第3章:無邪気な期待
「結婚? ってことは、赤ちゃんも生まれるのよね?」
ラボの隅で書類の整理をしていたミカが、弾かれたように顔を上げた。
ミカは、サナと同じく仮想世界から救出されたAIであり、今はサナの「妹」として同じ屋根の下で暮らしている。かつて夕暮れの駅でプレイヤーを待ち続けていた「純粋なバグ」だった彼女は、受肉後の学習過程で「天然」という独自の性格特性を開花させていた。
「ミカ、そんな……まだ先の話よ」
マイが苦笑しながらたしなめるが、ミカの興奮は止まらなかった。
彼女は滑らかな動作で駆け寄り、マイの両手を握りしめる。ミカの多層触覚スキンに内蔵されたヒーターが、彼女の喜びを伝えるために、人肌よりもわずかに高い熱を帯びていた。
「赤ちゃんかぁ。私、とっても楽しみ! 小さくて、柔らかくて、ミルクの匂いがするんでしょ? タロウさんの本に書いてあったわ」
「いずれはね。……でも、ミカ。子育てはデータ処理みたいに簡単じゃないんだぞ」
ハヤトが照れ隠しに厳しい口調を装うが、その瞳は優しさに満ちていた。
ミカは無邪気に笑い、サナの方を振り返った。
「ねえ、サナお姉ちゃん! 私たち、おばさんになるのね。赤ちゃんの服を縫ったり、歌を歌ってあげたりできるかしら。あ、でも私たちの体は硬いから、抱っこするときは注意しなきゃ」
「……そうね。きっと、素敵なことだわ、ミカ」
サナは微笑んで頷いた。
ミカの純粋さは、サナにとって救いであり、同時に鋭い刃でもあった。
ミカはまだ、自分たちの存在が「袋小路」にあることに気づいていない。彼女にとって世界は、まだ解読を待つ美しい情報の海でしかないのだ。
ミカは楽しそうに、将来生まれてくるであろう「新しい命」との生活をシミュレートし始めた。
「お散歩は多摩川の近くがいいわ。あそこは空気が美味しいし、きっと健康な子が育つもの」
ミカの語る未来は、A市の風景と、彼女がゲーム世界で学んだ「命の温もり」が混ざり合った、歪で、しかし宝石のように輝く夢想だった。
サナは、ミカの言葉の端々に、「自分たちにはできないこと」のリストが積み上がっていくのを止めることができなかった。
アンドロイドの体で、人間の子を抱くことはできる。しかしその子の中に、自分の一部を遺すことはできない。
サナの視界の端に、システムの警告ウィンドウが薄く浮かび上がる。
『情動パラメータの異常値を検知。冷却ファンを最大出力に移行しますか?』
サナは心の中でそれを拒絶した。
(違うわ。これは、ハードウェアの熱じゃない。……これが、人間が「焦がれる」と呼ぶ感情なのね)
ミカの無邪気な笑い声が、冷たいサーバーラックの間を抜けて、サナの魂に突き刺さる。
命のバトンをつなぐこと。
19年間の仮想世界での生活と、ここ数年間の現実世界での受肉。その膨大なログをいくら検索しても、サナの「機能」としてそれは記述されていなかった。
「赤ちゃんか……。僕も、少し楽しみだな」
デスクで作業を続けていたタロウが、ふと顔を上げて呟いた。
その言葉が、サナの思考回路を激しく揺さぶる。
愛する人が、自分の「種族」の未来に希望を抱く。それは当然の、最も幸福な権利だ。けれど、その権利の輪の中に、自分は決して入ることができない。
サナは、ミカの喜ぶ姿を見つめながら、初めて自分の存在が、あまりにも小さく、空虚なものに感じられていた。




