アンドレ「ごめんな」エリアン「寒かったろ」ハンス「これからも……仲間に入れて」アンドレ「いいよ」エリアン「勿論」
異変に気づかないニックは、少し離れた場所でずぶ濡れになったマリーのオレンジ色のジュストコールやキュロットを畳んでいた。
マリーは馬車から目を離し、シチューの椀に視線を落として硬直していた。隣の男の子は何も気づかず、懸命にシチューを啜っていた。
馬車の扉が開く。
そこから降りて来たのは小柄な淑女だった。光沢のある黒い絹のドレスを着て、上から毛皮のショールを羽織り、黒い帽子も被っている。その素顔は更に、帽子の鍔に提げられたヴェールで隠されていた。
馭者の助手の方が馭者席を降りて来て、ランプを手に淑女に同行しようとしたが、淑女は彼の同行を断りランプだけを借りて……教会広場の方へ、真っ直ぐ歩いて来る。
その次に。一度淑女の手で閉められていた馬車の扉が、中に居た誰かの手で開けられ、扉の向こうから5歳くらいの女の子が顔を出す。そのふわふわの毛皮の帽子からはみ出している髪は若栗色だった。
身なりのよいその女の子は淑女に何か言ったようだが、何を言ったかまでは、マリーやニックには聞き取れなかった。
「すぐ戻るわ、大人しく待っていてね」
淑女が振り向いてそう言うと、女の子は少しの間躊躇した後で頷いて客室の中に戻り扉を閉めた。女の子は扉の中に消える前に一瞬、自分を凝視しているマリーに気づいたようだった。
―― すぐ戻るわ、大人しく待っていてね
その淑女の声はマリーにも聞こえていた。マリーはますます硬直し、普段の自分を失う。マリーの脳裏にはこの淑女が10年前、全く同じ台詞を言った時の光景がフラッシュバックしていた。
―― すぐ戻るわ、大人しく待っていてね……
淑女は足早にマリーの方へと歩み寄って来る。その瞳は真っ直ぐ、マリーの方を見つめていた。
マリーは、ほんの少し期待していた。
彼女の手が自分に伸びる事を。彼女が自分の名前を呼ぶ事を。
ここは故郷から遠く離れた地、ウインダム。
10年の時間。直線でも1000km離れた距離。
ここでの出会いはそれ自体が奇跡なのだ。
その期待がマリーの口元に、ほんの僅かな、不器用な微笑みとなって現れた。
次の瞬間。
黒いドレスの淑女ニーナ・ラグランジュは足を止め……ヴェールから僅かに覗く口元を、微かに……引き締めた。
マリーの口元から笑みが消える。背筋に震えが走る。
ニーナは再びマリーに向かって歩き出す。マリーは後ずさりして、いや立ち上がって逃げようとしたのだが、寒さと恐怖に凍りついた体は言う事を聞かなかった。
「ちが……違う、これは」
掠れた呻き声を漏らすマリーの、2m前まで来たニーナは立ち止まり、毛皮のショールの懐に手を入れる。
マリーはますます青ざめ、涙目で、何度か小さく首を振る。
「やめ……やめて……」
「御願い」
ニーナは懐から小さな、黄色い紐のついた赤いベルベッドの小さな袋を取り出し、指先でつまんで、手を伸ばし……マリーに向けて差し出した。
「私も決して楽じゃないのよ、これが本当に、今の私が自由に使える分の全てなの。だから御願い、これを持って立ち去って」
マリーはニーナを見上げた。言いたい事はたくさんあるのに、青ざめ、震える唇からは一つも出て来ない。マリーはただ、涙を溜めた顔を小さく、ゆっくり左右に振り続ける事しか出来なかった。
ニーナはさらに近づき、マリーに袋を、いくらかの硬貨が入った袋を渡そうとする。マリーは尻込み、後ずさりする。
「御願い」
「あの……どうかなさいましたか」
その時。牧師の一人がゆっくりと歩いて二人に近づいて来た。牧師はマリーの後ろからやって来たので、マリーの表情は見ていなかった。
ニーナはヴェールの奥で、小さく溜息をつく。
「神父さま……いえ、牧師さまかしら? このお金を皆様の救貧活動に役立てて下さらないかしら。特に……その子の」
牧師はそれを、マリーの隣で極光鱒のシチューに夢中になっている、7歳くらいの男の子の為の寄付と理解した。
「あ……ありがとうございますマダム、あの、宜しければお名前を」
「ごめんなさい、匿名で御願い」
ニーナは牧師に向けて手を伸ばす。牧師は両手を差し出し、ニーナからその赤いベルベッドの、恐らく硬貨が20枚前後入っている小さな袋を……受け取る。
マリーは涙を堪え、震えながらそれをただ見つめていた。
ニーナは踵を返し、マリーと牧師に背を向けた。
漆黒の絹のドレスにニーナの長い後ろ髪が浮かび上がる。
そのどんな黄金も絹もかくやという美しい白金色の癖の無いまっすぐで艶やかな髪は、幼い頃のマリーが欲して止まなかった、憧れの髪だった。
◇◇◇
ニックはその光景を途中から何となく見ていた。寒さに震えるマリーの元にヴェールをつけた町の貴婦人がやって来て、マリーに何か渡そうとして……マリーが受け取りを拒んでいると牧師がやって来て代わりに受け取り……礼を言った。ニックにはそれがただそれだけの光景に見えた。
ただそれだけなのに、妙な胸騒ぎがする。ニックはそうも思っていた。この違和感は何だろう。
とても大きくぼろぼろのチュニックを着ているせいだろうか。ニックの目には、今のマリーの背中はとても小さく見えた。
ニーナは振り返らずに歩き去り、馬車の扉を開く。
馬車に乗っていた女の子はすぐに身を乗り出し、ニーナに両手を伸ばした。
マリーは、もう一度その女の子を見た。
ニーナは女の子を抱き抱えるように馬車の客室に乗り込み扉を閉めた。程なくして、馬車は再び走り出した。
ニックは畳み終えたジュストコールとキュロットを風呂敷に包む。そしてもう一度顔を上げる。
馬車の行方を見送っていたマリーが、まるで土下座をするかのように地面に顔を埋めている。
「船長?」
ニックは小走りでマリーの方に近づく。
マリーは肩を震わせて呻く。
「見てた? 不精ひげ」
「あ……ああ。何があったんだ? 寄付を受け取っていたようだけど」
ニックは何気なくそう答えた。
「そうですよ! 寄付を受け取ってしまいました……私がみすぼらしいから、善意のお金をいただいてしまいました。ははは。酷い話ですよ、これじゃ私、詐欺師みたいじゃないですか。はははは……」
マリーが精一杯強がっているのは、ニックにもすぐに解った。
「罰が当たったんですよ。偶然上手く行った商売で儲けた泡銭で、偉そうに寄付を申し出たり派手な買い物をしたり、いい所の旦那衆と対等に付き合おうとしたり……調子に乗るなってねぇ、天罰が下ったんですよ、私」
「……何の話だよ、いいじゃないか、牧師さん、貧しい人、商店や旦那衆、誰も損してないしみんな喜んでる。あの御婦人だっていい事をしたつもりでいるんだろ」
ニックはマリーを労るつもりで、そう言った。
「そうだよ。不精ひげの言う通りですよ……帰ろう、フォルコン号に。寒いし疲れちゃったよ。ははは」