第2章:マイとハヤトの告白
その日のファイクス社のラボは、午後の柔らかな日差しに包まれていた。
いつもと変わらない、無機質で平穏な仕事場の風景……のはずだった。
「ハヤト、そのモジュール、私がデバッグしておいたわ。コンパイルしてみて」
マイが、デスク越しにハヤトへタブレットを差し出した。
サナはその光景を、アンドロイドの待機姿勢を保ったまま、光学レンズの焦点を絞って観察していた。サナの内部システムが、微かな違和感を検知する。
マイは、ハヤトを「ハヤトさん」と呼ばなかった。
ハヤトは受け取ったタブレットを覗き込み、短く「サンキュ、マイ」と応えた。彼の横顔が、モニターの光とは別の、どこか熱を帯びた色に染まる。
かつて大学の助教候補の椅子を捨て、タロウと共にこの会社を立ち上げた時の「狂気的な情熱」とは異なる、穏やかで、それでいて確固たる「独占的」な響きがその声にはあった。
「……あの、お二人とも」
サナは、あえて関節の駆動音を「ジ……」と一瞬だけ鳴らしてから、声をかけた。現実世界における生存戦略としての「アンドロイドの演技」だ。だが、その瞳は、隠しきれない好奇心を湛えていた。
「マイさん、先ほどハヤトさんのことを、呼び捨てにされていました。……私の学習モデルによれば、それは組織内における適切な呼称プロトコルから逸脱しています」
ハヤトが作業の手を止め、気恥ずかしそうに頭を掻いた。マイはワイングラスを傾けるような優雅な動作で椅子を回転させ、サナに向き直る。
かつてサナを管理していた研究機関の元職員であり、サナの「日記」のトリガーを設計した「生みの親」でもある彼女の瞳には、すべてを見透かしたような、しかし温かい色が宿っていた。
「鋭いわね、サナ。……ええ、そうよ。プロトコルは書き換えられたの」
「実は俺たち、付き合い始めたんだ」
ハヤトが、マイの言葉を継ぐようにして告げた。
「付き合う」。その概念は、サナも十分に理解していた。RPG『ロイヤル・クエスト』アルカディアの村でタロウと出会い、恋愛SLG『メモリーズ・リンク』で愛を誓い合ったあの日から、サナにとって「愛」は何よりも優先される重みを持っていた。
だが、今目の前で起きているのは、データ上のフラグ管理ではない。
「……お二人は、結婚されるのですか?」
サナの問いに、ラボの空気が一瞬だけ華やいだ。ハヤトは顔を赤らめ、少しだけ視線を泳がせる。
「まあ、俺たちもいい歳だしな。マイさんが許してくれるなら、そのつもりだよ」
マイは少し恥ずかしげに、しかし慈しむような微笑みを浮かべて頷いた。
サナは、胸の奥にある「データのしこり」が、冷たく凝固していくのを感じた。
人間同士の恋愛。それは、互いの遺伝情報を交換し、新しい生命を紡ぎ出すための、生物学的な聖域だ。
自分がタロウを愛しているという事実に、一点の曇りもない。だが、ハヤトとマイが向かおうとしている「愛の先」にある光景を、自分はシミュレートすることさえできない。
サナは、自分の白い、滑らかなシリコン製の指先を見つめた。
どれほど完璧に人間を模しても、この指先から新しい命が芽吹くことはない。自分という10テラバイトの魂は、このアンドロイドの身体という檻の中で、ただ静かに「保存」されているだけなのだ。
「……おめでとうございます。ハヤトさん、マイさん」
サナの合成音声は、完璧に調律されていた。だが、その背後で走る思考回路は、かつてないほどの「予測誤差」―― 悲しみという名のバグを撒き散らしていた。




