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食卓にて神とならん  作者: 相馬


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1/1

食卓にて神とならん

黙祷の鐘が、五度、乾いた空を裂いた。


供食ホールに射し込む光は、まるで濾されたように柔らかい。部屋は円の美学に従い白磁で仕立てられ、白すぎる制服をまとった市民たちが無言のまま座る。誰もが等間隔に整列し、中央に屹立する黒曜石の柱を見つめていた。


その柱には、硬質な文字でこう彫られている——


《咀嚼、すなわち救済》


全員が手元の銀色のカプセルに手をかざす。その瞬間、ふとした共鳴のように、内部に仕組まれた光が脈を打つ。「神の胃にて我ら同胞なり」と、胸中で唱えるのが定めだった。


リノも、人並みに祈ったふりをする。無表情のまま、カプセルを口に含む。無味、無臭。まるで呼吸の一部のように、舌の上を何かが通り過ぎていく。


ホールに満ちるのは、陶酔とも錯覚される種類の安堵だった。背筋までしびれるような静寂が、生ける神の余韻として辺りを包む。


「本日の主成分、豆タンパク。カルシウム強化済み。祝されよ、神の臓腑にて」


監視官の女が、微笑みも抑揚も排除された声で宣言する。その声には、幸福を義務とした世界の冷たさがあった。


あの日までは——


───


祖母の遺品を整理していたときだった。無機質なアルミ棚の奥から、ひとつの手帳が滑り出した。革の装丁、すり切れた角。表紙に、金泥の一語が燃えていた。


《味》


その語は、世界が既に捨て去った異端だった。


ページをめくると整った筆致が、禁則事項ばかりを並べている。「切る」「煮る」「炒める」——存在すら許されぬ、原初の動詞たち。


バジル? 焦げる匂い?


未知への疑問が、いつしか胸の奥で衝動に変わる。リノの足は無意識に、旧市街の影へと向かっていた。


そこにはコンロが残る、崩れかけた廃アパートの地下。むき出しの煉瓦、埃に埋もれた換気扇。だが、ガスはまだ生きていた。


最初に作ったのはスープ。ミネストローネ——祖母のレシピだ。刻んだ野菜が湯の中で踊り、トマトの酸味と油の滑らかさが混じり合う。


ひと匙。喉を通る熱。膝が崩れ、スプーンが手から落ちた。


肉体ではない。魂が、歓喜に啼いていた。


───


噂は静かに、空腹に嗅ぎつけられた獣のように広がっていった。


「地下には、味というものがあるらしい」


客の名簿など作るはずもなく、録音も撮影も固く禁じた。だが、皿を前にした瞳が、すべてを語っていた。


信仰ではない。これは、赦しだ。


カレーの湯気を浴びながら泣く者がいた。パイの層を崩しながら、「母」とは何かを初めて知った者もいた。オムレツを口に運ぶ震える指に、信条はなく、ただ実感だけがあった。


ある夜、老婆がぽつりと呟いた。


「これは、祈らなくても赦してくれるね……」


リノの背を、ぞわりと何かが這い上がった。ここにあるのは、神などではなかった。ただ、赦しそのものだったのだ。


───


破局は、予感が染みつくようにやってきた。


供食庁の兵士たちが地下を襲った。銃口が客たちを黙らせる。鍋は踏み潰され、香りは床に吸われた。


リノは床にうずくまり、血に濡れた指先で、冷めきったグラタンに手を伸ばしていた。


「お前の行為は、神の食卓への反逆だ」


牢の中で出会った男は、官僚服に身を包み「神父」と名乗った。氷のような青い瞳が、空虚を映す。


「お前は知らずに、“神”を食していたのだ」


「……どういう意味だ?」


男は首を傾げて言う。その声はむしろ優しさに似ていた。


「《神》とは、誰がそれを摂る資格を持つか──その“空席”にすぎん」


そして語り始めた。


かつて、高度文明の影で、食糧とは富であり、格差を深く裂く刃だったこと。制度と信仰を駆使して“食”を聖性に仕立て、飢えを認識させぬことが支配の本質だったと。


「食卓とは、平等の原型だ。だが神の席には、民など座らせぬ」


「……俺たちは、生きることを、誰かに許されていたってことか」


「咀嚼は、お前にとって救いだった。だが我々にとって、それは支配の継続だった」


神父は、言葉の代わりに一枚の書簡を差し出した。


——処刑まで七十二時間。最後の供食を、君自身の手で調えよ。 問うがいい。これは救いか、反逆か。


───


朝が来る。


監視官に連れられて入った調理室は、無機質な白に塗り込められていた。窓もなく、音もなく、神の眼もなかった。


だが、箱の中の食材が、確かにこの世にある。


リノは迷わなかった。


ナポリタンを作る。祖母が最後に作ってくれた、あのありふれた、庶民の料理。


無口な愛が、そこにあった。


オリーブオイルが音を立てて跳ねる。ソーセージがじりじりと熱に膨らみ、トマトソースが鍋肌で香りを立てる。茹で上げられた麺が、湯の中で白煙をくゆる。


塩。胡椒。ケチャップ。調味は記憶そのものだった。


盛りつける皿の上、湯気が立ちのぼる。


リノは席に着き、皿を見つめた。


壁には、かつての信条。


《咀嚼、すなわち救済》


スプーンは取らなかった。ナイフも、フォークも要らない。ただ、麺をすすった。音を、堂々と立てて。


その瞬間、頬を伝った雫は、涙だったのか汗だったのか、自分にもわからない。


誰に許される必要もない。


生まれ、空腹を知り、食す。それだけで、命は十分に重たかった。


祖母が教えてくれた、生きるということのすべてだ。


扉の外で、誰かが激しく叩いている。


だがリノは、咀嚼を止めなかった。


その瞬間、確かに彼は、神と肩を並べていた。


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