熱血漢の黒鹿毛の軍馬「仲間ァ救って来いやァァァ!」
船酔い知らずの魔法、覆水盆返しのマスケット銃、勝手知ったるリトルマリー号、そしてどうやら自分で言ってるうちに自己暗示にかかってしまったらしい、風紀兵団の誇り(笑)。様々な力を借りた本物のマリーが、偽マリーとの対決に挑む。
ちょこまかと変えて申し訳ありません、この話は三人称で御願い致します。
リトルマリー号は今まさに桟橋の狭間を抜けようとしていた。狭間と言ってもそれは30mほどはあり、全幅4mのリトルマリー号にとってはどうという事の無い幅だが、大型船などは時にロープを掛けて通る場所だ。
マリーは鐙から足を外し、黒鹿毛の駒の背中に乗せる。
次の瞬間、陸軍の駿馬は桟橋の行き止まりの柵の向こうへ、海に向かって飛んだ。
船酔い知らずの魔法で常人には無い身軽さを身につけているマリーは、宙を舞う馬の背中から、マスケット銃を抱えて更に飛んだ。
「うわああ!?」
リトルマリー号の水夫達は黒鹿毛の馬の方に気を取られていた。まさかあの馬が桟橋から大きく跳んでリトルマリー号の甲板に降りて来るのかと。
しかし、勇敢な馬は桟橋の淵から7、8mは飛んだように見えるものの、リトルマリー号と桟橋の中間の海面に落ちて、大きな水飛沫を上げた。
「と、届かないじゃないか、おどかすなよ……」
一人の水夫が顔を引きつらせて笑った、次の瞬間。
―― ドォン!
リトルマリー号のマストに連なる静索にフクロウの如く舞い降りた、かつてのこの船の船長、フォルコン・パスファインダーの娘マリー・パスファインダーは、いつの間にか着剣されていたマスケット銃の銃口を天に向け、引き金を引いたのだ。
甲板に緊張が走る。
「ハッ、威嚇発砲だ、この……」
この小娘は人を撃てない。別の水夫がそう唇を歪めて笑おうとした瞬間。静索からマストへ登ろうとしていた水夫が一人、甲板に落ちて来た。その小娘による発砲の反動を利用した銃床での側頭部への打撃にやられたのだ。
そして小娘、マリーは既に甲板に、操舵手の目の前へと飛び降り、襲い掛かっていた。
―― ドン!
「ひ、ひええっ!?」
操舵手は舵輪を手放して飛び退いていた。そうしなければ脇腹を撃ち抜かれていたかもしれない。
―― ドォォン!
追い撃ちで発砲するマリーから操舵手は這いつくばって逃げる。マリーはすぐに操舵輪を握った。リトルマリー号の舵輪にはろくに変速機構が無く、重い。
「風紀ある、市井ィィ!」
マリーはマスケット銃を小脇に抱え、力を込めて全身で舵輪を回す。
リトルマリー号の船体が緩やかに大きく傾く。甲板の水夫達がよろけ、転倒し、下層甲板への昇降口の辺りに掛けられていた駕籠から林檎のような赤い実が、甲板に転げ落ちる。
「ふざけるなッ! その小娘を殺せ!」
船首側で誰かがそう叫んだ瞬間、マリーはマスケット銃を手に舵輪から飛び退いて離れた。
それを見た先程の操舵手とは別の水夫が、急いで舵輪に飛びつき舵を戻そうとしたが。
「な、何だ、動かないぞ!?」
「固定されてるんだ、固定具を外せ!」
「ど、どこだよ固定具は!」
さらに数人の水夫が舵輪に飛びつき何とか操作しようとするが、リトルマリー号の舵輪はマリーに固定されたまま動こうとしなかった。アレクが改造した勝手知ったる者にとっては使い易い固定レバーは、一見の者には目につきにくい場所についている。
「お前ら! 先に小娘を始末しろ!」
先程、小娘を殺せと言った水夫は舵輪に集まった水夫達にそうけしかけるが。
「ヒエッ!? まま待て撃つな!」
気が付けばマリーはもうその水夫のすぐ斜め上の静索に居て、マスケット銃を構えていた。
―― ドン!
次の瞬間身を翻したマリーはその水夫の視界から消えた。彼の側頭部にはマスケット銃の銃床が突きつけられ、その発砲の反動は彼を気絶させるには十分だった。
そして。
―― バキバキバキ! ガリガリガリ!
マリーに舵を切られたリトルマリー号は進路を逸らし、船首から港湾管理用の桟橋に接触し、減速する。グラスト海軍が取り付けた船体の廻り縁が、桟橋の渡し板を抉る。
アルセーヌは偽マリーと共にリトルマリー号の下層甲板船首側の会食室に避難して居た。ここは国王の為に改装され、壁にも床にも羅紗が張られた瀟洒な小部屋となっていた。
彼は俯いていた。日々の仕事のストレスを癒やす為、退屈な日常にスリルという花を添える為、彼はここにやって来た。しかし今回はいささか話を大きくし過ぎてしまったと思う。
数か月前、忙しい自分を見捨ててどこかへ去ってしまった、風紀兵団の団長で個人的にも友人だと信じていたヨハンが、乞食のような恰好をして戻って来た事にも驚いた。そしてヨハンはこのマリーを偽者だと訴えた。
自分のもう一人の友人であるエドにも見つかってしまった。エドには純粋に合わせる顔が無い。
冷酷で容赦ない他の家臣共と違い、エドは自分が悪い事をしても全然怒らない。いつも、国王は気まぐれで構わないのだとか、いざという時だけ役に立てばいいのだとか言ってくれる。しかしアルセーヌはそんなエドにちゃんと相談せず、今回の行動を起こしてしまった。
自分が侍従共を出し抜き、一人で別荘を抜け出してまでマリー船長に会いに来たと知って、今日こそエドは怒っているのではないか。
だけど今回の事は、一人の、一人前のアイビスの男として、自力で成し遂げたかったのだ。
エドは大変に優秀である。彼に相談したらどうなっていたか。きっと彼は侍従共にもマリー船長にも全部話した上で、完璧なお膳立てを整えてしまっていただろう。
そんなのは嫌だ。自分は国王である前に一人のアイビス男だ。不倫の一つぐらい、自分の勇気と機転によって成し遂げたい。
自分は生まれながらの王子であり、何の障害もなく戴冠して国王になった。それは順風な人生で結構なのかもしれないが、時々、自分は家臣達に植えられた鉢植えの花なのではないかと思える時がある。
そうして生きる事は自分に課せられた義務なのだと解ってはいるのだが。時には自らを潤す水差し一杯分の水を、自ら汲みに行きたいと思うのはそんなに我侭な事なのだろうか。
「どうかなさいましたの……? アルセーヌ様」
偽マリーは小首を傾げて尋ねる。
「う……うん……いや……少し大事になってしまったと思いましてね」
アルセーヌは偽マリーが煎れてくれたお茶のカップを、そっと口に運ぶ。リトルマリー号には申し分のない白磁のポットとカップが一揃え用意されていた。
「ああ……海の上でこんなに素敵なお茶が飲めるなんて。人生、捨てたもんじゃありませんね……貴女が煎れてくれたお茶は素晴らしい」
「まあ。ありがとうございます」
―― ドォン! ドン!
―― くそっ、飛び道具で取り囲め、頭上に気をつけろ!
―― もう増援が来るぞ、焦るな! ぐわッ!?
「甲板は騒がしいようですが。貴女とこうしてお茶を飲む事が出来て本当に良かった……抜け出して来た甲斐がありましたよ」
偽マリーはじっと、アルセーヌを見つめていたが、やがて申し訳なさそうに眉を顰めて切り出す。
「その事なのですが、陛下……」
「だめだめ、陛下はやめて。解っていますよ。それを含めて、後悔していないと申し上げているんです私……美しい人よ」
偽マリーは苦笑いと共に小さな溜息をつく。
「そう……そうですの」
「貴女の……本当のお名前をお伺いしても?」
「……ジゼルと申しますわ」
「素敵な名前だ。改めて申し上げますが、ジゼルさん。貴女に会いに来て本当に良かった。ブレイビスで流行している歌劇のお話は特に興味深かった。いつか本当に貴女と一緒に観劇に行けたらいいのですが」
アルセーヌはそう言って、静かにカップを置いた。
「……このまま、御一緒に来ていただいても結構ですのよ?」
「さて……それはどうなりますか……そろそろあの小猿がここに乗り込んで来るようですよ……ジゼルさん、美しい人よ、貴女も避難した方が宜しいのではありませんか」