2-5 「宴前」
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This story is a thing written by RYUU
Air・Fantagista
Chapter 2
『It runs on ground to go to the heaven』
The fifth story
'Before a party'
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闇の中。
光ひとつ無い暗闇の中。
暑苦しい、閉鎖された空間の中で耐える。
出発の直前は、いつもそうだった。
部屋すら満足に与えらない先兵の団員―――所詮、『使い捨て』の待遇はそのようなものだった。
蠢く、人間の気配。
少女には、ある二人が逃げようとしているのが何となく判った。
それと同じ光景を、彼女は過去に何度か目撃したことがある。
炎団の掟は厳しく、作戦前に逃亡すれば命は無い。
「―――なにしとんねん!!」
少女は、あえて声を張り上げて言った。
「……ほ、ほっといてくれ!!」
「オレたちゃ、賊なんて向いてないんだ!!」
すぐに返ってくる反応。
「脱走したら、殺されるで!!」
暗闇の中で掴む。
柔らかく小さな手に、二人は思わず立ち止まった。
「軽い気持ちで入団したのが間違いだったんだ…」
「こんなことなら…田舎で細々と暮らしていりゃ良かった…」
恥も外聞も捨て、二人は情け無い声で言葉を洩らし始めた。
「所詮、オレ達は何もとりえが無い鼻つまみ者……」
「炎団で存在すら認められてないから…服だって…」
さらに、涙声で訴える。
そこで握りが強くなる少女の手。
「……《炎・生》。」
彼女の言葉と同時に生まれる、ぼんやりとした照明代わりの火。
何気なく生み出された術に、二人は驚く。
さらに驚いたのは、少女の青い服だった。
「そ…その恰好……あんたも……!?」
「一緒にすんな!
あたしは逃げへんで!!」
勝気な声が二人を貫く。
「どんなに差別されても、虐げられても……そこらへん、おまえらとは絶対的な差があんねん!!」
手の上に浮かんだ小さな火を揺らしながら、少女は続けた。
「…だけど、何も無いなんて言うな!!
誰にだって平等に…『ある』んや!!」
二人の心臓に、握った拳が順に当てられる。
「おまえも…おまえも!
生きとるんやろ!?
そない泣き言は、いっぺんでも死ぬ気でやった奴のセリフや―――」
二人は、弱い自分達に心の内を撒けて喋る、その少女のことがいっぺんで好きになった。
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エア・ファンタジスタ
Air・Fantagista
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第二章
天へ往くため地を駆けて
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第五話 『宴前』
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「やったわね!!」
「そっちこそな!!」
格納庫でバーグとミーサが手を高く合わせ、打ち鳴らす。
「副長の見事な作戦!
私は指示に従っただけ!!」
彼女は興奮して、まるで自分のことのように誇った。
「……ブリッジの様子はどうだ?」
「私は、こっちに真っ直ぐ戻ってきたから…」
さらにバーグへと答えながら、ミーサは戦闘騎に目線を移す。
世羅が術で作った氷によって繋がれた三機。
それらの事後処理を考えると、勝利の味に酔いつつも、少し憂鬱になった。
「―――ジン!!」
そんな中、響いたのは世羅の高声。
思わず身を強張らせる二人。
「…ねえ…ちょっと…!
……あれ、ヤバくない!?」
機体から戒によって引きずり出されるジンの姿を見ながら、ミーサが呟いた。
「…おい……!
なんだ…こりゃあ…!?」
慌ててバーグが駆け寄り、血の海と化しているジンの操縦席を覗く。
「神経性の毒を…受けてしまって……意識を保つには、これしか…」
床に横たわらされながら、呻くジン。
腿からのおびただしい失血のため、彼の全身は白みを帯びていた。
「自分で撃ったの!?
信じられない!!」
ミーサも包帯を手に駆け寄る。
「なんとかならねえのかよ!?」
戒に向けられる、バーグの強い視線。
「耳も足も…肉が飛んでんだ…。
この状態で傷を塞ぐと……二度と再生できなくなる。
自然に任せた方が…いいかもしれねえ…」
ぐっしょりと湿った、彼の患部に締められた血止めのリボン。
それを解きつつ、戒は言葉を濁した。
「……はい。
…命にかかわる傷ではありませんから……止血だけしてもらえれば充分でしょう。」
ミーサの応急手当を受けながら、当のジンは冷静に言う。
「……それより…勝利の報告を…」
「そうですよ! ブリッジも皆さんの元気な姿、待ってますよ!!」
頭上から突然かけられた声に、反応する全員。
彼等を二階から見下ろしていたのは、イールの姿だった。
「…報告……か。」
バーグが呟く。
「……はい。」
天井を仰いだまま、頷くジン。
言葉は少なくとも、彼と戒の二人は察し、場を離れて階段に足をかける。
世羅だけはジンの傍を離れずにいたが、その視線は彼等に注がれていた。
「…世羅さんも……どうぞ。」
ジンは微笑みながら、そんな彼女に促す。
「……うん…。」
世羅は少し迷った後、立ち上がり、階段を駆け上がる。
それを床から横目で追うジン。
遠ざかる世羅の姿。
彼女が戒の手をきつく握ったのが見えた。
ジンは、強く瞼を閉じる。
やがて立て始めた、彼の薄い寝息にミーサは胸を撫で下ろした。
そして換えの包帯を取りに立ち上がるところで気配を感じ、彼女は中腰のまま動きを止める。
積み上げられた弾薬の箱の隙間から現れる猫―――梅の姿。
「……どうしたの?
……こんなところで…」
手を差し伸ばして問いかける彼女を無視し、その視線は上の階へと向けられている。
黄色い獣の瞳がギラついていた。
◆ ◆
「―――ギルチ提督。」
早い三度のノックの後、ドアを開けて神妙な面持ちで入ってくる中年士官。
短い口髭を震わせながら、彼は直立で敬礼する。
「申し上げます。
当直の警備隊が、国境付近にて飛翔艦の姿を補足―――」
中王都市南部、プレオルン市の郊外に在るゴーベ国境警備軍本営。
普段は穏やかな深夜の駐屯地も、その日に限っては違っていた。
「第三補給部隊所属、ルベランセか。
…既に耳に入っている。」
ゆったりとした椅子に背をもたれながら手元の資料を眺め、答える若い男。
机ごしに、体を緊張させている士官へと声をかける。
「鉄都より、鋼材を運搬してきた飛翔艦だったな…。
艦長は副指令の息子…ペッポ大佐…」
その名を口にしたところで、頬が緩んだ。
ギルチにとっては、それだけである程度のトラブルが予想され、思わず笑いがこみ上げる。
上層部による圧力的な人事であることは明白。
それゆえに、目の前で震えている人事部官が気の毒に思えてならない。
「……予定より3日ほど遅延して帰還か。」
「……申し訳ございません。
ただ、規定では10日を越える遅延でなければ、報告の義務は無く…」
相手は腰を直角に曲げ、油汗を垂らしながら申告する。
「問題なのは、軍規の違反云々ではなく、今このタイミングで中王都市の空域を侵しているということだ。
どうせ遅れるならば…もっと大幅に遅れて欲しかったものだな。」
ギルチは軽く笑った。
「しかも、同艦が帰還してくる方角……山の国境付近で爆発を確認したという。
嫌な予感がしないか?」
そして彼が続けるうち、聞いている側の顔は青ざめていく。
「総員、第二種戦闘配備だ。
同時に、作業班を敷地外にも展開。
…何かあった時に対処させてくれ。」
「了解……いたしました。」
短い返事と共に、たえられずに中年士官は逃げるように退室した。
「……よりによって、臨時会議の直前に厄介ごとを持ち込んでくるか…」
それを嘆息混じりに眺めた後、ギルチは複雑な顔で報告書を机上に投げ出す。
「君らしくない『目立ち方』だな…」
その書類に記された乗組員の名簿。
フィンデルの名の部分を指でなぞりながら、彼は呟いた。
◆ ◆ ◆
「……できた…!」
腰を抜かしたままイールが呟く。
目の前には、自分が生んだ炎の塊。
「お……オレもやるぞっ!!」
ムールが手を前に突き出す。
「空に散りたる数多なる源よ…我に力を貸し給え……!
―――《炎・生》!!」
生まれて初めて使った術は。
本当に小さな炎だった。
それでも彼らにとっては、限りなく大きい。
二人は童心に返って喜んだ。
「……まあまあやな。」
シャロンはつられて、鼻をこすりながら得意になって言った。
「その程度の術、詠唱抜きで使うのが普通や。
ま、いずれ出来るようになるやろ。」
そして、満足そうに笑う。
「コツさえ掴めば、もっと攻撃的な術も出来るようになる。
あとは本とか読んで勉強せえ。
地道にやれば、出世も夢やないで。
あたしと違って……な。」
それだけを言うと、少女は唐突に立ち去ろうとした。
「―――ま、待ってください!!」
慌てて、二人が叫ぶ。
「…あんたは、オレらの師匠だ!!」
「……お礼に、子分になって働きます!!」
「…はぁ? 現金なやっちゃ。」
まんざらでもない表情で、シャロンは足を止めて笑った。
「オレらに希望を与えてくれた……この恩を返さなきゃ…」
「男じゃねえですから!!」
振り向けば、嘘のように笑顔を取り戻した二人の姿がある。
「…まず…『師匠』はやめぇや。
なんか、こそばゆいわ。」
どんな絶望の中でも、やはり人の心根には笑顔がある。
少女には、それが心底嬉しかった。
◆ ◆
「あのフィンデルって人……見事な指揮官ですねぇ。
有能だし、みんなに信頼されてる。」
「……?」
何をいまさら。
三人は廊下を歩きながら、そんな表情でイールの顔を見返した。
「…お前達、ブリッジに居たのか。」
「ええ。
急に戦闘が始まったのが恐くて……とにかく人が集まっている所へ…」
戒の問いに、イールが怯えた様子で答える。
「まあ、いい判断だな。」
しかめ面で、バーグが噛んだ煙草に火をつけた。
「片割れとお嬢ちゃんも、ブリッジに居るのか?」
「ええ……うちら、いつも一緒ですよ。」
イールは長い鼻をこすり、大きな口を横に広げて笑った。
◆ ◆ ◆
細い筒の先に火種を乗せて、反対側から息を吹く。
風に扇がれた火は、みるみるうちに赤から青へと変色した。
「意外やろ? 火ってのは、赤よりも青い方が熱いんや。」
シャロンは言った。
「普通の炎でも、タイミングよく三方から当てれば、何倍も熱く……青い炎をつくることが出来るはずや。」
二人はぽかんと大口を開けて、シャロンの説明を聞いている。
「まあ……難度といえば、中の上くらいやな。」
最後に、彼女は眼前の大木の幹に片手を付けた。
「オレらに……出来ますかねえ?」
「学なんてねえ……文字すら満足に書けねえオレらに…」
「頭の良さなんて関係あるかいな。
出来るかどうかは気合や!」
シャロンの威勢に、身体をピンと張る二人。
「熱い熱い、青い炎を想像してみいや!!」
「う……」
口を尖らせながら、木に触れるイール。
「熱い……青い…炎…」
ムールもそれに倣う。
二人は瞼を閉じ、彼女を失望させたくないことだけを思う。
むせ返るような異臭。
支えを無くし、空を切る己の手。
次の瞬間、気化している大木に我が目を疑う。
「…できるやん。」
煙を払いのけながら、シャロンが言った。
「…力を手に入れるって……こういうことなんですね!!」
調子に乗った二人が、声を揃えて言った。
「あほ。」
その熱のこもる眼差しを、シャロンが受け流すように笑った。
「三人いれば、恐いもんは無いってことや。」
そして、二人の肩を抱く。
「炎団『青組』の誕生や。」
彼女の言葉は―――。
いつしか、三人の口癖のようになっていた。
◆ ◆
(恐え…恐えなあ……)
少し前を行くバーグの、背にかけられた大剣を後ろから見詰める。
(……きっと…油断なんて無いんだろうな…こういう人ってのは…)
相手が丸腰で来るのを少しでも期待していた自分が恨めしい。
彼は見た目通り、百戦錬磨の剣士だった。
(…あんなので斬られたら……きっと死ぬなぁ…)
目の前の戒が、率先して重い扉を開けた。
広がる、ブリッジへと続く最後の長い廊下。
(やだなァ……痛いのは…)
そう、と気取られないように歩調を緩めるイール。
(ああ……)
心配とは真逆に、三人は安心しきって彼の前を行く。
油断はしていないが、信頼されていたことをはっきりと感じた。
世羅の華奢な背中を眺めながら、出発前に一緒に遊んだのを思い出す。
これからの自分の行動に、彼女は一体どんな顔をするのだろう。
前傾の姿勢。
自らの視線を覆うように両手を前に突き出す。
「あ!」
正面から小躍りしながらやって来るムールの姿を見て、世羅が声を上げた。
「やりましたねえ!」
上げられる、長い両手。
「おう。」
バーグも思わず、片手を上げて勝利を示した。
やがて距離が狭まり、三人が彼の真正面まで来た時だった。
「我、右王に座せし、守護の炎。
願いはひとつ……青き戦意の名の下に力を求む。」
「我、左王に座せし、守護の炎。
願いはひとつ……青き戦意の名の下に力を求む。」
前のムール。
後ろイール。
二人が同時に発した声は、相当に奇妙な音に感じた。
普段のように、へつらうような雰囲気は微塵も無い。
「《炎・壁》。」
同時に重なる言葉。
一杯に広げられた彼等の長い手から発する、通路の空間を覆う赤く波打つ壁。
その二枚の壁に挟まれた、中の三人にとって。
さしずめ、そこは炎の檻の様に思えた。
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次へ
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2
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「どうした、クゥ?」
教会を目前にした路地の途中、夜空を見上げたまま固まる彼女にマクスが声をかけた。
「…いえ……何でも…ありません……。」
クゥは自分の右肩を強く掴み、苦しそうに喘ぐ。
怯えた彼女。
二人が同時に何かを言いかけたところで、前方で松明の火が踊った。
近付くにつれ、それが緑華の騎士達のものだとすぐに判る。
「……戻ってきたのか?」
その中で唯一、馬上の者が声を発する。
それはシザーだった。
「ヂチャードはどうした?」
二人の顔を交互に見ながら、彼女は言い。
「泥酔しておりましたので。」
「……賢明だ。」
マクスの答えに、苦笑する。
「何か……あったのですか?」
「国境付近が騒がしいとの報だ。
……詳しいことは分からない。
だが、先ほど軍隊側が早馬で、会議時間の繰り上げを知らせてきた。」
「繰り上げ?」
「騒ぎと関係があるのかは分からん……が、警備の範囲を広げて損はなかろう。
丁度いい、お前達は教会の中を守れ。」
彼女の言葉に、同時に頷く二人。
「大団長も…先ほど到着なされた。
……気を抜くなよ。」
馬首を返しつつ、シザーは付け加えた。
◆ ◆
「いったい…何の真似だ……?」
常人ならば直視できないほどの憤怒の形相でバーグが睨みつける。
「……こういう…ことです。」
半透明な赤い壁の寸前で、彼に真正面から凄まれているイールは、抑揚の無い声で返した。
彼の表情は、かけている分厚いゴーグルが全てを覆い隠している。
「騙したのか。」
今度は戒が、反対側のムールに言った。
その脇で世羅がわずかに反応する。
「……すみません。」
感情を押し殺して返される声。
両手からは、高出力の術が放たれ続けている。
「少しだけ……時間を下さい…。」
弱々しい声が、壁の中の三人の動きを止めた。
「あと少しで……きっとブリッジは降伏する…。
お嬢に…勝利を下さい……」
「あんた達の命は……奪わない…だから……手柄を……!!」
そして続けられる、脅迫ではない言葉。
「お嬢は…頑張ってるんです……」
「ただ…人がいいから……ツキを逃すだけで…!!」
「…だまれ……炎団のクソ野郎……!!」
複雑な怒りと共に、腹中の言葉を吐き出すバーグ。
「……ブリッジが降伏するとか言ったな…」
その横で、確認するように戒が口を開いた。
「むりやり戦ってる…優しい人のことは良くわかる…。
…きっと…あの艦長さんは……もう心が持ちません。」
「………!!」
イールの返した言葉の後、左手を前にして一歩出る世羅。
「……?」
その行動に、目を見張るムール。
「や…やめっ……!!」
叫ぶのも間に合わず、衝撃が走る。
赤い炎の壁に小さな手が触れた瞬間、黒い繊維が舞った。
「世羅ッ!!」
弾かれる彼女の身体を受け止める戒。
世羅の長い手袋は全て燃え尽きていた。
だらりと力無く下ろされる左の腕には、代わりに黒い紋様が露になる。
「……おとなしく…してて下さい!!」
ムールが叫ぶ。
彼女の黒い腕は焦げたものではなく、入れ墨の様であるのを確認し、彼は胸をなで下ろした。
「……ぃ…」
戒の胸の中で、世羅が呻く。
「…行かなきゃ……」
「……尚更な。」
バーグがそんな彼女の頭を撫でて、大剣を構えた。
「無理だ……この術は中からは絶対に破れません!!」
叫ぶイールの影が、上へ向かってわずかに揺れた。
その時、屈んだ態勢の戒は『その様子』を偶然にも瞳に入れる。
これも術の一種かと、最初は見紛う―――
元来、平面でしか在り得ない影が。
確かに立体的な、三角錐を相手の足元で形成し始めていたのだ。
そして一呼吸もおかずに、その黒い錐の先端は伸び、目の前のイールの胸を背中から斜めに突き刺していた。
同時に反対側のムールにも、同様の一撃。
二人の容姿が似ているため、それは一対の鏡を合わせたような、不思議な光景だった。
炎の壁は無言で消滅し、二つの影は彼等の胸から突き抜けた直後、三人の目の前で引き寄せられる。
それは螺旋状に絡まり合い、瞬く間に凡雑な人間の形を作り上げた。
頭頂部とおぼしき部分は割れ、つるりと大きな目玉が前方に滑る。
視線だけで臓腑を掴むその視線。
恐ろしい圧力を放つ、まるで悪夢に出てくるような忌まわしい姿。
その足元で、口から泡を噴きながら受身も取れずに床に倒れ伏すイールとムール。
だが不思議なことに、先の鋭い影が突き抜けたはずの彼等の背には外傷が無い。
「精神を穿てば……人など脆いものだな。」
その戒の視線に答えるかのように、影が呻く。
「…何者だ……!?」
人でないものに詰問するにはおかしな言葉と知りながら、バーグが訊いた。
「目視できるほどの、強力な思念体とでも名乗っておくか。」
子馬鹿にするような口調に、戒は顔を歪める。
「……ルベランセ。
手に入らぬのなら、いっそ……ここで消えてもらおう。」
影が口にした言葉が、床の世羅を再び立ち上がらせた。
◆ ◆
天井を仰ぎながら、艦長席から滑り落ちそうになるフィンデル。
リードは咄嗟に、その肩を抱いた。
その行為に対し、シャロンは何も反応しない。
そして、彼女が向けている銃口にも何の意味があるのか、もはや誰にも解らなかった。
彼女の手下の二人がブリッジを出て、だいぶ経つ。
戦闘騎で出撃した戒達は、空中戦でかなり疲労しているはずである。
フィンデルは、心の中で不安が膨脹していくのが分かった。
歪む視界。
その先で、見かねて白い槍に手をかけるザナナが見えた。
「…!」
それを手で制するフィンデル。
だが、伸ばした腕が急に落ち込んだ。
「……!?」
続けて、全員が妙な重力を感じ、そこで艦内の異常に気付く。
「…高度が……下がっているんすけど…」
他人事のように、タモンが呟いた。
「馬鹿言え!
…源炉は……もう持ち直して…!?」
視線を移したリードが狼狽する。
座席では、メイが念通球を手にしたまま気を失っていた。
「何だ…!?」
慌てて持ち場へと戻る彼。
艦内を制御する念通板にはめている自分の念通球に触れるまでもない。
計器の針が全て『0』を指しているのである。
「…どういうことだ……。
飛翔艦の全ての操縦系統が……初期状態に戻っているぞ……!」
気付くや否や、白目を剥いているメイが掴んだままにしている念通球を奪って、彼女の念通接続を強制排除する。
「手動で源炉を動かしてくれ!!
…ミーサ!!」
そして素早く声通管を取り、目一杯叫ぶ彼。
だが、それと同時に艦体は顕著に傾いた。
加えて機関室からは反応も無く、彼の顔は一気に絶望の色へと変わる。
「…堕ちるんか……この艦は…」
シャロンが大きく呟いた。
◆
「何だ……!?」
傾いた足場に、バーグが叫ぶ。
「初期に造られた飛翔艦は、念通回路の仕組みが単純でいい。
侵入も破壊も容易だ。」
目の前の影が淡々と答えた。
「炎団の連中より、なかなか合理的な方法だろう?」
「―――!!」
その言葉に、半身を突き出すバーグ。
「……まさか…てめえ……か!?
裏でコソコソ糸を引いてやがる……クソ野郎は……!!」
影が答える前に、剣を大きく振りかぶる彼。
それに合わせ、弧を描く戒の蹴り。
それぞれの攻撃が命中し、影は飛散した。
「……!……!?」
だが逆に、攻撃を与えた二人の身体を襲う虚無感。
挫折。
失望。
―――種類の違う負の感情に満ちた、深い沼に沈むような感覚だった。
途端に自律を失い。
両手を床について這うバーグと戒。
「…その気勢だけは…誉めてやろう…俗人共……」
一方、一度は飛散したものの、影はすぐに舞い戻り、元の人型を取り戻す。
危険を肌で感じ、両手を広げて二人の前に素早く立ちはだかるのは、先ほどまで床に伏していた世羅。
その姿は、あまりにも健気であった。
「…ほう………?」
しかし、影はそれとは全く別の理由で彼女の前で動きを止める。
そして大きな目玉が、その細腕を食い入るように見詰めた。
瞳の光沢に映る、黒く渦巻く紋様。
影の全身に、一瞬にして小さな目玉が増殖する。
「…これは……!」
影が退き、嬌声と共に全身を震わせる。
「…炎団はおろか……奴でさえ手を焼くはずだ……」
独り言と共に世羅を見下ろしながら、上へと伸びて廊下の天井にへばり付く影。
それは、もはや人の形は留めていない。
「フフ…とても手に負えぬ。
今は…回る天命の輪に…身を委ねるとするか……。」
身勝手な言葉を並べ。
影はみるみるうちに天井の隙間へと溶けていき、最後に何も残さなかった。
戒が唇を噛む。
―――天命の輪は繋がりだした。
―――それを止めるのではなく。
―――全てを絡め、回し続けるのだ。
彼の頭に、何故か懐かしい。
そんな言葉が鳴り響いた。
◆ ◆
「貴殿がクレイン教徒とはな。」
背後に迫った聖騎士―――マクス=オルゼリアが言った。
生けるものが、神父に罪を告白する免罪の間。
クレイン教の創始者を模した像を前に、肩膝をついて祈りを捧げるような姿勢のままの黒騎士。
「似合わんか?」
彼はマクスの皮肉を返し、立ち上がった。
腰から抜かれている、五つの念通球が埋め込まれた漆黒の剣。
マクスはすぐに、この部屋で自分の認識とは異なることが行われていたのを察した。
「先ほど、大団長がお着きになった。」
「…予定の変更は聞いている。」
早歩きで部屋を出た黒騎士にマクスは続き、簡潔に答える。
「ミシュード=ハカレイ、その他の者は後ほど合流させる。
そして、明日の会議は予定どおり、大団長と緑華の団長……私の三人で行く。」
甲冑を互いに鳴り響かせながら歩く廊下の先。
おそらくは、大団長が控えると思われる部屋の扉の前で、黒騎士は歩みを止めた。
「大団長の傍は、常に私が守る。
貴殿は、命があるまで待機せよ。」
「了解した。」
マクスも歩みを止め、踵を返す。
「……貴殿の逃した魚は、存外大きかったぞ。」
その背にかけられる、仮面の隙間から漏れ出す声。
「……!!」
銀髪が揺れる。
ただの一言で、マクスはその意味を知ることとなった。
◆ ◆
乱暴に開かれる扉。
「…くそが……!
目的地を…目の前にして……!!」
大きく傾斜した艦内。
混乱状態のブリッジに入るなり、戒が前方へ駆ける。
「…傑作やな。
…ここまでやって…何にもならへん。」
その姿を見た直後。
ゆっくりと銃を下ろすシャロン。
「何か……暗闇で目立つ物を…!!」
フィンデルが叫ぶ。
「そうか!!
…こっちの存在を…駐留軍が気付いてくれれば……着陸地点を……きっと誘導してくれる!!」
すぐに応えるリード。
「いや…無理だ……!
この暗闇……生半可な合図じゃ、向こうが気付いてくれる前に地上に激突するぞ……!!
そんな大きな合図を出すもの……すぐに用意できるものか……!!」
だが直後、頭を叩いて自分自身を怒鳴りつける。
「なんや……ほんなら、簡単やん。」
彼の言葉を脇で聞いていたシャロンが言った。
「でっかい炎でも、ええやろ?」
「………!!」
顔を上げるフィンデル。
「なんつー顔しとんねん。
あたしかて、死ぬのは嫌や。」
前に進み、前面のガラスに身を乗り出していた戒とすれ違う彼女。
「邪魔や。
これ、全部こわしてええか?」
ザナナが無言で槍を振った。
先の戦闘で大きくひびの入ったガラスは、全面砕け散る。
「さて……どない詠唱にしようか。」
ブリッジ前部の出っ張りに飛び乗り、そこに胡坐をかいて、膝に手を乗せて夜空を見上げる彼女。
気分の盛り上げは大事だった。
普段使い慣れている言葉は瞬発と安定性があるが、威力に欠ける。
シャロンは一瞬振り向き、フィンデルの姿を見た。
「―――中天に瞬く千の星よ。
ここに、勇気ある者あり。」
周りに発生した黄色い粒子が赤く染まっていく。
「この命の流れのわずかな時に、ささやかな残照を求む…」
ブリッジの全員が息を呑む中、徐々に下への角度がきつくなる艦首。
座るシャロンの、落ちかけた身体を四本の腕が揃って後ろから支えた。
「……遅い!」
前を向いたままの、彼女の叱咤。
「…へい!」
「すんません!!」
イールとムールが、生気の無い顔で笑って応えた。
気絶していた二人を連れて来たバーグが、その背後で剣を鞘に納める。
仲むつまじい彼等の姿を見ていると、何故だか、止めようなどとは思えなかった。
「陽を模する我の業をどうか許したまえ…。」
終わる詠唱。
両手に、凝縮した炎の塊が浮かび上がる。
「…!!」
意を決して、青い布を出すシャロン。
「お嬢……!」
息を飲む、イールとムール。
これから放たれるであろう、源法術を保つには、何らかの媒体が必要だった。
◆ ◆ ◆
シャロンが一枚の青い布切れを広げる。
「上がその気なら、逆に炎団をこの色で染めたるわ。
それで見返したるって……どうや。」
「そりゃあ、いい考えです、お嬢!!」
二人は声を揃えて言った。
「おまえら……ほんまに協力してくれるんか?」
「いまさら何をおっしゃっているんです、お嬢?」
「……前にも言ったやろ?
あたしは、個人的な理由で炎団にいる。
兄貴に力を認めてもろたら、それでええ。
それから先はわからへんのや。」
「たまに不安になるんですかい?」
「アホ抜かせ……おまえらが不安になるかもしれんから…先に断っとんねん…」
シャロンは、既に二人には素性を明かしていた。
それを承知で、それに付き合うと言った彼等。
「それじゃあ、お嬢の目的が達成したら…そこで青組を独立させませんか?」
指を立て、歯を出して笑う。
「そしたら、二代目ジルルメッシュ一家の誕生です。」
「だ、ダメや!
それは兄貴が目指すもんやから……」
「じゃあ、新・ジルルメッシュ一家ということで。」
「……ん…。
……ええな、それ。」
彼等の夢みたいな提案に、少し考えた後で彼女は頷く。
いつの日か、それが叶うまで。
三人はその青い布を手放さないと心に決めていた―――
◆ ◆
「…行くで……!!」
息を吸い込む、シャロン。
「馬鹿野郎。
そんな布切れじゃ…景気よく燃えねえだろうが。」
脇から、戒の低い声。
それと共に、目の前に布の束が差し出される。
「…お前……そんなのどこから……」
背後でバーグが呟いた。
「―――うわあっ!!」
思わず、声と片足を上げるリード。
足元で転がっているペッポが、いつの間にか身包みを剥がされて裸になっているのである。
「普通……自分のを使うだろ!!」
それを見たバーグは、笑いながら叫んだ。
「俺様のは一張羅なんだよ!!」
同じく、笑顔で返す戒。
そんな光景に、シャロンは青い布で自分の涙を拭いて、それを胸元にしまう。
「……《炎・陣》。」
両手から盛大に燃え盛る炎。
それは戒の手から離れた服に燃え移り、四散してブリッジ前部全面を覆う。
「……さすが…オレらのお嬢だ……格が違らあ…」
「……ああ…」
窓の全体はガラスの代わりに炎で覆われ、それでいて火の粉はブリッジ内には僅かばかりも入らずに、
ギリギリの箇所で固定されて揺らめく。
その術の見事さに、イールとムールは胸を奮わせた。
―――やがて数秒後。
ひとつの小さな明かりが眼下に灯り。
また一つ。
また一つと増えていく。
それは、戦闘騎の滑走路場に並べられる光の列。
松明を持った、兵士達による誘導であった。
その誘導の先に照らされた場所は、遮蔽物の無い草原。
進む方向は、偶然にも合っている。
指を鳴らすシャロン。
巨大な炎の膜は赤い粒子となって、一瞬で消えた。
改めて開かれた視界に姿勢を直し、舵を強く握るタモン。
傾き、制御さえ失った艦体。
さらに、地面をブレーキ代わりにして艦体を止めなければならない。
責任ある操縦に思わず、手が汗ばむ。
微調整のカーブに、皆が上体を揺らした。
ザナナとバーグは、各々の得物を床に差し込んで身体を踏ん張り、空いた手でメイと世羅をそれぞれ抱えた。
戒とフィンデルは猛速度の中、目を開いて状況を逃すことなく見詰めている。
青服の三人は心配することを諦めたように、まだブリッジの先頭で一緒に座っていた。
「……保安念通士……失格だな…。
二回も連続で…艦を不時着させるなんて……」
リードの苦笑と共に、ルベランセは大地を薙いだ。
◆
地上から投げられる、対艦アンカー。
あまりに強引な不時着の衝撃で、皆、宙を何回転したか分からない。
気付けば、土砂や石が自分の周囲に入ってきていた。
そして遠くから聴こえる怒声。
叫び。
色々なもの。
機械やガラスの破片が飛び散った床。
そして、そこで横たわる仲間達を無機質に乗り越え。
―――戒は半身を外気にさらす。
彼が、ある時からずっと思い描いていたもの。
それがそこにあった。
見える範囲、全てが街並み。
星空と対称に輝き続ける、その国の明かり。
それは、この世を虫のように彷徨う人間達を、全て飲み干してしまいそうな魔天のように思えた。
戒は、自分の知らない空気を目一杯に吸い込んだ。
◆
「……何があった?
…事故か?」
サーベルを腰にかけた、白い髭をたくわえた初老の兵士が訊いた。
フィンデルの手は引かれ、艦長席の下に沈んでいた身体が上がる。
彼女は無言で頷いた。
目に飛び込んでくる、中王都市軍の制服達。
スコップやツルハシ片手の、小部隊。
その喧騒の中、シャロン達三人が窓際で蠢く。
部隊長とおぼしき初老の男は気付き、彼等の動向を注視した。
「…怪我人が格納庫にもいる。」
そこでフィンデルの後ろから現れた戒が、親指で後ろを示す。
顔を向き直す軍人。
その隙に、窓があった場所から地に身を投げるイールとムール。
「わかった。
すぐに救護班をまわそう。」
「……感謝します。」
言いながら、フィンデルもそれを黙って見届けた。
初老の男が直接指揮を執るため一旦その場を離れると、一人残ったシャロンが、距離を保って戒と対峙する。
「…おまえ……勘違いしてるで。
森で協力したったんは、ルベランセに取り入るためや。」
その辛辣な言葉にも、彼は無言で見詰め返していた。
やがて我慢出来なくなり、耳を赤く染めて下へと飛び降りる彼女。
地平線の向こうから本物の陽が昇り始める、中王都市。
照らされた三人の影は、素早く。
寄り添ったまま走り続けていた。
▼▼
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次へ
◆ ◆
3
◆ ◆
「ちょっといいかしら。
……バーグ?」
まだ呼び捨てすることに慣れていないのか、たどたどしい口調でフィンデルが訊いた。
乗組員の殆どが、疲れから眠りに沈んでいる正午。
その中で誰よりも早く目が覚めてしまったバーグは、何気なく格納庫をうろついていると、そんな彼女に
上から手招きをされる。
「…なんだい、副長?」
すぐに応じ、階段を昇っていく彼。
「…まるで……今回の戦いを象徴しているみたいね。」
何かを言いかけたフィンデル。
そこで下に目にする戦闘騎の様子に、言葉を変えた。
―――三機を一つの塊として接合している氷は、溶けずにその形を留めている。
彼女が何気なく口にした言葉。
それが本題でないことを察しながら、バーグは近寄った。
「戒くん、世羅ちゃん、ジンさん……そして、バーグにミーサ…。
それとブリッジのみんな…」
やつれた表情で、目を細める彼女。
「誰か一人欠けても、現在は成しえなかった……。
そう思えるわ。」
「……近くに宿舎があるってのに、みんなボロボロのこの場所で寝てる。
そいつぁ、この艦が好きだからじゃねえのか?」
バーグが自分の腰に両の拳を当てて、続けた。
「……だからまあ…堅苦しいこと抜きにしようや。」
そう言って、満面の笑顔を作る彼に、フィンデルも笑って応えた。
「用件は何だい?」
バーグが切り出す。
そこで、ようやく気付く彼女。
「実は…今、こういう話をするのも悪いんだけど…」
「堅苦しいこと、抜きって言ったろ。」
苦笑する彼。
フィンデルは頷いた。
「リジャンの財産のことで相談があるの。」
「財産?」
バーグは素っ頓狂な声を上げた。
これは予想しない話である。
しかし戸惑ううちに、札束の入った封筒を目の前に差し出される。
「さっき、彼の部屋を少し片付けていたんだけど……けっこうお金を貯めていたみたいで…。
彼、身元を引き受ける人間がいないから、財産は軍隊に没収されてしまうわ。
だから…」
黙って聞き入るバーグに、フィンデルが伏せ目がちに口を開く。
「友人の貴方が受け継いでくれれば一番と思って。」
「……いいのかい?
酒に消えるかもしれんぜ。」
両手を広げておどける彼。
フィンデルは何も言わず、その右手に封筒を握らせる。
「……どうでもいいが……あんた、少し休んだ方がいいんじゃねえか?」
一転、彼は真面目な顔で言った。
おそらく一睡もせずに、今まで作業をしていたに違いない。
体温の低くなった手を彼から離し、頷いて背を向けるフィンデル。
「しかし…軍人らしいのか、軍人らしくねえのか……わからん人だな。」
バーグは手すりに肘をかけて笑い、ふらつきながら歩いていく彼女の様子を見送った。
振り向けば。
大きく開け放たれた扉から見える軍の駐屯地、広い停留場。
そこから見える振動の無い世界は、疑わしいくらいに長閑だった。
◆ ◆
中王騎士団側に三名。
中王都市軍側も同じく三名。
長いテーブルを挟み、互いに沈黙が続いていた。
ステンドグラスから差し込む光。
そしてその両脇高くに置かれた、背から羽根を生やした美形の彫像。
彼等は、頭上からそんな人間模様を見守っている。
進行すらままならない会議において、初めに行動を起こしたのは、中王都市軍・副司令官グッソ中将であった。
儀礼用の軍服に身を包む彼は、顎髭に拳を付けたまま、あからさまな『咳』をして大柄な体を揺らす。
「随分と遅いではないか!
王室側は……!!」
脇でその様子を見た子男が、慌てて甲高い声で鳴いた。
その声は全員が耳に入れたはずだが、この議場で応える者は誰も居ない。
「―――摂政ゼン、ここに。」
それ故、予期しない所から返されたタイミングの良い返事にハッとする一同。
ステンドグラスの真下の緞帳から、白い手が覗き、重い幕が上がる。
不意にその中から現れる、樫の木の車椅子。
そこには、斜めに首を折ったまま口を半開きにしている、身なりの良い若い男性が乗せられていた。
「陛下……ご機嫌うるわしゅう……!」
その患者に向かって立ち上がり、うやうやしく礼をする軍隊側の三名。
それになぞった形で騎士団側も立ち上がり、胸に手を当てて、揃って一礼をした。
「そなたらの忠節を、陛下も嬉しく思っておられる。」
その車椅子を押す、白髪の痩躯。
摂政のゼンは、堂々とした笑みを浮かべて言った。
深紫の法衣に身を包み、誰にもまして丁寧な物腰。
彼は部屋の空気を隙無く眺めた後、テーブルの片方に視線を移した。
中王都市軍、中核を担う存在のグッソ=ハル=ガーランド中将。
その腰巾着と目されるサネトロ=シズン少将。
若手指揮官達の台頭、ギルチ=スウェーイン大佐。
次に首を動かす方向は、反対側。
中王騎士団最高権力者、大団長ザイク=ガイメイヤ。
その軍師と目される、黒の皮鎧に全身を包んだ騎士。
そして、五つの小団長の紅一点、シザー=クエルトフ。
ゼンは満足げに頷くと、六名は同時に座った。
「…本日は、臨時の提案にも関わらずお集まりいただき、有難うございました。
早速、会議を始めたいのですが……」
ギルチは、先んじて問いかけた。
ゼンの右目にかけられた、透明のガラス。
そこに描かれた時計の針の絵。
―――それは、『今日は』六時の場所を指している。
ギルチは、冷静に観察できていると自分で思った。
初めは奇抜に思えた容姿も、幾分慣れた証拠だろう。
アルドの叛乱後期。
10代半ばで従軍医師として官軍に参加。
その後、経済学者へと転身し、王室政府に重用される。
執政の最高官であるリエディン=フィラサンスカ五世が病となった後、摂政として抜擢。
今に至る。
それがギルチが調べ上げた、彼の全てであった。
容姿も異例であるが、遍歴も同様である。
「よろしくお願い致します。」
返される、若々しく人懐っこい笑顔。
陛下の車椅子から手を離さずに、ゼンは言う。
「あらかじめお伝えしております通り。
この度は、中王騎士団の軍備における国家費用の削減について…具体的な案を持って参りました。」
立ち上がり、書類を片手に述べるギルチ。
それを、脇の二人は暇そうに下から眺めた。
「現在各地に展開中の―――赤華、黄華、蒼華、白華、緑華の五小団。
この中のたった一団さえ、遠征を取り止めていただければ当面の目標を達成できるかと。」
「ご冗談を。
中王都市の威光を弱めろと仰るのか。」
声を発する、正面のシザー。
座ったままだが、相変わらず凛とした声質だと、ギルチは感じた。
ちら、と中将が自分を見上げるのが判る。
「……問題無いかと存じます。
元々、他国の紛争鎮圧の為に中王都市の財を使うということ自体が、悪習なのですから。」
「……それは、愚弄ですかな?」
ガイメイヤが静かに反応した。
「中王騎士団特有の、特異なる騎士道とやらを汚すつもりは……一片もありません。」
老練で強い眼力を退けつつ、ギルチは続ける。
「ただ、現在優先すべきは国土防衛だということ。
軍事組織が統一されていない我が国にとって、経済のバランスを柔軟に変移させることは宿命でもあります。」
「貴殿の考えは、アルドの叛乱以来、50年以上も続けてきた大陸の頂点から降りることと同意義であるぞ。」
「―――叛乱は既に過去のもの。
この15年あまりの平和の訪れに乗じて、周囲の国々は戦いを求めて始めておる。」
そこでグッソが、腕を組んだまま切り出した。
「近隣諸国は次々と戦闘用の飛翔艦を製造、その人員も着々と各地から呼び集め……。
その中でも特に隣国、帝都ヴァルトハウゼンの動きは不穏だ。
このままでは、いかに我々が列強七国の筆頭としても足元をすくわれかねん。」
「大体だな……!」
続いた、急なサネトロの高声が全員の耳を突く。
「即、国力に繋がる完全源炉の製造は、騎士団の管轄であったはず…。
国内にある三箇所の精製場から、今季になって一基も上がってこない理由を聞かせていただこうか!!」
「………!」
片眉を上げるガイメイヤ。
この会議における、軍隊側の真の狙いを理解する。
「完全源炉の精製には…非常に時間がかかるもの。
……ご理解いただきたい。」
代わりに答えたのは、シザーだった。
「説明が不足であるぞ!!」
頭から怒鳴りつけるサネトロ。
「…ふむ、如何か。」
そこで、ゼンが優しい声で双方に声をかける。
「国土防衛は、理にかなっております。」
―――軍隊側を見て。
「それに比べれば、今、他国への出兵は優先すべきではない。
だがこれは、情勢さえ変われば、また元に戻せば良いことではありませぬか?」
次に、騎士団側。
「急に派兵を止めれば、各国にいらぬ疑いをかけられますぞ。」
ガイメイヤは、低い声を洩らした。
「ご心配あらせられるな。
中王都市は、文字通り大陸の中心にある。
列強との外交さえ疎かにならねば、他国の目など気にする必要は無い。」
グッソは言い放った。
それがとどめとなり、静まり返る室内。
「……承知いたしました。
現在派遣中の一団を選別の後、呼び戻すよう善処いたします。」
そこで、黒騎士が初めて発言する。
完全源炉の情報が洩れ、それを盾に取られては交渉の余地は無かった。
初めから、あらゆる選択肢は塞がれていたのである。
年齢のためか、屈辱のためか。
腕をにわかに震わせながら、ガイメイヤは無言で席を立ち、場を後にした。
「穏便にまとまって良かった。
陛下も、たいそうお喜びになる。」
それを追いながら、ゼンは唇を結んで笑ってみせた。
茶番に自然と目を背け、シザーと黒騎士も大団長に続く。
(やけに……あっさりとしているものだな…)
そんな様子を眺めながら、騎士団側の反抗を看破するために用意していた書類をギルチが畳む。
長々と優越に浸ることもなく、グッソとサネトロも軽く礼をして、さっさと退室した。
「摂政様。」
やがてギルチも立ち上がり、深く礼をする。
「…いかがされた、提督。」
その態度に何かを感じた、ゼンが問う。
「この度、会議の時間を繰り上げたことは、まことに失礼を―――」
「謝罪には及びませぬ。」
摂政は、目をさらに『線』にように変えて笑って見せた。
「昨夜は国境付近が騒がしく、その用心で予定時刻を変更した……と聞き及んでおります。」
そして、手の平を広げて左胸に付ける彼。
「それについては…取るに足らない……我が軍の飛翔艦が一隻、帰還しただけでありました。」
「別に、怪しみませぬよ。
そう先手を打たずとも。」
「!!」
身体を硬直させるギルチ。
「中王都市軍、きっての若提督に国境を任せているのです。
何の心配がありましょうか。」
白鳩の羽根のように軽い。
透き通るような彼の佞言は、どこか不快で恐ろしかった。
「…その用心深さは、国の宝になる。」
「お褒めいただき、恐悦至極……」
摂政からわざと目を逸らすために再び頭を下げるギルチ。
自然と湧く、得体の知れない汗。
途切れた集中と精神。
それが不意に視線を感じとり、脇へ目を向ける。
薄く開けられた扉。
その隙間に見えるのは、先の黒騎士。
彼はギルチの視線に気付くと、マントを翻して去った。
改めて前を向けば。
目の前にいたはずのゼンと陛下も、いつの間にか姿を消していた。
◆
「傑作よの。
ガイメイヤの奴、何も言い返せなかったわ。」
聖堂の大理石の廊下を、靴を大きく鳴らして進む。
「加えて無礼でもありますな。
重大な会議の共に、女と得体の知れぬ不気味な騎士とは。」
グッソの後ろにぴたりと付きながら、言葉を並べるサネトロ。
「騎士団もロクな人材がおらんと見える。
……ところで、今宵の予定であるが…」
「ぜひとも参上させていただきます。
聞けば、ご子息様が御帰還なされたとか。」
サネトロは早口で言った。
「ペッポのやつめ。
鉄都までの遠路を見事、任務を遂行させて帰りおったわ。
一回りも二回りも成長したあやつに、これから会うのが楽しみだわい。」
こらえきれない大笑いを噛みしめるグッソ。
「将来がまことに楽しみでございますな。」
「しれたこと。
我が一族が代々、軍の要職につけば、国家は1000年の安泰ぞ。」
「全くでございます。
ところで……その帰還祝いの幹事は…」
卑しい期待の笑みに加え、グッソの前へ回り込み、揉み手で迎えるサネトロ。
「ギルチに任せておる。
……手配は完璧だな?」
「は。」
後ろから追いついたギルチは、短く答えた。
「ギルチ提督ならば、安心ですな。
さぞかし、盛大なパーティになることでしょう…」
「どうした?」
恍惚の表情を浮かべるサネトロとは対照的な、固い表情のままのギルチにグッソは声をかける。
「この度、露骨な圧力をかけられた騎士団の、次の出方を案じております。」
「そのようなこと気に病むでない。
戦争においても、飲み水さえ止めてやればいずれ、相手は抵抗もできずに死に至る。
最低限の労力で、最大限の効果……これぞ策というものよ。」
そう言い放つ、軍の副大将の顔には一片の曇りも無い。
それがギルチを余計に不安にさせるのを、彼は知らなかった。
「さよう!
水が飲めなければ、いずれ汗も涙も枯れ果てよう。」
続くサネトロの言葉。
(……汗?
涙が…枯れるだと?)
ギルチはその中で拳を握り、足を止めた。
(生きている限り、血は枯れぬではないか。)
心に渦巻く焦燥。
(……この程度を策と称す、軟弱な集団に…奴等の血を飲み干すことが果たしてできるか?)
前を行く二人が言葉を踊らせながら扉を開け、陽気な様子で教会の門をくぐるのを冷めた目で見詰める。
(…そろそろ…本格的に動かねばならぬ時が来たのかもしれん……。)
ギルチの決意は、教会に漂う沈静の香でも鎮めることは出来なかった。
◆ ◆
「…いま何時だ……?」
呻きにも似た声。
戒が、寝惚けきった表情で階段を降りてくる。
「ちょうど3時だけど。」
問われたミーサはバケツを片手に答えた。
途端に、血相を変えて階段の半ばから飛び、格納庫に着地する戒。
「何やってんだ!
起こせよ、バカ!!」
「バ…?」
暴言に言葉を失う彼女。
「まったく…随分な物言いだな!
ブリッジで勝手に気ィ失って寝てたくせに……」
そこでバーグが世羅を連れ、外から大声でやって来る。
「しかも艦内全体に響き渡るくらいのイビキでよー!!」
彼の言うことが本当なのか。
確証は無いが、気が付けば自分は瓦礫のブリッジで大の字だった。
しかし、別に恥ずかしくも何ともないので、戒は何も言い返さない。
「……それより今よ、近くで祭がやってるんだよ。
さ、これから行こうぜ!!」
「……はあ?」
バーグの唐突な号令に、いち早く間抜けな声で反応したのはミーサだった。
「中王都市、到着記念だ。
打ち上げってことで、皆で楽しもうぜ。
……金はある。」
胸ポケットから札束を取り出して示す彼。
「どうしたのよ、それ。
いつも金欠のあんたが。」
「…天から降ってきた。」
その不可解な答えに、ミーサがさらに不思議そうな顔をする。
「バカ言うんじゃねえ。」
そこで、戒が冷めた調子で言う。
「俺様に、そんな暇な時間があると思ってるのか。」
「夕方まではな。」
バーグは答え、紙幣とは別の紙を取り出して戒の胸に押し付ける。
それは列車のチケットだった。
「……何のマネだ?」
「この辺りは俺の地元だぜ。」
彼は誇らしげに言った。
「神学校の大学部があるのは、ここから北へ二駅のディバイディオン市。
だが、そっち方面の列車は夕方まで無え。
……まさか、徒歩や馬車で行こうとしてたわけじゃないよな?」
バーグの言いように、今度は戒が言葉を失う。
よもや中王都市がこんなにも巨大だったとは、思いもしなかった。
大学への道のりさえ、考えの外にあったのだ。
「それに急がなくても、学校は逃げやしねえよ…」
バーグは不気味な微笑を浮かべながら、戒の顔面に近付いた。
「貴重だって解るけどな…おまえの時間……あと少しだけ世羅にくれてやれよ。」
そして彼の首に太い腕を絡めて、耳打ちする。
「余計なことを……!!」
両手を後ろに回して、ただ突っ立って自分を眺めている世羅に目を配りつつ、戒が小声で喚く。
二人は、ついさっきまで共に行動していたように見えた。
バーグが彼女にも余計なことを吹き込んでいるのではないかと、彼は心中穏やかではない。
「ね、行こうよ?」
そんな戒の気も知らずに、世羅は無邪気に笑う。
リボンを失って解けた長い髪以外、いつもの彼女だった。
激しい戦闘で焼けた手袋も、今では予備の物をしっかりと装着している。
「?」
じろじろと眺める自分の視線を、透き通ったエメラルドグリーンの瞳で見上げる彼女。
そして、バーグの言葉。
これが最後だという刻の事実に。
戒は結局、背中を押されてしまった。
◆ ◆
風通りの良くなったブリッジの窓際。
その付近で、リードは床に散乱した書類をまとめ、その紙面に付いたガラスの破片を丁寧に払う。
「参ったな……これは元の状態に戻すのに、十日はかかるぞ…」
「まあ、のんびりやるっすよ…。」
その落ちた破片を丁寧に集めて、袋に詰めるタモン。
彼の呑気な言葉に、リードは溜め息をつきながら艦長席に座る。
そして、シートの隙間に挟みこまれた数枚の紙に気付いた。
フィンデルの筆跡で、沢山の数字と文字が書かれている。
時には絵も交え、紙上での緻密な作戦がうかがえた。
彼は書類を無感情に指でめくり続ける。
後から思えば。
昨晩の戦いのほとんどは、彼女の頭中の作戦通り。
初めから相手の全滅を目論んでいた―――。
その証拠と現実を、直視するのは少し辛い。
フィンデルは急場の指揮官として、当然の行動をとっていた。
その時、自分は仲間であるにも関わらず、彼女に対し一種の恐れを抱いたのは事実であるし、弁解のしようも無い。
どんなに畏怖の感情を思わないよう努めても、それが出来ない自分がいた。
だが、普段穏やかな彼女が当時、どのような気持ちで残酷な作戦を立てていたのか。
その過程を見た途端、何も役に立てなかった自分が非常に情けなく思えてくる。
彼女にとって自分は、あまりにも不甲斐無く、頼り無い存在なのだ。
「……!」
背にした扉から、当のフィンデル本人が入ってくる。
思わず、体を強張らせて、その書類をシートの隙間奥に押し込むリード。
「…寝過ごしたわ……!!」
慌てながら寝癖を直し、服装もままならない様子で飛び込んでくる彼女。
その姿は完璧な人間とは程遠く、リードはどこか安心した。
「…メイは!?」
「まだ、サイア商会の息子さんと軍部の医務室に。」
フィンデルからの問いに、タモンが答えた。
「じゃあ、そろそろ二人も宿舎で休んで頂戴……」
ブリッジの中央で見回し、何かを探しているフィンデル。
「副艦長どのが、軍部への報告を終えてからな。」
リードは彼女の背から、あらかじめまとめていた報告書を手渡す。
「ありがとう。
今回の任務…色々あったけど、皆には被害が及ばないように、私で食い止めるから安心して。」
優しい笑顔で、フィンデルは早口で言った。
表情も控えめで、完全に普段の彼女に戻っていた。
「…死なばもろとも…って命令。
けっこう悪くないと思ったんだぜ?」
リードは現金な自分を感じつつ、彼女の肩に触れた。
「い、今さら、気にするなってことさ…」
野次馬的にその様子を凝視するタモンが視界に入り、慌てて言い直す。
「……私は、いい部下を持ったわ。」
フィンデルは書類を少し上げて、和やかにブリッジを去った。
色々な言葉を頭の中に並べ。
口を開け閉めしながら、リードがそれを見送る。
「自分…邪魔だったっすかねえ?」
舌を出すタモン。
「うるさい。」
それに対して、彼は真っ赤になって返すのだった。
◆ ◆
至るところを街路樹に挟まれた郊外。
通りには所狭しと屋台が並び、商人達が勝手に食べ物や玩具を売る。
民衆も、家族や友と共に場所を選ばず、適当な沿道に座り込み。
各々がマイペースに祭の雰囲気に楽しんでいた。
自然体で気取らない。
毎年同じように楽しんでいる彼等の姿が想像できる。
「いい祭だろ?
食べて、飲んで、楽しむ。
それだけだ。」
バーグの言葉が、陽気な笛の音と混ざった。
中王都市の南部の民は、農耕を主にして暮らす。
暮らしも派手で無い。
この祭で互いの労をねぎらうと言う方が格好良いのだろうが、単に鬱憤を晴らしているというのが事実だろう。
「…普段の辛い日々を忘れようってなぁ…」
「おいしい!!」
感慨にふけるバーグの目を覚ます、世羅の大声。
彼女が持っているのは、小麦粉を蒸して、表面を焦がした手の平大の砂糖菓子。
噛むと、中に入った熱々のカスタードクリームが溶けるようにして口の中に広がる。
世羅は今食している物がまるで、この世の物ではないかのように目を輝かせて夢中で頬ばっていた。
「…………甘い…」
満面の笑顔の彼女に対して、戒はそれを片手に渋い顔。
「郷に入りは郷に従え……か。
子供達は柔軟だな……。」
片手に抱えた小壷に詰められたイカの足の酢漬け。
そこから出した一本をかじりながら、バーグが苦笑した。
「私……こういう場所は苦手なんだけど。」
彼の背中で、ミーサが呟いた。
同時に人ごみに肩を押され、心底嫌そうな顔をする。
「無理矢理つき合わせて悪かったよ。」
バーグは素直に謝った。
「………。」
こうなると、ミーサは何も返せない。
理由や状況はどうであれ、彼から誘われるのは今まで無かったこと。
嬉しくないと言えば、嘘になる。
そこで前を行く戒と世羅の間に、人波が割り込んだ。
にわかに二人との距離が離れる。
「ね、これって……おせっかいじゃないの?」
「ん?」
その隙を見て、ミーサが言った。
バーグは呆けた顔で訊き返す。
「私の目から見ても、あの二人の関係って何でもないと思うんだけど。」
「そう思うか?」
前の二人を、楽しそうに見詰めるバーグ。
傍にいながら、今日は全く触れ合わない二人の手が見えた。
「まだまだ子供ですな、ミーサくん。」
「何それ。」
彼に小馬鹿にされ、そっぽを向くミーサ。
不意に笛の音が止まる。
「……あ…」
そして思わず洩れ出す、民衆の声。
見上げる青空に、花火が大輪をさかせている。
大きな音が、空気を震わせた。
二人は楽しんでいるように見える。
胸ポケットに大事にしまった例の大金の重さを感じながら、自分の行動が間違ってないことを願う。
残された財産は、飛翔艦を買うにはまるで足りないが、その可能性を思わせる額だった。
友は、本気で再び自分の飛翔艦を持とうとしていたのではないか。
勝手な解釈だが、そんな感慨が心を支配する。
それ故、この財産は受け取ったものの、どうも自分の物にしようという気にはなれない。
明日は銀行にでも行って専用の口座を作り、この金をブチこまなければ、どうも気が気でなかった。
空に上がり続ける、真昼の花火はどこか物悲しく。
こんなめでたい場で死者に思いをはせさせたのは、そのせいかもしれないと、顔を上げたままバーグは思った。
とても薄くて、はかない光。
その中で。
―――バーグは一歩後退する世羅の姿を見た。
「………!?」
そして、戒が目を離した隙だった。
世羅は突然に横へと飛び出し、押し寄せる人波に紛れた。
三人は暫く呆然としていたが、まずバーグが人を割って追う。
ミーサもそれに倣うように踏み出た。
しかし、まるで追う気の無い戒を見詰めて止まる。
「……なんだかねぇ…!」
白けてしまったように呟き、彼女は人の中にゆっくりと潜っていった。
(やれやれ……。
何が…時間をくれてやれ……だ。)
一人とり残された戒は、両手をポケットに深く突っ込んで、彼等とは逆の方角へと体を向けた。
◆
古い博物館の入り口付近では、本の出店が中心に並んでいた。
適当に布を広げ、その上に重ねられた本や巻物。
そしてそれを求める客の多さに、戒は驚いた。
果物や野菜の出店は見たことがあったが、このような光景は今まで見たことが無い。
大陸中央圏の文化の高さを改めて突きつけられる思いがした。
ローブを目深にかぶった子供が大量の本を抱えて目の前を横切る。
「あ…!…すみません…」
戒の膝に、自分の肩がかすめたことに気付き、謝る子供。
「………。」
だが、そんな些細なことは、今の戒にはまるで眼中に無い。
子供は怪訝な顔でそんな彼を眺めつつ、そのまま素通りした。
「何をお探しで?
修道士さま。」
自分を見下ろしている、長い影に気付き。
老いた商人が、首を上げる。
「……どうして判った?」
戒が若干の驚きを見せて返した。
「……それ、レティーンの修道着でしょ。」
若者の妙な反応に、肩を揺らして笑う。
「わかりまさぁ。
あっしは、この祭にゃ毎年来てんだ。」
戒が近寄ると、彼はそれになぞり、頭を上へ向けて反らした。
「この時期は、いつも大陸中の学生さんが来てくれる。
おまけに、今日は天気もいぃさね。」
諸手を空に突き出して、上げる。
大袈裟な動作に、戒が思わず苦笑した。
「で、何をお探しで?」
「……天命人に関する本はあるか?」
冗談交じりに、戒は言ってみた。
「悪いねぇ。
さっき売れちまった。」
しかし、またも意外な返事。
「さっきの子供……だったかな?
つい、さっきまで…あったんだけど…」
ぶつぶつ呟きながら、背にある本の束を物色する彼。
「おい…別に探さなくていいぜ。」
元々、買う気など微塵も無い戒は、その動きを止めようと手を伸ばす。
その時、本を縛る赤い帯が目に付いた。
「……これは?」
「?」
手にする、その太い帯。
「ああ、そりゃあ、売るほどのもんじゃ…」
「じゃあタダでくれよ。」
はっきりと物を言う青年に対し、老商人は満面の笑みを浮かべる。
「そっちは、本の煤だらけ。
新しいの、切ってあげますよ。」
そして彼は、ロール状にまとまった赤い帯を取り出した。
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次へ
◆ ◆
4
◆ ◆
このプレオルン市の駐屯地は何度も使っているものの、その中の司令部まで入るのは初めての経験だった。
複雑に作られた通路を二度、三度と迷い、ようやく行き着いた先に、ようやく執務室が見える。
「久し振りだな…フィンデル。」
守衛の指示で入室した直後、飛び込んでくる知り得た顔と声。
「ギルチ!!」
フィンデルはドアノブを持ったまま叫んだ。
「いえ…ギルチ提督。」
だが、慌てて言い直す。
「ずいぶん他人行儀なんだな…。
旧友に対して。」
机上で、ゆっくりと手を組み合わせる彼。
「この南部の国境警備を任されているのは、私だということ…噂くらい聞かないか?
一応、最年少の新記録なんだが。」
「上官の配置なんて興味無いもの。」
彼女の言いように、彼は思わず笑った。
「少しは興味を持ってくれないか。
あとわずかの任期を無事に終えれば、私には准将の地位が待っているんだ。」
「……!!
まさか…今回の件で……」
「気に病むことは無い。
この程度では、私が今まで築いてきたものは揺らがないさ。」
そう言って、襟を直す彼。
フィンデルには記憶の中の彼よりも、今の彼は少し太ったように見えた。
「先ほど、報告を読ませてもらったよ。
…内容は非常に興味深い。」
「………。」
懐かしい気分もほどほどに、旧友の口から出される、事務的な言葉。
それに反応できない自分がいる。
「私からの沙汰としては、君に対して『申し訳ない返事』と『嬉しい返事』と『厳しい返事』を用意した。
何から聞きたい?」
「……順番に。」
彼女の淡々とした口調に、微笑を洩らす彼。
「では、まずは『申し訳ない返事』から。
報告にある、中王騎士団とその戦闘騎についてだが……」
―――フィンデルは身体を強張らせた。
「君達が遭遇した一連の事件の内容を、騎士団に面と向かって突きつけるのは無理がある。
君も知っているとおり、連中と我々は犬猿の中。
それに、彼等が炎団と組んでルベランセを拿捕しようとした言うのは、著しく現実味に欠ける。」
非常に慣れた口つきで弁論する。
これまで彼に相当の苦労があったことが容易に想像できた。
「特に証拠が無いのは痛い。
これらの報告を突きつけたところで……それがたとえ事実であろうと、連中にとっては『しら』を
切り通せば済む問題だ。」
「分かっています。」
まるで返答を予想したかのように、フィンデルは一言発する。
「……そうだな。」
その時ギルチは、この答えを彼女は予想していたのだ、と確信した。
「だが、この報告自体には、私は興味がある。
そして……調査に値すると思う。
軍全体の規模では無理だが、私個人の調査隊に調べさせよう。」
「ありがとうございます。」
またも、平然と挨拶を述べる彼女。
「……これでは、君の意のままか。
たまには勝ちたいものだ。」
苦笑しながら、二枚目の書類を手に取る彼。
「次に『嬉しい返事』だな。
君に、昇格の知らせが届いている。
晴れて大尉というわけだ。」
その報告を聞く彼女の無表情さ加減は、さながら仮面を付けているかのようだった。
「無能な艦長を押しつけた、『侘び』ということかな。」
ギルチは言いながら、自嘲めいた笑いを浮かべる。
「…無論、この恩賞にルベランセが炎団の飛翔艦三隻を撃破した戦果は入っていない。
これが事実なら、二階級特進も在り得たのだが……これは、私の方で握りつぶした。」
そして彼は、書類を拳に小さく丸めて納めた。
「表向き、ルベランセは任務中に空獣の群に巻き込まれたことにしてある。
目立たないように生きるのが…君の望むところなのだろう?」
「…お礼を申し上げます。」
「……もう…他人同士なのだな。
我々は。」
彼女の堅い口調に、ギルチは頭を掻いた。
「それにまったく……軍隊で『功績』を揉み消して喜ぶ人間は、君くらいのものだ。」
傍にある水差しを取り、コップに注ぐ。
「昔から…そうだったな。
学生時代の頃……いや、『あのとき』以来ずっとか。」
その水をフィンデルに薦める素振り。
だが彼女は手の平を前にして拒絶したので、彼はそれを自ら口に運んだ。
(……『天・地・人』…兵法八十一計で敵艦を撃破する君の姿が、目に浮かぶよ。)
瞼を閉じる最中。
自分の中のわずかな武人の血が騒ぐかのようだった。
「まあ……あんな艦長の下、よくやってくれた。」
そして、瞳を開けて笑う。
「可笑しいな。
ペッポの奴も今回の任務で昇格。
准将となって、軍の重要なポストにつく。」
空のコップを置き、丸めた書類は机の脇のくず箱に投げられた。
「私が10年近くかけて、ようやく登りつめた地位に、だ。
これが生まれの差というやつかな。」
再びの彼の自嘲にも、フィンデルは黙っていた。
「…殴ったんだって?」
急に、ギルチは簡単に言った。
「!!」
途端に、真っ赤になって対面を凝視するフィンデル。
「風の噂で聞いたよ。
あの君がねえ。 ふふふ……」
彼は、彼女がようやく見せた人間らしい反応に喜んだ。
「正直、胸がスカッとした。」
そして自然と笑顔になるのがわかった。
「…だが、軍に在籍している者としては、最低だ。
これが最後のひとつ……君にとっては『厳しい返事』だな。」
書類を一枚取って見せる。
「今回、フィンデル大尉には間違いなく寿命が縮む、忌まわしき地への派遣を命ずる。」
「…何処……でしょうか?」
先の余韻の苦しげな表情で彼女は尋ねた。
軍の駐留地点に、そんな場所などは記憶に無い。
ドアが開かれ、若い女性士官が入室する。
目に付いたのは、彼女が手に抱えてきた派手な色の服だった。
「ドレス……?」
机に置かれた『それ』を見て、フィンデルは自然に呟いていた。
「今夜、パーティが行われる。
誰の主催だと思う?」
首を小刻みに左右に振る彼女。
「なんと中王都市軍副指令、グッソ閣下。
社交界にも、大々的に息子のペッポ殿をお披露目するつもりなのだろう。」
「………。」
フィンデルは目をパチクリさせていた。
「急遽準備させたため、君の趣味に合わないかもしれんが我慢してくれ。」
「―――わ、私のドレスなの?」
「言ったろう?
忌まわしき地への派遣を命ずるって。」
あからさまにからかうような笑みを浮かべ、ギルチは藍色の光沢を放つドレスを手に持った。
「昔からパーティというものは、男女一組で行くのが慣わしだ。
私も丁度、相手に悩んでいたところでね。
……二人で、道化を演じに行こうじゃないか。」
その言葉に、無言で首を横に振り続ける彼女の動作が大きくなっていく。
彼は笑顔のままだったが、それだけはとても許してくれそうになかった。
◆ ◆
荷物をまとめ、一息つく。
あたえられたカビ臭い部屋は、意外と休むことが少なかった。
修道着の裾を上げ、戒はベッドに座る。
「……?」
足元からのぞく棒状の物体。
それは―――綺麗な装飾の刀鞘。
思えば、これが世羅との旅の始まりだった。
この刀を輸送する名目でルベランセに乗り込み、ここまで来たのだ。
今の今まで忘れていたことが、可笑しくて仕方が無い。
戒は肩を震わせて、穏やかに笑う。
自分にはもう必要が無くなった刀。
後は世羅がギルドへと運び、ひとりで報酬を手にするだろう。
ふと脇に目を移すと、半透明の姿をした少年がベッドに座っている。
まばたきを一度すると、消えた。
それは。
他に何か、『ここ』に忘れ物がある。
そんな暗示に思えた。
またいつもの錯覚だと笑い、戒は立ち上がって扉を開ける。
廊下では、ザナナが待ち構えていた。
◆ ◆
「………もう…日が暮れるぞ……。」
情け無い声。
落ち着かない様子で格納庫を右往左往するバーグ。
あれから、世羅の捜索に何時間も費やしたが、全く成果は無く。
一抹の望みを託してルベランセに戻ってきたものの、それも裏切られる結果となった。
「あんたがいくら心配しても、どうしようもないでしょ。」
ミーサがスパナで戦闘騎を繋いでいる氷を叩く。
「……それにしても、全然、壊れないわね、この氷!」
「…おい、俺様の機体……もっと丁寧に扱え。」
二階から、戒の声。
思わず見上げるミーサ。
「もう、あんたのじゃないっての!!」
そして、重そうなトランクを片手に階段を降りてくる彼に吠える。
「行くのか?」
バーグが急に背を向けたまま言った。
「行くけど……なんだよ。」
「最後に一言……言わせろや。」
呟く彼。
「自分と他人との関係を……必ず『帳消し』にしようとする。
戒、そこが、お前の悪い癖だ。」
「あ?」
急に説教を始めた背中に、戒が顔を歪める。
「人間ってやつはな、割っても割り切れねえんだ。
いつか……お前にも分かる時が来る。 その時、一緒に酒を飲もう。」
それは彼が振るう剣身と同じ、真っ直ぐな別れの言葉だった。
戒がトランクを引きずって進む。
目の前の大きな背中に幾度助けられただろうか。
はじめに出遭った時は、誤解から乱闘になった。
次は、炎団の飛翔艦内で白兵戦。
森を脱出する戦いでは、彼が先頭に立ち。
最近では、共に空で。
頼りになる男だった。
戒は自分の両親のことは、幼少時に別れたために殆ど印象に無い。
だが、父親というのは、こういうものなのだろう。
―――黙って遠ざかっていく足音を聞きながら。
一方のバーグは一切振り向かないまま、首の鎖をいじっていた。
◆ ◆
指令部からルベランセの駐留場に戻ってきたフィンデルは一息もつかずに、次の仕事にかかっていた。
ある意味それは、最も辛い仕事だった。
「まだ…医務室で寝ていた方が良いのではないですか?」
「いかなる理由であれ、これ以上軍隊に厄介になるのは良くありません。
中王都市にも…いたるところにサイア商会の支店があります。
私は、そこで傷を癒します。」
フィンデルに答える、松葉杖をついたジン。
彼の強い意思を留めることは出来ないこと、彼女は解っていた。
「では、機体は修理後にそちらへ送らせますね……」
「ありがとうございます。
あんな古い機体でも……私には格段の思い入れがあるものですから。」
ジンは遠い目で礼をする。
「本当に…平気ですか?」
「もう毒は抜けて、足も自分で撃った傷です……サメにかじられるよりはマシといったところですね。」
「その冗談……笑えませんから…」
フィンデルは苦笑した。
続いて、準備を整えた戒が荷物と共に格納庫から降りてくる。
「貴方は……てっきり、ルベランセに残るものだと思っていましたが。」
彼にはまず、ジンが声をかけた。
「俺様にも都合がある。
文句あるか。」
「……貴方を一発殴ってやりたいですよ。」
「何だ、そりゃあ?」
間抜けな声と共に肩をすくめる戒。
「……もう、時間がねえ。
俺様はそろそろ行くぜ。」
意識せずに周囲を見渡しながら、彼は言った。
「今までありがとう、戒くん。
本当に…」
フィンデルは複雑な笑みを浮かべて、戒に声をかける。
本来は握手でも交わすところだろうが、突き刺す針のような彼の雰囲気がそうはさせない。
それだけは、最後までも変わらないところだった。
「もっと、楽に到着できるかと思ったんだがな。」
彼女の感謝の意を途中で切るように、戒は悪態をつきながら大股で歩く。
「世羅ちゃんのことは任せて。
約束は…ちゃんと守るから。」
「…心配なんか……してねえよ。」
出会って数日の仲だというのに、フィンデルは彼の言葉に胸を締め付けられた。
「貴方らしくない……言葉でしたね。」
そんな戒の姿が完全に視界から消えてから、彼女はジンに訊く。
「……私は、悔しいのです。」
ジンは答える。
「『あの時』……正直、敵わないと思いました。
私には、空中で誰かの為に身を投げたり……ましてや、それを受けとめることなんて出来ないでしょう。」
松葉杖が動き、小石が跳ねた。
「初めは、空の恐ろしさを知らない蛮勇の成せるものかと思いました。
だが時が経つにつれ、私のその気持ちは嫉妬へと変わった…。
このことが示している事実は何でしょうか。」
彼は上半身を前に、苦しそうに続けた。
「本心を言えば、私は世羅さんを連れて帰りたい。
ですが、今の私にはその資格も価値も無いようです。」
この青年の発言には、時折どきりとさせられる。
フィンデルは、ただ聞き入るばかりだった。
「…暫くは空も飛べません……。
その間、商売でも学んでみますよ。」
「リ・オンさんに宜しくお伝え下さい。」
彼の殊勝さに感心しながら、彼女は深く頭を下げる。
「……はい。」
上着を直し、松葉杖を前へ突くジン。
(父には…本当に人を見る目がある……。
…父の言い知れぬ予感とやらも……私は信じることが出来るな…)
独り微笑みながら、不器用に歩く。
(……また、いつか何処かで逢いましょう。)
街へと繋がる長い道の途中で。
ジンは一度だけ振り返った。
◆ ◆
騎士団に与えられた、先の会議場とさほど離れていない、教会の別棟。
「……いやあ……昨夜は失礼した……。
調子は…ますます最悪だよ…」
苦笑しながら、ヂチャードが二人に寄る。
無論、昨晩の乱行と後悔につき、顔面は蒼白だった。
「…そろそろ…帰っても……いいかな?」
会議中は何とか『もった』ものの、後の警備までは付き合いきれない。
そんな様子で腹をさすりながら哀願する彼に、マクスとクゥは互いに顔を見合わせた。
「だめだ。
お前は、頼りになる奴だからな。
どんな理由があっても、最後までいてもらおう。」
「……へ?」
マクスの意外すぎる言葉に、ヂチャードが呆然とする。
彼は、何も言わずに帰してくれるのを期待していた顔のまま止まった。
「これでいいのだろう?」
マクスの言葉に、脇のクゥは静かに微笑む。
そのやりとりに一人だけ、理解できていないヂチャードだったが、もよおす吐き気に我慢できず座り込んだ。
「神聖なる場所で『やらかす』なよ。」
「わ……わかってるっての…」
上から浴びせられるマクスの冷たい言葉を返しながら、ヂチャードは上を向いた。
「ん!?」
その時、巨大な影が前方を横切り、思わず廊下に尻餅をつく。
「…お…おい……あれって…!?」
吐き気も忘れ、警備の中を平然と歩いていくその人物の背中を指差す彼。
頭上のマクスも言葉を失っていた。
◆ ◆
「……世羅。」
部屋の前の壁で白い槍と背をもたれながら、ザナナが呟く。
薄暗い廊下を、そろそろと歩いてきた世羅は思わず足を止めた。
「戒が、ずっと捜していた。」
「……!」
肩を震わす、世羅。
「…ごめん。」
彼女は複雑な笑顔をして部屋に入る。
誰も居ない部屋。
ベッドに置かれた、赤い布が目に付いた。
◆ ◆
「聞いたぞ!!
あんな小娘だったシザーが、生意気にも結婚して退役とはな!!」
下腹に響くような大声。
「……ファグベール様?」
半ば信じられない様子で、彼女は声を上げた。
最後の扉の前から、思わず三歩前へ出る。
背は低く、横幅のある初老の男。
それはまるで、だるまのような背格好。
はちきれんばかりに脂肪を詰め込まれ、丸みを帯びた彼の鎧。
それにはシザーの緑と違って、赤い線が入っている。
「赤華は……現在、派遣の任に…」
早朝の会議で一小団の任務中止は決定したが、たった数刻のうちにそれが遠方へ伝わる術など無い。
軍隊側に、騎士団の内情が洩れていた事実。
そんな中タイミング良く現れた遠征中の小団長の姿に、嫌な予感がした。
「細かいことを申すな。
はっははは!!」
彼女の心配をよそに。
パン、と分厚い手の平で腹部の鎧板を叩くと、彼は絨毯をのしのしと踏みつけて前を行く彼。
「お待ち下さい、今、大団長にお取次ぎを……」
「お前が居なくなるのは…本当に惜しい。
先ほど聞いて、騎士団の未来を…少し憂いたわ。」
彼女の脇で囁き、そのまま足を止めずにドアを開ける彼。
「………ファグベール様?」
シザーが振り向くことが出来たのは、数秒経った後だった。
◆
「遠征の任を放り、ここまで何の用か。
ファグベール。」
薄い幕の奥で、ガイメイヤが問う。
「は。
まずは…人払いをお願いいたす。」
ガイメイヤの脇で彼の顔に墨を入れていた、彫師がおごそかに退室する。
ファグベールの脇に立つ黒騎士―――ディボレアルは、動く様子を全く見せなかった。
「…これで、周りには忠臣しかおらぬ。
構わず申せ。」
「……では…失礼つかまつる。」
その場からガイメイヤへと半歩近付き、肩膝をつく彼。
「我が赤華の軍師にして総務番、レイキ=モンスロンが出奔いたしました。
姿をくらまして早10日。
いまだ行方すら掴めぬ始末。」
たった一人の緊張の言葉に、張り詰めていく室内。
「彼奴は、騎士団全ての機密を知っている身。
これを逃したのは、失態の極み。
我が首をもって、お詫びいたそうと参上した次第。」
「……首だと?」
薄布を挟んで、交わされる言葉。
「は!!」
豪快に笑い、ファグベールは首の装甲を両手でもって外す。
「普段は行水すら半月に一度の拙者が、今日はしっかりと首を洗って参りましたぞ!!」
そして、手でその太い首をさすって見せる。
ガイメイヤがわずかに動いた。
ディボレアルが無言で剣を抜く。
「何か言い残すことは無いか。」
「願わくば、現在の我が隊の副長、センシルを拙者の後任に据えて頂きたい!!」
土下座の態勢をとるファグベール。
その頭上に、黒い剣は振り上げられ、風を切って落とされる。
「!?」
砕ける大理石の床。
耳元を振り切られた黒い剣に。
そして、いまだ繋がっている己の首に狼狽する老いた瞳。
「命を捨てる覚悟あらば、捧げる覚悟もあろう。」
ガイメイヤが言った。
「挽回の機会を与える。
ディボレアルに、そなたの命と飛翔艦全隻を貸せい。」
「は!!」
大柄な鎧が、素早く床に伏す。
「その裏切り者の行き先には……心当たりがある。
貴殿に、同胞だった者を躊躇無く殺す気概があるか?」
問う黒騎士に対して上げた顔。
彼の眼球は滾っていた。
◆ ◆
(おっとと……先客かよ…)
咄嗟に壁際に身を隠し、おもむろに煙草に火をつけるバーグ。
そこは空が見渡せる大きなガラスが張られた廊下。
ルベランセで最も見晴らしの良い場所の一つだった。
そこでじっと、夜空を眺める世羅が居る。
「……ここは、リジャンがお気に入りだったところだぜ。」
「うん、知ってる。」
意を決して近寄るバーグに対し、普通に答える世羅。
彼女の髪は、真新しいリボンで束ねられ、ポニーテールに戻っていた。
「……戒が前に話してくれたことがあるんだ。」
やがて世羅が搾り出す言葉に対し、バーグは煙草を口から離した。
「この世界で、たった一人、救いたい人がいるんだって。」
「あいつは……自分で言うほど、そんなケチな野郎じゃねえよ。」
「わかってる。」
また、世羅はすぐに答えた。
「だから…戒のこと応援してあげなきゃって……思ってたんだ…」
ガラス越しに見る世界。
中王都市の遠い街並みに、少しずつ夜の明かりが灯り始める。
たとえ地上でも、そこでの景色の眺めは健在だった。
「…言いたいことも…たくさんあったんだ…」
小さい両の手の平を窓に付けて呟く。
「でも、何故かボク……戒の顔見れなくて……!」
大窓の桟に大きな雫が落ちたのを、バーグは見た。
「…今までありがとうって一言も……言えなかったよ……」
「…ああ、そういうもんだ。」
歩み寄るバーグ。
こらえきれず、その胸に飛び込み、彼の腰に両手を回して世羅が震える。
「……馬鹿だな…。
無理しやがってよ……。」
くしゃくしゃに頭を撫でてやると、彼女の中のせきが崩れた。
◆ ◆
車内の座席に座ると、戒は旅の疲れに一気に襲われた。
利き手ではないので鉛筆は握れるだろうが、空中戦で負傷した手首が痛む。
この旅は後悔することばかりで。
そして、この身体的苦痛は明らかな『損』だった。
この旅先に、それを帳消しにするくらいの恩恵があることを彼は本気で祈る。
「―――おい。」
対面の座席に積まれた、大量の本。
その脇にちょこんと座っている、小さな子供にドスの効いた声をかける彼。
目深にかぶったローブの隙間から、その子供は戒の顔をうかがった。
しかし直後、彼の目つきの悪さと頬の傷に嫌な予感を覚え、思わず席を立つ。
「おまえだよ、ガキ。」
だが戒は長い足を突き出し、その退路を塞ぐ。
子供の方は、いきなり浴びせられた、親兄弟にも使われたことのない乱暴な言葉に、声を失った。
「ティバイディオンまで、どれくらい時間がかかる?」
「え……1時間半くらい…ですけど。」
身を縮こませながら、子供は反射的に答える。
「じゃあ、俺様はそれまで眠る。
着いたら起こせ。」
そう言ったきり、目を閉じる彼。
突然のことに、子供は唖然とした。
「…起こさなかったら…承知しねえ……ぞ…。」
ごろごろと動き出した、線路のレールの振動は、まるで飛翔艦にいた時のような感覚を与える。
いつの間にか、慣れていた。
あそこは安息の場。
色々な感情が噴き出す前に、彼は睡魔に身を任せた。
◆ ◆
「あの戒のバカ野郎を見たろ!?」
貯蔵庫から拝借したワインをラッパ飲みしながら、バーグは強い口調で言った。
「森の時といい、最後のブリッジと時といい、めちゃくちゃじゃねえか。」
無理矢理、その酒の相手をさせられているザナナが、わけもわからずに頷く。
「……でも何とかなっちまう。
これが若さよ。」
一転、おどけた口調に変わるバーグ。
続けて、しゃっくりをする彼の背中を横のミーサがさすってやる。
食堂の被害も甚大で、彼等が座る椅子やテーブル以外は、ほとんどがひどい有様で一箇所に偏って潰れていた。
「少し、格納庫も寂しくなるわね。」
彼女が、そんな惨状を眺めながら頬杖をついて呟く。
「……あん?
機体のことか?」
うな垂れていたバーグが返す。
「……乗る方も、よ。
ちゃんと人員補充されるのか、心配だわ。
今までも充分じゃないのに。」
ジト目で、バーグの全身を見回すミーサ。
「おいおい!
俺の操縦は確かに頼りねえかもしれねえけどよ……」
彼女のあからさまな視線に、困ったように頭を掻くバーグ。
「こうなったら、ザナナ。
てめえが操縦しろ。」
「無理だ。」
素っ気無く即答する豹頭。
「………新しい人員ねえ……」
その反応に、大口を開けたまま、バーグが椅子を傾けながら天井を仰いだ。
◆ ◆
手鏡や、かんざし。
口紅や、ハンガーのかかったままのスカート。
古今東西、色々な物を投げつけられながら、部屋から廊下へと転がり出てくる男。
「………世話になったね、元締め。」
彼は服についた埃を払いながら、きつく閉められたドアを未練がましそうに見上げながら言った。
声をかけられたのは、その廊下の壁際で煙草をふかす、露出度の高い派手な服を着た女。
やがて男は立ち上がると、飄々(ひょうひょう)と彼女に近付いた。
「どこか、行く当てはあんのかい?」
女は気だるそうに、顔をしかめて返す。
手の平の形に真っ赤に腫れた、男の片頬。
長めの髪と同じ淡い茶色をした、口から顎にかけて生える綺麗な髭面。
それが、ぐっと距離を狭める。
「ここの軍隊に古い友人がいてね。
今夜、お偉いさんの集まるパーティで、ようやく雇い主を紹介してもらえそうなんだ。」
「そいつは良かった。
じゃあ、今までの宿代……頂こうか?」
「あいにく今、一文無しでね。
良かったら身体で払うよ。」
冗談混じりに、襟元をはだける男。
垂れ目がちの目尻が、余計に下がる。
「あんたねぇ……文無しで、しかも娼館に一月も寝泊りする男なんて…普通いないよ。」
女は呆れて言った。
「そうかい?
じゃあ、僕は特別な人間なんだろうね。
そんな僕……素敵と思わないかい?」
彼女の顎を優しく持って、瞳を近付けて男は言った。
「……なんでこの期に及んで、まだ口説きにかかるのかねぇ…あんたは。」
彼の顔面に、吸った煙を浴びせる女。
「しかも…『嘘つき』だ。」
男のはだけた胸元に見え隠れする、黄金の拳銃。
その彼女の視線に気付いた彼は、子供のように照れくさそうに笑った。
「早く行っちまいな。
そろそろ、ウチの子達が皆起き出すよ。
もしもあんたが旅立つことがバレたら、その頬に紅葉が増える。」
「―――有難う。
煙草は……『ほどほど』にね。」
彼ははにかんで彼女の煙草を奪い、軽く口付けをしてその場を後にした。
床に落ちた煙草が全て灰になるまで、女は男をいつまでも見つめていた。
◆
背のびをしながら遠くに臨む、駐留中の飛翔艦―――ルベランセ。
月夜にたたずむ その鉄塊の美しさに、男は運命の流れ始めを予感した。
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第二章
第五話 『宴前』
了
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