深く息を吐く
どうにもならない、モヤモヤとしたこの気持ち。どうしてくれようか。いったいどうしたら、こんなに強く揺さぶられることなく、大切にしまっておけるのだろう――。
***
「なあ、藤岡。なんでため息ばっかついてんだよ。もしかして俺と飲むの、つまんねーか?」
「え?」と思って顔を上げると、中納のしかめっ面が目に入った。戸惑い、言葉を失う。理由なんか言えない。ため息の原因はコイツなんだもの。
すると、一人合点がいったように「ああ、わかったぞ」と中納がつぶやいた。「仕事でヘマをやったんだろう。おまえ昔っからドジッ子だもんなあ」
また悪いクセが出てる。学生時代とちっとも変わってない、早とちりな性格の彼。
「うん、まあ、そんなとこ。実は、仕入れの数を間違えちゃってさあ。怒られちゃった」
それでも、彼に合わせて「あはは」と笑っておいた。わたしの務めている雑貨店は、就職して三年目になる。いくらドジッ子のわたしでも、そこまでひどくない。ドジを踏んでばかりいたら、とっくの昔にクビになっていてもおかしくないっていうのに。本当にわたしのこと、わかってないんだなあ。
「やっぱそうかー。相変わらずだなー、おまえは」
むかつくことに、彼の中では、わたしはずっと昔のままであるらしい。彼は安心したかのように頷くと、美味しそうにビールを飲んだ。ごくごくと飲むたびに動く喉仏が、なんだか滑稽だ。
「あ~、おなか空いた。わたしも食べようっと」
パキッと箸を割って、おでんの大根に箸を入れる。なんの手ごたえもなく、スッと二つに分かれた。しっかりと味わう前に、それは喉の奥へと消えてしまった。
仕事が終わって、「さあ、帰ろうか」というタイミングで着信音が鳴ったので、彼からのメールだとすぐにわかった。『ヒマだったら、飲みに行かないか』見るまでもない、いつものお誘いの文句だ。
本当はレンタルビデオ店に寄るつもりだったのだけど、とくんと心臓が急に走り出す。気づいたら、指が勝手にOKの返信を打ち込んでいた。
こんな自分を本当にバカだなと思う。彼がわたしを誘うのは、彼女とケンカをしてうまくいっていないとき。彼にとってわたしは、気心の知れた女友達としての意味しかないのだ。その証拠にわたしたちの会う場所は、いつも駅前にあるさびれた居酒屋だ。
そのせいかな。食べても飲んでも、いつまでも満たされない気分のままなのは。機嫌よく酔ったような顔をして見せるけれど、わたしは彼の前では一度も酔ったことがない。
だらだら飲むのに飽きたと中納が言うので、居酒屋を出てブラブラ歩くことにした。
「ねえ、どこ歩くー?」
「う~ん、適当」
駅前から数十分歩いたところに、わたしたちの住む町がある。この辺りは、中途半端な街並みだ。ほどよく都会で、ほどよく田舎。住民は多いけれど、ちょっとした川が流れているから、その川筋に沿って町が開発されている。家に帰るには、川の上を通る短い橋を渡らなければならない。
川の流れは穏やかだ。橋の街灯の明かりが落ちて、きらきらと小さく水面が光っている。
「夜っていいね。昼間とは、ぜんぜん違って見える」
「そうだな。違ってるよな」
わたしたちはのんびり歩きながら、気軽におしゃべりをした。家で飼っていたメダカのこと、胡椒をかけすぎて失敗したナポリタンのこと、カラオケで九十八点とったこと。特別面白い話じゃないのに、なぜか中納がよく笑ってくれるから、頭に浮かんだ話にウソを織り交ぜて話し続けた。
そういえば中学のとき、帰る方向が一緒だったから、部活の終わった後こうして二人で話しながら歩いたっけ。
中納が昔みたいにパンツのポケットに両手を突っこんで、足を前へ投げ出すようにして歩く。わたしもきっと昔と同じ顔をして、彼を見つめていることだろう。モヤモヤとした気持ちを悟られないように、じっと息をひそめながら。
思い出せるのは、二人で歩いた夜道。今日と同じ夜の月だ。
見あげると、今夜も細い月が青白く光っている。夜空に引っかかって、すべり落ちそうになりながらも何とかぶら下がっているように見えるのは、わたしの目に映る月だけだろうか。
あれから、たくさんの時が過ぎてしまった。すべてが過ぎ去って、遠くへ行ってしまった。いくらやり直したくても、もう二度と戻ることはできない――。
いきなり「ストップ」と言って、中納が立ち止まった。
「どうしたの?」と横から声をかける。彼は嬉しそうに指をさした。
「ああ、あれ。学校だ。まだ明かりがついてるよ。たぶん廊下の非常灯なんだろうな」
彼が指をさした方向を見たら、向かい合わせになったマンションとコンビニの間に狭い道路があった。その道路の突き当りになっているところに、固く閉ざされた校門と高くそびえる四角い影。ぽつん、ぽつんと、いくつかの窓に明かりが灯っている。彼の言ったとおり、わたしたちの通っていた中学校の校舎が健在だった。もっともあのころはコンビニなんかなくて、四方八方を田畑に囲まれていたけれど。
「懐かしいなあ」
「懐かしいね」
わたしと中納は、二人そろって声を出した。
この角度から見える校舎は、一年生の教室があったところだ。夏の暑いときは窓を開け放して風を感じながら、冬の寒いときは日向ぼっこをしながら、いつ果てるともないおしゃべりをした。先生の悪口や昨日見たテレビの話、気になる男子の話なんかも。
中納も当時のことを思い出したのだろう。「くくっ」という笑い声を立てた。
「そういえば、こんなことあったの覚えてる? 授業中カエルの鳴き声がうるさくてさ、数学の谷の青筋がピクピクって。俺席が近くだったから、笑いを抑えるのに必死だった」
「あ、覚えてる。説明しようとしたら、ゲロゲロって邪魔されたんだよね。ずっと鳴き声が止まなくて、先生変な顔をしてた。可笑しかったなあ」
「いろいろあったけど、なんだかんだ言ったって、あのころが一番楽しかった気がする」
「うん、そうだね。わたしも」
奇妙な感覚がして、密かに驚いた。わたしたちは別々の意志を持った違う人間だ。それなのに、頭の中から引っ張り出した記憶は同じだったから。もし実際に確かめることができるとしたら、その手触りや匂いさえも同じなんじゃないだろうか。地球上に何十億といる人々の中で、思い出を共有できるなんて、すごい奇跡だ。
「そうそう、知ってるか? 瀬古のヤツ、結婚するんだぜ。しかも、子供まで生まれるんだってさ」
「ええ~、本当? あの聡くんが? 一児のパパに~?」
「あれ、知らなかったのか? 瀬古の母ちゃんとおまえの母ちゃん、イトコ同士じゃなかったっけ」
「うん、そうだけど。最近仕事が忙しくて、聡くんと会ってないんだもん。今度電話かメールで聞いてみるよ。フフフ、冷かさなくっちゃ」
じん、と何かが湧き上がってくる。今わたしの隣にいる人は、あのころと変わらずにわたしの好きな人だ。友達のフリをしてまでも、ずっと傍にいたいと思っている愛しい人。だけど、彼の温もりも記憶も全部、わたしのものじゃない。忘れてはいけない。
夜空に浮かぶ細い月。夜道を吹き抜ける風。月に照らされた彼の青白い頬。そして、わたし。
もしかしたら、わたしのものは、今この瞬間につくられようとしている思い出だけなのかもしれない。失うものがあって得られるものがあるように、失いたくないもののために諦めなくちゃいけいないものだってあるはずだ。そう信じたい。信じたいのだけど。
深く深く息を吐く。
それなのに、どうにもならない、この気持ち。どうしてくれようか。いったいどうしたら、こんなに強く揺さぶられることなく、大切にしまっておけるのだろう――。
「藤岡?」
何も知らない彼が首を傾げた。「別に」と、わたしは答える。
「なんだよ、それ。返事になってないじゃん」
「だって、なんでもないんだもん」
「おまえなあ、それが人に向かって言う態度かよ」
彼は怒って熱くなったけれど、それでよかった。
今はまだ、彼を失って平気でいられる自信が、わたしにはない。
***
『光陰矢のごとし』と昔の人はよく気づいてくれたもので、本当にあっという間に時がたった。中納と一緒に飲んだ日から何週間かが過ぎた。アイツは彼女と仲直りが出来たのだろうか。電話はおろか、メールひとつ寄こさない。
わたしの方はというと、大きな失敗もなく、仕事も順調で、売り上げもまずまず。忙しいけれど充実した日々を送っていた。彼のことは頭の隅にあったものの、こちらには関係のないことだ。またそのうち、いつものようにメールが来るだろう。
こちらがあきれ返るぐらい、あっけらかんとした顔で、『飲みに行こうぜ!』と誘ってくるに違いない。心配してあげても杞憂に終わると悔しいし、連絡が来るのを待っていたと思われるのも癪に障るので、わたしの方から連絡をしないで放っておくことに決めた。
ところが、そう決意した矢先に彼から連絡が来た。すっかり夜が更けて、そろそろ寝ようかとベッドに入ったそのとき携帯の音が鳴ったのだ。それもメールの着信メロディではなく、電話の呼び出し音で。
慌ててベッドから飛び起きると、携帯を手に取った。中納の名前がディスプレイに表示されていることを確認してから、電話に出る。
「どうしたの中納、こんな時間に。何かあったの?」
どこで電話をしているのだろう。電話の向こうはシンとして、やけに静かだ。街の中だったら、車のエンジン音や人の声など少しぐらい聞こえきてもよさそうなのに。やたらと自分の声が、夜の空気に大きく響いているようで、空っぽの空間に向かって話しかけているような気がする。
一秒、二秒、どのくらいたったのか。沈黙が続く。
「まさか、寝ているんじゃないよね」と思い始めたとき、ゴクリとつばを飲み込んだような音がした。
『んん~、藤岡ちゃん元気~? 俺はいつだって元気ッスよ~』
次に聞こえてきたのは、ふざけた調子の声。
「ええっ、ひょっとして……酔っ払ってるの?」
なんだか様子がおかしい。相当な量のお酒を飲んだらしく、今の声はろれつが回っていない感じだった。酔った勢いで、電話をしてきただけならいいのだけど。そうじゃなくて、彼の身に何かが起きて、やけっぱちになっているんだとしたら……。
どうやってたしなめようかと言葉を探しながら、部屋の時計を見た。夜中の一時をとっくに過ぎている。こんな遅い時間に非常識なことをするなんて、長い付き合いの中で、たぶん今回が初めてだ。どうしたらいいんだろう。
とにかく、彼を一人にしておくのは危険だ。最悪タクシーを呼んで、迎えに行った方がいいかもしれない。
「ねえ、ちょっと! 大丈夫なの? 中納、今どこから電話して――」
窓ガラスに何かが当たってコツンといった。
『ここ。おまえんちの前だよ、ま・え!』
――へ?
彼がそう答えた瞬間、わたしはベッドから降りて窓際へ走った。カーテンをつかんで開ける。窓の下を見おろしたら、わたしの家の前にポツンとたたずむ人影があった。小石のようなものを真上に放り投げては、片手でキャッチしている。何度も同じ動作を繰り返していた。さっき窓ガラスにあたったのは、あれと同じ石つぶてなのだろう。
「な、中納? そこにいるの、中納なの?」
携帯を耳に強くあてがい、人影に向かって呼びかけた。すると、その人影の右手がフラフラと上がり、わたしに応えたのだ。
――もう、あのバカ!
「ちょっと、そこでジッとしてて。すぐに行くから!」
部屋を出て、階下に眠る両親を起こさないよう、静かに階段を下りる。
玄関へ向かうあいだに流れる時間さえ、もどかしい。
どうか彼が消えていなくなりませんように。ただ、それだけを祈った。
突っかけを履いて外に出ると、寒そうに肩をさすりながら中納が待っていた。今は十一月。秋とはいえ、夜になると寒い。なのに、彼は上着を着ていなかった。会社帰りなのか現場用の青い作業着姿だ。『現場は暑いから、未だに夏物の薄い作業着で仕事しているんだ』と、前に言ってたっけ。無謀にも、その格好で飲みに出かけたらしい。
「小さいけれど、ないよりはイイよね。誰も見ていないだろうし」
パーカーを脱いで、わたしの頭より高い位置にある彼の肩に掛けた。小さすぎて、ちんちくりん。申し訳ない程度にしか体を覆うことができない。ちょっと笑える。
けれども、いささか寒さをしのぐのに役立ったらしく、中納はパーカーの生地を前にかき寄せると、安堵のため息をついた。
「おお、サンキュ。助かるよ」
照れくさそうに笑う中納の顔が、街灯の薄明かりの下に見えた。光が弱っているようで、蛍光灯がチカチカと点滅する。
ホッとしたら力が抜けて、今度は膝がガクガクと震えてしまった。
「いい年こいて、何やってんの。らしくないことをして、よけいな心配をかけさせないで」
思いがけず膝の震えがひどかったから、終いには唇にまで震えが伝わった。ガチガチと歯を鳴らしてしまいそうなほどだ。
「ああ、迷惑になると思ったんだけどさ。ちょっとぐらい、いいかなと思って」
たいていの男がそうであるように、中納は面倒くさそうに説明した。
震える声をごまかそうとして、わたしは思わず大きな声でさけんだ。
「バカ!」
気付いたら自然と手が動いて、彼の背中を思いっきりバシンと叩いていた。
「いって……! イテ! 何すんだよっ」
中納は飛び上がって後ずさりした。よほど痛かったのだと思う。だけど、そう簡単に終わらせることはできない。
「よかったじゃん。痛いってことは生きてる、ってことなんだから。ほら、もっとシャキッとして。ちゃんとしてよ」
いくら叩いても、まだ叩き足りない。休むことなく、右と左交互に腕を振り下ろした。彼の固い背中にこぶしをぶつける。わたしの手もジンジンとして痛い。
酔っ払って電話してきたうえに、家にまで押しかけて来るなんて。昔からやんちゃでお調子者なところがあったけれど、大人になってからはなりを潜めていたから、すっかり忘れていた。だからこそ、彼の非常識な行動の裏側にどんな理由が隠されているのか、知るのがとても怖いのだ。
「ゴメン、謝るよ。俺が悪かったって。もう二度としないってば」
わたしに背を向けたまま顔だけふり向き、中納は戸惑っているような顔をした。泣いているのか、笑っているのか、わからないぐらい情けない顔。酔いはすっかり醒めたようだ。
――ほんとにバカなヤツ。
女から暴力を受けているというのに、されるままになっているなんて。ほんのちょっと力を出して、わたしの横っ面を引っ叩けばそれで済むのに。
けれども、わたしは、彼がそんなことをしないのを知っている。わたしがいくら怒って責めても、彼は今まで一度も手をあげたことがないのだから。きっと彼女には、もっと優しくしてあげているのだろう。
彼を望んでいるわけじゃない。
彼を奪おうとしているつもりでもない。
ただ、失いたくないだけだ。
「わたしたち、もう大人なんだよ。いつまでも子供みたいなこと、やっていられないんだから」
どうしたら彼は、わたしという女をわかってくれるのだろうか。二人で歩いて帰ったあの月夜をスクラップみたいに切り取って、ずっと大切にしたいと思っているだけなのに。こんなふうにわたしを訪ねてきたら、胸の奥にしまい込んだ思いを、すべてあふれさせてしまう。
「本当にわかってるの? 本当に――」
全部言い終わる前に、彼の背中が急に前へ引いた。右手こぶしが空振りに終わる。行き先を失ったこぶしが、大きくて冷たい手によって包まれた。
浮き上がった太い筋がごつごつしている、大人の男の人の手だった。指も太くて、わたしのより長い。武骨な美しさと優しさを兼ね備えている。
ギュッと握りしめられた手の力に圧倒されて、わたしは黙り込んでしまった。
「俺ってバカだよな。もっと早くこうすればよかったよ」
中納がぽつりとつぶやくように言った。さらに強く手に力が入る。とたんに、パンと胸の中の何かが弾けたような気がして、自分が何をやっているのかわからなくなった。
「昔、部活の帰り道、二人で歩いてた時さ。おまえ歩くの遅すぎて、何度こうして手をつかもうと思ったか。俺がそんな下心持っていたこと、ぜんぜん知らなかっただろう」
「うん。うん、知らなかった……」
「今さらこんなことを言うのは、卑怯だと思われるかもしれないけれど、おまえのことかなり気に入ってたんだぜ。だけどさ、俺やんちゃやってたから、ダメだと思ったんだ。藤岡は、俺にはもったいなさすぎるんだよ。俺じゃ、ダメなんだと思う」
頬に風があたる。前髪が揺れている。ゆるゆると秋の風が吹かれながら、空を仰いだ。縹色の空に、細く光る月がのぼっている。
「今でも思い出すんだ。もし、あのとき、おまえの手をにぎっていたら、俺たちどうなっていたんだろうって」
ゆっくりと話す彼の声が、夜の闇に消えていった。
「そんなこと、わたしにだってわかんないよ」
「でも、これだけは本当だ。おまえは、俺なんかが手を出せないぐらい、他の誰よりも大切な女の子だったよ」
中納の方に視線を移したら、彼は笑っていた。泣きたいのを我慢しているような、寂しいのを諦めているような、曖昧な微笑み。
フラリと足が動いて、頭が彼の肩に触れた。背中にまわった彼の腕に抱き寄せられて、胸のぬくもりを感じる。
どちらからともなく顔を寄せ合い、わたしたちはキスをした。一秒にも満たない、軽く唇が触れるだけのささやかなキスだったけれど。それでも、わたしにとっては十分すぎるぐらい幸せで満ち足りたものだった。
***
エンドロールを最後まで見終わってから、映画館を出た。外に出たら、太陽の光がとても眩しくて仕方なかった。目をゴシゴシとこする。そっと目を開けたら、彼のものとよく似た背中を雑踏の中に見つけた。
――あ!
心の中で彼じゃないと思いつつ、走り出さずにはいられなかった。角を曲がって行った背中を追いかける。
遅れてわたしも角を曲がったのだけれど、やっぱり求めていた姿はなかった。気のせいだったのか、見失ってしまったのか。もしかしたら、その両方なのかもしれない。
「急に走り出したから、びっくりしたよ」
ふいに声をかけられて、ふり向いた。駆けてきた吉田さんが、息を切らし立っている。そこで、吉田さんを置き去りにしてきたことにようやく気づいた。
「わたしったら……ごめんなさい。つい夢中になっちゃった」
「いいよ、別に。気にしていないから。僕を忘れたんだから、よっぽどワケがあったんだろう?」
「ちょうど知っている人を見かけたの。ずっと会っていないから思わず……でも、ちがってた」
「そうか、残念だったね。僕にも、そういうときがあるよ。元気だったら、きっとどこかでばったり会えるさ」
わたしと吉田さんは、仕事先の関係で紹介されて知り合った仲だ。デートは、これで三回目。交際は、まだ一か月にしかならないけれど、お互いの性格や好きなものなどを学び合い、絆をつくっているところだ。いつのまにか穏やかに流れる彼との時間が大切になっていた。好きすぎて、いっぱいいっぱいだった初恋と比べたら、ウソみたいに余裕まである。
「藤岡さんは、SNSとかやらないの? どうしても消息を知りたかったら、検索するって手もあるけど」
「ううん。そこまではしたくないの。会えるときは、きっと嫌でも会えると思うし」
「いいね、そういうの。僕は好きだよ。なんか運命的って感じだね」
吉田さんは、聞いていて恥ずかしくなることを真顔で言う。それが耳に心地よく響いて、妙にくすぐったい。
前の泣きたくなるような恋とは、まるで正反対の恋だ。
何年も引きずっていた初恋とさよならをしたあの日――中納と最初で最後のキスをかわした夜から一週間後、わたしは彼にメールを送った。『貸してあげたパーカーは、返さなくていいです』と、たった一文だけ。あとになって、中納の事情を聡くんから聞かされたからだ。彼とのあいだに授かった子供を、彼女が流産したらしい。
『でも、これだけは本当だ。おまえは、俺なんかが手を出せないぐらい、他の誰よりも大切な女の子だったよ』
それに彼の本心を聞けたから、これで終わりにしようと思った。彼への思いを断ち切ることにしたのだ。
やがて、わたしも吉田さんと結ばれることになるだろう。二人によく似た子供が何人か生まれて、一緒に老いていけたらと願っている。だけど、中納のことはきっと忘れないと思う。思い出して、深く息を吐くことがあっても。
「今日はあったかいな。小春日和だ。影がはっきりしている」
吉田さんの言葉に促されて、足元を見た。やわらかな日差しが降り注いだアスファルトには、縹色の空よりもずっと濃い二つの影が落ちている。
「そうだね。あったかくて気持ちがいいね」
彼を見上げて、わたしが答えると、吉田さんはわたしの隣に来た。慰めるようにピタリと腕と腕をくっつける。彼の優しさがじんわりと胸に染み渡った。
「行こうか、おなかがすいただろう」
「駅前に新しいカフェができたんだって。そっちに行ってみない?」
その腕に自分の手を絡ませて、わたしたちは歩き出した。今度は、きっとこの腕を離さない。
(END)
読んでくださってありがとうございました!