すべての人は悪い意味での「完成」に向かう
人間の美しさは、感謝や尊敬の感情によって、純粋な権威主義から遠ざかったその距離にある。
その事実を知っていた時代の日本の創作物のテーマは、義理と人情つまりご恩と奉公であった。
水商売をすると、性格が悪くなる。
同様に、性格が悪くなる職業的な傾向というのは、実は実際色々ある。
一言で言えば、思いやりや正義感が強いと、心理的な疲労や政治的な摩擦が生じて続けにくい仕事がある。
現在では、資本主義によって企業はある意味、規格統一されているから、強い思いやりや正義感はどこでも疎まれる。
そもそも、客や同僚や上司や部下や会社や祖国や天下の幸福を主眼に誠心誠意働くことが、経済的な儲けのために最適であることは少ない。
どんな職業にも多かれ少なかれ欺瞞はあるし、投資等、モノによっては客の人生を破滅させる。
畜産が動物についてそうであるように、客の立場に感情移入などしてはいられない。
そのように、資本主義社会の労働者は、一様に「完成」へと直進していく。
極端には、売春婦がそうであるようにである。
学校の友人関係であれ、企業や役所における人事であれ、社会は派閥抗争だ。
そこには正義だけがあるのではない。嘘や陰謀もある。
例えば、ある部下が冤罪であげつらわれているとき、白は白という理由で徹底して守ることは悪手だ。
権力に否定され集団から排除された者に、個人的なシンパシーを持ちつづけることは悪手だ。
だから、大きな会社に長くいる人ほど、権威主義に感染する。
人間社会で長く生きているほど、権威主義に迎合してきたことを示唆する。
あらゆる社会的な地位に、そのような面がある。
だから、すべての人が、「大人」へと「完成」していく。
個人的な進む速さは人によって大きく異なるが、進む方向は同じなのだ。
いわゆるアスペルガーなど、数パーセントの人は、生まれつき共感の心理を持っていないと言われる。
しかし、そのような例外的な人達以外は、生まれたときは差別をしない。
資本主義社会では忘れられるが、基本的に、大人より子供や若者のほうが正義感が強い。
権威主義はそれを隠すため、遵法精神を正義感だと言い換える。
資本主義社会では、業務上必要な以上の他者への誠意は、エネルギーの無駄にしかならない。
立場の弱い相手の尊厳を丁寧に尊重することは、一時的な自己満足以外、何も生まない。
ある種の生き様を示して、感謝や尊敬の感情をいだかせても、すぐ消えてしまい何も報われない。
逆に、立場の弱い相手の尊厳や幸福をどう軽んじても、損することはない。
圧倒的な権力が、警察や軍隊を背景として、自分を守ってくれるからだ。
ある客がどんなに自分を恨んで死んだとしても、怨霊など絶対に現れない。
法治主義の資本主義社会では、立場が目下の労働者は純粋に道具でしかない。
誠実に意味はなく、うまく騙したものが勝ち抜けるだけだ。
したがって、現代社会で毎日を生きるということの経験則が、人を「大人」へと「完成」させていく。
一人の人間を権威主義に染め上げ、社会全体を権威主義に染め上げる。
そして、行動原理や思考原理が権威主義に染まったとき、真実や正義は議題ではなくなる。
社会が権威主義に染まると、立場の強い人達が立場の弱い人達を虐げる世の中になる。
奴隷同士は、権力に媚びることを競い合って、より弱い者を侮辱し搾取しようとする。
すべての言論には権力のための強烈なバイアスがかかり、論理的な議論や推論は成立しなくなる。
うまくいっているという建前の、うまくいっていない組織になる。
効率的に動作しているという建前の、効率的に動作していない組織になる。
経済の根本目的であるはずの人民の幸福が、破綻に向かいつづける。
それゆえ、真実や正義は、人間社会の人々が幸福であるために欠かせない。
つまり、社会が権威主義に染め上げられることは、すなわち人間幸福の破滅を意味する。
では、権威主義の拡大から真実や正義を守る力学とは、何だろうか?
それは、シンパシーつまり共感であり、感謝や尊敬の感情だ。
感謝や尊敬とは本質的に、自己の尊厳を第一優先にするという個人主義的思考原理から逸脱することである。
近代経済社会は欧米の産業革命に由来し、欧米の産業革命は、西洋一神教の個人主義的世界観に由来している。
一神教は、誰が何をしてくれても相手より優先して神に感謝し、相手への恩を直視することから逃げることを許す。
それは、メソポタミアで都市が生じたとき、今の資本主義と同じ原理で生じたものなのだ。
人類幸福は、飛躍的な技術発展を迎え、かつてメソポタミアで生じた資本主義によって破滅しつつある。
一方で、西洋個人主義哲学から最も遠い精神世界を持つ大国はどこだろうか? 日本だ。
日本はある意味で最後の希望であり、人類救済の盟主としての責務を負っている。
人権の平等を謳うことによっては、市民は弱者に敬意など持たない。
むしろ、法的正当性を倫理的正当性と見なして、民主的立法のもとに自己責任論で人を蔑むだけだ。
人間社会の幸福の量はシンパシーの総量と同調するが、資本主義経済は人と人が共感する関係をズタズタに切り裂く。
つまり、シンパシーの価値が軽んじられれば、社会幸福は破滅に向かう。
人間には、生きたいという欲求があり、子を産んで子孫を残したいという、遺伝子の生存欲求がある。
だから、親には子を愛する本能がある。
また、子にも親や兄弟を愛してその幸福を大切に思う本能がある。
同様の心理は近縁のためにも組み込まれていて、隣人の幸福を願う良心が人間にはある。動物はかわいいと感じるし、目の前で動物が殺されれば子供は泣く。
資本主義社会を生きるためには不合理な「優しさ」が、大多数の子供には備わっているのだ。
現代社会にあるいくらかの幸せは、そうして善良な庶民が損をして支えているだけである。
現実には、他人に親切に生きても何も報われず損だから、誰もが「大人」に向かいつづける。
そうしてるうちに、資本主義の原理は家庭のうちにまで浸透していく。本能的な良心という泉は、干上がっていく。
そのような状況にあって、何が、人類社会の幸福を守る力学だろうか?
恩を知る子供達の心を「偉大だ」というその言葉である。
誰もが、「大人」へと向かう。
誰もが、生まれたその瞬間からはじまって、道徳的力学単位としての精神的な死に向かうのだ。
人間は、歳を重ねるほど権威主義に染まり、弱弱しくなっていく。多くは、真実や正義が存在したことすら忘れる。
したがって、行動原理や思考原理の権威主義からの距離が、人の世の第一義的価値である。
個人主義を逸脱したシンパシー、すなわち恩義を行動原理および思考原理とすることの尊厳を最上位に配置することが、人間社会の幸福を防衛するために決して欠かせないルールだ。
要するに、恩義ほど重いものはなく、金銭ほど軽いものはない。
振り返って欧米由来の価値観が浸透した現代の東洋はどうだろうか?
金銭ほど尊重されているものはなく、恩義ほど軽んじられているものはないではないか。
経済的利害に優先して義が論じられない国々は、ことごとく滅びる。
人間幸福の伴わない技術的繁栄は、人間存在の勝利とは言えないからである。
では、優れた人間とはどのような人だろうか?
権威主義に寄り添って社会的な地位を獲得した人ではないとわかるだろう。
多く勉強して良い学校に通い、大きな会社に入ってたくさんお金を得て、地位や外見に優れた異性と結婚し子孫を繁栄させる。そのような世俗的な幸福観が、真の名誉のためには虚しいとわかるだろう。
優秀な人物とは、世俗的な幸福を唾棄して恩義を行動原理とした人のことだ。
誰もがやがて俗物になるなら、それに抗う時間のなかに価値があるのだ。
以上の真実を知り置くところ、汝、初めて正義を語りうると知り置け。