僕ノ想いヨリ
——日本読者向け・背景説明
一九四九年、中国。民国三十八年、秋。
中国大陸では国共内戦が最終局面を迎えていた。中国国民党を中心とする国民政府とその軍隊——国民党軍は敗退を重ね、南方の都市・広州へ追い込まれていた。やがて多くの軍人や関係者が、台湾へ渡っていく。
広州に住む少年・宋汐涛には、国民党軍の中尉である兄・宋思連がいた。
兄は弟に言う。
「明後日、少し出張するんだ。何ヶ月かかるかもしれない」
だが、それは本当の意味での出張ではない。軍とともに戦場へ向かうか、あるいは台湾へ撤退するか。どちらにせよ、帰れる保証はどこにもない。
兄が弟に残したのは、一鉢の花だった。西洋から取り寄せたアジサイ、「無尽夏」。夏の間ずっと咲き続けるというその花は、青は晴れ空のように、白は新雪のように、赤レンガの台の上で静かに咲いている。
無尽夏——その名には「夏」がある。
けれど、「帰」はない。
これは、帰らぬ人を待ち続ける、雨の降らない夏の物語である。
雨がまた、糸のように降りそそぐ。そこにいるはずの人は、もうどこにもいない。風に吹かれるままに——想いを散らし、自分さえも吹き飛ばして……
赤レンガで積まれた小さな台の上では、以前一尺も積もっていた塵が、風に連れられて歩いたかのように、跡形もなく消えていた。その代わりに現れたのは、深い青に純白の混じった花の鉢。枝葉は緑に満ち、小さな水滴がいくつか付いている。石畳の小道には、点々と苔が生えている。
空が少し明るくなり、水滴もかなり減った。
花の色に染まった露が、人の世の営みを透かして見せる。広州の市場の通りでは、行商人たちが口々に声を張り上げ、どうしてよいか分からなくなる。子どもたちが路地で遊んでいる。そこへ、清秀な顔立ちがひとつ加わる。
それは宋汐涛。国民学校の生徒だった。彼は机に伏せて少しうたた寝をしたあと、雨がやんだのを見て散歩に出た。そして、ふと見慣れない鉢を見つける。しゃがみ込み、指先でそっと花びらに触れた。青は晴れ空のようで、白は新雪のよう。寄り集まっているので、どちらの色が先に目に落ちたのか、分からないほどだった。
彼の兄——宋思連は、国民党軍の中尉だった。下唇を軽く噛み、新聞の束を小脇に挟み、手もひとりでに微かに震えている。弟が花を眺めているのを見て、無理に「心からの笑顔」を作った。
「弟よ……」
「ただいま……帰ったよ……」
「お兄ちゃん、この花は何? 風邪ひいてない?」
思連の視線はその鉢の花に落ちた。少し間を置き、喉仏が微かに動く。
「無尽夏。アジサイの一種で、西洋では夏の間ずっと咲くらしい。」
「無尽夏……」汐涛は小声で繰り返し、笑った。「それじゃあ、永遠に枯れないの?」
思連は答えなかった。そばへ行き、弟の隣に立つと、同じように鉢の花を見下ろした。青と白が寄り集まり、小さな旗のようでもあり、縮められた空のようでもある。彼はふと思い出した。どれほどの伝手を頼み、どれほど遠回りして、西洋からこの一鉢を手に入れたのか。あのときは、花が咲いたら、弟を星を見に連れて行こうと思っていた。なのに花は届き、人は去らなければならなかった。
「そうだ、手本は書き終えた?」
「うん! お兄ちゃん、明後日いっしょに星を見に行かない? それと、先に新聞を見せてくれる?」
思連はしばらくためらってから、ようやく新聞を弟に渡した。思わず汐涛の手を取ると、そっと小指を絡め、厳かに揺らした。
「涛儿、明後日……兄さんはちょっと出張するんだ。何ヶ月かかるかもしれない。星を見るのは、兄さんが帰ってから、またいっしょに行こう。いい?」
汐涛は一瞬きょとんとしたが、すぐに素直にうなずいた。
「うん! 指切りげんまん、百年変わらない!」
弟の無邪気な笑顔を見つめ、思連は向きを変え、涙をこらえて部屋へ逃げ込んだ——日頃はめったに感情を顔に出さないが、二十数年もの朝夕をともにしてきた日々が、いま壊れようとしていた。彼は戸口の枠に背を預け、拳を固く握りしめた。それでも最後まで、あの「うん」の一言を吐き出せなかった。
窓の外では、あの無尽夏が、赤レンガの台の上で静かに立っている。青は晴れ空のようで、白は新雪のよう。弟は知らない。この花は、兄が使える限りの伝手を尽くし、西洋から千里をはるばる持ち帰ったものだ——自分が去ったあと、代わりに弟のそばで、この夏を見終えるために。
けれど無尽夏、無尽夏。花の名には「夏」の字が隠れているのに、「帰」の字は隠しきれない。
天気予報
民国三十八年九月十二日(今日)
雨、風強し
民国三十八年九月十三日(明日)
曇り、風強し
民国三十八年九月十四日(明後日)
晴れ、風弱し
あの鉢の花はずっと咲いている……赤レンガの台の上で静かに立ち、二度と帰ってこない人を待っている。
UTC+9 2026年9月19日 17時50分00秒
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この物語は、一九四九年——民国三十八年の広州を舞台にしたフィクションです。
当時、中国大陸では国共内戦が最終局面を迎え、国民党軍は各地で敗退を重ねていました。広州も例外ではなく、多くの軍人とその家族が、先の見えない逃避行や台湾への撤退を余儀なくされていました。物語の兄、宋思連もその一人です。彼は弟に「出張」と言いました。しかしその言葉の裏に、どれほどの覚悟と断念があったか。弟の汐涛は、まだそれを知りません。
この作品で描きたかったのは、戦争そのものではありません。戦争が、日常のすぐ隣で、静かに人を引き裂いていく瞬間です。一鉢の花。三日分の天気予報。交わされた指切り。それらは小さなものですが、だからこそ、失われるものの重さを感じさせるのです。
「無尽夏」という花は、実際にアジサイの一種として知られ、夏の間、長く咲き続けます。青は晴れ空のように、白は新雪のように。けれど、その名に「夏」はあっても「帰」はありません。花は待ち続けます。二度と帰らない人を。残された者は、その花を見るたびに、約束を思い出すのです。
雨が降り、風が吹き、やがて晴れる。天気は巡っても、人の時間は戻らない。それでも夏は、無尽に続いていくように見える——。
この物語を読んでくださった皆さんに、心から感謝します。




