17話-重変身-
雫が目覚めてから一週間が経った。
「入るぞ」
親父は研究室か病室じゃないと落ち着かない体質だ。
だから白藤の家の離れを借りることとなった日からも、ここにはそうそう来ることがなかった。
「珍しいね。雫は?」
「白藤ちゃんと商店街へ買物に出かけてる」
「そっか」
二人はとても打ち解けていて、俺といるよりも二人の時間の方が長いくらいだ。
むしろ俺との時間がないと言った方が正しいか。
「給湯器と浄化装置の改造が終わった。二十年はほっといても仕事するだろ」
それはつまり。
「世話になった分の金銭的部分についてはまあ、これで十分だろ」
そう言ってから親父はマッチを擦ろうとして、止めた。
火の点いていないタバコを咥え、上下にただ揺らす。
「間を取り持ってもいい、Prof.がそう言ってくれてる。元々お前がしたのはMr.を隔絶で一時的に閉じ込めただけだからな、あの人が間に入ってくれるならお前はヒーロー学園に戻れるだろうよ。俺も技術部はどうか何て言われたよ」
「お爺さんの提案に、乗るの?」
「それを決めるのは俺じゃない」
親父の鋭い眼光は、雄弁に語っている。
きっと、正しく受け取れた。
「貸し借りを気にする必要はない。親子共々世話になってるんだ、Prof.に恩返しするのは親である俺の役目だ。そして手前勝手かも知れないが俺はもうすでに世話になった分の対価を支払ったつもりだ」
金銭で考えると、釣りが出るくらいだろう。
「Prof.の提案を受け入れるなら俺はまたこの街に家を建ててお前たちを養っていくつもりだ」
俺と雫で俺たち。
俺はヒーロー学園に戻り、ゆくゆくはヒーローとして働くだろう。
そしていつか雫と家庭を築く。もっとも雫に断られればここいらの計画は崩れるが。
「Prof.は雫ちゃんを引き取っていいとも言ってくれている」
それはつまり受け入れない選択肢を取った時でも雫の身の安全は保障されているということだ。
だけどそこには穴がある。
「Prof.と戦ったら、雫が悲しむよね」
「先に聞いちまうと返事を誘導しちまいそうだから黙ってたけどよ」
親父は煙草に火を点けた。
「お前、Prof.と戦えるのか?」
言葉はすんなりとは出て来てくれなかった。
ようやく出てきた言葉も、情けない一言だ。
「わからない」
「……俺の見立てじゃ無理だな。お前、Prof.のこと気に入っただろ。身近な大人が俺しかいなかったからな、本物の祖父さんみたいな感覚もあるんだろうし元々馬も合うんだろ」
親父の口から煙が吐き出された。
お爺さんはキセルに火を入れてもそのままほったらかしにするからその煙の動きは、二人の間で違いがある。
「まあじゃあ決まりだな。俺は技術部に志願する。お前はMr.と協会のおっさんたちに頭を下げてヒーロー学園に戻る」
十年間。人生の半分以上を掛けて目指してきた世界は、お爺さんと出会い、そして雫が目覚めたことで消えてしまった。
たぶん今までの十年は誰にとっても無駄な十年だったのだろう。間違った目標だったんだ。
俺はただ自分の愚かさを笑えばいい。だけど巻き込まれた親父たちにはどう償えばいい。
答えは出なかった。
だけどこれからも間違え続けて巻き込む人を増やさないために、決意しなければならない。
厚顔無恥にも自分が間違っていたと言うんだ。
「うん。そうし――」
お爺さんの提案を受け入れよう、そう口にしようとした瞬間だ。
離れ全体が揺れた。
障子紙は破れそうな音を立て、またその隙間を縫うように耳に届いた声。
「大地、白藤!」
俺と白藤を呼ぶマサトの声だ。
障子を開けたところでその姿は見えなかった。
「助けに来たぞ!」
なにやら妙なことを口走っている。
「行って来るよ」
親父の短い返事を受け、俺は門へと向かった。
辿り着いたその時には、壁にコスチューム姿のマサトがめり込んでいた。
「大地、これはなんじゃい?」
Prof.は白雪を杖にするようにして仁王立ちしている。
これとマサトを顎で指し、その顔は不愉快だと隠すことなく険しい。
「同級生です」
「か、この程度でSランク候補生じゃったとは。なんじゃい、お主や白藤とえらく差があるではないか」
「俺たちは戦いに来たのではないからな、本気を出していないだけだ」
コスチューム姿の水鏡が、Prof.の背後からその背中目掛け、水の剣を振るった。
それを一瞥することなく白雪で弾くと、そのまま鞘で水鏡の鳩尾を突く。
「こいつもかのう?」
首肯すると、Prof.は苦虫を噛み潰した顔になった。
「人の家の門は破壊する、不意打ちはする、心も浅ましければ力も弱い。本当に程度が低いのう」
胸を押さえうずくまる水鏡を見下ろし、Prof.は冷たい眼差しを向けている。
それはどこかMr.に近い物を感じた。敵には容赦はしない。
「水鏡、お前たちは何をしに来たんだ?」
マサトは助けに来たと言った。一体何からだろうか。
「くっ、お前たちがヴィランに利用されていると聞いて助けに来たんだ」
「誰がそんなことを言ったんだ?」
「リ・ジャスティス様だ。彼女は素晴らしい。俺たちヒーローの新たな先導者になれる方だぞ。Mr.何ていう協会にいいように利用されている老害は早急に討ち、リ・ジャスティス様を新たな象徴にしなければならない」
水鏡の目を注意深く観察しても、そこに異常は見られなかった。
だけど、明らかにおかしい。何がおかしいと指摘するまでもなく全体的におかしい。
「どうしたんだ水鏡、操られているのか?」
「何を言っているんだ大地、操られているのはお前たちの方だろう、正気に戻れ、白藤と一緒に俺たちのところに来るんだ。今ならまだお前たちはこちらに戻って来られる。帰って来い、また一緒にヒーローとして活動しようじゃないか!」
「水鏡、お前とはいけない」
「そこまで洗脳が進んでいるのか、大地。俺はお前たちを救って見せるぞ、重変身!」
水鏡のコスチュームが暗い青になり、その姿も禍々しい物に代わる。それはヴィランのスーツにも似ていた。
「マサト。お前もいつまで気絶しているつもりだ。ヴィランだぞ!」
「ヴィランだとぉぉ!? お前らの好き勝手にはさせない、重変身!」
マサトのコスチュームまでもがヴィランのそれに近くなった。
「その姿、そうか――ヒデオめ、し損じておったのか」
Prof.の身体が倍ほどに膨れ上がった気がした。
「大地ぃ、気張れよ」
言った瞬間、Prof.の白雪が水鏡の首を目掛けて走る。
しかしその刃はマサトに掴まれた。
「ヴィランなんざの好きにさせるかよ!」
そしてマサトが拳をProf.に振るう。
それをProf.が両腕で防ぎ、玉砂利の上を滑った。
「なるほど、進歩しておるわ。白藤ではちと荷が重いかもしれんのう……大地、白藤と雫のところへ行け! あと一人おるのじゃろう?」
確かに、華の姿が見えない。そして水鏡たちはさきほど俺と白藤の両方の名前を上げていた。
「わかりました、すぐに戻ります!」
「行かせると思うか?」
踵を返した瞬間、水鏡が回り込んできた。
その速度はこれまでの水鏡の比じゃない。
「どけ」
「お前は俺たちと来るんだ。お前ならリ・ジャスティス様の片腕として」
蹴りは容易く避けられた。
「大地! なぜわからない」
「もうお主はしゃべるでないわ、鬱陶しい」
水鏡の背中に白雪が沈み込んだ。
しかしその背からは血の一滴も噴出さずに終わる。
後ろ髪が引かれた。
Prof.からは相変わらず覇気が発せられている。
しかしそれでも俺は一歩を躊躇う。
「見くびるでないわ。儂はジャスティスを冠するヒーローじゃぞ?」
Prof.は、かか。そう少しだけ笑った。
きっとうじうじしていたらまた後でお説教だろう。ひょっとしたらもう確定かもしれない。
俺は白藤たちがいつも買物へ行く商店街を目指した。
周囲に気配がなくなった瞬間、短く唱える。
「凝着」




