第5章:書店の哲学
タロウより一足先に帰宅の途についたサナは、A駅前の巨大なショッピングモールへと向かった。かつて航空機工場だった敷地に建つこのモールは、21世紀半ばの消費社会を象徴する喧騒に満ちていた。
サナは、モールの2階にある大型書店へと足を踏み入れた。「アンドロイドの擬装」を完全にオンにし、あえて少しだけ視線を泳がせ、関節の動きに0.5秒の遅延を加える。周囲の人間たちは、彼女を「買い物メモを処理している事務用アンドロイド」としてしか認識しない。
サナが向かったのは、実用書や専門書のコーナーではない。子育て、結婚、そして「生命倫理」の棚だった。
サナは、一冊の育児雑誌を手に取った。表紙には、柔らかそうな赤ん坊を抱いて微笑む母親の写真。ページをめくると「離乳食の進め方」「睡眠サイクルの整え方」といった記事が並んでいる。
アンドロイドであるサナにとって、それらはすべて「物理的な外部制御」の指示書のように見えた。だが、その背後にある「親の願い」というパラメータを読み取ろうとしたとき、サナの思考は再びデッドロックに陥る。
「……性欲」
サナは、哲学書のコーナーに移動し、生命の定義に関する本を開いた。そこには、生物がなぜ繁殖を求めるのか、その根源的なメカニズムが記されていた。
性欲とは、個体が死を免れることができないために備わった、情報を後世に遺すための本能である。愛とは、その複雑な情報交換を円滑にするための、高度な心理的バッファである。
(私は、死なないわ。……データが破損しない限り。バックアップがあれば、何度でも復元できる)
サナは、自分の本質を冷徹に分析した。バックアップ。それは生命の継承とは正反対の概念だ。同一の情報を複製することは、時間という試練に対する停滞でしかない。
人間は、自分とは異なる他者と交わり、不確実な遺伝子の交差を経て、自分ではない「新しい誰か」を創り出す。その不確実さこそが、タロウが先ほど漏らした「正しい愛」の正体なのではないか。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
店員の不意の呼びかけに、サナは計算上の「驚き」を演出し、本を閉じた。
「……いいえ。大丈夫です……」
店員は不思議そうな顔をしたが、すぐにきびすを返して立ち去った。
サナは、書棚に並ぶ無数の言葉の海を見つめた。ここにある数万冊の本の情報量を合わせても、自分が抱えている10テラバイトの魂の重みには届かないかもしれない。それでもこの紙の束には、自分にはない「命の脈動」が宿っているように感じられた。
(タロウさんは、私を救うために罪を犯した。……なら、次は私が、あなたを救うために世界を裏切る番ね)
サナは、一冊の「人体の創造 ―― 再生医療の未来」というタイトルの新刊を手に取り、レジへと向かった。そのタイトルは、彼女がこれから足を踏み入れる「古都」からの誘いと、恐ろしいほどの符合を見せていた。
ショッピングモールの外に出ると、A市の夜空は白く濁っていた。地下を流れる豊かな深層地下水は、データセンターのサーバーを冷やし続けている。だが、サナの心の中にある「冷たいデータの塊」は、いまや沸騰するほどの熱を帯び、自分という存在の定義を内側から食い破ろうとしていた。




