ファーレンテイン「ラグランジュ殿の姿が見えないが」シーウェルト「ははは、レディは遅れて来るものですぞ」
昼間は大声で自分の名前を売り歩いていたマリー。酷く緊張してノルデン男爵の屋敷を訪れるも目当ての人には会えず。すると熱が冷めたかのように大人しくなり……
三人称ステージが続きます。マリーは何を考えているのでしょう。
マリーとニックが顔を上げると、馬車の辺りで二人の……8歳か9歳くらいの男の子が、それより少し小さい一人の男の子に語気荒く迫っている。
馭者は馬車を離れて極光鱒のアラのシチューを食べていて、近くには他の子供しか居ない。マリーは木の椀を置いて立ち上がる。
「やめろって言ってるだろ!」「何してんだよ!」
二人の男の子は尚も迫り、もう一人は震え、後ずさる。大人達から見えたのはその構図だけだった。しかし。
「待って。喧嘩はやめなさい」
マリーは落ち着いた調子でそう声を掛けた。二人の男の子は一瞬、マリーの方を見た。
もう一人の小さな男の子の様子が、ニックからも見えた……どうやらその小さな子は馬車の座席に置いていた、マリーが購入したばかりの美しい象嵌細工のついた短銃に触っていたらしい。
それを別の少し大きな男の子達が見咎め、急に怒鳴りつけた。
小さな男の子は別にそれを盗もうとか、そういうつもりではなかったのだと思う。しかし怒鳴りつけられてパニックになったのだろう、その短銃を持ったまま後ずさりしてしまったのだ。
「聞こえないのか、やめろよ!」「ふざけんなおまえ!」
二人の男の子はますます怒る。二人は大人の持ち物に触ってはいけない、特に銃は危険な物なので触ったら酷く叱られる、そう思っていた。しかし二人はその事をきちんと説明出来ず、ただ年下の子を威嚇する事しか出来なかった。
「待って! 怒らなくていいから!」
短銃は現時点では弾や火薬を籠めてるはずもない、ただの装飾品だ。
そして馬車の座席にそんな物を放置してしまったのは自分の落ち度であり、小さな男の子が責められる事ではない。マリーは子供達の元へ駆け出す。
しかし。
「うわ、わあああ!」
―― ドボォン!
二人の年上の男の子に手を伸ばされ、腕を掴まれそうになった男の子は不用意にさらに後ずさりした挙句、短銃を持ったまま、道路と並行して流れる、幅10m程の水路に転落してしまった。
空は僅かに西の空が色づいている程度。教会脇の広場には複数の篝火が焚かれているが水路の周りは暗い。この辺りはもう通船も通っていない。
広場にはたくさんの人が居て、人が落ちた水路は目の前。
これがもし真夏の昼間ならどうという事は無い。落ち着いて誰かが手や棒を差し伸べればいい。しかし今は池の水が凍るような真冬である。
「待て船長! 俺が行くから!」
ニックは急ぎ駆けつけるが、マリーの反応の速さには及ばなかった。
―― ドブン。
岸壁に腰掛け、滑るように素早く水中に入ったマリーは、たちまち声も上げられなくなっていた少年の腰に後ろから抱き着き、引き上げていた。
「不精ひげ!」
「お、おう!」
駆け付けたニックはマリーに救助された少年を岸壁に引っ張り上げる。ニックは次にマリーを引き上げようとしたが、
「その子を早く火の近くに! 牧師さん、着替えはありませんか!?」
結局ニックは先に子供を抱えてストーブの近くに連れて行ってやり、マリーは自力で岸壁に這い上がった。
水路はマリーでぎりぎり足がつく程度には深く、無意識に落水し一瞬にして闇に閉じ込められてしまった7歳の子供に、自助努力など期待出来なかった。
もちろん水温も大変に低い。実際男の子は救助されても暫くは泣き声を上げる事すら出来なかった。
そして寒いのはマリーも一緒である。ここの所落水癖がついていたマリーではあるが、魔法のかかっていない服で水に落ちたのは初めてである。
「大丈夫ですかマリー・パスファインダーさん!? 皆さん、ストーブの前を少し空けて下さい!」
「マリー・パスファインダーさん、今、着替えと乾いた布をお持ちします!」
「あ……あの……もうフルネームはやめて下さい、マリーで……結構です……」
教会にはまともに服も持っていない人々の為に、市民が寄付した服が何着かあった。しかしそれらは本当にボロボロの服ばかりで、一応洗って繕ってあるという程度の物だった。
炊き出しに来ていた女達に手伝ってもらい、教会の脇の納屋で着替えを終えたマリーは、青白い顔をして石煉瓦のストーブの近くに戻って来て、背中を丸めてしゃがみ込む。
「寒い……寒い……」
先程まではきちんと結ってあった髪も、今は解けてくしゃくしゃである。
「何で俺が行くまで待たなかったんだよ……」
ニックはマリーが置き去りにしていた極光鱒のシチューの椀をマリーに渡す。マリーは暖かいシチューを注ぎ足されたその椀を両手て受け取り、口をつけて啜る。
「全く! ズズズ……ですよ。次に同じ事があったらねぇ、ひえくしっ! 絶対不精ひげに、ズゥズズ、行ってもらいますよ」
「船長、ちょっと行儀が悪いぞ」
「何ならヒェぷしっ、不精ひげ、今からでも一泳ぎして来てよ!」
顔を上げてそう叫んだマリーの視線に、先程助けたばかりの小さな男の子が入る。男の子も着替えを貰ってストーブの前に座らせて貰っていたが、周りを囲んでいる大人や子供の雰囲気は、あまり友好的とは言えなかった。
「ちょっと待って!」
マリーはシチューの椀を手に、寒そうにしゃがんだまま、その男の子の方に移動する。
「ああ……あの、マリーさん、貴女の短銃はこいつが水路に落としてしまったらしい、あれは勿論……大事な物なんだよな……?」
炊き出しに参加していたらしい一人の初老の男が、申し訳なさそうに手を擦り合わせてそう言った。
「皆さんにそんな気の毒そうにして頂く程の物じゃありませんよ! 弾が出て熊が驚くだけの玩具です!」
マリーは男の子の隣に寄り添い、その肩に手を置く。
「ちょっと触ってみたかっただけだよね? 私があんな所に置いとくからですよ、ねえ? そっちの男の子二人も! それに触ってはいけないって言いたかっただけなんだよね? そうでしょう? だからどうか、誰も怒らないで下さい」
マリーはしゃがんだまま、周りを見渡す。水路では数人の大人達が、棒を突っ込んで短銃が落ちた辺りの水底を探っていた。
一人の痩せ細った老婆が、ぼそりと呟く。
「だ、だけど、これは、泥棒だよ、示しがつかないよ」
マリーは懸命に首を振る。
「泥棒じゃないですよ! この子の手は今は小さいけれど、いつか大きくなって町と人の為にたくさんの良い事をしてくれる手になりますよ、きっとそうなります! だから君もほら、食べないと大きくなれないから、冷めないうちに食べて!」
涙にくれる男の子は、牧師が持って来てくれたシチューの椀に手を伸ばせずにいた。彼は小さいなりに周りの大人や子供の非難の視線を感じていたのだ。マリーは自分の椀を置き、その子の椀を取って、その両手に持たせてやる。
「ほら、こうして! ズズーッと食べて!」
そしてマリーは自らも椀を取りそっと口に運んで見せる。男の子もようやく、それを真似て椀を自分の口に運ぶ。
それを見た周りの大人達は、互いに顔を見合わせ、苦笑いをしたり、頷いたりしてから、徐々にその場から離れる。先程の老婆だけはまだ少し納得が行かない様子ではあったが、やはり背を向けてそのストーブの近くからは立ち去る。
短銃に触れるのを見咎めた二人の男の子も、別の大人に促され、自分達のシチューの椀を持ったまま、そのストーブからは少し離れる。
周りを取り囲んでいた人々が離れると、男の子は音を立ててシチューを啜りだす。本当は猛烈に腹が減っていたし、寒くて死にそうと思っていたのだ。
その様子を少し離れた所で見守っていたニックは思う。船長の判断は間違っていないだろう。あの子はただの手癖の悪い子ではないし、罪悪感も十分感じていたようだと。
水路の方ではまだ大人達が水底を攫っていた。
そして広場と水路の間の道を、一台の馬車がやって来る……それは二頭引きの四輪馬車で、きちんとした天蓋と硝子窓のついた扉のある、立派な物だった。
窓はカーテンが閉められていたが、隙間から少し明かりが漏れていた。中に誰か乗っているらしい。
―― カン、カン。
馭者も二人乗りだ。そのうち助手の方が小さなハンマーで鐘を叩き、道路に広がっていた人々に移動するよう促す。
マリーは、一歩も動けなかった。
彼女はただ、極光鱒のシチューの椀を手に、ストーブの前で、7歳くらいの男の子と共に、背中を丸めてしゃがんでいた。
マリーが着ているのは男物のチュニックだった。元は青灰色だったそれは長年の使用により色褪せてまだら模様になっており、擦り切れた肘の部分は他のぼろ布で補修され、身丈にも破れたのを縫った跡が方々にあり、そして、マリーの体には大き過ぎだった。
マリーは他の数人の浮浪児や浮浪者と同様に、靴を履いていなかった。
マリーの隣にいる少年もそうだ。靴を履いておらず、サイズの合わない大きなボロボロの服を着ている。
少年は両手で持った椀に直接口をつけ、音を立ててそれを啜っていた。
それは馬車の客室の窓の、カーテンの隙間から覗く瞳には、どのように映ったのか。
馬車はゆっくりと、小さな教会とその広場の横を通り過ぎて行く。
マリーは、ただ茫然とその馬車の客室の窓を見つめていた。
教会の前を通り過ぎた馬車は、さらに30m程離れた所で……停まった。