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2-6 「天へ往くため地を駆けて」



This story is a thing written by RYUU


Air・Fantagista


Chapter 2

『It runs on ground to go to the heaven』


The sixth story

' It runs on ground to go to the heaven '





◆ ◆ ◆



 久方ぶりの深い眠りだった。

 身を揺らされるまで、泥のように眠っていた自分。


 思考がまどろむ中。

 自分の二の腕を掴んでいる、ローブの少年の小さな手を払った。



「…到着……したのか。」


 戒は薄目を開けて、停車した列車内を見回す。

 慌しい乗客の姿を背景に、目の前の少年はうなずいた。


 そして自分の役目を終えた彼は、自分の座っていた席に置いてある大量の本を両脇に抱えて離れていく。

 列車の外では、早くも出発の号令がかかっていた。


 戒も荷物を手早くまとめ、乗車してくる客を掻き分けながらそれに続く。



 降車すると外は肌寒く、既に空はほの暗い。

 列車の到着場は都会らしく、なかなか綺麗で落ち着いているようだった。


 だが、戒にとっては未開の地。

 先導してくれる者もいないこの街で、彼は暫くは立ち尽くすしかなかった。



(……この人…もしかして…この街、初めてなのかな…?)


 先の少年は、ある程度の距離を置いてから、そんな戒の様子を気に留めた。



(……でも…恐い……)


 だが、すぐに彼の粗暴さを思い出して、きびすを返す。



「―――パンリ。」


 そこで、聞き慣れた声が響いた。


 少年は反射的に、声のする方へ向く。



 長い錫杖しゃくじょうを片手にした男が、辺りをうかがっていた。



「……ここです。

 ウェンウェンさま!」


 途端に少年は戒から完全に目を離し、小走りで彼に寄った。



「頼まれた御本、ありましたよ。」


「すまないね、明日は大事な試験だというのに。」


 男は、少年の被るフードに大きな手を乗せた。



「…私が頼んだ本以外も……また、たくさん買ってきたものだ。」


 そして慣れた手つきで、そのまま少年の肩を掴む。


「本には目が無くて……つい。」


 それを合図に、少年は男の足に合わせてゆっくり歩を進めた。



「しかし、後からついてくる……彼は……誰だ?」



「えっ……?」


 男に言われ、振り向く少年。

 頬に傷のある、先の男がひどい目つきで二人の後をついてきているのだ。


 肝を潰すのも、無理はなかった。



「パンリ、君の知り合いか?」


「そ、そんな……知りません…。

 ただ…列車で同席で……」



 男にしがみ付きながら、少年は背後の戒の様子を観察する。



「ああ……! 思い出した…。

 あの人…確か、プレオルンの古本市で会った人です……!」


「?」


「その時、身体がぶつかって……だから、怒ってるのかも…。

 ていうか、いつも怒っているような顔してて…。

 恐い……。」


「…ふむ……」


 深くうめき、少年の肩から離れる男。

 彼は手にした錫杖を地に小刻みに当てながら、今来た道を戻り始める。



「え……ウェンウェンさま……!?」


 語尾を小さくしぼませながらパンリが呟いた。



 丁度、人気の無い闇深の路地だった。

 腰を屈め、杖をついて迫り来る男の影に、戒の方が逆に立ち止まる。


 後ろで束ねた髪の毛の一本一本がいきり立つ感覚。



「…難儀だ……」


 異常な緊張感の中、その男の口がゆっくりと動き始めるのが見えた。



「難儀だねぇ……」


 言葉に与えられた衝撃、その刹那。

 戒は全身を強張らせて、男の襟元を掴んだ。



「…てめえ……占い師か…!?」

「…どうして、そう思う?」



 襟元を上げられたことで、曲がった腰が伸びる男。

 背丈には自信のある戒だったが、それを遥かに越えた長身。


 目にあたる部分に紫の草模様の厚い布を巻き。

 地を探るための錫杖を片手にした、それは盲目の男だった。



 顔が隠されているため、年齢は不詳。

 さらに袈裟けさ服という身なりも、彼の不思議な印象に輪をかけている。



「ばばあが…占い師をしていた…」


 腕から力を抜きながら、言葉を洩らす戒。


「ふふ……同じことを言われたことがあったか…」


 自嘲するように笑い、男は袈裟を直して背を向ける。

 その後ろの戒は、暫く動くことが出来ずにいた。



「……どうしたというのです?」


 戻ってきた男に、再び肩を貸した少年が訊く。


「ウェンウェンさまが…占うなんて。

 どんなお金持ちでも、相手にしないのに。」


「私はねえ、パンリ。

 このとおり、普通のものが見えないんだ。」


 目元に巻いた布に触れる男。



「その代わり、普通でないものが見える。」


 その布下が、わずかに動いた。



(そう……それは、大陸にまたたく星の光だ…)


 彼の視覚の漆黒の闇。

 その中で揺れる、青白い光輪。


 そして、奔流の如く押し寄せては引いていくイメージの波頭。

 彼はいつものように、未来をわずかに見た。



「きみ、名前は?」


 わずかに後ろに首をかたむけて、声を発する男。



「……戒だ。」


 その背中に言葉を返す戒。



「わたしは、ウェンウェン。

 この子は、パンリという。」


 笑いを含みながら答え、遠くに見える街並みへ向かって歩き出す男。



「おい……」


 戒は前の二人を見失わないうちに。

 地面に置いた荷物を急いで持ち上げて、その後ろを急いで追った。





◆ ◆ ◆



エア・ファンタジスタ

Air・Fantagista




第二章

天へ往くため地を駆けて



第六話 『天へ往くため地を駆けて』



◆ ◆ ◆



◆ ◆




(しかし……)


 戒はしかめ面で大通りを歩きながら、すれ違う若者達の様子に目を見張る。


 彼等は皆、片手で本を持ち、それを読みながら歩いていた。

 器用なもので、それでいて誰も他人にぶつかることもないのだ。


(なんなんだ……このガリ勉共は…)


 中王神学校の在る都市、ディバイディオン。

 さすがは学びの街といったところだろうが、それしても度が過ぎていると、戒は頭を振る。


 通りの両端には、魔導技術の光が施された街灯が規則正しく並び。

 足元に敷かれた、大通り一面の石畳にはゴミひとつ無く、よく整備されている。


 そこは今まで訪れたどの街よりも、毒気の薄い几帳面な環境に見えた。



「毎年、この街は試験が近いと賑やかだ。」


 ウェンウェンが雑踏に耳をそばだてて言った。



「…試験の日って、いつだ?」


「……え?」


 突然の戒の問いに、少年が聞き返す。



「も、もしかして、貴方も試験を受けに?」


「…ああ。

 だが、時間の感覚が無えんだ。」


 戒は眉間にしわを寄せて呟く。



「……明日ですよ。」


 その様子を、半ば呆然と眺めながら少年は答えた。


「…明日?

 ……もう明日だと!?」


 それを聞くなり、すぐに神妙な面持ちに変わる戒。



「…さて、着いた。」


 そんな会話はそっちのけで、ウェンウェンが立ち止まる。


 そこは大通りに面した、細長くて高い一階建ての建築物。

 円錐えんすいの形状をしており、それは巨大なとんがり帽子のようにも見えた。


 その屋根に下がっているのは看板だろうか。

 年季の入った板の上を、『ウェンウェン占庵』と流麗な書体で描かれている。



「誰がてめえの店に案内しろと言った。

 俺様は泊まれる宿をだな……」


「もう、どこの宿も満室だ。

 泊まれるところなど一つも無いよ。」


 答えながら、ウェンウェンが扉を開く。

 その背後で戒は、そこから洩れるわずかな埃と古い本の匂いを感じた。


 暗い中へとまずパンリが進み、慣れた手つきでランプに火を灯す。

 途端に、開ける視界。


 屋内は巨大な螺旋階段が壁を沿って天井へ向かって造られており。

 それはあたかも、巻貝の中に入ってしまったような奇妙な感覚に人をおとしれる。



「……すげえな…。」


 戒は頭を垂直に向けて、息を飲み込んだ。


 目を凝らせば、天井には、満点の夜空の絵が描かれているのがわかる。

 それは、幻想的な空間をさらに演出していた。



「……わたしは職業柄、大陸中を旅していてね。」


 ほぼ中央にある高い番台に陣取り、ウェンウェンは言った。



「各地には、趣味でこさえた家が沢山ある。

 『ここ』は使わない間、管理をパンリに任せているわけだ。

 おかげで、ここはいつも快適な状態だよ。」


 錫杖を手元に置き、胡坐あぐらをかくウェンウェン。



「ここで勉強すると、はかどるんです。

 住むところに加えお金もいただけるし……私にとっても、ありがたい仕事ですよ。」


 パンリは抱えていた本を棚に整頓しながら言った。



「ところで、この街は気に入ったかい?」


「来たばかりで、そんなこと判るか。

 だが、本を読みながら歩いている奴等は異様だな。」


 ウェンウェンの問いかけに、戒が荷物を降ろしながら答えた。



「あはは。

 普段から、そういうわけじゃないんですよ。」


 パンリが笑いながら言った。



「この時期だけ、特別なんです―――」



◆ ◆



「任務遂行中の小団長が直々に現れるなど……何か不測の事態が起きたとしか思えん。」


「……そんなこと、どうでもいいから……俺は寝たいよ。」


 マクスの懸念を、欠伸あくびでかき消すヂチャード。



「本気で言ってるんですか。」


 不遜な態度の彼に、クゥが真面目な表情で訊いた。


 深夜の教会は、警備役の緑華も既に撤収し、常駐の聖職者達も寝静まり。

 今の彼等の会話を除いては物音ひとつ無い。



「本気も本気さ。

 今、俺にとって大事なことは、この二日酔いの頭を回復させること。

 大体、俺は昔から騎士団も騎士道も興味無いの。」


 彼女に説明しながら、ヂチャードは前方から歩いて来るシザーの姿を認め、急いで背筋を伸ばした。



「シザー小団長…一体、何が起きたのですか?」


 早速のマクスの問い。


「赤華の重鎮が逃げたそうだ。」


 それに対し、シザーは不機嫌そうな顔で答えた。



「逃亡?」

「まさか、俺達に追えってわけじゃないですよね?」


 同時に急き立てるクゥとヂチャード。



「それに関しての指示は、まだ出ていない。

 上が判断するまで、このことは他言無用だ。 いいな?」


 淡々と言葉を並べ、シザーは三人を見回す。



「…それよりも、また問題が発生した。

 今、軍隊主催の夜宴への招待の馬車が来ているのだ。」


「…危険ではないのですか?」


「現在の情勢ではそうかもしれん。

 だが、誘われた以上、たとえ建前でも応じなくては無礼に値する。

 本来はそれどころではないのだが、仕方なく私が騎士団を代表して行く運びとなった。」


「―――では、我々が護衛に。」


 マクスが機先を制して言った。



「ああ、助かる。」


 マントを羽織りながら、シザーが返す。



「あの…すんません、教官…俺は……」


 申し訳無さそうに、声をかけたのがヂチャードだった。


「付き合っていられない、と顔が言っているな、ヂチャード。」


「…いいですか?」


 苦笑しながら、彼は言った。



「そうだな、本来の教会警備も終わりだ。

 ここから先は任務外だろう。 ゆっくり休め。」


「……いやあ、すんません。」


 口では謝罪しつつ、ヂチャードは意気揚々とした足取りで宿舎へと引き上げる。



「そう恐い顔をするな、クゥ。」


 そんな彼の後姿を凝視している彼女に、シザーが声をかける。



「不真面目な人だと思います。」


「思想が一辺倒になりがちな組織においては、ああいう人間は貴重だ。

 そうだろう、マクス?」


「…はい。」


 聖騎士はそう言って、相当に複雑な笑みを浮かべたのだった。



◆ ◆



「こいつら……みんな、受験生かよ。」


 呆然と窓の脇から外を覗く戒。

 言われてみれば、確かに賢そうな若者達が右へ左へと流れている。



 簡略だが、戒はパンリから試験の実態を聞くことが出来た。


 中王神学校大学部の一般入試は、一次試験と二次試験に分かれており、一次試験に合格した者のみが

さらに後日の二次試験を受けられること。


 一方、推薦入試にも一応の筆記試験があり、それを一般の一次試験と合同で行っているというのだ。


 合否基準等は違えど、大陸最高峰ともいわれている難度の試験は同じ物を使用するという。

 それを聞いただけでも、戒はかなり落ち込んでいた。



「くそったれ!!」


 八つ当たりで壁を叩く戒。

 お茶を運びながら、揺れる天井を不安そうに見上げるパンリ。



「……で、どれくらい難しいんだ?」


「私は五年も挑戦してますが…恥ずかしながら、一次試験を受かったのが最初の一年だけで…。」


 生気の無い顔で訊ねる戒に、照れくさそうに答える少年は、かなり知的な印象を受ける。

 そんな言葉を聞き、戒は訊ねたこと自体をすぐに後悔した。



「パンリ、家の中では帽子くらい脱いだらどうか。」


 出された茶をすすりながら、ウェンウェンが言う。



「え……でも…」


 困惑した顔で、戒の顔を眺めるパンリ。



「隠していても仕方あるまい。

 それに…彼なら大丈夫だ。」


「……はい…。」


 恥ずかしそうに、目深に被っていたフードを後ろにずらす彼。

 そこで露になったのは、色白で美しい少年の顔だった。


 ライトイエローの、丸い瞳と髪の毛。

 そして、ずいぶんと小顔である。


「!」


 だが、戒の目を釘付けにしたのは、そこから現れたのは茶色の大きな耳。

 それは少年の肩にかかるくらい垂れていて、ふさふさした毛が生えている。



「……なんだ、このヘンテコな飾りは?」


 だが次の瞬間には、それほど動揺もせずに、彼の両耳を堂々と両手で掴む戒。



「…お、驚かないんですか?」


 白い頬を赤く染めながら、上目づかいで様子をうかがうパンリ。



「珍しいアクセサリとは思うが。」


 むんず、とその耳を握ったままの状態で戒が答える。

 その感触から、付け根が異常にしっかりとしていることが判る。



「…ん……もしかして…」


 伝わる体温。

 不意に想像して、その小動物のような耳から戒は手を離した。



「本物か?」


 その問いに答えるように、パンリの長い耳は根元から小刻みに動いた。



「知らないのも無理は無い。

 垂耳たれみみは希少民族だからな。」


 錫杖を布で拭きながら、ウェンウェンが呟く。



「…でも普通は、言葉を失いますよ。

 今では周りの人も、慣れてくれてますが……」


「……言ったろう?

 彼は普通じゃないんだ。」


 口元を歪めて笑うウェンウェン。



「人を変人みたいに言うんじゃねえよ。

 いちいち、この程度で驚いていたら、身がもたねえ。」


 否定する戒。



「……ふむ。

 不思議には慣れている、ということかな。」


 ウェンウェンは、心底おかしそうに肩を震わせる。



「それでは…不思議、慣れっこ人ですね。」


 そしてパンリは、表情を輝かせて言った。



(なんだそりゃ………。)


 彼等の交わす、マイペースな雰囲気に、今度は戒は何も言い返せなかった。



「ところで、パンリ。

 さっそく、買ってきた本を読んで欲しいのだが…」


「ウェンウェンさま……すみません。

 今夜は、おかみさんの店に行きたいんですけど…。

 明日の試験を前に、フウシン先生が最後の講義をして下さるそうで…」


「そうか……すまなかった。

 わたしは先に寝るが、時間は気にせず帰ってきなさい。

 今日は有難う。」


 ウェンウェンは、笑って手の甲を振って促した。



「はい!」


 フードを被りなおし、外へと走り出るパンリ。



「…じゃあ、戒、君が代わりに読んでくれ。」


「断る。

 くだらん、付き合ってられるか。」


 戒はウェンウェンに対し愛想の無い言葉を吐いて、だらしなく床に足を伸ばしたまま、窓の外を何気なく眺めた。


 通りを横断してすぐの、向かいに面した料理店に入っていくパンリの姿。



「垂耳か……。」


「肌をさらすのを、あまり良しとしない、貞節な部族だよ。」


 戒の呟きに、ウェンウェンが答える。



「そしてパンリは……神様に恋をした少年だ。」


 卓上の筆を取る彼。



「彼の純朴な心と、まれなる感受を、わたしは気に入っている。」


 その脇のパレットには、コバルトブルーの絵の具が撒かれていた。



「一年は、400日あり。」


 筆はパレットへ突かれ、すぐに離されて無造作に振られた。



「一日には、昼と夜を、それぞれ守る神がいて。」


 青い雫が、白い紙へと飛ぶ。



「代わる代わるに大陸を守る。

 合わせて800。

 ……天命の輪と同じ…800。」


 作業を続けながら、ウェンウェンの口から紡がれる言葉。

 それは詩のように連なり、心を貫く。



「春の季節、98日目の夜を守るは、猫頭を持った神。

 ある日、あの子は、彼女に恋をした。」


 筆が止まる。

 ウェンウェンは絵を描き終えた紙に、満足そうに顔を近付けた。



「…天命の輪が800あるって、誰が調べた?

 そんなもん、占い師どもが勝手に創った妄想だ。」


 祖母の言葉を思い出し、早口で言葉を散らす戒。



「……まあ、そう慌てるな。」


 紙一杯に滅茶苦茶に描かれた、青い線。

 おぞましい、円律。


 ウェンウェンは戒に向かって、それを突きつける。



「今の、君の心の中の風景を、描いてみた。」


「……悪いが……俺様も出るぜ。」


 気分を害した戒が、思わず席を立つ。



(…神だと……?

 天命の輪だと……!?)


 壁に手を這わせ、扉に向かう。



(今の俺には、何も関係無えだろうが!!)


 目の前の得体の知れない占い師の言葉に、戒は何故か苛つきを憶えていた。



◆ ◆



「明日からのルベランセ修繕作業にともない、作業員が沢山やって来る。

 それと並行して、輸送してきた鉄鋼などの搬出も開始だ。

 念のため格納庫側だけでなく、正規の入り口付近も大きく開けておいてくれ。」


「……了解。」


 食堂を訪れたそばから事務的な言葉を並べ続けるリード。

 それには、ミーサが対応していた。



「ところで……いくらオフに入ったといっても…ほどほどにしておいてくれよな。」


 酔いつぶれ、目の前のテーブルで寝ているバーグを、リードは蔑んだ目でにらむ。



「あはは……」


 引きつった笑いで誤魔化すミーサ。


 そんな彼女が目線を泳がせた先。

 梅が食堂の入り口に座ったまま、死角を見上げていた。



「?」


 その視線の先で、薄布が揺らめく。

 そして、それを追い払うために振られる細い手。


 だが、その行為は逆に猫の関心を買うのみ。

 ちょいちょい、と梅はそれに合わせて前足を伸ばす仕草で対抗する。


 それらの様子を不審に思ったミーサとリードは、同時に座る位置をずらした。


 すると、通路にいるフィンデルが、食堂の前を横切ろうと機会を覗っている姿が見える。

 そして驚くべきは、その姿だった。



「え……フィンデル?」


 リードの呟きと共に、彼女が身を硬直させた。



「ど、どうしたんだよ、その恰好……!?」


 胸元が大きく開いた、藍色の光沢の派手なドレス。

 そんな彼女の装いに驚く彼。


 さらに予想以上にふくよかなバスト。

 細くて長めのスカート部分は、身体にぴったりと張り付き、ヒップのラインを官能的に強調している。



「副長…大胆……!」


 リードは照れから思わず目を背けたが、ミーサはその姿に目が釘付けになっていた。



「お願い…見ないで…。

 そして……何も言わないで……。」


 観念して現れる、魂が半分抜けた表情のフィンデル。

 彼女は壁に頭をこすりながら、廊下をふらふらと歩いていく。



「……ど、どこに行くつもりなんだよ!?

 もう夜遅いぞ……!?」


 どこかに行くからこそ、この装いなのだろう。

 そんなことは解っていながら、リードは訊かずにはいられなかった。



「……みんな、今日は適当に帰って頂戴。

 今夜はもう戻らないかもしれないから。」


 言い残し、彼女は早足で去って行く。

 瞬時に凍りつく、それを聞いた二人。



「……どこかのお金持ちとデート?」


 残った妙な空気の中で、ミーサが言葉を洩らした。



「……馬鹿を言うな……!」


 動揺して震えるリードの指先が、テーブルのコップを弾く。

 倒れたそれは転がって、だらしなく寝ているバーグのひたいに当った。



「…副長、意外と格式のある人間にモテる節があるし。」


「そうなんだよ……。

 あのサイア商会の会長から、援助してもらった経緯ってのも…いまだに謎なんだよな……」


 腕を強く組みながら、呟くリード。



「…って、そうじゃない……!

 『今夜は戻らない』ってどういうことだ!?」


「…言葉の意味…そのまんまじゃないの?」


 さばさばとミーサは返す。



「…あの…なんか……。

 ルベランセの外に、高級そうな馬車が留まってるんすけど…」


 そして所用から帰艦し、不意に食堂に入ってきたタモンが、彼にとどめを刺したのだった。





「―――今夜は仕事は休みだ。

 どんな地獄でも、楽しいと思えば、楽しく思えるさ。」


 馬車に乗り込んだ直後にかけられる、ギルチが発する根拠の無い言葉。

 フィンデルはスカートを乱暴に折りながら座り、まだ軍務を与えられた方がましだと思った。



「もっと若くて美人の部下と行けばいいのに…。

 貴方は偉いんだから…」


 彼女は膝上に両手を乗せて、不機嫌そうに目を閉じたまま口を尖らせる。



「無理な注文で、部下の信頼を失うわけにはいかん。」


 彼は真剣な表情で返した。



「下の者に押し付けてばかりでは、いずれ忠誠を失うからな。」


「…私も……部下でしょうに。」


「君は友だ。

 ……少なくとも、私はまだそう思っている。」


 ギルチの言葉に、フィンデルは何も答えなかった。

 彼はかたくなな彼女の態度に微笑んだ後、前で馬を操る御者に手で合図を出した。



◆ ◆



「はい、いらっしゃい!」


 店に入った瞬間、威勢の良い声が響く。

 戒の前に現れる、健康的な体格の中年おかみ。


 薄暗い店内は、あいかわらず真面目そうな学生で席が埋め尽くされている。

 給仕役は、目前のおかみだけのようだった。


 店内を見回せば、目深にローブを被った少年の姿は、すぐに壁際に認めることが出来た。



「何だい…あんた、パンリさんのお友達かい?」


 その視線に気付いたおかみが言う。



「あの方はご自分の受験もあるってのに、暇があったら、うちのバカ息子の勉強も見て下さっているんだ。

 しかも無料でね。」


 強引に手を引かれ、その席へと案内される戒。



「おかみさん…私は、それほど大したことしてませんよ。」


 それを聞いたパンリは、戒に笑いかけながら言った。



「じゃあ、これくらいさせておくれよ。

 あんたのおかげで、あの子のこの前のテストの点が上がったんだ。」


 そう言って、豪勢な料理の入った大皿をテーブルに叩きつけるおかみ。



「うちの名物、煙鳥のから揚げさ。

 パンリさんの友達なら、あんたもたっぷり食っとくれよ。」


 戒は促されるまま、席につく。



「明日、頑張るんだよ、パンリさん。」


「ありがとうございます!!」


 おかみの励ましに、パンリは快活に答えた。



「しかし…戒くん、いいんですか?

 休んでなくて。」


「………。」


 戒は無言で腕を組む。



(きっと、ウェンウェンさまにからかわれたんだ…)


 状況が容易に想像でき、パンリは思わず微笑んだ。



 一方の戒は、その店における客同士の異質な会話に耳を済ませていた。


 今の政治について、議論を戦わせている者。

 大陸各地における、経済の推移。

 源法術や錬金術の独自理論など。


 およそ、普通の酒場で繰り広げられるような、下世話な話は一片も無い。

 そのような場の雰囲気に慣れていない戒は、自然と伏せ目がちになった。


 これでは、これから受ける試験も噂どおりの至難に違いない。


 さらに目の前の少年ときたら、このような地に五年以上も居るというのに、それでも突破出来ないのだ。

 戒にとっては、これが推薦で受けられるという事だけが唯一の救いであった。



「ここは、お気に入りの席なんですよ。」


 すぐ脇の壁に掛けられた絵画を見詰めながら、パンリが言った。



「これは、レプリカだけど……。

 …子供の頃、中王美術館で見たこの神様の絵は…本当に素晴らしかったんだ。」



 額縁の中にいる、異形のもの。

 それは美しい女性の肢体でありながら、猫の顔を持ち、背に美しい蝶のような羽根を広げていた。


 右手には果実。

 左手は、極端に横に寄った構図上、描かれていない。



「それから、夢が出来たんです。

 ……私は、いつか神に会いたい。」


「…だから神学を学ぶのか?」


「すみません!

 よこしまな理由で。」


「別に……。

 人それぞれじゃねえのか。」


 顔を真っ赤にして何故か謝るパンリに、戒が呟いた。



「でもな、てめえの考えは絵空事だぜ。」


「はは……厳しいなぁ……不思議、慣れっこ人なのに。」


「………。」


 笑うパンリに対し、恐い顔で返す戒。



「でもね……神が実際に存在してなくても、会えなくても…構わない。

 私の想いは……」



 パンリの言葉を聞きながら、遠くで白い法衣を纏う中年の男が前の壇上へ出るのが見えた。

 直後、店内の誰もが彼に注目する。


 彼は厚い本を片手に、そして何の前触れも無く喋り出した。

 一瞬にして、それに集中する周囲。



 それは、今まで幾度と無く繰り返されている、ここでの情景なのだと戒は理解した。






◆ ◆



◆ ◆



 主宴場には既に地元の役人や高貴な立場の人間が集まっており。


 中央の巨大なシャンデリアの下では、グッソとペッポが並び、親子で次々に訪れる客人と杯を交わし続けていた。



「グッソ中将。」


 寄せる挨拶の波がひと段落したところを見計らい、ギルチが二人に声をかける。



「このたびの飛翔艦ルベランセの任務において、ペッポ准将を補佐したフィンデル=バーディ大尉でございます。」


 彼のうやうやしい紹介に預かり、後ろで会釈をするフィンデル。



「……ほう、そなたが。」


 グッソ中将は、彼女の頭から爪先まで一通り眺めてから呟いた。



「道中、ペッポが世話になったようだな。」


「彼女は、なかなかいい働きだったよ、パパ。」


 平然と言うペッポの言葉に、少し違和感を覚えながらフィンデルは再度敬礼をして、後退した。



「彼女も拝謁できて、光栄だと言っております。」


 すかさず付け加えるギルチ。



「ふむ。

 息子はこれより更に重要な艦への配属となるゆえ、もう接点は無いと思う。

 だから、他の乗組員にも大儀であったと伝えておいて欲しい。」


「はい、必ずや伝えておきます。」


 終始無言のフィンデルに対し、ギルチはまたもしても代わりに答える。

 流石に間が持たないので、最後に深く礼をして、二人はその場を後にした。


 去り際に聞こえる、彼等親子に媚びへつらう人々の賛辞。

 それをフィンデルは本当に嫌な気分で聞き流していた。



「……で、どういうことなの?」


「何がだ?」


 フィンデルが上げた疑問の声に、ギルチが返す。



「私は……彼を殴ったはずなんだけど。」


「ああ、そのことか……。」


 あからさまな苦笑を浮かべる彼。



「ペッポの奴、不時着時のショックで最近の記憶が無いそうだ。」


「…………。」


 フィンデルは呆れ果てて言葉を失った。



「しかもまあ都合が良いことに、自分が見事に指揮をして無事に生還したと思い込んでいる。

 …まあ、放っておけ。」


「……そうね。」


 肩を落としながら、彼女は答えた。

 久方ぶりの公の場に、昨日までの疲れが一気に甦ってくる。



「……後は終宴まで、適当にくつろいでいてくれないか。」


 ギルチはそう言って、彼女から離れた。



「幹事は賓客ひんきゃくへの対応に忙しくてな。

 帰りはちゃんと送るから、安心してくれ。」


 自分勝手に言い連ねて主宴場を去る彼。

 一人残されたフィンデルだったが、このような場所ではくつろぐあてなどは無かった。



◆ ◆



 巨大な宮殿を目の当たりにし、クゥが思わず緊張の色を浮かべた。



「―――武器を預からせていただきます。」


 近付いた給仕に言われた通り、早々に自分の銀の剣を抜いて渡す脇のマクス。

 それを真似して、彼女も続く。



「今は…もっぱら戦闘騎の操縦だけをしているらしいが…。

 剣の腕はなまっていないのか、マクス?」


 自身の腰の剣を抜くシザー。



「確かに、最近はあまり…」


「ならば今度、お前にも稽古をつけてやろう。」


「ぜひとも。

 その時は、手加減をお願いします。」


 彼は不敵に笑みをこぼした。


 少しも怖気つくこと無く、普段どおり会話を交わす両者を見て、クゥの緊張は余計に高まる。


 何せ、格式高い所に来た経験など、生まれて一度も無い。

 任務とはいえ、目の前の恐ろしく場違いな空気に、ついてきたのを少し後悔する。



 やがて通されたのは、柔らかい絨毯が一面に敷き詰められた廊下だった。

 羽毛のような踏み心地の中、両脇に並んだ給仕達に次々と礼をされながら三人は前へと進む。


 その中で、シザーのみに耳打ちする一人の給仕。



「―――マクス、クゥ。

 悪いが、二人で時間を潰しておいてくれ。」


 彼女はその言葉を聞いた後、呟いた。


「手間が省けた。

 今夜は、早く帰れそうだ。」



◆ ◆



「―――やあ、先に一杯やらせてもらってるよ。」


 階段の隅で顔をほんのりと赤く染めて、ギルチに向かってワイングラスをかざす優男。



「ひどいじゃないか。

 せっかく従兄弟いとこが尋ねてきたのに、今日まで一ヶ月も放ったらかしなんて。

 …いざ来ても、まるで構ってくれないし。」


「……すまん。

 今夜の相手はおまえだけでは無いのだ。

 それに、今はゴタゴタが特にひどくてな。」


 ギルチは苦労のにじんだ表情で答える。

 相手は大して気にする様子も無く、手にしたワインを再び口にした。



「……ロディ。

 今まで、何処にいた?」


 そこで素朴な疑問を口にするギルチ。


「中王都市の人は親切だったよ。

 美人だし、スタイルもいい。」


 それに対し、嬉しそうに答える男。



「……やはり、女のところで厄介になってたか。」


 ギルチは諦めたように呟いた。



「しかし、こりゃ、素晴らしい宴だね。

 やっぱり提督となると違う。」


「…まだまだだ。

 目指すべきは、遥か上にある。」


「あまり……急いで権力を求めるなよ。

 いつの時代も、出る杭は打たれるものさ。」


「わかっている。」


 ギルチは、階段に一歩踏み上がった。



「己の未熟さは、学生時代に嫌というくらい思い知らされた。

 私に油断は無いはずだ。」


「昔から優等生の君が、かい?」


「今でも彼女の才覚に嫉妬しているのかもしれんな。

 私がただ一度として、模擬戦で勝てなかった相手なのだから。」


「そんな将の噂、聞いたことないねぇ。

 たとえ学生時代のことでも、君に勝るほどの頭脳の持ち主なら少しは評判に上がるはずだが。」


 男は口髭を撫でながら、興味津々の様子で聞いていた。



「……言い方が悪かった。

 勝てなかったが、負けもしなかったということだ。」


 ギルチは続けた。


「彼女は自分の実力を隠すため、誰とも引き分け続けたのだ。

 それは勝ち続けることよりも難しいことだと思わないか?」


「…それは大したもんだ。

 ……いやはや、一生に一度は、そのような人の下で働いてみたいね。」


 男は肩をすくめて言った。



「無理だな。

 お前に軍隊は似合わん。」


「そうだね、自分でもそう思う。」


 そして、笑う彼。



「何より、お前のようなタイプを彼女は一番…」


 言いかけたところで、ギルチは少し唸る。



「……すまん。

 これからまだ、賓客の相手を山ほどをしなくてはならんのだ。」


「ん。」


「…某国の重鎮が腕の良い操縦士を探している。

 後で、必ず彼と会わせよう。

 それまで、じっとしていてくれ。」


「持つべきものは、良き親友かな。」


 男はそう言って、摘んだグラスを軽く持ち上げた。

 そして、ふらりと歩き出す。



「……じっとしていてくれよ。」


「そう警戒しないでくれ。

 ……生理的現象を解消しに行くだけさ。」


 男は笑顔で、空になったグラスをギルチに手渡した。





「……ふう。」


 端で一息つくフィンデル。

 主宴場は腰掛ける所も無く、気が休まらなかった。


 造られた、きらびやかな光景。

 天井から吊られた沢山のシャンデリア。


 その下で宝石や貴金属を照らす光の反射は、普段目にしている陽の光とは全く違う異質を放っている。


 身体の芯まで滅入るような空気の中。

 何気なく泳がせた目線の先に、彼女はそこで信じ難い光景を目にした。



 厚い人垣を抜けた、視界の遠く。

 どこかの格式ありそうな人間とグラスを傾けている鎧の男。


 その身を包んだ、銀の鎧。

 それは宴場の隅とはいえ、記憶にあれば気付かざるをえない存在感。


 そして―――見紛うはずもない。


 彼女の喉が鳴った。



 聖騎士マクス=オルゼリア。

 彼との邂逅かいこうは、バーグからの報告を彼女の頭脳に呼び覚ます。


 彼が本当にリジャンを討ち、炎団の艦を堕としたのか。

 そして、本当にルベランセを謀り、捕らえようとしたのか。



 素早く思いを巡らせるうち、やがて聖騎士は一人の女性騎士を連れて主宴場を後にした。

 フィンデルの足は自然とそれを追う。


 いかに危険があろうと、真実を確かめるという使命感の前では、それはかすんでしまった。


 高鳴る動悸を抑え、彼女は魔窟を抜け出した。





「今朝の会議では世話になったな、シザー小団長。」


 通された宮殿二階の一室。



「……ギルチ。」


 彼女は扉を開けてすぐに呟いた。



「『あれ』を会議と呼ぶのか?

 騎士団を、随分といじめてくれて。」


「学友のよしみで、手加減しろとでも?」


「…そんなことは言わん。

 ただ―――」


 シザーは歩み寄ったが、用意されていた安楽椅子には腰を下ろさずに続けた。



死人しびとのような王を操る摂政と、『今度は』騎士団を潰す計画か。

 愚策の極みだ。」


「認識を誤っているぞ、シザー。

 昨年の親王隊の粛清……あれは軍隊の意志とは無関係だ。」


 対照的に椅子にゆったりと座り、足を組んで、口元を締めるギルチ。



「『それ』を行った軍警察は、軍の名を冠しているだけにすぎない。

 存在そのものを軍隊と混同させる……それ自体が、既に摂政の狙いだと何故気付かん?」


「……さらばだ、ギルチ。

 今宵はお招きに預かり光栄の極み、積もる話も数多くあろうが、今は共に居れる立場ではない。」


 厳しく背を向ける彼女の鎧が音を立てた。



「……そう慌てるな。

 君には、ひとつ、どうしても言いたいことがあったんだ。」


「……何だ?」


 扉に手をかけたまま、シザーが訊いた。



「成婚の祝辞さ。

 お相手のヘリオドス卿は素晴らしい人格者だと聞く。

 心から祝福するよ。」


「風の噂というものは、どこにでも吹いているものだな。」


 鼻で笑う彼女。



「―――もう鎧を纏うのはよせ。

 ……お腹の子供に障る。」


 その瞬間、不意にギルチは言った。



「!!」


 狼狽して、下腹部を無意識に触れるシザー。



「何故……それを…」


 騎士団の者にさえ、誰にも教えてないない秘密。

 驚きのあまり、彼女は立ち尽くす。



「君が、自分の都合ごときで戦場を去る人間ではないことを、私は知っているつもりだ。」


 いやに遠くから響き聞こえる彼の声。



「すぐにでも表舞台から去れ、シザー。

 中途半端な君の姿など、もう見たくはない。」


 友の辛辣しんらつな、それでいて哀れむような言葉に押し黙る彼女。



「…胸に留めて置こう。」


 そう言い切った瞳からは、既に色々なものが消えていた。



(我ながらひどい男だな、私は。

 ていの良い言葉で、友を蹴落として。)


 その小さくなった彼女の背を眺めながら、ギルチは思う。



「この会場にフィンデルも来ている。

 良かったら会わせるが。」


 そして最後に投げかけられた彼の言葉に、彼女は足を止めた。



「無用だ。

 いまさら、話すことなど何も無い。」


「まだ根に持っているのか…?

 一度も勝てなかったことを。」


 ギルチは笑った。



「勝てなかったことではない。

 手加減をされたことに、だ。」


 目を閉じ、二人が同じく思うのは。

 三人で仲良く歩いていた、士官学生時代のお互いの姿だった。



◆ ◆



「すみません…」


 中庭で夜風に当たりながら、クゥが呟いた。



「無理もない。

 私も初めての社交場では、緊張で気分が悪くなったものだ。」


 マクスは淡々と声をかける。



「貴方が…ですか?」


「今でも、そんなに得意ではないな。」


「でも……上手く立ち振る舞っているように見えました。」


「要は『慣れ』だ。」


 マクスは呟き、植えられた針葉樹の葉に触れた。





 庭を後にしようとする二人の姿を、フィンデルは目を凝らして追う。


そして、いざ中腰の姿勢から立ち上がろうとした時、彼女は固まった。

 そこで思いがけないアクシデントが発生していることに気付いたのだ。



 身を隠すために寄り添った小さな剣士の銅像。

 なんと、その像が持つ剣が、自分のたるんだスカート部に引っ掛かっている。


 考えられないような不覚。

 だが悔やんでいる時間は無い。



(何故、ドレスは、人を追うのに、こんなにも機能的じゃないのかしら!!)


 意を決して、スカートの裾を引き裂くフィンデル。


 だが同時に、その像の剣も呆気なく折れてしまう。

 それにより発生した金属音に驚き、気付かれたのではないかと、彼女は視線を二人に戻した。


 だが、聖騎士達の姿は既に視界から失われていた。



(…しまった……!!)


 彼等の進む方向を予測し、疾風の如く廊下に踊り出た彼女だったが、時は既に遅く。

 誰も居ない、幾つも分岐している廊下を呆然と見詰める羽目になった。


 ここは構造を知らない宮殿内である。

 途方に暮れ、踵を返して振り向くフィンデル。


 だが追っていた二人は突然に、その眼前の廊下から現れた。

 方向感覚が狂った彼女は、こともあろうに、彼等の正面側に出てしまっていたのである。



 思いがけない遭遇に、フィンデルは言葉を失っていた。


 一見して、マクスは動じていない表情。

 女性の騎士は、自分の破れたドレスを注視しているようだった。



「……失礼。」


 まるで何事も無かったかのように、彼女を横切る聖騎士。



「……待って下さい。

 マクスさん。」


 その平静を装う彼に、一声かける。



「失礼だが……どこかでお会いしたかな?」


 抑揚の無い声だった。



「お忘れですか…?

 飛翔艦ルベランセ副艦長の……フィンデルです。」


「…悪いが、記憶にない。」


 変わらぬ彼の姿勢に、フィンデルは直感で理解した。



 ―――バーグの予想は、大きく外れていない。



「嘘をおっしゃらないで下さい!

 以前、貴方は戦闘騎でルベランセを訪れ、補給を受けたはず!!」


 フィンデルは去ろうとするマクスの銀の手甲ガントレットを強く掴んだ。



「ろ、狼藉者……!」


 事情を飲み込めないながらも、マクスを守るため、クゥが袖に隠していた短剣を突きつける。


 だが、眼前のフィンデルは動じる様子は無かった。


 彼女の鬼気迫る表情。

 短剣を彼女に伸ばしたまま、クゥも何かを感じとる。



「―――!?」


 そんな中、足元で空気が弾けた。


 絨毯に付いた弾痕で、ようやく撃たれたことを悟る三人。



「おめでたい席で……よくないね。

 そういうの。」


 髪を掻きあげながら、曲がり角から現れる優男。



「…ぜんぜん、素敵じゃない。」


 手にした黄金の銃。

 その銃口からは、不思議と硝煙は上がっていない。



「ときに、御仁は聖騎士殿とお見受けいたすが。

 理由はどうあれ……自身の目の前で婦女子達に手を向けさせ合うことが、君の騎士道というものかい?」


 優麗な物言いに、場は静まり返る。

 彼のただならぬ気配をいなすように、マクスは背を向けた。



「行くぞ。」


 そして彼の号令に黙って従うクゥ。



「今までの戦いで……人が……大勢死にました……!」


 彼等を追うために一歩踏み出て、フィンデルは嗚咽と共に声を洩らす。



「貴方は、いったい何のため……人の道を外れるのですか!?

 マクス=……オルゼリア!!」


 その寛恕無い言葉を背に受けて、彼はわずかに彼女に顔を向ける。



「私も君も、戦いを旨とする集団で生きると決めたのならば……あらゆる覚悟を決める…そういうことだ。」


「覚悟とは、手を汚す覚悟ですか!?」


 彼女の問いに、マクスは何も答えなかった。

 そして、今度こそ彼の姿は遠くへと消えていく。



「ちょっと…君…」


 その彼等の様子を暫く眺めた後、乱入した男は拳銃を胸にしまい、優しい手つきでフィンデルの震えた手を握った。



「……く…っ!」


 今までの流れによる鋭い目つきで、彼の顔を睨んでしまう彼女。

 外の月に照らされたお互いの瞳光が、交差した。



「……!!」


 そこでフィンデルは我に返り、改めて自分のスカートの惨状に気付く。



「…ど…どうしよぅ……!?」


 顔を真っ赤にして、露になった腿を隠し、焦点の合わない視線で辺りを見回す。



「……待った。

 ちょっと、じっとしてて。」


 自分の肩掛けの一端を噛み、慣れた手つきで縦に裂く男。


 そして彼女の腰元に腕を回してそれを縛り付けると、破れた部分は見事に隠れ、アレンジを加えられた

別物のドレススカートが出来上がる。



「……!!」


 その手際の良さに、唖然とするフィンデル。

 だが恥ずかしさのあまり、自分の口元に手をやって、彼女は半分混乱しながらその場から逃げだしてしまった。


 男はそんな彼女を眺めつつ、先ほどの殺気を含んだ視線を思い出し、味わっていた。



「……素敵だ。」


 そして一言、呟いた。





「本当に…知らない女性なのですか?」


 早足で廊下を先に行くマクスに対し、クゥが訊いた。



「いや。

 先日、我々の手で捕獲しようとした飛翔艦の士官だ。」


「……ほ、捕獲?」


「あの件で、ヂチャードは最高の仕事をした。

 だが、私と他の連中の不手際のせいで、余計な恨みを買っているのだ。」


 冗談のようなマクスの言葉に、クゥは沈黙した。



「これから……どうするのですか?」


「数日は教会で待機となるだろう。」


 マクスは立ち止まった。



「クゥ。 我々の任務は、通常における騎士団のそれとは大きく違う。

 今日は、それが良く解ったはずだ。

 君は深く考えるべきだと思う。

 なし崩し的に流されてはきっと後悔するに違いない。」


 クゥには何故か、マクスがその言葉を自分自身に言い聞かせているように思えた。



「許されるのなら……一度、故郷に戻らせていただいてもよろしいですか?」


「…構わない。」


「任務の前に…行っておきたいのです。

 ……母の墓に。」


 その言葉にマクスは頷いた。


 しかし、それから先は、お互いに何も口にすることは無かった。



◆ ◆



 白い法衣を着た男の、店内での講義が終わった。

 学生達は誰もが暫くの間、黙ってその余韻に浸っている。



「…フウシン先生!」


 その男が各テーブルを挨拶で回り、そして自分の傍に来た時、パンリは嬉しそうに声をかけた。



「パンリ君。

 調子はどうかね。」


 それに答えるよう、彼は笑い返した。



「良好です。

 明日の試験……必ず受かってみせます!」


「私も楽しみだよ。

 君が、私の研究室に来てくれる日が近付くと思うと…」


 男は、戒の顔を見て言葉を止める。



「…おや、君は見た事が無い顔だな。」


「戒くんと言います。

 実は彼も、今年の受験を…」


 そのパンリの言葉を聞くなり、男は顔色を変える。



「君、受験の申し込みは?」


「何のことだ?」


 彼の言葉に、戒は素の表情で答えた。



「出してないんですかっ?」


 パンリが驚きながら叫ぶ。



「出すも何も…俺様はさっき、この街に着いたばかりだろうが。」


「残念だ。

 それでは、受験資格が無い。」


 表情を曇らせる男。

 だが、もっとも曇らせているのは他の誰でもない、戒自身である。



「試験を受けるには、最低でも三日前までに大学側に書類を提出し、受理されなくてはならないのだよ。」


「ま、待て……。

 そんなバカな話があるか…!」


「…学校の推薦状はあるのかね?」


「…ある…こいつだ…。」


 気を動転させながら胸元をまさぐり、長旅でしわくちゃになった封筒を取り出す戒。


 フウシンはそれを受け取り、少し伸ばしてからそれを開けた。


 彼が無言で中の書類を読みふけるその間、戒とパンリの二人は緊張しながら待ち続けた。



「レティーン神学校……首席合格者…とあるが…」


「………ああ。」


 戒が今度はポケットから赤い十字架を取り出して見せる。

 脇のパンリはそれを見てすぐに、大口を開けた。



「証拠は?」


「…………。」


 無言で十字架を握り、力を込める戒。

 その先端がゆっくりと伸び始める。


「なるほど。

 わかった、もう結構だ。」


 フウシンは見慣れている様子で、すぐに制した。



「すごい……初めて見ましたよ…。

 本物の聖十字イーディス……。」


 好奇の目で見詰めるパンリ。



「聖十字は、一番初めに発動させた者以外には反応しない。

 本人に間違いないようだが………」


 男は推薦状を再び一通り眺め、顔をしかめたまま皿の上のナイフを手にした。



「……!」


 そして、その刃を自分の指先にあてがい、引いた。

 テーブル上に滴る鮮血。


「―――何やってんだ!!」


 戒の腕が咄嗟に伸び、彼の指を掴む。



「なるほど……。

 これが、天命第五位てんめいだいごのくらい『犠牲の月獣』……か。」


 戒から手を離し、瞬時に治癒された、切れたはずの指を不思議そうに眺めながら男は呟いた。



「―――え!?」


 仰天して、目を見張るパンリ。

 戒の左の指の付け根には青白い輪が光っている。



「……学校の奴等…そんなことまで書いているのか。」


 苦々しく、戒が言った。



「ああ、君について、詳しく書いてあるよ。」


 頷きながら続ける男。



「……いいだろう。

 明日は大学に来たまえ。

 これは、特例で私が受理するよ。」


 そしてカップを手にとり、果実酒を口に含む。



「すごい、すごいよ、戒くん!!

 君が…天命人だなんて!!」


 無闇に高揚した声で、パンリが身を乗り出した。



「ぜひ…握手して下さい…!」


「よせ、気持ち悪い。」


 近付いた彼の顔面に、軽い平手を浴びせる戒。

 全く聞かずに、少年は目を潤ませながら感動を続けていた。



「レティーンの神学校を首席卒業、それだけでも素晴らしいのに!!」


 声が上がる瞬間、店内の客は皆、読んでいる本を下げて二人のテーブルを見詰めた。



「…いや…それほどでもねえよ…。」


 その痛いほど真摯な彼等の視線を避けるように、戒は身を縮ませる。



「一体、今まで何をしていたんですか?

 こんなにギリギリに到着して……今回は先生のご好意で何とかなったものの…。」


「イヤ…まあ…色々あってよ。」


「まあ…レティーンの首席の成せる技かもしれませんけど……油断は禁物ですよ…」


「―――私はそろそろ失礼しよう。」


 フウシンは咳払いをして、おもむろに立ち上がった。



「……先生!

 …種族の異なる私でも…中王都市の神学者になれるでしょうか……?」


 パンリも立ち上がって、それを送る。



「クレイン教の恩恵は全てを越え、万物に与えうるよ。」


 返すフウシンは優しく微笑んだ。



「……少しはマシのようだな。

 ここの教師は。」


 脇目でそのやりとりを眺めながら、戒が呟いた。



「レティーンも同様でしょう?」


「いいや。

 どいつもこいつも、自分のことばかり考えるクズ野郎ばかりだったぜ……。」


 声の調子を下げる彼。



「そろそろ戻るぞ。

 明日のために…休まねえと。」


 詳しい話になる前に、戒はそこで切り上げた。



◆ ◆



 ―――マクスとの邂逅かいこうから、もう数刻ほど経ったろうか。



 気を静めるために飲んだアルコールの効果も薄く、落ち着かない時間が続く。


 空白の時間が訪れる度、先程スカートを直してくれた男のことがフィンデルの頭には浮かびまくっていた。



 傍に近付く、ワインを運ぶ給仕。

 気を紛らわせるために、彼女は再びそれに手を伸ばす。


 だが、そこで他人と指先が触れ合い、フィンデルは驚いて手を引いた。



「あ、すみません…」

「いや、こちらこそ…」


 向かい合って謝る二人。

 一度頭を下げてから、同時に顔を上げる。



「―――え?」


 フィンデルは間抜けな声を洩らした。

 それこそ今まさに頭に浮かべていた、廊下で逢った男だったのだ。



「おや。」


 目尻を下げながら、心底嬉しそうに笑う彼。


 フィンデルは同様の表情になっている自分に気付いて、下を向いた。

 胸の鼓動が早くなるのを感じる。



「あ…あの!

 さ、先ほどはどうも……。」


 声をうわずらせながら、礼を言うフィンデル。



「さっきは驚いたよ。

 特に事情は聞かないけどね…。」


「すみません…。 私…お礼も言わずに…」


「お礼はいいよ。

 それよりも…二人の刺激的な出逢いと再会に、乾杯しないか。」


「え……?」


 給仕からグラスを二つ取り、傾ける男。

 それを受け取って、彼女は言う通りにした。



「いや、友人がこの宴の中に居るんだが、実に忙しい奴でね。

 僕はとっくに待ちくたびれてしまってる。

 …だけど、ここで良い話し相手が出来て、本当に良かった。」


「…わ、私も似たようなもので……。

 奇遇ですね…。」


 フィンデルは伏せ目がちに、今度はしっかりと男の姿をうかがった。



 細身の身体と、男性の割には長い髪。

 その髪は淡い茶色で、口元に生やしている髭は、よく手入れが行き届いていた。


 何よりも礼服を着こなしていて、高貴な印象を受ける。

 そして目が合うと、彼は垂れ目がちの目元を一層に下げて微笑んでくれるのだ。



「おや、結んだ所が少しほつれてるようだ…」


 会話の途中、男はフィンデルの下に屈んだ。


「あ…」


 スカート部分の布を結び直してくれる彼に対し、緊張してそのまま直立で硬直するフィンデル。



「…!」


 彼のしなやかな手の平が、彼女の内腿に触れた。

 急な感触に、びくり、と身体を振るわせる彼女。



 初め、それは不可抗力の偶然だと思った。



 だが、腰に回されたはずの彼の手は下がり始め、ついては妙な動きへと変わる。

 フィンデルは、みるみるうちに鳥肌が立つのが自分で分かった。





 女性の金切り声に、宮殿内が騒然とした。


「何だ……!?

 今のニワトリを絞め殺したような声は!?」


 丁度、全ての用件を終え、主宴場に戻ってきたギルチが叫ぶ。



 駆け足で向かうその先には、既に人垣ができ、その中心には怯えて座り込んでいる女性。

 ―――フィンデルの姿があった。


 ギルチは客人達に謝りつつ、かきわけて前へ進む。



「……どうした?」


 震える彼女の肩を抱き、彼は声をかけた。



「こ……この人が……!」


 震える指。

 その先には、飄々(ひょうひょう)として肩をすくめる男。



「……ロディ、お前か…。」


 彼を見ながら、ギルチが呆れ声を洩らした。



「…ギルチ…この人…知って…!?」


「場所を変えよう。」


 目を白黒させて放心状態のフィンデルの手を引き、男にもついてくるよう命ずるギルチ。


 やがて、騒ぎの当事者が去ることによって、場は平静を取り戻していった。



「……紹介しよう。」


 主宴場を抜け、廊下を早足で進みながらギルチは言った。



「元、ガザン王宮銃士隊。

 ロディッサ=フアリーデン殿だ。」


 ギルチの言葉に、一歩前に出る男。



「ロディと呼んでくれ。」


 さらに、おどけながら礼。



「こちらは、フィンデル=バーディ大尉。」


 その合図で、フィンデルは無言のまま、胸の動悸を抑えながら軽く会釈をした。


 三人は人気の無い廊下を抜け、夜風が涼しいバルコニーへと出る。



「一体、何があった?

 宴の席で、みっともなく大声を上げるなんて…君らしくないぞ。」


 予想はついていながらも、ギルチはそこで二人の顔を交互に見ながら訊いた。



「この人が……私の…」


 顔面を真っ赤にして、うつむくフィンデル。



「…スカートの中に手を入れてきて…!」


 恥辱と共にしぼり出す、彼女のためらいがちな言葉に、ギルチは溜め息をついて頭を下げる。



「ロディ!!」


 そして、子供に接するような態度で叱るギルチ。

 だが、対する相手は、相変わらず肩をすくめて笑っている。



「いやあ、つい。」


「つい、じゃないだろう!」


「何を目くじらを立てているんだ。

 まだ、おしりしか触ってないのに。」


「!!」


 問題の部分を両手で押さえて、フィンデルが唇を震わせて睨んだ。



「帰らせていただきます!」


 それは完全に怒り心頭の様子。



「まあ、誤解はあると思うが。

 根は悪い奴ではない。 許してやってくれ。」


 無理を承知で、ギルチが引き留める。



「このロディとは、国は違えど遠縁でな。

 子供の頃からの付き合いなんだ。」


 フィンデルは背を向けたまま、振り向かずに足を止めた。



「彼はこう見えても、王宮銃士隊で最高峰の栄誉表彰を受けている。

 騎馬の名手にして戦闘騎の操縦の達人…。

 かつて、『空駆ける天馬』と名を馳せた男だ。」


 彼に対しての賛辞を、必死に並べ連ねるギルチ。

 だが、彼女は疑いの目を向けている。



「悪いところも全部話さないと、信じません。」


 そして、フィンデルは断言した。

 ギルチが頭を強く掻く。



「……だがこの通り、こいつは女グセが異常に悪くてな…。

 裏では、『空駆ける種馬』とささやかれていたのも事実だ。」


「僕は、誉め言葉と受け取っているがね。」


 ロディが、全くもって勘違いの笑みを浮かべた。


 目の前のフィンデルは当然、冷めた目つきのまま睨みつけている。



「こいつは、ガザンの第三皇女をうっかり妊娠させた挙句、駆け落ち。

 そのくせ、今は独り身だ。

 彼の現在がどういう状況か……それで大体、察してくれ。」


 ギルチは歯を食いしばって、いたたまれない表情で事実を口にする。



「………。」


 それを聞くにつれ、彼女のロディに対する視線は、やがて汚物を見るような目つきに変わっていった。



「フィンデル大尉、ところで今夜これからの予定は?」


「……非常に有益な情報、ありがとうございました、ギルチ提督。」


 ロディを無視し、ツカツカと乾いた足音を響かせて去って行くフィンデル。



「おい、本当に帰るのか?」


「もう一秒たりとて、ここにいたくないの。」


 彼女の突き刺すような視線で、ギルチの背筋に悪寒が走った。

 こうなると、もはや引き留める術は無い。



「……だから…じっとしててくれと言ったんだ…。」


 彼女が姿を消した後、ギルチが呟いた。



「…反省してるよ。」


 ロディが軽く返す。



「ちなみに…彼女が、さっき話した私の同級生だ。」


「へえ。

 偶縁、奇縁だねこりゃ。」


「言っておくが……君を雇わせるのは、別の人間だぞ。」


「……何で?」


「水と油は、決して馴染まないからだ。」


「さあ、どうだろうね。」


 ロディは指を立て、左右に揺らす。



「その喩えは、男と女には……当てはまらない。

 一見して合わない者同士ほど、以外と相性はいいものさ。」


 その自信に満ち溢れているロディの横顔に、ギルチは再び呆れ返っていた。



 そんな中、バルコニー前を小走りで通り抜ける太めの男。



「…サネトロ少将。

 貴方自ら…どういたしました?」


「…おお、ギルチ殿。

 ここに居られたか。」


 ギルチから声をかけられると、彼は立ち止まり、息を切らせながら近付いてくる。



「グッソ中将がお呼びだ…。

 少し、来てもらいたい……。」


 彼は血相を変え、顔中から玉の汗を噴き出していた。

 それは、尋常ならない空気だった。



◆ ◆



「すごいんです!

 戒さんは、天命人なんですよ!!」


 帰るなり、パンリが興奮して第一声を出す。



「それも、レティーンの神学校を首席で卒業なされて……」


 ところが、ウェンウェンは既に横になり、寝息を立てていた。

 袈裟は脱ぎ捨て、身体には薄布を巻いている。



「この野郎……変な奴だな。」


 そんな彼から不思議と匂い立つ、中性的な色気を感じながら、戒が言った。



「まあ…確かに変わってる方ですね。

 このあたりに住んでいる人達に比べますと。」


 パンリは言いながら、毛布を戒に手渡す。



「でも、ウェンウェン様さまは物知りだから、色々と楽しい話を聞かせてくれるんですよ。」


 そして、目を輝かせながら少年は続けた。



「大聖典では、凶獣に支配された大陸を解放するために『創る者』が神様に力をいただくという

くだりがあります。

 ウェンウェン様さまによれば、その時、神様は姿を変えて人に乗り移ったとか。

 それが天命の輪の起源で…」


「まともに、変人の妄想に付き合ってんじゃねえよ。

 大聖典に書いてあることが事実だと思ってんのか?

 あんなのは、昔の奴が教徒を支配するために作り上げた創作だぞ。」


 戒は座りこみ、自分の身体に毛布を巻きつけた。



「貴方は修道士なのに教義を信じないんですか?」


「クソくらえだ。

 そんなもの、何の救いにもなりゃしねえ。」


「……戒くんって、ずいぶん擦れた性格してるんですね。」


「本当の話だ。

 神がいるっていうんなら、その証拠、今すぐ示してみろ。」


 その言葉に何も答えられず、パンリは窓のカーテンを閉めた。

 そして、消灯してから横になる彼。



「……私、今年の試験を最後にしようと思っているんです。」


 そして、闇の中で少年は言った。



「最初の受験から、もう五年になりますし…。

 故郷の村長からも、そろそろ帰って来いって…」


 その言葉に何も答えず、戒は寝たふりをした。



「だから……明日…頑張りましょうね…お互い…」


 途切れ途切れになる、言葉。


 そして長い沈黙が訪れた。



◆ ◆



「来たか。

 お前に、とても素晴らしい知らせがある。」


 ギルチが部屋に入ると、そこで待ちかねていたように、グッソは笑った。



「今朝の会議、何故、我々が騎士団に関する情報を得ていたのか、不思議ではなかったか?」


「……向こうに…内通者でも?」


 答えるギルチに対し、いやらしい顔で笑うグッソ。



「…惜しいな。

 だが、流石だ。 いいところを突いている。」


 ギルチは横のサネトロの視線に注目した。

 いつもグッソの動向ばかり気にする腰巾着が、今に限っては落ち着かない様子で、あらぬ方ばかりを見詰めている。



「事実、『彼』は今日という機会をものにするため、この情報を我々に流したのだからな。」


「……彼?」


「見よ。

 我が軍は、ついに騎士団を廃する切り札を手に入れたぞ。」


 嫌な空気を肌に感じつつ、ギルチはグッソの視線を追った。



「―――紹介しよう。」


 部屋の隅。

 影になった部位から、現れる一人の男。


 視界に入り始める、薄汚れた鎧。

 まず、その胸元には一本の赤い線が入っているが見えた。



「中王騎士団、赤華軍師、レイキ=モンスロン殿だ。」


 その言葉を合図に、疲れきった表情で会釈した小柄な男。



(…これほどまでに愚かとは―――!)


 反射的に礼をするために頭を下げるギルチ。

 心中では狼狽しており、床をきつく見詰める。



(……何故、すぐに拘束して騎士団に送り返さない!?

 これでは、連中の狩りの獲物を…自らの腹中に招き入れたことになるのだぞ―――)


 ギルチは、腐臭とも似つかわしい匂いを鼻腔に感じた。



 それは飛び切り強烈な、内乱の匂いだった。






◆ ◆



◆ ◆



「準備はいいですか、戒くん?」


 その朝は、温かなスープの香りとパンリの声で目覚めた。



 半身を起こしながら、自分の調子をうかがう戒。

 ここ数日で天命の輪を使った代償の痛みも、完全に消えている。


 少し前までは夢見は最悪だったのに、それが今では嘘のように抜群に良い。

 床での雑魚寝だったが、身体は思い切り休めることが出来たようだった。



「朝食を食べたら、出ましょう。

 ここから、大学までは歩いて10分ほどですから、ゆっくりと。」


 炊事を終え、てきぱきと床に軽食を並べるパンリ。


 しかし、その置かれた食事の脇では、いまだにウェンウェンが寝転がっている。



「………いつまで寝てるんだ、こいつ。」


 その無防備な背を眺めながら、戒が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。



「ウェンウェンさまは、いつも気が済むまで寝ます。」


「…いい身分なことだぜ。」


 こんがりと焼かれた小さなパンをつまみながら、二人は同時にスープを飲み干す。



「ねえ、戒くん……」


 パンリが何かを言いかけたところで、不意に立ち上がる戒。



「なるようにしか…ならねえだろ。」


 彼は両手をポケットに入れ、窓の外を見詰めた。



◆ ◆



「……ちっちゃいお嬢ちゃん、あんたがホントに、これを運んで来たのかい?」


 小馬鹿にするような口調で、プレオルン市のギルドの親方は言った。

 そして、一振りの刀と添え付けられた書状を互いに見ながら、机の高さにも身長が満たない目の前の少女を

怪訝けげんそうな目をする。



「……そうだ。

 何か、文句、あるか?」


 そこで、世羅の肩に手をかけて、後ろのザナナが野太い声で代わりに答えた。



「…い、いえ……。

 それじゃあ、報酬ですね。」


 その威圧感に、態度を一変させる親方。

 彼は前歯の無い歯を見せて愛想笑いを浮かべると、いったん机の下へ潜り、報酬の入った封筒を出す。


 そして世羅は、背伸びしながら、両手でそれを受け取ったのだった。



「…嬉しくないのか、世羅?」


 ザナナが訊いた。


「―――え? 嬉しいよ?」


 少女が返すそれは、間違いなく笑顔のように見えた。



「……そうか。」


 ザナナが胸を掻きながら言う。

 そして用件を終えた二人は、自然に足を外へ向けた。



「―――あ、待った! お嬢ちゃん!!」


 そこで、後ろから主人が慌てて叫ぶ。


 彼は、別の書状を振り上げ。

 さらに驚くことに、届けたはずの依頼品をもう片方の手に握っていた。





 バーグは、リジャンの残した財産を預ける手続きを、一足先に銀行で済ませていた。


 自分ですら利用したことのない施設を、まさかこのような形で使うとは思わなかった。

 そんなことを思いつつ煙草を吹かしながら、柱にもたれ、雑踏の奥のギルドを何気なく眺める。



「…バーグさん…すまねえが、そりゃ無理だ。」


 手にした新聞で顔を隠した小男が、バーグの背の柱越しに言った。



「騎士団の最近の動向を探るなんて……情報屋なら、わけないだろ?」


「それ自体はねェ…。」


 返される、煮え切らない彼の言葉にバーグは眉をひそめた。



「なあ、そこをどうにか頼むぜ。

 昔のよしみで…」


「わかってるだろ、バーグさん。

 確かに、あんたにゃ世話になったが……ギルドのブラックリストに載ってるあんたを助けたとバレたら、

おれは商売が出来なくなっちまう。」


 そこへ、ギルドから出て来る世羅とザナナの姿が見えた。

 すかさず、バーグは彼等に向かってわずかに手を上げる。


 情報屋はそこで初めて、バーグの全身を真っ直ぐに見た。

 そして、意外と軍服が似合っていることに、笑いを洩らす。



「悪いけど、もう行かねえと。

 最近……こっちの世界も忙しいんで。」


「何か…あったのか?」


「裏路地に貧民街があるでしょう?

 最近、そこを流れる川の下流で、国籍不明の死体が沢山上がったんだ。」


 情報屋の声が低くなる。



「それも全員、一刀の下で斬り伏されている……。

 調査した警官の話によれば、殺った奴はかなりの手錬だそうだ。

 どこかの犯罪組織の内輪もめだって噂もあるが…詳細は分からねえ。

 物騒な世の中さ。」


 その話に、バーグの眼光は鋭くなった。



「そうか……わかった。

 俺がそのブラックリストってやつから外される日が来たら、また頼むぜ。」


「へへ……そりゃ、無理でしょう?」


 そう言って、情報屋は鼻をこすりながら離れた。


 それと替わるようにして、バーグと合流する二人。



「…どうした?」


 だが、世羅が抱えて戻ってきた刀を見て、彼は声を上げる。



「仕事が達成できなかったのか?」


「ううん……よくわかんないんだけど…」


 はっきりしない世羅の手から奪う書類。

 その上には、次の仕事の内容が走り書きされていた。



「……運んできた品を…また別の場所へ運べだと!?」


 それを一目見た瞬間、肩を振るわせて怒るバーグ。



「色々な地点を中継して運ばせるなんて…まるで、密輸みてえな仕事じゃねえか……!!

 …この刀の仕事……ちょいとキナくせえぜ…。」


 直感で物を言い。



「ちょっと、ひとこと言って来てやる…」


 彼は血相を変え、ギルドに一歩近付いた。



「……む。」


 しかし、直後に立ち止まる。


(俺は……立ち入り禁止だったな…)


 上下の歯を強く噛みしめ、昔、ギルドの主人の頬を捉えた拳の感覚と葛藤するバーグ。



「ボクやるよ。

 最後まで、やると決めたことだから。」


 そこでタイミング良く、世羅が言った。



「……まあ…そうだな…」


 バーグがもう一度、書類を眺める。



「……今度は日時に指定がある…。

 依頼主は、20日後に中王都市の首都にて待つ……か。

 随分と時間が空いてるな……。」



◆ ◆



 煉瓦で造られた正門。

 大学を囲む、権威ある壁。


 中王神学校大学部。


 だが、いざそれを目の前にしても、もはや現実感は薄い。

 何故ならば、その建物はあまりの大きさに、地上からその全てを目視することは不可能だったからである。


 校舎正面の一部を視界に捉えるだけで精一杯な、その途方もない巨大さは、戒に驚く余裕すら与えない。



「こっちですよ、戒くん。」


 慣れた足取りで敷地内に入り、既に先へと進んでいるパンリが促す。

 他の受験生と同様、戒はその大学の門をくぐった。



「一般入試は、第二から第四学棟……。

 戒くんは推薦入試だから…第一学棟ですね。」


 パンリが掲示されている案内を指しながら説明を施す。



「……じゃあ、試験終了後にまた会いましょう。」


「…ん……ああ。」


 一方の戒は、虚ろな顔で答える。


 数歩行ったところで、パンリは不安から振り向いた。

 周囲を見回しながら、戒は危なっかしい足取りで進んで行くのが見えた。



(……本当に平気かな?)


 慣れている自分と違い、戒は明らかに戸惑っている。


 筆記用具など、試験の準備は万端だろうか。

 パンリに他人のことを気にしている余裕などは無いのだが、つい心配になってしまう。



 だが、そんなことを思っているうち、大学側の係官らしき人物が戒に近付き、何やら話し始めたのが見えた。


 そして、彼等に案内されるように進んでいく彼を見届けてから、パンリはようやく歩き始めた。



◆ ◆



「―――あれは?」


 ザナナが、路地の隙間を注視しながら言った。

 細い道の奥に、みすぼらしい身なりの人間が集まっているが見える。


 その集団の中には、数名の不笑人わらわずびとの姿も認めることが出来た。



「…貧民街スラムだな。

 中王都市には、至るところにある。」


 通りの脇にあったベンチに腰かけて、バーグは答える。



「……何か、ザナナが力になれることがあるだろうか。」


「そりゃまあ……」


 豹頭を見上げながら、彼は濁した。



「……ザナナ、行っちゃうの?」


 世羅もバーグの横に座りながら、首を傾げて訊いた。



「困っているものがいたら、助ける。

 それがザナナの生きる道だ。」


 平然と答えるザナナ。



「いちいち堅苦しいんだよ、おめーはよ!」


 ベンチの背もたれを強く押しながら、胸元から煙草を出すバーグ。



「森で凶獣にやられた傷も、まだ完全に癒えてねえんだろ。

 自分の信念を貫くのももっともだがな、もう少し落ち着いて生きろや。」


「……世羅は、これからどうする?」


 バーグの言葉で思い出し、自分の腹をさすりながらザナナが訊いた。



「お師匠には…好きな場所を決めたら、住むところを探せって。」


「……いいか、都会には悪い奴が沢山いるんだ。

 それこそ、女の子にとっちゃ、害虫みたいな野郎がうじゃうじゃいる…。

 一人暮らしってのは、想像以上に危険なんだぞ…」


 娘に説教するような口調の自分に気付くバーグ。

 思わず口をつぐんだ。



「バーグ?」


 世羅とザナナは揃って顔を見合わせて言った。



「…ああ……そうか。

 この感覚……なんだな。」


 一人、納得してバーグは立ち上がる。



「おい、一回戻ろうや。

 ……ルベランセに。」



◆ ◆



 静かな緊張感を漂わせた廊下を、少年は早足で進んでいた。

 行く教室、教室を覗き込み、戒の姿を探すパンリ。



 結局、あれからまた不安になり、彼は推薦入試が行われる棟まで足を伸ばしていた。


 試験の開始時間まで余裕も無かったが、着席した戒の様子が確認できるまでは、どうも落ち着かない。

 気が付けば、自分の受験場を飛び出していた。



 そしてやはり、どこの教室も、誰もが席を離れずに本や参考書を読みふけっている様子。


 各階の廊下や便所。

 当然のことながら―――どこを探しても、この期に及んで油を売っている人間など誰も居ない。



(……戒くんが……いない…?)


 不安が現実になったことで、パンリの足は段々と速度を増していく。



(…きっと、あの後…迷ったんだ……)


 やがて鳴り響く、試験の開始間近を知らせる鐘。

 無情な時は、過ぎつつあった。





 大学敷地内の庭を通り、案内されるまま着いたのは離れの建物。

 戒が通された個室は整頓されていて、ほどよく小奇麗に保たれていた。


 そこへ聞こえる、大きな鐘。

 先の鐘と違い、音量も大きく、長い響きだった。


 とりあえず椅子に腰掛け、首を曲げて窓の外をうかがう戒。

 今、自分が居る所は、試験を行う場としては、やはりどうもおかしい。


 この離れに着いてからというもの、受験生らしき人間と一度も出くわしていないのだ。



「―――本日中に、こちらへ荷物をお運び下さい。

 戒様。」


「!?」


 唐突に、背後に揃っていた三名のメイド達に声をかけられ、戒は驚いて立ち上がった。



「私どもが今日から貴方様の身の回りの世話をさせていただきます。」


「ちょ、ちょっとまて!」


 続けて伸ばされる彼女達の手をかわすことも出来ず、服を掴まれる戒。

 彼は身をよじって抵抗するも、あっさりと上着の修道着を脱がされ、別の服を瞬く間に着させられる。



「なかなか、似合うぞ。

 戒=セバンシュルド教授。」


 掛けられる声。

 その部屋を通りがかった白い法衣の男が目の前に居た。


 それは昨夜店で対面した大学講師、フウシンであった。


 気が付けば、強引なメイド達は皆、彼に向かって深々と礼をしている。



「……教授だと?」


 着せられた、紺色の法衣を直しながら、戒が訊く。



「驚くことはない。

 その待遇で、大学は君をむかい入れたのだ。」


「……大学じゃなくて……てめえが、だろう?」


 戒の言葉に、笑うフウシン。



「察しが良いね。」


「何を企んでやがる?」


「…何も企んでいないさ。」


 懐疑の眼差しを受け流しながら、彼は涼しい表情で答えた。



◆ ◆



「……早かったな。

 もう、試験の方は終わったのか?」


 帰ってきたパンリに対し、床に横になっているウェンウェンが後ろを向いたまま声をかけた。



「……戒くんは…戻って来ていませんか?」


「いいや。

 どうしてだ?」


「試験会場の何処を探しても、いないんです。

 だから…忘れ物でもしたんじゃと…」


「……君の試験はどうした?」


「私は何回も受けているから、いいんです。

 それより、はるばる遠くからやって来て、才能がある戒くんの方が心配で……」


 あちこちを探した回った疲労から、座り込むパンリ。



「…そうか。

 あいかわらずだな、君は。」


 姿勢を直し、ウェンウェンは彼の方へ身体を向けた。



「もしも、それが君の思い過ごしで、実は彼はうまくやっていたら、どうするつもりだ?」


 そして訊く。



「もしそうだったら、それに越したことはありません。」


 パンリは、はっきりと答えた。



「……とりあえず、休みなさい。

 相当、息が上がってるぞ。」


 ウェンウェンは言った。

 パンリは彼に従い、その直後に力尽きて、だらしなく床に倒れこんだ。



◆ ◆



 戒は先の場所が、選ばれた者達のための特別寮であることをフウシンに説明された後、研究棟を順に案内されていた。


 礼拝堂。

 大小の講義室。

 そして、膨大な資料量の図書室。


 それらを一通り巡った後、最後に源法術科の研究室の一つを覗く。



 そこでは、額を寄せ合って、議論する者達。

 また、辞書を片手に頬をこすり付けるようにして、机で執筆作業をしている者達。


 誰もが何かに取り憑かれたかのように、勉学に励んでいる。



「みんな、熱心だろう?」


 フウシンは言った。


「……《重・ガン・ピアー》。」


 そして唐突に手の平を壁に付け、原法術を唱える彼。



「…彼らが見つけた新種の源法術だ。」


 その手を離すと、針のような無数の穴が壁に空き、手形を造っていた。



「だが、この程度を一つ編み出すのに丸三年がかり。

 所詮は、凡夫の仕事だな。」


「……?」


 フウシンの口調に、戒の表情が曇る。



「君の紺の法衣は、この白の一つ下だ。」


 フウシン本人は、自分の纏う布を摘んで笑った。



「白の上は、最高位の紫の法衣しかない。

 君の破格の待遇が解ってもらえたかな?」


「……そんなことより、俺様の試験は!?」


「君に試験など必要ない。」


 言い切る彼。



「見ただろう。

 あの学に対して、盲目的にひたむきで、苦心する学生達の姿を。」


 視線を再び研究室に向ける彼。



「どんなに頭の良い者が集まろうと、既にむさぼりつくされた学問をひらくことは容易ではない。」


 フウシンは、戒の胸板を指先で突いた。



「そして現実はこうだ。

 一握りの才能あるものだけが、努力無くして地位を手に出来る。」


「それが俺様だというのか。」


 戒が吐き捨てるように言った。



「君のその才能があれば、中王都市のどこでも重用される。

 口利きは、私が行おう。

 私は幸い、顔が広いからな。」


「……その手に乗ると思っているのか?」


 目を閉じ、眼鏡を外す戒。



「……。」


 フウシンは、押し黙った。



「用意が良すぎるんだよ。

 既に俺様の役目が決まっているかのように聞こえるぜ。」


「いやいや…全く……。

 思っていた以上に賢いようだな、君は。」


 笑みを浮かべ、彼は続けた。



「摂政…ゼン閣下を知っているかな?」


「……知らん。」


「この国に来て間もないから、無理もあるまい。」


 フウシンは自分の手を背に回し、廊下を進んだ。

 戒もそれに続く。



「いずれ耳にするだろうが、今この国で最も権力のある人物と憶えておくといい。

 ……その御方が所望している人材に、君が適役というわけだ。」


「俺様を売って、お前は何を得る?」


「…地位と、研究の費用だ。

 いささか現実的な話で申し訳ないが。」


「お前は今までそれを繰り返してきたってわけか。」


「送り出す機関は、毎年それぞれ違うがね。」


 平然とした口調でフウシンは答え続けた。



「てめえ……人を物か何かと勘違いしてるんじゃねえのか?」


「綺麗ごとを言うのはよせ。

 君は望みを叶えるために、ここに来たのではないのか?」


「………。」


 戒が足を止める。



「ならば、手段など選ぶべきではない。」


「俺様は地位や金なんざ興味はねえ。

 必要なのは、ここの大学の書庫と知識だ。」


「……ほう。」


 小馬鹿にしたような目つきで、振り向きざまに戒を睨むフウシン。



「俺様には、救わなければならない奴がいる。

 それだけのために、ここまでやって来た。」


「確かに……あの推薦状には、呪術科の志望とあったな。

 だが、一研究生となったとして……君はいったい何年かけてそれを成すつもりだ?」


「それは……」


「学問を甘くみてはいけない。

 君の目的への早道は、人の上に立ち、人を使うことだ。」


 フウシンは再び前を歩き出す。



「それに……君が持ってきたあの推薦状の中身は、君に対する誹謗中傷だったのだぞ。」


「……何!?」


 彼の発した言葉に、戒が言葉を荒げた。



「―――戒=セバンシュルド。

 勉強もロクにせず、教師に対する暴言・暴力の連続……。

 おまけに、脅迫で首席の地位と推薦を得たこと…。

 女教師との不純な交友があったこと……」


 内容を思い出し、読み上げるフウシン。



「…黙れ。」


 戒は思わず、彼の襟元を掴んだ。



「なるほど、よほどひどいことをしてきたことが予想できるな…。

 加えて、あの書類には君のことを問答無用で不合格にして欲しいとも嘆願してあった。

 彼等の……最後の反抗というわけだ。」


「あの…野郎ども……!」


「だが、安心したまえ。

 このフウシン。

 レティーンの連中よりも、器は遥かに大きい。」


 戒の手を掴んで離し、彼は言った。



「君がいかに傍若無人な者であろうと、私は受け容れてみせる。

 そして、君の才能を余すところなく、使わせてやろうではないか。」


 戒の目の前で、彼の腕は大きく開かれた。



「君が君自身を生かすために、ここに来たのは、全く正しい!

 中王都市へようこそ、戒=セバンシュルド!!」


 そして講義で養われた、彼の高らかな声が廊下に鳴り響いた。



◆ ◆



 昨晩の酔いが今日になって回ってきたのか。

 フィンデルはあまりの体調の悪さから、胃薬を片手に食堂の厨房内をうろついていた。



「ここに居たのか、副長さんよ。」


 そこで、バーグに声をかけられる。



「……飲み過ぎか?」


 丁度、粉末状の薬を口を上にして飲む寸前の彼女を見て、彼はさらに言った。



「まあ…そんなところ…ね。」


 フィンデルが照れ隠しに笑う。



「…ちょっと見てくれ。」


 手頃な高椅子に腰掛け、カウンター越しに厨房に手を伸ばすバーグ。



「これって……!!」


 差し出される一枚の紙は、身元引受人の証明書だった。

 署名欄には、バーグの汚い字が殴り書きされている。



「こういうわけだ、頼む。

 世羅を…もう少しだけここに置いてやってくれ。」


 豪快に頭を下げる彼。



「ここで働くうち、気持ちも整理がついて、落ち着ける場所も探せるはずだ。

 ここなら、あいつの目標としている飛翔艦乗りも近い。」


「……わかりました、受理します。」


 あっさり答え、水で苦い粉末を一気に喉へと流し込むフィンデル。



「貴方が申し出てくれなかったら…私がやったと思うわ。

 戒くんと約束したから。」


 そして、手を拭きながら言った。



「そ…そうか。

 良かった……。」


 一方、安堵の表情で一杯の彼。



「でも、どうして…」


「他人なのに、そこまで面倒を見るのかって?」


 バーグは笑った。



「俺には、世羅と同じ年頃の娘がいてよ…。

 だが、そいつには手間がかからなかったせいか、どうも父親の気持ちにはなれなかったんだ。

 その分、今になって手間ってやつを味わいたくなったのさ。」


 彼の心意気に感心し、フィンデルは頷いた。



「……そのことについては、後は任せて。

 ところで、バーグ…騎士団のことなんだけど…」


「ん?

 ああ、無理はしなくていいぜ。

 あんたは軍隊の士官、限界ってのがあるだろう?」


「…いや、そうじゃなくて…」


 彼女は昨夜の件を言いかけてやめた。



 結局のところ、真相はうやむやにされてしまったことは否めない。

 それに下手に教えてしまえば、バーグの性格では、近場に居るというだけで騎士団の駐留場まで乗り込んで

行きそうな恐れもある。


 この件に関しては、時が経つことで好転するのを待つしかなかった。



「ところで、ルベランセは…少しの間ここに居るんだろ?」


「ええ。

 修理もあるし、しばらくは…」


 バーグ自らが話題を変えたことで、フィンデルはその気持ちをそっと胸にしまった。



「なら、今から自分の家に顔を出してきてもいいか?

 ……世羅とザナナも一緒に。」


「?」


 彼の言葉に、彼女は不思議そうな顔をした。



「俺の性格じゃあ、新しい職場で仲間もいないんじゃあねえかと、娘が心配してたんだ。

 …世羅のことを説明しなきゃならんし……あとザナナの奴も、まだ本調子じゃねえみたいだ。

 あそこには森もあるし、都会よりは癒されるだろ。

 ……まあ、ちょっとした旅行気分で申し訳ねえけどよ。」


 バーグの早い口ぶりから、踊る心がうかがえた。



「…それについては…許可するけど…。

 …ミーサは連れて行ってあげないの?」


 フィンデルは微笑みながら訊いた。



「今、整備士を連れて行ったら、ルベランセが困る。

 それに、休暇を羨ましがるだろうから、俺達はこっそり出かけるぜ。」


 だが何も気にせず、笑い混じりに即答するバーグ。



「……そうね……。」


 至極もっともな理由を返され、フィンデルも納得する。


 十中八九、後から知ったミーサの怒る顔が想像でき、また少し気が重くなった。



◆ ◆



「……おかえり。

 試験はどうだったかね?」


 ウェンウェンの問いかけに、荷物を取りに戻ってきた戒が動きを止める。



 彼の目が見えていれば、説明がなくとも、自分の今着ている法衣で気付いたかもしれない。


 奥の床では、パンリが毛布をかけて寝ているのが見えた。



「…俺様は……大丈夫だ。

 それより、あいつの方はどうだった?」


「……ふむ。

 そのことなんだがな……試験の最中、彼は君を探していたと言うのだよ。」


「…なんだと!?」


「だが、おかしいな。

 試験中、どこにも居なかったはずの君は、大丈夫だと言う。」


 その言葉に構わず、ウェンウェンに掴みかかる戒。



「……あのバカ。

 俺様のために、一年の努力を棒に振ったってのか?」


 震える手に込められた激情。

 盲目の身でも、彼の表情が伝わる。



「……ふざけるな…!

 せっかく今回は…誰の犠牲も無く、自分の力だけで上手く行ってたのによ…」


「君がさだめを変えようと『もがいているさま』は、よくわかるぞ。」


 戒の態度に、ウェンウェンは悟ったような口調で続けた。



「―――では聞こう。

 パンリが悪いのかね?」


「悪いわけ、ねえだろうが!!」


 戒は扉を蹴り開け、強く閉めて再び外へ飛び出していった。

 張り詰めた空気を感じ、パンリは一度寝返りをうった。



◆ ◆



「……零式じゃないか。」


 格納庫にふらりと入ってきた一人の優男が、整備中のミーサに声をかけた。



「これ……現役?」


 ジンのために輸送する予定の戦闘騎。

 それにに気安く触れる彼。



「…乗ってた人は、ここには居ないわ。」


 作業しながら答え。


「……って、あんた誰よ?」


 すぐに気付いて、目を剥くミーサ。



「いやいや…実に興味深い格納庫だね。

 新旧混在…この統一性の無さ……ある意味、素敵だ。」


 周囲を見回しながら、彼は続けた。



「こっちのベイン系の機体も……うまくカスタマイズされてる。

 駆動系にホアール社のベアリングとは、いい判断だ。

 あそこと、このメーカーは相性がいい。」


「ん。」


 ミーサが思わずにやける。

 誉められて悪い気はしない。



「……定石を外さずに…オーソドックスな仕上がりを見せている。

 いい腕だ、君が整備してるのかい?」


「そうだけど…」


 優男の相当の目利きに、彼女が疑問に思いながら言った。



「ん。

 こっちは、整備に愛を感じるね。」


「えっ?」


「特にこの機体……この操縦士は、幸せだと思う。」


 バーグの機体に触れながら、全てを見透かしたように男は言った。

 ミーサはついに、一気に体温が上昇するのを感じた。



「ところで……僕、こちらの指揮官殿に会いに来たんだけど。」


「指揮官?」


「背が高めの、水色の長い髪の女性。」


「……副長のこと?」


「そ。たぶんそれ。」


 初対面にも関わらず、成立している会話。

 ミーサの警戒心は、完全に消滅していた。



「ちょっと待ってて…今…呼びに行くから。」


 螺旋の階段を昇る彼女。


「…うん。 よろしく。」



 そのすぐ後ろに、男は付いていく。



「……お、これは安産型だね。」


 そして、目の前の彼女のヒップに、両手で自然に触れる彼。



「………。」


 その瞬間、全身を硬直させるミーサ。



「―――ロディ……!?」

「ロディ!!」


 偶然、その場を通りがかったフィンデル。

 格納庫側から入ってきたギルチ。


 その二人が同時に叫んだ。



 その時、当の本人は。

 丁度、ミーサの一撃によって階段から吹っ飛んでいる最中だった。





「いやいや……平手や鉄拳は経験があったけど、スパナは初めての経験だよ。」


 ロディは首をさすりながら、笑って言った。



「……別に…謝る必要無いわよ、ミーサ。」


 消沈している彼女に向かって、フィンデルが声をかける。



「…なんか嫌われているみたいだね、僕。」


「『みたい』じゃないだろう。」


 ギルチが眉間にシワを寄せて言った。



「だから、常に私と共に行動しろと言ってるんだ。

 目を離すと何をしでかすか、本当に分からん奴だな。」


「何で?……一体なぜ、どうして!?

 どういう経緯でここに!!?」


 フィンデルは保護者役のギルチを捲くし立てる。



「彼を、とある国まで送ってやって欲しい。」


「……やです!!」


 詳しい事情も聞かずに即答する彼女。



「およ。」


 握手の為に伸ばした手をそのままにして、間抜けな声を上げるロディ。



「貴方は、ルベランセに今度は天然危険物を運べと言うの!?」


 フィンデルは声を荒げた。



「いやいや……参ったね。

 そうとんがらずに、よろしく頼むよフィンデルちゃん。」


「ちゃ……!?」


「こいつの頼みはともかく、これから話す内容は立派な任務だ。

 フィンデル。」


 一旦間を置いて、激しく動揺している彼女に対してギルチは一層真剣な顔で諭した。


 そして、後ろに控えていた者に合図を出す。



 一人の従者と共に現れる、初老の男。

 白髪混じりの、ちりちりの頭髪。

 彼は中王都市の軍服ではない、どこでも通用しそうな中庸的な礼服を纏っていた。


 軍人関係というよりも、部屋にこもって研究でもしていそうな雰囲気を持っているように見える。



「この御方は、レイキ=モンスロン卿という。」


「…よろしく。」


 気さくに差し伸べられた手。

 フィンデルもつられて手を伸ばす。



「……この方は、つい最近まで中王騎士団に在籍していた。」


「―――!?」


 しかしギルチの一言で、彼女の動きは止まる。



「何故…騎士団の方が……?」


「わたくし、亡命を希望しております。」


 突拍子も無い彼の言葉。

 フィンデルは息を飲んだ。



「ここ数日の逃亡生活でいささか疲れました…部屋をお借りしてもよろしいかな?」


「は、はい。

 ……ミーサ、お願い。」


 指示をされたミーサが、その男を連れて二階へ上がる。



「彼には、有益な情報を軍に流してもらう見返りに、タンダニアへ逃がす。」


 その姿が見えなくなったところで、ギルチが言った。



「タンダニア……。」


「至高の槍……タンダニス王の大国だ。」


「知ってるわ。

 聡明な人物だと評判が高いらしいけど…」


「かの国は中立性が強く、中王騎士団も絶対に手が出せない。

 ……これは、彼のたっての希望でもある。」


 そこでギルチは一息つく。



「……でも危険だわ。

 あの騎士団が、このまま亡命を黙って見逃すはずがない。」


「解っている。

 だが、これはグッソ中将の命令だ。 上官には逆らえん。」


 フィンデルの危惧に、すぐさま答えるギルチ。



「概要だが、計画を説明しよう。

 まずは、カモフラージュと万が一に備え、飛翔艦部隊を中規模で編成。

 北の国境付近まで、軍事演習という名目で進む。」


 彼女の厳しい目が差し込んだ。



「そして、ルベランセはその延長で、両国の友好関係を深めるための進物をタンダニアに届ける任務を

与えられる手筈になる。」


「それは、大体…理解したけど……。

 ところで……この…ロディッサ…さんは…?」


「ロディで結構。」


 ギルチの横で微笑む男に、再び悪寒を感じるフィンデル。



「…タンダニアに着く直前に降ろして欲しいのだす。」


 その時、またもや外から、今度は小男が現れた。



「いやいや、失礼。

 拙者は、ブブド共和国の軍事総監のガッチャと申す。

 戦闘騎部隊の強化のため、ロディ殿の腕を買ったのだす。」


 少し呆気にとられたフィンデルに挨拶する彼。



「ブブド共和国?」


「中王都市やタンダニアに比べれば小さな国だすが、これから大きくなる予定であるのだすよ。

 費用節約のため……いや、戦闘騎を幾つか輸送するために協力して欲しいのだす。」


 彼女の問いに、小さく咳払いして答える小男。

 それにしても、なまりがひどい大陸語だった。



「そうですか……。」


「ホントは、この艦に就職したかったんだけどね。

 お金無いから……選択の余地無し、だよね。」


「とほほ…。

 それはあんまりだす、ロディ殿。」


 切ない顔で彼にすがるガッチャ。



「……詳しい話は、また作戦前に改めて話そう。

 後の問題は、ルベランセの新艦長の就任だけだが……それについては、ちょっと話がある。」


 一層険しさを増したギルチの顔に、フィンデルは嫌な予感がした。



◆ ◆



「……ウェンウェンさま……私は…?」


 床で擦れた頬をさすりながら、パンリが訊いた。



「良く眠っていたな。

 もう昼過ぎだ。」


「…す、すみません!

 今すぐ、ごはんの支度を……」


 少年は立ち上がり、そこで止まった。

 ウェンウェンは小さな荷物をまとめ、遠出の装いをしていたからである。



「以前、中空に瞬く八つの星が見えたことがあった…。

 先ほど、それが流れたところが見えてね。

 私は……そこへ行きたくなったのだ。」


「…そうですか…。

 ……では、またしばらくのお別れですね…。」


 ウェンウェンが思い立ったことをすぐに行動を移すのは、さほど珍しいことではなかった。

 パンリは驚くことも無く言葉をかける。


 薄着の上に袈裟を纏い、扉を開けるウェンウェン。



「……そうだ。

 もしも、戒……彼がこの先迷うことがあったなら……天に往くため地を駆けて、この家の南にある草原を

素早く抜けるよう伝えて欲しい。」


「………?」


 ウェンウェンの不可解な言葉に、わけも判らずパンリは頷く。

 しかし、彼は同じ言葉を二度とは繰り返さずに笑うのみであった。



「私も……一緒に出ます。

 先生に借りた参考書を返しに行かなくちゃ…」


 そう言って少年も本棚を探した後、家を出て扉を閉めて鍵をする。

 ウェンウェンには、彼のその行為が少し寂しく感じた。



「……では、お気をつけて…」


 遠ざかるパンリの声と、小さくて軽い足音。


 ウェンウェンはその方へ向き直り、錫杖を片手に笑みを浮かべながら、顔に巻いた布を上へゆっくりと上げた。



 本来 目があるべき箇所には黒い紋様が渦巻き。

 それは、彼の精悍な顔の肉を喰らい、歪ませていた。




◆ ◆



◆ ◆



「それだけは……断ります!!」


 フィンデルが机を打ち鳴らし、叫んだ。



「何故だ。

 君には人望も経験もある。」


 ギルチも対抗して、だが少し控えめに机を叩く。



「今回は、急遽であることに加えて、重大機密の作戦でもある。

 これらを踏まえた場合、今、ルベランセの艦長を任せられる人材は、君をおいて他にない。」


 彼の言葉に、フィンデルは唇を噛んで黙り込んだ。



「それに、艦長のペッポが艦を降りたんだ。

 副艦長がそのまま押し上がるのは道理だろう。」


「嫌なものは嫌なの!!」


「どうしても?」


「どうしても、よ!!

 それでもやれっていうのなら、私は軍隊をやめさせてもらいます!!」


「フィンデル!!」


 諭すような、叱りの口調。



「…そんな子供のようなこと、言わないでくれ。

 ……頼む。

 この一回だけだから、どうか我慢してくれ。」


「……だったら…この仕事を終えたら、私を二度と要職に配置しないって約束して。」


 頭を下げて頼み込むギルチの姿に、フィンデルは渋々と条件を出した。



「…いいだろう、約束する。

 それに大丈夫だ、途中までの艦隊指揮は別の者にやらせる。

 君に責任は、一切発生しない。」


 ギルチはそれだけを述べて、扉を開けて退室した。


 そして廊下に出たところで、傍の壁際にロディの姿を認める。



「やるねえ。

 『最後だから、一回だけ』って拝み倒すの……僕もよくやる手だよ。」


「お前と一緒にしないでくれないか。

 とても悪いことをした気分になる。」


 ギルチは視線を落とした。



「なあ、中王都市の軍隊では……艦内恋愛は禁止かい?」


「聞いて、どうするんだ。」


「それは野暮ってもんだろう。」


 ロディは笑った。


 ギルチに残された不安要素は、むしろこの男の笑顔と言っても過言ではなかった。



◆ ◆



「もう一度、パンリに試験をやらせてやってくれ。」


「何を言っている?」


 フウシンは書庫で本の整頓作業をしながら、戒の言葉に応えた。



「俺様のせいで試験を受け損ねたらしい。

 それもこれも、てめえが分かりずらい手配をしたせいだ。

 その責任をとれと言っている。」


「……それは、聞くわけにはいかんな。」


「俺様は特別なんだろう?

 それくらいの無茶、どうってことねえはずだ。」


 棚の本をなぞるフウシンの指が止まった。



「……違う。

 どちらにせよ、パンリ君は試験に落ちる、と言っているのだ。」


「やってみなくちゃ、わからねえだろ。

 あいつは、相当努力してきたんだ。」


「そうだ、彼は優秀だ。

 入学すれば、我々、人間の地位を脅かすほどになるだろう。」


「………!?」


 戒は彼の言葉尻に、言いしれぬ不安を感じた。





 大学の管理課に事情を説明し、フウシンに本を返すために、校内へ入ることを許可されたパンリ。

 目的の研究室へ行く途中の廊下だった。


 非常に聞き覚えのある声同士が言い争う声が聞こえる。

 少年は頭のフードをずらして、長い耳を傾けた。



「―――まさか……てめえ……?」


「垂耳なぞという蛮族を、中王都市における学問の中枢部に入らせるわけにはいかん。」


 声の先の書庫では、戒とフウシンの姿。

 その話の内容に、パンリは思わず動きを止めた。



「五年の間も……無駄な努力をさせていたのか?」


「勝手に努力したのは、彼のほうだ。

 それに、五年間も諦めないなんて、それこそ愚劣極まる。

 この人間社会の中で、己の身をわきまえていない証拠だ。」


 戒の顔がみるみるうちに怒りの形相に変わることに、やたらとおかしさを感じたフウシンは思わず笑う。



「しかし、今年の受験生は小物ばかりでね。

 正直なところ、彼の才能は欲しかった。」


 そして喉を鳴らしながら、笑いをこらえる彼。



「一つ、面白いことを教えておこうか。

 君さえ昨日の晩に現れなければ、今年はパンリを入学させているはずだったのだ。」


「…どういうことだ……?」


「詰まるところ、パンリの道を閉ざしたのは、君なのだよ。」



 壁に寄り添って会話を聞いていたパンリは、力の抜けた腰を床に落とした。


 目を強く閉じ、彼等の様子をそれ以上見ることなどしない。

 開かれた耳だけが、会話を聞き続けた。



「私にとっては、一年に一人、然るべき機関に人材を送れば事足りる。

 今年は君だ。

 パンリではなくなったのだ!!」


 響く哄笑。



「君の『犠牲の月獣』は、周りに常に犠牲を生み出していくという……。

 ここまで『さだめ』の通りだと、実に興味深いな!!」



 聞こえるフウシンの言葉が、自分を確実に絶望の淵に追い込んでいるのを感じる。

 呪いの言葉が湧いてくるのが恐くて、少年の思考は止まっていた。



 だが、そこで鈍い音と共に。

 飛んできたひとかけらの何かが、彼の足元に転がったことでパンリは我に返る。


 まずはそれを凝視し、無意識に拾い上げると、それが『歯』であることが判った。



 急いで、室内を確認するパンリ。



 フウシンの顔面にめり込んでいる拳。

 そして、彼の後頭部が本棚を倒し、別の本棚も次々と巻き込んでいる、まさしく衝撃の光景だった。



「俺様の入学を今すぐ取り消せ…。

 そして今すぐ、代わりにパンリを入学させろ……。」


「…がずぁ……な…なに……?」


 見るも無残に腫れ上がった顔で、床に手を付いて膝を落としたフウシンが呻く。



「二度も言わせんじゃねえぞ……!」


 戒はすぐさま、その首根を片手で掴み上げた。



「ま、また暴力に頼るのか!?

 ここはレティーンの田舎とは違うぞ……そんなもので解決すると…思うな…!!」


 フウシンは慌てて叫んだ。



「あいにく、『気に入らないことは殴ってでも変えろ』って教えられたんでな。」


 弓を引くように、大きく腕を振りかぶる戒。



「そ、そんなバカな…!」


 フウシンの視界は、すぐに拳で覆われた。



「……ぐ…!……は…!

 や……やめ…死ぬ……!」


 上半身をのけぞらせて悶える彼。


 だが、戒はその喉元から手を離さずに再び引き寄せる。

 そして、その怯えた顔に、照準を合わせた。



「安心しろ。

 死ぬ直前に、俺様が、ちゃんと治してやる!!」


 言葉に合わせ、二度、三度と彼は拳を振るった。



「お前が従うまで……何度でもな!!」


 その都度に壁に打ち付けられフウシンの頭。

 やがて、その鮮血で周りの床と本は赤色に染まっていった。



「…わ……わかっ……わかったから……許して…!!」


 何回も折れた鼻柱に、さらなる一撃が加わる寸前の懇願で、戒はようやくその手を止めた。



「どうする?」

「パンリを……入学させる…」


 震え上がり、即答するフウシン。



「それだけか?」

「いあ、今までの…非礼も……詫びる……!!」


「……で?」


「…何にも…不自由させない……絶対だ…約束する……!

 だから…もう……」


「やめて下さい。」


 背後から声が響いた。



「戒くん……もういいよ。」


 か細い声に、ゆっくりと振り向く戒。

 書庫の入り口から現れたパンリの姿を認め、フウシンを掴む手が緩んだ。



「ひいぅ……!!」


 だらしなく床に落ちた彼は、四つんばいのまま、パンリの足元まですがり寄る。



「…す、すまなかった!!

 …今までの試験は……本当は及第点だったのだが……その…中王都市の国柄が君を…認めないのだ…」


 それは、あの講義の姿からは想像も出来ない、哀れなフウシンの姿だった。



「しかし…特例で……君の入学を認める!

 …試験は無しだ!! 私が無条件で…」


「すみませんが…お断りします、先生。」



 無表情で、借りていた本を両手で差し出すパンリ。



「!?」


 それを渡されるがまま、呆然とするフウシン。



「私だけ特別に待遇されるのは……他の受験生の方々に申し訳ありません。

 毎年、誰もが同じように、たった一日の試験のために頑張ってきてるんです…」


「た、頼む!!

 君が入学してくれないと、私が…こいつに殺されしまう……!!」


「……戒くん…。

 もういいですよね?」


 パンリは彼の代わりに許しを請い、和やかに笑った。



「バカじゃねーのか、お前。」


 最後に、後ろからフウシンを蹴り飛ばす戒。

 そしてそのまま、書庫を出ようとする。



「俺様のやったことが、全て無駄になったぞ。」


「すみません。」


 パンリは駆け寄って、彼の横に並んだ。



「それどころか、おまえの五年間も全て無駄だ。」


「…無駄じゃないです……。」


「無駄だ。」


「無駄じゃありません!」


 顔を紅潮させてパンリは否定した。



「…私は学問より大事なものを…知り得たのだから……。」



 少年の言葉を受けながら、戒は口に笑みを浮かべ、自分の纏う法衣を破る。



 そして、一度も振り返らずに、それを後ろの書庫へと投げ捨てて去ったのだった。



◆ ◆



 フィンデルは一応の挨拶のため、レイキ=モンスロンの部屋を訪れた。


「……ああ、すみません。

 これから暫くご厄介になります。」


 ベッドに横になってくつろいでいた彼は姿勢を直す。


 軍と騎士団、その関係を知りながら、大した神経を持っていると彼女はそれを見て感じた。



「…貴方は、騎士団の要職に就いていたと聞きます。」


「はあ、不肖ながら、一個師団の軍師をしておりました。」


 腰を曲げ、額に手を乗せて情け無い顔で応える男。



「…何故……タンダニアへ亡命を望むのです?」


「タンダニス卿ならば、私の行動を御理解いただけると思っているからです。」


「…貴方を踏み切らせた騎士団は……一体、何を企んでいるのですか。」


「それは、わたくしの安全が確保してから教えるという約束なのですが…」


「……失礼いたしました。」


 尋問のような、妙な空気が流れる。

 さすがにこれ以上話すことも無くなり、退室しようとするフィンデル。



「ちなみに……私がこの艦を選んだのは、他でもありません。

 貴女の実力を知っているからです。」


「?」


 彼女は反射的に、彼の顔を見た。



「ハンデン・ハンデオルム事変以来の……手腕を見せてくださいな。

 フィンデル=バーディ大尉。」


 先と同じ緩やかな顔つきだが、眼光だけは極めて浮き出ていた。



(彼は…知っている……!?

 あの時の私を……!!)


 途端にフィンデルは、タイで締めた自分の襟元がきつく、息苦しく感じられた。



「では、タンダニアまで宜しく。

 艦長殿。」


 最後に彼は、柔らかい言葉で閉めくくった。



◆ ◆



「準備できたか?」


 飛翔艦から降りるなり、バーグが言った。



「うん、出来た。」


 リュックサックを背負わせてもらい、昇降口から飛び降りた世羅が笑う。

 その後ろからゆっくりと降りて来るのは、槍を片手にしたザナナ。



「ザナナ、てめえには森で世話になったからな。

 今度は俺が、もてなしてやるよ。」


 言いながら、早くも前を歩きだすバーグ。



「……バーグは何が楽しい?

 どうして、あんなにも笑えるのだ。」


「そうだね。」


 ザナナと世羅は、そんな彼を可笑しそうに眺めた。



 バーグの説明では、徒歩で約2日の距離を行く。

 あえて、馬車などの移動手段は使わず、行楽気分での旅。


 急な話だったが、世羅は行くことを決めた。

 ザナナは、半ば強引に連れられた形となる。



 三人はそれぞれの思いと共に、ルベランセと大空を眺めてから大地へと足を踏み出した。



◆ ◆



「さて……どうするか…。

 何もかも失っちまったぜ。」


 ウォンウェンの家に戻ってきた戒が、開口一番に愚痴を洩らす。

 パンリも勿論、後先を何も考えていなかった。


 だが、二人に後悔は無かった。


 妙に晴れ晴れとした戒の表情を見上げるパンリの頭に、先の言葉が浮かぶ。



「もしかして……、今、迷ってますか?」


「どん詰まり、だな。」


 パンリからの質問に、戒は苦笑しながら答えた。



「―――なら!!」


「何だ、おい!?」


 突然、その小さな身体からは想像できないような力で戒の手を引く彼。



「急いで!……行かなきゃ!

 戒くん、急いで!!」


「…まて…どこへ……!!」


 叫びながら家を飛び出し、裏道に入ると、そこは下り坂。

 一気に下り、草原が見えるところまで飛び出す。



「駆けて!

 駆けて行こう!!」


 草原まで入ると、斜面はさらに急になる。

 物理法則にしたがって、必要以上に回り始めた足はもう止まらない。



「お…い…!

 ……前って…崖……!!?」


 地面の無くなった地面を前方に確認しつつも、もはや制御は不能だった。

 パンリと戒は互いにもつれながら、何も無い空に放り出された。



 宙を舞いながら、青空と雲が旋回する。

 虚空を泳ぐ互いの手。



 だが、背から落ちた二人は、柔らかな感触に救われた。


 そこは一面の干草の上。


 農家が一般的に使うような、荷馬車の上だった。

 前方で汚いロバを操っている老人は、上から降ってきた彼等を全く意に介していない。



「……いらっしゃい。」


 そして、二人は脇から声をかけられた。

 彼等と同様に、干草の上に座っているウェンウェン。


 戒とパンリは、同時に顔を見合わせた。



「…パンリ、君まで来たか。

 君も、大きな流れに巻き込まれたようだな。」


 感付いた彼が、大いに笑う。



「……さて、行こうか。」


 平然と言うウェンウェン。

 荷を引くロバの速度が増した。



「…何処どこへ行くってんだよ。」


「何処でも良かろう?」


 戒に答え、天を錫杖で指す彼。



「ああ……その通りだな。」


 戒は頭を干草に埋め、どこまで伸ばしても手が届かない―――


 果てしない空を見上げて呟いた。



▼▼


第二章

第六話 『天へ往くため地を駆けて』


▼▼



It progresses to epilogue…









第二章

エピローグ





 ゴシックロリータ調の服を着た少女が、ギルドの階段を降りながら。


「……ダメ。

 一足遅かったわ、ユーイ。」


 自身の縞模様ニーソックスを直しつつ言った。



 それを、下で待っていた青年。


 褐色の肌。

 立てた金髪に蒼眼。

 彼は黒いスーツのいでたちで彼女を迎える。



「直接受け取らないと、次の場所まで流れちゃう仕組みみたい。

 いくら貴重品だからって…ったく……うちの兵器担当ったら、ホント使えないわよねー。」


 青年は少女の言葉に無言で頷き、歩みかけた。



「ユーイ……!!」


 そこで息を飲んで、青年の背後を見上げる少女。


 夜の街。

 高い建物の上に潜む影。



「……ユイウス=ノーツ…。」


 その者から発せられる毒気のある言葉。



「……貴様さえ……いなければ……!

 …同胞の仇………死ね……!!」



 人気の無い深夜の街で。

 青年はそのスーツに不似合いな―――手にした一振りの刀を抜く。



 月光に照らされる、透き通るような見事な刀身。


 相手の動きを確認しながら、見守る少女は平然と分析を始める。



 予想通り。

 一太刀。


 相手の下半身が地面を跳ね、あとの残りが鈍い音と共に落ちる。



「…し…死ね……!

 業深き……者よ……!!」


 その肉片の、最期の叫び。



「天が俺の行動を正しくないと判断した時……俺は死ぬ。

 だが、それまでは絶対に死なん。

 ……それが『さだめ』だ。」


 彼はそれを見下ろしながら、呟いた。



「竜の……さだめだ…」


 そして、吐いた言葉が息と共に夜空に消える。


 月に向かって構えた刀。

 雨の雫が落ちるように、光がその白刃に美しく流れた。



▼▼


第二章


▼▼


Thank you for having you read.

to be continued…


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