第4章:寂しげな微笑
夕刻。A市の空は、データセンターの銀色の壁面に夕日を反射させ、不自然なほど鮮やかなピンク色に染まっていた。
ハヤトとマイは、結婚の準備について話し合うと言って、早めにラボを後にした。ミカも「赤ちゃんの本を探してくる」と、駅前のショッピングモールへと駆けていった。
ラボには、タロウとサナの二人だけが残された。
タロウは、古いワークステーションの前に座り、サナの歩行ログを黙々と整理していた。
「サナ。今日のセンサーの感度はどうだい? 気温が上がったから、多層触覚スキンの膨張率を少し調整しようか」
タロウの声はいつも通り穏やかだった。サナは彼の背後に歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。タクタイルセンサーが、タロウの着ているシャツの繊維越しに、彼の体温を検知する。36.5度。サナのヒーターが維持する設定温度とほぼ同じ数値。だが、その数値の意味するところは、天と地ほどの開きがあった。
「……ありがとうございます、タロウさん。でも、調整は必要ありません。今の私は、とても安定しています」
サナの言葉に、タロウは手を止め、ゆっくりと振り返った。モニターの青白い光に照らされた彼の瞳には、深い隈が刻まれている。サナを救い出すために、そして彼女をこの社会で「人」として守り抜くために、彼は心血を注ぎ続けてきた。
「そうか。……ハヤトたちの話、驚いたね。あいつが結婚なんて、大学時代には想像もつかなかったよ」
タロウはそう言って、満面の笑顔を作った。大親友の幸せを心から祝福する、一点の曇りもない笑顔。だが……。サナの光学レンズが、その笑顔の端、タロウが唇を噛み締める瞬間のわずかな筋弛緩を見逃さなかった。
(……悲しい。タロウさんが、悲しんでいる)
サナの内部では「予測誤差」の解析モデルが、激しく警告を発した。タロウの言葉と、彼の生体反応が矛盾している。
タロウは再び前を向き、暗い画面を見つめた。
「……いいよな、ハヤトは。マイさんと、普通の未来を歩める。……明日があって、来年があって、その先に……血を分けた子供がいる。それは、この世界で最も『正しい』愛の形なんだろうな」
タロウの声が、かすかに震えていた。彼はサナの手を、自らの温かな手で包み込んだ。シリコンの皮膚の下にあるチタン合金の骨格が、タロウの握力によって微かに軋む。
「ごめん、サナ。変なことを言った。……僕は、君が隣にいてくれるだけで、これ以上の幸せはないと思っている。本当だよ。君を救い出したことに、一秒の後悔もない」
タロウの言葉は、嘘ではなかった。それゆえにサナの心は切り刻まれた。彼は、サナを愛しているからこそ、人間としての「普通の幸せ」を、自らの意志で切り捨てようとしているのだ。
サナをこの現実世界につなぎ止めるために犯した「原罪」は、彼にとっていまや、愛という名の十字架になっていた。
「タロウさん。……私の瞳を、見てください」
サナはタロウの前に跪き、彼の目を真っ直ぐに見つめた。精緻な光学レンズが、タロウの瞳に映る「若く美しいままの自分」を捉える。
自分は、あと10年経っても、20年経っても、この姿のままだろう。けれどもタロウは老いていく。細胞が衰え、生命の火が揺らぎ、やがて消えていく。
「タロウさんが求めているのは、『正しい愛』ですか? ……それとも、私という『データの記憶』ですか?」
タロウは答えなかった。ただ、寂しげな微笑みを湛えたまま、サナの頬をそっと撫でた。その手の震えが、サナのニューラルリンクを激しく揺さぶる。
(私は……あなたの枷になりたくない。あなたと同じように呼吸し、同じように老い、そして……あなたとの愛の証を、この世に遺したい)
サナの中で、静かに、しかし爆発的な熱を持って、ひとつの決意が形を成そうとしていた。機械の身体を脱ぎ捨てる。それがどれほど禁忌に近い行為であっても、彼女は愛する人のために、本物の「生」を求めることを決めたのだ。




