彼を見捨てた日、「性悪説」は証明される。
私は生粋の臆病者である。
ある程度の処世術を心得ているからだろうか。人は、私のことを優しいだとか、親切だとか、気のいい奴というが、実際はそんなものではない。私は彼らが言うほど人との付き合いに長けてはいないし、彼らに好意を抱いているわけでもない。人を信用するのを心から恐れてるのだ。
閑話休題。
失礼を承知でここに書き記すが、私のたった一人の家族である兄は、本当に私を愛しているのだろうか? そんなこと、他人である私が知る由もないが、きっと純粋なものではないだろう。
私を一人家に残したかと思えば、酒に呑まれ深夜まで遊び惚け、酔っぱらいながら寝ている私に泣きつく大の大人だ。
彼の紡ぐ言葉と家族愛にはどれだけの嘘と偽善、自己愛が塗り込まれているのか、私には計り知れない。
人間ってのはそういうものだ。信用。信頼。誰が出来ようか。
「人の性は悪なり、其の善なる者は偽なり」。
古代中国、戦国時代の思想家である、荀子は言った。悪の定義を、他人と自分にとっての損益を天秤に掛ける事、と仮定すると、はたしてどれだけの人々が当てはまるのか。
…………なんて、つらつらと高潔な理屈や先人の言葉を偉そうに語ったところで現実は何も変わらない。酔って泣きつく彼を軽蔑しながら、いざという時には何もできない私も同類である。
そう、私はただ怖いだけだ。
私と、私によく似たあの兄だけがまともな人間のふりをしている、そんな可能性が。
事が起こったのは、私がバイトから帰ってきたある日の夜だった。
私達が住んでいるのは新宿の繁華街の隅にある格安アパート。モニターもついていないインターホンが鳴り、私はどうせまた兄が鍵を忘れて部屋に入れなくなったのだろうと考え、軽く返事をして警戒もせずにドアを開けた。
「おい兄貴、またかよ…………」
そう、声をかけたが、私の口は開いたままふさがらない。
「よー、明玲ー、たでぇーまー!!」
「はじめまして、明玲ちゃん。私は貴方の兄様、明龍さんとお付き合いさせてもらっている、翠蘭。訳があって、これからこの家に住まわせてもらう事になったわ」
兄の体を支えながら不躾にも私の家に許可なく上がりこむのは、目を逸らしたくなるほどの美貌を持つ女。彼女が一声かけでもすれば一瞬で、その辺りをぶらついている人間を男女問わず数十人は虜にしてしまうだろう。それなのに、どこか気味が悪く、目を逸らしたくなるような女だった。
断るべきだ。私にはその権利がある。私はここの住人であり、元凶である明龍の妹だから。
「翠蘭ー、俺らのねぇ、家だよー!!」
「あら、いい香りがするわ。もしかして明玲ちゃんが何か料理を作っていたのかしら。私にも手伝わせて頂戴」
そう私に尋ねておいてずかずかと侵入するこの女は、どこか危険だ。きつくて甘い香水の香り。カバンの口から覗いた紙の束が、一瞬だけ視界に入った。
……見間違いであってほしいと思った。兄は何か怪しいものに巻き込まれている。それぐらい、わかる。
「明玲ちゃん、具材は明龍さんの好きなものを入れて構わないかしら??」
「その………」
断るべき、だったのだ。口を開いた瞬間、私は違う言葉を言うはずだった。
「ええ、構いません」
………それでも、私は言えなかった。たった一言、拒絶。ただそれだけのことができなかった。
一か月間放置した結果として、その女、翠蘭は妙にこの家に馴染んでいた。
私のバイトに何ら支障はないし、兄と翠蘭は一日中どこかをほっつき歩き深夜に帰宅するから、私と兄の関係だってさほど変わらなかった。別にこれで良かったのだ。無理に断る必要性も、なかったはずだ。
兄の財布が見当たらないことにも、気づいてはいた。けれど、探す気にはならなかった。時折見せる兄の怯えた表情だってどうだっていい。今まで無理して笑顔を見せていた私の気持ちなんて、考えたこともなかっただろうから。
いい気味だ。そう思っている自分が、少しだけ気持ち悪かった。けれど、家事も翠蘭がほんの少し担っている。そのおかげで、私は長く働いていられる。
きっと、大丈夫。何も起きたりしない。起きるはずがない。そう思っていないとまともに寝ることも叶わなかったのだ。
轟音で、目が覚めた。それは私の部屋のドアを勢いよく開ける音で。
さすがに飛び起きはしなかったが、うつらうつらとしていた頭は冴えわたり、寝転んだ姿勢のままでも、兄の声が大きく響き渡ってきた。
「明玲!! 明玲、明玲!! おい、起きてんだろ!? 助けてくれよ、いつもみたいにさぁ!? なぁ、やばいんだよ、あの女!! 財布、なくてさ……いや、違う、昨日はあったんだよ、絶対……!! なぁ……おかしいんだって、あいつ……!! そ、そうだ、きっと最初から俺とお前を騙してたんだ!! 俺らの金を奪うために────」
聞こえている。寝ている私の腕を掴みながら耳元で大声を出す男の声が聞こえないはずがない。
でも…………私は目を開けなかった。だって、今更じゃないか。あの女を家に連れ込んだのは、兄だ。その時点で、どうしようもなかったはずだ。
「頼むよぉ!? 頼れるのはお前しかいないんだ!! 明玲!!!」
息を呑んでしまいそうになった。そのような言葉を兄から言われたのは初めてではないはずなのに、この時だけは、いつもの薄っぺらく軽いその言葉がずっしりと、私の胸の奥で重さを主張する。
…………ここで動けば、きっと次は私の番。
可哀想? そんなことはない。彼が今までの罰を受ける時が来ただけだ。私に全てを押し付けてきた、罰。ざまあみろ。そう思ってしまう。仕方ない。……大丈夫だ。兄は、きっと、何とかなる。
気が付けば私は、そのまま寝たふりを続けていた。
彼が泣きじゃくり、悪態を吐いて立ち去るまで、兄を助ける理由は見つからなかった。
この家は静かになった。静かすぎるぐらいである。
兄に無理やり起こされない夜は、思ったよりも寝心地が良い。
なのに、少しだけ、目を閉じるのが遅くなる。
また耳で反芻する。「頼れるのはお前しかいない」。
私は、聞こえないふりをしただけだ。
たった、それだけの話。………本当に?
私はやはり。
───臆病者なのだ。
◯連載中長編
『最強少女の魔法奇譚』
『天才×転生〜コミュ力皆無の不老不死は普通を目指す〜』
◯短編
『天、声を聴く。』
『隣の小田くんは幽霊』
『自分が嫌いな僕のために』
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