願わくは、彼の弓となりて
「梓勑」
焦がれつづけた、黒が。目と鼻の先にある。
「あれをいかせたのは、お前か」
濡れ羽色の衣をまとう崇高なる将が、黒々とした瞳を燃えたぎらせて、己を見下す。
「望まれたからね」
端的に答えれば、漆黒の鞘が頬を襲う。微塵の容赦もない一撃に、目の前がゆれた。歯が砕けなかっただけ、加減はされていたのかもしれない。
衝撃で横向いた顔を、ゆっくりと正面にもどして、梓勑は、蟻の王を直視した。
「梏杜――私は、貴方が、ゆるせない」
黒珠のなかに沈む一点の光を、ただ、網膜に焼きつけて。
*
きみがため 外伝
『願わくは、――彼の弓となりて』
*
まだ、吹きすさぶ風に潤いが残っていたころのこと。
重ねの従者がいる、という噂は、またたく間に学内を駆けめぐった。
羽虫のような黄玉の瞳に、流れおちる天虫も顔負けの金糸の髪。かの獣に親しき証と、みなから疎まれる色彩を、ふたつも身にまとって生まれ落ちたのは、なんの因果か。
フォルミーカは、噂の光色持ちに、ただいちどだけ顔を合わせたことがある。
ゾッとするほどに、麗しい少女だった。
眉ひとつ動かさず、闇の御子に黙々とつき従う姿には、異端を感じずにはいられない。
末の王子、ルイス・エドゥアルド殿下だけを視界に入れて、凛とたつ光花。
その姿をみるたび、呪わずにはいられないのだ。――もうすこしだけ早く出会っていたのなら、と。
あれは魔だ、と言いだしたのは誰だったろう。
惚れ惚れとするような宵闇に惹かれて、目を吸い寄せられた者たちは、いやでも、かの存在を意識する。
月光を集めて人の形にしたような、浮世離れした、麗人の姿を。
ルイス殿下は、その圧倒的な存在感で、全校生徒の目を釘付けにしながら、ふとした瞬間に、勝ち誇るように笑っていた。己が従者を、見せつけるように。
まるで、比類なき高貴な存在だけが、飾ることを許された宝珠。
学内に留まらず、広くその噂は巡った。
おどろおどろしくも美しい。
魅入られたらば最期、魂を抜かれて、傀儡となりはてる。
魔性に光り輝く花は、常人の手にはあまる、猛毒を孕んだ棘で武装していた。闇の御子の手だけを受け入れ、闇の御子のとなりにのみ根を下ろす。
まさに、高嶺の花。
*
花束を受けとることすらせずに、かの一対は巣立っていった。正門をくぐっていく背中は、未練など微塵もないと雄弁に語る。振りかえりもしない先達は、潔さというよりも、いっそ別次元の隔たりを感じさせた。
揃いの制服が窮屈にさえみえる、奔放な闇の御子。
男物の制服を違和感なく身にまとう、光色の従者。
手荷物ひとつない身軽な彼らには、まるで、彼らだけに許された特別な目的地が用意されているのでは――と疑わされずにはいられないのだ。
気泡の沈む硝子ごし、かじかんだ指先を滑らせる。古びた鏡面のなか、自嘲を形づくる口の端が、滑稽に歪んでいた。……届かない。
「フォル。なにみてるの?」
いえ、なんでも。とうそぶいて、さりげなく窓の外を隠す。
反転し、背を向けてもなお、フォルミーカの意識は遠くさまよっている。触れることも追うこともできぬまま、ただ想いだけが、揺蕩っている。
上機嫌で笑う女は、なにも気づかずにフォルミーカの腕をとった。艶かしい体温が、厚手の制服を越えて伝わってくる。
「専攻、変えたってきいたけど……」
「ああ、はい。軍属を志望することにしたので」
「どうして? 文官になりたいって言ってたじゃない」
ひとつ年上の彼女の目は、打算で輝いている。
ここもおなじだ。生まれ育った王宮とおなじ、よどんだ湖。
お綺麗なふりをした上澄みには、無数の魔物が巣食っている。
「ルイス殿下が、軍属を希望されたと聞いたので。俺は、あのひとを追うと決めているんです」
構わない。魔物のなかを自由に渡り歩く能力ならば、身につけた。
年老いた国王の末子。憧れた年上の従兄弟を、追いかけて、追いかけて。
そうして生きてきた半生に、いま、密かに感謝する。
「彼が、自ら汚泥に沈むというのなら、俺もまた後に続くのみですよ」
光り輝く花を目印に、暗い闇を追いかける。
そのどちらが真の目的かなどと、つまらぬ問いは、だれにも許さない。
ふぅん、と気のない顔でうなずいた許嫁候補から、そっと右腕をとりかえして、フォル――後の梓勑は、ほくそ笑んだ。
「それに、軍部ならば、俺の相方もみつかるかもしれませんし」
「ああ……貴方の従者、まだ見つからないんだそうね」
おまけのように付けたしたフォルミーカに、名前を思い出せない許嫁候補は気のない声を返した。
「そうですね、……まだ」
蟻の名を背負う己が戴く王は、とうの昔に定められていた。ただひとりに、すべてを捧げて生きる。それがこの地の理であるのならば、認めよう。
王家の血縁にはめずらしく、フォルミーカの背負う業は、従である。しかし、定まった主はいない。外面を意識して、主側の人間のように振舞ってはいるが、フォルミーカが従者をみつける日はこない。
そして、主を戴く日も、また。
フォルミーカは目を閉じて、ほんのつかの間、おなじ箱庭のなかで過ごした麗しの卒業生を、追想した。
*
めずらしく、ただひとりで書を嗜む少女をみかけた。
中庭にぽつりと、腰を下ろして頁をめくる姿。根を下ろした花のように、風にそよぐほかの動きを殺して。
生気がないわけでもないのに、なぜか生々しい存在感はない。生物らしからぬとまでは言わずとも、人間らしからぬ趣きを漂わせている。人形ではない、されど人とも言い難い。
フォルミーカには、やはり、高嶺に咲く花のように見えた。
眼下の景色に興味などはないと、天のみを仰いで揺れる光花。まさに断崖に咲く一輪にも劣らぬ気高さなれど、身のうちに輝きを抱く花は、陽光には焦がれない。代わりに追い求むのは、永久の闇か。
「ひとり?」
声をかけたのは、気まぐれだ。
その当時のフォルミーカにとって彼女は、尊敬する従兄弟の従者というだけの存在で、いわば可もなく不可もなく。ただ、あの従兄弟から執着心を向けられることを、羨ましくも妬ましくも、そして哀れにも思っていた。
――それだけ、だと思いたかった。
「ルイス殿下――じゃなかった、梏杜は?」
書から眼を上げることすらしなかった少女は、主の名を聞いてピタリと手を止めた。
卒業後、軍部の特殊部隊――第七師団への配属が決まった従兄弟は、ひと足早く慣例にならって名を改めた。王族としての名が消えるわけではないが、いまの彼を表す符号は『梏杜』である。それを名づけたのが誰か、フォルミーカは尋ねるまでもなく知っていた。
「……なにか」
ゆっくりと向けられた黄玉のなかへ、フォルミーカの姿が、ひずんで映りこむ。瞬きのたびに色を変える宝玉のような瞳を見て、フォルミーカは思わず息を止めた。
――嗚呼。
一方的に押し流された衝撃が、唇をふるわせる。声も出せないまま、勝手に開きかける口をキッと引き締めて、フォルミーカは軽薄な仮面を被りつづけた。
「梏杜はどうしたの?」
「かならずしも、共にいるわけではありませんので」
温度のない声が、凛と響く。年に似合わず落ちつきはらった物言いに、少女の出生を思いだす。
光色に対する偏見が、とくに強い西のはずれの集落で、死んだように生きていたという。泥の底深く埋れていたその輝きを、幼い梏杜が見いだし、都へと攫った。
それは、フォルミーカが、物心つく以前の話。従兄弟と3つばかり離れたフォルミーカに、彼らの出会いに先んじることはできようはずもなかった。
梏杜が手を伸ばした瞬間、争うことさえ許されず、フォルミーカの運命は決していた。
「そういえば、名前なんだっけ、きみ。有名だから話はよく聞くんだけど、思い出せなくってさ」
しれっと話題を変えれば、少女は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「――ません」
「ん? なんだって?」
「ありません」
いまにも腰をあげそうな雰囲気ながら、機械的な口調は嘘を言っているようにも思えない。フォルミーカは困惑して、さらに問うた。
「いや、そんなことないだろ。神名は?」
「捨てました」
「じゃあ、なんて呼ばれてんの」
「……忌み子?」
思わず、ため息が漏れる。
戸惑い半分、あきれ半分。ゆがんだ梓勑の表情を見て、やはり少女は淡々と答えた。
「そんな顔をされても。面と向かって私を呼ぶ者はおりませんから、不自由ありませんが」
「いるよ、ここに」
「初対面で、魔の使いだのと罵ってきたクソ餓鬼ならいますね」
冷え冷えとした一瞥を、フォルミーカは肩をすくめて受けながした。
言ったかもしれない。罵ったつもりはないけれど、なにせ最初の邂逅は、まったく記憶に残っていないのだから。
出会った衝撃だけが、鮮烈に焼きついている。
熱に浮かされて、一体なにを口走ったのか。フォルミーカ自身にはわからない。
たぶんきっと、否定した。彼女の存在を、自分の心を、否定せずにはいられなかっただろう。受け入れる覚悟なんてないから。
――いまでさえも、ないのだから。
「イミゴとか呼びづらいのじゃなくて、適当につけていい?」
気づいていた。
本当は、とっくに。
「貴方と話すのは、調子が狂う」
とまどったように眉尻を下げた、その顔を見るまでもなく。
気づいていたのだ。
認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。
……けれど。
フォルミーカは、ぐっと歯を食いしばって、柔和な笑みを形づくった。
「光栄だね、光を帯びた者」
「なにやら昇格していませんか?」
構いませんけれど、とため息を吐いた少女は、広げていた書を抱えて、そのまま中庭を立ち去ってしまった。
呼びとめることは、できない。
フォルミーカは、なにも言わずに、ただ眼を細めて背中を見送る。勝敗は決していた。出会う前から、決していた。完全な形に収まった一対を前に、どんな横槍が許されただろう。
越えられない背中。届かない声。フォルミーカは、おなじ土俵にすら立てず、一生見送りつづけるのだろう。気づかれることすらないままに。
なんと呪わしい。
嗚呼。
いっそ、壊してしまえたらよかったのに。
「なんで……よりにもよって、梏杜の」
それが、在学中、最後にして唯一の会話だった。
*
魂は叫びつづけていた。
それはない、と幾度否定しようとも。
梓勑の意思などかえりみず、残酷に泣き叫ぶ。
あの光花こそ、――己が主たる者だと。
*
「貴方に、なりたかった」
最期まで見せずにおこうと思った心も、隠す相手は最早ない。理由を失った錠は簡単に腐り落ちて、たまりに溜まった願望が、流れだす。
「貴方になりたかったんだ、ずっと……!」
掠れた声で、くりかえした叫びは、まごうことなき本心だった。
憧れた。
追いかけた。
けれど、それ以上に、妬ましかった。
恨めもせず。
憎めもせず。
認めざるを得ない背中に、焦がれた。
燃えあがるのではないかというほど、焦がれつづけた。おなじ高みに登ることなどできずとも、ほんの少しでも、近くへ、近くへと。
願って。望んで。
――届きはしないまま。
「数百年に一度とさえ言われる奇妙な縁を、よくも引き当てたものだ」
歯を食いしばる梓勑を見て、闇の御子と称えられる男は、スゥと眼を細めた。
「お前もまた、哀れな」
せめて、あれの主が俺でなければ、正当に寄り添うこともできたろうに――と、微塵の憐憫もふくまない冷徹なまなざしで、梏杜は言う。
「皮肉はいらない……」
誰よりも早く光花を見いだし、迷うことなく手中に収めた男。楔づけられた不可視の鎖を、年端もいかぬうちから強引に引き寄せ、見せびらかすように拘束を固めていった。
その執着の強さを、梓勑は肌で知っている。
「貴方の欲に、幾度阻まれたかもわからない。貴方でさえなければ、いかなる高嶺であろうと、手を伸ばすこともできたのに」
すべてを手にしたような顔をしながら、その実、彼が固く握りこんでいたものは、ただひとつ。籠に収めることもなく、ひけらかしながら、梏杜の眼は常に語っていた。これは俺のものだ、と。
――地上にありながら、あれほど高くに根を下ろした花を、梓勑は他に知らない。
学園を卒業して以来、彼女の側にたどり着くため、ありとあらゆる手段を講じた。三年遅れて軍部にもぐりこんだ梓勑は、王家に連なる血と、きたる日のために磨いた能力でもって登りつめ、待ちつづけた。光色というハンデを背負った主が、高みに座るときを。
彼女が望む地位は、ただひとつ。わかりきったその椅子を温めつづけ、およそ一年前、ようやく待ち焦がれた瞬間は訪れた。
しかし、梏杜は許さなかった。
役目を終えた梓勑が、尚も彼女の傍近く留まることを、許さなかった。
所有欲などでは飽き足らぬ。紛れもない独占欲でもって、梏杜は、梓勑の存在を弾きだした。それは、歯牙にもかけず飄々と先をいくばかりであった梏杜が、始めて梓勑という存在を認識した瞬間でもあった。
結果、側に侍ること叶わずとも。土俵に立つことさえ許されず、不条理な不戦敗を喫してきた梓勑にとって、相対することに意味があった。たとえ勝てぬとわかっていても、だ。
梏杜であればこそ。幼少から見上げつづけた従兄弟であればこそ。
梓勑は溜飲を下げ、一歩引いた場所から、かの主従を支える宿命を受け入れたのだ。
そう、一度は受け入れた。諦めの悪い悲痛な叫びに耳を塞いで、闇に沿うように咲き誇る光花を、見つめてきた。……なのに。
「なぜ、いかせた。みすみす散らせた。世にふたつとない至高の花を!」
梓勑は、慟哭した。
被りつづけてきた巨大な猫をかなぐり捨てて、『主』の『主』にあたる男の襟首をつかみ、引き寄せる。
「私には止められない。止められようはずもない。彼の方に望まれたのなら、いかなる願いであれど、叶えずには――!」
己を殺してまでも、梓勑は、彼女の望みを叶えることを選んだ。
――それが、梓勑の負う、従者としての性だった。
噛み殺しても、噛み殺しても、やりきれない心が湧き上がり、思考を蝕んでいく。二番手でもその他大勢でも構わなかった。彼女の世界に己が入ってはいないことなど、知っていた。内に入れずとも、せめて、近くに、と。それだけを願ってきたのに。
梓勑の手には、なにも残らない。
欲したすべては、この男が、攫っていった。
首もとで震える梓勑の拳を、色の無い瞳が見下ろす。わかっている。その気になれば、簡単に振り払えるであろうに、あえて捨ておかれているのだろう。
妬ましくて、妬ましくて、たまらない。なぜ、よりにもよって、希代の将が相手なのか。隔たりが深すぎて憎めもしない。ただ、妬ましく、やりきれない。
「……あれは、計算高い」
梏杜は、静かにうなった。
「己の散り際を、冷静に見定めていった。俺の行動も、地龍の行動も、みな、予測した上で、地の底へと降りた」
「望んで死んだとでも? だれよりも、他ならぬ貴方の側にありたいと願いつづけた、彼女が?」
鼻で笑いかけた梓勑の手首を、いつしか手袋を嵌めなくなった梏杜の手が、固く握る。しびれた手から力が抜けて、あっという間に引きはがされた。
梏杜は、片手に長剣を握ったまま、利き手ではない右手ひとつで、梓勑をたやすく抑え込んだ。仮にも一端の武官である梓勑を、である。バケモノじみているというよりも、いっそ人の枠を外れている。この王弟を測るには、常識的な物差しではとても足りない。
歯列から漏れだす苦悶の声を、梓勑は、なんとか呑みくだした。
「忌み子は、地龍を鎮めえる唯一の存在だ。絶望であるとともに希望。正式に交戦が始まれば、求められるであろう立場を、あれは誰よりも知っていた。国の駒として利用され果てるくらいならば、たとえ生国を道連れにしようとも、俺のモノとして散ることを選んだ」
梏杜は、くつりと喉をならした。
「――笑えるほどにいじらしい話だろう?」
艶然と口の端を吊り上げて、梏杜は嗤う。
息を呑んだ梓勑を、払いのけるように解放すると、彼はようやく長剣を腰に携えた。
投げだされた勢いで膝をついた梓勑は、うつむき、天鵞絨を睨み据えながら、自嘲する。
嗚呼、これだから呪わしいのだ。届かないと思いしらされる。なんどでも、容赦なく、突きつけられる。
「珠光は、そういう人間だ。己が目的のためならば、いかなるものでも犠牲にできる。持たざる者は強いな」
「あの方を持たざる者にしたのは、他ならぬ貴方だろう」
こと従者に関しては、第七師団を預かる蟻の王は、あまりにも偏狭だ。かの花が失われた今でさえも、羽虫の牽制を抜からない。
たまらず毒づいた梓勑を、梏杜は一言であしらった。
「ああ」
迷いなく肯定した梏杜は、眼を細めて、唇を噛む梓勑を見下ろした。
「手を差しのべたことを後悔したことなど、一度もない。だが、……もし俺に出会わなければ、まるでちがう生が、あれには用意されていたのだろう」
わずかな寂寥を含む声は、総毛立つような優しさを湛えていた。柔らかい声色の裏に、背反した感情が見え隠れする。もしも、などと、万が一にも認めるつもりはないくせに。そんな隙があったのなら、とうの昔に梓勑は本懐を遂げていた。その程度の執着心であったならば。
しかし、梓勑とて、わかっていた。
「すべての因果が帰結する先。まさに運命の子のように生まれ落ちた、あの花は、――梏杜、貴方を選びとったんだ。自ら望んで、囚われた。……それがわかっているから、私は」
手出しすることができない。すべて受け入れるしかない。いやになるほどわかっている。
彼女は、与えられることを、望んではいなかった。むしろ、容赦なく周囲を削ぎ落としていく梏杜の執着を、楽しんでさえいた。――より深く、執着していたのは、きっと。
ギッと歯を食いしばって、梓勑は視線を持ちあげた。そりゃあ、わかるさ。逃れ得ぬ血脈に囚われて、間近で見せつけられてきたんだ。彼女に、珠光に出会う前から、ずっと追いつづけてきた。
ルイス=エドゥアルド。
先王の末子であり、梓勑――フォルミーカにとっては、もっとも年の近い親族だった。
学園を出てすぐ、迷わず第七師団の門戸を叩いたのは、誰よりも彼の能力を知っていたからこそだ。珠光の件を差し引いても尚余りあるほどに、惹かれていた。
奔放で、傲慢で、不遜な闇の御子に、心酔し、膝をついた多くの男たちとおなじように。盲目的な崇拝とまではいかずとも、梓勑にとっても、心底惚れこみ、戴いた王であることは変わらない。
……変えられない。
焦がれて。焦がれて。焦がれて。焦がれて。
――いまでも。
梓勑にとって、梏杜は、従兄弟である前に主君であり、忌むべき競合者であり、決して越えられぬ壁でもあった。
さまざまな要因から複雑にゆがんだ憧憬が、梓勑のなかには深く根づいている。あるいは、彼を主に定められたのなら、これほど苦しむことなどなかっただろうか。
――梏杜でさえなければ。
何百、何千と唱えてきた呪言。
――梏杜であったからこそ。
珠光が北領へ赴くと聞いた日、梓勑にできたのは、せめて彼女が動きやすいようにと、未熟な隊員を傍につけることだけだった。
年端もいかぬ若者を、最前線になるであろう死地に送ることには、それなりの罪悪感を抱いた。しかし梓勑にとって、最も優先されるべきは、彼女の望みに他ならなかった。
梏杜の眼をごまかし、都へとどめてまで、彼女をいかせた。望まれたからだ。それが、彼女の望みだと、わかっていたからだ。
梓勑を見下げる梏杜のまなざしが、ふと色を変えた。
「なあ、梓勑。主を得損ねた至高の弓よ。――龍を、狩りたくはないか」
龍を。梓勑は、掠れた声で反復した。
「忌々しいケモノを貫いて、お前が戴くべき光を、その一片を喰らった不届き者を、悠久の眠りの底に落としてやりたくはないか」
フッと、梏杜は、不気味なほど柔和な笑みを浮かべた。
「――俺は、狩るぞ」
声なき声が、聞こえてくるかのようだった。
なにを差し出そうとも、もはや構わぬ。たとえその先に未来がないとしても、俺の望むものは、存在し得ぬのだから――と。
瞳の中。猛々しく燃えさかる炎が、その全身で悲哀と憤怒を表す。さりとて、ただで踏み消されるつもりは毛頭ないと、牙を剥く様が、ありありと眼に浮かぶようだ。
人の身で地龍を狩る、などと、あまりにもおこがましい冒涜だ。絵巻物の英雄譚でさえ、神に等しきケモノを殺そうとなどしない。
仮にも王族の末席に属する者として、侵してはならぬ愚行、……だとしても。
「私、とて」
もはやこの世に、なんの未練があろうか。
お前はどうする? と無言で問いかける梏杜の前に、梓勑は姿勢を改めて、跪いた。
「私は、弓となることを選んだ蟻。貴方を置いて、戴く王などほかにない」
馬鹿なことをしていると、理性は叫んでいるのに、不思議と負けるとは思えない。あるいは、梏杜自身、死を望んでいるのやもしれないとも考えた。だが、それでも、彼が倒れる様は浮かばないのだ。
梏杜が立ち続けるかぎり、第七師団に負けはない。
「着いていくさ、貴方が『光』を手放さないかぎり」
彼女の影があるのなら、どこまででも追っていく。
先に待つのが、絶望でも、荒廃でも、構わない。ともに地の底へ。そして光を騙る憎きケモノを、覚めぬ夢のなかへと落としてやろう。
所詮は、同じ穴の狢。
こんなところにばかり血のつながりを感じて、梓勑は失笑した。
焦がれたのは、闇の底深く根づいた光。
望んだ場所に根を下ろし、咲き誇る。
――触れることさえ叶わぬ、孤高の花。




