プロローグ
記憶とは華奢で貴いものである。
数年前の出来事は疎か、数日前の献立を思い出すことさえ難儀なことだが、妖しく耀る月光の下に出現した巨人……その中から現れた少女を目視した瞬間、宗光の脳裏にある情景が甦った。
……海があり、水平線があって、そのうえに綺麗な月が浮いている。
浅瀬には純白に煌く少女の裸体があった。月光は決して強くはないが、少女とその周囲が昼の様に明るく、此の世のものではないと宗光は思った。このとき、宗光は八歳の、まだ純然たる子供であった。
全てを想起した時、宗光は彼女の姿を再認識するとともに、自身の変化を一瞬にして悟った。あの時に見た彼女の姿は何ら変化していないのに、自分は経時と共に背丈が伸び、ある程度の教養を得たが、彼女の全貌は相変わらず少女のままで、それが自身の変化に対する認識を一層強めた。
意識は判然とせず、ただ茫然と、神秘的な存在である彼女を見つめていた。彼女の纏っている神秘性の根底にあるのは、人間……生物の道理から外れ、一寸も変わらないところにある。宗光は変化しない彼女に対し、生理的な、本能的な畏怖を感じ、生育概念をもたない彼女に不気味さを覚えた。
少女は巨人から降り、ゆっくりと宗光に逼る。一歩々々、踝のあたりまで伸びた草叢を踏む音とともに距離が詰まり、漸く彼女が何も召していない事に宗光は気付いた。月は宗光の後方にあり、分散する筈の月光は射光を搾り、まるでスポットライトのように少女を照らし続けた。
遂に彼女は眼前に立った。背丈は宗光の胸の高さまで有る。触れなくとも彼女の肌の質感が柔らかく滑らかであることが不思議と分かった。絹糸のような嬋媛とした光沢のある黒い髪は腰のあたりまで伸びている。
風が吹いた。夏の夜に稀に吹く冷風だった。少女の髪が靡くと目の前に天の川が生れたかと錯覚してしまうほどに美しいものが出現した。髪の毛が月光を反照したのだ。
微かに息を吸って、少女はその小さな口を開いた。
「……私は、大変な罪を、犯してしまいました」
科白の終りが近づくにつれ、徐々に早口になり音も籠った。激しい運動をした人と会話をしているようだと宗光は思った。少女はもう一度息を吸い、
「私は、想ってしまったのです。地球……私達の故郷を……」
息せいてはいるが、少女の声は聢と宗光を捉えていた。この時点で、宗光にとって彼女の正体など眇たることで、肝心なのは、彼女がこれから発する言葉に対しての返事である。
「……私は……月から、逃げて……来ました。だから……これから追手がやってくるでしょう。彼らは……地球を……自分達を排斥した地球人を憎み……恨んでいます……」
「排斥って……除け者にしたって事ですか?」
身なりこそ年下の少女だが、佇まいや口調、幻想的な風貌から宗光は咄嗟に恭しい態度をとった。少女は小さく頷いた。彼女が頷くたび、遠くから錫杖の音がきこえるようであった。
「幸い、彼らは、満月の……夜にしか、現れません。この島から……見て、ちょうど満月の晩。彼らは現れます」
呼吸するたびに少女の小さな乳房は共に揺れ、宗光の意識はそこに集中した。唇と比べ淡い色をしているが、まるで薔薇の蕾のような……後天的可能性を充分に秘めていると宗光は確信した。
「……戦うんです。彼らと、この《夜天光》で……」
「夜天光……」
少女の背後で膝をつき、ひっそりと存在する銀灰色の巨人に目を向ける。大きさは一〇メートルを超えるだろう。自分の体つきやそれに乗っていた少女の体つきを鑑みても胴は細く、力強さは感じられないが、少女同様、神秘性を充分に帯びた風貌をもち、潜在的な魅力を宗光は感じ取った。
「夜天光にも、罪があります。だけど、それは……仕方のない事だったんです」
「……質問、いいですか」
宗光の言葉に少女は頷き、シャン……と錫が鳴った。
「貴女の言う、罪ってなんですか。貴女は誰なんです。奴らって……《夜天光》って……戦うって――」
「……これから解ります。宇宙が生まれ、地球が生まれ、生物が生まれた……この世界で生きているのなら――」
少女が最後に言った科白はこれから起こることを予見し、憂慮しているようだった。言葉が終わった途端、彼女の意識はぷつんと途切れ、宗光に身体を預けるように倒れ掛かった。突然の出来事に宗光の右手は彼女の腰を、そして左手は右胸に触れた。目測を上回る感触に初めは感動したものの、暫く彼女の身体と密着しているうちに、彼女の胸の感触が非常に何かと似ている事に気が付いた。掌に収まる乳房……身体中が異様に冷たく、平均的な握力を有する宗光でも容易に握り潰せそうな脆さ……。
「水風船だ……」
志穂が、卯月が好きな水風船と少女の感触が瓜二つなのだ。少女の身体は水風船のように冷たく、柔らかい。だから少女は脆いと云う演繹的推論に宗光が辿り着いたのは言うまでもない。その直後、宗光の心中に妙な正義心が生れた。それは思春期特有の、根拠のない自信にも似ていて自ら陥穽に嵌るような盲目的な産物であるが、命を賭しても救う価値があると宗光は感じた。
気付いたころには《夜天光》はどこかに消え、その分、彼女の身体が重たく感じた。