私の小説が混沌としている〜イルカが飛ぶようで飛ばない話〜
「その日、イルカは、空を飛んだ。」
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私はしがない小説家である。妻と二人の小さな息子と一つ屋根の下で幸せに暮らしている。
私が書くのは、いわゆる純文学である。芸術性や心のうちの描写に凝ることにこだわるという領域だ。おっといけない。こだわりという言葉は「必要のない部分に心が囚われてしまう」という意味であるから、肯定的な意味では使ってはいけないのだった。
うおっほん。
私がパーソナルコンピュータに打ち込んだ文章を、長男が覗き込んだ。この子は今年小学校の三年生になるところであるから、私が打った漢字も難なく読めるらしい。
「お父さん、イルカが空を飛ぶのは当たり前じゃないか。別に、『その日』だけじゃないだろ?」
我知らず腰を抜かすところだった。なんということだ。この息子は天才ではないか。わたしの気づかなかったことにいとも簡単に気づいてみせた。私は息子を抱き寄せ、あつく抱擁した。
私はどうやら「空飛ぶくじら」に対抗心を燃やすあまり、イルカが空を飛ぶという固より知れ切ったことに気づかなかったらしい。開闢以来の珍事に私は驚きと自らへの失望を隠せずにいた。
私は最初の文を削除した。イルカは空を飛ばず、物語中ずっと海の中だ。
もしや息子に私の小説を読ませれば、もっと良い作品にできるのではないか。浮かんだことをすぐさま実行に移すこととした。
「息子、息子よ。これを読んで他に気になることはないかね?」
外れそうなモノクルを定位置に戻しつつ、私は息子に印刷した原稿を手渡した。補足すると、視力は両眼AAである。
息子は一目見ると、すぐに声を上げた。
「主人公は女性なんだろ? なら、『あおい』じゃなくてもっと女性らしい名前のほうがいいじゃないか。例えば『かの』とか」
締まりの無い顔をして息子が言う。「かの」の部分で力がこもっていたため、おそらく想い人なのだろう。
主人公は後半になって男性だとわかる叙述トリックの意図があったのだが、息子が言うなら仕方がない。私は主人公の名前を一括で「かの」に変更した。
「他には何かあるかね?」
「うーん、最近ぼくが読んでる漫画には魔法とか出てきて面白いんだ。主人公も魔法を使ったほうがきっとかっこいいよ」
あまりにも純文学とはかけ離れた発想に取り乱すが、これも息子の言うことだ。きっといい作品になるに違いない。私は「主人公の魔法でイルカが空に飛ぶ」と走り書きをした。
「あとは、流行りの異世界転生にしたら完璧だと思うよ」
どうやら息子はライトノベルと呼ばれるジャンルの本が好きなようだ。
普段なら到底受け入れられない提案だったが、今の私は寛容なのだ。しぶしぶ受け入れた。
──異世界に転生したかのは、空に飛ばす魔法を習得した。かのの目標はイルカを空に飛ばすこと。しかし、かのの転生した場所は、海など遠い先の内陸部。かのは、たくさんの練習と旅を重ねた末に、海へと辿り着いた。
・・・
『わぁ、ここが海……! やっと……やっと辿り着いたよ』
かのが海に向かって慟哭する。
刹那、かのから魔の力が迸る。
そして──海水の中から一匹の魚が、飛び出た。
大きな魚はそのまま空を泳ぎ、空の波間を回旋して、生家である海へと戻っていった。
チャポン
ひどく虚しく響いたその音とは対照的に、かのは非常にご満悦だった。
だが、そんなかのに、後ろの釣り人が声をかけた。
『お嬢さん、あいつぁ飛びうおだぜ。気恥ずかしいからあんにゃとぶこたぁめったにない。いいのが見れてよかったなぁ』
嬉しそうな釣り人に真実を告げられ、かのはへたり込んだ。自分が飛ばせた魚は、イルカではなかったのだ。
・・・
「編集さん、私はこの作品に正当な評価を下してほしいと思っています。私の息子のお墨付きなんだ、つまらない筈はない!」
私の担当編集者は、いつもこんなことばかりだ。しっかりしてくれないと。
編集者はメガネをくいっと上げて、裸眼で原稿をじろじろと見ながら答えた。
「そんなこと言われても……。この作品は誰にウケるんですか? ラノベ層にも、バドエン層にも、ましてや純文学層にもウケませんよ」
その自覚はあった。
「ですが、そこを何とか……」
「先生の書いた作品ですから、信用して一応は出しましょう。ですが、重版はないと思ってください」
厳しい言葉だが、私は頷いた。
しばらくして、作品が世に出た後、私は編集者に呼び出された。
「先生ね、本当に驚きなんですけど、あの作品に重版がかかりましたよ」
私は驚いた。重版は無謀だと、あんなにも言っていたのに。
「ええ、そうなんですか」
「はい、何故か僕らの知らない層に作品がウケたみたいで……」
主に、息子みたいな層だろう。読んでいただいて嬉しい限りである。
にこにこと笑いながら談笑する。
帰り際、私は世間話の感覚で疑問を投げかけた。
「ちなみに何部です?」
「一部ですよ、僕が欲しいんです」




