デュモン「はっ。必ずやあの女を捕え、陛下の御前に引き出して参ります」
マリー・パスファインダーと望郷の旅路と銘打ったこの話ですが、マリーの帰郷はどーんと遠のいてしまいました。
少し時間は飛んで、年明けから一週間近く経ったある夜のこと。
この話は三人称で御願い致します。
その町の名前を、アイビス人は単に王都と呼ぶ。それは勿論自分達が戴く王室と国王に敬意を表しての事である。
ノワール宮殿は、王都の中央を流れるセリーヌ川の右岸に聳え立っていた。
歴代の王は大都市の中央にあるこの城をあまり好まず、緑豊かで人の多過ぎない郊外の美しい城に住む事が多かったのだが、先代国王アントワーヌは中央集権を進める為敢えてこの宮殿に住み続けた。
アンブロワーズも、ここで生まれている。
アイビス国王、アンブロワーズ・アルセーヌ・ド・アイビスは、ノワール宮殿が持ついくつもの尖塔の一つ、南西塔の最上階の窓辺に佇んでいた。
ここは勿論国王の居室などではなく、本来は城の防衛の為の施設である。しかしこの塔はその昔よく、幼いアンブロワーズ王子の躾の為に使われた。王子が両親や家庭教師の言いつけを破ると、ここに閉じ込めるのだ。
幼い王子にとって暗く殺風景で人の声も聞こえない南西塔は大変な恐怖の対象で、その威力は凄まじく、家庭教師が南西塔と呟いただけで王子は玩具で遊ぶのをやめ、宿題に取り掛かる程だった。
しかし今。成長し戴冠してアイビス国王となったアンブロワーズは、何か嫌な出来事や臣下から反省を求められるような問題があると、自らこの塔に籠るようになっていた。
「陛下……風紀兵団、ヨハン・トライダー、参上致しました」
「ああ、ヨハン君。こんな時間に呼び出して悪いね」
窓辺を離れたアンブロワーズは、だだっ広く天井の高い円形の部屋の真ん中にポツンと置かれた、粗末なテーブルと二脚の椅子のセットを指し示す。
周りには廷臣も近衛兵も、侍女すらも居ない。アンブロワーズは手ずから、テーブルの上のポットの中身を二つのカップに注ぐ。
「どうぞ」
「頂戴します」
二人は席に着き、トライダーはその冷めたぬるま湯を一口飲む。
「風紀兵団、大変な事になってるね」
「……総団長」
トライダーは暫し口籠る。風紀兵団の総団長はアイビス国王アンブロワーズ自らが務めている。それは勿論名誉職であり、アンブロワーズが総団長として出動する事など無いのだが。
「解ってるよ。風紀兵団が急に持て囃されるようになったのは私のせいです。絶世の美女に夢中になって別荘を抜け出して、危うく誘拐され掛けた間抜けな国王を、無事、取り戻したのは風紀兵団です。だけどその風紀兵団の総団長は私なんだから、とんだ自作自演だよね」
「その事なのですが総団長、いえ……陛下。何故枢機卿や風紀兵団が隠しているその噂が、まるで火の手のように王都じゅうに広まるのでしょう。今では王都に連なる街道の物乞いまで、その噂を知っております」
「私があの手この手を使って流してるからだよ」
「ああ……」
アンブロワーズはテーブルに頬杖をつき、事も無げに答えてから、冷めた湯を一口飲み、カップを持ったまま窓辺へと戻って行く。
「だって、私は何も後悔していないから……巻き込まれた皆さんにはお気の毒だけど、そんな事気にしてたら王様なんて出来ません。偽船長の彼女はとても美しく、豊かな教養があり、その上野性的でした。レイヴン人は意地悪だねえ、あんな素敵な女性なら普通に紹介してくれたら恩に着るのに」
「では惜しい事をしましたね、彼等は」
二人は声を合わせ、少しだけ笑う。
「……だけど君は、彼女を許せなかった」
「そうですね……彼女が名乗った、マリー・パスファインダーは私の想い人の名前なのです。陛下は本物も御覧になられたと思いますが」
「会いましたよ。ケツあご、ヘンテコもみあげ、毛虫まゆげ……そんな素敵な罵声も頂きました」
トライダーは長い溜息をつき、テーブルに肘をつき掌に顔を埋める。
二人は暫くの間無言だった。先に口を開いたのはアンブロワーズである。
「ヨハン。私は、自分は何とだらしのない男なんだろうと思ってね……」
トライダーは顔を上げる。
「そのような事はありません、総団長は騎士としても為政者としても立派な方で」
「いや、ただの男としての話さ。自分でそう思うんだから仕方ないじゃない……その前に。君、何か私に頼み事があるんじゃないの?」
「……いいえ。そのような事はありません」
「本当に? マリー・パスファインダーの事じゃないんですか? エドもちょっと怒ってたし、修道騎士団のなんだっけ……顔の怖いやつ。あいつなんか草の根分けてもあの小娘を探し出すって息巻いてたけど」
「私は今、風紀兵団の友人としてここに来ているのです。その立場を利用して国王陛下に何かを御願いするのは間違っています」
アンブロワーズは少しだけ振り向いてトライダーを見たが、また窓の外の、見事な満月に目を戻す。
「そうか……相変わらず、真っ直ぐな男だねぇ、君は」
あれから、一週間が経っていた。
トライダーは風紀兵団に復帰していた。隊員達は彼に団長に戻るよう薦めたが、トライダーは平隊士からやりなおすと言った。
それでもアンブロワーズは個人的な友人として彼を塔に呼んだ。
「ヨハン。私は偽のマリー船長に夢中になって、たくさんの人に迷惑を掛けた。それなのに今、思い出すのは本物のマリー船長の事ばかりでね」
アンブロワーズは、さらに窓辺に歩み寄り、そこに腰掛ける。
「あの時は……背が低くて髪も短くて、痩せっぽちなのに丈夫で身軽で、何だか小さなおサルさんのような子だとしか思わなかったのになあ。こういう静かな場所で目を閉じると、あの時の光景が蘇って来るんです……勇敢で仲間想いで……私が国王だって知らなかったのに、一生懸命戦うあの子の姿が」
トライダーはさらに深い溜息をつく。それはもう一週間も前の無事終わった出来事だというのに、自分のすぐ近くでマリーが危険な目に遭っていたと思うと、未だ大変な焦燥感に苛まれるのだ。
アンブロワーズはその様子を横目で見て、続ける。
「その後であの子がくれた平手打ち。あれは……どんなキッスよりも強く、私の心を揺さぶりました……もしかすると彼女は、私の心の開けてはいけない開かずの扉を開いてしまったのかもしれない……」
俯くアンブロワーズに、トライダーも思わず顔を上げる。
「陛下?」
「優しくて、人を撃つのが嫌なんだろうね。ぽろぽろ涙をこぼしながら必死に戦う、そんなあの子が可哀想になって、私、わざと場違いなのんびりした事を聞いたんです。少し気持ちを和ませてあげようかと思ってね。そうしたらあの子怒って、ペチ、って。それは小さなお手々でねえ。ほんのりと、鉄と硝煙の臭いがしたなあ」
トライダーは、背中を向けて満月を見つめているアンブロワーズに向き直り、立ち上がる。
「陛下。どんなに勇敢で有能に見えても、彼女は15歳の孤児なのです。そして仰せの通り、彼女の本質は戦士向きではありません……私はどうしても彼女に学問と平和を与えたい……ハワード王立養育院へ連れて行きたいと願っております」
アンブロワーズも窓辺から離れ、トライダーに向き直る。
「風紀兵団の報告では、彼女は君と二人で山賊の一団を打ち破り、残らず捕虜にしたとも聞いていますよ?」
「恥ずかしながら、あの時はまさか山賊の群れを相手にたった一人で戦場を支えている勇敢な衛士が、マリー君だとは思わなかったのです。私もそれに気づいていれば、どんな事をしてもまず最初にマリー君を戦場から遠ざけておりました」
アンブロワーズは、小さく頷いて。
「もう一度聞くよ。本当に私に頼み事は無いの? あの子を指名手配にしろという者も居るけど、エドはそれには反対している。彼女は国王の料理人を奪還した勇敢で名誉ある銃士であると。それとは別に、個人的に彼女を捕えて私の前に引き出すとも言ってるけどね」
トライダーは一度は目を伏せる。アンブロワーズは暗に、自分なら枢機卿達を止められると言っているのだ。ユロー枢機卿は国王陛下の命令には決して逆らわない。アンブロワーズが一言言えば、マリーが修道騎士団に追われる事はなくなる……
トライダーは、瞳を上げ、再びアンブロワーズを真っ直ぐに見つめる。
「いいえ。私は必ず、マリー君を王立養育院に連れて行きます。陛下に御願いする事があるとすれば、どうかこれからも王立養育院が今のような素晴らしい場所であり続けられるよう、御配慮を御願い致したいという事だけです」
「……本当にそれでいいのかい? 私がエドや修道騎士団を止めないのは、彼等がもう一度、私をあの子と会わせてくれる事を期待してるからですよ……彼等には勿論、きつく言ってあります。あの子を捕えるのはいいが、絶対に傷つける事のないようにと」
それを聞いたトライダーは、思わず安堵の溜息をつく。アンブロワーズはその様子を見て低く笑う。
「安心するのは早過ぎるぞヨハン。私もうマリーちゃんにぞっこんですよ? あの子、私と一緒にこの宮殿に住んでくれないかなあ。あの子に毎日叱られて、平手打ちされて暮らす事が出来たら、どんなに幸せな事でしょう!」
アンブロワーズはそう言って、南東側の窓から床へと差し込む月の光の中へと軽やかにスキップして行く。
「ふふ、ふ……御冗談でしょう、陛下」
「冗談なものか! 先にマリーちゃんを手に入れるのは私か君か、恨みっこなしの競争だ。ハッハッハ。素敵だねぇ、これぞ青春というものですよ!」
月明かりのステージで踊り出すアイビス国王、アンブロワーズ・アルセーヌ・ド・アイビス。立場を越えた彼の友人の一人、ヨハン・トライダーは愛想や忖度ではない笑みを浮かべ、テーブルの水杯のカップを掲げる。