流す
「この村じゃ、死んだ人の名前を川に流すのよ」
夏休みに訪れた祖母の家で、そんなことを言われた。
「成仏できるようにってこと?」
「逆よ。名前を川に流せば、その人は二度とこの世に戻れない」
祖母は井戸の傍にしゃがみ、昔話のような口調で語った。
「昔、この村には“名守り”という風習があったの。人は死んでも魂が残るから、その名を川に流して、水神様に預けるの。そうすれば、間違って戻ってこないのよ」
冗談めかして笑った祖母の背後で、井戸の水が、ぽたりと垂れた。
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その夜、夢を見た。
川の中に、白い紙が何枚も漂っている夢。紙には、墨で名前が書かれていた。
「清水透」「中田正人」「高瀬律」――
見覚えのない名ばかり。だが、ひとつだけ、見覚えがあった。
「神谷瑠衣」――私の名前だ。
目が覚めて、背筋が凍った。
そして気づく。枕元が濡れていた。掛け布団の下から、じっとりとした冷気が上がっていた。
何より、濡れた紙片が一枚、畳の上に貼りついていた。
白い紙に、墨で、私の名前が――にじんで書かれていた。
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翌朝、祖母に尋ねた。
「ねえ……誰か、私の名前、川に流したりした?」
祖母は最初、黙っていた。だが、やがて、搾り出すように言った。
「……ごめんね。あの子と間違えたの」
話を聞くと、こういうことだった。
数年前、祖母にはもう一人、曾孫がいたという。私と同じ“瑠衣”という名の女の子。けれど、三歳の時に病で亡くなった。祖母は毎年、命日になると、その子の名を紙に書いて川に流していた。
けれど今年は――手が震えて、間違えてしまったのだという。
「だって、漢字も同じだったから……」
祖母は泣いて謝った。だが、私は震えていた。
“名前を川に流せば、二度と戻ってこられない”。
私は、死者として、神に預けられてしまったのだ。
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その日から、少しずつ、おかしなことが起きた。
近所の子が、私を見てこう言った。
「るいちゃんって、誰?」
祖母の知り合いの老婆は、「……あんた、どこの子だっけ?」と首をかしげた。
ついには、自分のスマホから私の連絡先が消えていた。
母に電話をかけても、「誰?」と聞かれる。写真を送っても、「知らない番号です」と冷たく返された。
まるで、私の存在そのものが、水に流れてしまったようだった。
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もう一度、川へ行った。祠の奥、川辺の石段を降りた場所に、木でできた細い舟が浮かんでいた。
その舟の上には、無数の白い紙が揺れていた。
名前、名前、名前。全部、墨で書かれている。
私は舟に手を伸ばした。ふいに、水の中から何かが私の手を掴んだ。
白く濁った顔。目がなかった。口だけが、ひどく長く裂けて、笑っていた。
「かえして……くれたの? わたしの、名前……」
それは、祖母の言っていた“もうひとりの瑠衣”だったのだろう。
私の名前と、彼女の名は、もう分けられない。
「……違う。私は――」
声が、出なかった。
水面に映った私の顔が、少しだけ違っていた。頬のホクロがなかった。瞳の色が、灰色に近かった。
それは、“もうひとりの私”の顔だった。
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祖母は言っていた。
「水には、魂と名前が宿る。だから名前を預ければ、その人は帰れなくなる」
けれど、私にはまだ選択肢がある。
名前を取り返す方法が、ひとつだけ。
代わりに、別の名前を流すこと。
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私は紙に名前を書く。
「神谷瑠衣」
その隣に、もうひとつ。
祖母の名前。
墨を含ませ、丁寧に二枚の紙を書いた。
そしてそれを、舟に乗せた。
水面が、笑っていた。