三 莉理香、目覚める
三 莉理香、目覚める
空気は、音もなく密度を増す。
部屋の隅で交わされる視線、囁き、舌打ち。
それら全部が、茉莉香の皮膚の上を這っていた。
犯人はこの中にいる。
それを知っているのは、今この場で─彼女だけだった。
だが、今の彼女は、まだ表に出ていない。
茉莉香の胸の奥で、息をひそめていた。
* * *
「…あんた、何か知ってるでしょ」
冴子の声は鋭かった。
まるで、その音だけで茉莉香の皮膚を切るように。
「今朝の現場で、あんたが何してたか、みんな見てたから」
と言う冴子の言葉に、クラスの数人が頷く。
視線の圧力に、茉莉香の喉が詰まる。
言葉を探そうとした瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。
(ダメ…まだ…)
『出る?』
低く甘い声が、内側から囁く。
茉莉香は首を横に振った。だが、その動きは外から見れば何かに怯えている仕草にしか見えなかった。
「ほら、やっぱり怪しい」
冴子がそう吐き捨てた瞬間─世界が、カチリと切り替わった。
* * *
まぶたを開く。
呼吸が深くなる。
口角が、無意識に上がる。
瞳の奥が、氷のように澄み切る。
「…いいでしょう。教えてあげます」
教室の空気が変わった。
それは圧だった。言葉の選び方、間の取り方、視線の使い方─全てが一瞬で茉莉香のものではなくなっていた。
「わたしは、トランキライザー莉理香。推理のために存在する人格です」
ざわつき。
人格という単語に、誰もが意味を追いつかせようとした。
「今朝の現場は、密室殺人です。外部犯の可能性はありません。よって─犯人は、この中にいます」
と、莉理香は淡々と告げた。
息を呑む音が、いくつも重なる。
* * *
莉理香は黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
白い粉が指先につく。
「被害者は飛鳥真。死因は空間の捻れによる全身のねじ切れ。これは通常の物理的暴行では不可能です。…では、どうやって?」
彼女は、黒板に線を引く。
そこに描かれたのは、部屋の平面図。莉理香は続けて、
「この施設は夜間、構造が変化する。廊下の角度、扉の向き、窓の位置。わたしはすでに複数回のズレを確認しています」
「ズレって…」
影山が低く呟く。
「はい。二つの同じ空間が重なっていて、時間ごとに微妙にズレる。その境界に挟まれたものは、物理的な連続性を失う。結果、捻じ切れる」
「そんな…」
信じられないという声が漏れる。
* * *
「犯人は、その変化のタイミングを知っている。飛鳥真をこの部屋に入れ、空間が動く瞬間まで待った。そして、何もせず、見届けた」
莉理香は振り返った。
その瞳は一人一人を射抜くように見渡す。
「この中に、その瞬間を知る者がいる。…それが犯人です」
視線が揺れる。
何人かは露骨に目を逸らした。
だが莉理香は、それを追わない。まだ断定はしない。恐怖と疑惑を温める時間が必要だ。
* * *
本郷が立ち上がる。
「ちょっと待て。お前の言うことが本当だとして…どうやってそんなことがわかった?」
それを受け、莉理香が答える。
「簡単です。わたしは見えるからです。この空間の継ぎ目が。…あなたにも、見えるはずですよ?」
「なに…?」
「昨夜、廊下でカーテンが膨らんだでしょう。風もないのに。あれが境界です」
本郷の顔が引きつった。
否定しようとしたが、言葉が出なかった。
* * *
「さて─次は、予告です」莉理香は静かに言った。「今夜、もう一度空間が動きます。次の犠牲者が出るでしょう。止められるのは、この場で真実を話す者だけです」
その言葉に教室が静まり返る。
その静けさは、恐怖が満ちるための器のようだった。
「では、夕食まで自由に。…ただし、一人にならないことをお勧めします」
莉理香はチョークを置き、席に戻った。
その背中を、全員が無言で追っていた。
* * *
夕方、窓の外の雲が低く垂れ込める。
施設全体が再び、低く唸り始めた。
茉莉香の中で、莉理香の声が微かに笑う。
「舞台は整ったわ。…次の幕が上がる」




