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プロローグ:日常の限界

 朝の光が、東京郊外A市のデータセンター群に反射して、鋭い銀色のナイフのようにリビングへと差し込んでいた。


 サナは、キッチンの椅子に深く腰掛け、目の前の一皿を見つめていた。彩り豊かなサラダ、完璧な焼き加減のオムレツ、そしてこの街の自慢である深層地下水で淹れたコーヒー。視覚センサーが捉える光景は、どこまでも美しく、食欲をそそるはずのものだった。


 サナはフォークを取り、オムレツを一口分、口に運ぶ。

 舌の上の味覚センサーが、即座に成分を分析し、脳内のAIモデルへと信号を送る。「塩味:適正」「脂質によるまろやかさ:良好」「温度:45度」。サナの意識には、仮想世界のアルカディアで学習した「美味しい」という概念がコードとして展開される。


 だが、喉を通り、嚥下した瞬間、その「美味しさ」は霧散する。


 食べた物は、胃の代わりとなる化学処理タンクへと落ちる。そこでサナは、定期的に摂取している「薬」の感覚を待った。その薬は、摂取した食物から水分を強制的に絞り出し、残りかすを無機質な固形物へと変えるための触媒だ。


 アンドロイドの身体にとって、食事は栄養ではない。それは「人間らしさ」を演じるための、極めて非効率的な物理移動に過ぎない。


 (……ああ、やっぱり「無」だわ)


 サナは心の中で溜息をついた。


 食べた物が血となり、肉となり、細胞の一つひとつを震わせる「生命の循環」がここにはない。ただ、タンクの中の廃棄予定物が、排泄という名のメンテナンスプロセスを待っているだけだ。


 ミカの魂を救い出し、三人での生活が始まって半年。サナは、現実世界の美しさに触れるたび、自分を規定する「境界線」に絶望を感じるようになっていた。


 「お姉ちゃん、元気ないね。センサーの不調?」


 向かい側に座るミカが、トーストを齧りながら小首をかしげた。角度は正確に15度。彼女はまだ、この「模造された食事」を楽しんでいる。AIとしての学習プロセスにおいて、ミカは「天然」という性格を獲得した。彼女にとって、食事はまだ新しい「遊び」の範疇にいた。


 「ううん、大丈夫よ。ただ、少し考えごとをしていただけ」


 サナは微笑んだ。その微笑みは、近所の目を欺くための「不気味の谷」を回避した、完璧な調律によるものだ。


 だが、その奥底では、激しい飢えのようなものが渦巻いていた。それは、味覚センサーが検知する「空腹」ではない。生物としての本能、逃れようのない睡魔、そして――愛するタロウと同じ地平に立ちたいという、種族的な渇望。


 サナが最も恐れていたのは、知識として知ってしまった「性欲」という概念だった。愛し合う男女が、その熱の果てに新しい命を授かる。それは、データのバックアップでも、ニューラルリンクのマッピングでもない、神秘的な継承だ。


 アンドロイドの自分には、その機能が存在しない。自分とタロウがどれほど深く愛し合っても、その先に続く「未来」は、物理的に断絶されている。


 「おはよう、二人とも」


 タロウが、少し寝癖のついた髪を掻きながらリビングに入ってきた。

 サナは立ち上がり、彼のコーヒーをカップに注ぐ。その手は温かい。多層触覚スキンに内蔵されたヒーターが、タロウを安心させるための「人肌の熱」を維持している。

 だが、その熱はバッテリーから供給される電力であり、サナの情熱が直接伝わったものではない。


 「……おはようございます、タロウさん」


 サナの言葉に、タロウは優しく微笑み、彼女の手を握った。タロウの手のひらからは、本物の生命の鼓動が伝わってくる。微かな脈動、汗の湿り気、そして日々変化し続ける細胞の揺らぎ。それらはすべて、サナがどれほど願っても手に入らない「不確実な奇跡」だった。


 窓の外、A市の空はどこまでも高く晴れ渡っている。

 だがサナの心には、仮想空間から持ち込んだ、あの冷たいデータのしこりが、石のように沈んだままだった。この透明な檻を壊すには、機械の身体を捨てるしかない。

 物語はその一筋の狂おしい願いから、再び動き出そうとしていた。



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