石を顔面中に受けながら、上半身を跳ね上がらせる彼。
「だが、鉄の類じゃなくて良かったのう。」
軽い笑いが、さらに耳の奥に着いた。
「……何を呆けておるか。
わしの名は、アルドじゃ。
アルド=セイングウェイ。
普段なら、お主から名乗らねばならんのじゃぞ。」
それは、ウェンウェンが久方ぶりに聞いた他人の言葉だった。
「早速じゃが、わしの吉凶を占ってもらえぬか。
その『星詠』で。」
先程、記憶に焼き付いた彼の姿が動いた。
まるで戯れるような言葉。
「ほし……よみ?」
「そうじゃ。
天命第一位『星詠』。 それを与えられた者よ。」
―――天命第一位。
何故か心が打ち奮わせられる、その語句。
それは確かに、自分が遥か昔に追い求めていた知識の片鱗だった。
「私が……?」
「何を驚いておる。
おぬしは出遭ったのではないのか? 『奴』に。」
「…あ…ああ………!」
記憶を辿り、恐怖に嗚咽するウェンウェン。
差し伸ばされる黒い手の平。
掴まれる目元。
この遺跡で自分の全てを奪われたあの日。
「…何処のどなたか……存じませんが…私は単なる神学者。
人を占うことなど……!」
悲観の言葉の後、ウェンウェンの眉間に走る閃光。
脳内を駆け巡るそれは、遥か昔に見た故郷の夜空の星々の如く。
大小の光が旋回して輝いては消える。
その中で浮かぶ、様々な人の形をした幻影。
それらが口々に言葉を交わしているのが見えた。
「……!?」
「どぅれ……見えたか?」
笑みを浮かべるアルド。
「……は…はい……」
「どうじゃ?
わしは、この先、どうなる。」
「……いや、しかし…」
「どうした。 遠慮せず申せ。」
口をつぐむウェンウェンに笑いながら問いかける彼。
「……『大悪名』…。
…いつか…大陸中の人間が…貴方のことを…そのように呼ぶ時が…」
「むはぁっ!!」
そんな呟きに、アルドは思わず笑いをぶちまけた。
「わしは、これから先、そのように呼ばれると申すか!」
「……確かに…そのように聞こえました…。」
彼の満足げな空気に不自然さを覚えつつ。
そして自分の感覚に疑いを持ちながら、ウェンウェンは頷く。
「今、わしは己を高められる地を探している途中なのじゃが……。
人の行く末など、わからぬものよのう。」
扇子をぴしゃりと閉め、それをウェンウェンに向けるアルド。
「貴様。
これから先は、地を這ってでも生きるが良い。」
「……しかし!
この目では……!!」
「もうわかっておろう。
代わりに、貴様には普通の目に見えぬものが見えておることが。」
「………。」
「その星を追い、道を示すだけに生きよ。
それを探求の代わりとするが良い。」
知識を満たすことが生きがいの全てだった。
「―――おぬしにはそれが出来よう。
星詠は長い年月をかけ、既に認めておる。
悠久の時間を重ねても、一切朽ちぬ身体がその証よ。」
だが、それを奪われた虚無感は、彼の言葉で満ちていく。
「では、縁があったら、また逢おうぞ。」
「お待ち下さい…。
貴方は…」
「なに、貴様と同じような者じゃ。」
短く切って捨てた、その言葉。
地面を両手でまさぐるウェンウェン。
自分があの時抱えていた荷物は、長年の間ずっと、そのままに転がっていた。
◆ ◆ ◆
触れるだけで崩れ落ちてしまいそうに古い、一枚の羊皮紙。
「これは、遥か昔、私が学者だった頃に研究した……古代文書の一枚だ。」
「………?」
それをウェンウェンから受け取ったままの姿勢で、パンリが分からない、といった顔をする。
「………これが…?」
紙面には、自分が全く知らない文字が記されていた。
「一番初めの語句は、『源』と書いてある。」
「……!!
まさか…これは……神語…なのですか?」
声を震わせるパンリ。
「そんな……!!」
改めて凝視する、羅列された単語。
それは、源法術の鍵となる言葉。
大陸において学術研究に携わる者ならば、おそらくは誰もが喉から手が出るほど欲しがる文献であろう。
「君は、神に逢いたいのだろう?
ならば、そこに記された叡智を調べてみるといい。
無論、人々が千年以上をかけても未開の部分だ。
その道は困難だとは思うが。」
「い、いただけません!
こんな貴重な……!!」
だが、そういう断り方をするパンリに、ウェンウェンは黙って笑う。
「確かに、私はそれを『知り得る』ために膨大な時を使った。
そして莫大な代償を払うこととなった。」
目元の布を直す彼。
「だから、今となっては……それは私にとってもはや無用のものだ。
それに…広い大陸で、受け取るのに相応しい人間に、次にいつ会えるか分からない。」
「しかし!」
羊皮紙を返そうと差し出すパンリ。
彼は微笑んで、その動きを制する。
「さだめを変えるには、さだめの『外』にいる者の協力が不可欠なのだ。」
「……さだめ?」
パンリは息を飲んだ。
「彼等はとても強いが、弱くもある。
これから訪れる過酷な運命に立ち向かうためには、君のような『支え』が必要となるはずだ。」
「そんな……私には何もありません…。
出来ることなんて……何も無いんです。」
「―――無いのなら、これから作ればいい。
この世に、遅いことなどありはしない。
君のその胸の高鳴りこそが、始まりの合図だ。」
ウェンウェンは、最後に笑って言った。
「いつも、私のために本を読んでくれてありがとう。
君の声は、非常に優しかった。」
「……もう逢えないのですか。」
いつも以上の真剣な眼差しで、少年は言った。
「ウェンウェンはいつでも独り旅だ。
身の底の悲しみは、どうか糧に―――」
飄々(ひょうひょう)として、杖を振り上げて。
彼との別れは、やはり突然だった。
◆ ◆
自分の顎を摘まみながら、空を見上げるバーグ。
かなりの高度で一機の戦闘騎が飛んでいる。
それに続き、飛翔艦も数隻。
「北へ向かっているな……。
なるほど、軍隊の方で何か急な動きがあったか……。」
ざわめく周囲の木々と草花。
風が世羅の髪をなびかせる。
それを押さえる彼女と、戒は不意に目を合わせた。
懐かしい、旅の予感が身を支配する。
「……おう、ようやく来なすったか。」
そこで丘を降りて来るパンリの姿を見止めて、バーグが声を掛けた。
「…何か…あったんですか?」
クゥ以外の全員が集まっており。
さらに傍には馬車の姿。
そんな異変に、彼が訊いた。
「駐屯地に急いで戻れとのお達しだ。
軍人ってのも辛いねえ。」
冗談交じりに答えるバーグ。
「…と、いうわけでな。
ここまで見送りご苦労だったぜ、パンリ。」
続いて、その脇の戒が素っ気無い言葉を口にした。
「…あの……私も連れて行ってもらえませんか。」
それに対し、パンリは遠慮がちに視線を下ろしたまま言葉を返す。
「いや…だから、見送りなら別にここでいいんだぜ。
わざわざ、こっちに来ることもねえよ。」
だが、見当違いの言葉をかけ続ける彼。
「……あ、あの…そうではなくて…」
「まあ、いいじゃねえか。
とりあえず、来たらいい。」
バーグは大きく笑い、ごつい片手で彼の小さな背中を押した。
「昨日言ったとおり、私も行くわよ!」
手を上げて元気良く声を上げるシュナ。
「……よぉし、じゃあ出発するか。」
パンリと同様、彼女の背も軽く押すバーグ。
そして微笑む世羅、その後ろのザナナ、正面の戒、それぞれに向き直って笑う彼。
「―――てなわけで、ちょっくら予定より大人数だけどいいかい?」
待ちぼうけを食らっていた御者に、後ろから声をかける。
相手は苦笑しながら、彼等全員を指折り数えたのだった。
◆
◆ ◆
◆
全面をステンドグラスで造られたドーム状の屋根。
蜥蜴がへばりつくような体勢で、全身を黒スーツで固めた青年はそこから施設の内部を覗く。
とある街の片隅にある聖堂。
周辺の治安の悪化から、そこは既に教会の管理から離れ、マフィアの忌まわしき奴隷市場として使われていた。
「……とても間に合わないわ、ユーイ。
至急の帰還命令が出てるのよ。
一刻も早く首都に戻らないと……また部長さんの雷が落ちるわ。 きっと。」
「…………。」
傍らの少女の声に、青年はおもむろに立ち上がり、手にした刀の鞘の先をコツ、とガラスの表面に当てる。
「……まさか…行くの?」
「俺達の時間と比べて、今、貴重なのはどっちだ?」
鋭い眼光で、建物内の一端を示す彼。
幾つもの狭い檻に詰められた、全裸の子供達がそこで蠢いているのが分かる。
「…取引直前の相手は、ピリピリしてるわ。
それに…集まった客を根こそぎ始末するのが本来の任務なのよ…」
「ならば、『強権』を使って俺を止めるか?」
「まさか。」
初めからその気は無いとばかりに、少女が軽く笑う。
それを皮切りに、青年は素早く刀を鞘から抜いて、直立のまま僅かに空を跳んだ。
◆
―――一直線。
熱帯林の豪雨のように落下するガラスの破片。
陽光の乱反射の中、瞬時に銃を懐から抜く護衛の男達。
遥か頭上から落ちてきた青年は、落下の衝撃に膝を曲げ、その足元は逆円形状に床が潰れていた。
守るべき主人は既に、その下で潰されて、肉塊と化している。
それでも、青年に反射的に向けられる男達の銃口。
即座。
感じる風圧と共に、彼等の拳が刎ねられて飛んだ。
さらに一回転した刃で、皆のそれぞれの上半身が飛んだ。
それらの鮮血を全身に浴びて、檻の中で怯える無数の目。
血煙の隙間から、それを眺める青年の眼は爬虫類のように瞳孔を縦に尖らせている。
「…それじゃ、あとは……処理班に任せましょうか。」
やがて壊れた天井から、フリルのついた傘でゆっくりと降りて来る少女。
「………。」
その言葉を合図に、檻の中で怯えたままの子供達から目を離す青年。
右手にした刀身の血潮を一度振ってから鞘に収め、背を向けて歩きだす。
「……時間はどうだ。」
普段の眠たい目に戻って、問う。
「余るくらい。
お互いに、ね。」
少女は笑みを浮かべて返した。
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第三章
第二話 『大悪名に触れる』
了
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