マリー「本人も私の事なんて覚えてなかったし、私は関係ないんだよね?」
リトルマリー号から弾き出されてしまったマリー。
国王陛下は本当にリトルマリー号に乗って行ってしまうのか……
なんだか大変な事件に巻き込まれてしまいました。
この話も三人称で御願い致します。
リトルマリー号のブリッジが強引に外された。作業に協力していた数人のごろつきや工作員を乗せたまま、ブリッジは傾き海中に落下する。
―― ドボォォォン!!
海に落ち、悲鳴を上げる男共。波止場の上の男共は喝采を上げる。
「見ろ! リトルマリー号の出航だ!!」
「ヒャッハー! よい航海を!!」
ブリッジから解放され、係留索も全て解かれ、マリーが投げ込んだ錨を再び上げたリトルマリー号は帆を開き、折からの北東風に恵まれてゆっくりと離岸して行く。
勿論、波止場の男達、皆が皆喜んでいる訳ではない。
「おのれ、貴様ら……! 一人も許さぬ!」
修道騎士の団長、デュモン卿はその細面を鬼面に染め、既に返り血塗れとなった剣の柄を握り締める。
彼の部下の黒衣の騎士達も、罵声を上げ憤りを示す。
波止場のごろつきや工作員の一部は既に逃走を始めていた。市内からはようやく騒ぎに気付いた衛兵や軍の兵士がこちらに集まりつつあったが、殆ど間に合いそうにない。
最初の偽陸兵などは、ヨハン・トライダーを抑えつけたまま開き直っていた。
「我々は義勇兵として、リトルマリー号に狼藉を働こうとしていた男を捕えただけだ! 何も悪い事はしていない!」
デュモン卿に手傷を負わされ、波止場に座り込んで泣き喚く男も居る。
「そうだ! 俺達はあの、料理人風の男が! 出航したいと言うから手伝っただけだぁあ! ひひ、ひひひ!」
枢機卿は密かに唇を噛む。何と言う不覚か。自分の目の前でこのような事を許すとは。しかし反省している暇は無い。自分は常に最善手を探さなくてはならない。
「デュモン……一度剣を収めるのだ」
「猊下!? 何故そのような!」
「この者達の始末は後回しにするしかない。この騒ぎは肩が触れた触れないで始まった私闘だ。陛下はここに居なかった」
「しかし猊下、それでは……!」
「マリオットだけは決して逃がしてはならん、早く掬い上げて拘束するのだ」
声を落とし、枢機卿はデュモンにそう告げる。デュモンは決して納得の行った表情はしていなかったが、言われた通り、剣を収める。
波止場には既に風紀兵団に殴り倒されたり、デュモン卿らに斬り倒されたりした工作員やごろつきが何人も転がっている。黒衣の騎士も数人が負傷していた。しかし、風紀兵団は一人も負傷していなかった。
「団長! ああ大変だ、誰か火を起こせ!」
そこへ、背が低い方のマリー、いや本物のマリーは海面から2m高い波止場へと自力で這い上がって来た。風紀兵団が二人、慌てて近くに元に駆け寄るが。
「大丈夫です、それよりリトルマリーを止めなきゃ」
マリーの頭から掌程の大きさの茶色い蟹がボタリと波止場の石畳に落ちる。蟹は大慌てで海へと帰って行く。
「バウスプリットを切り落とすなんて。あれは他の船に乗り換えて逃げる気なんじゃないですか。この辺りに他に船は居ないんですか?」
マリーは肩に掛かった大きな流れ藻を放り捨てながら港一帯を見渡す。しかし湾内の船は国王の観艦式に備えて移動させられており、近くにはボート一つ無い。
一方、港と外海の間には港湾管理の為の細く長い桟橋が連なっており、船が通れる出入り口を狭めている。あの桟橋へ走れば、港を抜け出そうとするリトルマリー号にかなり近づけるだろう。
しかし、港湾を大きく囲う桟橋の袂はかなり遠い。陸を周って走って行っても、とても追いつけそうにない。
「貴様……何故奴等を撃たなかった」
マリーの姿を見咎め、デュモン卿は冷たく呟く。マリーはただ、俯いて溜息をついた。
そこへ。
「団長ー!!」
市街の方から、別の風紀兵団が四人、それぞれに馬に乗り、さらに別に四頭の馬を牽いて駆け寄って来る。
「ど……どうしたんですか、その馬」
「陸軍の馬です、騒ぎを聞いて駆け付ける途中の厩舎に居たのでお借りしました」
「よ……よく貸してくれましたね、そんなの」
「いえ、だいぶ抵抗されましたが緊急事態と思いましたので! 何かのお役に立てるかもしれないと」
マリーは内心非常に驚く。これがあの規則規則で融通の利かない風紀兵団だろうか。誰にそそのかされたらあの唐変木がこうなるのだろう。
「その馬を貸せ! 我々があの桟橋へ行く!」
「待つのだ、デュモン」
すぐさま馬の手綱を奪おうとしたデュモンを、枢機卿が止める。
「それは風紀兵団とパスファインダー船長の方がいいだろう。君達修道騎士団はこの場の処理にこそ必要だ」
「は……承知しました」
一方、マリーは早くも馬に飛び乗っていた。誰の目にも、その身のこなしは本職の騎兵よりも軽いように見えた。
「二手に別れましょう、反対側も四人で御願いします、残りはこの場の収拾とトライダーさんを……」
マリーはそう口に出した瞬間、それまで無意識に見ないようにしていたトライダーの顔を見てしまった。
トライダーもまた、偽陸兵を押し退けた風紀兵団に助け起こされながら、馬上のマリーを、ぼんやりと見上げた。
マリーは密かに思った。今度こそ完全に顔を見られた。トライダーは他の風紀兵団のように聞き分けてくれるだろうかと。厄介な事になければ良いがと。
トライダーが口を開く。
「君は……あの時の母娘の衛士……」
マリーは危うく手綱を落としそうになった。そこへ、騎乗を終えた七人の風紀兵団が駒を揃えて言う。
「団長! 騎乗完了しました!」
「……桟橋に急ぎましょう」
マリーと風紀兵団は二手に別れて馬を駆り、それぞれに桟橋を目指す。
部下達にいくつかの指示を与えていたデュモン卿は、一度枢機卿の所に戻って来て囁いた。
「猊下……本当にこれで宜しいのでしょうか」
「何一つ宜しい事など無いし、今回の事は私の人生最大の失敗だ」
枢機卿は彼らしからぬ弱気な台詞とは裏腹に、荒事で乱れた僧衣を調え、まるで戦闘に勝利した大将のように堂々と胸を張って立ち尽くし、周囲を俯瞰していた。
「我々は馬であの船を追わなくて宜しかったのですか」
「第一にそれで追いつけるとは限らぬ。第二にこの場を捨て置くべきではない。第三に……陛下は自分の意思で離岸してしまったのだ。私に出来る事はマリオットを奪還されぬよう押さえる事と、後から集まって来る者達が動揺せぬよう、ここで指示を与える事ぐらいだ」
「……御意」
デュモン卿は得心したように頷き、黒衣の騎士達がマリオット卿を引き揚げている現場に戻る。
風紀兵団はさらに増援が来て、この場には七人が残っていた。
彼等はまだ挑発して来るごろつきや偽陸兵達への対処と、枢機卿の護衛に当たっていた。
偽陸兵から救い出されたヨハン・トライダーは、波止場に座り込んだまま俯いていた。
風紀兵団達は団長の指示通り、トライダーの方から何か言って来るのを待っていたのだが。やがて我慢出来なくなった一人の隊員が、トライダーに声を掛けた。
「トライダーさん、風紀兵団に戻って来てはいただけませんか。御覧の通り我々は今手一杯です、お手伝いいただけると助かるのですが」
他の風紀兵団達は誰も振り向かなかった。皆それぞれの仕事に集中していた。
トライダーは傷だらけで、顔も泥だらけ、血だらけだった。そして酷く腹を空かせていた。その服は薄くぼろぼろだし、靴も履いていない。本当は風紀兵団達は誰もがトライダーの元に駆け寄りたいと思っていた。けれどもそれを我慢していた。
唯一トライダーに語りかけた風紀兵団も、その大兜はトライダーには向けていなかった。大兜という物は前しか見えない。だからその隊員も、トライダーの事を目では見ていない。
「私は……」
トライダーが口を開く。
「その前に。すまない……私は決して、風紀兵団の誓いを忘れた訳ではないのだ……陛下の事も……しかし私にはどうしてもしなければならない事があった」
その時ちょうど、修道騎士達が気絶したまま浮かんでいたマリオット卿を水揚げし波止場に降ろした。枢機卿はそちらに向かって歩いて行き、この場から離れた。
風紀兵団達は枢機卿について行こうともしたが、肩を震わせるトライダーの様子に気付き、足を止める。
「本当にすまないッ! だが私は私の想い人を追わない訳には行かなかったのだ! 幼き日に母親と別れ、今、父親を失った彼女は世を儚みッ……自らの身の上を悪党に売り渡したのだ! お世話になった人々に恩返しをする為! その身代を故郷に捧げる為! その身を……うあああ!」
トライダーは石畳に突っ伏して頭を掻きむしる。さすがにそこで風紀兵団達もトライダーに大兜を向けた。
「トライダーさん! 貴方は一体何をなさっていたんですか、方々で人助けをしていたのは解ります、貴方は決して正義を、風紀ある市井を忘れたのではないと知って、我々も感動したのです、けれども! 何故貴方はそんな姿をしているのですか、人助けのお礼を断り、剣や鎧、服に靴まで売ってお金は施す、何が貴方にそうさせていたのですか!」
「それしきでは足りぬ!!」
風紀兵団の問い掛けに。
トライダーは肩を震わせ声を上ずらせ、慟哭して答えた。
「彼女が……清らかで純粋で、か弱く儚い、誰かが守らなくてはいけない、我が想い人が……彼女が落ちた現世の地獄に比べれば私の困難など!! 生温いッ! 話にならぬッ! 足りぬ、足りぬ、足りぬのだッ! 私は! 彼女よりも過酷な試練に立ち向かう代わりに、どうか少しでも彼女を救って欲しいと! そう神に願いを掛けたのだ!!」
トライダーは石畳に顔を埋め、激しく叩く。
「足りぬッ……私が苦しめば苦しむ程彼女が少しでも救われるかもしれないというのに! これしきの試練では彼女を救えぬ……ええい!」
次の瞬間。いきなり岸壁に突進し出したトライダーを、二人の風紀兵団が飛びついて止める。
「何をするんですかトライダーさん!!」
「離せッ! 私は泳いであの船を追う! あの船、あの女は許せぬ! 事もあろうにあの女は! 我が想い人の名を騙り、陛下に近づいたのだ!!」
ここに到るまでの事情を、風紀兵団の隊員は勿論、知る由も無かった。
「は?」
「離せぇぇ! 私は生き地獄に、生き地獄に居るマリー嬢を……マリー嬢を救うのだ! あの船はマリー嬢の亡くなった父フォルコン氏の船、その船を利用し偽のマリー・パスファインダーとなって、国王陛下を誑かそうとしていたのがあの赤毛の女だ! 許せぬ、許せぬ! 離せッ! 私は泳いであの船を追う、離せーッ!」